アダムスとその時代 番外編

イギリスでのオリンピックが終わりましたね。何か急に火が消えたような寂しいかんじがするのは私だけでしょうか。閉会式で延々と続くイギリスのロッカーたちの歌声をうっとうしく思いつつ、これはこれで彼らの文化なのだから、と妙に寛容な気持ちになれるのは、やはり、ニッポンが過去最多のメダルを獲得したからでしょうか。

それにしても、怒涛の後半戦でした。ボクシングの金で最後かと思ったら、さらに最後の最後にレスリングで有終の美を飾ってくれました。マラソンは残念でしたが、マラソン王国ニッポンの復活を感じさせる若手の出現に、次回のリオ・オリンピックは大いに期待できそうな気がしてきました。

がしかし、メダルをとれた選手もとれなかった選手も大変お疲れ様でした。残るイギリスでの日々を楽しんだあと、日本へ帰ってきて、ゆっくり休んでもらいたいものです。

休み……で思い出しましたが、はっと気が付くと、今日からお盆三が日ではありませんか。ちまたでは、帰省ラッシュが始まっているはずですが、ここのところ、ニュースをみてもオリンピックの話題ばかりで、お盆休みのことは何も言っていないので気が付きませんでした。

おそらく多くの人が、オリンピックの最後のほうを見ずに、電車やクルマでの帰省の波に乗って、地方へ帰られていたことでしょう。私たち自身も、例年なら山口の実家へ帰っているところですが、伊豆へ引っ越してきてすぐのことでもあり、今年は帰省は見送ることにしました。

それに、夏を涼しくすごすのには、ここにいるのがよさそうです。実家の山口の夏ときたら、殺人的な暑さで、昼はもちろんのこと、夜もクーラーなくしては寝れません。ここ修善寺では、まだ一度もクーラーをつけたことはなく、夜はときには毛布が手放せないくらいです。こんなに快適な夏を過ごせるのははじめてのこと。来年からも真夏に帰省をするのはやめようかな、などと思っているくらいです。

ジョン・セーリス

さて、昨日まで書いてきた三浦按針こと、ウィリアム・アダムスのことですが、書き忘れたことがありましたので、番外編として追記しておこうと思います。

それは、平戸に開かれたはずの、イギリス商館がその後なぜ続かなかったのか、ということ。アダムスとファン・ローデンスタインの働きにより、イギリスとオランダを相手に交易を開始したはずの徳川幕府が、なぜその後、オランダだけを相手にするようになったのか、疑問に思われる方も多いのではないかと思います。

ことのいきさつは、アダムスが、徳川家康の信頼を受けて江戸幕府の外交顧問となったのち、アダムス自身がイギリスの知人にあてて送った書簡に始まります。

慶長16年(1611年)、アダムスが送ったこの手紙が、誰当てだったのか不明ですが、おそらくはかつて航海士を長らく勤めたロンドンのバーバリー商会の責任者か誰かだったのでしょう。

このアダムスの書簡には、彼自身が家康の外交顧問となったことや、その当時の日本の情勢のほか、諸外国との交易の状況などが細かく書き記してあったと思われます。そして、どこをどうまわってたどり着いたかわかりませんが、この手紙は、1602年に設立されたのち、そのころ香辛料貿易の世界を席巻しようという勢いであった、東インド会社の手に渡ります。

これを読んだ東インド会社の責任者は驚嘆。かつて、オランダから極東へ向かった5隻の船団のうち、ヘローフ号のみが帰還し、ほかの2隻はポルトガルやスペインに拿捕されたという情報は得ていたものの、リーフデ号とホープ号は行方不明のままになっていたためです。

驚いた東インド会社のその責任者は、さっそくその頃のイギリス国王、ジェームズ1世に書簡を送り、アダムスを仲介人として日本との通商関係を結びたい旨を要請し、この要請をジェームズ1世は了承。

そして、そのころイギリス海軍の艦隊司令官であった、ジョン・セーリスを日本へ派遣することにしたのです。この人物がどういう人物であったのかについては、英語版のウィキペディアをみても詳しいことは書いてありませんが、日本から帰国して30年後に1643年に63才で没しています。その経歴には何も華々しい記録がないところをみると、おそらくは日本とイギリスの初外交交渉以外にはその後も大きな功績もなかったのでしょう。

しかし、さらにおよそ200年後の幕末に、イギリス人通訳として活躍したアーネスト・サトウが、このセーリスの日本訪問記(タイトルは、The Voyage of Captain John Saris to Japan, 1613)を書いています。イギリスではたいした功績も認められなかった彼のことをサトウがわざわざ書いているところをみると、親日家だったサトウ自身はイギリスが日本との関係においてこれほど古くから付き合いがあったんだよ、というところをイギリス人に見せたかったのでしょう。

これにより、日本と友好な外交関係を持てたのは、自分の功績でもあるというところをアピールするとともに、日本との交易において他の列強よりもイギリスを優位な位置につけたかったのだと思われます。事実、イギリスはその後日本が開国して世界と付き合っていく上において、ライバルのアメリカやフランスを抜いて、もっとも親密なパートナーになっていきます。

さて、こうして、イギリスを発ち、1613年6月11日にイギリスからの正式の使者として初めて平戸に到着したセーリス一行は、その後無事にアダムスに面会します。1613年というと、仙台藩で建造されていたサン・ファン・バウティスタ号が完成した年であり、アダムス自身は、家康の技術顧問かつ外交顧問として最も油の乗り切ったころのことです。

おそらく平戸までセーリスをわざわざ迎えに出たと思われるアダムスは、セーリス一行のために、在留中国商人の李旦という人物から邸宅を借り上げています。そして、そこでセーリス達の長旅の疲れが癒えるのを待ったのち、彼らが乗ってきた船で平戸を出て、海路、駿府に向かいました。

このころ、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、大御所となって江戸から駿府に隠居していました。隠居するに先立ち、家康は駿府城を大修築しましたが、1607年(慶長12年)の完成直後に焼失。その後直ちに再建され、1610年(慶長15年)に再建されていますが、家康がセーリス達に謁見したのは、まだヒノキの臭いのぷんぷんするような、新しい城郭でのことだったに違いありません。

ちなみに、六年後の1616年(元和2年)に家康はこの駿府城で没しています。死因は、鯛の天ぷらによる食中毒説とも胃癌とも言われていますが、グルメオヤジだった彼らしい死に方です。遺言により、始めは駿府の南東の久能山(現久能お山東照宮)に葬られましたが、一周忌を経て江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬されています。

駿府城において徳川家康に拝謁したセーリスは、国王ジェームス1世の国書を捧呈します。そして、駿府城を辞したあと、更に江戸城にて将軍徳川秀忠にも謁見しています。秀忠は将軍になっていたとはいえ、そのころはまだ家康が健在で、おそらくはイギリスとの交易についても家康が裁可を下したことでしょう。家康にもかわいがられていたアダムスを連れて行った工作が功を奏し、この年の10月には徳川幕府からイギリスとの通商許可が正式に出されました。

イギリス商館の誕生

徳川幕府からの許可を得たセーリスは、さっそく平戸に戻り、アダムスが借り上げてくれていた邸宅を、急きょ「イギリス商館」とし、一緒に来日していたリチャード・コックスという貿易商人を商館長に任じて6人の部下を付け、更にアダムスを商館員として採用して顧問としました。コックスが商館長時代だったころのことは、彼の日記、「イギリス商館長日記(1615-1622)」に詳しく書かれているそうで、ここにはこの当時のイギリスの東アジア貿易の実態や日本国内の史実が詳しく書かれ、史料としても一級品だとか。

セーリスらが一時しのぎで「商館」とした邸宅は、その後イギリス国によって正式に買い上げられ、イギリス人商館員や日本人使用人も増員されました。商館員や使用人は平戸や江戸・京都・大坂・長崎などのあちこちに広く派遣されて貿易の仲介を行うとともに、平戸から船を出し、東南アジア各地に派遣して貿易をやってかなりボロ儲けしたようです。

しかし、その後、1612年(慶長17年)には、禁教令が出され、日本国内のキリスト教徒は大弾圧を受けるようになります。次いで、1616年(元和2年)には、明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定するなど、徐々にその後の鎖国体制が確立していきます。キリスト教の弾圧と貿易港の制限により、新教国とはいえキリスト教徒であるイギリスの旗色は徐々に悪くなる一方であり、さらに本国におけるイギリスとオランダの対立が表面化してきました。

そのころの日本は、イギリスやオランダから生糸や絹織物、羅紗、ビロード、胡椒、砂糖、ガラス製品、書籍などを輸入し、逆に銀(主に石見銀山で産出)や銅、樟脳、陶磁器、漆工芸品などを輸出しており、両者の商人とも「どえりゃー」いい商売をしていました。

特に、肥前国有田(佐賀県有田町)で焼かれた伊万里焼は珍重され、その取引を巡っては先行するオランダのほうがイギリスより有利でした。ところが、その取引を独占しようと、欲張ったオランダは、次第にイギリス商船の航海を妨害するなどの行為を行うようになり、初代商館長コックス自身が、江戸幕府に直接オランダの非法を訴えるまでになっていました。

オランダの東インド会社、vs イギリスの平戸商館(イギリス東インド会社)同士の対立は、徐々に発展していき、イギリス船が平戸に入港できない、などという事態にまで発展。ついには、地元の平戸藩や在留中国人、日本人商人とイギリス商人との取引において、売掛金の焦げ付きまで発生するようになります。

日に日に貿易高が減っていくことに焦ったコックスは、挽回を狙って明国との交易を始めようとしますが、鎖国体制に入りつつある幕府にばれて失敗。同じ平戸で商売していた、東インド会社内部からは、あいつは抜け駆けで悪いことしてる~ と幕府に告げ口が行ったことから、コックスの責任を問う声が上がり、イギリスはさらに立場を悪くしていきます。

更に日本との仲介役であったアダムスが、1620年(元和6年)に亡くなると、日本におけるイギリスの擁護者はほとんどいなくなってしまうのです。

そのような状況下の元和9年(1623年)に発生したアンボン事件(notあんぽん)は、オランダ東インド会社による東アジア貿易支配をより強め、イギリスの影響力を弱体化させるきっかけになりました。

オランダとの対立

アンボン事件というのは、インドネシアのアンボン島(アンボイナ島)というところで、オランダ人がイギリス商館を襲い、商館員を全員虐殺した事件です。この頃、東南アジアには日本人が多く進出し、アユタヤやプノンペンには日本人町が形成されるほどで、アンボン島にも日本人ともにオランダ人やイギリス人がたくさん一緒に住んでいました。

そんなおり、オランダ側が作った砦をイギリスが占領しようとしてする計画があるらしいことが発覚。すぐにオランダ人たちは、イギリス商館に攻め入り、商館長以下、30余名を捕らえた彼らは、イギリス人を火責め、水責め、四肢の切断などの凄惨な拷問を加えます。

そして、これを認めさせたオランダ側は、イギリス人10名、のほか、オランダに組していたとして、ポルトガル人1名と日本人9名を斬首して、アンボン島におけるイギリス勢力を排除したのです。

この事件は程なくイギリス本国に伝わり、英蘭両国の間で進行していたそれぞれの東インド会社の合併交渉は決裂。ついには外交問題にまで発展します。事件発生から31年後の1654年になって、オランダ政府が8万5000ポンドの賠償金を支出することで決着したといいいますが、事件が起こったと同時に、もうイギリスとオランダが一緒に仲良く貿易をするという雰囲気はまったく消散。

イギリスは、オランダ何者ぞ!と反抗攻勢にでるのかと思いきや、元気なく、とくにアンボン島のような香辛料貿易の中心地を失ったため、この事件をきっかけに、東南アジアにおける香辛料貿易におけるイギリスの影響力は縮小していきます。

しかし、かつて同量の金と交換されたこともあったほどの高級品だった香料も栽培方法が確立されていくにつれて、その価格は次第に下落。それに伴い、オランダの世界的地位も下がり始めましたが、一方の「被害国」イギリスは、日本や香辛料貿易をあきらめ、新たな海外拠点をインドに求めます。そして、そこで良質な綿製品の大量生産によって国力を増加させ、やがてはオランダを凌駕するようになっていった、というのは皮肉なものです。

アンボン事件により、イギリスはオランダの砦を襲おうとした「悪者」であると一方的にオランダから非難されるようになり、片やイギリスは自国民を虐待したとしてオランダを非難。ことはなかなか収まりそうにないことをみてとったイギリス東インド会社は、とりあえずこの事件は、平戸の商館長であるコックスの責任である、ということにしようということで、コックスを罷免することに決めます。

そして、コックスはインドネシアのバタビア(現ジャカルタ)の支社に左遷し、これを機会に平戸の商館も閉鎖することを決定。1623年(元和9年)12月のことでした。

再チャレンジ

翌年の1月には、イギリス商館は完全に閉鎖され、コックスらイギリス人商館員全員が日本を去り、イギリス人が去ったイギリス商館はその後平戸藩とオランダ商館が共同管理することになりました。

この平戸商館は、その後幕府によって平戸での貿易が禁じられ、オランダ商館が長崎に移転したこともあって、急速に荒廃していったそうです。

しかし、イギリスは、これで日本との交易を完全にあきらめたわけではなく、1671年(寛文11年)、チャールズ2世が国王のとき、日本との通商再開を目指して、「リターン号」という船以下3隻の船を本国から出航させて、長崎に入港させています。

長崎で長崎奉行と対面した使者は、徳川家康の時代に出された来航朱印状は依然有効であり、通商を再開してほしい、と願い出ます。しかし、オランダからの情報で、チャールズ2世とポルトガルの王女が婚姻関係にあることを知っており、1639年(寛永16年)以降、ポルトガル船の入港を拒否していた日本は、これに難色を示します。そして、さらにイギリスが、かつて一方的に商館を閉鎖した、と非難して結果的には、貿易再開要求を拒否。

リターン号がまだ日本にいる間に、改めてイングランド船の来航を禁じる命令を出したため、これを受けてリターン号は日本を離れることになりました。そして以後、幕末に至るまで、2度とイギリス商館が復活することはありませんでした。

また少々長くなってしまいましたが、これが江戸時代にイギリスとの貿易がなくなってしまった理由です。

イギリス商館が平戸のどこに設置されたのかについては、今もなぞなのだそうです。しかしいろいろな記録の痕跡から、平戸にある鏡川という下流にあったオランダ商館の近くだろうと推定されています。平戸市の岩の上町の幸橋のたもとには、商館跡の碑が建てられているそうですが、それだけでは、かつてアダムスらイギリス人が生き生きと働いていたであろう商館を想像することはできません。

かつて江戸初期の初めの日本を闊歩したイギリス人の姿を思い出させてくれるような史料が今後発見されるのを祈りたいものです。