松前のこと

ハッと気がつくともう9月です。

今年は梅雨が長かったので、いつもよりも夏は短いはずなのですが、そのかわりに暑い日が多く、うんざりしてしまいます。

私は暑いのが苦手で、夏がない場所に引っ越したいと思い、移住先として北海道を考えたこともあります。

北海道は懐かしい土地です。その昔、サケマス類の保護の調査でよく出かけていました。帯広や釧路といった拠点都市に空路で行くのですが、そうした町の中心部からちょっと郊外へ出ると、ほとんどが手つかずの大地です。そこはその昔、蝦夷(えぞ)と呼ばれていた時代からそう大きくは変わってはいないと思われます。

彼の地に住んだ原住民はかつて「えみし」と呼ばれていました。漢字は同じく「蝦夷」が使われますが、古くは愛瀰詩とも書き、次に毛人と表され、ともに「えみし」と読まれました。後に「えびす」とも呼ばれる時代もありましたが、これは「えみし」からの転訛と考えられます。

11世紀か12世紀には、えみしに代わって「えぞ」とも呼ばれるようになりましたが、この呼称を使うときは、アイヌを意味することが多くなったようです。アイヌはえぞの一族のひとつにすぎないという説もあるようですが、アイヌとえぞとの関連については未だに定説はないようです。ただ、日本史学において、一応えぞとアイヌは区別して考えられています。

この蝦夷が住む北海道の地もまたのちに、蝦夷が島(夷島)、蝦夷地(えぞち)などと呼ばれるようになっていきますが、そのうち、単にエゾとだけ呼ばれるようにもなりました。

蝦夷に住まうアイヌたちは当初、農耕を生活の柱としていましたが、次第に狩猟・漁業を主な生業とするようになり、獲れた魚や毛皮を日本人(和人)に売って鉄を得るといった交易を行うようになっていきます。

鎌倉時代以降になると、和人の蝦夷地への進出が進み、どくに蝦夷南部(現在の道南地方)では、後の松前藩の系譜につながる和人たちの活発な活動が見られるようになっていきました。とくに「安東氏」とよばれる津軽地方を本拠地としていた豪族の蝦夷への進出が目立つようになっていきます。




安東氏は鎌倉時代末期から南北朝時代に隆盛を誇った一族で、元々陸奥津軽十三湊付近を根拠地としていました。これは現在の津軽半島の北西部に位置する十三湖の西岸に位置する場所です。その所領は畿内や関東など本州中央部の武士団のものと比べてもかなり広大なものでした。

安東氏はここを拠点として蝦夷地との海上交通に従事し、交易によって大きな利益をあげていましたが、彼らが築いた独自国家の影響力が蝦夷地にも及んでいることを京や鎌倉などの中央政権も薄々と感づいていたようです。

やがてその拠点も津軽海峡を跨いで蝦夷地に求めるようになり、14世紀初頭には、夷島南部に家臣を移配させました。彼らは渡党(わたりとう)とよばれており、これは家内の有力者たちを現地に赴かせ、交易の責任者としたものです。

渡党を支配していた安東氏は、このころまだ「安藤」と称していたようです。安藤氏は、鎌倉時代のころに陸奥国(現在の福島、宮城、岩手、青森)・出羽国(現在の秋田・山形)などの東北部に勢力を張った武士の氏族ですが、室町時代中期以降は「安東」を名乗ることが多くなっていったようです。

安藤から変えて安東を名乗るようになった家々の系譜は諸系図によりまちまちであって、その実体についてはいまだ研究の途上にあります。しかし、応永21年(1414年)に没したとされる「安藤盛季(もりすえ)」をもってこれを安東家の祖とする研究成果が有力視されています。

安東と蠣崎の時代

この安東(安藤)盛季は、その代に一族の所領を現青森県地方だけでなく蝦夷南部にも広げ、さらに内地でも出羽秋田まで勢力を拡げました。その子の康季(やすすえ)の時代には後花園天皇からも「奥州十三湊日之本将軍」と呼ばれるほどに認められ、さらに勢威を振るうようになります。

この安東家2代は「康季(やすすえ)」といいました。この康季の代に安東家は二つの流派に分かれます。ひとつは津軽(青森)から下って南部にある秋田郡(現秋田県)に拠った一族で「上国家(かみのくにけ)」を称し、これに対して、津軽に残った惣領家は下国家(しものくにけ)を称するようになりました。

この津軽下国家はその後5代にわたって続き、南北朝時代には南北両朝の間を巧みに立ち回り、本領の維持拡大に努めました。一方の上国家は、秋田郡を拠点として出羽小鹿島(男鹿半島)や出羽湊(現・秋田県秋田市)を領し、後に秋田郡全体を制して秋田城介(あきたじょうのすけ)と呼ばれる国司を自称しました。

この下国・上国の二家は相対しながらも檜山郡(現秋田北部)と秋田郡(現その他の秋田)とを分け合い、それぞれ陸奥国北辺と出羽国北辺を所領として開拓しつつ、海を隔てた蝦夷地にも進出して、朝廷(鎌倉幕府)から彼の地の管領の役割をも果たすよう命ぜられる身分になっていきます。

その後、安東家の2代当主康季の子、安東義季(よしすえ)は、下国安東家を率いる身となりましたが、その代に南部氏(現青森から岩手を拠点とする豪族)との抗争に敗れ戦死し、ここに安東氏直系の下国家は一旦絶えます。しかしすぐにその後再興を計る者が現れました。

安東家初代盛季の弟は、潮潟四郎道貞(みちさだ)といい、その子重季(しげすえ)の子であった師季(もろすえ)がそれです。戦死した義季の養子を名乗り、下国家の再興を計ろうとし、その後、師季を改めて安東政季(まさすえ)と称するようになりました。

ところが、この政季もまた南部氏との戦いで破れます。このとき、のちに陪臣となる武田信広とともに下国家の勢力圏であった蝦夷地に渡り、そこで被官者であり娘婿でもあった上ノ国は花沢館に住む蠣崎季繁(かきざきすえしげ)のところに身を寄せました。上ノ国は現在の渡島半島西部にあたる場所で、花沢館は季繁が拠点とする館です。




これが1454年(享徳3年)のことで、このころといえば、室町幕府から分派した鎌倉府が次第に幕府から独立した行動を取り始めるようになっていました。

翌年の享徳4年(1455年)には、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となっています。室町幕府滅亡に先立つこと20年ほど前のことであり、既に戦国時代の様相を見せ始めていた時代です。

この武田信広というのは、安東家の系譜の出ではなく、若狭の国(現福井県西部)の人です。永享3年(1431年)2月1日、若狭国の守護大名・武田信賢の子として若狭小浜青井山城で誕生。宝徳3年(1452年)、21歳の時に家子の佐々木三郎兵衛門尉繁綱、郎党の工藤九郎左衛門尉祐長ほか侍3名を連れて夜陰に乗じて若狭を出奔したとされます。

その理由は家督争いです。信広の父・信賢は家督を弟・国信に譲る際に、自身の子である信広にゆくゆくは家長にしたいと考えて、国信の養子にさせました。しかし、間もなく実子・信親が誕生したことで、信広の居場所がなくなります。また、信広は実父・信賢とも仲が悪く対立していたといわれ、孤立無援となったのが原因といわれています。

しばらくは義父・武田国信が加担する古河公方、足利成氏(鎌倉幕府と敵対していた)の下に身を寄せていましたが、この年の内に、同じく国信の敵方である三戸(さんのへ)の南部光政の下へ移りました。さらには陸奥宇曽利(現下北半島)に移住し、南部家の領分から田名部・蠣崎の知行を許され、ここに「蠣崎武田氏」を名乗るようになります。

上で述べた蝦夷地の蠣崎(季繁)はこの田名部の蠣崎氏と同姓であることから、同じルーツを持つ親戚筋の豪族かと考えられます。信広は享徳3年(1454年)、上の安東政季を奉じて南部大畑より蝦夷地に渡り、田名部蠣崎家の縁者である蠣崎季繁のところに身を寄せるようになります。

この武田信広と安東政季の出会いについては筆者の元にこれを語る資料がありません。どのようにして行動を共にするようになったのかはよくわからないのですが、同じ負け組、ということで境遇の似たところもあり、お互い惹かれあうものがあったのかもしれません。

信広は、のちに安東政季の娘を妻に迎えており、安東家との結束を強めようとしていたと考えらえます。力関係としては、安東家は北の雄であり、対する信広はいわば流浪の身であったことから、当然、当初から信広は政季に臣下の礼をとっていたでしょう。

こうして蝦夷に渡った主従ですが、信広はその後、季繁に気に入られてその婿養子となり、武田の名を捨てて、「蠣崎」を名乗るにようになりました。

実はこのとき結婚した相手は安東政季の娘です。政季が蠣崎家に養子に出していた子で、この婚姻によって安東家と蠣崎家、そして武田家の絆はより強いものとなりました。康正2年(1456年)には信広とこの政季の娘との間に嫡男・光広が生まれています。

蠣崎氏を継承して蠣崎信広を名乗るようになった信広は、安東家との絆を保ちつつやがてこの地、蝦夷南部で勢力を伸ばすようになります。

配下の武将を渡島半島の12の館に配置してその礎を固めまるとともに、みずからもそのひとつを拠点とし、これを「花沢館」と称しました。また義父である蠣崎季繁には、茂館や大館などの主要館の管理者の統治を任せるようになりました。

現在、これらの館は「道南十二館」と呼ばれて史跡になっています。東は函館市に所在する志苔館から西の上ノ国町の花沢館まで、渡島半島南端の海岸線各地に分布している城跡です。安東氏の被官である館主たちはこれらの館を拠点として、アイヌ民族や和人商人との交易や領域支配を進め、蝦夷南部を支配していきました。




しかし、そうした勢力の拡大は原住民であるアイヌの反感を強くし、軋轢を深めていくことにもなりました。翌1457年(長禄元年)には、東部の首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、和人に向け戦端を開きます。コシャマインは渡島半島東部のアイヌの首領で、当て字として「胡奢魔犬」が用いられていました。

コシャマインの戦いと呼ばれるこの争いのきっかけは、あるアイヌの男性が和人の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したことだったとされます。品質と価格について争いが発生し、怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌの男性を刺殺したことで、争いは大きくなりました。

このとき怒ったアイヌ勢の侵攻はすさまじく、奇襲攻撃によって政季が支配する十二館のうち10までが落城します。

攻撃を受けた武士たちはさらに追い詰められましたが、翌1458年(長禄2年)に季繁の旗下で戦う信広が武士達をまとめあげて大反撃に打って出ると、アイヌ軍は次々と敗退していきました。信広は、七重浜という海岸まで彼らを追い詰め、コシャマイン父子を射殺して首を取りました。

この功績が安東家に認められ、蠣崎氏による蝦夷地における地位は決定的となりましたが、以降もアイヌとの戦いは散発し、その都度十二館が交戦拠点となりました。

しかしその後アイヌとの関係もある程度改善されるようになり、交易も復活します。文明7年(1475年)ころまでにはその範囲を樺太にまで広めるようになり、樺太アイヌの首長から貢物を献上されるなど蝦夷地全体に影響力を及ぼすようになります。

とはいえ、アイヌとの完全な和解が成し遂げられたわけではなく、1512年(永正9年)には再び大規模な争いが起きました。このときは蝦夷地東部の村長であったショヤ(庶野)、コウジ(訇時)兄弟率いるアイヌが蜂起し、数カ所の館を襲撃しました。

この戦いは二人の兄弟の名をとって後世、ショヤコウジ兄弟の戦いと呼ばれるようになったものですが、渡島半島南西部を支配する蠣崎氏に対するアイヌの不満が爆発したものです。

信広の子の蠣崎光広はこのころ幕府(室町幕府)から上国守護職を拝領するようになっており、本家である安東家を凌駕する勢いを持ち始めていました。その子である義広とともに蠣崎家のメンツをかけてこれを撃退しようと出撃します。

しかし開戦当初から劣勢に立たされたため、光広は一計を計り、和睦を装って酒宴を開き自らの本拠地である松前大館へショヤコウジ兄弟を招きました。そこで兄弟らを酒に酔わせ、宝物を差し出すふりをして兄弟らを油断させ、また木槌の音を鳴らさせて騙し討ちの準備に気付かれないようにしました。

そして隙を見て仕掛けのついた戸の裏から飛び出して兄弟らを襲撃。光広によってショヤコウジ兄弟は斬殺され、他のアイヌも蠣崎氏の軍勢により皆殺しにされました。この時光広が用いた刀は、父信広が蠣崎季繁から受け取った家宝「来国俊(らいくにとし)」であったといいます。

2人の首長をはじめ殺されたアイヌたちは館の近くに埋められ、そこに塚が築かれて「夷塚」と呼ばれるようになりました。のちにアイヌとの講和(商舶往還の法度)が成立する5代蠣崎当主季広(義広の息子)の代まで、アイヌに対して蠣崎氏の軍勢が出撃しようとすると、その塚からかすかに声が聞こえたといいます。

このアイヌとの戦いでは、松前大館が陥落しました。ここは素行の悪い当主、安東恒季に代わって家臣の中でも重鎮の相原季胤が守っていましたが、相原もまた討ち取られるなどの被害が出るなどして、大舘は戦後一時期空き城となっていました。



その後、1514年(永正11年)には信広の子の蠣崎光広がここに入城します。ただ光広は、父の代に松前の花沢館のすぐ側に建てられ、より強固な城になっていた勝山館に本拠を移転したいと考えていました。

ところが、このころから安東家と蠣崎家との間に微妙な空気が流れ始めていました。安東家としては蝦夷地において蠣崎の勢力がこれ以上増大することを快く思ってはおらず、自分たちの勢力が脅かされることを懸念し始めていたのです。このため、安東としては当初、光広の勝山館入封を認めませんでした。

しかし、蠣崎氏からの再三に及ぶ要請を受けてこれを認めるとともに、蠣崎氏がそれまで奉じていた上国守護職に加えて松前守護職への就任も追認します。さらには蠣崎氏に蝦夷地を訪れる和人の商船から運上を徴収することをも認めました。

そこまでの譲歩をしたのは、これによって蠣崎が得た利益の上前をはねるためです。数々の便宜を図ってやる代わりに、彼らが得た運上の過半を安東家の拠点のあった内地・上国の檜山(現秋田県能代市)に送ることを彼らに命じました。

とはいえ、こうした優遇政策によって蠣崎家の勢いは主家の安東家を上回るようになっていき、松前大館や勝山館に拠る蠣崎氏の勢力は他の館主に優越する体制が固まりました。そしてやがて、従来蝦夷南部においては安東家の下にあって一派にすぎなかった蠣崎氏による他の館主の被官化が進んでいくようになります。

松前藩の成立

南北朝時代が終わって戦国時代に入り、下克上の世の中になると、さらに蠣崎家の勢力は強まり、東北北部から蝦夷南部に影響力をもっていた主家である上国安東氏から実質的に自立の傾向を見せるようになります。

蠣崎家はまた、アイヌの慰撫・調略も進めました。光弘の子、蠣崎義広(4代)の時代にはアイヌの酋長・タリコナを謀殺しました。また、その子の蠣崎季広(すえひろ)の時代には13人の娘を安東氏などそれぞれの奥州諸大名に嫁がせて政治的な連携をはかり、戦国大名としての地位を築き上げていきました。

蠣崎季広(5代)の子・蠣崎慶広(よしひろ・6代)の代には上洛して、天下を平定した豊臣秀吉(関白、太閤)に拝謁することで本領を安堵されました。これによって秋田を拠点とする旧惣領家である上国家安東氏から名実ともに独立する事になりました。

天正19年(1591年)には、秀吉の命に応じて九戸政実の乱に多数のアイヌを動員して参陣。これは南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直と奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱です。蠣崎慶広は国侍として討伐軍へ参加し、このとき旗下のアイヌが用いた毒矢が大変な威力を発揮したことが「三河後風土記」に記されています。

秀吉の死後、蠣崎慶広は徳川家康に接近して慶長4年(1599年)、姓名をアイヌ語「マトマエ」由来の地名である「松前」に因んで「松前慶広」に改めました。その後長きにわたって世に名を遺すことになる松前家の誕生です。

その後、慶長8年(1603年)徳川家康は征夷大将軍の宣下を受けました。これによって征夷大将軍のお墨付きを得るところとなり、松前と改めた蠣崎氏はその後の江戸時代を生き抜くことに成功しました。

蠣崎家は江戸初期には「蝦夷島主」として客臣扱いでしたが、5代将軍徳川綱吉の頃には、交代寄合(所領に住み江戸へ参勤交代を行う)に列されて旗本待遇になりました。

さらに、享保4年(1719年)からは1万石格の柳間詰めの大名となりました。当時の蝦夷地では稲作が不可能だったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは名ばかりの格に過ぎませんでした。しかし、松前藩はこれとは別途交易によって大きな収益を得ていました。

慶長9年(1604年)に家康から松前慶広に発給された黒印状には、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認める旨の記載があります。このころ松前藩では、蝦夷地に藩主自らが交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)を割り当てて、そこに交易船を送る権利を認めるという形で与えていました。

これにより、松前藩の家臣は交易権を商人に与えて運上金を得るようになり、場所請負制が広まります。18世紀後半には藩主の直営地も場所請負となり、請け負った商人はさらに、出稼ぎの日本人と現地のアイヌを働かせて漁業に従事させるなどして利益を出していました。

松前藩はまた、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとり始めました。

江戸時代のはじめまでは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていましたが、松前藩がこの政策をとったことから両者の往来に関しては次第に取り締まりが厳しくなっていきました。結果、アイヌとの交易においては松前藩の寡占が続くようになります。



一方、松前藩の直接支配の地である和人地の中心産業はこのころはまだ漁業でしたが、やがてニシンが不漁になり、収益が上がらなりました。そこで松前藩は蝦夷地と和人地の間の通交制限を緩和し、逆に蝦夷地へ和人が出稼ぎしやすくなる環境を構築しました。

漁業に代わって彼らの収入源になったのは林業でした。松前藩は和人の山師たちにヒノキが繁茂する森林地帯では樹皮剥ぎや稚木伐採を禁止し、また野火を放つことを禁じる等の天然林の保護策を定めました。その一方で、アスナロ等の材木切り出させ、これを使った造船で収益を上げるとともに他藩との交易のために活用しました。

さらに伐採を出願制としたことから他藩からも山師が訪れるようになり、こうした山師には伐採のたびに運上金を課したため、これも大きな収入源となりました。

さらなる山師の要望に応えて、池尻別・沙流久寿里(釧路)厚岸・夕張・石狩等におけるエゾマツの伐採が許可されると、伐採されたエゾマツは、石狩川等の川を下って石狩川口から本島へ船で運ばれました。これらの木材は江戸や大阪で障子や曲物へと加工されましたが、その材質の高さが高く評価され、広く流通しました。

こうした林業による収入によって藩の財政は潤い、城下町の松前は天保4年(1833年)までに人口1万人を超える都市となり、繁栄していきました。

このころから松前藩の財政と蝦夷地支配の根幹は、大商人に握られるようになっていきます。商人の経営によって、林業から得る利益は莫大なものとなり、と同時に鰊、鮭、昆布など北方の海産物の生産も大きく拡大しました。ただ、それ以前からある熊皮、鷹羽などの希少特産物の生産は逆に減り、交易の対象ではなくなってきました。

一方、生活物資の中心となる米は、あいかわらず蝦夷地での生産が十分ではなく、このため対岸の弘前藩から独占的な供給を受ける取り決めが結ばれていました。ところが1782年から深刻化した天明の大飢饉の期間は輸送が途絶、弘前から米がこなくなったため、大坂からの回送船による米の輸送が行われるようになります。

米だけでなく酒や砂糖、瀬戸内海各地の塩(漁獲物の塩漬けに不可欠)、日常生活品(衣服や煙草、紙、蝋燭、藁製品(縄や筵)など西方で生産された物資が蝦夷地で流通するようになり、これは、従来疎遠だった西日本側と蝦夷との結びつきを深めてゆく起因となりました。

このように松前藩がアイヌや西方諸国と活発な交易を行っているという情報は薩摩や琉球など諸外国と密貿易を行っていた国々にも伝わっていました。このため、やがて蝦夷地の存在は諸外国にも知られるようになっていきます。その結果、18世紀半ばにはロシア人が千島を南下してアイヌと接触するようになりました。

松前藩も当然そうした事実を知ってはいましたが、幕府に対してはロシア人の存在を秘密にしていました。しかしやがて幕府もまたロシアの南下を知るところとなり、天明5年(1785年)からは調査のための人員をしばしば派遣するようになっていきました。

そんな中、寛政11年(1799年)には、国防上のため、という理由から、幕府は蝦夷地の大半を取り上げます。その後文化4年(1807年)には西蝦夷地も取り上げ、松前藩は陸奥国伊達郡梁川に9千石で転封の憂き目をみました。

しかしそれから14年後の文政4年(1821年)には、幕府の政策転換により蝦夷地一円の支配を戻され、松前復帰が実現しました。

藩を挙げての幕閣重鎮に対する表裏に渡る働きかけが功を奏したためだと思われますが、その一方で、松前藩はこのころから北方警備の役割を担わされるようになりました。幕府としては、松前藩に蝦夷を返す代わりに、諸外国からの攻撃の盾の役割を担わそうと考えていた節があります。

幕末の動乱

このころの藩主は、12代松前崇広(たかひろ)です。文政12年(1829年)11月15日、9代藩主・松前章広の六男として福山館(旧大館)にて誕生。幼少期は武術、とくに馬術を得意とし、また藩内外の学識経験者を招聘して蘭学、英語、兵学を学んだ英才でした。

さらには西洋事情、西洋の文物に強い関心を抱き、電気機器、写真、理化学に関する器械を使用するなど、西洋通でした。嘉永2年(1849年)に幕府の命令で松前城の築城に着手し、安政元年(1854年)10月に完成させたのもこの松前崇広です。

この松前城は、公式には福山城と呼ばれていましたが、備後国にも福山城があり、これとの混同を避けるため松前城とも称されることが多くなりました。天守閣持ちの伝統的な建築技法を使った城としては江戸時代最後の城です。

その前身の福山館は、松前慶広の代に、松前氏が居城としていた大館(徳山館)を福山へ移城した際、1600年(慶長5年)から1606年(慶長11年)にかけて建設されました。

福山館には堀や石垣があり、本丸のほか二ノ丸、北ノ丸、櫓が築かれるなど、ほとんど城と言ってよいほどの規模でしたが、松前氏が無城待遇だったことから、正式に城とは呼ばれていませんでした。

完成した新しい城は、これにさらに手を加えたもので本丸から三の丸まで総面積21,074坪もあり、三重櫓、二重櫓、太鼓櫓が建てられました。

城の強化のため、外郭石垣の輪郭を大きくし、さらに内側には二重の石垣を設置。建物の壁も、その外側に落とし板が付けられました。また旧式城郭として異例の砲台が三の丸に7つ置かれ、城のほかにも海岸砲台が16砲台33門も据え付けられていました。



この松前崇広の代には、日米和親条約によって箱館が開港されています。幕府は再度蝦夷地の直轄化を目論み、安政2年(1855年)に乙部村(現乙部町・江差近辺)以北、木古内村(現箱館近辺)以東の蝦夷地をふたたび召し上げ、松前藩の蝦夷における領地は渡島半島南西部だけとなってしまいました。

ただその代わりに陸奥国梁川と出羽国村山郡東根に合わせて3万石が与えられ、また出羽国村山郡尾花沢1万4千石が込高として預かり地とされ、これら合計およそ4万石余に加え別途手当金として年1万8千両が支給されました。しかしこれらより余程に儲かる蝦夷地の交易権を失ったために、松前藩の財政は以前より厳しいものとなってしまいました。

一方、幕府は西洋通の崇広を文久3年(1863年)に寺社奉行に起用します。寺社奉行はいわゆる三奉行の1つで、老中所轄に過ぎない勘定奉行・町奉行とは別格で、三奉行の中でも筆頭格といわれていました。任ぜられた者はその後大阪城代や京都所司代といった重役に就くこともあり、最終的に老中まで昇り詰めることあってエリートの証でもありました。

松前崇広

(1864年(元治元年)頃。翌年老中にもなり、 開明的で英語も話せた彼は将軍家茂の信任を得て外国との交渉にもあたった。)

元治元年(1864年)、崇広はさらに老中格兼陸海軍総奉行となり、同年11月10日は老中にまで上り詰めました。松前崇広が老中に就任すると、乙部から熊石まで8ケ村が松前藩に戻されましたが、上知や新興の箱館の繁栄のせいで、松前藩の経済状態は苦しく松前城下に住まう藩士や民の生活レベルも低いままで据え置かれていました。

その後、大政奉還と王政復古がなされ、徳川幕府と新政府との対立が現実のものとなると、松前崇広は慶応元年(1865年)の第二次長州征討に徳川家茂の供をして京都、ついで大坂に至り、その後陸軍兼海軍総裁となりました。

この当時、幕府は英・米・仏・蘭の4ヶ国と兵庫開港、大坂の市場開放を内容とする条約を締結していましたが、朝廷から勅許が得られず、条約内容が履行されない事態となっていました。4ヶ国は軍艦を率いて兵庫に進出、兵庫開港を要求しますが、この事態を受けて、老中の阿部正外と崇広は独断で兵庫開港を決定します。

このため朝廷は正外と崇広に対して官位の剥奪、謹慎を命ずる勅命を下します。このため、将軍・家茂はやむなく正外・崇広両閣老を免職し、国許謹慎を命じるに至ります。これを受けて崇広は、翌慶応2年(1866年)1月に松前に帰還しますが、同年4月25日、熱病により松前で死去しました。享年38。その跡は養子の徳広が継ぎました。

この松前徳広ですが、11代藩主・松前昌広の長男として福山城にて誕生しました。嘉永2年(1849年)に父が隠居しましたが、徳広は幼少だったため叔父・崇広が藩主に就任しており、崇広の死によって、世子に指名され、13代当主となりました。ただ、元々肺結核かつ重度の痔疾で、さらに精神病でもあったために政務を執れなかったといわれています。

それでも藩主に抜擢されたのは文人で尊王派であったためであり、新政府との軋轢も少ないと考えられたためでしょう。

しかし、英才として高い評価を得ていた崇広は別として、このころの歴代藩主の評判はよくありませんでした。若年で家督を継ぐ藩主が続いたことから重臣に統治を任せすぎ、結果として専横への不満が藩にくすぶるようになっていたためです。

またこのころ、松前藩は新政府方と奥羽越列藩同盟にそれぞれお伺いを立てる、といった日和見政策を取っていたため、藩内では尊王派と佐幕派の両派閥が争う構図が露わになってきていました。

こうした中、藩をとりまとめていく自信がなくなったのか、徳広が藩主を退く発言をします。これを受けて、藩を主導する筆頭家老の松前勘解由らは崇広の次男の敦千代(松前隆広)の後継擁立を画策します。

しかし日頃から勘解由の執政に批判的な勢力がこれに反発し、勘解由は家老を解任・蟄居となりました。しかし実力者の勘解由抜きでは藩政はままならず、慶応4年(1868年)には家老に復帰。

これに反発して、同年7月には鈴木織太郎や下国東七郎といった尊皇派の40名余の家臣団らが蜂起します。そして箱館の新政府方と連携し、「正義隊」を名乗って徳広に対し建白書を提出、佐幕派の一掃と勤王への転向を強要しました。

政務の舵取りに弱腰の徳広がこれを承諾してしまったため、慌てた家老の松前勘解由は急遽登城しようとしますが反対派の妨害にあって果たせません。そこで、集めた1千名もの藩士と共に藩の武器弾薬庫から武器を出し、松前城の東にある法華寺から正義隊が立て籠もる城中への砲撃を企図しました。

しかし、徳広から君臣の分を弁えよ(わきまえよ)と説得され思いとどまりますが、翌日に勘解由は家老を罷免されてしまいました。

これを追い風と考えた正義隊は佐幕派重臣らを襲撃。勘解由も屋敷を襲撃され、一旦はこれを撃退しますが、自宅禁固となり、翌日切腹を余儀なくされました。その他重臣の多くは正義隊の思うままに処罰されるとともに、正義隊の名のもとに新たに合議局・正議局・軍謀局などが創設され、人材の新たな登用なども行なわれるようになりました。

しかし、藩内は著しく混乱したままであり、こうした状況の中、松前藩は箱館戦争を迎えることとなります。同年10月には榎本武揚らの旧幕府軍が北海道に来襲、箱館の五稜郭を拠点として松前に攻め込みました。

これらの動きに対して、藩主一同および藩の主力は山間部に新規に構築しつつあった館村新城(館城)に移動します。その直後に榎本軍の軍艦蟠竜が松前城の砲撃を開始し、これに対して松前藩側は榎本軍に奇襲をかけますが撃退されます。

一方の旧幕府軍側は土方歳三を総督として彰義隊・額兵隊・衝鋒隊などからなる700名をもって松前城攻撃を開始、搦手門から攻めかかりました。このとき、松前城には城代家老、蛎崎民部を中心に五百名あまりが籠城していましたが、この城の構造は搦手門からの攻撃をほぼ想定していなかったため、容易に城内侵入を許してしまいます。

また、旧幕府軍の襲来前の藩内の内紛もあって城内勢力の意思は一本化されておらず防衛意欲を欠いていました。このため、旧幕府軍の攻撃に対して大砲などで抵抗するも反撃は長続きせず、数時間のちには開城するに至ります。残存の藩兵は城下に火を放ち、江差方面へ退却しました。

一方、榎本軍の別働隊500名は、徳広らの逃れた先の館城を攻略しようと来襲しました。このとき徳広らはさらに北部の熊石(現八雲町付近)に避難済みであり、城には60名ほどが籠っていただけでした。しかし、城の攻撃は継続され、1時間ほど激しい銃撃戦が続いた後、表門の下の隙間から侵入した旧幕府兵が門を開け、兵が乱入し白兵戦となりました。

この戦闘では、豪傑として知られていた元僧侶の三上超順が、まな板を盾にしつつ太刀で奮戦した末に壮絶な戦死を遂げたという話も残っています。しかしこうした城兵の奮闘むなしく、やがて一同の力は尽き、ついには落城を迎えました。箱館戦争終結後ののち、松前藩はこの激しい戦いが続いたこの館城に因んで「館藩」を名乗っています。

追撃する榎本軍はさらに藩主徳広を追って熊石村に向かいますが、徳広ら男女60余名はここから船に乗り、本土の弘前藩へ落ちて行った後でした。榎本軍が熊石の番所内に入ったとき藩士およそ300名がいましたがこのとき全員が投降しました。

時を同じくして、江差に逃れた松前藩軍を攻めるために榎本軍の主力軍艦開陽が派遣されました。しかし江差の松前藩兵は既に退却済であり、しかも間の悪いことにこの日の夜、天候が急変し、風浪に押された開陽丸は座礁してしまいます。

箱館から回天と神速丸の二隻が開陽救出のために江差に到着しましたが、神速丸もまた強い風に流されて座礁。なすすべもなく総員が退艦した開陽丸は数日後に沈没してしまいました。

これによって榎本軍は頼みの海上戦力を大きく減らすこととなり、この失策はその後新政府方を勢いづかせるとともに、その上陸を安々と許すことにもつながっていきます。

一方、本土に逃れ、弘前藩領までたどり着いた徳広は、領内の天台宗の寺院・薬王院に逃れます。しかしここで喀血して倒れて5日後に死去。薬王院からもほど近い曹洞宗・長勝寺に埋葬されました。後年、旧津軽藩士の内藤官八郎が記した「弘藩明治一統誌」には、咽を突いて自殺したとの記述もあります。享年25歳。

松前徳広の長男、松前修広(ながひろ)は、このときわずか3歳で、榎本武揚ら旧幕府軍に敗れた父と共に最終的に津軽にまで敗走しました。

松前藩の消滅

明治2年4月、松前藩は新政府に協力して藩兵を出し、奪われていた松前城を奪回します。さらに翌5月、新政府軍から五稜郭内へ立てこもる旧幕府軍兵士に対して、総攻撃を開始する通知がなされました。これに対して榎本らは衆議を計り、結果として降伏を決め、これによって五稜郭は新政府軍に引き渡されることになりました。




こうして箱館戦争は終了しますが、これに先立つ前年の11月に松前徳広は死去しており、これを受けて同年1月には、息子の松前修広がわずか4歳で家督を継いでいました。

同年6月には版籍奉還により修広は藩知事となり、同時に藩名が舘藩に改称されます。こののち、明治4年(1871年)7月に廃藩置県で館県になるまで館藩は2年間存続しました。

藩名の由来は、上述のとおり、館城で旧幕府軍との奮戦が行われたことにちなみますが、西部厚沢部村にあるこの地「館」に新城を建築するにあたってはわざわざ朝廷から許可を得るなど「館」の名や土地柄にこだわりがあったからかと思われます。

館藩が発足した初年には、松前や江差にあった口番所(藩の境界や交通の要所などに設置した番所)が廃止され、代わりに函館、寿都(すっつ)らに海官所(のちに海関所と改称)が設置されたため、口番所での収益に依存していた館藩の財政は深刻な打撃を受けました。

明治3年12月には館藩の訴えにより、従来の口番所の機能の一部が復し、松前、江差にも海官所が置かれたためにここからも運上金が入るようになったものの、インフレによって財政難は解決されませんでした。さらにオランダ商会、藩内の商人への借金及び藩札の大量発行を行ったことが、藩の財政を悪化させました。

政治的にも藩政を掌握した正義隊と反対派が対立し、反対派は開拓使に正義隊への非難を訴えるなど不安定な状態が続き、こうした問題は廃藩に至るまで解消されることはありませんでした。藩の内紛は悪化していた財政状態をさらに深刻なものにしていきました。

こうした窮状を受け、1872年(明治4年)に館藩は、家臣俸禄維持のため、松前城内の建物の銅瓦をはぎ取って売却し、一戸当たり7両を給付することを決めます。

これに先立ち、旧幕府側の降伏直後の明治2年(1869年)には、松前より北の和人地および蝦夷地(北州)には、太古の大宝律令の国郡里制が復活導入され、11国86郡が置かれて北海道と称されるようになっていました。また、箱館県(箱館府の後身)に設けられていた開拓使がその開拓を引き継ぐことになり、北海道の開拓は本格化しました。

明治4年(1871年)7月、廃藩置県により館藩の旧領には館県が置かれ、館県の範囲は、渡島国に属する爾志郡・檜山郡・津軽郡・福島郡の4郡となりますが、二か月後の9月、館県は道外の弘前県、黒石県、斗南県、七戸県、八戸県と合併、弘前県(後の青森県)の一部となり、ここに館の名を遺す郡は完全に消滅しました。

さらに翌年の明治5年(1872年)には、青森県内にあった旧館県の領地も開拓使に移管。これにより北海道全域が開拓使の所管となりました。

最後の藩主、修広は、明治17年(1884年)7月、子爵となりました。明治24年(1891年)1月にはさらに伯爵になることを願うものの、許可されませんでした。明治38年(1905年)3月26日に死去。享年41。

1874年(明治6年)には、道南で漁業税改正反対の漁民一揆が発生しました。これを受け、旧藩士による反乱を予防するため松前城を解体することとし、開拓使札幌本庁舎の屋根に転用するため、天守閣の銅板まではぎ取られました。

開拓使はその後、松前城の本丸御殿の建物を福山出張所としようとしましたが、老朽化がひどいため断念。1874年(明治7年)、天守閣、本丸表御殿、本丸御門以外の建物の解体を開始。古材は役所建築の材料としたり、民間に売却されました。同年5月には松前城の取り壊しに着手し、石垣を撤去、堀を埋めて更地としました。

既に松前や館の名は消滅していましたが、松前城天守閣だけは残っていました。これだけは残そうと旧藩士たちが政府や道庁に保存の補助を働きかけたが実現せず、中を改装して公会堂などに利用していましたが、昭和初期には修理続きで無用の長物扱いされる状態でした。

しかし、1935年(昭和10年)、城跡が国の史跡に指定され、1941年(昭和16年)5月8日には、天守閣、本丸御門、本丸御門東塀が国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されました。

太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)6月には、軍の命令により、天守閣が敵の目標となるのを防ぐため、藁縄を編んだものを天守閣に被せて遮蔽しました。戦後、この網は除去されましたが、白壁が崩れて建物は骨ばかりとなり、鯱も落下している状況となっていました。

戦後の1946年(昭和21年)になって国が調査を行った結果、1948年(昭和23年)度に国と道で修理工事を行うことになりました。しかし、道が資金を捻出できず、修理は1949年(昭和24年)度まで持ち越されることとなりました。

ところが、ようやく解体修理を始めようとした矢先、城は火事に襲われます。1949年6月5日午前1時10分頃、国の史跡・松前奉行所跡であった松前町役場の当直室から出た火は飛び火して、午前4時には天守閣と本丸御門東塀を全焼。町民の多くは手を合わせ、涙ながらに落城を見送りました。

消失前の松前城(1935年ころ)

ただ幸いなことに本丸御門だけは焼失を免れていたため修理工事がなされた結果、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行により再度重要文化財に指定されることとなりました。

現在ある天守閣は、その11年後の1961年に再建されたもので、基本構造は鉄筋コンクリートによるものです。外観は焼失前の姿をできる限り忠実に再現。5,792万円の寄付金に町費を加えた7,000万円の工事費で復元工事が実施されました。

2011年(平成23年)、この年の耐震診断で、鉄筋コンクリート造のこの復興天守閣は「国の耐震基準を下回っていて震度6で倒壊の恐れがある」とされました。

このため、補強か復元かの判断を迫られることになりますが、長い議論が交わされた結果、2018年(平成30年)に、2035年の完成をめざした木造による復元計画が松前町により公表されました。

しかし、事業費は30憶円といわれており、一般会計が約50億円の町にとっては大きな負担です。町としては史跡整備に関する国の補助制度を活用してぜひ実現にこぎつけたい考えです。

城郭の木造復元は、名古屋市が名古屋城天守で計画しているほか、高松城(高松市)でも検討されています。また、既に木造による復元が実現した城もあります。以下がそれらです。

白河小峰城三重櫓(福島県白河市 1991年)
掛川城天守(静岡県掛川市 1994年)
白石城大櫓(宮城県白石市 1995年)
新発田城三階櫓(新潟県新発田市 2004年)
大洲城天守(愛媛県大洲市 2004年)

筆者はこのうちの掛川城を訪れたことがありますが、昔ながらの本格木造の城は、やはりコンクリート製のものと違い、その趣が格段に違います。

松前城をはじめ、さらに多くの城が昔ながらの木造で復元されていくことを願ってやみません。