先週末は、ひさびさに夫婦で東京に出て、夜から新宿で催された二人共通の高校時代の同窓会に出席してきました。
同窓生というのはいいもので、この年齢になるとそれぞれ所属する職場ではいっぱしの立場になっている人も多い中、そうした社会的な地位にはまったく気にせず忌憚ない話ができ、しかし気持ちはいつしか高校時代に戻っていて若い気分にもさせてくれ、齢を重ねたことを忘れさせてくれるのが不思議です。
延々と3時間ほどもそんなかんなでいろんな話をし、別れて宿に帰ったのは12時前。伊豆からのドライブに加えての大宴会に少々疲れてはいたものの、楽しかった一時期の余韻に浸りながら、ぐっすりとその夜は眠ることができました。
翌日は日曜日。天気はよくなかったものの、ざあざあ降りというほどでもなく、午後からは多少天気も回復しそう、ということなので、二人して鎌倉か横浜へでも出かけてみようか、という話になりました。
現在は伊豆の山奥に入り込んでいるので、そうした場所へ出かけるのはそうそうある機会でもなく、どちらにしようかと悩んだのですが、こんな天気の日にはしっとりとした雰囲気の鎌倉のほうがいいだろう、ということで、こちらを選びました。
行った先は、建長寺と円覚寺のふたつ。いずれもこの古都を代表する古刹です。場所的には北鎌倉にあり、建長寺のほうは、開基は鎌倉幕府第5代執権の北条時頼、円覚寺のほうは、第8代執権の北条時宗の創建ということで、いずれも北条氏ならびに鎌倉幕府とは切っても切り離せない縁のお寺です。
円覚寺のほうは、文永の役、すなわち元寇の際の戦没者の菩提を弔うために時頼が建てたものですが、その建設期間中、二度目の元寇である弘安の役も起き、このときの戦没者の慰霊も円覚寺の役目となりました。
建長寺のほうの落成はこれより25年ほど古い1253年で、当時の日本は、承久の乱を経て北条氏の権力基盤がようやく安定した時期でした。
この乱は、承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱で、この戦いに勝った鎌倉幕府は政治的に優勢となり、朝廷の権力は制限され、皇位継承などに影響力を持つようになりました。
その後京都の中央政府の支配力は相対的に弱まり、鎌倉が事実上、日本の首府となっていったわけですが、北条時頼は熱心な仏教信者であり禅宗に深く帰依していたことから、そんな自分の事業の集大成としてこの寺を建てたようです。
この時頼という人は、このように宗教心に厚いだけでなく、生活面でも質素かつ堅実だったといい、執権権力を強化する一方で、御家人や民衆に対して善政を敷いた事で、今でも名君として高く評価されているようです
一般の市民からも受けがよかったようで、後年の江戸時代に流行った「鉢の木」という能などにも登場し、ここでは時頼が諸国を旅して民情視察を行なったというエピソードが物語られています。
元祖水戸黄門のような人だったわけですが、庶民だけでなく幕府内においてもその手腕の評価が高かった人で、二度の元寇の対応においてもその才能をいかんなく発揮しましたが、文永の役を教訓として博多湾岸に現代も残る石塁を構築するなどして国防強化に専念したことで高い評価を得ました。
とくに石塁や警固番役には、御家人のみならず寺社本所領などの非御家人にも兵や兵糧の調達を実施したため、鎌倉幕府の西国における実質的な支配権が拡大したほか、京都に置かれていた六波羅探題に対しても、御家人の処罰権を与てその機能を強化させるなど、鎌倉幕府の基礎地盤を形成した人としても知られています。
その後長らく続く執権北条氏の鎌倉幕府におけるしっかりとした橋頭堡をその施政時代に築いたわけですが、その北条氏も、14代の高時の代にはかなり力が落ち、元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇が隠岐を脱出して挙兵すると、もともと鎌倉幕府御家人の筆頭であった足利高氏(尊氏)に寝返られ、彼は六波羅探題を攻略。
関東では上野国のこれもまた鎌倉幕府の御家人だった新田義貞が挙兵し、新田軍が鎌倉へ侵攻すると、第14代執権の北条高時、第15代、16代執権の貞顕、守時ら北条一族や家臣らは自刃して果て、ここに鎌倉幕府は終焉を迎えました。
この建長寺と円覚寺というのは、その執権北条氏がパトロンとなって造営した鎌倉時代最大級のお寺であるわけですが、双方ともその権勢を世にみせつけるために造られただけに、寺のあちこちには、北条氏の家紋である、三鱗(ミツウロコ)があしらわれています。
それは灯籠や寺内の仏具にしつらえてあったり、柱や梁などの建造物に刻まれていたりであるわけですが、この三鱗を北条氏の家紋に定めたのは、北条家の繁栄の元を創った北条時政です。
ご存知のとおり、源頼朝の妻の北条政子の実父です。頼朝が鎌倉幕府を開いたのち、鎌倉の西、およそ7kmに位置する江の島に参籠して、一族の繁栄を祈願しました。
この時、江ノ島弁財天に37日間祈り続けていたといい、そして祈りの終わりの日の夜明けのこと、その夢枕に赤袴の女性が現れて、「あなたの前世の徳で、あなたの子孫は日本の国主となります」と、お告げをすると二十丈(約60m)もある竜神に変身して海の中に去ったといいます。
実はこの龍は弁財天の化身だったといわれており、時政はこのときこの龍が残したという三つの鱗を大切に持ち帰り、以後、これを北条家の家紋にした、とされています。
この鱗紋は、その幾何学模様が魚やヘビの鱗の連なりに似ていることに由来するわけですが、ヘビというのは古来から神秘的な動物とされており、能においても白拍子が蛇に変化するシーンが出てくる、道成寺という舞台では、この蛇体の衣装に三角の鱗紋が取り入れられているそうです。
しかしこれ以外にはあまり一般的な紋とはいえず、北条氏以外にはほとんど使用されていません。大部分三つ鱗であるようですが、ほかにも一つ鱗や五つ、六つ、九つの鱗もあり、いずれも北条氏関連の氏族で使用されていたものです。
ただ、これらは正三角形のものや、縦長の三角であるのに対し、北条氏主流の鱗紋は、代々底辺が少し長い二等辺三角形であり、その微妙な差により、主流であるかないかががわかるそうです。
のちの戦国時代に伊豆から小田原、関東にかけての覇者となった、いわゆる後北条氏の北条早雲もまた、この正当派ミツウロコを継承しています。が、彼はこの北条一族とは何の縁もありません。この紋を用いることで自らをも北条氏と称し、この先代の北条氏の権力を継承したことを内外に示そうとしたわけです。
実はこの日、建長寺と円覚寺の訪問のあと、時政がその鱗を授かったというその江の島にも出かけました。そして改めて確認したのですが、ここにもあちらこちらに、これでもかというほどこのミツウロコがあしらってある建造物があり、改めて鎌倉から江の島に至る一帯が北条氏のテリトリーだったことを実感しました。
江の島といえば、サザンオールスターズの歌に代表されるように「湘南」を代表するモダンな観光地、という印象がありますが、その歴史は古く、伝承によれば、西暦552年に海底より塊砂を噴き出し、21日で島ができたと伝えられています。
が無論、んなわけはなく、約20000年前、元々は陸続きであったものが次第に侵食されて島となったもので、大昔には、引き潮の時に「洲鼻(すばな)」と呼ばれる砂嘴(さし)が現れて対岸の湘南海岸と地続きとなって歩いて渡ることができたといいます。
砂嘴というのは、トンボロとも呼ばれるもので、岸から少し離れたところにある島の背後や同じような場所に人工構造物を置くと、その背後に砂が収斂して貯まる現象です。これを応用したものを「離岸堤」といい、テトラポッドのような異形ブロックを積みかさね、その背後に砂が貯まることを期待して、侵食対策に使う、といったことが行われます。
江の島はいわば自然にできた離岸堤というわけで、その背後にも砂が貯まりやすいわけですが、関東大震災のときにはこの地震で島全体が隆起し、これ以降はさらにこの砂の高さが高くなったといいます。
現在も島全域が聖域として扱われていますが、江の島を開基したのは役小角(えんのおずの)がといわれ、これは672年(白鳳元年)だったという記録があります。
役小角は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者で、修験道の開祖とされており、人々を言葉で惑わしていると讒言され、伊豆大島に流罪になったとき、夜になると海を渡って富士山に登っていたという伝承がある人物です。
実在の人物ですが、ほかにも多くの修験道の霊場を開き、それらを修行の地としたという伝承があり、ここ江の島もその一つというわけです。
が、これは少々後世に脚色された話のような気配があり、伝承といえば、弘法大師、空海も814年(弘仁5年)に、江の島にある「金窟」という岩屋に参拝し、現在もある岩屋本宮(現奥津宮)を創建したともいわれています。
江の島には、この島の西方にある「奥津宮(おくつみや)」のほか、中央の「中津宮(なかつみや)」、北方の「辺津宮(へつみや)」を加えて3つの大きな神社があり、これを総称して「江島大神」と呼ばれています。
それぞれ、多紀理比賣命(タキリビメ)、市寸島比賣命(イチキシマヒメ)、田寸津比賣命(タギツヒメ)という女神さまを祀っており、タキリビメは、大国主命の娘さんで、「タキリ」とは海上の霧(きり)のことだそうです。
また、イチキシマヒメとタギツヒメは、いずれもアマテラスとスサノオの娘さんで、「イチキシマヒメ」の音からもわかるように、こちらは広島の厳島神社の祭神でもあります。「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとされています。
三人ともすべて厳島神社や江の島の祭神であるわけですが、これら三人の女神を単独で祀る神社は少なく、「三女神一柱」として祀られるのが通例で、江の島や厳島神社以外には、福岡の宗像神社などが有名です。
ただ、こうした祭神の位置付けは、明治になってからの神仏分離の際に改められたものであり、それ以前の江戸時代までは弁財天を祀っており、総称では江島弁天・江島明神と呼ばれていました。神社の名称も、岩屋本宮(現奥津宮)、上之宮(現中津宮)、下之宮(現辺津宮)という名称でした。
弁財天はもとは「弁才天」と書きました。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名であり、日本に入って来た仏教においては、吉祥天その他の様々な日本的な神の一面を吸収した存在となりました。
元来インドの「河神」であることから、日本でも、水辺、島、池、泉など水に深い関係のある場所に祀られることが多く、江の島もその例外ではありません。ほかにも弁天島や弁天池と名付けられた場所が数多くありますが、「才」の音が「財」に通じることから「弁財天」と書かれることが多くなり、財宝神として崇拝されるようになりました。
上述のイチキシマシメと同一視されることも多く、「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっています。
この江の島に弁財天を勧請したのは、853年(仁寿3年)の円仁(慈覚大師)ともいわれていますが、これもまた伝承の域を出ないようです。その後、1182年(寿永元年)に源頼朝の祈願により文覚という坊さんがこの弁才天を勧請したという記録が残っており、これが実質的な江の島神社の始まりと言えるでしょう。
その3年後の1185年(文治元年)には、頼朝はさらに現在の奥津宮に鳥居を奉納しており、そして、上述のとおり、この5年後の1190年(建久元年)には、北条時政もここに参籠して、このとき北条氏の「三鱗」の家紋と定めました。改めて私もこの三社に参り、そこここでこの北条氏の家紋があるのを確認したことは言うまでもありません。
実は、私自身はこれまでこの島に一度も上陸したことがありませんでした。仕事では、その対岸のいわゆる湘南海岸の侵食対策の計画や設計に携わり、おそらくは仕事では10回以上、プライベートでも少なくとも5回はこの地を訪ねているはずです。
しかし、たいていは時間に追われていて、対岸の藤沢市内での用が済むとその日のうちに東京に戻るというのが常であり、ついぞ島への上陸の機会に恵まれませんでした。
今回は午前中から、建長寺、円覚寺と北条氏ゆかりの古刹を訪れ、そのあとの午後の時間がぽっかりと空いたためこの初訪問が実現したわけですが、初めてのこの島の探訪は正直言って驚きの連続でした。
そもそも、江の島神社というものが三位一体の神様であるということも知らず、またその祭神が我々が結婚式を挙げた厳島神社と同じ方々だということも知りませんでしたから、その一致にまず驚きました。
加えて驚いたのは、その観光客の多さです。日曜日の午後ということもあったのでしょうが、奥津宮に至るまでの参道は人または人で、ごった返しており、またここに連なる店の多さとその賑わいぶりにもまたびっくり。
年齢層はといえば、我々と同様の年配の方もそれなりに多いのですが、意外や意外、若い人のほうが多く、ここはもしかしたら原宿かいな、と思えるほどであり、事実竹下通りを意識したような若者向けの小店も数多く見受けられました。
外国人旅行者らしい人達も多く、一番多かったのはやはり中国人のようで、これが台湾語なのか本土中国の言葉なのかはわかりませんが、あちこちでその黄色い声が響き渡り、このほか韓国語は無論のこと、英語、フランス語も飛び交って、なにやらここは日本ではないような気分にもなりました。
さらに驚いたのは、所詮は小さな島に過ぎないと思っていたところが、意外に広く、しかもアップダウンの激しい地形であり、かなり足腰が鍛えられたことでした。
調べてみると、標高は60mほどに過ぎないようですが、周囲は4kmほどもあるとのことで、凝灰砂岩の上に関東ローム層が乗る地質であることから地盤はしっかりしており、建築物は立てやすい土地条件のようです。
1923年(大正12年)の関東大震災のときの隆起で海面上に姿を現した「海蝕台」が現在の江の島のベースであり、海蝕台というのは、いわば海底にあった岩棚が隆起したものであり、もとから凸凹していたわけです。
標高は60mしかないにもかかわらず、このために島内各所のアップダウンが激しいわけであり、その合間あいまに構造物を建てられる場所を選んで、神社そのほかが建てられ、さらには、昭和に入ってからここに住まう人が急増しました。
一時期は1,000人を超える人が住んでおり、ピークは1955年(昭和30年)の1372人だったそうですが、その後は急減し、現在は島全体で360人を超える程度だそうです。それにしてもこの狭い観光地に人が住んでいるのがまさに奇跡のようでもあります。
島内各所にある観光スポットを巡る通路の両側にはこれに貼りつくように古い民家が並び、窓や入口からはその生活の息遣いが聞こえるような近さです。
1980年代頃から江の島では捨て猫が急増し、現在では至る所で多数の野良猫を見かけるようになったそうで、なるほど、あちこちでネコを見かけました。
猫好きな観光客や釣り人がエサを与えるなどしたため、ほとんどの猫は人を恐れず、島内の至る所で猫が無防備な姿でいます。猫好きの人間もよく訪れる「ネコの島」でもあるそうですが、たまたま我々が訪れたこの日は2月22日であり、ニャンニャンニャンで、ネコの日だったというのもご愛嬌です。
一部でこれらの野良猫を観光資源ととらえて新たな江の島名物とする動きがあるそうで、餌場を作り猫に餌を与えたりする一方で、野良猫に避妊手術を行うための募金活動を行ったり、全島に犬・猫を捨てないよう訴える看板を掲示するなど、これ以上野良猫が増えないような対策も並行的に進められているそうです。
ネコ以外では、島に当たって吹き上げる上昇気流に乗って旋回するトビの姿も目につきます。その昔はトビの餌になるのは多くは、江の島にある漁港などで発生する漁師の残した小魚でしたが、最近来客目当てに餌付けが進められ、これが名物にもなってきたそうです。
しかし、こうした人工的な餌に味を占めたトビは、弁当を広げる観光客を襲って、食べ物を横取りするようになったそうで、現在、被害が多発している場所には注意の看板が掲げられ、餌付けを名物にしていた飲食店でも、これを自粛しているといいます。
なぜか、リスも大量にいます。島内のあちこちに広がる照葉樹林帯では梢を渡るリスをあちこちで見かけますが、これは「タイワンリス」です。江の島にはそのむかし小動物園があり、ここに伊豆大島から連れてきた54匹のタイワンリスが飼育されていました。
ところが、台風で飼育小屋が壊れて逃げ出し、島内に拡がったようで、こちらも観光客寄せのために餌付けをする例も見られるようですが、小鳥の巣にいる雛や卵を食べたり、電線や電話線をかじるといった被害も出てきているといいます。
午前中に行った円覚寺でもリスを目撃しましたが、江の島だけでなく湘南海岸一帯のこの地域では最近このタイワンリスの繁殖がかなりの問題になりつつあるようです。
このように、本来神様の島であるはずの江の島は、今や観光客、一般住民に加え、ネコ、トビそれに加えてリスまで闊歩するというなんだかよくわからん世界になっているわけですが、こうした喧騒を抜け、島の最南端まで出ると、そこには別天地が広がっています。
島の周囲、とくに南側と西側は切り立った海蝕崖に囲まれ、ことに波浪の力を強く受ける島の南部には関東大震災の際に海底から隆起した海蝕台の名残をそのまま見ることができ、これは「波蝕台」ともいいます。南西部にある海蝕崖の下部には断層線などの弱線に沿って波浪による侵食が進み、「海蝕洞」が見られる場所があり、「岩屋」と呼ばれています。
古来、金窟、龍窟、蓬莱洞、神窟、本宮岩屋、龍穴、神洞などさまざまな名で呼ばれており、宗教的な修行の場、あるいは聖地として崇められてきたといい、富士山風穴をはじめ、関東各地の洞穴と奥で繋がっているという伝説があるそうです。
江の島参詣の最終目的地と位置づけられ、多くの参詣者、観光客を引きつけてきましたが、1971年(昭和46年)に崩落事故が起き、以来立ち入り禁止措置がとられていました。その後藤沢市によって安全化改修され、1993年(平成5年)から第一岩屋と第二岩屋が有料の観光施設(入場料500円)として公開されています。
島の南西端の幅50mほどの隆起海食台は、通称「稚児ヶ淵」と呼ばれています。鎌倉にある相承院という寺の白菊という稚児と、建長寺の坊さんが相次いで身を投げたとする話に基づいて名付けられたといいますが、本当の話かどうかはわかりません。
大島、伊豆半島、富士山が一望でき、1979年(昭和54年)かながわ景勝50選の一つに選ばれており、磯釣りのスポットとしても知られています。
この江の島は、地図などで全体的にみると、奥津宮のある南西部の一部が分離しているように見えます。これは波による侵食が著しく、海蝕洞が崩壊し、大きな谷状の地形となっているためです。南北から侵食が進んで島を分断するような地形となっており、このためこの谷の左右の地形を総称して「山二つ」と呼ばれています。
これより東部を「東山」、西部を「西山」と地元民は呼ぶようですが、この東山の一角には、「コッキング苑」という園地があり、この中央には、江の島展望灯台、通称「江の島シーキャンドル」があります。
その昔ここには「平和塔」という、旧灯台がありました。これは江ノ島鎌倉観光という観光会社が東京の二子玉川の読売遊園(後の二子玉川園)にあった落下傘塔を江の島植物園内に移築し、「読売平和塔」という展望台を兼ねた民間灯台を建設したものです。
戦時中は陸軍が落下傘練習塔として利用したもので、平和塔が展望灯台と呼ばれるようになった昭和30年代には、江ノ島大橋の開通に伴い自動車の乗り入れが可能になったことに加え、大島・熱海航路が開設されたことなどにより、行楽地として江の島の人気は急上昇し、この展望灯台も対岸から見る景観に欠かせぬ存在としてシンボル化されていきました。
私もこの古い灯台をなんとなく覚えているのですが、記憶があいまいなので、検索してみるとありましたありました。以下のようで、少しだけ現在ものよりは小さかったようです。
これが2002年に取り壊され、江ノ島電鉄が翌年に完成させたのがシーキャンドルで、読売平和塔であった民間灯台という地位を引き継ぎ、現在も「観光用民間灯台」です。
民間灯台といっても、実際に船舶通航のための目標物として使われており、実効光度390,000カンデラ、単閃白色が毎10秒に1閃光で、23.0海里(46km)でまで届くといい、民間灯台としては国内最大級。建物の高さは59.8m(避雷針迄)、海面から120mもあります。
展望台からは遮られることのない360度の展望が楽しめ、気象条件が良ければ筑波山が見えるはずだといいますが、この日はあいにくの天気だったため、登塔しませんでした。
夕方になると、灯台の光だけでなく、発光ダイオード(LED)を用いたライトアップが行われており、これがシーキャンドルと呼ばれるゆえんです。時折ライブなどのイベント会場となるほか、この展望灯台の根元には藤沢市の郷土資料館があって、旧灯台の資料や江の島の古写真などが展示されているそうです。
ただ、上述の「コッキング苑」内に入らないと昇れないようでもあり(確認しませんでしたが有料?)、この日は夕方かなり遅くなっていたこともあり、今回の入園は断念しました。
このコッキング苑というのは、東山頂上部一帯にその昔あった旧江の島植物園をリニューアルし、上述のシーキャンドルの開業に合わせて2003年にオープンした藤沢市立の公園です。正式名称は「江の島サムエル・コッキング苑」といいます。
サムエル・コッキングというのは、1869年(明治2年)に来日し、横浜に住んだアイルランド人貿易商です。この地に別荘と庭園の造営を行い、ここで多くの熱帯植物を収集栽培しましたが、関東大震災の際この施設も破壊され、その後荒廃しました。
しかし、コッキングの収集した熱帯植物のいくつかは成長、繁殖を続け、現存するそうで、そのうち4種は藤沢市の天然記念物に指定されています。
このコッキングが創ったという温室は、その遺構が残っており、その跡地に作られた植物園の地下に埋め込まれたものが、2002年のリニューアル工事の際に再発見され、整備されました。
非公開ですが、時折公開されることもあるそうです。その遺構は3棟の温室の名残であるレンガ造りの基礎、西洋風の池の名残や、ボイラー室、貯炭庫、植物や暖房のために水を蓄えた貯水槽、温室と付属施設とを結ぶ地下通路などなどであり、ふだんは閉鎖されていますが、年に数回特別なイベントがあるときだけ公開され、内部を見学できるそうです。
コッキングという人は、アイルランドに生まれましたが、幼いころ両親とともにオーストラリアに移住してここで育っており、27歳のとき貿易商を志し、明治2年に来日。2年後にコッキング商会を設立し、この年に流行したコレラの消毒薬として石炭酸を大量に輸入して大儲けしました。
来日して3年後に日本人女性と結婚しており、明治10年にこの江の島頂上部の土地500坪余をこの妻名義で購入し、別荘を建築しました。その別荘の向かいに所在していた江島神社の所有地を買い取り、庭園の造営を開始したわけですが、その後横浜でも石鹸工場を開設するなど手広い商売を続け、明治20年には、外国人居留地内に発電所まで開設しています。
明治39年頃、取引先の英国の銀行の倒産に伴って、事業縮小を余儀なくされますが、この庭園を手放したのはこのころのことでしょう。1914年(大正3年)横浜市平沼の自宅にて逝去。享年72歳。奇しくも亡くなったのはあさって、2月26日です。
来日の際、折からの低気圧の影響で嵐に襲われ、避難したこの江の島の相模湾に浮かぶ緑の美しさが印象深かったことが、後に江の島に別荘を構えるきっかけになったといい、そのころの江の島は今のようにまだ開発されておらず、光り輝いていたことでしょう。
そんな江の島を後にしてこの日は北条家の故郷、伊豆へ帰っていったわけですが、その帰路、湘南バイパスをクルマで走らせながら、かつて北条時政もまた江の島参りの際、この道を通っただろうか、とその時代に思いを馳せていました。
確認はしていないのですが、その時政の菩提寺であり墓もある、伊豆長岡の願成就院にもおそらくミツウロコはあるはずであり、もしかしたらこの地に点在する他の北条氏ゆかりの寺院にも同じものをみつけることができるかもしれません。
伊豆から江の島を通り、鎌倉に至る道を勝手ながらミツウロコの道、と呼ばせていただき、今後また機会あればこの道を辿ってみたいと思います。