別府の熊と紅

先日、故郷の瀬戸内海のことを書いていたとき、日本ではじめて阪神・別府航路に投入されたドイツ製の貨客船「紅丸」のことを調べていたのですが、これにまつわる話もなかなか面白そうなので、今日はそのことについて書いて行こうかと思います。

この紅丸(くれないまる)は、1900年(明治33年)に竣工し、1911年(明治44年)に大阪商船が購入して運航した貨客船です。「初代の瀬戸内海の女王」とも言うべき存在で、大阪、神戸と別府温泉を結びつける大きなきっかけを作った貨客船であり、その後初代に続いて何代も後継船が作られ、現在もその後継船が就航しています。

1884年(明治17年)創立の大阪商船は当初、瀬戸内海沿岸部の小規模船主の集合体という感があり、手中の船舶も雑多でした。

創立当初は山陽鉄道(現・山陽本線)も全通しておらず、九州へ向かうには船しか交通手段がありませんでした。

このため、大阪商船は雑多な航路を整理しつつ瀬戸内海沿岸の複数の港町を結んで大阪と九州を往復する航路を開設することとし、1888年(明治21年)にはそのうちの一つである大阪と熊本を結ぶ大阪三角(みすみ)線が国から開設が奨励された「命令航路」となって補助金が得られるようになりました。

この大阪九州航路は、全行程が2日強というものでしたが、陸上交通網がまだ九州まで伸びていなかった1901年(明治34年)までは競合者はおらず、まさに独断場でした。

しかし、その明治34年に山陽鉄道が馬関(下関)まで全通すると、形勢はたちまち逆転します。山陽鉄道はあらゆる策を弄して航路に挑戦しはじめ、大阪から博多まで関門連絡船経由でも20時間しか要しないとなれば、この勝負は明らかでした。

このため、大阪商船はそれまでの方針を転換し、航路を大阪と、九州の港町のうち鉄道が十分に整備されていなかった町を結ぶものに再編成し、特に著名な温泉地である大分の別府に向かう航路に力を注ぐことになりました。

話はこれより一年さかぼりますが、1900年(明治33年)、上海のS・C・ファーンハム造船所で一隻の河川用客船が竣工しました。名を「美順」 (Mei Shun) といい、ドイツの海運会社である北ドイツ・ロイドという会社が中国の長江航路に投入するために建造されたものでした。

竣工後、「美順」は予定通りに長江航路に就航していましたが、1911年8月25日に上海で火災事故を起こして下部船体は無事だったものの上部の艤装部分は全焼し、ほぼ廃船が決まっていました。このため北ドイツ・ロイドは焼け落ちた「美順」を保険会社に委託して手放すことにします。

大阪商船がこの廃船寸前の「美順」に目をつけ購入しようとしたのは1911年12月のことでした。上海で仮修理を行ったのち日本に回航し、三菱神戸造船所で大修理を行った結果、「美順」は見事に復活し、この修理が終わったあと、大阪商船はこれを「紅丸」と命名しました。

そして、1912年(明治45年)5月から別府航路に就航させはじめました。しかし、就航当初のころ、別府港には十分な停泊施設がなく、当初は沖合に停泊し客は危険を伴うはしけでの上陸を強いられていました。

このとき、紅丸を運航する大阪商船に掛け合い、1916年には汽船が接岸出来る専用桟橋を実現させたのが、地元別府の商人で、「油屋熊八」という人でした。歓楽的な温泉都市大分県別府市の観光開発に尽力し、田園的な温泉保養地由布院の礎を築いた実業家であり、別府の恩人として今もこの町の人々に語り継がれている人物です。

1863年(文久3年伊予国宇和島城下(現愛媛県宇和島市)の裕福な米問屋の生まれで、1888年(明治21年)には27歳で宇和島町議に当選。30歳の時に大阪に渡って米相場で富を築きました。

別名「油屋将軍」として一時はかなりの羽振りの良さをみせていましたが、やがて日清戦争後のときに相場に失敗して全財産を失ってしまいます。

失意の中、35歳の時にアメリカに渡り、各地を放浪した結果、現地の教会でキリスト教の洗礼を受け、その後およそ3年にわたってカナダ、メキシコまで旅をして回りました。

帰国後、再度相場師となろうとしますがうまく行かず、熊八がアメリカに渡っていた間に別府に住むようになっていた妻を頼り、熊八もまた1871年(明治4年)に別府に移り住みました。ちょうどこのころ、別府では別府港が開港されために温泉地として飛躍的に発展してきており、熊八はここで再起を図ろうと決意します。

そして、1911年(明治44年)、「旅人をねんごろにせよ」(旅人をもてなすことを忘れてはいけない)という新約聖書の言葉を合言葉に、亀の井旅館(現在の亀の井ホテル別府店)を創業。この言葉をサービス精神の基本とわきまえ、旅館業を発展させていきます。

紅丸を運航する大阪商船に掛け合い、汽船が接岸出来る専用桟橋を実現させたのもちょうどこのころで、1916年(大正5年)のことでした。

「旅人をねんごろにせよ」を彼が実践していたことの表れのひとつとして、この当時、彼の旅館には、利用客に万が一の急病に対処する為に看護婦を常駐させていたことなどがあげられます。

またこの間、梅田凡平らとともに別府宣伝協会を立ち上げています。梅田凡平とは先祖代々医者をしていた人物で、京都でも有名な家柄に生まれたのち、別府に流れてきてここで医者をやるようになりました。敬虔なクリスチャンでもあったことから、おそらくは教会で熊八と知り合ったのでしょう。

子どもの頃から、歌と踊りと童話が大好きだったそうで、歌や踊りや童話で子どもたちを、楽しませるのを人生の任務にしていたといい、その一環として「別府お伽倶楽部」という子供たちと交流する活動を行っていました。これ梅田に誘われてこの活動に参加する中で、熊八もまた自らのもてなしの哲学と様々な奇抜なアイデアを思いついていきました。

そして、その後盟友となる吉田初三郎とともに、このころからそれらのアイデアを使い、別府宣伝協会を通じて別府の名前を全国へと広めていきました。

吉田初三郎というのは、この大正期から昭和にかけて活躍した、「鳥瞰図絵師」です。鳥瞰図というのは3Dのように立体的に作った地図です。現在でいえば3D映像クリエーターといったところでしょうか。

この時代にそういう職業があったこと自体が驚きですが、1914年(大正3年)、日本で最初の鳥瞰図といわれる「京阪電車御案内」を完成させ、修学旅行で京阪電車に乗られた皇太子時代の昭和天皇の賞賛を受けたといいます。以後、大正から昭和にかけて日本の観光ブームの勃興もあいまって初三郎の鳥瞰図の人気はいよいよ高まっていきました。

生涯において3000点以上の鳥瞰図を作成し、「大正広重」と呼ばれ、その顧客は国内の交通行政を所轄し、観光事業にも強い影響力を持っていた鉄道省を筆頭に、鉄道会社やバス会社、船会社といった各地の交通事業者、旅館やホテル、地方自治体、それに新聞社などに及びました。

高松宮宣仁親王など皇族や松井石根など軍人との交友も広く、驚異的なペースで依頼を受け、鳥瞰図を製作し続けていましたが、そんな中、別府を宣伝していた熊八とも出会い、意気投合したようです。

また、ちょうどこのころ、熊八は加賀国(現石川県)出身の中谷巳次郎とも知り合い、彼と共に由布岳の麓の静かな温泉地由布院に、内外からの著名人を招き接待する別荘(現在の亀の井別荘)を建て「別府の奥座敷」として開発を始めました。

中谷の実家は金沢の裕福な庄屋の家筋でしたが、巳次郎の代で資産を蕩尽した挙げ句、別府市内に流れ着き、熊八に見いだされたのでした。

熊八との出会いは何等かの偶然だったそうで、「別府の奥座敷」の建設のきっかけはその偶然会った熊八がたまたま話した将来の「夢」だったそうです。その熊八の夢に合い乗りして別荘を建てはじめたのですが、このころの二人はまだ「夢」ばかり大きくて「財布」の中身は極めて小さかったそうです。

しかし、鉄道会社やバス会社、船会社といった交通事業者や各地の旅館やホテル、役人などに顔の広い吉田初三郎の助け受け、その紹介で知己を得た大阪の財閥、清水銀行の好意などで食い扶持を繋ぎながら、熊八と巳次郎は徐々に別府と由布院盆地に根を生やしていきました。

そして、苦労の末、亀の井旅館での実績を積み重ね、1924年(大正13年)にはこれを洋式ホテルに改装することができるまでの資金を得るようになります。そしてこのホテルを「亀の井ホテル」として開業。

この亀の井ホテルは、熊八の死後、売却されていますが、平成6年に関西のファミリーレストランチェーンで有名なジョイフルに買収され、以後もこの「亀の井ホテル」を冠したビジネス系のホテルを各地に増やし続けています。が、無論、名前以外は油屋熊八とは全く関係がありません。

熊八はこのホテル事業の成功に続いてバス事業にも進出し、1928年(昭和3年)1月10日には、亀の井自動車(現在の亀の井バス)を設立。日本初の女性バスガイドによる案内つきの定期観光バスの運行を開始しました。

クリスチャンだったこともあり、酒を飲まず、「旅館は体を休める所であり、飲酒をしたいなら外で飲むか他の旅館に行ってくれ」が熊八の口癖であったそうで、こうして経営するようになった別府や湯布院の旅館では、当時では珍しく酒類の提供は行わせなかったといいます。

亀の井自動車もまた熊八の指示で、運転手の飲酒を禁止し、破った運転手は乗務禁止を課していました。

ある日、森永製菓の創業者である森永太一郎が別府の彼の旅館を滞在中に酒を注文しようとして断られたという逸話が残っています。それでも酒を出せとなおも食い下がる太一郎に向かって熊八は、「あなたは子供のための菓子を作っている会社の社長であるのに、酒が飲めないのかと悔しがるのはおかしい」と言い放ったといいます。

しかし、さすがにその後、旅館で禁酒はあまりにも客が可哀相だという意見が多くなったため、清酒は2合、ビールは1本を限度に提供を開始したそうです。

こうして熊八の事業はどんどんと発展していきましたが、1935年(昭和10年)3月に72歳で死去。

その後もしばらくは、亀の井自動車や亀の井ホテルは営業を続けていましたが、熊八が亡くなったあと借金の返済のために売り払われました。

いまでこそ観光地の売出しや開発に公費の支出が当たり前な時代ですが、この当時は現代とは違い、別府温泉の宣伝はすべて熊八個人の私財と借財でまかなわれていたため、死後その宣伝費用が補えなくなったことなどが原因のようです。

熊八は別府の観光開発において数々の斬新な取り組みを行ったアイデアマンとしても知られています。

上でも書いたように大阪と別府港を結ぶ定期航路の汽船を運航する大阪商船に掛け合い、汽船が接岸出来る専用桟橋を実現させたのをはじめとし、「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチフレーズを考案するなど、その生涯にわたって別府の宣伝に尽力しました。

このフレーズを刻んだ標柱を1925年に富士山山頂付近に建てたのをはじめ、全国各地に建てて回ったといい、また、別府市内・大分県内はもとより福岡・大阪・東京などの建設する予定はさらさら無いところにでも「別府温泉 亀の井ホテル建設予定地」の立て看板を、に立て別府を宣伝していたそうです。

自動車の発展を見越して、現在の九州横断道路(やまなみハイウェイ)の原型でもある、別府~湯布院~くじゅう高原~阿蘇~熊本~雲仙~長崎間の観光自動車道を提唱したのも彼であり、1925年(昭和元年)にはルート上の長者原に自らのホテルを開設しています。

さらにその翌年には別府ゴルフリンクスというゴルフ場を開き、温泉保養地とスポーツを組み合わせた新しいレジャーの形も提案しました。1927年に大阪毎日新聞主催で「日本新八景」が選ばれた際に、葉書を別府市民に配って組織的に投票を行い、別府を首位に導いたこともあったといいます。

繰り返しになりますが、1928年(昭和3年)に日本初の女性バスガイドによる案内つきの定期観光バスを考案し、これを使って別府地獄めぐりの運行を始めたほか、1931年(昭和6年)には手のひらの大きさを競う「全国大掌大会」を亀の井ホテルで開催するなど、次から次へとアイデアが沸いてくる人でした。

現在日本中で使われている「温泉マーク」を考案したのも彼であり、これは当初別府温泉のシンボルマークとして人々に愛用されたものが、全国に広がっていったものです。

その行動力と独創力に敬意をこめ別府観光の父・別府の恩人として慕われており、現在も別府市民らで「油屋熊八翁を偲ぶ会」が作られています。2007年11月1日には、その偉業を称えて大分みらい信用金庫(本社・別府市)の依頼により、別府駅前にブロンズ像が建てられたそうです。

そのブロンズ像は片足で両手を挙げ、熊八がまとうマントには小鬼が取りついているそうで、これは、制作した彫刻家・辻畑隆子氏によると、天国から舞い降りた熊八が「やあ!」と呼びかけているイメージとのことで、人々に愛されたユーモアたっぷりの故人の姿が目に浮かぶようです。

しかし、彼の墓は別府には設けられず、故郷の宇和島市の光国寺にあるということです。

さて、ずいぶんと寄り道をしてしまいました。熊八の話はこれくらいにして、「紅丸」の話に戻りましょう。

この船は就航の時点において、これまで瀬戸内海航路に使われていた船の中では最大を誇り、当初から乗客の好評を得ていました。

なかでも船内設備は従来船と比べて格段に優れており、一等船室はベッド付き、二等船室も絨毯が敷かれて「船室にいながら瀬戸内の風景が楽しめる」ことが一つの売りとなり、三等船室も「蚕棚」と呼ばれていた殺風景な寝台を廃止して畳敷きの大広間としました。

就航当初の「紅丸」の就航ダイヤは、大阪市内の端建蔵橋(はたてくらばし)の船着場を午前10時に出港し、神戸港には正午過ぎに入港、午後1時に神戸を出港して翌朝に高浜港に到着、午前8時に出港して午後1時ごろに別府港に到着するというものであり、電車がない時代にあってはかなり多くの人々が重宝したようです。

ところが、この当時、前述の別府港だけでなく、今は日本でも有数の港となっている神戸港ですら、「紅丸」が横付けできるだけの埠頭がなかったといいます。

このため、乗客はメリケン波止場から小型の蒸気船で沖に停泊する「紅丸」に向かわなければならず、このための時間ロスは大きかったようです。それでも従来別々の汽船を乗り継ぐ方式の従来ルートと比べて1日の短縮となりました。

また、「紅丸」の就航は別府と大阪の観光やインフラストラクチャーの面で大きな影響を与えました。

一つは、それまでは、単に九州の保養地に過ぎなかった別府に、「関西からの入湯客」が訪れるようになり、観光地としての格付けが上がったことであり、いま一つは、大阪商船が、手狭になった端建蔵橋から天保山に新しいターミナルを建設しなければならなくなったことでした。

この天保山客船ターミナルは、現在国際集客都市「大阪」の海の玄関口として整備され、毎年多くのクルーズ客船が寄港しています。ターミナルに隣接して、「天保山ハーバービレッジ」や天保山公園があり、特に客船が寄港した際には乗客や乗員、客船ファンなど多くの人々でにぎわうといいます。

1921年(大正10年)12月、大阪商船はこうした天保山ターミナルなどの整備の結果を受け、別府航路向けにより大型で、初めから専用船として建造された「紫丸」(1,586トン)を投入し、これによって「紅丸」は大阪徳島線に転じることになりました。

さらに1924年(大正13年)には、機関を最新型のディーゼル機関した二代目「くれなゐ丸」(1,540トン)が就航したことにより、初代「紅丸」は「鳴門丸」と改名します。

1932年(昭和7年)から始まった船舶改善助成施設では、船齢が30年を越えていた「鳴門丸」も一度は淘汰の対象となりました。船舶改善助成施設というのは、日本政府が1932年(昭和7年)から1936年(昭和11年)まで3次にわたって実施したスクラップアンドビルド方式の造船振興政策のことです。

老齢船解体を条件に優秀船の新造について補助金を交付することで、造船需要の増加を図るとともに、余剰船腹の圧縮と商船の質向上により海運を合理化することも目的としました。また、有事の商船徴用に備える軍事上の目的もありました。

1935年(昭和10年)には大阪商船も新造貨物船「かんべら丸」(6,477トン)を建造する代わりに紅丸を解体予定船としてリストアップしましたが、最終的には対象から外れました。

一方、1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦を経て、1942年(昭和17年)に大阪商船や他の船主の瀬戸内海航路を統合経営する「関西汽船」が設立されました。これは、大阪商船の内航部を分離し、宇和島運輸ほか5社と共同で設立されたものです。

このとき紅丸=鳴門丸の船籍も関西汽船に移りました。大阪商船は、その後1964年(昭和39年)に三井船舶と合併し、大阪商船三井船舶となり、現在は株式会社商船三井と呼ばれる会社になっています。

初代紅丸と同名の二代目「くれなゐ丸」はその後太平洋戦争のさなか、フィリピン沿岸航路に供出され、「くれなゐ丸」以降に建造された他の大阪商船の客船も陸海軍に徴傭されていきました。

このため、旧式の「鳴門丸(紅丸)」が別府航路に復帰しましたが、1945年(昭和20年)3月からの飢餓作戦により瀬戸内海にも機雷が投下され、ついに運航を停止せざるを得なくなりました。

「くれなゐ丸」は昭和18年からはマニラとセブ間の定期航路に就航し、運航から1年近く経った1944年(昭和19年)9月、アメリカ海軍空母の艦載機によって襲撃されて沈没しました。

鳴門丸に改名した紅丸も、大阪港停泊中の6月26日には空襲で至近弾を受けて損傷を生じましたが、8月15日の終戦を浮いたまま迎えることができました。しかし、それから1カ月経った9月18日に大阪港内で座礁沈没。

1946年(昭和21年)7月8日付の「神戸新聞」の記事では、大阪湾で沈没したままの船の一隻に入っており、記事掲載以降に引き揚げ・解体されたようです。

しかし、それから14年経った戦後の1960年には、三代目「くれない丸」が就航して、引き続き「紅」の名を世に残しました。造船所は新三菱重工神戸で、名前は「くれない」でしたが、イメージカラーはライトグリーンで、船体下部とファンネル(煙突)は同色に塗装されていました。

そして、この年、かつての紅丸のように、大阪港~神戸港~松山港~別府港を結ぶ別府航路に就航。このとき僚船として活躍したかつての「むらさき丸」も「くれない丸」の同型船として二代目復活し、ともに就航しました。

のちには更に僚船として「すみれ丸」「こはく丸」「あいぼり丸」「こばると丸」が次々と就航し、関西汽船の3000トン級クルーズ客船は、最大時6隻体制となりました。

この時期、「くれない丸」他5隻が就航していた別府航路(瀬戸内航路)は、阪神と九州を結ぶ観光路線として多くの新婚旅行客を別府温泉などへと運びました。

メインは2人部屋の一等客室であり、客船としては小型ではあるものの豪華で俊足を誇る優秀なクルーズ客船でした。

1961年に当時実験途上であったバルバス・バウと呼ばれる装備が取り付けられ、「むらさき丸」と比較するための併走実験も行われました。バルバス・バウは造波抵抗の低減に効果があると言われていた装置です。喫水線下の船首に設けた球状の突起であり、球状船首、船首バルブともいわれます。

その結果は良好でバルバス・バウによる高速化の効果が実証され、大阪港~別府港の航海時間は、急行列車にも引けを取らないおおむね14時間になりました。

こうした成果は、新しい時代の客船として広く世に知られるようになり、就航後3年を経た1964年6月には、河野一郎建設大臣と瀬戸内沿岸の知事・市長らによる「瀬戸内総合開発懇談会」が船上で開催されています。

しかし、他社による長距離フェリーの参入があったことに加え、その後1975年3月の山陽新幹線の岡山駅~博多駅間の開業により、別府航路の利用客は1979年にはピーク時の半分程度となり、「くれない丸」「むらさき丸」の乗船率も25%前後にまで下落しました。

1975年12月には、運行時間の変更が行われ、この変更によって両船の運行時間は景色を楽しめない夜行便となり、このことも人気の下落に拍車をかけました。

こうした情勢を受けて1980年に別府航路もまたフェリー化されることとなり、7000トン級フェリー船(旅客・自動車併載船)フェリーとして就航した「に志き丸」・「こがね丸」に航路を譲り、ここにくれない丸やむらさき丸は退役を強いられることになります。

こうして同航路は産業的輸送路線の色彩を強めまるところとなり、これ以降に建造された後続船は、搭載されるトラックのドライバー用船室のほか二等客室なども重視される設計となり、別府航路の格式は変化を余儀なくされていきます。

くれない丸は別府航路からの退役後は予備船となりましたが、その後関西汽船から佐世保重工業に売却され、しばらく係船されたのち、1988年スエヒログループ総帥の吉本日海が率いる日本シーラインによってレストランシップに改装され、その名も「ロイヤルウイング」と近代的な名前に改称されました。

同時に株式会社ロイヤルウイングが横浜市中区に設置され、同船を運航する企業となりました。そして2013年現在でも、横浜港大桟橋を母港とする横浜港東京湾クルーズ客船として同社により運営されています。

そのホームページをのぞいてみると、サービスとしては、ランチクルーズ・ディナークルーズなどがあり、これは乗船料2400円、ティークルーズ2000円と結構リーズナブルです。

ただし、食事をする場合は、食事代が別途必要であり、食事をしない場合はサンデッキのみの利用となるようです。バイキングを中心に、飲茶等が用意されており、中国飯店協会より最高料理人の認定を受けた蘇敬梨(ソケイリ)さんが総料理長を務めているそうです。

基本的に、毎日「ランチクルーズ」「ティークルーズ」「ディナークルーズ(2回)」があり、また、結婚式などの各種貸切プランも用意されています。このほかにも「記念日プラン」、「観光・デートプラン」など様々なプランがあり、季節行事などもいろいろあるようです。

総トン数2876トンという船腹はゆったりと海の上を過ごすには十分な大きさであり、オフィシャルHPによれば、

「ドアやカウンター、棚など、随所に木を使用した室内インテリアに、ダウンライトやピンスポットを効果的に配置したライティング、花々をモチーフにデザインされたタペストリーや絵、調度品の数々。窓からふりそそぐやわらかな自然光と相まって船内とは思えない洗練された落ち着きのある雰囲気」

だそうです。

関東地区で運航されているクルーズ客船の中ではかなり大きな船体を持つもののひとつであり、古い時代の姿を残している船として多くのテレビや映画での撮影に用いられているそうで、一度は乗ってみたいものです。

1911年(明治44年)に大阪商船が購入して運航した貨客船、紅丸の名前は失われてしまいましたが、その優美な姿はどこかその当時の面影を残しています。

別府を日本でも有数の観光地にした油屋熊八もまた、生きていたら乗ってみたがるに違いありません。

その姿を見るだけでもいい、という人は、神奈川県横浜港の大桟橋へ行かれると良いでしょう。2002年に完成したこの大桟橋は、船舶を係留するふ頭と国際客船ターミナルにより構成され、横浜港における国内及び外国航路の客船の主要発着埠頭でもあります。

横浜港の象徴的存在であると同時に、横浜市や横浜港における主要観光地としても知られており、ロイヤルウイング以外にも日本郵船のクルーズ客船である飛鳥IIの姿も見ることができるはずです。晴れた日に、散策気分でぜひ行ってみてください。

ちなみに、この大桟橋屋上のフリースペースは、大型客船の入出港時等は多くの見物客で賑わい、今や横浜の一大観光スポットとなっていますが、このスペースをより親しみやすい場所に育てるべく、2006年に横浜市港湾局が愛称を一般から公募しました。

その結果、大さん橋全体を大きなクジラに見立てる形での「くじらのせなか」という物が選定され、同年12月に公式な愛称として同港湾局より発表されました。

またその後、この愛称を派生させる形で、大さん橋の室内部分は「くじらのおなか」と呼ばれるようになっているそうです。ミニコンサート等のイベントが行われる場合、「くじらのおなかコンサート」といった呼称がつけられることもあるとか。

みなさんもぜひ、くじらの背中に乗り、おなかに入ってみてください。