ビールと無縁仏

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暑い日が続きます。

国会では安保問題が白熱していますが、戦後70年目の今年の夏は特別に暑く熱く日本をヒートアップさせてやろうという、天の意思のような気もしないではありません。

こう暑いと、ついついビールなど冷たいものに手が伸びます。

伊豆でもあちこちにビールを飲ませてくれるところはあるようですが、ここに住んで3年半にもなるのに、いままでそうしたところへは行ったことがありません。しかし、海を見ながら飲むビールは格別でしょう。今度そういう機会があったら、またこのブログでもリポートしてみたいと思います。

ちなみに日本で最初のビヤホールは、大阪の「アサヒ軒」だそうです。その名の通り、現在のアサヒビールの前身の大阪麦酒株式会社が洋食と一緒にビールを提供するために開いたのが始まりです。1897年(明治30年)7月のことで、ここで売られていたのは「氷室生ビール」だそうで、いかにも涼しげです。

場所は、大阪市北区中之島の大江橋南詰ということで、これは大阪駅南側の四つ橋筋通り沿いのようです。続いてその2年後の1899年(明治32年)8月には、今度は日本麦酒醸造株式会社が、銀座8丁目に「ヱビス(恵比寿)ビヤホール」を開いて「サッポロビール」を売り出しました。「ビヤホール」の名称が店の名前に使われたのはこれが初めてです。

このヱビスビヤホールの後身が、洋食の全国チェーン「銀座ライオン」であり、同社ではこの日を記念して、「ビヤホールの日」としているようです。が、無論オフィシャルなものではありません。同店開店時には、ビール500mlが10銭で飲めたという記録があり、これは現在の価格にすると一杯400円くらいになるようです。

それほど高くない、と現在でも思える価格です。そのためか、この恵比寿ビヤホールは大いに繁盛したようです。なお、この当時のビヤホールは屋内にありましたが、現在のように半屋外型もしくは屋外型のいわゆる「ビヤガーデン」の嚆矢は、1875年(明治8年)横浜市山手で外国人が創業したものだといわれます。

このビヤガーデンでホールで出されていたビールが、現在もサッポロビールと双璧をなす、「キリンビール」であり、これを醸造していたのはノルウェー系アメリカ人の、ウィリアム・コープランドという人です。このコープランドの工場が「スプリング・バレー・ブルワリー」であり、ビヤガーデンはこの工場隣接の彼の自宅を改装したものでした。

当初は、日本人向けではなく、主に外国人居留者と外国船の船員向けの店だったようです。しかしその後は日本人にも提供するようになり、現在では一般的となった、工場で出来立てのビールを提供する飲食店「工場内ビアレストラン」のルーツとも言えます。

一方、日本で最初の「屋上ビアガーデン」は1953年に大阪市梅田でオープンした「ニユートーキヨー大阪第一生命ビル店」です。今ではではこうした屋外ビヤガーデンは夏の風物詩です。デパート、ホテルの屋上に多数のテーブル席をしつらえ、ビールなどを提供するビヤガーデンは全国的に普及しています。

中でも、北海道札幌市の大通公園では、毎年夏になると公園の大半がビアガーデンになり、札幌の夏を代表するイベントとなっています。幅65メートル、長さ数百メートルに渡る広大なビアガーデンは、日本国内では他に類を見ない大規模なものです。

ところで、このビールがそもそもいつのころから日本にあるかといえば、これは、1613年(慶長18年)にイギリスが長崎県の平戸に商館を設置した際、持ち込まれたのが最初のものだったようです。その後、1724年(享保9年)にオランダの商船使節団が江戸に入府した際には、8代将軍・徳川吉宗に献上された記録があります。

一方、日本国内初のビール醸造は、1812年に長崎の出島において、オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフによって行われたのが最初です。また、開国後の1869年(明治2年)には、横浜の外国人居留地、山手46番にドイツのヘフト・ブルワリーの醸造技師であったE・ウィーガントらによって、「ジャパン・ブルワリー」が設立されました。

のちに上述のキリンビールが大いに売れ、ビールが国内で普及するようになりますが、コープランドが設立した「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」とウィーガントが設立した「ジャパン・ブルワリ」を、1907年(明治40年)に三菱財閥が合併させてできた日本国籍会社が、現在のキリンビールの前身、「麒麟麦酒」です。

日本人の手による初の醸造は、1853年に江戸の蘭学者の川本幸民が実験的に行ったのが最初です。しかし、産業化されたのは明治になってからであり、1869年(明治2年)に、当時の品川県知事であった古賀一平が土佐藩屋敷跡(現・品川区大井三丁目付近)にビール工場を建造し製造を開始したのが最初とされます。

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その後、1874年(明治7年)には甲府で野口正章により「三ツ鱗ビール(ミツウロコビール)」が設立され、1876年(明治9年)には北海道の札幌で官営ビール事業として、「開拓使麦酒醸造所」が村橋久成と中川清兵衛を中心に設立されました。この二人が翌年製造したのが「サッポロビール」であり、これが恵比寿ビヤホールで売られていたことは上述のとおりです。

「官営ビール」ということであり、二人とも役人ということになります。このビールの製造を通じて同じ職場に配属され、意気投合しますが、その後二人とも官を辞してそれぞれ全く別の余生を送っており、人それぞれ、生きる意味もそれぞれ、という感じがします。

中川清兵衛のほうは、弘化5年(1848年)、越後国三島郡与板(現新潟県長岡市与板町)の与板藩御用商人の長男として生まれました。本家の家業を継ぐべく英才教育を受けますが、17歳で郷里を離れ開港間もない横浜へ向かい、ドイツ商館に勤務するようになります。

程なく幕府の乱世の中、国禁を犯してイギリスへ渡航。ここで明治を迎え、その後ドイツへ移り、その地で長州出身の外交官、青木周蔵(のちの外務大臣、駐米大使)と出会い、青木の支援で、当時ベルリン最大のビール製販会社であったベルリンビール醸造会社ティボリ工場に入り、ここでビール醸造の修業をすることになります。

この当時はまだヨーロッパに日本人などほとんどいない時代であり、東洋人軽視・蔑視の厳しい職場環境の中でビール醸造の技術習得に心血を注ぎました。そしておよそ2年後の1875年(明治8年)5月、同社は中川の修業に対し、社長・工場長・技師長連名の、豪華な羊皮紙の修業証書を与えました。この証書はサッポロビール博物館に保存されています。

1875年に日本へ帰国。この当時はまだ開拓使が管轄していた札幌へ移り、開拓使麦酒醸造所の開業に技術者として採用されます。このときはじめて村橋久成と出会いました。

村橋久成(ひさなり)は、天保13年(1842年)生まれで、中川より6歳年下です。薩摩藩士で、薩摩藩第一次英国留学生の一人としてロンドンに留学し、戊辰戦争では砲兵隊を率いて東北戦争・箱館戦争に従軍しました。

維新後、薩摩に戻り、藩庁会計局出納方の出納責任者の補助などを務めていましたが、明治4年(1871年)、開拓使東京出張所に出仕。獣医師のお雇い外国人、エドウィン・ダンなどの指導下で、開拓使が東京府に設置した、農業に関する試験・普及機関である「東京官園(現在の青山学院大学周辺にあった)」を管理するようになりました。

明治6年(1873年)北海道の箱館に近い七重開墾場に赴き、測量と畑の区割りを行うようになり、翌年には屯田兵創設に伴う札幌周辺の琴似兵村入植地の調査、区割りに携わったあと、明治8年(1875年)に東京に戻り、開拓使が東京で建設を計画中の麦酒醸造所の建設責任者となりました。

ちょうど同じころ、ドイツでビール製造技術を習得した中川清兵衛が北海道開拓使に雇われました。そして、北海道に自生していたホップを原料としたビールの醸造所を東京官園に建設するための計画を立案するよう彼に命じました。当初開拓使としては、東京官園で試験的にビールを醸造し、成功の後、北海道に醸造所を造る方針でした。

しかし、これに対して村橋は、北海道のほうがビール造りに気候が適しており、かつ麦酒醸造所は北海道の産業振興が目的であることなどを挙げ、最初から北海道に建設すべきであると主張しました。結果としてこの意見は通り、こうして札幌に麦酒醸造所が建設されることとなりました。

村下は明治9年(1876年)5月、麦酒醸造所のほか、葡萄酒醸造所と製糸所を建設するため、職人らとともに札幌へ出発。ここで本場ドイツでビール造りを学んだ中川と出会います。早速彼とも相談しつつ計画を練り、最終的に麦酒醸造所と葡萄酒醸造所を札幌の創成川の東、現在、サッポロファクトリーがあるところに建設することを決めました。

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こうして、同年9月、麦酒醸造所と葡萄酒醸造所が完成し、合わせて「開拓使麦酒醸造所」と呼ばれるようになります。この完成により、中川は日本初の国産ビール製造の技術開発者としてその名が知られるところとなり、札幌では大きな洋風の官舎に住み、開拓使から高給を支給され名士の一人となっていきました。

ヨーロッパ生活が長かったため生活も西洋風で、毎年春には札幌の著名人を招待し、自邸の庭でビールを振舞う園遊会を開く程であったといいます。

一方の村下は、醸造所完成の1ヶ月後には東京に戻り、ビールの受け入れ側に回るようになります。翌年夏、「冷製札幌麦酒」と名付けられた最初のサッポロビールが開拓使帆醸造所で出来上がり、東京に運ばれ上述の恵比須ビヤホールなどで売られて好評を得ました。

ビール事業は軌道に乗り、彼は2年後の明治11年(1878年)、札幌本庁へ呼び戻されて民事局副長となりました。民事局は登記や戸籍、土地家屋関する事項や民・商法などに関する案件を司る部門ですが、その副長というのは大きな出世であり、醸造所の成功により出世階段を彼が昇り始めた証しでもあります。

ところが、村橋は翌年、突如病気を発し、このため熱海で療養することとなり、そのまま東京在勤となりました。明治13年(1880年)には東京出張所勧業試験場長に任ぜられましたが、そこでかつて慣れ親しんだ職場の北海道開拓使が事業期間満了(明治15年)を目前にして、麦酒醸造所を民間に売却する動きが水面下で進められつつあることを知ります。

開拓使長官の黒田清隆の独断で、麦酒醸造所を含む開拓使官有物すべてを同郷薩摩の政商五代友厚らの関西貿易商会に安値・無利子で払下げるというものでしたが、この噂はリークされ世論の厳しい批判を浴びるところとなりました。いわゆる「開拓使官有物払下げ事件」といわれるものです。

この事件では払下げの規則を作った前大蔵卿の大隈重信が尻尾切りとして政府から追放されるなどの大きな政変が起きましたが、こうした動きに失望したのか、村橋は明治14年(1881年)、突然開拓使を辞職。北海道知内村に設立された牧畜会社の社長に就任しましたが、その後、家族も捨てて托鉢僧となり、行脚放浪の旅に出ました。

その後1882年(明治15年)に開拓使は廃止され農商務省へ移管、1886年(明治19年)に民間へ払い下げられ後に現在のサッポロビールとなりました。

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と同時に、当時44歳であった中川もまた追われる様にビール醸造の世界から去ります。その後まもなく、パスツールが酵母を発見し、ビール造りは転換期を迎えましたが、中川の退職の理由は、この時点で彼がドイツで習得した技術は古くなってしまったと考えたためでした。

開拓使に変わって新しく出来た道庁は、新しい技術を持ったボールマンという技師をドイツから招きましたが、彼は中川に新しい技術をまったく教えなかったといい、こうしたことが重なり、中川は居場所を失い、開拓使麦酒醸造所を辞めることになったといわれています。

やがて中川は家族を率いて小樽へ移住。現在の小樽運河沿いに船宿「中川旅館」を開業。船着場から近く桟橋が旅館前にある事から繁盛したといいます。

その後海上交通が不便な利尻島の窮状を見かねた中川は、工事資金を低金利で貸しオシドマリ港の防波堤や船着場の整備を支援して一定の成果を挙げました。が、工事費の大幅な膨張で提供した資金の配当金は元より、元金の返済も絶望的となってしまい、その結果1898年(明治31年)、繁盛していた旅館を手放し妻と二人で横浜へ移住しました。

1916年(大正5年)食道癌により死去、享年69。末期の水は生前の彼の希望通りサッポロビールで浸したといいます。

郷里である新潟の与板には、在は長岡市管理の駐輪場となっている生家である中川家跡地に彼の偉業を称えて「中川清兵衛生誕碑」が建立されているほか、彼にちなんだイベントとして毎年7月下旬に「中川清兵衛ビールフェスタ」が開催されています。

一方の村橋は、長年消息不明となった後、明治25年(1892年)9月末、神戸市葺合村六軒道の路上で、所持品もなく、木綿シャツ1枚とほとんど裸の状態で倒れているところを警邏中の巡査に発見されました。

名前を尋ねられ、一旦「鹿児島県大隅国日当山33番地、川畑栄蔵」と偽名を名乗った後、再度問われ、「鹿児島塩谷村、村橋久成。妻はしゅう、長男は定太郎。村橋周右衛門、新納主税という親戚がいる」と名乗り再び倒れました。施療院に運び込まれたものの、9月28日死去。享年50。死因は肺結核および心臓弁膜病でした。

現在のサッポロビールの礎を作った二人が、いずれもあまり幸せとはいえない末路を辿ったわけですが、このことについて、サッポロビールはそのホームページで、「物語サッポロビール」の著者で作家の田中和夫氏の談話を掲載しています。曰く、「激動の時代にあって、彼らは自分なりの美学をもち、夢をもち、それに向かって真摯に生きた」と。

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神戸で行き倒れた村橋は、その後神戸墓地に仮埋葬されました。が、神戸市役所で鹿児島に照会したものの該当者は無く、半月後の神戸又新日報に「行旅死亡人」の広告が載せられました。そしてこれを読んだ東京の新聞「日本」の記者が「英士の末路」と題して、村橋の死を報じたのをさらに、元開拓使長官で上司の黒田清隆が読み、村橋の死を知ります。

そして黒田は、神戸から遺体を東京に運び、自ら葬儀を行いましたが、その葬儀には黒田のほか、陸奥宗光外務大臣、仁礼景範海軍大臣など現役の大臣ほか、複数の県知事、多数の貴族員議員などが出席または香典を出したそうです。生前、いかに信望のある人物であったかがこの一事からもうかがわれます。その墓は、青山霊園にあります。

ところで、この「行旅(こうりょ)死亡人」とは何かというと、これは本人の氏名または本籍地・住所などが判明せず、かつ遺体の引き取り手が存在しない死者を指すものです。「行旅」とありますが、その定義から必ずしも旅行中の死者であるとは限りません。が、旅先で亡くなった人を扱うことが多いことから、こう称されるようになったものです。

行旅死亡人として認定されると、法律に基づいて死亡推定日時や発見された場所、所持品や外見などの特徴などが市町村長名義で、詳細に官報に公告して掲載されるもので、現在でも行われています。また、行旅死亡人となると地方自治体が遺体を火葬し遺骨として保存後、この官報の公告が行われ、引き取り手を待つ事となります。

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こういうふうに旅先で人が亡くなることを、「客死」ともいいます。旅先または「よその土地」で死ぬことであり、旅行や仕事などにより普段の生活を送っている場所から離れている場合など、普段のコミュニティと切り離された状態で死を迎えることであり、外国訪問先で死亡した場合も「客死」と表現されます。

客死は、旅先など急な環境の変化が、肉体にとって重荷(ストレス)となり、急に体調を崩してしまうために起こるものであり、長時間の移動による疲労により起こるといわれます。、また、同じ姿勢を維持し続けることによる疾患の発生、すなわち俗にいうエコノミークラス症候群のような「静脈血栓塞栓症」によって亡くなる場合も含まれます。

慣れない状況での交通事故や、旅先で犯罪(あるいはテロ)・大規模災害との遭遇なども原因です。客死すると、所持品からや当人が生前に伝えるなどした親族など連絡先に一報が入れられるのが通例ですが、当人が自らの出自を明らかにせず、所持品からも身元が判明しなかった場合など、連絡先が判らなくなってしまう場合に行旅死亡人と扱われます。

今日では輸送機関は世界規模で発達しているため、少なくとも身元がはっきりしている遺体を、当人の遺族が待つ地域へ輸送することは可能です。がしかし、現代よりももっと輸送が素朴な手段に頼っていた昔は、こういった客死による死者の輸送は困難を極めました。

塩漬けなど、当時としては可能な保存手段を用いて遺体を保存し、長い年月をかけて輸送する場合もあれば、やむを得ず当地に埋葬することもありました。また、一度は客死した土地に埋葬されながら、後年遺族が訃報を知り、その遺体(遺骨)を出向いて持ち帰ることもありました。

ただ、中には訪れた先を非常に気に入った結果として埋葬先に希望し、客死した地に埋葬されたケースも見られます。例えば日本ではお雇い外国人の内に故国に帰らず、日本国内に葬られた者の墓が青山霊園などに残されています。

一方、身元がはっきりしない場合、その昔遺体は皆、「無縁仏」として処分されました。供養する親族や縁者のいなくなった死者またはその霊魂、またはそれらを祭った仏像や石仏などを意味する用語ですが、現在の日本でもこの言葉はよく使われます。

現代の日本では一般に死者は火葬され、墓に葬られ、子供や兄弟など親類縁者によって供養されますが、代を重ねるに連れ、墓の承継者の消滅などによって無縁化する場合が出てきます。こうして埋葬者が無縁仏となった墓は大都市の霊園では約10%を超えるほどあるともいわれ、供養塔や無縁仏のみを集めた無縁墓地に合祀されたりします。

たとえ数代は供養する子孫が続いたとしても、縁者が遠方に移転したり、代が途切れたりする場合にもいずれは無縁仏と化します。確率論的には子々孫々まで供養される可能性の方がはるかに低く、全ての墓はいずれ無縁化する運命をたどります。

このように無縁墳墓は増え続ける可能性があることから、平成11年(1999年)から施行された法律では、墓地の管理者は、無縁墳墓に関する権利を有する者に対し、1年以内に申し出るべき旨を官報に掲載するとともに墓の見やすい場所に立札を立てるなどして公告し、期間中にその申し出がなかった場合には、無縁仏を容易に改葬できるようになりました。

また、一部にはどうせ無縁化するなら墓など作らず、自然葬や海洋散骨などの方法で、直接遺骨を海、山などの大自然の循環の中に返させようとする人々もあります。これは都市部における墓地不足のためでもありますが、墓園や宗教団体の商業主義に対する反感、宗教観の変化、核家族化、少子化による維持への不安も背景にあるものと考えられます。

また一方で、行政側が無縁仏の遺骨の置き場の確保に苦慮するようになり、一部自治体では遺骨を粉砕して無縁仏の減量化を図ったり、遺骨の保管年数を短縮したりするなどのケースも出てきています。

こうした無縁仏としての扱いは、何も日本に限ったことではなく、欧米にも無縁墓はあります。英語では「Pottersfield」と言い、軍籍の無縁墓では「無名戦士の墓」と呼ばれる共同墓があります。ローマ時代の採石場の後で、無縁仏六百万体が納骨されているカタコンブと呼ばれる地下墓地は有名です。

その昔、パリのセーヌ川で一人の少女の溺死体が見つかり、身元不明者として扱われたのち、こうした無縁墓に葬られました。ところが、このとき彼女のデスマスクが取られた、と信じられており、その後数多くの文芸作品の題材になり、このため1900年以降の芸術家の家では、この少女のデスマスクを壁に飾ることが流行になりました。

少女は、1880年代の終わりごろ、セーヌ川のルーブル河岸で遺体で見つかったとされます。その遺体には暴行の痕跡がなかったことから、自殺と考えられましたが、遺体が運ばれたパリの死体安置所の病理学者は、あまりの彼女の美貌に心打たれ、型工を呼んで石膏のデスマスクを取らせた、とされています。

何分古い話であり、果たして型工まで呼んで本当にデスマスクを取ったのかという疑問は当然わきます。また、この型工を取ったとされるモデル製造業者の末裔が、このデスマスクを見て死体から取ったものではないのでは、という疑義を呈しており、川から引き上げられた死体がこれほど明瞭な容貌を保っているということは通常ないと主張しました。

従って、本当にデスマスクなのかどうかすらもはっきりわからない伝承なわけですが、とまれ、このマスクは芸術関係者の間では人気となり、マスク表面の肌の引き締まり具合から推定するに、モデルである少女の年齢は16歳を越えることはないとされてきました。

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最初にデスマスクが作られたとされる1880年代以降、数多くの複製品が作られるようになり、そうした複製品は、あっという間にパリの前衛芸術家の間で、時代の先端を取り入れた内装品として使われるようになっていきました。

「異邦人」や「カリギュラ」などの作品で知られ、史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞した劇作家のアルベール・カミュなどもこのデスマスクを書斎に置いていた一人であり、ほかにも多くの芸術家が、彼女の謎めいた微笑に魅せられました。

作家ののみならず、彫刻家、画家など多くの芸術家たちがその不気味なまでに幸せそうな表情が物語るようになり、その微笑をモナリザの微笑にもなぞらえ、彼女の人生、死、そして何者であったのかについて、物語がまた物語を産んでいきました。

ある学者は、「この身元不明少女はその時代のエロティックな理想像になった」と語り、また別の作家は、身元不明少女を「彼女は繊細な蝶のようだ。のんきで爽やかで、生命のランプに向かってまっすぐ羽ばたいて飛び込み、そのきゃしゃな羽を焦がす。」などと美化しました。

このほか、ドイツの有名作家、ラインホルト・ムシュラーが1934年に出したベストセラー小説「未知数」では、デスマスクの少女を題材に、ある孤児だった女性が英国の外交官と恋に落ち、ロマンスの果てに捨てられてセーヌ川に身を投げるという感傷的な物語が語られました。この話は、1936年に同名タイトルで映画化されています。

そのほか小説としては、「主人公がデスマスクを凝視したあげく自身の娘の顔と信じこんで、幻覚と罪の意識から心臓発作を起こして死ぬ」といった、不気味な話を作った作家もいます。

近年になって、この身元不明の少女の顔は、欧米で心肺蘇生法の訓練用マネキン「レスキュー・アン」にも使われるようになりました。このマネキンは1958年にはじめて作られたものですが、その後1960年以降数多くの心肺蘇生法の講習会で使われるようになり、広く普及しました。このため、この顔は「史上もっともキスされた顔」と言われます。

無縁仏として単に葬られるだけでなく、死後も多くの人に生前の顔かたちが愛されたということは、亡くなった少女にとっても幸せなことでしょう。

デスマスクではありませんが、晩年不遇だった、村橋久成もまた、鹿児島と札幌にその銅像が建てられています。また、鹿児島中央駅前東口広場に薩摩藩英国留学生17名の像、「若き薩摩の群像」の一人としてその姿が残されています。さらに、札幌市にある北海道知事公館前庭に村橋の胸像「残響」が2005年に建てられています。

が、わたくし的には死して銅像を残すというのは、偉業を成し遂げた人を讃えるという意味では一定の理解はできるものの、やはり個人崇拝の対象やひいては神格化の対象にもなりうるのであまり良いことだとは思っていません。

宗教で言うところの偶像崇拝にもつながりかねませんし、ソ連のレーニン像、北朝鮮の金日成像や、2003年4月9日に撤去されたイラクのサッダーム・フセイン像など特に独裁的な国家の指導者に多く見られるものでもあります。

なので、セーヌ川の少女のように、自分の顔が芸術の対象になりうる、と自信がある人以外はデスマスクや銅像は造らない方がいいと思います。

それでも作って欲しい?そういうあなたは、まず鏡を見てじっくりと客観的判断をされることをお勧めします。

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