西暦0年

我々がここ伊豆に引っ越してきて8年あまりが過ぎました。

東日本大震災が起きた日からちょうど一年後の2012年の3月11日のことで、この日に今の家で荷ほどきを始めました。昨日のことのように思い出しますが、既に9年目に突入、来年にはもう10年目に入ることを考えると、改めて時流れの速さに驚いたり感心したりしているところです。

ところで、こうした年数の計算をするとき、今年は2020年だから2012を引けば8年になって…とすぐに計算ができます。

ところが、年号で計算しようとすると、今年は令和2年だから、平成31年から震災の起こった平成23年を引いて、さらに2を足して… と余分な手間をかけなければなりません。

ときには平成が何年までか覚えていなかったり、震災の起こった平成23年という年を覚えていなかったりで、さらに手間が増えます。単に「何年前」という答えを導きだすためだけに多大な時間を費やすことになるわけです。

そこへ行くと、西暦であれば上のように簡単に計算できるわけであり、考えてみれば非常に便利なしくみだな、と改めて感心したりもします。

それでは、普段我々が使っているこの、西暦とはそもそもなんでしょう。

調べてみると、これは6世紀のローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスによって提案された紀年法だということです。

紀年法とは、ある年を始点にして、年を数えたり、記録する方法です。それまでローマでは“ディオクレティアヌス紀元”という紀年法が使われていました。これは、かつてのローマ皇帝ディオクレティアヌスがキリスト教徒迫害し、これによって多くの殉教者が出たことを忘れないように、ということで使われるようになったものです。

ところが、西暦で言うところの525年、神学者であり、このころのローマ教皇会から篤い信頼を得ていた、ディオニュシウス・エクシグウスは、この紀年法が使われていることに疑問を感じました。

なぜこんな迫害者にちなんだ紀年法が使われているんだ、とむしろ憤慨し、このままこの“ディオクレティアヌス紀元”が続けば、永遠に迫害者の名が歴史に刻まれるだけじゃないか、と考えました。

そこで、それまでのこの紀元に変わって、イエス・キリスト生誕の年を新たな紀元とすることを思いつきました。ちょうどこのころ、キリスト教の移動祝日を定める暦表(復活祭暦表)を改訂しようという機運が高まっており、紀年法の改定にはちょうどよいタイミングだったからです。

移動祝日というのは、現在で言うところの「閏日(うるうび)」のようなもので、実際の天文現象と暦の間のズレを調整するためのものです。このころの暦は、現在のようにほとんど修正が必要ないような完成されたものではなく、時折修正が必要であり、復活祭の日さえも毎年のように計算し直して決めていました。

暦表は定期的に更新されていましたが、この年がちょうどその更新にあたっており、このときついでに紀年法も新しいものにしようと考えました。ただ、ここで問題なのは、そのためには、イエス・キリストの誕生日を知る必要がありました。

しかし、このころすでに、キリストが亡くなって500年以上も経っており、実際に彼が何年何日に死んだのかを証明できるものは何もありませんでした。現在では12月25日がイエス・キリストの誕生日とされていますが、これはのちの時代に脚色されたものです。この当時も同じであり、実際の誕生日は推測するしかありません。

また、キリストの生まれた年もはっきりしませんでした。ただ、この当時、イエスの「復活」は、その死の532年後に起こるというのが「常識」とされており、神学者によれば、その年は、暦表が改訂されようとしていたこの年、ディオクレティアヌス紀元241年から38年後のディオクレティアヌス紀元279年がそれとされていました。

聖書研究者たちはまた、キリストは亡くなったときに「満30歳」くらいだったと考えていました。さらに、キリストは復活したあと40日間地上にとどまったという記録などから、おそらく31歳くらいのとき、キリストは神になった、と考えました。

キリストが31歳のときから数えて532年後に再び復活するとすれば、これは最初の復活から563年後ということになります。このことから、「キリスト紀元563年=ディオクレティアヌス紀元279年」という等式が成り立ちます。

加えてキリストの誕生日までさかのぼるとすると、復活から数えて31年前の年がキリスト紀元0年となり、つまり、

「キリスト紀元0年(C紀元)=ディオクレティアヌス紀元(D紀元)“前”284年

ということになります。

わかりにくいので、整理すると以下のようになります。

誕生 →  復活→     暦表改定→      再復活
C紀元   0     31             525              563
D紀元  -284   -253               241           279

このように、キリストの生誕年を始点と考えて新たに生み出されたのが我々が現在使っている「西暦」です。しかし、これが作られた当初、結局は新しい紀年法として使用されることはありませんでした。それまでのディオクレティアヌス紀年法があまりにも浸透しすぎていたためです。

その後も長らく人々に受け入れられることはありませんでしたが、これからおよそ200年後の731年に、カトリック教会最古の修道会である、ベネディクト会士のベーダ・ヴェネラビリスという教会博士が、この西暦を用いて「イングランド教会史」を著しました。

この本がベストセラーになったことから、西暦は徐々に普及し始め、10世紀頃にイギリスなどの一部の国で使われるようになりました。しかし、ヨーロッパ一全体で一般化したのは15世紀以降のことです。

西暦が国際社会でもっとも用いられる年号となったのは、キリスト教圏であるヨーロッパ各国のうちの、イギリスやスペイン、ポルトガルといった「世界制覇」をめざす国による植民地拡大が続いたためです。これによって非キリスト教国でも西暦が普及し、世界中で一般的な紀年法として定着しました。

日本語では「西暦〇〇年」と書きますが、英語圏では、ラテン語の「A.D.」が使われ、“A.D.2020“、といった表記がされます。これはラテン語の「アンノドミニ (Anno Domini)」の略であり、Anno は「年の」、Dominiは、「主の」という意味です。救世主キリストにちなんだ表現方法であり、意訳すれば「主(イエス・キリスト)の年に」ということになります。

ちなみに、紀元前はB.Cであり、これはBefore Christの略であって、こちらは「キリスト以前」という意味になります。

日本には、16世紀にカトリック教会の宣教師によって西暦がもたらされました。しかし西暦はキリスト教と結びついた紀年法であったため、江戸時代になって禁教令が出されると、使用が禁じられました。1641年には、平戸のオランダ商館が出島へ移転となりましたが、これは平戸で西暦が使われていたことを長崎奉行が問題視したため、といわれています。

その後、日本で再び西暦が使われるようになったのは、1872年(明治5年)のことです。西洋に合わせる形でそれまで使われていた天保暦(太陰太陽暦)から、らグレゴリオ暦(太陽暦)へと移行が実行されました。

太陰太陽暦というのは、太陰暦を改良したものです。古代で行われていた暦であり、月の満ち欠けの繰り返しで成り立つもので、29ないし30日からなる「月」を12回繰り返して一年とします。

しかしこれでは一年が約354日にしかなりません。そこで太陽の運行を参考にしつつ「閏月」を足し、一年を13ヶ月にする年を設けることで暦と季節のずれを正す方法がはかられたのが、太陰太陽暦です。

これに対して、太陽暦は、地球が太陽の周りを回る周期(太陽年)を基にしており、その周期は、約365.242 189 44日であって、一年365日とすると、4年間で約0.968 758 日のズレが生じます。このずれを補正するために「閏日」が設けられますが、太陰太陽暦のように一ヵ月単位でズレを修正する方式よりもずっと誤差が少なくて済みます。

ということで、グレゴリオ暦(太陽暦)への移行が決まったわけですが、考えてみればそれまで使われていた太陰太陽暦のままでもとくに大きな問題があったわけではありません。徳川治世の時代から明治へと大きく時代が動き、多くの混乱がある中、こうした暦の変更ははたして必要だったのでしょうか。

明治政府による「改暦ノ布告」は年も押し迫った明治5年11月9日(グレゴリオ暦1872年12月9日)、突然公布されました。が、懸念されたとおり、社会的に大きな混乱をきたしました。

従来の年中行事や慣習がめちゃくちゃになったことは言うまでもなく、季語を命とする詩歌俳諧の世界は大混乱を被りました。物理的に一番打撃を受けたのは農家であり、従来の暦で計算していた種まきや収穫の時期の見当がさっぱりつかなくなったため、不作が続いて家業が成り立たなくなる農家が急増しました。

鉄道もまた、改暦の影響を受けました。この年、明治5年の12月3日に改暦が実施され、明治6年1月1日となりましたが、これに伴い、それまで使われていた「不定時法」が廃止されました。日の出と日没を基準とする時刻制度ですが、これに代わって一日を24等分する近代的な「定時法」が導入されたのです。

これによってそれまではかなりアバウトで運行されていた鉄道は規則正しく運用されるようになりましたが、電車に乗り遅れる人が続出しました。それまではホームに駆け込めば運転手が待ってくれていたものが、定刻の運行が遵守されるようになり、置いてけぼりを食らうようになったためです。

さらに、カレンダー業者も打撃を受けました。このころ、官暦の発行を独占的に行っていたのは頒暦商社(はんれきしょうしゃ)という組織でした。例年10月1日に翌年の暦の販売を始めることとしており、この年もすでに翌年の暦が発売されていました。

ところが、急な改暦によって従来の暦が大量に返本されるところとなり、また急遽新しい暦を作る羽目になったため、甚大な損害を被りました。ちなみに頒暦商社が持っていた版権はその後、神宮司庁に移され、その後は伊勢神宮がこうした官暦の製造・頒布を委託されるようになりました。

これほど急な新暦導入が行われたのは、実は明治政府の財政状況が逼迫していたためでした。この当時、国内外の金銀比価の差によって大量の金が国外へ流出していた上、さらに戊辰戦争による戦費や、殖産興業のために新政府は深刻な財政不足に陥っていました。

この暦の変更が行われた年の翌年の明治6年は、それまで使われていた太陰太陽暦によれば、閏月があり、13か月となる予定でした。この当時、明治政府は官吏への報酬を月給制に移行したばかりであり、この旧暦のままでいけば、翌年には年間に13回給料を支給しなければならなくなります。

しかし、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり、12か月分の支給で済みます。しかも新暦の導入にあたり、それまでの旧暦は新暦である明治5年12月は2日まで、としました。
これにより、旧暦の12月分の給料も支払う必要がなくなり、つまり新暦導入後の月給の支給は11か月分で済ますことができることになります。

さらにせこいことに、当時の明治政府は、新暦導入とともに「週休制」を導入しました。それまでは、1、6のつく日を休業とする習わしがあり、これに節句などの休業を加えると年間で140日近い休みをとることができました。ところが、新暦導入を機に週休制に改めることで、休業日をさらに50日余りに減らすことができます。

もっともその後、国民の休日などが導入されたため、休日はさらに増えましたが、この新暦を導入したてのころはそうした制度もまだなく、官吏にすれば給料は減らされるは、休みはなくなるはで、とんでもないとばっちりを受けることとなりました。

一般人も官吏に準じた給与体系を強いられるところとなり、この暦の変更に対して多くの国民が不満を持ちました。

ヨーロッパで生まれた西暦もまた、こうして暦の変更とともに新たに導入されたわけですが、日本ではこれと並行して明治や大正といった「年号」が広く使われていたため、普及しませんでした。日常生活で人々が広く使い始めたのは、第二次世界大戦後のことといわれています。

現在においても、「2020年(令和2年)」のように元号と併記することが多く、意外なのは、日本の政府機関や地方公共団体などが作成する公文書における年の表記は、基本的に元号のみが用いられている点です。

住民票、運転免許証などがその代表例です。お手元に免許証や健康保険証があれば見ていただければわかりますが、公布日や満了日の表記は年号になっているはずです。

こうした公文書で年号表記が優先されるのは、憲法に「政教分離規定・信教の自由」の規定が盛り込まれているためです。現在の日本政府は、西暦はそもそもキリスト教の視点から作られたものである、という見解を持っており、西暦の使用を原則としない、という立場をとっています。

とはいえ、日本以外の各国は西暦を基本としており、日本だけが独自の紀年法を使っていては国際社会で孤立してしまいます。また、明治以後、ようやく定着してきたこの西暦制度を捨てるわけにもいかず、このため、法令番号や判例など、元号で記される公文書を示す場合はできるだけ西暦を併記するようになっています。

ただ、パスポートの名義人の生年などには西暦だけが使われています。これは国外へ出たときに外国の人には日本の元号が、彼らが使用する西暦の何年なのかがわからないためです。個人番号カード(マイナンバーカード)やかつて発行されていた住民基本台帳カードなども同じで、国際社会で使う可能性のあるものは、その有効期限などが西暦で表記されています。

さらに、主要なマスメディア(新聞・テレビなど)の記事の多くは、主に西暦を使用しており、日付欄も「西暦(元号)」と併記する新聞が多くなっています。これも日本人以外の人が視聴する可能性があるためにほかなりません。

このように公文書や一部の文書では西暦が優先して使われていますが、一般には年号を使う向きも多く、多くの場合にはケースバイケースで使い分けている、というのが実情のようです。

ただ傾向として、最近は年号よりも西暦が使われる頻度が多くなってきているのは間違いありません。

戦後まもなくでは圧倒的に年号の使用のほうが多く、1976年(昭和51年)に行われた元号に関する世論調査でも、「国民の87.5%が元号を主に使用している」と回答しており、「併用」は7.1%、「西暦のみを使用」はわずか2.5%でした。

とはいえ、これでも西暦の使用は増えたほうで、そのきっかけは1964年(昭和39年)の東京夏季オリンピック以降のことだといわれています。

皇室典範改正により元号が法的根拠を失ったこともあり、東京オリンピックのキャンペーンでは、日本の国際化を内外にアピールするためにさかんに西暦が使われ、その結果として西暦を使う人が増えました。

毎日新聞が2019年に行った世論調査では、「主に元号を使う人は34%」と、1976年に比べて半部以下に減り、片や「主に西暦」はが25%であって、1976年との比較では10倍に増えたことになります。「元号と西暦と半々」という人は元号と同じ34%であり、西暦派と合わせれば59%にもなります。

西暦を使う人が増えたのは、元号が昭和から平成に変わったことが原因と考えられています。また、昨年平成から令和へと年号が変わったこともその傾向に拍車をかけているようです。元号による表記では「今年が何年なのか判らない」「過去の出来事の把握が難しい」という人が増えているのも理由のようです。

21世紀に入った今日ではインターネットの普及などもあって国際化が進み、日常において「元号より西暦が主に使用されるケース」も格段に増えています。コンピュータ処理の上では、数字とアルファベットを併用する元号よりも、数字だけの西暦のほうが有利なことも関係しているようです。

このように、現代においては西暦を主に使うケースが格段に増えていますが、一方では元号を好んで使う人も多いようです。

これはその時々で使われる年号に人々が「歴史性」を感じるからでしょう。古銭や古紙幣のように年号が入っていることで価値が上がるものもあり、法律においても、その使用に関しては基本的に各々の自由とされています。

個人的にも、「2020年」などと書くよりも「令和二年」と書いた方が何やら書いた文章の格式が高くなったような気がします。年号がなくなると寂しい、という人はやはり多いのではないでしょうか。

ところで、上述のように、ディオニュシウス・エクシグウスが西暦の起点(紀元)としたのが西暦1年(紀元1年)だとすれば、その前の年は「西暦0年」ということになるのでしょうか。

これについて調べてみたところ、西暦0年というものは存在せず、この年の呼称は、「紀元前1年」と呼ぶのが正しいようです。天文学などでは算術による間違いをきたさないように西暦0年を使うこともあるようですが、通常は、紀元前2年 →紀元前1年 →紀元1年 →紀元2年という順番になります。

そもそもこの西暦は、紀元1年にキリストが生まれた、とされたことから生まれたわけです。しかし、現在では、キリストの誕生が実際に西暦1年だったとはみなされていません。さまざまな説がありますが、実際にキリストが生まれたのは紀元前7年〜紀元前4年ごろというのが、近年の定説のようです。

イエスはヘロデ大王の治世の末期、紀元前4年頃に生まれたと考えられており、その根拠は、次の新約聖書の2つの記述によります

1.「大規模な人口調査が行われた年にイエスがベツレヘムで誕生した」という記述がルカによる福音書第2章にあり、人口調査は紀元前4年に行われたとされていること。

2.「救世主イエス誕生の話を耳にしたヘロデ大王が、新たな王の存在を恐れ二歳以下の幼児を虐殺させたためにイエスと両親がエジプトに避難した」という記述がマタイによる福音書第2章にあること。

ヘロデ大王というのは、ローマ帝国の元老院により、ユダヤ人の王として認められた人物で、現在のイスラエルを中心とした地域にヘロデ朝を創設し、ローマとの協調関係を構築したことで知られています。イエス・キリストは、ローマ帝国がこのヘロデ朝に統治を委嘱した土地で生まれました。

ヘロデ王はエルサレム神殿の大改築を含む多くの建築物を残しましたが、猜疑心が強く身内を含む多くの人間を殺害したといわれており、上の記述にも幼児を虐殺させた、とあります。

ただ、これらの記述自体に歴史的な裏づけはあるわけではありません。聖書そのものの記述があいまいであり、これが書かれたとされる当時、しっかりとした紀年法がなく、そこに書かれている出来事の前後関係が把握しづらいためです。

とはいえ、この当時の複数の文書の比較から、ヘロデ大王在位中、彼が統治したエリアでイエスが誕生したことは明らかとされています。ヘロデ大王の死は紀元前4年という説が有力視されていることなどから、イエスは少なくとも紀元前4年には誕生していたと考えられているのです。




それではイエス・キリストが生まれたというこのころ、日本はどんな時代だったのでしょうか。

年表で調べてみると、その年の元号は、「垂仁天皇26年」となっています。

ただ、日本の元号は、大化の改新が行われた645年、この年の名として「大化」が用いられたのが最初です。それより以前に年号として一般の人々に呼称されていたものはありません。

しかし、それでは歴史上の事象を語るために不便だ、ということで、史学的には原則として天皇の即位の翌年を元年とし、その天皇の名前を年に付加する、という形で整理されています。

たとえば、垂仁天皇は、その先代の「崇神天皇(すじんてんのう)」の治世29年目に生まれたため、この生誕年は「崇神天皇29年」と呼ばれます。上の西暦1年と目される年は垂仁天皇が即位して26年目であり、こちらも「垂仁天皇26年」と表記されます。

この垂仁天皇ですが、この崇神天皇を継いで天皇になったとされ、その在位は垂仁天皇元年1月2日から垂仁天皇99年7月14日であり、在位最後の年に140歳で崩御とされています。

しかし、現在でもそんな年齢まで生きている人はいません。ましてやこの時代にそんな高齢まで生きていたということ自体が信じがたく、このためその実在性は疑問視されています。

上述の「大化」が年号として使われるようになった時の天皇は、第35代の女性天皇、「皇極天皇」の治世であり、こちらは実在した、とされる確かな証拠があるようです。ところが、この垂仁天皇は、この皇極天皇よりも24代も前の第11代天皇とされています。

「神話」とされる昔話でよく出てくる「日本武尊(ヤマトタケル)」の子供が、第13代の天皇、成務天皇(せいむてんのう)だと言われていますから、これよりもさらに古い時代の天皇ということになります。実在した人物かどうかは、確かに疑いたくもなります。

時代区分としても、縄文時代に続く「弥生時代」のころです。およそ700年ほど続いたとされるこの時代の中期後半のことであり、このころ鉄器はようやく生みだされていましたが、まだ石器が主に使われていました。

「委奴国王」から漢の国王に「漢委奴国王印」と刻まれた金印が献じられたとされる、西暦57年からもそう離れていません。「委奴国王」が築いた王国が福岡にあったのか、京都にあったのかすらはっきりしない、そんな時代です。なので、たぶんにおとぎ話と考えてもよいかもしれません。

そうはいってもそれでは話が進みません。なので、この垂仁天皇が実在していたかどうかは別として、この人物がいた、と書かれている書物に基づいて、この稿をすすめましょう。

その書物こそが、日本最古の歴史書といわれる「古事記」です。この中で、垂仁天皇は、とくに祭祀や農業振興に力を入れた天皇として描かれており、とくに即位25年のころ、伊勢神宮を建立したとの記述があります。その2年後には、初めて屯倉(天皇の直轄地)を作るとともに、諸神社に武器を献納し、神戸を「神地」と定めた、という記述もみられます。

また、子の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)に命じて畿内の各地に溜池を造らせて農業を盛んにしたといい、即位39年には奈良県天理市にある、現在の石上神宮に「神宝」を納めたとされます。

即位2年のとき、狭穂姫命(さほひめのみこと)という女性と婚姻関係を結んでおり、この女性の父は、開化天皇の皇子とされる、彦坐王(ひこいますのみこと)です。



この狭穂姫については、悲しい話が古事記に残されています。

姫には、狭穂毘古(さほのひこ)という兄がいました。仲の良い兄妹だったらしく、狭穂姫が垂仁天皇の皇后となったのちも交流が続いており、ある日、その兄から「お前は夫と私どちらが愛おしいか」と尋ねられます。

これに対して姫は迷いますが、眼前の兄に対して夫のほうとは言えず、「兄のほうが愛おしい」と答えてしまいました。すると、兄は懐から短刀を出し、狭穂姫に渡して天皇を暗殺するように言い渡しました。

一方、夫の垂仁天皇は、妻である狭穂姫を心から愛していました。この日も何の疑問も抱かず姫の膝枕で居眠りをしていましたが、夫を殺すよう命じられていた姫は、このときとばかりに兄からもらった短刀で夫を殺害しようとします。

三度まで短刀を振りかざしますが、さすがに夫の不憫さに耐えられず躊躇、思わず涙をこぼしてしまいます。姫がこぼした涙で目が覚めた天皇は、そのとき夢を見ていました。その中で「錦色の小蛇が私の首に巻きつき、佐保の方角から雨雲が起こり頬に雨がかかった」といい、これはどういう意味だろうと、膝枕を貸していた姫に聞きました。

佐保というのは、現在の奈良市の北部にある地名で、周囲には聖武天皇ら皇族の陵墓が点在する場所です。古くから桜の名所としられる地域であり、特に南部を流れる佐保川沿いの桜並木が有名です。

その佐保の方角に兄が住んでいることを知っている姫は、思わず、わっと泣き伏しました。やがて泣きやんだ狭穂姫は、暗殺未遂の顛末を語り始めます。垂仁天皇は驚きますが、姫を深く愛しており、しかもこのころ姫の腹には天皇の子が宿っていました。このため、複雑な思いを描きながらも、兄の元へ逃れる妻を許してしまいます。

しかし、反逆者は討伐しなければなりません。狭穂彦を討つことを決めますが、兄の元へ走った狭穂姫はそこで、誉津別命(ほむつわけのみこと)を出産しました。そして、そのころ、天皇による兄の討伐の噂を耳にします。

思い苦しみ、いっそのこと息子に手をかけて、ともに命を絶とうかと思います。しかしやはり息子を道連れにするのが忍びなく、兄に頼んで護衛を伴い、御所近くまで出かけていって天皇に息子を引き取るように頼むことにしました。

これを知った天皇は、敏捷な兵士を用意し、息子を渡しに来た姫を護衛の兵士から奪還しようと考えました。しかし、夫が力づくで自分を奪うに違いない、と予想していた姫はある工夫をしました。

髪は剃りあげて鬘(かつら)をかぶり、腕輪の糸には切り目を入れてすぐに切れるようにしました。衣装も酒で腐らせ、兵士が触ろうものなら、すぐに破けてしまうようにしたのです。

やがて狭穂姫は狭穂彦の護衛を伴い、天皇との面会場所にやってきました。それをみた天皇はここぞとばかり、手下の衛兵たちに命じて、姫を護衛から引き離そうとしますが、姫がその衣装に仕込んだ工夫により、どうしても彼女を捕獲できません。

やがて、天皇方と狭穂彦方の武士たちは入り乱れて切りあう事態に発展しますが、狭穂彦の手の者たちは形勢が不利とみなすや、城へと狭穂姫を連れて逃げかえりました。天皇はこの機に狭穂彦を討伐しようと、彼らの城「稲城」へとなだれ込みます。

城へと帰ってきた狭穂姫ですが、息子を夫に渡すことができなかったばかりか、夫を裏切ったことを嘆きます。敵味方が争う中、短刀をのどに刺して死のうとしますが、これを見た天皇は時間を稼ぐために、「お前が死んだらその子の名はどうしたらよいのだ」と尋ねました。

すると、姫は「火の中(争いごとの中)で産んだのですから、名は本牟智和気御子((ほむつわけのみこ“炎分命”)とつけたらよいでしょう」と告げました。

さらに時間を稼ごうと次いで天皇は「お前が結んだ下紐(はかまを結ぶ紐)は、誰が解いてくれるのか」と尋ねました。姫は「丹波に兄比売と弟比売という姉妹がいます。彼女らは忠誠な民ですから、この二人をお召しになるのがよいでしょう」と天皇に告げました。そしてそう言うやいなや、炎に包まれた城の中に飛びこみ、兄とともに焼け死んでしまいました。

姫がその死の直前に告げた姉妹のひとりは、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)といい、狭穂姫の遺志を汲んで、その後垂仁天皇の後妻となりました。

後年、日葉酢媛命もまた若くして亡くなりましたが、その葬儀に際して垂仁天皇は、それまで行われていた殉死を悪習として禁じました。このとき側近の一人が、生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、天皇もそれを認め、以後その陵墓には人や馬に見立てた埴輪が埋納されるようになり、以後もこの風習が踏襲されるようになったといいます。

一方、姫の子の誉津別皇子はなんとか炎の中から助け出されました。父天皇に引き取られ、その後大変寵愛されましたが、長じてひげが胸先に達する年齢になっても言葉をしゃべることができず、赤子のように泣いてばかりであったといいます。

ところがある日、鵠(くぐい、白鳥)が渡るさまを見て「是何物ぞ」と初めて言葉を発したといい、これを見た天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じました。部下は出雲まで出かけていき、苦労してこれを捕まえて献上しました。そして皇子がこの鵠を遊び相手にするようになると、その後は普通に言葉をしゃべれるようになりました。

皇子が話せるようになったことを喜んだ天皇は、鵠が捕まった土地「に社を建立し、これを「大神の宮」と呼びました。今に至るまで続く「出雲大社」はこうして生まれました。

垂仁天皇にまつわるこうした話は、「古事記」の中巻に語られており、叙情的説話として同書中の中でも白眉の作と評されています。

また、同じ古事記の下巻には、同じく兄妹の悲恋を語る、もうひとつの物語が語られています。

この兄妹は、木梨之軽王(きなしのかるのみこ)と木梨之軽大郎女(きなしのかるのおおいらつめ)といい、ともに、第19代允恭(いんぎょう)天皇とその皇后の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の間にできた子供たちでした。

二人の母方の叔母である八田王女(やたのおうじょ)は美しい女性で、「衣通姫(そとおりひめ)」と呼ばれていました。その美しさが衣を通して輝くほどであったことからこう呼ばれるようになりましたが、軽大娘皇女もまた叔母に似て美しい少女に成長し、同様に「衣通姫」と呼ばれるようになりました。

しかし、その美しさが災いし、兄は妹でありながら衣通姫に惹かれるようになり、姫もまたこの兄を慕うようになります。この当時、異母兄妹であればは婚姻も認められていましたが、同じ母を持つ兄妹が情を交わすことは禁じられていました。ところが、二人はやがて一線を越えてしまいます。

ある朝、二人の父である允恭天皇が朝食を摂ろうとすると、冬でもないのに汁物が凍りついていました。これは不吉だと考えた天皇は、側近の者にその理由を占わせました。すると、その者は「身内に良くないことが起こっています。おそらく通じている者がいるのでしょう」と答え、これによって二人の仲が周囲に発覚するところとなります。

この姦淫、しかも近親相姦は、やがて群臣たちの間にも知れ渡るところとなり、そうと知った彼らはやがて軽皇子から離れて行き、その弟である穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)につくようになりました。

その後、允恭天皇が崩御した折、本来であれば長子である軽皇子が即位するはずでしたが、彼を支持する者はおらず、皆が穴穂皇子を支持しました。これを知った軽皇子は腹心であった大前小前宿禰(おおまえこまえのすくね)の助けを借りて穴穂皇子を討とうとします。

しかし、逆に追いつめられ、しかも腹心の大前小前宿禰が裏切りに遭い、軽皇子は捕えられてしまいます。こうして、軽皇子は四国伊予(現在の愛媛)へと流罪とされることになりました。このとき皇子は「私は必ず戻ってくるから待っていなさい」と衣通姫に言い残し、流刑地へと去っていきました。

軽皇子は彼女との別れに際してまた、次のような歌を詠みました。

天飛(あまと)ぶ 鳥も使ひぞ 鶴(たづ)が音(ね)の聞こえむ時は 我が名問はさね

「寂しくなったら空を行く鳥に私の名を訊ねなさい、そうすればきっとその鳥が私たちの間で言葉を運んでくれるから」

これに対して、衣通姫は旅立つ兄に次の歌を献じました。

“夏草の あひねの浜の 蠣貝(かきがひ)に足踏ますな 明かして通れ”

「夜の浜で貝を踏んで足を怪我せぬよう、夜が明けてからお通りください」遠い流刑地に赴く兄の身体を気づかったものでした。

その後、戻ってくるという兄の言葉を信じ、長い間待ち続けていた衣通姫でしたが、いつまでたっても帰ってこないなか、やがて次のような歌を詠みます。

“君が行き 気長(けなが)くなりぬ やまたづの迎へは行かむ 待つには待たじ”

「あなたが行ってしまってもうずいぶんになりました、もう待ってはいられません、帰ってこられないならば私が参ります」

「やまたづ」とはニワトコのことで、二つの葉が必ず対になって生えることから、二人の関係をそのようになぞらえて詠んだものです。

やがて姫は、「立てた弓が倒れ、また立ち上がり、再び倒れる」ようにして兄の元へたどり着きます。

“梓弓(あづさゆみ) 起(た)てり起(た)てりも 後も取り見る 思ひ妻あはれ”

二人は再会を喜び、わずかな時間を愛し合いますが、やがて自害して果て、物語は幕を閉じます。

現在の愛媛県の四国中央市には、妻鳥(めんどり)という場所があります。ここに「東宮陵」=東宮さんとも呼ばれる墳墓があり、この中に東宮神社という小さな神社が据えられていて、ここがこの二人の終焉の地とされています。

軽皇子はこの妻鳥村に流罪となり、ここに居を構えたとされ、衣通姫もまた、流罪にされたといわれていますが、場所は遠く離れたところでした。兄とは一度も逢うことなくそこで果てたと言われ、その故事にちなんで二人を祀るために建立されたのが、東宮陵です。

もしかしたら、二人が再会した、というのは軽大娘皇女の夢だったかもしれず、実際に二人が再び出会えたのはあちらの世界であったのかもしれません。

一方、衣通姫が単身流されたとされる場所は、松山市内に残る姫原という場所だともいわれています。こちらには「軽之神社」呼ばれる神社があり、おそらくは軽皇子にちなんでの命名でしょう。地元では二人はここで共に果てたと信じられています。神社の傍らにはふたりが入水したとされる「姫池」があり、毎年4月28日にはその慰霊祭が行われています。

この軽之神社から竹薮に沿って蜜柑畑を登ると右側に泉、左側に軽王子と軽大郎女を祀った五輪塔が2つ並んでおり、こちらは「比翼塚(ひよくづか)」と呼ばれています。これは愛し合って死んだ男女や心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚のことで、別名「めおと塚」ともいいます。

二人が本当にここで果てたのかどうかはわかりません。しかし、二千年の時を超えて、二人の愛が今も固く結ばれていることを信じたいと思います。

さて、新型感染症がまだまだ猛威を振るう中、西暦2020年はどんな年になっていくのでしょう。

二人が愛を育んだこの美しい国で、流行り病病がこれ以上蔓延しないことを願ってやみません。