瀬戸内発


昨日の雨は富士山では雪に変わったらしく、今朝みると、この秋初めて宝永山火口すべてが真っ白になっています。

夜になると寒く、外はまだ秋色ではあるものの、いきなり冬がやってきた感じがします。秋はまだ間に合うのでしょうか?

さて、今日は、私の生まれ育った広島や山口県が面している瀬戸内海について少し書いてみたいと思います。

瀬戸内海を知らない、という人はいないでしょう。しかし、瀬戸内海はどこからどこまでか、と聞かれると、うーんと迷ってしまう人も多いのではないでしょうか。

瀬戸内海の海域は法令の目的ごとに扱い方が異なり、複数の法令で範囲が定義されています。が、基本となっているのは、領海及び接続水域に関する法律施行令(通称、領海法施行令)であり、これによれば、その海域の領域は次の三つのラインで規定されています。

1.紀伊日ノ御埼灯台から蒲生田岬灯台まで引いたライン
2.佐田岬灯台から関埼灯台まで引いたライン
3.竹ノ子島台場鼻から若松洞海湾口防波堤灯台まで引いたライン

と言葉で書いてもわかりにくいので、下の図をご覧ください。

思ったより広範囲だな、と思うか、あるいはだいたい思っていたとおりという人と半々だ思います。が、多くの人が迷うのが、四国と大分県に挟まれた豊後水道(豊予海峡)の海域が瀬戸内海かどうかという解釈でしょう。

実は、瀬戸内海の海域を規定する法律はもうひとつあって、これは瀬戸内海環境保全特別措置法といい、通称は「瀬戸内法」と呼ばれており、この法律では豊後水道の海域まで含めた海が瀬戸内海となっています。

この違いは何かといえば、前者はあくまで国際的に瀬戸内海はここまでですよ、と知らせるための法律であり、「領海法」の名前でもわかるとおり、もし他国と領海を争うことになった場合に、これは法律でも定めてあるから間違いなく日本の海ですよ、と開き直るためのものです。

一方の領海法のほうは、どちらかといえば国内向けの法律であり、「環境保全特別措置法」の名前のとおり、国をあげての環境保全を行う場合、豊後水道まで含めて面倒見ましょう、という範囲を規定したものです。

従って法律的にはどちらも正しいわけです。が、我々の通常の感覚からすると、瀬戸内海といえば領海法に規定されている、豊後水道は含まない範囲を指すことが多いかもしれません。

これに属する件は、山口県、広島県、岡山県、兵庫県、大阪府、和歌山県、香川県、愛媛県、徳島県、福岡県、大分県の11もあります。無論、それぞれ海岸線を持っており、沿岸の陸地も含めて、その通称を「瀬戸」または「瀬戸内」と呼んでいます。

ただし「瀬戸内海」は「瀬戸内」に単に「海」をくっつけてそう呼ぶようになったわけではなく、これは「瀬戸の内海」という意味であり、「瀬戸という地域の内海」ということです。ま、どうでもいいような話ですが……

この瀬戸内海ですが、古来、畿内と九州を結ぶ非常に重要な航路として栄えました。その理由はもちろん、外海に面しておらず、通年を通じて波が低く、温暖なためです。ここの気候は瀬戸内海式気候と呼ばれ、温暖なだけでなく、雨量が少ないことでも知られています。

また、島が多く、海が荒れた場合でも避難できる場所が多いことも船舶にとってはありがたかったわけです。内海に面しているため、外洋から大きな津波が侵入してくるおそれもありません。仮に瀬戸内海内で地震が起きて海底が隆起して大波が発生したとしても、陸地までの距離が短いので、大津波になりにくいということもあります。

津波というのは、かなり深い海で発生したときにはたいした高さがありませんが、これが陸地に向かって水深の浅い大陸棚を駆け上がるとき、加速されると同時に波高も増して数十倍までの大きさになるのです。

瀬戸内海の大きさは、東西に450km、南北に15~55kmほどで、平均水深は約31mですが、もっとも深いのは、豊予海峡と鳴門海峡のあたりで、ここでは最大水深が約200mあります。

多くの島嶼群で構成され、豊かな生態系を持つことで知られており、天然記念物の節足動物のカブトガニ、小型鯨類のスナメリなどの海洋生物や、アユ、ホオジロザメを初めとする400~500種類を越す魚類が生息しています。

このカブトガニは、天然記念物なので当然捕獲してはいけないのですが、小学校のころ、私のクラスの男の子が、めずらしいからとこれを捕まえて教室まで持ってきたことがあり、当然のことながら、先生にはこっぴどく叱られました。

また、いたるところに遠浅の海があり、私が夏になると良く行く、山口県の宇部市の「岐波(きわ)」というところなどは、潮が引くと、はるかかなた1km以上も先まで海の中を歩いて行けます。海の中といっても、潮が引いている間は当然陸地です。

この場所が好きで、昔は潮干狩りがてら良く出かけ、アサリやハマグリをよく採ったものですが、最近は乱獲により、めっきり少なくなりました。

こうした瀬戸内海の豊かな自然がなぜ作られたかといえば、これはこの潮の干満差が大きいことが原因です。香川県の荘内半島と愛媛県高縄半島の間の燧灘(ひうちなだ)というところの干満の差はこの岐波以上におおきく、実に2m以上にもなります。

こうした大きな干満差のため、瀬戸内海の潮流は極めて強く、場所によっては川のように流れている所もあります。この強力な潮流が発生させているのが、「鳴門の渦潮」です。この強力な潮流によって外洋の海底部の養分が常に巻き上げられ、強い流れとともに瀬戸内海に大量の動植物プランクトンが流れ込みます。

一方、いったん瀬戸内海に入ってきたプランクトンも大きな干満差と強い流れによって海水が撹拌されるため、その成育が促されます。プランクトンが豊富なため、当然これを食べる魚も豊富であり、かつ種類が多くなるわけです。

また信じがたいことですが、かつて20世紀初めごろまでにはここはクジラの一大生息地でもあり、コククジラやセミクジラなどが多数生息していたそうです。これらのクジラは捕鯨と汚染により瀬戸内海からはほぼ消えてしまいましたが、最近、90年代のはじめごろから、瀬戸内海でクジラの目撃がにわかに増え始めています。

広島県の倉橋町の沖では100頭ものゴンドウクジラの群泳が目撃されており、また大阪湾には九六年から子連れのミンククジラが相次いで出現したほか、香川県の志度町沖では漂流死体が揚がったそうです。

もっとも、瀬戸内海の自然が急速に回復したからというわけではなさそうで、専門家によれば黒潮の分流に乗ってエサを追いかけ、瀬戸内海に入り込んだとみるのが自然なのだとか。とはいえ、日本近海におけるクジラの個体そのものは増加しているのではないか、という見解もあるようです。

第二次世界大戦後、瀬戸内海の漁獲量は爆発的に増加し、ピークとなった1982年には昭和初期の4倍にも達しました。

が、その後は環境破壊と乱獲によって資源量は減少し、イワシ、タイ、サワラ、トラフグなど主な魚種の資源量は、回復にほど遠い状況です。アサリも埋め立てなどで生育環境が破壊されたことと乱獲のために激減しており、ハマグリはほぼ絶滅状態となっています。

しかし、瀬戸内海は縄文時代から今日に至るまで、多様な漁業の場であり、江戸時代には肥料に用いるイワシを獲る地引き網や船引き網漁が盛んでした。またイカやアナゴやキス、エビ、ナマコなどを狙う手繰網漁や、現在も鞆の浦で行われている鯛網漁、帆走しながら網を引く打瀬網漁など、様々な網漁が行われていました。

こうして獲られた高級魚は船の中の生け簀に入れたまま大坂まで運ばれ、高値で売却されました。祇園祭の頃に旬を迎えるハモは活け締めにして京まで運ばれ、広島のカキも江戸時代には関西に広く流通していました。

広島でのカキの養殖は室町時代までさかのぼるといわれており、このほか現在ではブリ、タイ、ワカメ、海苔などの養殖が盛んに行われています。

明治維新後には、瀬戸内海の漁民たちが漁場を求めて日本国外に出漁する事例が増えていきました。山口県や広島県の一本釣り漁師たちの多くが台湾や、遠くはハワイなどに渡り、打瀬網を使う漁民はフィリピンに出漁し、その一部は彼の地で定住するようになりました。

このほか、瀬戸内海は、20世紀後半まで家船(えぶね)に乗った漁民が活動していたことでも知られています。家船とは木造の小型の漁船に簡易な屋根を装備し、布団や炊事道具など生活用具を積み込んだ船のことです。瀬戸内海の漁民の中には、こうした家船に夫婦単位で乗り込み、生涯を海の上で暮らす者も多かったといいます。

このように活発な漁業活動を支えた瀬戸内海の豊かな自然は、江戸時代に来日した医師であり博物学者であったシーボルトを始めとして数多くの欧米人から高く評価されましたが、彼等はまたこの瀬戸内の景色をみて、すばらしい景勝地だと、別の面からも高い評価を与えました。

19世紀後半の1860年、日本では明治維新直後に瀬戸内海を訪れたシルクロードの命名者でもあるドイツ人の地理学者フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェンなどは、その著著「支那旅行日記」で「これ以上のものは世界のどこにもないであろう」と書き記しています。

この本は各国で出版されたため、見てもいないのに瀬戸内海は風光明媚な風景として世界で絶賛されるようになりました。

瀬戸の内海、瀬戸内海というこれらの地域をまとめてこう呼ぶようになったのは、江戸時代後期とされています。それまでは和泉灘や播磨灘、備後灘、安芸灘など、より狭い海域の概念しかなく、現在のように瀬戸内海全域を一体のものとして捉える視点は存在していませんでした。

とはいえ、江戸時代の「瀬戸内」の概念は現在のように広範囲ではなく、1813年に書かれた佐渡の廻船商人の旅行記「海陸道順達日記」によればこれは、尾道と下関の間の限定された範囲でした。

「瀬戸内海」の範囲が現在のようになったのは、明治期に入って欧米人がこの海域全体を指してを“The Inland Sea”と呼んだことによります。無論この範囲には大阪湾までの海域も含まれています。

欧米人がこう呼んだ海域を日本人の地理学者たちが1872年頃から「瀬戸内海」と訳して呼ぶようになり、これが明治時代の後半には誰もが瀬戸内海といえば下関から大阪、淡路を含む広い範囲であると解釈するようになっていきました。

つまり、現在のような瀬戸内海の範囲を決めたのは日本人ではなく、外国人だということになります。

ただしこの時期の「瀬戸内海」はせいぜい明石海峡から関門海峡までの海域でした。これが更に現在のように明石海峡から南の和歌山沖や、豊後水道まで含めるようになったのは、1911年に小西和という学者が書いた「瀬戸内海論」という論文です。

小西はこの論文で瀬戸内海の範囲を現在のように豊予海峡と鳴門海峡と規定するとともに、「国立公園」を日本に作ることの必要性も併せて指摘し、帝国議会に国立公園の設置を建議しました。

この建議は容れられて1931年に国立公園法が制定され、その三年後の1934年には、瀬戸内海は雲仙、霧島とともに日本初の国立公園「瀬戸内海国立公園」となったのです。

瀬戸内海の地理地形

この瀬戸内海という大きな海がどうやってできたかですが、1600万年ほど前、日本列島はユーラシア大陸から分離し、このとき古瀬戸内海と呼ばれる海が出現しました。

古瀬戸内海には、現在の和歌山県、大阪府河内地方、大阪湾、兵庫県西部、岡山県、広島県東部、島根県東部などが含まれていました。古瀬戸内海は亜熱帯の海であり、珊瑚やマングローブが生育していました。

1400万年前から1000万年前になると、奈良県の各所や、香川の讃岐、山口県の周防大島などで火山活動が活発化するようになり、これらの火山の噴出物によって古瀬戸内海はいったん陸地になりました。そして7万年前には、ウルム氷期という氷河期が始まり、瀬戸内海一帯にはステゴドンと呼ばれる大型の像やナウマン象が生息するようになりました。

広島では、1万数千年前の石器が発見されており、後期旧石器時代には人類の生活の場にもなっていたこともわかっています。しかし、1万年前に氷河期が終わると気温が上昇し、これに伴い海水面も上昇し、6000年前までに現在のような瀬戸内海が形成されました。

それまでの火山活動、地殻変動や氷河の流れなどによりかなり凸凹していた瀬戸内海に海水ができたことにより、瀬戸内海には大小あわせて3000もの島が浮くようになりました。

これらの多くは現在でも無人島であり、周囲数メートルしかない小さな島も多数存在します。大きな島としては、東部の淡路島、小豆島、中部の大三島、因島などがあり、西部の周防大島、倉橋島、能美島、そして忘れてはならないのが、我々が結婚式をあげた厳島です。

歴史

歴史的にみると、瀬戸内海は古くから交通の大動脈として機能してきました。古代においては、摂津国の住吉大社の管轄した住吉津を出発地とした遣隋使、遣唐使の航路であり、海の神である住吉大神を祀る住吉大社の影響下に置かれ、各地に住吉神を祀る住吉神社が建てられました

またこの頃、崖の上のポニョで有名になったそのモデル地といわれる広島県の「鞆の浦」は瀬戸内海の中央に位置するため、汐待ちの港町として栄えていました。汐待ちというのは昔の船は帆走船しかなかったため、風が凪ぐと航海ができず、このため風を来るのを待機するための待合場所が町として発展したのです。

奈良時代に入ると、山陽道や南海道の陸上の交通網が整備されるようになりましたが、だからといって瀬戸内航路が廃れたわけではなく、唐などの外国使節が瀬戸内海を通った記録も残っており、日本人の多くも瀬戸内航路を引き続いて利用していました。

平安時代中期ころになり、武士が台頭してくると、中には海賊になる者も出るようになり、彼等の中には摂津国の渡辺党のように、水軍系氏族として名を馳せる者も出てくるようになり、渡辺氏の庶流である肥前国の松浦氏もまた九州の水軍である松浦党をつくりました。

こうした水軍は、その後の時代時代における権力者の手先として活躍するようになります。平安時代末期には平清盛が瀬戸内航路を整備し、音戸の瀬戸開削事業を行ったり、厳島神社の整備を進めたりしましたが、このときにも厳島の村上水軍を味方につけ、彼等にこれらの普請を手伝わせています。

鎌倉時代から戦国時代にかけての中世なると、これらの水軍勢力は力を更に示すようになり、伊予国の越智氏や河野氏ら沿海部や島嶼の武士たちはそれぞれ海賊大将軍を名乗って海賊衆(水軍)を組織し、瀬戸内における交通網を取り仕切るようになりました。

やがて豊臣秀吉による海賊禁制を経て江戸時代には水軍勢力は排除されるようになり、瀬戸内海は自由に航行できる海となったため、回船商人らによる西廻り航路(関門海峡~大坂)を初めとして、瀬戸内海はこの時代の物流の主役の務めを果たすようになります。

幕末になると、長崎港発の外国船が瀬戸内海を経由して横浜港へ航海するようになりますが、一方では攘夷派がこれらの外国船を攻撃するようになり、1864年(元治元年)には、下関砲台の外国船砲撃事件により瀬戸内海は一時封鎖されました。

この事件はその後、馬関戦争に発展し、長州藩と英仏蘭米艦隊との戦いが起きました。馬関というのはこの当時の下関の呼称です。無論このとき長州藩は大敗し、これを境に自国の兵力の弱さを知るところになり、一念発起して逆に欧米の技術を導入するようになり、これが幕末への動乱、ひいては明治維新へとつながっていきました。

明治時代以降、中国地方でも鉄道が開通し、四国においても交通網が整備されるようになり、瀬戸内海を交通路とみなす重要性は次第に薄れていきました。

とはいえ、大正時代のころにはまだ阪神・別府間などに観光航路が開設されたままであり、第二次大戦後においても、一大観光ブームが起こり、これに便乗したクルーズ客船が数多く出現して、瀬戸内海航路は江戸時代の往時に立ち返ったかのような賑わいを見せていました。

その後これらの航路の主役はフェリーに移行しましたが、平成に入った現在も無数の定期航路が存続しています。しかし、ご存知のとおり、本州と四国の間に、三本もの本四架橋が架けられ、陸上交通ルートが確保されたため、多くの定期航路が廃止されるに至っています。

とはいえ、観光を目的としたクルーズ船などはいまだ多数存続しており、近年の「地方ブーム」に乗って、こうした観光船を有する旅客会社や運送会社はそこそこの営業成果をあげているようです。

瀬戸内海の観光

こうした観光地としての瀬戸内海ですが、庶民の観光旅行が一般化した近世には、「平家物語」「源平盛衰記」「太平記」などに登場する古戦場である、屋島や壇ノ浦、牛窓、藤戸などが観光名所として注目されるようになりました。

また金比羅宮、石鎚山、住吉大社、厳島神社、宇佐八幡宮、大山祇神社などへの参拝も盛んになり、瀬戸内海各地の名所は「諸国名所百景」などの浮世絵にもたびたび登場するようになります。

さらに、こうした寺社詣での旅行者を主な顧客とする旅籠、茶屋、土産物屋などといった観光産業が丸亀や多度津、下津井、宮島などに成立し、繁栄を見せるようになりました。

この時期、朝鮮通信使が鞆の浦を「日東第一景勝(日本一の景色)」と称えた記録が残されており、このほか幕末近くになると多くの外国人が瀬戸内海を訪れるようになります。中でも前述したとおり、シーボルトが瀬戸内海の風景を絶賛し、また明治時代にはトーマス・クックやユリシーズ・グラントなどの欧米人が世界に瀬戸内海を紹介しました。

トーマス・クックはイギリス出身の実業家で、自らの名前を冠した旅行代理店であるトーマス・クック・グループで事業を拡大し、近代ツーリズムの祖として知られる人です。

また、ユリシーズ・グラントは、元軍人で南北戦争北軍の将軍を経て第18代アメリカ合衆国大統領になった人です。南北戦争で戦った将軍の中では南軍のロバート・E・リー将軍と並んで最も有名な将軍の一人です。が、一方では大統領在任中の多くのスキャンダルおよび汚職により、歴史家からアメリカ最悪の大統領の一人と考えられています。

1879年(明治12年)には国賓として日本を訪れており、このとき書いた瀬戸内海の見聞記が後に世界に広まりました。

このときは浜離宮で明治天皇と会見し、増上寺で松を植樹、上野公園で檜を植樹しました。また日光東照宮を訪問した際には、天皇しか渡ることを許されなかった橋を特別に渡ることを許されたものの、これを恐れ多いと固辞したことで高い評価を受けることとなりました。

このころの日本人の瀬戸内海観光が「名所」訪問や、由緒ある神社仏閣への参拝であったのに対し、こうした欧米からの賓客は瀬戸内海各地でこの当時当たり前のように見られた風景に注目し、これらに観光資源としての価値を与えていきました。

それらは、日本人なら普通の風景として目にうつる多くの島々や、段々畑、白砂青松、行き交う和船などといったごくごく普通のものでした。しかしそれらの風景に価値があることを日本人は逆に外国人から知らされるようになり、近代の訪れとともに、瀬戸内海観光は「意味」を求める観光から、「視覚」による観光へと変質していきました。

こうして1912年(明治45年)には、大阪商船が別府温泉の観光開発を目的として阪神・別府航路にドイツ製の貨客船「紅丸」を就航させ、純粋に観光を目的とした船旅が大人気となります。

1934年(昭和9年)には前述のように瀬戸内海は日本初の国立公園の一つとなり、その効果もあって、その後もこうした観光客船の就航が相次ぎました。

戦後も、阪神・別府航路を引き継いだ関西汽船が、1960年(昭和35年)に「くれない丸」を就航させ、その後3000トン級クルーズ客船が最大時6隻体制となった別府航路(瀬戸内航路)もまた、阪神と九州を結ぶ観光路線として多くの新婚旅行客を別府温泉などへと運びました。

その後、新幹線などの内陸鉄道の普及により、こうした船を利用した旅行は次第に影をひそめていきました。

しかし、1987年の「総合保養地域整備法」制定された際には、日本中にリゾート開発ラッシュがおこり、これは瀬戸内海でも例外はなく、沿岸にゴルフ場やマリーナが次々に建設されました。しかし、こうした乱開発は、瀬戸内海の歴史的な景観を破壊するものでもありました。

ところが、バブル経済が崩壊するとこれらリゾート開発の多くは中断され、開発中途で放棄された土地も発生し、多くは廃墟のようになりました。これらがまた瀬戸内海の景観を壊すようになったとみる向きもあるようです。

その後、1996年には広島市の原爆ドームと廿日市市の厳島神社がユネスコの世界遺産に登録されました。また1999年に本四架橋が全て完成すると、よくその代表とみなされる尾道・今治ルートは「しまなみ海道」と名付けられ、観光ルートとしての注目を浴びるようになります。その他の二本のルートも観光名所として高い人気を誇っています。

現在の瀬戸内海は、これらの「新観光地」を中心として一定の人気を博しているようですが、バブル期ほどのにぎわいはないようです。またその昔は瀬戸内海の島々を巡る周回航路なるものも存在していたようですが、現在では定期的な航路はほとんどありません。

瀬戸内海はこうした観光・レジャー利用以外にも重工業、石油化学産業などが多く立地している工業地帯でもあり、現在、日本の総面積の12%にあたる4万7千km2におよぶ瀬戸内海沿岸地域には日本の総人口の約4分の1の3千万人が住んでおり、そのための環境悪化も進んでいます。

上述のとおり、その昔は漁業も盛んでしたが、2000年代は1980年代に比較して漁獲量(重量)は約35%減少しました。その原因は各地で埋め立てが行なわれたためであり、藻場、干潟、自然海岸などの浅海域が減少しており、閉鎖水域であるため下水道や油流出事故などの影響で赤潮発生など水質汚染が憂慮されています。

日本の国立公園第一号として登場したという事実すら風化しようとしているといえ、ぜひそのことを思い出して、この美しい風景を後世に残していってほしいものです。

ちなみに、ですが、世界遺産登録された瀬戸内海に浮かぶ島、宮島へは、本州側の宮島口桟橋から宮島にある宮島桟橋までのフェリーが就航しています。

JR西日本宮島フェリーの宮島航路と、宮島松大汽船の宮島航路の二つがあり、いずれも料金は同じで、片道たった170円です。

乗船時間もまたたった10分ほどですが、この船上からは宮島の大鳥居はもとより、東は広島湾岸の工業地帯や住宅街が見通せ、西に目を向けると見渡す限りの牡蠣筏や海苔の養殖いかだを見渡すことができ、壮快そのものです。今日のこのブログに掲載した写真も以前、このフェリーに乗ったときに撮影したものです。

たった10分の船旅ではありますが、瀬戸内海の風景と世界遺産宮島の観光美を堪能して帰ってくるための対価がいまどき「たった」340円というのは安いと思います。

宮島へ行ったことのない方も一度はぜひお越しください。きっと素晴らしい景色に出会えると思いますから。