詐欺師考

日々、繰り広げられる冬スポーツの激動に目を奪われ、ここのところ、ブログを書く手が止まっています。

それにしても、2月も下旬。今年も既に2ヶ月近くが過ぎていることに唖然としていますが、改めて時の速さを思います。

年齢とともに時間の流れが速くなるということは、よく言われることです。

ジャネーの法則というのがあるそうで、これは、記憶される年月の長さは、年少者にはより長く、年長者はより短くなるという現象を心理学的に説明したものなのだとか。

生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例するといい、この法則に従えば、たとえば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ですが、5歳の人間にとっては5分の1になります。

これを言い換えると、50歳の人間にとっての10年間は5歳の人間にとっての1年間に当たるということになり、さらに5歳の子の1日は50歳の大人の10日に当たることになります。

なにやら騙されたような気分になるこの計算ですが、そういわれると、単純にこの齢になると時間が早くなるのはそのためか~ と納得してしまうから不思議です。

もっともそんなわけはなく、50歳の人間も5歳の人間も過ごしている時間は同じなわけですが、こうした説明をされるとそう思ってしまうところが「心理学的」なわけで、こういう論理に騙される人間というのはいかにも単純な生き物だな、つくづく思います。




そう考えてくると、詐欺師というのも、そういう人間の心理学的な盲点をついて、人を騙す輩であり、人間の単純さを逆手にとった職業です。

詐欺とは、人をあざむき、だまして錯誤に陥れることです。その専門家たる詐欺師とは、詐欺を巧みに行う者のことをいい、ある役割を演じて他人にその人格、職業を信じ込ませ、心理的な駆け引きにより金品を騙し取ります。

ときに信頼関係や信仰心を操り、恐怖心を与え、権威をひけらかせて被害者を精神的にがんじがらめにします。相手を洗脳することによって疑う余地を与えないため、被害者によっては詐欺にあったのも知らず、被害にあったことすら認識出来ない場合さえあります。

この詐欺師と似たものに、ペテン師というのもあります。こちらは口先やもっともらしい理屈を使い、損得の価値観を操って被害者に利益があるように錯誤させ、金品を騙し取る者です。また、いかさま師というのもあり、こちらは仕掛けやカラクリのある道具を使う詐欺師を指しますが、詐欺師やペテン師と違い道具や技術で金品を騙し取るのが特徴です。

とはいえ、言葉は違えどもペテン師もいかさま師も詐欺師には違いなく、信頼関係など心理的な刷り込みを行うことで人を騙す職業であり、その大目的は人様の金品を奪う泥棒です。

騙される側にすれば、あの人が絶対そんなことをするわけはない、と信じたいという気持ちが強いため、なかなか表ざたにはならなかったりします。人によっては財産を盗まれてもまだ、詐欺師を信じていたりします。また、信仰心や恋愛感情から洗脳された場合、被害者に深い心の傷を残すという二次的被害を与える場合もあり、実にたちの悪い犯罪です。

ひとくちに詐欺といってもいろいろなパターンのものがあります。警察関係の隠語では、結婚詐欺のことを赤詐欺といい、融資詐欺、小切手詐欺、保険金詐欺、取り込み詐欺等主に会社をカモとする詐欺のことを青詐欺といいます。

また、他の詐欺師をカモとする詐欺師もいて、これは黒詐欺といい、さらに振り込め詐欺、チケット詐欺、オークション詐欺等主に個人をカモとする詐欺のことを白鷺というそうです。

これを役者が演じるドラマになぞらえると、さしずめ、赤詐欺がメロドラマで、青詐欺は法廷モノ、白詐欺は刑事もの、といったところでしょうか。詐欺師が詐欺師を騙すという究極の詐欺師、黒詐欺は、おそらく超常現象もの・怪奇現象ものということになるのかもしれません。

考えてみれば、詐欺師と役者というのは同じ資質を持っているのかもしれません。役者=俳優の定義を調べてみると、「ある人物に扮して、台詞・身振り・表情などでその人物を演じる人」とあり、なるほど詐欺師もその通りです。

ただ、役者は、物語や人物などを形象化し、演じて見せるだけであり、演劇は「芸術」です。詐欺師のように、人から金品をだまし取る、といった卑しい行為でないことは明らかなのですが、俳優の「優」には「芝居を職業とする人」という意味があるといい、この定義はそのまま詐欺師にも適用できます。

また、役者さんのなかには、いわゆる「悪役」というのもあって、こうした人たちが演じる詐欺師は、まるで本物に見えたりもします。

もっともこの世にゴマンといる役者さんや俳優さんの名誉のために書いておくと、その職業目的はあくまで人を騙すことではなく、人を楽しませることにほかなりません。あくまで善を前提とした職業であり、詐欺師のような悪ではないわけです。

この詐欺師という職業のルーツを探っていくと、その原点は旧約聖書の「創世記」に書かれている、アダムとイヴの物語の中にあるようです。

神様が男(アダム)を創造したとき、エデンの園の外には野の木も草も生えていませんでした。このため、次に創造したのはアダムの体の一部を使って作った植物でした。やがてエデンの園にはあらゆる種類の木が育つようになりますが、それらの木は全て食用に適した実をならせました。

エデンの園の中央には、やはり実のなる命の木と善悪の知識の木と呼ばれる2本の木がありましたが、神様はエデンの園に生る全ての樹の実は食べても良いが、この知識の樹の実だけは、食べてはいけないと禁じていました。その後、女(エバ)が創造されますが、神様はエバにも同じく、知識の実ははこの時は食べてはいけないとは命令します。

これがいわゆる「禁断の果実」です。転じて、後世では、それを手にすることができないこと、手にすべきではないこと、あるいは欲しいと思っても手にすることは禁じられていることなどを指すようになりました。これを知ることにより、かえって魅力が増し、欲望の対象になるわけで、人間の欲深さの深いことをあらわしたものです。

そこに人間を神に背かせようとする蛇が現れます。蛇はエバに近付き、言葉巧みに善悪の知識の木の実を食べるよう唆した結果、エバはついにその実を食べてしまいます。しかもそのあと、アダムにもそれを勧めました。

こうして、実を食べた2人は目が開けて自分達が裸であることに気付き、それを恥じてイチジクの葉で腰を覆うようになりました。

一方、神様に気付かれないよう、匍匐(ほふく)前進でエバに近づいた蛇は、このとき神の呪いを受け、以後、腹這いの生物となります。また、禁断の実を食べたエバ=女性は、このあと、妊娠と出産の苦痛が増すようになりました。

また、同じく禁断の実を食べたアダムも神様の罰を受けることとなり、額に汗して働かなければ食料を手に出来なくなりました。神様はさらに彼らが命の木の実をも食べることを恐れ、彼らに衣を与えると、2人を園から追放します。

こうして、以後彼らの子孫である人間たちは、死すべき定めを負って、生きるには厳しすぎる環境の中で苦役をしなければならなくなったわけです。

このエバを騙した蛇こそが、人類史上初めての詐欺師、というわけなのですが、実はこの蛇とは、サタンの化身であったとされます。

悪魔の化身あるいは悪魔そのものとされてきたこの蛇は、長い間餌を食べなくても生きている生命力、脱皮をすること、四肢のない体型と頭部の形状が陰茎を連想させることなどにより、古くから「生と死の象徴」とされてきました。

ニョロニョロと動いたりトグロを巻いている様子が「気持ち悪い」という印象を与えやすく、嫌悪の対象になることが多いこの蛇は、どういうふうにエバを騙したのでしょう。

そこまでは、旧約聖書に書かれていないようですが、「おうおうねーちゃん、これ食ったら美人になるで~」とかなんとか、うまいことを言ったに違いありません。

人類をはじめて騙した詐欺師は、蛇だったのです。



だからというわけではないでしょうが、蛇が嫌いな人というのは実に多いものです。1960年代に5歳から12歳の子どもを対象として行われた「怖いと思うもの」を尋ねる調査では、467人のうち約50パーセントの子どもが動物を上げ、その中で最も多かった回答はヘビ類だったそうです。

また、霊長類全般にヘビへの忌避行動が見られるといい、サルも蛇をいやがるといいます。人間も、2歳くらいまでは大蛇も恐れませんが、3歳くらいから警戒を見せるようになり、4歳児以上になると恐怖を示すようになるそうです。ヒトの蛇嫌いというのは、まさに本能であり、その原点は、太古の時代に蛇の詐欺に遭ったからに相違ありません。

この蛇、蛇の生殺し、蛇足、といったふうに、ことわざや慣用句でもあまり良い表現で使われることもありません。苦手(ニガテ)というのも実は蛇から来ているそうで、これは、手を出すだけでマムシを硬直させ、素手で容易に捕まえる稀な才能を持つ手を「ニガテ」と呼んでいたことからきています。

蛇ににらまれた蛙、というふうのもあって、人を恫喝して黙らせる、騙すといった演技も詐欺師が良く使う手であり、冷静に状況を判断して密かに近づき、確実に目的を達する、といった詐欺師の手口は、まさに蛇の行動そのものです。




詐欺師であった蛇は、エバを騙し、アダムを陥れましたが、その本質はサタンであり、悪の起源に基づきます。これに対して、役者は、人類が本能的に持っている模倣への興味、すなわち単純に人や事象を上手に真似たい、という欲求に基づいて成立した職業です。

いわゆる「演劇」の正確な起源は分かっていないようですが、古代の宗教的祭祀が発展したものではないかと考えられているようです。古代ギリシアにおいて行われていた「悲劇」は、神を称える祭儀としての側面を持っていたといいます。

また呪術や宗教的儀式には、人の行為の再現や、自然現象の模倣といったものが重要な要素として含まれていることも多く、ようするに何かを「真似たい」とする人の心理から発生したものにほかなりません。

この演劇というものは、舞台や撮影といった装置が必要なだけに、きわめて多人数の人々が携わることによって成立しています。ところが、俳優ひとりが欠ける、つまり「穴をあける」だけでも舞台や撮影が成立しなくなってしまいます。このため、俳優という仕事は、病気や個人的な都合で安易に休むことができません。

とくに舞台は、観客と生身の俳優が一緒にいる「場」があってはじめて成立するものであり、観客は、例えば早くからチケットを購入し、楽しみに思いつつ、さまざまな困難がある生活の中でスケジュールを調整した上で劇場に足を運びます。役者はそれを裏切るわけにはいきません。

また休演などという事態を引き起こすと、他の俳優にも迷惑をかけ、また観客にチケット代の払い戻しをしなければならなくなり、興行主が莫大な損失を被ることになります。従って、一般に俳優は、風邪などでよほどの高熱が出ても、あるいは少々の骨折などしても出演しなければなりません。

こうした緊張感を持って舞台に立つ、という面は詐欺師も同じかもしれません。もし失敗すれば警察につかまるし、騙す相手が裏世界の人間であれば、場合によっては命を失うこともありうるわけです。

これは想像ですが、おそらく一流の役者さん、一流の詐欺師というものは、それなりの緊張感を持ち、命懸けでそれをやっているに違いなく、それであるからこそ本物のように思わせることができるのでしょう。そう考えると、やはり詐欺師と役者は同じ土台に立っているとしか思えません。

そうした一流の演技者のひとり、大杉漣さんが亡くなりました。詐欺師のみならず、様々な役柄を演じ、「300の顔を持つ男」「カメレオン」などの異名を得たこの名優の死因は、急性心不全だったとか。

66歳という若さだったようですが、ご冥福をお祈りしたいと思います。