修善寺梅林の梅が見ごろです。
毎年、地元の観光協会が「梅まつり」と称するイベントを開催するのですが、それが昨日の日曜日まででした。
本来は、梅が満開になるこれからの開催、としたかったのでしょうが、今年の寒さで開花が大幅に遅れた結果、祭りと花の見ごろが合わない、という結果になったようです。
まつりは終わったとはいえ、まだまだ梅の開花そのものは続くでしょうし、おそらくは今週末くらいまでは楽しめるのではないでしょうか。
伊豆市観光協会のHPを確認したところ、このように現在もまだ見頃が続いているため 飲食店組合組合の露店3軒ほどが、3月11日(日)まで営業予定だそうです。これから伊豆方面へ出かけられる方は、ぜひお立ち寄りください。
この修善寺梅林ですが、麓の温泉街から車で5分ほどの山の上にあります。樹齢100年を越える古木や樹齢30年程度の若木を合わせて、20種、約1000本の紅白梅が植えられています。山腹にあることから、富士山も望むことができ、伊豆にあってはめずらしく富士と梅の両方が鑑賞できるスポットになります。
樹齢100年以上の古木がある、ということは、おそらく明治の終わりか、大正の初めごろに開園したのではないでしょうか。1924年(大正13年)には、伊豆箱根鉄道駿豆線が、大仁駅から修善寺駅までの延伸が完了しており、おそらくはこれに合わせ、より観光客を増やすために梅林などを整備したのではないかと、推測します。
この翌年の大正14年には、芥川龍之介が修善寺温泉を訪れ、長期滞在しています。おそらくこのとき、梅林もできていたのではないかと思われますが、ただ、残念ながら、見ごろが終わった4月に入ってからの来訪でした。
4月10日から約1カ月、今も温泉街に君臨する老舗旅館、「新井旅館」に滞在した芥川龍之介は、絵入りの手紙を奥さんと伯母宛てに送っており、そこにはこう書かれていたそうです。
「…をばさん、おばあさん、ちょいと二、三日お出でなさい。ここのお湯は(手描きのスケッチが入る)言う風になっていて水族館みたいだ。これだけでも一見の価値あり。(大正14年4月29日付)」
芥川が「水族館みたい」と例えた風呂は、この新井旅館の名物風呂で、風呂場の下方の窓越しに池の中が覗ける造りになっており、人の気配を感じると鯉が窓辺まで寄ってくるしかけで、珍しモノ好きだった彼はこれに興奮したようです。
ところが、実は芥川は、大の風呂嫌いだったそうです。作家の中野重治が、彼の死後に追悼文を書いており、そこには「この人は湯になどはいらぬのか、じつにきたない手をしていた。顔なども洗わなかったのかもしれない」とあります。
その風呂嫌いな彼が人に勧めるほど、彼はこの「水族館風呂」に惹かれたのでしょう。毎日のように入っていたようです。多忙のため体調不良に悩みながらも、こうして入浴も楽しみながら、滞在中に短編「温泉だより」「新曲修善寺」などを書き上げています。風呂は昭和9年に改築されましたが、同じ景色が今もこの旅館では体験できるとか。
芥川は、短編小説を書き、数多くの傑作を残しました。しかし、その一方で長編を「物にすることはできなかった」という評価があるようで、そういわれてみれば、彼の小説で長いものを読んだ記憶がありません。
生活と芸術は相反するものだと考え、生活と芸術を切り離すという理想のもとに作品を執筆したともいわれています。修善寺を訪れたのも、田端にあった自宅での生活から仕事を切り離したかったからかもしれません。
芥川は1927年(昭和2年)に35歳で亡くなっており、この修善寺訪問はそのわずか2年前のことでした。
死の前年の1926年(大正15年)ころから、胃潰瘍・神経衰弱・不眠症が高じ再び湯河原で療養。さらには鵠沼(神奈川県藤沢市)に移動して、ここの旅館東屋に滞在して妻子を呼び寄せるなど、各地を転々としています。
このころからもう既に自殺を考えていたのか、自分のこれまでの人生を見直したり、生死に関する作品が多く見られるようになりました。彼の初期のころの作品より、こうした晩年のものの方を高く評価する見解もあるようです。
1927年(昭和2年)1月、義兄の西川豊(次姉の夫)が放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられて鉄道自殺するという事件がありました。このため芥川は、西川の遺した借金や家族の面倒を見なければならなかったといい、このころから心労が重なっていったようです。
さらには、この年の4月上旬、芥川の秘書を勤めていた女性(平松麻素子)と帝国ホテルで心中未遂事件を起こした、という話もあるようです。が、後年、松本清張は、事実はこれとは異なり、女は芥川と帝国ホテルで心中する約束をしたものの、直前になって約束を破ったため心中には至らなかった、としています。
いずれにせよ、このころ既に尋常な心境ではなかったのでしょう。7月24日未明、「続西方の人」を書き上げた後、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺しました。ただ、服用した薬には異説があり、青酸カリによる服毒自殺ではなかったか、とする説もあるようです。
亡くなった日の朝、文夫人は「お父さん、良かったですね」と彼に語りかけたという話もあるようで、奥さんは彼の苦しみを知っていたのでしょう。
遺書として、妻・文に宛てた手紙や親しかった菊池寛などに宛てた手紙があります。その中で自殺の動機として記した「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」との言葉は、今日一般的にも有名です。
伊豆において彼が残した痕跡というものは特にないようです。新井旅館では、「月の棟」という、現在登録有形文化財にもなっている、棟の一室に籠もり執筆に明け暮れたといいます。
お泊りの際は拝観を申し出てはいかがでしょう。結構高級旅館ですが…