次郎長と鉄舟 ~静岡市清水区

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1955年8月3日、集英社が、少女漫画雑誌「りぼん」を創刊しました。

「少女ブック」の妹雑誌および幼女向け総合月刊誌として創刊されたもので、その掲載内容は当初、グラビア・おしゃれや習い事についての読み物・少女漫画などで、定価は100円でした。

1958年ごろから、少女漫画の数が増えて純粋に少女漫画誌と呼べる内容になり、1960年代には「ドンキッコ」、「魔法使いサリー」、「秘密のアッコちゃん」がアニメ化され、テレビで放映されて大人気になりました。

また、1970年代末期から1980年代半ばにかけて、マンガ評論流行の影響もあり、本誌の特徴的な作風を「おとめちっく」と呼ぶ一種のブームが起こりました。当時の主要作家の1人、田渕由美子が早稲田大学に在学したことから、「早大おとめちっくくらぶ」をはじめ、東大ほか多数の高校・大学に同種のサークルが男子学生を中心に組織されました。

また、1970年代から付録の多様化が行われ、特に1975年以降は集英社専属のおとめちっく作家による付録が毎号付属し、またその付録自体のファンシーグッズ(装飾品や装身具)としてのセンスのよさが、この時期の高年齢層の読者の支持を集めました。

1977年には小学館から「ちゃお」が創刊されて人気を博し、「りぼん」、「なかよし」とともに、三代少女漫画雑誌(月刊誌)といわれるようになりました。「なかよし」は、りぼんよりも1年早い1954年に講談社が創刊したものです。

講談社はその後1962年にも週刊誌、「少女フレンド」を創刊して好評を博しましたが、これに続いて翌年の1963年には集英社も「マーガレット」を創刊してライバル誌となり、のちに小学館が1970年に「少女コミック」でこの市場に参入し、週刊誌の部門でも、この3社が競合するようになりました。

月刊誌、「りぼん」は1980年代後半から1990年代半ばにかけて部数が上昇し始め、1994年には少女漫画誌では史上最高の部数となる255万部を発行しました。しかし、その年から部数は徐々に減少し、2002年には発行部数で「ちゃお」に抜かれてしまいます。

2010年10月から2011年9月までの平均発行部数は20.9万部と、最盛期に比較して10分の1以下の数字にまで下がりましたが、今度は「なかよし」の発行部数が低下したため、現在では三大小中学生向け月刊誌中の最下位から脱しました。今月、創刊60周年を迎えることになります。

りぼんからアニメ化されたものは、上述の魔法使いサリーやひみつのアッ子ちゃんがありますが、比較的最近のものでは、1990年に「ちびまる子ちゃん」があり、フジテレビ系列ほか放映されて、国民的大ヒットとなりました。

本作品は、1974~5年の昭和50年代初期に、静岡県清水市(現、静岡市清水区)の入江地区で少女時代を過ごした、作者の「さくらももこ」の投影である小学校3年生の「ちびまる子ちゃん」が、家族、友達とともに繰り広げる日常生活を描いた、笑いあり、涙ありのコメディです。

初期は作者自身が体験した小学生時代の実話をもとにしたエッセイ風コミックでしたが、長期連載になるに従って作風が変化し、ほぼフィクションのみの話になっていきます。それに伴い、登場キャラクターも初期は比較的リアルな人物描写だったものが、次第にマンガチックにデフォルメして描かれるようになりました。

もともと実話がベースだったため、ギャグ漫画として独白風のツッコミが入っていることが本作の特徴の一つです。時に自虐的でもあります。さくらももこは、本名(旧姓)、三浦美紀といい、1965年5月8日生まれ。

清水市立入江小学校、同・第八中学校、静岡県立清水西高等学校卒業後、静岡英和女学院短期大学(現・静岡英和学院大学短期大学部)国文学科在学中に「りぼんオリジナル」冬の号(集英社)にて「教えてやるんだありがたく思え!(教師をテーマとしたオムニバス作品。「ちびまる子ちゃん」第1巻に掲載)でデビュー。

英和女学院短大卒業後、上京し「ぎょうせいに」入社しましたが、勤務中に居眠りするなどして上司から「会社を取るか漫画を取るかどちらか選べ」と迫られ「漫画家として生活していく」と回答したため、同年5月末にたった2か月の勤務で退職。同年8月、「りぼん」で「ちびまる子ちゃん」の連載開始。

漫画家のほかにも、エッセイストとしても活躍しており、独特の視点と語り口で人気です。初期エッセイ集三部作「もものかんづめ」「さるのこしかけ」「たいのおかしら」はいずれもミリオンセラーを記録しました。

子供の頃、「青島幸男みたいに偉くなりたい。歌を作りたい」と言ったといい、これに対して父のヒロシは、「青島幸男は国会議員だ。無理に決まっている」と一蹴しました。

その青島を目標としていたさくらが大人になり、漫画ちびまる子ちゃんを描くようになったわけですが、この作品の中でも、主人公であるまる子が青島の作詞したコミックソングに感銘を受け、「大人になったら青島幸男みたいな曲を作る!」と叫ぶシーンが出てきます。

そしてその夢を忘れなかったまる子=さくらが、のちに念願かなって作詞した曲が、大ヒット曲「おどるポンポコリン(BBキング)」だったといいます。

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このさくらが育った清水市は、静岡県中部にあります。現在の静岡市清水区の大半で、旧蒲原町および旧由比町を除いた部分に当たります。2003年4月の合体合併により、現在の静岡市の一部となりました。

日本平の東麓に位置し、古くから富士山を望む湊町です。天然の良港である折戸湾を持ち、古くから海運中継地として栄えてきました。東海道の宿場町でもありますが、近隣には、江尻・興津・由比・蒲原などの宿場もあります。

清水湊はこれらの中でも中心的な宿場であり、西国の赤穂の塩等を江戸へ送る中継基地としての役割を担うと共に、富士川舟運を通じた信濃・甲斐方面からの廻米輸送基地でもありました。

また、駿河をはじめ甲斐、信濃の江戸幕府領地からの年貢が富士川沿いの鰍沢河岸、岩淵河岸に集められ、ここから清水湊に送られ、大型船に積み替えられて江戸へ回送されていました。明治以降も続いて発展し、1899年には貿易港の指定を受ける一方、軍事拠点としても発展し、日本軽金属、東亜燃料、日立製作所等々の軍事工場が次々に進出しました。

1945年7月7日には、米軍による清水大空襲を受けました。同月30~31にも米軍駆逐艦からの艦砲射撃を受けて大きな被害を受け、死者・行方不明360名、重軽傷者445名、家屋被害8689棟に及びました。

しかし戦後は、戦時中に臨海部にあった大企業の技術を引き継ぐかたちで民生品製造工場が作られ、昭和20~30年代にはさらに各種工場が建設され、清水の工業生産高は一時県下一を誇りました。しかし、その後のサービス産業へのシフトなどの産業構造の変化によりその地位を失いました。現在の工業生産高は一時の底を脱し微増に転じているようです。

現在の清水の産業といえばやはり貿易であり、主要輸出品としては二輪自動車・自動車部品・機械類などのが多く、ボーキサイト(アルミの原鉱)・液化天然ガス等の輸入港として国際貿易港としては中枢国際港湾に次ぐ位置を占めます。また、清水港はマグロの水揚げ量日本一で知られています。

このほか、あまり知られていませんが、バラの生産量が多く、かつては日本一であった時期もあります。県内各都市がそうであるように、みかんや緑茶の生産も多いほうですが、漁業ではマグロ以外では駿河湾で獲れるシラスや桜えびなどの海産物が有名です。

江戸初期に、幕府は大坂や江戸の橋や河川、道路を整備して都市機能を持たせるともに、清水湊のような直轄港を整備して国内貿易の振興を図る政策を打ち出しました。が、やはりトップダウンだけでは無理があり、多くの牢人に労務管理として口入業を行わせました。

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このため清水湊のような大きな港町には多くの荷役人が集まってきましたが、これらの人夫の荷役作業の口入れなどで権力を高め、地元に君臨する任侠人を容認するような土壌が江戸時代を通じて育ちました。そうした「親分」の中でも、とくに幕末に力を伸ばしたのが、かの有名な清水次郎長です。

「海道一の親分」ともいわれ、大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされます。

文政3年(1820年)、清水町美濃輪町(現清水区美濃町)の船持ち船頭・高木三右衛門(雲不見三右衛門)の次男に生まれました。幼少時の名は長五郎といい、母方の叔父にあたる米穀商の甲田屋の主、山本次郎八に実子がなかったため、甲田屋の養子となりました。

その幼少時代の仲間に「長」という子供がいたために、周囲が長五郎を次郎八の家の長五郎、略して次郎長と呼ぶようになり、自らも長じてからも次郎長で通すようになりました。

幕末のころの清水湊というのは、上述のとおり年貢米を江戸へ輸送する「廻米」でもっており、湊の廻船業者の多くは口銭徴収を副業とする口入屋でもありました。が、次郎長が養子にもらわれた山本家は、清水湊の中でも新開地に属する美濃輪町にあり、ここには牢人出の多い廻船業者と一線を画する新々の海運業者も多く、全うな商売をしていました。

養父の次郎八もそうでしたが、天保6年(1835年)に死去し、このときまだ若干15歳だった次郎吉が甲田屋の主人となりました。ところが次郎長は、このころからもう自在奔放なところがあり、妻帯して家業に従事する一方で、博奕に手を出し、頻繁に喧嘩を繰り返すようになりました。

長じてからもその素行は直らず、そして23歳になった年、喧嘩の果てについに人を斬って死なせてしまいます。このとき次郎長は、妻を離別して実姉夫婦に甲田屋の家産を譲り、弟分であった江尻大熊らとともに出奔し、無宿人となりました。そして、諸国を旅して修行を積み、交際を広げ成長した次郎長が清水湊に帰ってきたのは、27歳のときでした。

弘化4年(1847年)のことであり、このとき江尻大熊の妹おちょうを妻に迎え、ここに一家を構えました。このころには子分も何人かでき、清水一家の名前も少しは売れるようになっていましたが、長く清水を不在にしていたためにここを牛耳る博徒の勢力図も変わっており、彼等との抗争が次第に激しくなっていきます。

そんな中、またまた賭場でモメて人を斬り、逃亡の旅に出た次郎長は、今度はその後およそ10年に渡って地方を放浪します。そして、38歳になったころ、清水に残していた妻のおちょうが病気で亡くなったという報に接しました。

彼女の病死の知らせに、慌てて清水へ帰る途中、尾張知多亀崎乙川において彼を捕まえようとした十手持ちの保下田(ほげた)の久六を斬りました。その久六を斬った刀を、次郎長の名代で、四国の金毘羅さんに奉納に行ったのが、子分の森の石松でした。

無事に刀を奉納して帰る途中、石松は近江国の親分から、おちょうさんの香典にと渡された25両の大金を預かります。そして浜松まで戻ってきましたが、このとき石松が大金を持っている事を知った、戸田吉兵衛という博徒がその金を奪って、石松を殺してしまいます。

無論、次郎長はすぐに報復し、吉兵衛を斬りますが、さらにこの年には、菊川において下田金平という別の博徒と手打ちを行う、と言った具合で、これら一連の出来事は、すべて次郎長が清水に38歳で戻って3~4年のうちに起こっています。彼にとってはその生涯で一番激しい起伏のあった一時期です。

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さらに43歳になった文久4年(1864年)には豊川において、甲斐の「黒駒勝蔵」と激しいい戦いを演じました。のちに次郎長最大のライバルと言われる男です。

勝蔵は、甲斐国黒駒(現山梨県笛吹市御坂町上黒駒)の名主の次男として生まれた男で、25歳で渡世人となり、隣村の竹居村の中村安五郎(竹居安五郎)の子分となりました。40歳のとき、安五郎が役人に捕縛され獄死したあとは、その手下を黒駒一家としてまとめ、黒駒を拠点に甲州博徒の大親分として勇名を関八州に轟かせるようになります。

このころから勝蔵ら甲州博徒は、富士川舟運の権益を巡って、清水次郎長と対立するようになり、勝蔵は次郎長の勢力圏である駿河国、岩淵河岸や興津宿を襲撃しました。これを受けて勃発したのが、上述の抗争であり、文久4年(1864年)5月に起こりました。

博徒抗争史上かつてない殺戮戦だったといわれており、黒駒の勝蔵が三河の平井村(現・豊川市平井町)の雲風亀吉(平井亀吉)のところに滞在していること知った次郎長は、大政以下の中心的な子分を勝蔵、亀吉襲撃に送り込みました。

朝早く、豊川河口(現在の豊橋市梅藪町)の前芝海岸に舟で乗り付けた次郎長の襲撃隊は亀吉の自宅へ向かい、勝蔵たちが昼間から酒盛りをしている最中を襲いました。油断しているところを襲われた亀吉と子分たちは必死で応戦し、親分の勝蔵と亀吉を逃がすことはできましたが、子分5人は全員が討ち死にしました。

この時、酒盛りに一緒にいた亀吉の妾も一緒に殺されており、襲われた亀吉の自宅の座敷は、血だまりで染まっていたと言われています。勝蔵、亀吉の殺害には失敗しましたが、この一件により、次郎長一家の名前は東海道に鳴り響きました。

勝蔵はその後の幕末の動乱期の慶応4年(1868年)に黒駒一家を解散し、「小宮山勝蔵」の変名を用いて、「赤報隊」に入隊し、官軍として戦っています。赤報隊は、王政復古により官軍となった長州藩、薩摩藩を中心とする東山道鎮撫のための一部隊です。

勝蔵はここに入って戊辰戦争に参加しましたが、この赤報隊というのは勝蔵のような男を受け入れたことからもわかるように博徒や牢人を集めた烏合集団でした。旧幕府軍を挑発するために江戸の市街を焼き払ったり、伊勢長島藩主・増山正修から軍資金という名目で3000両を強奪するなど、必ずしも正義の軍であったとは言えない一面がありました。

このため、のちに「偽官軍」として新政府軍に処罰されるところとなり、このとき隊長であった元・下総相馬郡(現茨城県取手市)の郷士、相楽総三は処刑され、赤報隊は解散となりました。この後、勝蔵は京都で官軍の一部隊、徴兵七番隊(のち第一遊撃隊)に入隊し、「池田勝馬」の変名を名乗り、駿府、江戸、仙台と転戦しました。

戊辰戦争終結後、徴兵七番隊が解散されると明治3年(1870年)甲斐へ戻り、甲斐の黒川金山の採掘に携わりました。しかし、翌年脱隊の嫌疑で捕縛され入牢し、同年10月14日に山梨県甲府市酒折近くの山崎処刑場で斬首されました。

一説によれば、勝蔵は自分の功績に対して新政府に恩賞を求めたといい、これに対して新政府としては博徒を官職につける訳にもいかないので、過去の悪事を理由に勝蔵を捕え、処刑したといわれています。このように、次郎長の最大のライバルとされながらも、日ごろの素行の悪さや末路の悲惨さなどから、後世の評判は何かとかんばしくありません。

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一方ライバルの次郎長は、勝蔵が赤報隊に身を投じたのと同じ慶応4年(1868年)に、東征大総督府の駿府町差配役から清水湊の警固役を任命され、この役を7月まで務めました。

同年9月18日、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊しました。ところが、その修理が遅れたために、新政府海軍に追いつかれて交戦に発展し、このとき見張りのため船に残っていた船員全員が死亡して海に放り込まれました。

彼等の遺体は、逆賊として清水港内に放置されていましたが、市民の誰もが新政府の威光を恐れて弔おうとしません。このとき、次郎長は小船を出して彼等を収容し、現在の清水港マリンパーク裏にあった向島の砂浜に埋葬して、ここに「壮士墓」を建立しました。

死体の収容作業を見ていた新政府軍は、その行為を咎めましたが、次郎長は一喝、「死者に官軍も賊軍もない」と言って突っぱねたといいます。この話を、新政府において後に静岡藩大参事となる、旧幕臣の山岡鉄舟がのちに聞き、次郎長の義侠心に深く感じ入ったといわれており、これが機縁となって次郎長は山岡と深い付き合いをするようになります。

以後、明治時代以降の次郎長といえば、数々の慈善事業をした篤志家として知られるようになります。1871年(明治4年)には旧久能山東照宮の神領である山林開墾を企図しますが、このときは地元の大谷村の村民の抵抗に遭い断念しています。が、それに懲りず、1874年(明治7年)には本格的に富士山南麓の開墾事業に着手。

このころまでには完全に博打を止めていた次郎長は、清水港の発展のためには茶の販路を拡大するのが重要であると着目し、蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を設立しました。

このほかにも県令・大迫貞清の奨めによって静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾の英語教育を熱心に後援しました。また、明治に入ってから駿府では旧幕臣が新政府に対する恨みを込めてテロ行為を行う、といった事件が相次ぎましたが、次郎長は地元で血を流させないため双方の調整役を買ったりしています。

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ところが、明治17年(1884年)に、突如次郎長は「賭博犯処分規則」により静岡県警察本所に逮捕され、同年4月には懲罰7年・過料金400円に処せられ、井宮監獄(静岡市葵区井宮町)に服役しました。しかし、このときの静岡県令(のちの知事)で、旧幕臣の関口隆吉など尽力により、翌年には刑期の満了を待たずに仮釈放になりました。

その後も次郎長の慈善事業は続き、明治19年(1886年)には、済衆医院という病院を土佐出身の医師らの援助で清水に開設しているほか、富士山南麓開墾官有地払い下げを受け、その開発を横浜の実業家、高島嘉右衛門に依頼しています。

1888年(明治21年)7月19日には深い親交のあった山岡鉄舟が死去し、谷中全生庵で行われた葬儀には清水一家で参列しています。が、自身もその5年後の明治26年(1893年)、風邪をこじらせ死去。享年74(満73歳没)。

戒名は碩量軒雄山義海居士。その墓は、清水区南岡町の梅蔭禅寺にあり、ここには妻のおちょう、大政、小政の墓もあり、次郎長の銅像もつくられています。ちなみにこのおちょうは二代目であり、幕末の動乱の中で精鋭隊(慶喜護衛隊、後の新番組)の隊士に殺害されています。

この新番組の隊長格だったのが山岡鉄舟であり、次郎長と親交があった山岡が統じる隊のメンバーがなぜ次郎長の妻を殺害したのかは謎ですが、おそらくは幕臣である山岡と博徒の次郎長が親しくするのをよく思わない隊士も多かったのではないかと推察されます。

この山岡と次郎長の関係ですが、駿州政財界の御意見番といわれ、元県議会議長を務めた村本喜代作は、1956年に遠州新聞社から「遠州侠客伝」という次郎長の伝記を出しており、この中で、次郎長は鉄舟との出会いがなかったらここまで大物にはなれなかっただろうと書いています。

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山岡鉄舟は、天保7年(1836年)、江戸の幕臣の絵に生まれ、明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任しました。

勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称され、人物として評価の高かった人です。剣・禅・書の達人としても知られ、身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格で、家が武芸を重んじる家だったため、幼少から神陰流、樫原流槍術、北辰一刀流を学んで武術に天賦の才能を示し、維新後、一刀正伝無刀流の開祖となりました。

幕末には、清河八郎とともに新選組・新徴組の前身にあたる浪士組を結成。江戸無血開城を決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現静岡市)で単身で西郷と面会。この時鉄舟は、同じ幕臣の勝海舟から託されていた手紙を西郷に渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼みました。

この際、西郷から5つの条件を提示されますが、それは、江戸城を明け渡す、城中の兵を向島に移す、兵器をすべて差し出す、軍艦をすべて引き渡す、将軍慶喜は備前藩にあずける、という厳しいものでした。鉄舟はそのうちの4つの条件を飲みましたが、このうち最後の条件だけを拒んだところ、西郷はこれは朝命であると凄みました。

これに対し、鉄舟は、もし島津侯が同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論したところ、西郷はこの論理をもっともだとして認め、これによって江戸無血開城がすみやかにおこなわれるところとなりました。

明治維新後は、徳川家達に従い、駿府に下り、静岡藩藩政補翼となりました。このとき知り合ったのが清水次郎長であり、咸臨丸の一件を聞いてからは意気投合するようになり、彼と共同で幕臣の救済事業である牧之原開墾などにも取り組みました。

西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕えました。その侍従時代には、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直なエピソードが知られています。

宮内大丞、宮内少輔を歴任しましたが、明治21年(1888年)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌でした。享年53。墓は、東京谷中の臨済宗国泰寺派の寺院、全生庵にあります。没後に勲二等旭日重光章を追贈されました。

その行動力は、西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させました。明治政府への致仕後、勲三等に叙せられましたが、これを拒否しており、このときのエピソードが残っています。

勲章を持参した井上馨に対し、「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。(中略)維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんかふんどしかつぎじゃねえか」と啖呵を切ったそうです。

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第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判で、東郷茂徳と広田弘毅のアメリカ側弁護人を務めた「ジョージ山岡」は曾孫にあたります。

ジョージは、静岡県出身の父・鈴木音高のもと、5男1女の長男としてワシントン州シアトルで生まれました。父の音高は、日本では自由民権運動の活動家の中でも過激派として知られており、静岡事件では中心人物として無期懲役を宣告され、北海道で10年間服役した後、1897年にアメリカへ渡ったという経歴があります。

この静岡事件というのは、自由民権運動の名のもとに、明治政府を顛覆しようとする旧幕臣らが起こした事件です。中心人物は、山岡音高と、中野次郎三郎でした。中野はもと丹波亀岡藩(京都府)の藩士で、明治15年静岡の遠陽自由党の常議員となりました。岳南自由党の党員であった山岡音高とは自由民権運動を通じて知り合い、事に及びました。

彼等ははじめ、容易に藩閥政府を顛覆し得ると楽観していましたが、が、各地での試みが失敗するのを見て、挙兵では目的達成は困難であると考えるようになります。このため、少数の者による大臣などの要人の暗殺によって、その目的を実現しようということになりましたが、そのためには先立つものが必要だということになりました。

このため1886年(明治19年)、浜松の金指町にあった銀行に押し入り、ここから逃げようとしたところ、追跡してきた警察の剣道師範を待ち伏せのうえ殺害してしまいます。一味はその犯行が発覚しないのをいいことに、さらに翌年7月に箱根で行われる予定の箱根離宮落成式で大臣を殺害し、天皇を擁立しようという計画を立てました。

爆弾まで作って準備したといいますが、官と通じていた仲間の密告によって事前に発覚、首謀者善意が捕縛されました。罪名は主として強盗であり、1887年(明治20年)に判決言い渡しがあり、首魁2人は徒刑14年、幹部12人は徒刑12年、ほか11人は懲役または禁錮に処せられました。徒刑とは、男は島流し+労役、女は内地で労役に就かせたものです。

しかし、10年後の1897年(明治30年)、英照皇太后死去に際しての大赦減刑に浴し、生存者は大部分、出獄することができ、その後、山岡は単身、アメリカ、南カリフォルニアに移民として渡りました。

1938年に発刊された「在米静岡県人寫真帖」には、初期の移民が紹介されており、この中に山岡音高は「1897年渡米」とされ、ほかに9名ほどの日本人名が記載されています。男性名ばかりですが、多分ほかに女性もいたことでしょう。

1898年(明治31年)には、山岡はシアトルへ移住し、ここで友人二人と合資会社を設立して、日本品の貿易の傍ら鉄道人夫の請負を始めて、成功しました。この当時は、日本人蔑視がはなはだしかったことから、山岡もともに渡米した女性と結婚したと思われます。

そして、1903年(明治36年)にジョージが生まれ、のちにワシントン大学へ進学しました。大学では、法律学を専攻する傍ら、日本人学生会の理事を務めるなどの英才でした。1924年にはインディアナポリスで開催された世界学生大会に、ワシントン大学から選ばれた日系人学生2人のうちの1人として参加しています。

この頃から当時の二世の中でも、将来のシアトル日系人社会における指導者の一人として見なされるようになりましたが、周囲の期待とは裏腹に、山岡はワシントン大学卒業と同時に、首都ワシントンD.C.にあるジョージタウン大学ロー・スクールに進学します。

在学中には、ジョージタウン・ロー・レビューのビジネス・マネージャーを務め、1928年に法務博士号を取得。卒業後は同年から翌1929年まで在米日本総領事館顧問、1929年から1930年にかけてはロンドン海軍軍縮会議日本代表団顧問を務めたほか、1931年にはニューヨーク州で日系人として初めて弁護士登録を受けました。

同年、ニューヨークの法律事務所でアソシエイトとしての活動を開始し、1940年には同事務所のパートナーに昇格ました。東部に移住した結果として、山岡は開戦後も、日系人の強制収容に巻き込まれることもなく、法律家としての活動を続けることができました。

戦後に東京裁判が行われた際は、日英両語に堪能というだけでなく、その能力と識見の高さを評価され、A級戦犯の弁護人として日本に赴くこととなり、ジョージ・F・ブルーエットやウィリアム・ローガンなどと並んで弁護団の要としての役割を果たしました。

帰国後も、弁護士として日米関係の構築に努め続け、1968年に日本政府から瑞宝章を授与されました。1981年11月19日にニューヨークのマンハッタンでタクシーに乗り込もうとした途中、その場で心臓発作により78歳で死去しました。

東京裁判においては、東郷茂徳と広田弘毅の弁護人を務めました。東郷茂徳は、開戦時の外相だったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没。広田弘毅は、戦後の極東軍事裁判で文官としては唯一のA級戦犯として有罪判決を受け死刑となりました。

日本が無条件降伏した日が近づいています。今年は戦後70年。暑い一日になりそうです。

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