白瀬

テレビにくぎ付けの半月ほどが過ぎました。ここへきてようやく一段落した感があります。

がしかし、オリンピック・ロスに見舞われている人も多いのではないでしょうか。

メダル13個獲得という日本人選手たちの大活躍は歴史に残るものであり、全期間を通じてこれほど盛り上がった冬季オリンピックはないわけですが、それだけに、終わったあとの脱力感は否めません。

それはそれとして、私的には、今回のオリンピックの日本でのNHKをはじめとする各テレビ局の放映に関しては、少々食い足りない感じが残っています。

というのは、私がかつてやっていた射撃にまつわる、バイアスロンに関する放映がまったくといっていいほどなかったこと。また、ボブスレーやリュージュ、スケルトンといった、橇(そり)競技に関しても、こちらもほとんど放映されませんでした。

日本人の参加選手が少なかったということもあるのでしょうが、こうした近代競技もまた、冬のオリンピックの花であり、もう少し放送枠を持って欲しかったな、と思ったりするわけです。

そこで、今日はソリにまつわる話を少し書いて行こうかな、と思います。

もともとソリとは、雪上の「運搬具」でした。雪上の運搬具・交通機械として、雪上で荷重を広い面積に分散させて沈下を防ぎ、けん引力と運動速度が得られるような構造である必要があります。そこから数多くの種類のソリが発明されましたが、オリンピック競技に使われるソリも無論、その延長上にあります。

ただし、ソリは自力では動くことや方向を転換することができません。動かすためには動力が必要であり、その牽引者ごとに、人引そり、イヌぞり、馬そりなど各種の形態があります。

このうち、イヌぞりに関しては、19世紀から20世紀の初頭にかけて、主にイギリスの探検隊により、極地方の探索に用いられることでその実力が認められるようになりました。アムンセンの他、多くの探検隊が使い、スノーモービルに取って代わられるまで、極地方の主要な交通手段でもありました。

アムンゼンのことを知っている人は多いでしょう。ロアール・アムンセン(Roald Engelbregt Gravning Amundsen)はノルウェー人。1872年7月16日に生まれ、1928年に56歳でなくなりました。日本では「ロアルト・アムンセン」、「ロアルド・アムンゼン」などとも表記されます。

極地に挑んだ探検家として知られるこの人物は、イギリス海軍大佐のロバート・スコットと人類初の南極点到達を競い、1911年12月14日には人類史上初めて南極点への到達に成功しました。また、1926年には飛行船で北極点へ到達し、同行者のオスカー・ウィスチングと共に人類史上初めて両極点への到達を果たした人物となりました

スコットのほうもまた、南極探検家としても知られ、1912年に南極点到達を果たしましたが、帰途遭難し、死亡しました。しかし、アムンゼンに遅れること1ヶ月後に南極点に到達し、英国国旗を立てることができました。

映画などでは劇的効果を高めるため、南極点到達直前に、スコット隊がアムンセン隊に先を越されたように描写されることが多いようです。しかし、スコットたちはそれよりかなり前にアムンセン隊のそりの滑走痕を視認しており、遅くともアムンセンの南極点到着よりおよそ一か月前の1月16日には彼らに先を越されたことを認識していました。

失望に覆われたパーティーは、それでも南極を目指し、二番手とはいえ、見事悲願を達成したわけですが、その背景には、大英帝国という国家を背負っていた、という事情がありました。祖国の栄光を世界に知らしめるという重い責任を感じて頑張ったにもかかわらず、彼らはその帰途全員が死亡しました。




スコット隊がロアール・アムンセン隊に敗れ、遭難死した理由については、その当時から数多くの人が分析を行っており、以下のような分析結果が残っています。

・アムンセン隊は犬ぞりとスキーによる移動で極点に到達したが、スコット隊は主力として馬を用い、これによる曳行がことごとく失敗した。寒冷な気候に強い品種の馬を用意していたものの、体重が重いため雪に足をとられたり、クレバスに転落した馬も多く、また生存できる耐寒温度を遥かに下回っており、馬は体力の低下とともに次々に死んでいった。

・アムンセン隊では現地に棲息する海獣を狩るなどして携行食糧を少なめに抑えたが、スコット隊は全ての食料を持ち運んだ。特に馬のための干草類は現地では全く入手できるものではない上、馬の体力消耗で思いのほか早く尽きてしまった。

・アムンセン隊が南極点到達を最優先していたのに対し、スコットは地質調査などの学術調査も重視しており、戦力を分散させる結果となった。アムンセン隊は南極点への最短距離にあたるクジラ湾より出発したが、スコット隊は学術的調査の継続のため、より遠いマクマード湾より出発せざるを得なかった。

・スコット隊の最終メンバーは、43歳のスコットを筆頭として30代が中心であり、30歳未満の若い隊員はバウアーズ1人だけであった。

スコット隊が南極に着いたとき、彼らはアムンセン隊が残した手紙を発見しています。アムンセン隊もまた、無事に帰還できるかどうかの自身がなく、自分たちも全員遭難死した場合に備え、自分たち以外の到達者に初到達証明書を持ち帰ってもらうため、手紙を残していたのでした。

しかし、手紙を持ち帰ろうとしたスコット隊は、その後悪天候のせいもあって全滅しました。ただ、のちに彼らの遺体が発見されたときにこの手紙も発見され、アムンセン隊の南極点先達が証明されました。またこの時発見された手紙は大事に梱包されており、これは、「自らの敗北証明を持ち帰ろうとした行為」としてスコット隊の名声を高めました。

この手紙とともに、スコット本人の遺書も発見されました。スコットの遺族・隊員の遺族ら計12通にしたためられた手紙には、隊員の働きを称える文章がつづられており、遺族への保護を訴えるとともに、キャサリン夫人に対しては、相応しい男性と出会えば再婚を勧めるという、涙を誘う内容が書かれていたそうです。

その後、無事に帰還するとともに、人類初の南極点を果たしたアムンセンは、独立間もないノルウェーにおいては、国民のナショナリズムを喚起し、国民的英雄となりました。

多くの講演活動をこなし、探検旅行の費用の負債を返済するとともに、アメリカにおいても英雄としてたたえられ、自国よりも多くの時間をアメリカで過ごしました。しかし、自国の悲劇の英雄、スコットをひいきにするイギリスでは冷たく扱われたといいます。

アムンセンは南極からの帰還後も、ドルニエ・ワール飛行艇や飛行船ノルゲ号によって北極点通過を行い、人類初の両極点到達を果たすなど、精力的に活動しました。1927年には報知新聞の招待で日本にも来ています。

しかし晩年は必ずしも恵まれた人生とはいえませんでした。その理由は、新発明である飛行機や飛行艇を探検に使うことに熱心であっため、その購入や探検費用に莫大な金を費やしたからです。講演収入を使い果たし、ついには破産の憂き目にもあいました。

1928年、北極を飛行機で探検中に偶然、近くで同じく北極を探検していたイタリア探検隊の遭難の報がもたらされました。隊長は、イタリア王国の探検家ウンベルト・ノビレで、ファシスト政権からの国家援助によって新たな飛行船を設計、完成した飛行船イタリア号で二度目の北極探検を実行中でした。

ところが、極点到達後の5月25日、飛行船は極氷の中に墜落して、ゴンドラ部分と気嚢部分が分離してしまった。ノビレら生存者は脱落したゴンドラ部分にいましたが、気嚢部分に残っていた隊員達は行方不明になりました。生存者たちは飛行船の無線機でSOSを発信、さらにテントを赤く染めて目印とし、救助を待ちました。

これに対して、アムンセンは、ノビレ隊の捜索に「ラタム 47」という飛行艇で救出に向かいましたが、その途中、ノルウェー沖で消息を絶ちました。その後、ノルウェー北部トロムスの海岸線付近で、ラタム 47のフロートとガソリンタンクのみが発見されましたが、結局本人の遺体は確認されませんでした。行方不明になったとき、56歳でした。

その後、70年以上の時を経て、2004年と2009年にノルウェー海軍が自律型無人潜水機で再度捜索を行いましたが、現在まで機体および遺体の発見には至っていません。ちなみに、ノビレは、ノルウェー空軍のテストパイロット、エイナー・ルンドボルイによってその後無事に救出されています。

アムンセンは、南極点到達以外にも、北西航路横断の成功や磁北極地域の探険などの数々の業績を残しており、今もノルウェー国民に語り継がれる英雄です。



実は、このアムンセンとスコットとほぼ同時に南極に挑んでいた日本人がいました。南極観測船「白瀬」で知られる、白瀬 矗(しらせ のぶ)です。

アムンセンの南極到達に先立つ1日前の明治45年(1912年)1月16日に、開南丸で南極大陸に達しましたが、さらにその翌日にスコットが南極点に到達しており、結局、二人とは違って、南極点に到達するという偉業は成し遂げることができませんでした。

白瀬隊が接岸した湾を彼らは、「開南湾」と命名しましたが、上陸して探検を開始するには不向きであったため、再び開南丸で移動、すぐ近くのクジラ湾に向かい、ここから再上陸し、1月20日に極地に向け出発しました。しかし、このときにはもう既に南極点到達を断念しており、探検の目的を南極の学術調査とともに領土を確保することに変更しています。

なお、白瀬隊は、南極点初到達から帰還するロアール・アムンセンの探検隊を収容するために来航していたフラム号とクジラ湾で遭遇しており、限られた形ながらスウェーデン隊と接触しています。

ちなみに、このクジラ湾というのは、南極大陸の一番下(南極なので「南部」とは書けない)に大きく口を広げた「ロス海」にあり、湾の名称はイギリスの探検家、アーネスト・シャクルトンが1908年にニムロッド号でここを探検し、多数のクジラを観察したことにちなみます。また、白瀬矗も海面を埋め尽くすシロナガスクジラの様子を記録しています。

クジラ湾から南極点を目指した白瀬ら27人の隊員の簡素な装備は、イギリス隊やノルウェー隊に比べるとはるかに貧相なものだったといわれています。このため、前進は困難を極め、28日には既に帰路の食料もままならないほど消耗してしまっており、南緯80度5分・西経165度37分の地点に到着したところで、それ以上の前進を断念しました。

彼等はこの場所一帯を「大和雪原」と命名し、隊員全員で万歳三唱。同地には「南極探検同情者芳名簿」を埋めました。さらに、日章旗を掲げ、「日本の領土として占領する」として、先占による領有を宣言しました。

その後、昭和に至るまでこの地は日本の領土とされてきましたが、第二次世界大戦の敗戦時に、日本はこの領有主張を放棄。しかし、この地点は棚氷(たなごおり)であり、陸上から連結して洋上にあるだけの氷の地であって、領有可能な陸地ではないことが後に判明しています。

この白瀬矗という人物ですが、この時代の世界各国の探検家の多くが軍人であったように、彼もまた大日本帝国陸軍の元軍人でした。

文久元年6月13日(1861年7月20日)、出羽国由利郡金浦村(現在の秋田県にかほ市)に長男として生まれました。父・知道は、浄蓮寺という寺の住職でした。

南極探検以後になって出版した自伝によると、幼年時代の彼はかなりのわんぱくだったようで、自らも、「狐の尻尾を折る」「狼退治」「千石船を素潜りで潜ろうとして死にかける」「150人と血闘」などと書いており、子供のころから冒険好きだったようです。

8歳の頃に、平田篤胤の高弟ともいわれる医師で蘭学者の「佐々木節斎」という人物の寺子屋に入り、ここで佐々木から読み書きソロバンや四書五経を習います。佐々木は、このころ白瀬に、コロンブスやマゼランの地理探検、そしてジョン・フランクリン隊の遭難(フランクリン遠征)などの話を聞かせたといいます。




11歳になったころ、同じ佐々木より北極の話を聞いた白瀬は、このときから探検家を志すようになります。これに対して佐々木は、どうしても探検家になりたいなら、と前置きして、次の5つの戒めを教えました。それは…

酒を飲まない
煙草を吸わない
茶を飲まない
湯を飲まない
寒中でも火にあたらない

というものでした。実際、白瀬はこの戒めを18歳頃から守るようになり、生涯この戒めを守り続けたとされます。

20歳になった彼は、陸軍に入隊し、のち陸軍輜重兵伍長として仙台に赴任します。翌年、宇都宮で行われた大演習に騎兵として参加し、のちの陸軍大将、児玉源太郎と知り合っています。 明治20年(1887年)には仙台市二日町の海産問屋の娘、やすと結婚。 陸軍輜重兵曹長、下副官と昇進し明治26年(1893年)、32歳で予備役となりました。

予備役となる二年前、29歳になったとき、仙台で児玉源太郎に面会を申し入れており、このときはじめて、北極探検の思いを児玉に伝えました。児玉は「書生論的空理空論だ」と突き放しましたが、そう断じた上でなお、「北極探検を志すなら、まず樺太や千島の探検をするように」と薦めました。

この児玉の助言に従い、白瀬は千島探検を志すようになります。明治26年(1893年)、幸田露伴の兄である「郡司成忠」大尉が率いる千島探検隊(千島報效義会)に加わり、初めて本格的な探検を経験します。

探検隊は悪戦苦闘の末、千島に到着しましたが、その前の暴風雨で19名もの死者を出しており、列島に到着したときは20人弱になっていました。このうちの9名を捨子古丹島(しゃすこたんとう)に、幌筵島(ぱらむしるとう)に1名の隊員を越冬隊として残し、白瀬・郡司ら7名は同年8月31日に最終目的地である占守島(しゅむしゅとう)に到着しました。

この探検隊の目的の一つは、探検だけでなく、冬季に以下に長期間こうした極寒の地で滞在できるか、であり、このころ北方からの脅威になりつつあったロシアへの備えの意味も含めた実験的な遠征でした。このため、彼らはそのまま同島で、2年にわたって過ごし、2度の越冬を経験しました。

しかし、その2年目の越冬は過酷なものとなり、白瀬を含む4人が壊血病に罹り、最終的には白瀬以外の3人が死亡しました。壊血病に罹らなかった2人のうち1人もノイローゼとなり、白瀬も病気による体力の低下から食料の調達が不可能となり、やむなく愛犬を射殺してその肉を食べることで飢えを凌いだほどでした。

白瀬らは明治28年(1895年)8月になって救助されますが、これほどひどい目にあっても極地探検を夢見ており、自分が初めての北極点到達者になると周囲に宣言していたといいます。しかし、明治42年(1909年)、アメリカの探検家・ロバート・ピアリーの北極点踏破のニュースを聞いたときには、傍目で見ていても痛ましいほど失望・落胆したといます。

そこで気持ちを切り替えた白瀬は、北極探検を断念し、その目標を南極点へと変更することにします。ところがその後、イギリスの探検家、アーネスト・シャクルトンが南緯88度23分に到達したことを知ると、白瀬はさらに意気消沈しました。

しかし、まだ極点が極められたわけではなく、さらにその後、同じイギリスのロバート・スコットが南極探検に挑むことが知らされると白瀬は発奮し、即座に競争を決意します。

スコットの遠征にあたっては、イギリスの王立地理学会がその支援をすることが決まっていました。科学調査とともに南極点到達を目標にしており、白瀬が得た情報では、ほかには南極点を目指す探検隊はいないと思われました。

実際にはこのとき、アムンセンが南極遠征の計画を練っていたわけですが、そうした情報はまだ入っておらず、このため、白瀬は自分のライバルはスコットだけ、と思い込んでいました。ライバルが一組だけなら、勝算がある、と考えたのでしょう。

明治43年(1910年)、白瀬は南極探検の費用補助を帝国議会に建議(「南極探検ニ要スル経費下付請願」)します。その結果、この建議は、衆議院は満場一致で可決したものの、政府はその成功を危ぶんでいました。結局、3万円の援助を決定したものも、それ以上の補助金は出さない、ということに決まりました。

この南極遠征にあたっては、少なくとも渡航費用14万円がかかると予想されており、これは現在の金額に換算すると5億円以上にもなります。

その足りない分は国民の義援金に依るところとなりましたが、到底十分な資金を得ることができず、このため、積載量が僅かに204トンという、中古の木造帆漁船を買い取り、これを母船として遠征に乗り出すしかありませんでした。

装備に金もかけられないため、中古の蒸気機関を取り付けるなどの改造を施しましたが、エンジン出力はわずか 18馬力で、これはだいたい現在の125ccのスクーターバイクに相当し、出入港の補助にしか使えないものでした。現在の同じ大きさの船は200~2,000馬力くらいのエンジンを装備しており、これで南極探検に臨むのは無謀ともいえるほどでした。

名前だけは東郷平八郎によって「開南丸」と命名されるなど、一応の体裁を整えましたが、船以外の装備も惨憺たるもので、極地での輸送力として用意できたのは29頭の犬だけでした。同じく南極を目指していたスコットが、モーター雪上車 3台に加え、馬(ポニー) 19頭、犬 33頭を用意して南極に臨んだのに比べるとその貧相さがわかります。



明治43年(1910年)11月29日、開南丸は芝浦埠頭を出港しますが、まるで彼らの先行きを暗示するかのように、この航海中に殆どの犬が原因不明の死を遂げました。

のちにこれは、寄生虫症と判明しますが、南極探検に欠かせない犬を失った彼らは、それを補充するため、行先を南極からニュージーランドへ変更することを余儀なくされます。結局、補充の犬の補てんには数ヶ月がかかり、年明けて、翌明治44年(1911年)2月11日に、ようやくウェリントン港から南極に向けて出港しました。

しかし、すでに南極では夏が終わろうとしており、氷に阻まれて船が立往生する危険が増したため、再度Uターンして、5月1日にシドニーへ入港。度重なる遠征の延期によって資金繰りに困った彼らは、シドニー在住の日系人などから新たに募金を募りました。

その結果集まった資金は十分とはいえるものではありませんでしたが、最低限の物資だけは整え、再度南極へ挑戦します。しかし、その出発はさらに遅れ、結局、南極に到着したのは、年が明けて明治45年(1912年)1月16日のことでした。

このとき、時すでに遅しで、上述のとおり、アムンセンに続いてスコットらが南極点到達を果たしていました。しかし、もしその前年に南極への上陸を果たしていたら、彼らに先んじて南極点にかなり近づくことはできていたかもしれません。

しかし、彼らの装備の貧弱さを思えば、仮に南極点へ向かうことができたとしても、途中で遭難したであろうことは容易に予想され、実際に白瀬らがクジラ湾から上陸したあと、進むことができたのは大和雪原までで、その先の遠征は断念せざるを得ませんでした。

実は、白瀬隊においては装備の不備以外にも、白瀬と他のメンバーとの間で著しい不和があり、とくに書記長の多田恵一、船長の野村直吉などの間でたびたび諍いがあったことが伝えられています。シドニーで滞在していたときには、隊員による白瀬の毒殺未遂事件が起きたとさえ言われており、おそらくは十分でない資金が原因だったのでしょう。

こうして、白瀬らは、2月4日に南極を離れるところとなり、ウェリントン経由で日本に戻ることを決めましたが、いざ南極を離れようとすると海は大荒れとなり、連れてきた樺太犬21頭を置き去りにせざるを得なくなりました。

このことは、のちに波紋を呼びます。参加していた樺太出身のアイヌの隊員2名(山辺安之助と花守信吉)は犬を大事にするアイヌの掟を破ったとして、帰郷後に民族裁判にかけられて有罪を宣告されています。ただ、南極に残された樺太犬のうち、6頭はその後、スコットの捜索に訪れたイギリス隊によって保護され、生還することができました。

こうして、南極点を制覇できなかった白瀬でしたが、この南極遠征は、多くの日本人に感銘を与えました。

南極へ出発する当初、日本国中で「小さな漁船で南極へ向かうのは無謀」などと散々な罵声や嘲笑があったものの、白瀬ら全員が帰国した際は日本中が歓喜に沸きました。約5万人の市民が開南丸の帰還を歓迎し、夜には早大生を中核とした学生約5,000人が提灯行列を行ったといわれます。

皇太子との謁見や各地での歓迎式典が開かれたほか、学術的資料としても、彼らが持ち帰った南極の気象や動植物の記録は重宝がられました。また、ペンギンの胃から出てきた140個あまりの石もまたその後詳しい分析が行われ、貴重なものであることが証明されました。

しかし、帰国後、白瀬本人には、さらに過酷な運命が待っていました。後援会が資金を遊興飲食費に当てていたことがわかり、4万円(現在の1億5千万円)の借金を背負ったのです。隊員の給料すら支払えなかった彼は、自宅、家財道具、軍服と軍刀を売却して、その後、転居につぐ転居を重ねる人生を送ることになります。

このとき白瀬50歳。莫大な借金を返済するために選んだ道は、南極探検の講演を行い、聴衆から講演料を得て、借金の返済にあてることでした。幸い、彼らの南極遠征は写真と動画によって記録されており、白瀬はそうした実写フィルムを抱え、娘と共に日本はもちろん台湾、満州、朝鮮半島を講演して回り、渡航の借金の弁済に努めました。

その後20年余りがすぎました。昭和11年(1936年)、白瀬が75歳のとき、東京科学博物館(現・国立科学博物館)で「南極の科学」展が開かれることになりました。このときも白瀬にもお声がかかり、その講演で出席したほか、同12年(1938年)には国から「大隈湾」「開南湾」命名による感謝状が手渡されました。

おそらく彼が、公の前に出たのはこれが最後だったでしょう。それから10年後の昭和21年(1946年)9月4日、愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)で白瀬は亡くなりました。

享年85の生涯を全うした時、彼が住んでいたのは、次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室だったといい、死因は腸閉塞でした。

その葬儀にあたっては、その部屋の床の間にみかん箱が置かれて祭壇とし、上にカボチャ二つとナス数個、乾きうどん一把が添えられただけだったといいます。弔問するものも少なかったといいます。それもそのはず、近隣住民のほとんどが、ここに住んでいたのが、あの南極探検をやった白瀬矗だということを知らなかったためです。

白瀬の死後も彼の遺骸を引き取る遺族はなかったといいます。おそらくは部屋を貸していた次女もまた、その日の暮らしを案じるような有様だったのでしょう。結局、その窮状を見かねた近くの寺の住職が引き取り、弔ったと伝えられています。

この寺は、名古屋市中川区吉良町にある、浄覚寺という寺で、白瀬の墓もここにあります。墓には「大和雪原開拓者之墓」の墓碑が彫られ、またその前面には南極大陸の地図が彫られているそうです。

名古屋で葬られた白瀬はおそらく、生地である秋田に帰りたかったでしょうが、その彼の故郷の秋田県“にかほ市”にはその後、「白瀬南極探検隊記念館」が建てられました。また、「秋田ふるさと村」(横手市)のマスコットキャラクターである、秋田犬の「ノブ君」の名前は白瀬に由来します。

さらに、彼の死後、ロス棚氷の東岸は、昭和36年(1961年)にニュージーランドの南極地名委員会によって「白瀬海岸」と命名されました。また、南極観測船「しらせ」の艦名は彼にちなんでいます。

昭和45年(1970年)に日本女性として初の小型ヨットによる世界一周を果たした白瀬京子は、白瀬の弟の孫にあたります。「白瀬南極探検隊記念館」の初代館長に就任しましたが、1990年の開館直前に死去。54歳でした。彼女の遺作には、「雪原へゆく 私の白瀬矗(秋田書房、1986)」があります。