昨日までの大型連休は、多少天気は不純でしたがそこそこ晴れ、伊豆の各地も観光客で賑わったようです。6日の土曜日に三島方面まで行く機会がありましたが、南へ向かう国道136号は他県ナンバーの車であふれていて、途中何ヶ所も渋滞していました。こういう風景をみると、ああ、伊豆の住人になったのだな、という実感がわいてきます。
伊豆の住民になったことを感じるもうひとつのことは、あちこちで頻繁に曼珠沙華を見ることです。東京でも見る機会はありましたが、田舎の伊豆ではもっと頻度が増えたように思います。
この曼珠沙華ですが、別名は「ヒガンバナ」ともいい、この呼称は毎年お彼岸のころから開花することに由来しているようです。花や茎、また根も強い毒性があるので、一説によると、これを食べたあとはもう「彼岸(あの世)」へ行くしかない、ということで、ヒガンバナと言われるようになったといいます。
ほかにもいろいろ呼び名があって、死人花(しびとばな)、地獄花、幽霊花、剃刀花、狐花、捨子花、はっかけばばあ、などなど、あまり良い印象を与えない名前ばかりです。地方によっては不吉な花として忌み嫌われることもあるそうですが、「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」とも呼ばれ、これは「赤い天上の花」という意味で、仏様のおそばにあり、めでたい兆しの象徴とも考えられています。
毒性は強いものの、玉ねぎのような形をしたその根っこ(鱗茎といいます)は、デンプン質に富みます。その有毒成分である「リコリン」という物質は水に溶けやすいそうで、このため、長時間水にさらせば無害になり、食べられるみたいです。
古くから飢饉になったときには、「救飢植物」として食べることを目的として田んぼのあぜ道などに植えられていたということで、実際、戦中と戦後すぐの食糧事情が悪かったときには食用にされたといいます。
江戸時代には、有毒であるため「農産物ではない」とされ、年貢の対象外とされたため、万一の飢饉に備えて多くの農家が田畑や自宅の周り、お墓などに植えられるようになりました。
先日話題として取り上げた韮山の「江川邸」も周りを田んぼや畑に囲まれており、今あざやかな曼珠沙華に彩られています。
この江川邸の持ち主、「江川家」の歴代当主のうち、後年もっとも有名になった、江川英龍(ひでたつ)について、今日以降しばし話題にしていこうと思います。
多彩な才能
先日も書いたとおり、江川家では代々その当主を「太郎左衛門(たろうざえもん)」と称していたため、江川英龍も「江川太郎左衛門」と呼ばれることのほうが多いようです。しかし少々長ったらしいので、以下では単に「英龍」と呼ばせていただくことにしましょう。
江川英龍は早くから洋学を学び、その中でもとりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱くようになり、やがては近代的な軍隊や西洋砲術を日本に普及させるようになる人物です。
幕府の官僚であり技術者というイメージが強い英龍ですが、意外に知られていないのはその芸術的な才能です。
京都の宇治に「大国士豊」という土佐派の日本画家がいましたが、英龍ははじめこの人に絵を学び、後にはかの有名な「谷文晁」について絵を学び直しています。
一説によると、谷文晁は、老中の松平定信が1793年(寛政5年)に伊豆巡検に来た折に同行して江川家を訪れており、そのとき英龍の父英毅はこの文晁から絵の手ほどきを受けたといいます。このころ文晁が描いた作品に「久余探勝図」というものがありますが、これには伊豆各地の風景が鮮やかに描かれているそうです。
この伊豆訪問を契機として、江川家の当主、江川英毅は谷文晁と親しくなり、その後は韮山屋敷に何度も逗留して、息子の英龍にも絵を教えたと言われています
英龍はさらに後年江戸で「尚歯会(しょうしかい)」という蘭学や儒学者などの学者たちが集まって作った一種の勉強会に顔を出すようになりますが、このことがきっかけで、この会の主要メンバーでもあった「渡辺崋山」と知り合います。
渡辺崋山は、三河国の田原藩(現愛知県田原市東部)の藩士であり、長じてから同藩の重役に抜擢され、藩政改革でその手腕を発揮した人ですが、その改革においては自ら学んだ蘭学を生かし、近代的な農業や工業の技術を藩に導入し普及させました。
その生家は貧しく、子供のころから絵を描くのが得意だった崋山少年は生計を助けるために得意の絵を売って、生計を支えています。のちに谷文晁に入門した結果、絵の才能が大きく花開き、20代半ばには著名な画家として知られるようになり、この絵の技術のおかげでその後の生活は苦労せずにすむようになりました。
同じく谷文晁に師事した英龍と崋山の二人はいわば兄弟弟子で、齢は崋山が英龍よりも8つも年上でした。その絵の腕前は師匠の文晁よりも上だったという評価もあり、英龍も自分より年下の崋山に師匠になってくれるように頼みこんでいます。しかし、崋山は師匠の手前もあったのでしょう、これを謝絶しています。
英龍は絵だけでなく、刀剣制作についても造詣が深かったようで、出羽国(現・秋田山形県)の名匠、「庄司直胤(なおたね)」に師事して自らその技法を学んでいます。また、同じく直胤門下の小駒宗太(おごまそうた)」という刀工を韮山の自宅に引き取って、そこで自分の刀を打たせています。
この小駒宗太という人物は、かなりの酒飲みだったらしく、そのために師匠の庄司直胤から破門されています。が、師匠の名の一字をもらい、「胤長(たねなが)」と称していたぐらいですから腕は確かだったらしく、彼が鍛えた刀の一本は今も伊豆に残り、静岡県の指定文化財に指定されています。
英龍がこのように、いろいろな技芸を学ぶことができたのは、父英毅(ひでたけ)から韮山代官職を継いだ年齢が34才と遅かったためでもあります。
1801年(享和元)、韮山代官であった、父英毅と母久子の次男として韮山で誕生した英龍は、幼名は「邦次郎」といい、上述のようにいろいろな芸事や基礎的な学問をしながら、物心がつくころまでは韮山の屋敷で何不自由なく育ったようです。
しかし、1818年(文政元年)、17才になった年、江戸で学問を修めるように父から命じられた英龍は、江戸では公儀の学問所、昌平黌(しょうへいこう)へ入学し、その儒官(総長)であった、美濃出身の高名な儒学者、「佐藤一斎」などから英才教育を受けるようになります。
このころの昌平黌は門下生3000人と言われ、一斎の膝下から育った弟子の中には、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠等などがおり、いずれも幕末に活躍した人材たちばかりです。
山田方谷はあまり知られていませんが、幕末に主国である松山藩の藩政改革で手腕を発揮するとともに、幕末にイギリス式の軍隊を整え、その混乱期を乗り切った人として知られています。
江戸での英龍はまた、幕末きっての書家であった「市川米庵(いちかわべいあん)」に書を習い、詩でも頼山陽と交流のあった「大窪詩仏(おおくぼしぶつ)」に師事し、もともと素養のあった絵画とともに、さらにその方面の才能を伸ばしています。
おそらくはこの時代にあって最高の教養人ばかりから教育を受けており、先日の当コラム「江川家のこと」の最後のほうでふれたように、琴などの楽器演奏もそうした教育を受ける傍らの「余業」として、これらの師匠の誰からか学んだものと考えられます。
このように、英龍はいろんな分野で技芸を学び、いずれの道でも一流を極めたため、その方面では彼の号である「坦庵(たんあん)」の名で呼ばれることも多いようです。地元の韮山では坦庵と書いて「たんなん」と読み、現代でも「たんなんこう(坦庵公)」として親しまれています。
一方、江川家は、徳川家の天領地を管理する世襲代官職を奉じている以上、英龍も武士としてのたしなみは一般の旗本以上に厳しく求められました。このため、子供のころから剣術の手ほどきを父の英毅や他の郎党から受けていたと考えられます。
後年、17才で英龍が江戸へ出たころには、もうそれなりの剣の腕前を持っていたと思われますが、さらにその腕をあげるために剣術の師匠として仰いだのは「神道無念流」の正統な継承者として知られる、「岡田吉利(よしとし、通称、岡田十松)」でした。
吉利は、同じ神道無念流の師匠、戸賀崎暉芳(とがざきてるよし)に入門し、22才で免許皆伝を得ると、武者修行によって江戸中でその名をあげたつわもので、このころ、神田に「撃剣館」という道場を開いていました。
英龍はここに入門し、本格的な剣道を修業しはじめてから、わずか二年後には免許皆伝を受け、そののちには「撃剣館四天王」の一人に数えられるようにまでなりました。
同門には、水戸藩の政治学者「藤田東湖」や、のちに韮山代官所で英龍の部下となる「斎藤弥九郎」がいます。斎藤弥九郎は英龍よりも三才年下でしたが、撃剣館への入門は英龍よりも先である「兄弟子」であり、剣術の腕前も「江戸三剣客」の1人にも数えられるほどで、英龍を凌駕していたと思われます。
英龍が免許皆伝を受けたそのすぐあとに、師匠の吉利は病死しています。このため齋藤弥九郎が師範代となりますが、やがて独立して「練兵館」を立ち上げたとき、その厚い援助を行ったのは英龍とその父英毅だったといいます。弥九郎らが設立した練兵館は、その後、幕末江戸三大道場の一つとまでいわれるようになりました。
練兵館があったのは、現代の九段坂上、すなわち靖国神社境内です。ちなみに、この江戸三大道場は、この齋藤弥九郎の練兵館と、千葉周作の「玄武館」、そして桃井春蔵の「士学館」でした。それぞれ「技の千葉」、「位の桃井」、「力の齋藤」と称され、多くの門弟をかかえていましたが、その中から多くの幕末の志士を排出しています。
有名なところでは、坂本龍馬や清川八郎が玄武館で、武市半平太や上田馬之介などが士学館から排出されました。
齋藤弥九郎は、その後の英龍の生涯にわたって彼を支えました。後年、黒船が浦賀に来航したとき、幕府は英龍らに台場の築造を命じますが、品川に台場の築造が計画されると、弥九郎は江川の手代(部下)としてその指示に従い、実地測量や現場監督を行ったほか、湯島馬場で大砲の鋳造を行っています。
もともとは、越中国射水郡(現・富山県氷見市)の下級武士の長男として生まれ(1798年(寛政10年))、12才のとき、隣国の越中高岡に出て、油屋や薬屋の丁稚となりますが、思うところがあり、いったん帰郷。14才になったころ、わずか銀一分を持って江戸に出て、旗本屋敷に奉公します。
そして、昼は仕事、夜は勉強と努力し、やがて儒学者の古賀精里(こがせいり)などに儒学を学ぶようになり、幕府御家人で兵法家として高名だった平山行蔵(ひらやまこうぞう)には兵法を学び、さらには後年、英龍とともに西洋砲術の大家、高島秋帆(たかしましゅうはん)から砲術を教わりました。
前述のとおり、剣術の岡田門下では、神道無念流の第一人者といわれるようになり、ちょうどそのころ、入門してきた英龍と親しくなり、後年、公的には主従になりますが、私的には生涯の友ともいえる間柄になりました。
英龍は、このように江戸へ出てから文武両面にわたってありとあらゆる英才教育を受けるとともに、その過程において多くの先人や知己、そして弥九郎のような友人を得ます。幕末においてこれほど多様な人種と交流のあった人物もめずらしいのではないでしょうか。
無論、それは英龍が父親から継いだ代官職という仕事柄のためでもありましたが、そんな英龍が江川家の世襲職である「韮山代官」の職を継いだのは1835年(天保6年)、英龍が34歳の時のことでした。
韮山代官就任
父の英毅が長命だったため、それまで比較的悠々としていた生活を送っていた英龍ですが、その人生は父の死とともに大きく変わり、これ以降英龍が関わった歴史的な出来事については山ほどの史料が残っています。
反面、英龍が父のあとを継いで韮山代官になる前の生活についてはあまり資料が残っていないようです。
ただ、この年になるまでずっと江戸にいたわけではないようで、江戸と韮山の両方の代官所を年に何度も往復する父につき従って、その仕事内容の見習いをするとともに、ときには武者修行の旅にぶらりと出るということなどもあったようです。
代官に就任する以前の英龍について、はっきりしているものだけを順番にみていくと、まず1821年(文政4年)には、兄で長男の英虎が病死したため、英龍は20才で江川家を継承する嫡子となっています。またその二年後の1823年(文政6年)には、旗本の北条氏征(うじまさ)の娘と結婚しています(夫人の名前不詳)。
この北条氏征という人物がどういう人物だったのかはいくら調べても出てこないのでよくわかりません。しかし、北条早雲を祖とする後北条氏の末裔であったことは間違いないようです。また、英龍の奥さんになった人についてもあまり資料が出てきません。また詳しいことがわかったら、アップしたいと思います。
1824年(文政7年)、23才のとき、英龍は韮山代官職見習となり、このとき、将軍家斉に謁見しています。これ以降、江戸本所の韮山代官所へ出仕することが次第に多くなっていきますが、あいかわらず江戸と韮山の間を父に従って往復する習慣は続いていたようです。
1830年(天保元年)母の久子が病死。母久子からは、「早まる気持をおさえ、冷静な気持を常に持つように」と「忍」の字をさとされ、以後英龍は「忍」の文字を書いた紙を常に懐中に携帯していたといいます。
父の英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培などによって自領の増収を実現するなど幕閣からも高い評価を得た人物でしたが、母久子が亡くなった4年後の1834年(天保5年)ついに亡くなります。65才でした。
英毅は、代官として管理している諸国の新田開発や、河川・道路の改修といった土木工事を積極的に行い、その父親の「英征」の時代の放漫財政を立て直したといいます。学問への関心が高く、杉田玄白、大田南畝、山東京伝、伊能忠敬、間宮林蔵といった有名人とも交流があり、とくに伊能忠敬や間宮林蔵とは親しかったようです。
このため海防に関する知識についても豊富であったといい、こうした英毅の知識がまた英龍にも受け継がれていったと考えられます。
地元の伊豆では、修善寺の熊坂の国学者で「竹村茂雄」という人物と交流し、国学や歌への関心も高かったといいます。竹村の提言により、狩野川の鯉の放流を許可したり、また漢学者の「秋山富南」からは、伊豆ではいまだかつて詳しい地誌が造られたことがないと聞き、その編さんを秋山に許可しました。
この秋山が書いた地誌は、「豆州志稿」と呼ばれ、今日、江戸時代後期の伊豆半島の様子を知ることのできる貴重な歴史資料となっています。
伊豆、韮山代官としての仕事としては、年貢の徴収、戸籍(宗門人別帳)の管理や紛争処理、治安維持や罪人の処罰、村方への貸付金の運用などであり、行政・司法・警察・金融と、現在の市役所と警察署、そして銀行が行っていたような役務のほとんどすべてを担当していました。
こうして英毅が代官として治世を行った幕府領の農商工の生産性は着実にあがり、このため代官就任時の直轄地の石高は5万余石ほどでしたが、亡くなる前には7万石を超えるまでになっていました。
英毅が亡くなった翌年の1835年(天保6年)、ついに34才にして英龍は韮山代官に昇進し、父の英毅が豊かにした、伊豆、駿河、相模、武蔵国の各地を管理する主となりました。幕末においてもっとも有能な官吏としてようやくその歴史の表舞台に登場するようになるのです(続く……)。