クリスマスは苦しみます?

2014-8312既に、お気づきの方もあるかと思いますが、最近、写真ショップ、サイクロス・デポを再開しており、またその関連で、「サイクロス・ブログ」なる新しいブログサイトを立ち上げました。

主として、100年以上も前から戦前に至るまでの古写真を紹介し、これにまつわるエピソードなどを紹介するブログ、と一応銘打っていますが、気まぐれなので、また内容が変わるかもしれません。

それにしても、このムシャ&タエも、発足からそろそろ4年が経ちます。訪問者様はあいかわらず増え続けていて、1400人近い平均訪問者数を数える月もあるので、けっしてみなさんを飽きさせてはいないのではないか、とは思います。

ただ、訪問してくださる方が多いのは良いのですが、先だっては何を書いたブログのあとだったか忘れましたが、アクセス数が異常に多くなりすぎ、サーバに負荷がかかるためか、借りているサーバの運営会社が、アクセスを制限措置を取る、といった騒ぎもありました。

現在は正常に戻っていますが、興味をそそるような話ばかり書いていてはいかんな、と反省しきりです。

とはいえ、自分的には多少内容がマンネリ化しているように思っており、このあたりで自虐的にカンフル剤を打ってうってみようと思ったのが、新しいブログサイトを立ち上げた理由です。

新しいブログを書き始めてみて意外に思ったのは、「写真」というテーマに限ってみるとまた新しい視点で歴史を見つめることができる点です。思いついたことばかりを書いているこのムシャ&タエとはまた違って、ある程度話題を絞りこんだ中で書いていると、なんというか、緊張感のようなものがあります。

これまで日の目を見てこなかった古い写真を世に出す、という使命感が生まれるためなのかよくわかりませんが、いずれにせよ、何か違う世界に踏み込んだようでもあり、なかなかこれはこれで楽しいかんじがします。

なので、ずっと向こうに行って熱中しているかもしれませんので、ムシャ&タエのほうの投稿が滞っているときには、あちらものぞいてみてやってください。

さて、クリスマスです。イエス・キリストの誕生を祝う祭ということで、12月25日がその当日です。

実は5歳年上の広島に住む実姉はこの日が誕生日です。世界に福音をもたらした聖人が降誕したこの日に、多くの隣人に災いをもたらすこの人物が生まれた、というのは、はなはだ不可解であり、納得できないのですが、ともかく、この日はおめでたい日ということで、世界的にお祭りムードとなります。

25日が本番であるはずですが、24日は「イヴ」とされ、前日からお祝いが始まります。これは、キリスト教に先立つユダヤ教時代やローマ帝国では、日付が変わるのは「日没」としていたため、12月24日夕刻がクリスマス突入する時間であるためです。「イヴ(eve)」は「evening(夜、晩)」を省略したものであり、つまりは、クリスマスの前夜のことです。

しかし、イエスキリストが、12月24日の夜から25日にかけて生まれた、というのは後世に作られた俗説であり、そもそも旧約聖書にも新約聖書にも、イエスの誕生日に関する記述はありません。

例えば3世紀の初め頃には、5月20日と推測されていたようで、また1930年代には、イギリスの天文学者が古い天文現象の記述から類推して、9月15日と発表した例もあるようです。

さらに聖書にはイエスの誕生日には羊飼いが誕生を祝ったあと夜中の見張りに戻った、という記述があり、このことからイエスの生誕も春から夏にかけてではないかとする説もあるようです。羊は冬の寒い時期には小屋に入れて外に出さず、4月から9月の間に放牧するためです。

このように、イエス・キリストが実際に降誕した日がいつにあたるのかについては、古代からキリスト教内でも様々な説があり、このためもあって、キリスト教においてもクリスマスは「降誕を記念する祭日」と位置づけられているだけで、「イエス・キリストの誕生日」と考えられているわけではありません。

では、いつから12月25日が生誕祭と定められたかですが、西暦345年ころには遅くとも西方教会で始まっていたとされ、ミトラ教の冬至の祭を転用したものではないかと言われています。ミトラ教というのは、古代ローマで隆盛した、太陽神ミトラスを主神とする古代宗教です。

ちなみに、西方教会というのは、西ヨーロッパに広がり成長したローマ・カトリック教会、や聖公会、プロテスタント、など我々が一般にキリスト教として認識しているキリスト教諸教派の総称です。これに対して、中東やギリシャ、アナトリア・ロシアなどの東ヨーロッパに広がり成長したキリスト教諸教派は、東方教会といいます。

こうしたキリスト教圏におけるクリスマスは、それが始まった当初から既に、常緑樹の下などにプレゼントを置く習慣があり、これをもって家族などに「愛」をプレゼントを贈る日とされていました。

ただ、現在のように必ずしもモミの木ではなかったようです。中世にドイツでアダムとイヴの物語を演じる神秘劇が流行るようになり、この中で使用された樹木がモミの木だったために、クリスマスといえばモミの木ということになったようです。神秘劇というのは、イエス・キリストの生誕・受難・復活の物語を主題とした劇のことです。

また、クリスマスツリーに飾りつけやイルミネーションを施す風習は、その後19世紀ごろこうしたモミの木を飾るというヨーロッパの風習がアメリカ合衆国にも伝わり、何事も新しモノが好きなこの国民の間で広まっていったというのがはじまりのようです。

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じゃあ、サンタクロースはなぜクリスマスにやってくるか。これは、キリスト教の聖人である聖ニコライ(ニコラウス)の伝説を起源としています。実在の人物で、正確にはニコラオスといい、西暦270年頃に生まれ、345年ころ、75歳くらいで亡くなったと伝えられています。

ローマ帝国の属州のパタラ(現在のトルコの地方都市)に生まれ、キリスト教の司教、神学者となった人物ですが、生前から冤罪の人々を救うなどの善行によって人々に慕われました。

死後もその生涯が早くから伝説化され、当初は西方教会よりも東方教会や南イタリアなどで聖人視されるようになりましたが、のちには西方教会全域にもその崇敬が広まりました。

亡きがらは保存され、1087年にイタリアのバリに移されて現在もここにあり、多くのキリスト教関連の全ての教派で聖人として崇敬されている人物です。

この人を聖人視する過程で数々の伝説が生まれ、弱い者を助けた話や、信仰の弱い者を教えて真理を守らせた話が数多く残っています。そうした話の中では、弱者を助ける際には、他人に知られないように行う事が常であり、例えば、ニコライが司祭であった時には、貧しい家の娘を秘密裡に助けたことが伝えられています。

かつて豪商だったにも関わらず、商売に失敗して財産を失い貧しくなった商人がいました。没落したために娘を売春させなければならないほど困窮していましたが、ある夜のこと、この商人の家に多額の金がもたらされました。

ニコラウスは真夜中にその家を訪れ、窓から金貨を投げ入れたとされますが、このとき暖炉には靴下が下げられていたため、彼は家の中に入り、金貨をこの靴下の中に入れたという説があります。

不法侵入ではありますが、お金を置いていったということで、泥棒扱いされるいわれはありません。

この放火ならぬ放金は、二度に渡り、これによって商人は救われ、投げ込まれたお金を持参金として、立派な結婚式も行なうことができました。父親は大変喜びましたが、いったい誰が金を投げ入れてくれたのだろうかと、この放金魔をみつけようと窓の下で見張っていました。

すると3度目に金を投げ入れているニコラオスを見つけたので、父親は足下にひれ伏して涙を流して感謝したとされています。この放金行為が、年末に行われたかどうかはわかりませんが、この話から、のちにサンタクロースの伝承が生まれ、年の暮れ近くになると靴下にプレゼントがいつのまにか入っている、という話に変わっていきました。

また、ニコライがイエスキリストの墳墓に巡礼する為に海路エルサレムに向った際には、暴風を鎮め、船から落ちて死んだ水夫を甦らせたという伝説もあり、このため海運国オランダなどで彼は海運の守護聖人とされます。

なお、サンタが煙突から入ってプレゼントを届けるという言い伝えは、1822年にアメリカの学者でクレモント・ムーアといいう人が、フィンランドの言い伝えを伝承した「聖ニクラウスのおとない(訪い)」という詩を作ったのが元だとされています。

この詩の中には、「キラキラ星が輝く夜中、ニコラウス煙突からどすん」といった記述があるそうですが、この詩はのちに絵本になるなど人気を博したことから、その中でサンタが煙突から入ってプレゼントを置いていく、という挿絵などが書かれ、これが広まっていったのでしょう。

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以後、クリスマスを祝う習慣は世界的に広まっていきましたが、国別にみるとその祝い方はかなり異なり、また12月25日が必ずしもクリスマスとはなっていない国も多いようです。

カトリックの影響の強いイタリア、ポーランド、フランス、スペインなどでは、クリスマスはたしかに、12月25日に始まりますが、そのお祝いは年明けても続き1月6日の公現祭(エピファニア)に終わり、飾り付けなどの取り払いはこの日を過ぎてからです。

そして子供達がプレゼントをもらうのはこの1月6日だそうです。また、イタリアのほとんどの地域ではこのプレゼントを持って来るのはサンタではなく、ベファーナという魔女だそうです。

新約聖書には、東方の三博士、という賢者が登場しますが、この博士たちは神の子イエス・キリストの生誕が近くあることを星の知らせで知ります。そして、キリストの生まれるベツレヘムへ向かう途中、立ち寄った村で老婆に一夜の宿を求めましたが、彼女は多忙を理由に断りました。

彼女は三博士が旅立った後に後悔し、彼等の後を追いましたが、とうとう追いつくことができず、それ以来、彼女は神の子である彼等を探して彷徨っている、というのがベファーナのいわれです。

伝承によってはイエスのための焼き菓子をバッグに詰め込み、イエスの母へ贈る箒を持って旅に出るも、イエスの元にたどり着けず、未だに贈り物を持ったままという話もあります。このため、イタリアでは、醜悪な婆さんの顔のお面をつけ、ほうきを持ったベファーナが町を練り歩く、というお祭りをやるところもあるようです

一方、オランダやドイツの一部地域などでは12月6日がクリスマスです。ドイツでプレゼントを持ってくるサンタクロースは、ドイツ北部ではヴァイナハツマンといい、これは「降誕祭の男」の意味です。またドイツ南部ではクリスト・キント(キリストの子)と呼ばれます。

ドイツでは、プレゼントをもらえるのはそれまでの1年間に良い子だった子どもだけだそうで、悪い子は石炭を与えられたり木の枝で打たれることになっている地域もあるそうです。

このほか、北欧のクリスマスは12月13日の聖ルチア祭の日です。古代ゲルマンの冬至祭の影響を色濃く残しており、ワラで作ったヤギを飾ること、妖精がプレゼントを持って来てくれることなど、独自の習慣が見られます。また、クリスマスの時期は真冬であるため、小鳥たちがついばめるように、ユールネックという麦の穂束を立てる習慣もあるそうです。

このほか、イギリスやアメリカでは日本と同じように、サンタは12月25日にプレゼントを持って来ます。日本が英米と同じなのは、この風習をこの2国から受け継いだためです。が、これらの国でクリスマスの挨拶に送られるグリーティングカードの習慣は日本には定着しませんでした。

これは、日本ではクリスマスのすぐあとに正月があり、年賀状などによって新年のあいさつをする習慣が先に根付いていたためです。また、アメリカでは、クリスマスプレゼントを家族全員で交換し合う習慣がありますが、最近日本でもこれをやる家庭も増えてはいるものの、まだまだ一般的ではありません。

なお、欧米諸国だけでなく、韓国や香港、マカオなどではクリスマスは法定祝日ですが、日本では祝日ではありません。ヨーロッパでは12月24日のイヴから1月1日の元旦までがクリスマス休暇ですが、日本では年末から年始にかけてがお休みになります。

ちなみに、オーストラリアなど南半球の国々では、クリスマスは真夏となるため、クリスマスパーティーは屋外やプールなどで開催されることも多いそうです。

日本で初めて、日本人自らがクリスマスを祝ったとされるのはわりと古く、江戸時代の初期のころです。1552年(天文21年)に周防国山口(現在の山口県山口市)のザビエル教会堂において、イエズス会の宣教師であるコスメ・デ・トーレスらが、日本人信徒を招いて降誕祭のミサを行ったのがその嚆矢といわれます。

しかし、その後江戸幕府の禁教令によってキリスト教は禁止されたことで、明治の初めまでの200年以上の間、公式にキリスト教生誕を祝ったという記録はありません。が、おそらくは隠れキリシタンの間では習慣化していたでしょう。

クリスマスが公式な行事として受け入れられたのは明治以後のことになります。明治初期から中期にかけては、国をあげて欧化政策が進められたため、西欧人の精神の中枢ともいえるキリスト教に関心を持つ者が増え、西洋にはクリスマスという習慣があるんだということを人々が広く知るようになりました。

また、1900年(明治33年)には、横浜で「明治屋」が開業しました。この明治屋は当初、軍艦などの船舶の輸入代理店をしていましたが、その後は食料品の卸売・小売、酒や煙草の輸入業務も行うようになりました。当時は食料品販売は「賎業」と評されていましたが、輸入品の珍しさも手伝って着実に業績を伸ばした結果、銀座に進出するまでになりました。

そして、クリスマスになるとこの銀座店で打った「クリスマス・バーゲンセール」が当たり、これが現在のクリスマス商戦の走りであるとともに、クリスマスの名が人々に親しまれる要因になりました。以後、他の店も年末になるとクリスマス・セールを行うようになっていったわけです。

そして大正時代までには、児童向け雑誌や少女雑誌の十二月号には、表紙をはじめとしてクリスマスにまつわる話や挿絵がたくさん導入されるようになり、1925年(大正14年)には日本で初めて結核撲滅のための寄付切手「クリスマスシール」が発行されました。

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しかし、クリスマスはこのころはまだ毛唐の一習慣にすぎない、という感覚でした。この日を通してお祝いをする、というムードはありませんでしたが、これを変えたのが、1926年(大正15年)12月25日の大正天皇の崩御でした。

この日を境に昭和時代が幕を開けたわけですが、1927年(昭和2年)3月4日に当時の休日法「休日ニ関スル件」が改正され、先帝である大正天皇の遺徳を祀る、「大正天皇祭」が12月25日と定められました。

それまでは平日に過ぎなかったこの日が休日になったことで、それ以後、クリスマスといえば休日、というイメージが定着し、お祝いムードが高まっていきました。

のちに法律が改正され、この日は休日ではなくなりましたが、現在もこの日がクリスマスホリデーという感覚は戦前に生まれた人を中心に残っていて、国民全体としてクリスマスというとお祝いムードがあるのはこのためでしょう。

1928年(昭和3年)には、朝日新聞で「クリスマスは今や日本の年中行事となり、サンタクロースは立派に日本の子供のものに」と書かれるまでに普及しました。昭和初期の頃、銀座、渋谷道玄坂から浅草にいたるまでの多くのカフェや喫茶店においてはクリスマス料理の献立を用意し、その店員はクリスマスの仮装をして客を迎えていたそうです。

戦後の1948年(昭和23年)に「国民の祝日に関する法律」が施行されて、大正天皇祭は休日から外されてしまいましたが、以降もクリスマスは年中行事として定着し、休日でもないのに各種の行事が盛大に行われるようになりました。

以来、毎年のように11月上旬からクリスマスツリーが飾られるようになり、商店などではこのときが掻きいれ時とばかりにバーゲン・セールを開きます。店内にはクリスマスソングが流れ、洋菓子店ではクリスマスケーキが販売され、街中にイルミネーションがあふれます。

そんなさなか、先の衆議院選挙を受けた特別国会がきょう召集され、安倍総理が第97代の総理に指名され、今夜、第3次安倍内閣が発足するようです。

まさか、このクリスマスのタイミングを狙って解散総選挙を行ったわけではないでしょうが、解散のタイミングといい、内閣発足のタイミングといい、まぁなんとも手回しが良いというのか、計算高いと言っては失礼かもしれませんがまるで予定していたかのようです。

まさか、クリスマス・イヴだからといってサンタの格好をして組閣というのはないと思いますが、果たして国民にプレゼントをもたらしてくれる聖人になれるのかどうか、今後の政策をじっくり見ていきたいものです。

ちなみに、ドイツの古い伝承では、サンタは双子だそうです。一人は紅白の衣装を着て良い子にプレゼントを配り、もう一人は黒と茶色の衣装を着て悪い子にお仕置きをするそうです。容姿・役割共に日本の「なまはげ」に似ており、民俗学的にも年の瀬に来訪する「年神」としての役割の類似が指摘されるといいます。

現在、ドイツにおけるサンタクロースはこの故事にちなみ、「シャープ」と「クランプス」と呼ばれる二人の怪人を連れて街を練り歩くという行事を行う習慣があるといい、良い子にはシャープがプレゼントをくれますが、悪い子にはサンタがクランプスに命じてお仕置きをさせるといいます。

安倍総理も見ようによっては、なまはげに似ていなくもありません。良い国民にはプレゼントをくれるのでしょうが、「悪い国民」にはどんなお仕置きをするのか、今後ともお手並み拝見です。

それにしても、クリスマスが過ぎ、26日ともなると、日本ではどこへ行っても一斉にクリスマスの飾りは一斉に消えます。

一転して門松などの正月飾りに付け替えられたり、小売店などでも正月準備用品や大掃除用商品の陳列・販売が中心となるなど、年末だというのに、BGMに「お正月」を流す商店などもあるくらいで、日本人というのはなんとまぁ、変わり身の早いことでしょうか。

この狂騒はさらに年末へ正月へと続いていくわけですが、その前の一年でたった2日間しかない、今日と明日というこの西洋的な休日をいかに過ごしましょう。

さて、みなさんの今年のクリスマスはどんなクリスマスでしょうか。

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