7月も中盤に入りました。
子供たちや学生さんは、もうすぐ夏休みということで、ワクワクしていることでしょう。学校へ行っていなくても、梅雨明けあとの眩しい夏を想像してなんだか明るい気分になっているという人も多いのではないでしょうか。
今年は加えてオリンピックがあります。伝染病の影響によってほどんどの会場が無観客観戦となりましたが、国をあげてのこの祭典を楽しみにしている人はやはり多いに違いありません。
このオリンピックの起源は、神話の世界だといわれます。古代ギリシャの詩人、ホメーロスによれば、トロイア戦争で死んだパトロクロスの死を悼むため、アキレウスが競技会を行ったのが、オリュンピア祭、すなわち現在のオリンピックの始まりだそうです。
パトロクロスというのは、メノイティオスという神様の子です。トロイア戦争というのは、大神ゼウスが、増え過ぎた人口を調節するために起こした戦争で、神々が半々になり、敵味方に分かれて戦いました。アキレスはこの戦争で弱点の踵を射られて命を落としました。
この神話の競技会はその後、ギリシアの四大競技大祭として実際に開催されるようになりました。以下がそれです。
オリュンピア大祭:開催地オリュンピア 4年に1度開催 祭神:ゼウス
ネメアー大祭:開催地ネメアー 2年に1度開催 祭神:ゼウス
イストモス大祭:開催地イストモス 2年に1度開催 祭神:ポセイドン
ピューティア大祭:開催地デルポイ 4年に1度開催 祭神:アポロン
これらの競技大祭のうち、大神であるゼウスに捧げられるオリュンピア祭が最も盛大に行われました。ゼウスの神殿が建てられたオリュンピアにある競技場で開催され、これはギリシャ南部のエーリス地方(現在のイリア県)にあったようです。
この当時の競技場はスタディオンと呼ばれていました。これはそもそも、古代ギリシアおよびローマで使われていた長さの単位です。複数形はスタディアといいます。その距離は、太陽の上端が地平線に現れてから、下端が地平線を離れるまでの間に人間が太陽に向かって歩く距離と定義されています。これは、だいたい180メートル前後です。
古代ギリシアの陸上競技は1スタディオンの直線コースで行われ、これをスタディオン走といいました。1スタディオン以上の競走はコースを往復しました。競技場の大きさもこのスタディオンを基準として設計されたことから「スタジアム」という言葉が生まれました。
コースのスタートとゴールは石板で作られていました。現在も遺跡としてあちこちに残っており、この間の距離を現在の技術で計測すると、アテネ近郊のデルポイ遺跡やアテナイ遺跡で178 m、エピダウロス遺跡では181.30 m、オリュンピア遺跡では192.27 mです。
地域によってスタディオンの値が微妙に違うのは、これがこの当時の測量技術が未熟だったせいもありますが、ある程度の誤差は許容されていたからでしょう。古代オリンピックはきっと、おおらかに行われていたに違いありません。
とはいえ、フライングした選手には、鞭打ちのペナルティが与えられました。現在なら失格で済むところです。また、この当時はまた、勝つために競走相手をつかみ、転倒させ、走路妨害も行われていました。これも現在なら失格ですが、この当時は、「あり」でした。
当初のオリンピックの競技種目は、このスタディオン走のみで、1日で終わっていたようです。紀元前724年の第14回大会でディアウロス走(中距離走)が導入されるまでは大会唯一の種目でした。コースの奥の置かれた祭壇に供物を捧げる際にこの競技が行われ、1スタディオンを最も速く走り抜けた者に、灯火に点火する栄誉が与えらました。
基本的には女、子供、奴隷は正規のスタディオン走には参加できませんでした。参加資格のあるのは、健康で成年のギリシア人の男子のみです。競技は全裸で行われ、指導者も全裸でしたが、当初はふんどしのようなものを着用していたようです。裸で競技を行ったのは、中には男装して参加する女性もいたらしく不正を防ぐためだったようです。
女人禁制の掟を破ったものは、崖から突き落とされるというルールがありました。ただ、記録に残る限り適用例はなく、女性を立ち入らせないための象徴的なものでした。後年、女性の参加が認められたともいわれますが、これには諸説あります。
そもそも、競技大祭中は女は入れなかった、という説と、神殿と競技場には入れず、外で待っていたという説、フィールドに立ちさえしなければ実質的には咎めはなかった、という説等があります。また、未婚女性に限り観戦が許された、という説もあります。そもそも大会を神官が仕切っていたので、少なくとも女神官が観戦していたのは確かなようです。
審判は当初、王が行いましたが、のちに競技の数が多くなると市民からくじで選ばれました。選ばれた審判たちは、オリンピック期間中、神官として扱われたといい、10か月に渡り専門家から専門の施設で競技規則について教えを受けました。その間、続々と各国から選手が集まり、1か月前になると選手とともに合宿練習をしてまた規則の確認を行いました。
予選はそれぞれの国ではなく、この合宿所で行われました。大会直前になると全選手、全役員が行進したそうです。現在でも開会式で各国選手の行進がありますが、この当時は、エーリスから会場となるオリュンピアまでだったといい、その距離は50キロ以上にもなります。
競技会初日は開会式兼神を称える儀式が行われ、最終日は勝者のため宴と表彰式が丸1日かけて催されました。また、詩の競演なども行われたという記録があります。
紀元前4~500年くらいになるとしだいに競技種目も増えました。これは例えばディアウロス走(中距離走)、ドリコス走(長距離走)、円盤投、やり投、レスリングなどです。五種競技(走幅跳、円盤投、スタディオン走、やり投、レスリング)も行われるようになりました。
このため、開催期間も当初の1日から5日以上の長期になっていき、競技数が増えるにつれてさらに長くなりました。上の競技以外では、ボクシング、パンクラティオン、戦車競走、走り高跳びなども行われるようになりました。
パンクラティオンというのは格闘技の一種で、勝敗は片方が倒れるか降参するかで決まります。選手は全裸で体に油を塗り、眼球への攻撃・噛みつき以外はすべて認められていました。成年ではなく少年が行う競技もその後解禁されましたが、種目は少なかったようです。
最終種目は、現在ならマラソンですが、この当時は武装競走でした。これは重装備の歩兵の軍事訓練を目的に作られた競技です。兜をかぶり、丸い盾を手に、両足にすね当てをつけた姿で競技が行われました。のちに簡略化され、は左手に盾をもつのみとなりました。走行距離は2スタディオンで、のちには倍の4スタディオンの競技も行われました。
最終日の表彰式には、優勝者に賞が授与されました。当初、賞を手にすることができるのは優勝した選手のみで、その賞も勝ち名乗りだけでした。しかし、のちにはゼウス神官よりオリーブの冠が授与され、自身の像を神域に残す事が許されるようになりました。
レスリングなどの格闘技では死闘になることも多く、相手を殺した勝者には、オリーブの冠は贈られなかったといいます。逆に、勝者であれば死者であっても冠が贈られました。ただ、基本的には大神ゼウスに捧げられる祭典であり、神の前での殺し合いは厳禁でした。
冠を授かった勝者は、神と同席することを許された者として、故郷に帰ってからも盛大に迎えられました。祖国の神殿に像が作られた競技者もおり、税が免除されたり多額の賞金が贈られることもありました。
しかしこの過剰な褒章が、逆に腐敗を生むようになっていきます。優勝者に支払う報奨金は跳ね上っていき、褒章欲しさに不正を働くものが現れ、審判を買収する者すら出てきました。
大会を運営する神官もこれに危機感を覚えたようです。不正の深刻さに応じて肉体的懲罰や大会追放が言い渡されるようになりました。また、買収を行ったものと応じたものには多額の罰金が科すようになりました。
この罰金を元に、「ザーネス」と呼ばれる不正を象徴する見せしめのゼウス像が作られました。調べてみましたがどんな像だったか、よくわかりません。オリジナルのゼウス像は、顎鬚を生やした威厳のあるものですが、これを醜く変形させたものだったでしょうか。
ザーネス像の数は増える一方だったといい、記録によれば最終的には16体までザーネスが建てられたとされますが、今日のオリュンピアに残されているのはその基部のみです。
その後ローマがギリシア全土を征服し、属州に編入させられた後もオリュンピア祭は続けられました。こうした中で、暴君として知られるローマ皇帝ネロは、自分が出場して勝者となるために、相当なズルをしたようです。
第211回オリュンピア競技会では、自分の都合でその日程を、本来行うべき年から2年後にしたのみならず、自らが参加した競技では敗れても優勝扱いにさせました。また、自分の歌を披露するため、音楽競技を追加ました。これは聴くに堪えないほどひどいものだったといいます。
当然、こうした権力の濫用と不正に対する批判は強く、この祭時を変えさせてまで開催を強行した大祭は後には正式な大祭とされず、公式記録から抹消されました。
その後、ローマ帝国がヨーロッパを席捲し、全土でキリスト教が広まるにつれ、ローマ神の祭典と目されたオリュンピア祭は、異教徒の祭としてしだいに廃れていきました。393年、ローマはキリスト教を国教としました。この時キリスト教以外のすべての宗教が禁じられため、オリュンピア大祭も開催が許されなくなりました。
この年に開催された第293回大会は最後の古代オリンピックとなりましたが、どんな内容の大会だったか記録は残っていません。記録に残る最後の大会は、369年の第287回オリンピュア祭で、これも拳闘の勝者に関する記録だけしか残っていません。
ところが、1990年代になってから、第285回オリュンピア祭までの全競技の勝者を記録した青銅板がオリュンピアで発見されました。この記録から、最後の大会より前の361年までは、ギリシア語圏内の広く各地から競技者が参加していたことが判明しました。
これは古代史を研究する学者たちには意外でした。オリュンピア祭が禁止される前、これはエーリスとその近隣諸都市だけで細々と行われていたと考えていたからです。
いずれにせよ、ローマ帝国が実権を握って後、異教徒のオリンピュア大祭は衰退を極めました。神殿破壊令なども発せられ、大会に関する遺跡の多くは消滅しました。こうして、古代オリンピックは、その長い歴史の幕を閉じ、人々の記憶からも抹消されていきました。
しかし、それから1500年も経った19世紀末に突如、オリンピックは復活を遂げます。パリ大学で開催された会議でフランスのピエール・ド・クーベルタン伯爵が古代ギリシャのオリンピアの祭典をもとにした世界的なスポーツ大会の開催を提唱し、了承されたのです。
これにより、1896年に第1回の近代オリンピックが、その発祥の地であるギリシャ王国アテネで開催することになりました。ただ、その開催のための資金集めには苦労し、会期もわずか10日間と近代オリンピックの中では最短でした。
しかし、古代オリンピックを復活させたこと自体は高く評価され、世界各国から大勢の観客が訪れるなど盛況の中、大会を終えました。このことは、それまでバルカン半島の小国の一つにすぎなかったギリシャ王国という国の国際的地位を著しく向上させました。
ただ、古代オリンピックの拝金主義の復活も懸念されました。このため、1908年の第4回大会で初めて発言があったという、「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」という言葉がその後もてはやされるようになりました。
これは一般に近代オリンピックの提唱者、クーベルタンのもの、とされます。が、実はこれは事実ではありません。最初にこれを言ったのは、アメリカの聖教者、エセルバート・タルボットです。
この大会はロンドンで行われました。この当時、ホスト国で世界に君臨していたイギリスと急速に国力を伸ばしていたアメリカは、お互いをライバル視しており、両国は犬猿の仲といえるような関係になっていました。このため、アメリカの選手団はロンドンに来てから色々な嫌がらせを受け、すっかり意気消沈してしまいました。
このとき、このアメリカ選手団に随行していた米国聖公会の大司教、タルボットは元気をなくしていたアメリカ選手たちを見て一計を案じます。気分転換にと、ロンドンの金融街にある教会、セント・ポール大聖堂で行われた聖餐式に彼らを参加させたのです。
この聖餐式は、一種の交流会のようなもので、米選手団だけでなく、他国の選手や職員も招待されていました。タルボットは彼らを前に、以下のような演説をぶちました。
「もし、アメリカ選手がイギリス選手に打ち負かされたり、引き離されたり、はたまた彼らが本来持っている力を発揮できなかったとしても、それが何だというのだろう。一番大切なのは、オリンピアの精神である。オリンピックゲームそのものが、レースや賞よりも尊いのだ。聖パウロも賞などというものは取るに足らないものだと教えている。」
「真の賞は腐敗しない。月桂樹の花輪を身に着けることができるのは1人だけだが、すべての選手がゲームに参加することによって喜びを分かちあえる。彼らに高揚感を与えるのは、我々の励ましだ。それこそが彼らの魂を救うことができる。そのためには、厳正かつ公正な競技こそが彼らに与えられるべきなのだ。(原文英文:筆者訳)」
ゴシックの部分が、クーベルタンが語ったとされる部分ですが、ニュアンスが前述のものと少し違うことがわかります。これを聞いた聴衆はタルボットとアメリカ選手団に対して盛大なる拍手と声援を送り、その結果意欲を失っていた彼らも元気を取り戻したといいます。
クーベルタンもこの会場にいました。タルボットのあと、同じく檀上に上がって発言しましたが、彼が実際に語ったのは、「自己を知る、自己を律する、自己に打ち克つ、これこそがアスリートの義務であり、最も大切なことである」という内容だったそうです。
彼は、後日、このタルボットの言葉を引用した演説を行っており、そこで「オリンピックで大事なのは勝つことではなく参加することだ」と述べています。これが、のちに世界に広まって、彼の言葉とされるようになったようです。
その後、この言葉通り近代オリンピックは健全に発展し、古代ギリシャの権威を背景に、世界屈指の国際スポーツ競技大会として発展していきました。
ただ、世界的大イベントに成長するに従って政治に左右されるようになり、1968年のメキシコシティ大会では黒人差別を訴える場と化し、1972年のミュンヘン大会では、イスラエル選手に対してアラブのゲリラによるテロ事件も起きました。東西冷戦の間には、西側諸国と東側諸国の対戦という構図も成り立ちました。
オリンピックは、その規模が巨大化するに従って、開催する国の財政負担の増大が大きな問題となり、1976年のモントリオール大会では大幅な赤字を出し、その後夏季・冬季とも立候補都市が1〜2都市だけという状態が続きました。
これを救ったのが、1984年のロサンゼルス大会で大会組織委員長に就任したピーター・ユベロスです。彼の指揮のもとオリンピックをショービジネス化した結果、この大会では2億1500万ドルもの黒字が計上されました。
これによって、その後「オリンピックは儲かる」との認識が広まり、立候補都市が激増しました。しかしその結果、誘致にあたっては、各国の競技レベルに加えて政治力・経済力までが問われるようになりました。結果、まるで総力戦の様相を呈するようになり、途方もない金銭が投入されるようになっていきました。
こうしたカネが優先される風潮の中で、アマチュアリズムはだんだんと軽んじられていきました。アマチュアリズムを徹底すればするほど、選手は働かないでスポーツに専念しなければならないからです。となると、金を持っていない人はスポーツはできません。自らが資産家であるか、さもなければその支援を得る者だけが活躍できる状況になっていきました。
そこで共産圏ではアスリートを公務員にしたり、自由諸国では実質のプロ選手を国・自治体・公共団体・企業が囲うステートアマチュア、企業アマチュアにすることが横行しました。結果、こうした仕組みがない国からの不満が抑えられない状況になっていきました。
1974年には既にオリンピック憲章からアマチュア条項が削除されていました。そこでIOCはこれを理由に「オリンピックを最高の選手が集う場にしたい」という大義名分をうち建て、プロ選手の参加を促進しました。これを金儲けに目ざとい商業主義者たちが後押します。
結果、1992年のバルセロナ大会ではバスケットボール競技でアメリカのNBA所属の選手による「ドリームチーム」が結成されるなど、オリンピックはアマチュアの祭典から、プロを交えたアスリートの祭典へと変化しました。
これはプロを「雇う」ということにほかなりません。商業主義に走るということでもあり、多くの金が動くということでもあります。かくしてオリンピックの開催にはさらに多額の費用が必要になっていきました。かくしてオリンピックは巨大な産業に変貌しました。
2000年以降、オリンピックの開催地は2008年が北京、2016年が南米初のリオデジャネイロといったBRICs各国にも広まるなど国際化が加速しました。一方で、開催国の負担する費用の高騰化が敬遠された結果、立候補都市数は2010年代からは2~3都市で推移しています。これまでのピークは、1997年入札の2004年大会開催時の12都市でした。
これに危機感を覚えたトーマス・バッハ第9代会長は、オリンピックが再び1980年代以前の冬の時代に戻ることを回避するための改革として、「オリンピック・アジェンダ2020」を出し、2014年12月のIOC臨時総会で採択されました。
そのポリシーには、開催候補地の負担を減らすことや、八百長防止と反ドーピング活動のなどが盛り込まれました。しかし、メインテーマは参加選手数を抑えるということで、夏季大会では約1万500人が上限とされました。規模を縮小すれば、主催者の負担も減り、今後手を挙げる国も増えてくるだろうという目論見です。
ところが、先日発表された東京オリンピック全339種目の参加選手数は約1万1000人です。リオにおいても既に上限を超えて10,568人でしたが、さらにそれを上回っています。つまり、オリンピックの規模をコンパクトにして、かかる費用をより少なくしようという目標は今のところ達成できていません。次のパリ大会ではさらに増えることが懸念されます。
一方では感染症の影響もあって今大会では観客数は過去最低になるのは間違いありません。IOCは儲かるオリンピックを目指していたのに、このままでは大幅減収は間違いないでしょう。政府やスポンサーも多額な投資をしたのに、これでは元手は取れそうもありません。
しかし、これはオリンピックの規模縮小のための良いチャンスと考えることもできます。これを機会に選手も観客も減らし、競技数も古代オリンピック並み、とまではいいませんが、もう少し少なくしたほうがいいのではないでしょうか。
テイストのよく似た競技が多いのも気になります。例えば、格闘技は5種目もあります。初めて導入された空手などは開催国が日本であることに考慮したのでしょうが、あれもやりたいこれもやりたい、では規模が大きくなるばかりです。
1912年のストックホルムオリンピックから1948年のロンドンオリンピックまで合計7回の大会では、芸術競技というのがあったそうです。種目は絵画、彫刻、文学、建築、音楽があり、スポーツを題材にした芸術作品を制作し、採点により順位を競うものであったといいます。
現在のオリンピック競技を見直し、こうしたものと暫時入れ替えていくというのはどうでしょう。マンネリ化した現在のオリンピックを活性化する起爆剤にもなり得るし、投資するスポンサーも多様化して運用資金もかえって潤沢になるのではないでしょうか。
巨大な競技施設は必要なく、投資も少なく済みます。「私は文学でオリンピックを目指します」なんてセリフを某芸人さんがのたまうのも聞きたいものです。
オリンピックを意味する「五輪」は、宮本武蔵の著作「五輪書」を由来としています。剣術の奥義をまとめたもので、いまや日本刀は、いまや世界的にも高い評価をされている芸術品です。この武蔵の唱えた武士道の精神を導入し、
“オリンピックで大事なのは勝つことではなく、拝金主義を斬ることだ”
を現代オリンピックの標語にしてはどうでしょう。これが世界共通語になる日がいつか来ることを期待したいものです。
(写真:山口県柳井市)