秋が深まるにつけ、朝夕は厳しい寒さがあるものの、日中は快適な気温となり、晴天の日も多いことから外出する機会がぐんと増えました。
11月に入ってから何度もあちこちの山に登るようになり、先日ブログでも記した城山や葛城山、大室山のほか、先週末には達磨山にも登ってきました。
風光明媚な伊豆のことですから、どこの山に登っても絶景が楽しめますが、頂上に登って360度の視界が開けるという山はなかなかないもの。城山は東側の眺めの良い山でしたが、北側の眺望はいまひとつで、ここからじっくり富士山を眺めたいという人にはちょっと物足りない山でした。
また、葛城山は頂上が台地状になっているため、場所を変えれば東西南北の景色が楽しめますが、一カ所から周囲すべてを見渡せるという場所はありません。
そこへいくと、先日登った達磨山は、その頂上から文字通り360度の視界が開け、北にある富士山や西の駿河湾、東側はその南側にある天城山塊に続くなだらかな伊豆半島の山々を見通すことができ、文字通り視界を遮るものはありません。
しかも山頂の一カ所からこの風景が楽しめることができ、クルマでのアクセスも容易なことから、かなり人気のある山のようです。この達磨山のことについては、また後日詳しく書きたいと思います。
ところで、こういう眺めの良い山にはたいてい、「三角点」が設置してあります。地図を作るための緯度、経度、標高の基準になる点であり、明治時代にこの点が定められました。
日本の近代測量の基本となった三角測量は、工部省測量司が1871年(明治4年)にイギリス人 マクヴインの指導のもとで、東京府下に13点の三角点を設置したことに始まります。
その後、1882年(明治15年)には、全国でおよそ100点ほどのおおまかな三角点の選点が終了し、1884年(明治17年)からは陸軍省参謀本部測量局(明治21年陸軍参謀本部陸地測量部)がこの測量を引き継ぎ、いよいよ全国的な三角測量が始まりました。
参謀本部では、8年間のドイツ留学から帰朝した田坂虎之助が現在の測量作業規程に当たる「三角測量説約」を完成させ、本格的な一等三角測量に着手し、この時点から当初幕府が導入したフランス式測量法からドイツ式測量法に変更されました。
全国の地図を作るにあたっては、まず一番最初に選点された三角点をもとに日本全国に「基線」と呼ばれる大まかな線が引かれました。
この基線は、例えば青森から山口まで一本の線で引くこともできますが、こうした単一の基線から測量箇所を拡大していくと末端での誤差が大きくなるため、これよりもやや多い基線から始めることにし、本州だけでなく、北海道、九州、四国などに合わせて14の基線が設置されました。これらの各基線から徐々に三角網を拡大してゆくこととし、隣接する境界で誤差ができるだけ少ないようにしたのです。
まず最初に選点された三角点を中心として、45km間隔で測量を行うための観測点候補地が定められました。そしてこの候補地でまず最初に三角測量を実施し、だいたいの間隔を定め、ついでその補点として、この点を含め今度は約25km間隔の測量をするということを繰り返していきました。
こうして全国で次々と25km範囲の三角点網が完成されていきましたが、これがいわゆる「一等三角点」とよばれるものです。ただし、一等三角点には最初に45km間隔で定められた「本点」とその後25km間隔で定められた「補点」の二つがありました。
地図上や現場の標識にこれが明示されているわけではありませんが、最初に定めれらた本点とあとから定められた補填は別物ということで現在でも一等三角点というときには、資料上は本点と補点は区別してあります。
こうして選ばれた一等三角点は、無論、他の一等三角点が見通せる位置関係になければならないわけであり、当然眺めが良い場所でしたが、その地点は恒久的に一等三角地点として永続が可能である必要がありました。
なぜなら大雨によるがけ崩れや地震によって崩壊してしまうような脆弱な地盤の場所に一等三角点を設けると、そうした災害が起こったあとは二度と測量ができなくなってしまい、「国土を守る」という目的の地図を作る場合、それを修正する場合の基点がなくなってしまうからです。
このため、いくら眺めがよくてもその場が無くなってしまうような危険性がある場所は一等三角点には選ばれていません。眺めがいいからそこは一等三角点だろうというと、必ずしもそれは正しくありません。
眺めがよくても、噴火のおそれがあったり、崩れやすい地質の山は選ばれていません。明治時代の人は、後世のことも考えてこの一等三角点の選定には相当注意を払ったと思われます。
こうして一等三角点が決まると、この次にはこの一等三角点を含めて約8km間隔に二等三角点を設定します。以下二等三角点を含めて約4km間隔に三等三角点を設け、次いで以上を含めて約2km間隔に設けられたのが四等三角点です。
そして、これらの一等から四等までの三角点を基準とし、20mの等高線幅で地形を描写して一番最初に造られたのは、五万分の一地形図でした。
ちなみに、明治時代には、「五等三角点」というものが存在しました。1899年(明治22年)に国土地理院の前身である陸地測量部が定めたもので、その内部文書に「海中の小岩礁の最高頂を観測し、其の概略位置及高程を算定し、之を五等三角点と称すること、尋て市街地の高塔等亦之に準することに定めたり」という記述が残っています。
三角点の標石を設置するのが困難な小岩礁はその最高点を五等三角点とし、「市街地の高塔等」に該当する火の見櫓や煙突などの構造物などがこれに準じるものとして五等三角点になりました。
しかし、明治時代以降、長らく五等三角点の新設は行われることはなく、四等三角点以上への切り替えや廃止が行われたため、現在は沖縄県の小島の3か所が残存しているのみだそうです。
これらの三角点は、一等三角点だけでなくほかの三角点も地殻変動その他を知る重要な点になります。このため、一等三角点では、18cm角、二等と三等は15cm角、四等は12cm角の丈夫な御影石(花崗岩)もしくは硬質の岩石の標石がその三角点地点に埋設してあります。
これら三角点の約半数は明治・大正時代に設置されており、一等三角点の重さは90kg(24貫)もあって、明治・大正時代には人夫がその石を背負って山頂まで運んだそうです。
ただし、三角点が置かれる場所は山のような場所ばかりではなく、場所によっては街中に設置されることもあり、こうした場合、公立学校などの公的建造物の屋上に設置されていることもあります。
また、見たことのある人も多いと思いますが、上面の中央に+が刻まれてあって、その中心が三角点の位置であり、十字の真ん中がその地点の高さ(標高)になっています。ただし、三角点の高さは、三角点の置かれた位置の高さであって、これがその三角点の置かれた山の最高地点の高さを示すものではありません。
意外とみなさんが知らないのは、この刻まれている十字が、実は方位を示しているということ。さすがに「東西南北」の文字は刻まれていませんが、もし山で道に迷ったとき、この三角点をみつけ、その十字が確認できればその地点の方位がわかります。
三角点は現在、全国に103284点あって、このうち一等三角点は、たったの972点しかありません(二等5056、三等32699、四等64557)。
通常、360度の範囲の他の一等三角点を見通せる場所に設置されていることから、当然見晴らしの良い場所に設置されており、冒頭で述べた達磨山もそのひとつです。
こうした、一等三角点を山頂に持つ山の踏破を目標とする登山愛好者も多いようで、「一等三角点百名山」なるものを定めて、これを踏破することを目標としたサークルもあるようです。
一般の百名山の中には、名山には違いないものの、そこからの眺めがイマイチというものもあります。しかし、一等三角点がある山ならば、見通しが良いことはまず間違いありませんから、同じ目標として登るならば、こちらを目安とするほうが間違いないと考えるファンが多いのもうなずけます。
初期の一等三角測量は大正2年にはひととおりの観測が終了し、一応の完成をしたそうです。その後は、千島や、樺太、台湾といったいわゆる外地の測量が実施されましたが、その多くは現在日本の国土ではなくなってしまいました。
以後残った三角点では、地殻変動をとらえる目的も併せ持って、繰り返し現地測量が実施されて現在に至っていますが、近年はGPSなどの測量技術が進歩したため、現地での測量はほとんどされなくなっているそうです。
平成21年度には、全国約2万の三角点に、ICタグを付加した「インテリジェント基準点」なるものが整備されました。
このICタグには、場所情報コード(番号のようなもの)や、緯度・経度・標高が記録されているそうで、例えば専用の携帯端末をこのタグに近づけると、その場の位置情報をすぐに見ることができる、というもの。
設置した国土地理院によれば、ICタグに対応した測量機器の開発により、簡便な位置決定作業が可能となり、これを利用した位置情報の提供サービスなどの分野での応用が期待される……というのですが、ほかにどんな使い道があるんかしらん。
たぶん、ほかにも測量がやりやすくなるとかのメリットもあるのでしょうが、いまひとつ何に使えるのかピンときません。事業仕分けの対象にしてもよかったのかも。
もっとも、GPSシステムだって、出たころにはこんな精度の悪いもの何に使えるの?とさんざん批判を浴びていたのを思い出します。
今は、かなりの精度をもって位置情報を得ることができるシステムとして、インターネット同様に我々の生活になくてはならないものになっています。なので、インテリジェント基準点もいずれ日の目を見る日がくるのかもしれません。
このように明治や大正に作られた三角点を新しい技術で有効利用しようという動きはあるものの、かつて地図作成や道路建設、都市開発などの公共事業に多大な貢献をしたような役割はあまり期待されていません。
そのためか、ときおり、山に登った時に三角点標石の頭部などが削られているのを目にすることもあります。登頂の記念?に削っていくのかな、とも思うのですが、もしそうだとしたらそんな馬鹿なことをしなければよいのに、と思ってしまいます。
登山の目印のためか、赤や青のスプレーで塗られた三角点もみたことがありますが、こうした先人が作った遺物をぞんざいに扱うのはどうかと思います。
「柱石の破壊など機能を損ねる行為をした者は、測量法の規定により2年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処せられる」そうです。
このブログを読まれている方々の中にはけっしてそんな不埒な人はいないと思いますが、もしそういう人を見かけたら、ぜひご注意を。逆切れされるのが怖い場合はぜひ通報を。