最近、やや心境の変化があり、活発にフィールドに出るようになりました。伊豆に落ち着いて3年目に突入し、ようやくあちこちの様子が分かるようにもなり、そうなると、まだ行ったことのない場所への興味ががぜん沸いてきたのが原因であり、そうした場所をしらみつぶしのように漁っています。
暑い夏でもあり、そんな中でもとくに最近よく行くのが渓流や滝といった場所です。
山がちの場所の多い伊豆では、ちょっとクルマを走らせればどこにでも、といったかんじで川があり、そこから少し山合いに入ればこれが渓流となり、さらに奥へ奥へと分け入ると、あちこちに滝があります。
名のないものが多い中で、有名なものとしては、演歌でご存知、浄蓮の滝や、河津町にある河津七滝(ななだる)などがあり、このほか有名どころは、万城の滝、旭滝、雄飛滝などです。
このうちの最後の二つ、旭滝と雄飛滝はウチからもクルマで十数分のところにあり、とくに旭滝の周りはきれいに整備されていて気持ちが良いので、ついつい長居をしてしまいます。
高低差100mあまりもある大滝で、細かくみると、6段に分かれており、真東を向いていて毎朝朝日を受けることから、この名がつけられたようです。
先日もここを訪れて、展望台から写真を撮り、ウチに持ち帰って現像をしていたところ、なにやらぼーっとした白い影のようなものが映っているのに気が付きました。ゴミかな、あるいはハレーションかなと思ったのですが、どうみても違うようで、拡大してみたりしているうち、これはあー「玉響(たまゆら)」だ、と気が付きました。
オーブ現象とも呼ばれる。写真などに映り込む小さな水滴の様な光球です。肉眼では見えず写真でのみ確認され、信じない人も多いようですが、霊魂が姿を現したものとされます。なぜに私の写真に写りこんだのかは謎ですが、一般に霊からの何等かの働きかけがあるときに現れるといい、私に何かを伝えたかったのかもしれません。
実はここには以前、功徳山瀧源寺という伊豆では唯一の普化宗の寺院がありましたが、明治初年に廃宗となりました。修験宗などとともに、普化宗では葬式をしなかったそうで、虚無僧たちの亡きがらはここにあった本堂の境内に埋葬だけされていたようです。
江戸時代にはここにその本堂と観音堂があり、本尊であった、木彫11面観音菩薩立像と木彫不道明坐像の2体は静岡県の県指定文化財となり、この旭滝のある谷から尾根を一つ隔てて南側の谷にある、「金龍院」というお寺に安置されているそうです。
ちなみに、この金龍院というのは、北条幻庵の菩提寺になっています。北条早雲と駿河の有力豪族であった葛山氏の娘との間に生まれた3男で、早雲の男子の中では末子となります。幼い頃に僧籍に入り、箱根権現社の別当寺であった、金剛王院に入寺しました。
箱根権現は関東の守護神として東国武士に畏敬されており、関東支配を狙う早雲が子息を送って箱根権現を抑える狙いがあったと見られます。
幻庵はここで僧侶としても活躍しましたが、馬術や弓術に優れ、甲斐の武田信虎や上杉謙信との合戦にもたびたび出陣して戦功をあげており、早雲亡きあとは、一門の長老として宗家の当主や家臣団に対し隠然たる力を保有していました。天正17年(1589年)に死去。享年97という当時としては驚異的な長寿でした。
幻庵の死から9ヵ月後の天正18年(1590年)、後北条氏は豊臣秀吉による小田原成敗で攻めたてられて敗北し、戦国大名としての後北条家は滅亡しました。
伊豆一帯は、この後北条氏とゆかりの多い場所が多いものですが、従ってこの旭滝のある近辺もまた後北条氏と縁の深い場所のようです。
話しは戻りますが、この功徳山瀧源寺がなぜ廃寺になったかといえば、これは、明治に入ってからの明治政府による神仏分離令や廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の余波によるものです。仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃した政策で、このお寺もこのときに廃されたようです。
神仏分離令は、そもそも神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではありませんでしたが、神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われ、結果として多くの寺も廃されるところとなり、これが廃仏毀釈といわれるようになったものです。
このとき、瀧源寺が廃寺となっただけでなく、普化宗そのものも廃宗となりましたが、その理由は、普化宗が徳川幕府の意向を受け、ある任務を帯びた特殊な宗派だったためです。普化宗は「宗」と称して仏門を標榜していましたが、実際には教義や信仰といった内実はほとんどなく、禅の修行のみが仏的な活動だったようです。
宗徒は、いわゆる「虚無僧」と呼ばれる人々で、尺八を「法器」と称して托鉢のために吹奏して日本中を行脚して回っていましたが、実際には諸藩の内情を探るといった、スパイ的な要素も強かったようです。
1614年(慶長19年)に江戸幕府より与えられたとされる「慶長之掟書」には、この虚無僧を保護する旨の文々が書かれており、普化宗が江戸幕府からの保護を受けて特別の任務を持っていた、とされる根拠となっています。
そこには、普化宗の山門は、勇士である浪人の隠れ家であり、守護(警察)も入ることのできない宗門(禅宗)である。よって武家の身分である事を理解すべきである、といったことや、虚無僧は、木太刀、懐剣などを心にとめ所持しなければならない、といったことが書いてあります。つまりは仏門に入った人々というよりはむしろ、武士です。
また、武家としての正しい行いを見失わず、武者修行の宗派と心得なければならない、とし、このため、日本国中の往来を許可する、とも書いてあり、この一文をもとに、その後普化宗では、虚無僧としての入宗資格や服装なども細かく決められるなど組織化されました。
この文書により、諸国通行の自由など種々の特権を得ることになったため、いわゆる「隠密」の役も務めたとも言われます。今で言う「秘密警察」のようなものであり、しかも幕府御用達の特別警察です。
こうした江戸幕府との繋がりの強かった秘密組織を明治政府が残しておくわけはありません。このため、宗派そのものは、1871年(明治4年)に解体されなくなってしまい、これと同時に旭滝がある場所にあったような普化宗のお寺の多くが廃寺となったり、他の宗門に吸収合併されたりしました。
しかし、明治23年(1890年)に東福寺の塔頭(たっちゅう、祖師や高僧の墓塔の側に建てられた小院)である善慧院に「明暗教会」として復興されたほか、戦後の1950年(昭和25年)には、宗教法人として「普化正宗明暗寺」が再興されており、現在では普化宗は復活しています。
廃仏毀釈前の普化宗の総本山は、下総国小金(現在の千葉県松戸市小金)にあった、金龍山梅林院一月寺でした。
また、武蔵野国幸手藤袴村(現在の埼玉県幸手市)にも廓嶺山虚空院鈴法寺を開創し、この二寺を中心として、全国に普化宗末寺120を持つほどの大組織を持つまでになりましたが、廃仏毀釈後の一月寺は日蓮正宗の寺院となり、鈴法寺は廃寺となりました。
昭和になってから復興した明暗寺は、京都市東山区にありますが、この「明暗」というのは、時代劇でよく虚無僧が首からぶらさげている箱に書いてあるあれです。一見宗教的な意味を持っているように思えますが、実際は「私は明暗寺の所属である」という程度の意味です。
この箱には名称があり、偈箱(げばこ)といいます。が、「明暗」の文字は江戸期にはなく、明治末頃から書かれるようになったもので、虚無僧の姿を真似た大道芸人が虚無僧の雰囲気出すために用いたものが流行るようになったものです。
従って、江戸時代がテーマの映画やドラマに出てくる虚無僧が下げている箱に「明暗」と書かれているのは時代考証的には間違いということになります。
偈箱の、「偈」とはこれすなわち尺八の譜面のことです。この中には偈の他、お布施等が入っており、江戸時代には、天皇家の裏紋である円に五三の桐の紋が入っており、「明暗」などとは書かれてはいませんでした。
現在の時代劇では、よく虚無僧の恰好をして世間を欺く人物が描かれたりしますが、江戸時代にも実際にこうした偽物の虚無僧が横行していたようで、こうした偽虚無僧も本物らしく見せるためにこの皇室の裏紋を用いていたようです。
この当時の虚無僧の装束としては、深網笠をかぶり、白の手甲、脚絆に草鞋、あるいは草履、下駄等をはき、手には尺八、左手に数珠、また左の腰には袋に入れた替え笛を挿し、偈箱を首からさげている、といった風情です。
この虚無僧のトレードマークともいえる尺八ですが、これを門徒の虚無僧たちに使うように広めたのが普化宗の開祖といわれる、「心地覚心」です。もともとは、臨済宗の僧で、29歳の時に奈良東大寺にて受戒、高野山で真言密教を学びますが、さらに密教禅を深めるために、1249年(建長元年)にこの当時「宋」であった中国に留学しました。
5年ほどで帰国し、その後多くの宗教家に影響を与えましたが、この帰国の際には中国普化宗の4人の高僧を伴って帰ってきており、この4人は、紀伊由良の興国寺山内に「普化庵」という小寺を建ててもらってここを居所としました。
4人の帰化した居士は、それぞれ4人の法弟を教化し16人に普化の正法を伝え、16の派に分かれていき、これがさらに全国に広がることで、普化宗は大組織になっていきました。
この4人の中国僧のパトロン的存在だった心地覚心が、尺八を中国から持ち帰って広めたとされるわけですが、実は尺八はこれ以前からもありました。有力な説としては7世紀ごろに唐の学者で呂才という人が考案したというものがありますが、日本に伝来したのもこのころのことのようです。
「尺八」の名前の由来は標準の長さが一尺八寸である事に由来していると言われています。日本に伝わった時は雅楽楽器として伝わりましたが、平安時代頃には使われなくなってしまいました。その後、鎌倉時代になって、これを基にしたと思われる「一節切(ひとよぎり)」と呼ばれる縦笛が広まりました。
これは、五孔一節で真竹の中間部を用いたものであり、尺八と比べるとやや細めです。義経が九条大橋の欄干に立って吹いていたのは横笛ですが、おそらくはこの一節切の発展形でしょう。この一節切は武士の嗜みの一つとしてこの当時の武家社会で大いに流行し、上述の北条幻庵などもその名手の一人として知られ、所蔵の一節切が残っています。
「田楽法師」と呼ばれるこの当時の旅芸人の中には、これを吹いて物乞いをする集団が現れ、やがてはこの集団は、「薦僧(こもそう)」と呼ばれるようになりました。
この集団がやがて普化宗と結びつき、「薦僧」の音がもじって、「虚無僧」となっていったと考えられます。心地覚心はちょうどこのころ日本では廃れていた尺八を携えて宋から戻り、自身が興した普化宗の門徒の間で広めたと考えられます。
この心地覚心が持ち帰った尺八の演奏技術は、「竹管吹簫(ちくかんすいしょう)」と呼ばれるもので、それなりの奥義であったようです。一節切の演奏方法にもこの奥義が適用されるようになり、さらに普化宗の創設とともに「法器」に指定され、形も工夫されて現在に伝わる尺八に変わっていきました。
が、一方の一節切は17世紀後半に全盛を迎えたのち、その後急速に衰退していきました。ちなみにこのとき、心地覚心は尺八以外にも「金山寺味噌」を持ち帰っており、これは彼が宋で学んだ径山寺(きんざんじ)で製造されていた味噌の製法を模したものと言われています。
やがて、虚無僧と呼ばれるようになった普化宗の門徒たちは、尺八を吹き喜捨(金品を寄付すること)を請いながら諸国を行脚し、修行するようになっていきました。しかし「僧」と称していながら剃髪しない半僧半俗の存在であり、有髪の僧でした。
最初のころは普通の編笠をかぶり、白い小袖を着て袈裟を掛け、刀を帯しただけといったシンプルな姿でしたが、江戸時代になると徳川幕府の命によって、「天蓋」と呼ばれる深編笠をかぶることが強要され、足には5枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つという固定スタイルになりました。
幕府は、上述のとおり、「慶長掟書」を普化宗に与え、そこには「武者修行の宗門と心得て全国を自由に往来することが徳川家康により許された」との記述があったため、これをもって虚無僧は普通の人がいけないような場所にも行くことが許されていました。
しかし、その原本は徳川幕府や普化宗本山である一月寺や鈴法寺にも存在しないため、実は偽造ではないかともいわれています。最初のころはたしかに幕府からスパイを命じられることもあったかもしれませんが、そのためだけに永世許可証を与えられるとは考えにくく、普化宗門徒たちが自分たちの特権を守り続けるために捏造したのでしょう。
が、真偽のほどはわかりません。とはいえ、幕府からもその存在が認められた天下無双の秘密警察、という暗黙の了承が世間でまかり通るようになり、幕府も野放しにしていたことから、やがては罪を犯した武士でも普化宗の僧となれば刑をまぬがれることたができるようにまでなりました。
江戸時代中期以降には、遊蕩無頼の徒が偽虚無僧になって横行するようになり、このため、幕末近くになると、幕府は虚無僧を規制するようになりました。しかしその後、明治維新を迎え、新政府は明治4年(1871年)、普化宗を廃止する太政官布告を出しました。この結果、虚無僧たちは僧侶の資格を失い、民籍に編入されることになりました。
しかし、前述のとおり、明治21年(1888年)に京都東福寺に明暗教会が設立されてからは、虚無僧行脚が復活し、現在に至っています。
とはいえ、現在に至っても本当に虚無僧はいるのか?という疑問がわきます。調べてみたところ、「虚無僧尺八」の愛好者として、この京都東福寺善慧院内の明暗教会会員が約200名ほど、東京新宿区の法身寺というところに本部を置く「虚無僧研究会」のメンバーが約600名ほどもいるとのことで、両会に重複している人を除けば700人程度になるようです。
ちなみに、江戸時代でも虚無僧の数も数百人程度だったそうで、あまり実数はかわりません。ただ、これら現代の虚無僧愛好者もまた、江戸時代と同じように日常的に虚無僧姿で全国行脚しているかというとそうではなく、各会がそれぞれ年1、2回開催する大会に出席するか、何かのイベントがあると虚無僧姿で尺八を吹くだけのようです。
とはいえ、こうした会員の間での、普化禅師の禅、普化道を究めようとする精神性は高いそうで、そうした意味では江戸時代の、純真な虚無僧の精神を引き継いでいるといえるようです。
ちなみに、虚無僧が、自宅を訪れたとき喜捨を断わる場合には、「手の内ご無用」と言って断わるそうです。「手の内」とは、手のひらです。そして、何かものをもらう時には手のひらを見せて「ください」とやるわけです。
つまり、「手の内ご無用」とは、「手のひらを見せないでください」、つまり、「托鉢お断り」の意味になります。お宅にある日突然、虚無僧が現れたら、試してみてください。無論、ありがたく拝んで、喜捨を行うほうが功徳があるに決まっていますが。
こうした「純正」の虚無僧以外にも、尺八の愛好者は多いようで、その吹奏人口については正確な人口は不明ですが、推定では3万人程度もいるといわれているようです。
現行の尺八は、真竹の根元を使用して作る五孔三節のものです。古くは一本の竹を切断せずに延管(のべかん)を作っていましたが、現在では一本の竹を中間部で上下に切断してジョイントできるように加工したものが主流です。
これは製造時に中の構造をより細密に調整できるとの理由からのようですが、結果として持ち運びにも便利になりました。材質は真竹ですが、近年では木製の木管尺八やプラスチックなどの合成樹脂でできた安価な尺八が開発され、おもに初心者の普及用などの用途で使用されています。
明治時代以降は、西洋音楽の影響により、七孔、九孔の尺八も開発され、五孔の尺八に比べれば主流ではないものの多様な音が楽しめるためか、こちらを好んで使う人もいるようです。
現行の尺八の管の内部は、管の内側に残った節を削り取り、漆の地(じ)を塗り重ねることで管の内径を精密に調整します。これにより音が大きくなり、正確な音程が得られます。
これに対し「古管」あるいは「地無し管」と呼ぶ古いタイプの尺八は、管の内側に節による突起を残し、漆地も塗りません。正確な音程が得られないため、奏者が音程の補正をする必要があります。
尺八はフルートと同じく、奏者が自らの口形によって吹き込む空気の束を調整しなければなりません。リコーダーのような縦笛なら、歌口の構造の工夫があるため初心者でも簡単に音が出せますが、尺八やフルートで音を出すには熟練が必要です。
しかし、口腔内の形状変化や流量変化等により、倍音構成はよく通る音色や丸く柔らかいものなど、適宜変化させることができ、メリ、カリ、つまり顎の上下動(縦ユリ)、あるいは首を横に振る動作(横ユリ)によって、一種のビブラートをかけることができます。
これによって、フルートなどの息の流量変化によるビブラートとは異なり、独特の艶を持つ奏法が可能であり、こうしたところも尺八の愛好者が多い理由でしょう。ひとつひとつ微妙に構造が変わる尺八のもつ個性もまた様々に音色を変化させるため、これもまた愛好家にとってはたまらない魅力となっているようです。
尺八にも流派があり、組織として大きいのは「都山流」というそうです。1896年(明治29年)、といえば、明治21年(1888年)に明暗教会が設立されてからわずか後ですが、この年に、「中尾都山」という人が興した流派のようです。
中尾都山は独自の記譜法を使い、箏の奏者で文筆家としての評価も高かった宮城道雄という人らとも積極的に交流し、尺八と琴の合奏を広めました。この都山流はすぐに全国に広まって大組織となるとともに、この流派の所属者の中からは洋楽を学んだ作曲者も出て、新しい曲を作曲して多様なスタイルで演奏されるようになり、現在に至っています。
しかし江戸時代には、「琴古流」というのが主流だったようで、この流派は元黒田藩の藩士であった黒沢琴古という人によって創始されました。江戸へ出て一月寺や鈴法寺の吹合指南役となりましたが、天賦の才があったようで、この際にそれまでの尺八曲の整理を行い、全36曲の琴古流本曲を制定しました。これが尺八の世界では「古典」とされるものです。
その後3代に渡って、「黒沢琴古」の名跡を残しましたが3代目で途絶え、琴古流はその後、弟子の荒木古童らが隆盛を築いていき、現在も続いています。ちなみに、この荒木古童の名跡も現在、6代まで続いており、この6代目荒木古童の本名は荒木半三郎さんといい、自らCDを出し、こうした活動から数々の世界的な賞を得ています。
尺八曲に「滝落」という曲があり、古典本曲をやっている人ならば、「おぉぉ・・あれか・・」というほど有名な曲なのだそうです。そして、これは先の琴古流の36曲の中に入っている一曲だそうです。
その尺八の名曲は、冒頭で述べた旭滝から生まれたと言われており、現地に行くと、滝のすぐ側にそのことが書かれた説明板が建てられています。この地にあった寺は廃されてしまいましたが、ここで生まれた曲は今も残り、この地に伝えられていた虚無僧たちの精神もまた現在に伝わっているわけです。
写真に写っていた大きな玉響は、おそらくはこの地で修業を重ねていたかつての虚無僧であり、きっと私に今日これまでに書いてきたことなどをきちんと伝えてくれよ、と言いたかったのに違いありません。
あるいは前世でスパイだったこともあるらしい私にシンパシーを覚えて出てきてくださったのかもしれませんが、実は先にこの滝を訪れたときから、ずーっと右肩が痛いのが続いており、これはもしかしたら何等かの霊的なメッセージなのかもしれません。
それが何であるのか、解き明かされる日が来るのが楽しみです……