お盆が終われば、もうすぐ9月です。
齢を重ねると、時間が過ぎるのを速く感じるようになるといいますが、この調子でいくとなすべきことも何もできず年末までノンストップで行きそうな感じです。
年齢を重ねれば重ねるほど、時が過ぎるのを速く感じるという感覚はほとんどの人が持っているようです。一説によれば、これは齢をとると一定の時間内にできることや考えたりできることの量が減るからだといいます。限られた時間の中でできることが少なくなれば、相対的に時間が速く過ぎるように感じるのかもしれません。
うん?逆じゃないか?より時間が流れるのを長く感じるんじゃないか?と言う人もいるかもしれません。が、よく考えてみてください。たとえば、年をとると、昔はすぐにできた計算に何倍もの時間をかけなければならなくなる、といったことがあります。
また、若い時に30分で登れた山が1時間もかけなければ登れなくなったりもします。齢をとると何かをするとき何かと時間がかかりがちであり、ぐずぐずしているうちに、すぐに時間は過ぎていきます。
その過ぎ去る時間の速さは、いままで生きてきた時間の反比例で説明できるともいわれます。たとえば7歳の子供にとっての1年は人生の7分の1であるのに対して、70歳の人にとっての1年は人生の70分の1です。それだけ時間が過ぎるのが早く感じるだろうという論法です。
なんとなく意味はわかるのですが、何やら騙されたような気がしないでもありません。時間の過ぎる速さというものは個人的にもかなりの差があるはずですし、心理的にも時間というものは、さまざまな要因によって影響を受けて伸びたり縮んだりするのではないでしょうか。
さらに時間の長さは、その人が持っている世界観とも関わりがあるように思えます。「世界」といった場合、今生きていてこの目で見えているこの世だけをさすのか、あるいはあの世も含めるのか、はたまたさらに我々の想像もおよばない異次元空間までも含めて世界と呼ぶのかは、その人の考え方や思想、宗教観にも左右されます。
自分の目で見える世界だけが世界だと信じている人がいる一方で、目に見えない世界もある、と考える人も多くいることでしょう。宇宙のはるかかなた、手の届かない世界で流れる時間の概念は、おそらく我々のものとはかなり違っているのではないでしょうか。
また、死後の世界には時間という概念はないといいます。仏教などでは「転生」という考え方があり、これは人は何度も生まれ変わってくる、というものです。転生は、同一の時間軸の上に起こるものとされとされており、つまりはエンドレスに続けられるものであることから、そもそも時間という概念がありません。
人は死ぬといわゆる「魂」というものになるといわれます。肉体が生物学的な死を迎えた後には、非物質的な形態を得て新しいフェーズに入るという考え方で、もともとは哲学、もしくは宗教的な概念です。
ただ転生といっても、その思想は多様であり、世界各地で異なった考え方があります。西洋と東洋といった地域的な違いによって分けることもできますが、包括的に大きく分類すると次のようになります。
①循環型
②輪廻型
③リインカーネーション型
①の循環型は、どちらかといえば古い考え方です。転生といっても、部族や親族などの同族内だけで生まれ変わりを繰り返すというもので、人間だけでなく、時には動物や植物も転生するという考え方をする民族もいます。現在でも世界中で見られますが、どちらかといえば比較的小さな社会でみられるものです。
②の輪廻型は、サンスクリット語でサンサーラともいわれ、インドで生まれた転生観です。この思想においては転生のことを「流転」と表現します。生物は永遠に「カルマ」の応報によって、車輪がぐるぐると回転し続けるように繰り返し生まれ変わるという考え方です。
カルマは、日本語では「業(ごう)」とも訳し、これは「悪行」の意味ですが、もともとは単なる行為(action)というほどの意味であり、「良い」「悪い」といった色はありませんでした。しかし、仏教およびインドの多くの宗教説では、生きているうちに悪いことや良いことをなすと、それ相応の楽苦の報い(果報)が生じる、と説明してきました。
流転を繰り返しながら生まれ変わることで楽しい経験もしつつ、過去生で犯した罪を解消していくという考え方で基本的には転生を「苦」と考えています。限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦と考え、二度と再生を繰り返すことのないよう何度も生まれ変わるうちに達する境地を「解脱」といいます。仏教では魂にとって至福の状態とされます。
③のリインカーネーション型は、比較的新しい考え方で、19世紀中頃にフランスで生まれた思想です。②の輪廻型と同様に人間は生まれ変わるとしていますが、それ自体は「苦」ではなく「成長」のためだとしています。
人類は生まれ変わりを続けることで直線的に進歩し続けていくという考え方です。人には「不死なる根源」があるという考え方で、それは転生を繰り返すことで向上していきます。それは俗に霊とか魂とかいう呼び方をされますが、もし霊と呼ぶのなら、生まれ変わるごとにそれは「霊的に進歩」していきます。
そして最終的に神に近い完全な存在になる、あるいは神と同化して神そのものになると考えられています。上の輪廻が生まれ変わるうちに苦を解消していくと考えるのに対し、リインカーネーションはいわばそれぞれの人生を「進歩の過程」と捉えています。
リインカーネーションという言葉はもともと、フランスの教育者、アラン・カルデックが1857年にその著書の中で用いたことでヨーロッパを中心に広まりました。日本では幕末の安政3年のことで、無論そんな理論はまだ入ってきていません。
カルデリックは、霊能力があるとされる親友の2人の娘の協力で交霊会を催し、その中で、人生のさまざまな問題や宇宙観について質問したところ、この生まれ変わりの概念を知ったとされます。
霊能力があり、「死者と話しができる」人のことを「霊媒」といいますが、こうした人を介して死者とのコミュニケーションをはかる催しを「交霊会」といいます。1840年代にアメリカで行われるようになり、1850年代に入ってからヨーロッパのブルジョワサロンでも流行り、熱狂されるようになりました。
カルデリックは教育者であったことからこうした非論理的な風潮には当初否定的でしたが、やがてこうした現象がもし本当ならば、宗教・科学の発展に大きく寄与しうると考えはじめました。そして、そうした「本物の能力」のある人物を広く探していたところ、この姉妹に出会ったのでした。
その結果、姉妹二人は抜群の霊媒能力を発揮します。普段はごく普通の明るい娘たちが、トランス状態になると、打って変わって真剣な様子になり、あるとき「あなたには重要な宗教的使命がある」とカルデリックに告げたといいます。
その後週末毎に2人の協力で交霊会を開くようになり、テーブルターニング(日本的に言えばこっくりさん)や自動書記によってあちらの世界の人々との交霊会をつづけた結果、カルデリックはその内容には信ぴょう性があると信じるようになりました。そしてその内容をまとめて出版する決意を固めます。
彼はまた、姉妹との交霊会だけでなく、いろいろな言語の複数の交霊会で霊言も収集して、その内容を吟味しました。大量の霊言を自ら細かく比較・検討し、公表すべき内容を絞り込んで編纂した結果生まれたのが「霊の書」と呼ばれるものです。
この本は、来世についての問答集(FAQ)の形態をとっていました。霊の起源、生命の目的、宇宙の秩序、善と悪などに関する様々な質問に答え、また、古代ギリシアのピタゴラスやプラトンの生まれ変わり観も参考にして編纂されています。
カルデックは1856年の交霊会である霊媒を通じて次のような啓示を受けました。「今、真実であり、偉大で美しく、創造主に相応しい宗教が必要とされている。基礎的な教えは既に与えられている。リヴァイユ(カルディックの本名)、汝には(その宗教を伝える)任務がある。」これは最初に出会った二人の姉妹から告げられたのと同じでした。
カルデリックは、その啓示を与えてくれたのは「真実の霊 (The Spirit of Truth) 」と呼ぶ一群の霊としており、彼らが語ったことに基づいて書かれた「霊の書」の真の著者はそうした霊たちであって、自分は編者に過ぎない、と書き残しています。
このカルデックですが、1804年にフランスのリヨンで生まれています。敬虔なローマカトリック教徒として育ち、長じてからは哲学と科学への関心を追求し、文学士号や医学博士号を取得しました。また、母国語のフランス語に加えて、ドイツ語、英語、イタリア語、スペイン語にも堪能でした。
彼は、パリ歴史協会、フランス自然科学協会、全国産業奨励協会など、いくつかの学術団体に所属するとともに王立アカデミーのメンバーでもあるなど、富裕層と多くの付き合いがありました。その一方で、「民衆教育の父」と呼ばれたヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチの助手となり、貧困層に教育の機会を与えました。
このペスタロッチは、フランス人ではなくイタリア人です。イタリア系の新教徒の医師の子として生まれた彼は、地元のチューリヒ大学を卒業したのち、貧農を救助するため親戚からの援助で農場を創設したり、孤児や貧困の子供のための学校を設立するなどの活動を行いました。
「基礎的なものから高度なものへ」という分かりやすい教育思想を構築し、これが高い評価を受けて当時のヨーロッパで広くその名を知られるようになりました。
ペスタロッチの教育理論は主として初等教育向けのものでしたが、その後彼の思想を引き継ぐものによってより洗練されたものとなり、やがてその弟子たちによって幼児教育から中等教育へと応用が進み、大学教育の場でも使えるようになるなどの発展を遂げました。
現在多くの教育機関で実践されている初等教育のやり方の礎は、ほとんど彼によって築かれたといってもよく、その理論は日本にも伝えられ、教育界で盛んに研究されました。
教育学者でのちに広島大学の名誉教授となる長田新は、1947(昭和22)年)に日本教育学会初代会長に就任するなど戦後の日本の教育再建の立役者の一人ですが、ペスタロッチの研究者かつ信奉者でした。没後遺言により、その墓をスイスのペスタロッチの墓の傍らにわざわざ作らせているほどです。
カルデックもまたこのペスタロッチに大きな影響を受けて教育者になった一人であり、私塾でそうした教育学を先生の卵たちに教える傍ら、哲学、医学なども教えていました。20冊以上の教育関係の書籍を出版していますが、上の「霊の書」もそのひとつです。
このように「筋金入り」の教育者でもあったカルデックですが、「真実の霊」に出会い、霊的な世界に目覚めてのちは、その忠実な伝道者になっていきました。
そして彼が真実の霊から聞かされた内容を記した「霊の書」の中心にある思想こそがリインカーネーションであり、やがてその内容は、のちの世の神秘思想やオカルティズム、心霊論に大きな影響を与えていくことになります。
のちにアメリカで勃興した「ニューエイジ」と呼ばれるスピリチュアル思想にも影響し、これらはその後日本にも入ってきて、新宗教や新新宗教、精神世界と呼ばれるようになる教義を提唱する思想家たちにも影響を与えました。
ただ、カルデリックの理論はこうしたのちの世界だけでなく、この時代の人々にも大きな影響を与え、とくに彼が住んでいたフランスで彼の理論は広く受入れられました。
このころのフランスでは社会主義が浸透しつつありましたが、社会主義を唱える指導者たちがその思想を広めるにあたっては、カルデックが提唱するこのリインカーネーションの考え方はうってつけでした。
今世での境遇がよくないものであっても、それが過去世から継続してきているものだということになれば、過去生ではもしかしたら幸せだったのかもしれないと考えることができます。また、今生では不遇であっても、来世ではまた努力して幸せになれれば帳消しになる、と考えることができるようになれば、ここに「公平」の観点が入ってきます。
これはリインカーネーションの視点を取り入れないと成立しない考え方であり、カルデリックはこうした、「魂の進化」の原理が社会的不平等を受けている人々の復権を果たす鍵になると考え、社会主義者たちに積極的に自分の理論を広めました。
カルデリックはまず、キリスト教で言うところの「復活」は「死者が肉体を持って再び生き返ること」としているが、既に現在の科学では物質が再生することは不可能であることが証明されている、と主張しました。
その上でリインカーネーションとは、霊が繰り返し違う肉体を持つことであり、「復活」とは魂が生まれ変わって新たな肉体を持つことであると人々に説きました。
また、従来のキリスト教の説法だけでは真の復活は説明できないとし、「人類がこうした真理を理解することができるレベルに到達したので、キリストの教えを補完するためこうした考え方が現れたのだ」と説明しました。
さらにカルデックは、リインカーネーションは罪の償いのためにあり、魂が肉体を持つことでそうした償いを果たして進化した結果、最終的には解き放たれ、「天界あるいは神聖な世界」に到達すると説きました。肉体は霊の監獄か檻のようなものであって、肉体から解放された霊こそが本来の自由を獲得できると主張したのです。
「監獄か檻」というのは少々過激にも思える表現ですが、こうした彼の思想はのちに「カルデシズム」と呼ばれるようになりました。
カルデックはさらに、こうした教えでは進化してもその信仰がある限り退化することはなく、現在より劣位の世界に落ちることはないと主張しました。これはつまり、カトリックの人々がそれまで信じていた地獄や煉獄というものは存在しないということを意味しています。こうした説には彼らの死にたいする恐怖心を解放する効果がありました。
こうしてカルデシズムは、それまで、現世で悪事を犯すと地獄に落ちると恐れていたキリスト教徒を中心に広まっていきました。死後の世界には天国か地獄のふたつある、とするキリスト教と違い、死後の世界はひとつしかないとするカルデシズムの考え方は斬新なものでした。
それまでの欧米系の心霊主義では死後霊は再び肉体を持たずそのまま存在し続けると説いていましたが、カルデシズムはこれとは異なり、根本に「輪廻転生しながら進化していく」という考え方に大きな特徴がありました。
また、人間の霊魂は、与えられた自由意志によって生まれ変わりを繰り返しながら、より高等な霊へと進化していくという考え方が根本にあり、これが「霊の進化」と呼ばれるものです。
カルデシズムではさらに、霊にも階級があり、下級から上級までのヒエラルキー(階層制や階級制)があって、そのレベルを上げるために「霊の進化」があるのだとしました。
また神から自由意思を与えられた霊は、過ちという「負債」を作り、これが苦しみの原因であるとしました。このあたりは、転生によって苦が解消されるとする仏教と似ていますが、カルデシズムでは、そうした苦は過去世と今世での善行で解消されると説明しています。
そして「慈善活動」こそが善行の根本的なものである、と主張しました。慈善活動を行うことで自らの霊としてのレベルを上げ、そのことによって過去あるいは過去世の負債を支払えるとし、そうした行為を行うことで神から徳分(メレシメント)が与えられ、魂が救済されるのだと説きました。
「慈善活動」としたあたりに、多少の宗教臭さを感じさせますが、単に転生を繰り返していくだけで苦が解消されるとする仏教の輪廻転生と比べればかなり進歩的な考え方といえるでしょう。
こうした「初期のスピリチュアリズム」ともいうべき解釈は、さらに後年、神秘思想家ヘレナ・P・ブラヴァツキーによってさらに洗練されたものいなっていきます。ブラヴァツキーは、このカルデックの転生論を取り入れてより論理化し、その後「神智学」と呼ばれる分野を開拓した人物です。
この神智学では、転生するのは単に魂だけでなく「心霊的自我」が転生するのだと説明しています。これは、カルマとはすべての行為が原因となって生じる果報でありその変遷こそが人間を支配しているということを意味しています。
言い方を変えると、その自らの行為の結果をいずれは「自分で引き受ける」ことになる、ということです。人間は生まれる前から自身の運命を決めており、前世のカルマを解消するために生まれ変わってきます。
現在の人生で起こる良いも悪いもすべて過去生の経験から自分が自分で決めてきたものであり、それを今生では自己責任で解消することがカルマの解消につながっていくという考え方です。
神智学ではこれを「カルマの法則」と呼んでいます。この法則では、「自らの努力」がテーマであり、生まれ変わりの中でカルマを解消していくことにより、より無限の精神の向上が約束されています。
しかし、たいていの場合、今生の生だけそのカルマを解消することが不十分です。そうした人は、人生という「学びの学校」を、幾度となく繰り返し再生することで「霊的進化」を繰り返します。
そして、いつの日かその再生の必要がなくなった段階では、「霊的な完成」が待っており、神智学ではそれを「マハトマ(偉大な魂)」と呼び、「高次の自己」を持っている霊であると説明しています。
そうした高次の魂になる機会は誰にでも与えられており、自助努力によって無限の精神の向上を図り、最後には「神」に近い存在に近づくことができます。
こうした思想は自己を中心とした能動的なものといえます。救済が神によって与えられるという、受動的な考え方をするキリスト教とはある意味正反対の思想といえ、自己が自己を救済するというこの考え方はその後世界中で受入れられていくようになりました。そして、現在の精神世界的思想(スピリチュアル)へも多大な影響を与えています。
さて、今日は時間という枠にとらわれずに永遠に生きていく魂、ということについて少し触れてみました。まだまだ書きたりないことがありますが、続きはまた別の機会に書くことにしましょう。
お盆休みが終わり、また学校や職場などの元の環境に戻っていく人も多いでしょう。時間に縛られがちな毎日だと思いますが、これを読んだら少し「永遠の時間」ということについて考えてみてください。