砲撃…そして砲術 ~旧韮山町(伊豆の国市)

ここ2~3日気持ちのよい秋晴れの日々が続きます。日中の気温は25度を超えることはなくなり、夜の最低気温は、17~18度にまで下がるようになりました。温泉のありがたみが分かる季節です。昨日の夜もついつい長湯をしてしまいました。

富士山にはあいかわらず雪が降りません。その南側頂上付近の雪渓はひとつき前には“ i ”の形に見えましたが、いまや完全なる“・”になりました。しかし、おそらく頂上の気温は日中でも4~5度。夜には氷点下に下がっていることでしょう。いずれ低気圧の通過とともにそこは雪の原になるに違いありません。その日が楽しみです。

天保騒動

さて、昨日からの続きです。父英毅のあとを継いて34才で韮山代官に就任した江川英龍のその後の人生を辿っていきましょう。

英龍が代官に就任する少し前の、1833年(天保4年)のころから日本では全国的に洪水や冷害があいついでいました。このため、陸奥国や出羽国といった東北の地域では大飢饉となり、特に仙台藩は100万石を超える石高を有しており、米作に偏った政策を行っていたため被害が甚大でした。

また東北だけでなく韮山代官所の管理地であった甲斐国でも飢饉に陥り、英龍が代官に就任した翌年の1836年(天保7年)には、それまでにない大規模な一揆がおこり、これはのちに「天保騒動」と呼ばれました。

この一揆をあおっていたのが、甲州博徒といわれるヤクザ者たちでした。英龍は彼らがおこしたこの騒動の実情を調査するためにこの年、手代や鉄砲隊の足軽を引き連れて、韮山を出発しています。

このころから、撃剣館で苦楽をともにした、斎藤弥九郎が英龍の手代(部下)として英龍を補佐するようになっており、江戸からやってきた弥九郎と英龍は厚木村(現神奈川県厚木市)で合流し、八王子から西へ向かって甲斐の国に極秘裏に潜入しました。

幸いなことに、甲斐国の騒動が拡大化することはありませんでしたが、翌年の1837年(天保8年)には、大阪で大塩平八郎の乱が起こり、その残党が甲斐国にも潜入したという情報も入ってきました。

そればかりでなく大塩平八郎自身が潜伏しているのではないかという噂もあったため、このときにも英龍と弥九郎は刀剣商の身なりで甲斐国や武蔵国、相模国などの管理地を調査したといいます。

結局大塩平八郎はその年大阪で自刃していますが、弥九郎だけはその一連の情勢を探りに大阪まで行っています。英龍はこの弥九郎からの報告とともに自らも「隠密」として諸国を調査した結果と合わせ、後日「甲州微行」という報告書をとりまとめ、幕府に提出しています。

こうした一連の調査行を通じて各国を旅することの多くなった英龍は、自らが管理する伊豆や駿河、相模国、武蔵国それぞれが海に面していることもあり、このころから頻繁に日本近海に現れる外国船のことについての情報を耳にすることも多くなっていきます。

そしてこの頃から、長い海岸線を持つ管理地の「海防」についても深く考えるようになります。もともと知識欲の旺盛だった英龍は、このころから、蘭学者の「幡崎鼎(はたざきかなえ)」などを通じて、西洋の情勢や軍事、海防関係の新知識の吸収に努めようとし始めました。

幡崎鼎は長崎出身で、シーボルト渡来当時、長崎出島のオランダ商館のオランダ人部屋付小者でしたが、シーボルト事件に連座して入牢。その後長崎から脱獄し、大阪に出て蘭学塾を開き、1834年(天保5年)ころから江戸に出て水戸藩に仕えるようになっていました。

江戸では高野長英らと共に渡辺崋山の蘭学研究を助けており、この関係から英龍も幡崎鼎を知るようになったようです。1837年(天保8年)に水戸藩の要請で長崎に出張。おたずね者となっている地を訪れる無神経さには舌を巻くほかありませんが、案の定正体が露顕して捕縛。江戸に護送され、再度幽閉されましたが、その4年後に獄死しています。

このころ水戸藩の藩主は、「烈公」と呼ばれた徳川斉昭であり、この人物は激烈な尊王攘夷家でした。このため、水戸藩士の多くも血の気の多い開国主義者が多く、その後、保守派の伊井直弼を桜田門外で暗殺したのもこの水戸藩の藩士を中心としたグループでした。

徳川家親藩の大名であるにもかかわらず、藩主自らが開国主義者であったことから、幡崎鼎のようなお尋ね者が頼ってきてもこれを拒むことをせず、逆にこれをかくまうような藩風があったようで、幕末にあって水戸藩は非常に特異な立場の藩でした。

烈公自らが「国民皆兵」路線を唱え、幕府の西洋近代兵器の国産化を推進するとともに、蝦夷地開拓や大船建造の解禁なども幕府に提言するなど、その影響力は幕府のみならず全国に及びました。

しかし、のちの将軍継嗣問題において伊井直弼と争った結果破れ、幕府中枢から排除されるなど、晩年はその能力を発揮する機会が失われてしまいました。

とはいえ、開国をめざし西洋の知識を積極的に得ようとする若い学者を重用し、自らもまた蘭学を学ぶなど聡明な人物であったため、そのもとにはその後幕末に活躍する多くの人物が集まり、その彼らが維新を起こす原動力になり、またのちの明治政府を支えました。

英龍もその一人であり、同じ幕府直参の身であることから、烈公のお屋敷にもよく出入りしていたようです。先日書いたように勝海舟の氷川清話にも英龍が烈公に請われて酒の席で上手に琴を奏でたという逸話が残っているほどです。

モリソン号事件

さて、ずいぶんと余談が過ぎました。

このように西洋に関する知識を豊富に持っている人物たちから積極的にその知識を吸収した英龍は、それらの情報の分析の結果から、外国船が日本を攻めてくることになれば、現在の幕府の体制ではまったく対応できないことを知るようになります。

このため、その後積極的に幕府にその改善を進言するとともに、自らも洋式軍船や大砲の建造、守備設備(台場)の築造技術などの西洋軍事技術の導入について研究を重ねていくようになります。

一方では、「本職」である韮山代官としての施政の公正にも励み、幕末きっての農政家といわれた「二宮尊徳」などの意見をとりいれ、直轄地の農地改良などを行っています。

先日も書きましたが、日本に種痘の技術が伝わり、江戸でこれを知った英龍は、自領の領民への種痘の接種を推進したり、父が進めた商品作物の栽培技術をさらに向上させました。新田開発、河川・道路の改修土木工事の推進などにも余念がなく、こうした領民の生活の向上を積極的にはかった英龍を領民も強く愛し、「世直し江川大明神」とまで呼ぶようになりました。

こうした中、日本近海に外国船がしばしば現れるようになり、ときには薪水を求める事態も起こるようになってきます。鎖国政策をとっていた幕府は異国船打払令を制定し、基本的に日本近海から駆逐する方針を採っていましたが、ついに1837年(天保8年)、「モリソン号事件」のような外国人との「小競り合い」が発生します。

モリソン号事件とは、日本人漂流民7人を乗せたアメリカ合衆国の商船を日本側砲台が砲撃した事件です。鹿児島湾と浦賀沖それぞれに現れたアメリカの商船の「モリソン号(Morrison)」に対し、薩摩藩と浦賀奉行所は異国船打払令に基づき砲撃を行いました。

このモリソン号にはマカオで保護されていた日本人漂流民の音吉ら7人が乗っており、この漂流民の送還と通商・布教のために来航していたのですが、砲撃が行われたとき、モリソン号は非武装でした。しかも、薩摩藩も浦賀奉行所もモリソン号はイギリスの船だと勘違いしていました。

モリソン号が実はアメリカの船であるという情報は、その後一年もたってから長崎に入港したオランダ船の乗員がもたらされ、長崎商館などの関係者を通じて幕府関係者にも伝えられました。

これを「尚歯会」を結成していた渡辺崋山や高野長英らが知り、どこの国の船ともわからずに砲撃を加えたことを批判。再度、モリソン号が漂流民を乗せて来航した時にどう対応するかについての質問状を幕府に提出したため、時の老中首座水野忠邦はその調査をするよう評定所に命じました。

その結果、幕議の決定は、モリソン号再来の可能性はとりあえず無視し、漂流民はオランダ船による送還のみ認め、今後ともアメリカ船の寄港は許可しないというものでした。しかし、渡辺崋山や高野長英をはじめとするその尚歯会の面々は、幕府の意向はあくまでも外国船の打ち払いにあり、と誤解してしまいます。

このことに特に渡辺崋山が憤慨し、幕府を批判する意見書「慎機論」を作り、提出しようとしました。が、直前になってその内容があまりにも過激であることに気付き、提出を思いとどまります。しかし、このときの一連の幕府批判の動きがその後の開国論者の大弾圧、「蛮社の獄」につながっていくことになります。

この事件は、英龍にも大きな衝撃を与えました。自らが代官として管轄する伊豆や相模沿岸の太平洋から江戸湾への入り口に当たる海岸線にも同様に外国船が浸入してくる可能性があるためです。これらの中には海防上重要な地域も含まれていたことから、こうした問題にさらに大きな関心を寄せるとともに大きな危機感を持つようになります。

こうした時期に英龍は、同じ代官仲間で旗本の川路聖謨(かわじとしあきら)や羽倉簡堂(はくらかんどう)の紹介で、「尚歯会」の面々を知る事になります。

「尚歯会(しょうしかい)」は、蘭学や儒学者などの学者たちが集まって作った一種のサロンで、シーボルトに学んだ鳴滝塾の卒業生や蘭学者の吉田長淑に学んだ者などが中心となって結成され、前述の渡辺崋山や高野長英らのほか、川路聖謨もメンバーでした。

川路聖謨は、江戸町奉行や勘定奉行を経て、のちに阿部正弘に海岸防禦御用掛に任じられた人物で、ペリー艦隊来航の際の対応を行い、その後の日露和親条約締結でも活躍した人物です。

英龍同様に幕末きっての名官吏といわれましたが、のちに大老に就任した伊井直弼が一橋派を排除したのに伴い左遷。のちに外国奉行として復帰しますが、明治維新を直前にした1868年(慶応4年)、病気を苦にして割腹の上ピストルで喉を撃ち抜いて自殺しました。享年68。

このころ外国事情や西洋の技術に興味を持ち、尚歯会に加わりましたが、ちょうど同じ時期に英龍もそのメンバーとなりました。尚歯会の面々はその当時最新の西洋事情を知る識者ばかりでしたが、しかしその彼らでさえ、モリソン号はイギリス船であり英国要人が乗船していたと思い込んでいました。

ところが事件発生後一年も経ってそれがアメリカの商船で日本の漂流民を移送してきた船であったという事実を知り、自らが得ていた情報の不確かさに愕然とします。日本国民を救出してくれた船に砲撃を加えたというだけでなく、その相手が英国ではなくアメリカであったという事実誤認は、それだけで彼らの危機意識を高めるのに十分でした。

こうして、尚歯会のメンバーは、海防問題に関しては十分な情報を得る必要性を痛感するとともに、また海防のあり方についても大きな改革の必要性を強く感じるようになり、その考え方を幕府にも共有させるべきだと考えるようになっていきます。

高島流砲術

この当時、江戸を中心とする幕府の沿岸備砲は旧式のものばかりで、幕府のみならず多くの諸藩の砲術の技術も古来から伝わる和流砲術であり、建造された各地の砲台も古色蒼然としたものばかりでした。

こうした情勢の中において国防に強い危機感を感じていた尚歯会の面々は、洋学知識の積極的な導入を図り、英龍も彼らの中にあって積極的に知識の吸収を図ろうとしていました。

ちょうどそのころ、英龍と同様に自藩の三河国田原藩で海防問題を抱えていた渡辺崋山は、長崎で洋式砲術を学んだという「高島秋帆」の存在を知り、彼の知識を海防問題に生かそうと考え始めるようになりました。

高島秋帆は、1798年(寛政10年)生まれで、渡辺崋山のほうが5才年長。英龍よりも3才年下の人物です。長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の3男として生まれ、その先祖は近江国高島郡 (現滋賀県琵琶湖西北部) 出身の武士でした。

長崎で育った秋帆は、頻繁にオランダの船が入港している様子を若いころから見ながら育っており、このため早くから出島のオランダ人からオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え、1834年(天保5年)、34才のときにこれらの技術を集大成した「高島流砲術」を完成させました。

この秋帆の技術はこのころ既に九州の諸藩において名高く、肥前佐賀藩の武雄領主、鍋島茂義などは自らが秋帆のもとに門下生として入門しています。高島流砲術が完成した翌1835年(天保6年)には、いち早く秋帆から免許皆伝を受けており、この記念のためか、秋帆自らが制作した第一号の大砲(青銅製モルチール砲)が佐賀藩に献上されています。

秋帆はのちに火砲の近代化を訴える「天保上書」という意見書を幕府に提出するなどしてこれを認められ、1841年(天保12年)には、武州徳丸ヶ原(現東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なうなど、我が国初の近代的な砲術家として幕末にその名をとどろかせるようになっていきます。

江川英龍や渡辺崋山がこの高島秋帆と知り合うのはこの3~4年ほど前のことであり、その後、渡辺崋山の門下にあった、下曽根信敦(しもそねのぶあつ)とともに、長崎の秋帆のもとで洋式砲術を学ぶようになります。

下曽根信敦は、英龍より5才年少の1806年(文化3年)生まれ。幕臣で旗本の筒井政憲の次男で、同じく旗本の下曽根信親の養子となり、下曽根家を家督相続後、1835年(天保6年)に渡辺崋山の門人となりました。

後年、秋帆から西洋砲術を学んだ下曽根と英龍は、それぞれ自らが学んだ砲術を伝えるために「砲術塾」を設立していますが、下曽根と英龍の両方の塾とも、高島流砲術と西洋式兵制を学ぶために諸大名以下多くの門弟が集りました。この英龍が作った砲術塾が、のちの先日のブログでもとりあげた芝の「鉄砲調練所」の前身になります。

信敦はのちの1855年(安政2年)に幕府鉄砲頭に任命され、翌1856年(安政3年)には、新設の「講武所」の砲術師範、1863年(文久3年)には歩兵奉行に任じられるなど、幕府の軍事顧問としてその後も活躍しますが、維新後、明治7年(1874年)死去。享年69才でした。

こうして高島秋帆と知り合い、その西洋砲術を学ぶことで日本を変えていこうと意気さかんであった英龍と崋山でしたが、その二人の行く手を阻む大きな敵がこのころ現れます……(続く)。