七夕の夜に


一昨日から伊豆は雨に見舞われ、気温も急上昇して蒸し暑いといったらありません。それでも関西やその他の地方に比べるとしのぎやすい方であり、とくにここは高台にあるので、風があって、その分ずいぶん助かっています。

梅雨前線はかなり北のほうに上がってきており、このため南側から暖かい風が吹き込んでいるためにこの気象状況が生まれているようですが、おそらくはこの週末にも梅雨明けが宣言されるのではないでしょうか。

週末といえば、明日は七夕です。

元来、中国での行事であったものが奈良時代に日本に伝わり、日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆)に習合したものであり、中国では、もともと「乞巧奠(きっこうでん)」という女性が針仕事の上達を願うための行事でした。

ちょうどこの中国の乞巧奠が行われる時期が旧暦の7月ころだったころから、同じく7月に行われていた日本の盂蘭盆会(うらぼんえ)、つまりお盆の行事が重なったものであり、古くは、お盆の行事の一環としてこの七夕も行われていました。

従って、地方によっては8月の7日ごろに未だに七夕祭りが開催されるところも多く、商店街に七夕の幟が立つところも残っているようです。私が幼いころ、山口の商店街でも、七夕祭りといえば8月の最初の週に行われており、商店街のアーケード下にたくさんの吊り飾りや笹が取り付けられていたのを覚えています。

ところが、本来は旧暦のお盆が行われる7月初旬、つまり現代では8月中旬にこの七夕の儀式も行われるべきところを、この七夕だけはなぜか旧暦の日時のまま定着し、7月7日の日にその行事が行われるようになりました。

そもそも、七夕とは何ぞやということなのですが、前述のとおり、中国ではそもそも乞巧奠という行事であり、これはかの有名な織姫と彦星(牽牛)の伝説に由来するものです。

この織姫と牽牛の七夕伝説は、中国史における南北朝時代、つまり、北魏が華北を統一した439年から隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期に成立したのではないかといわれています。

このころ書かれた「荊楚歳時記(けいそさいじき)」という本には既に、7月7日が牽牛と織姫が会合する夜であると明記されており、この日の夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、これらの捧げ物を庭に並べて祈ったと書かれています。

つまり、七夕とは本来、中国の女性たちが手習いで作った縫い物を天上の織姫様に捧げ、針仕事の上達を願う行事だったわけです。

この行事はやがて奈良時代に日本に伝わり、宮中や貴族の家でも行われるようになりました。

宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギ(アカメガシワの古名。葉っぱは食用のほか薬用にも使われた)の葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたものをこの針の穴に通したといいます。

そして、一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が再開できることを祈ったそうです。

また、後年に書かれた」「平家物語」では、このヒサギの葉っぱがカジの葉に変わっています。カジとは「梶」と書き、古くは柏の葉と同じように食器として用いられ、後に神前の供物を供えるための器として用いられていました。

平家物語といえば、平安末期から鎌倉時代にかけて成立した作品です。このころから、貴族の間で願い事をカジの葉に書いて捧げることが流行り始めたようで、織女と牽牛が出会える「二星会合」を祈り、またこの風習の発祥国である中国と同じように裁縫・染織などの技芸上達が願われたほか、詩歌の上達も願われたといいます。

江戸時代になるころには、すべての手習い事の願掛けとして七夕の行事は一般庶民にも広がるようになりましたが、現代に至っては、手習いごとだけではなく、いろんな他の願いごとまで短冊に書いて願うようになりました。

時代が下るにつれ、神様への願いごとがどんどん増えていったということであり、人間の欲望もどんどん拡大していったということで、現代人の貪欲さはもう少し抑制してしかるべきではないでしょうか。

ところで、七夕といえば、笹に短冊を飾るというのがオーソドックスな作法ですが、このように笹に飾る風習は日本以外ではみられず、中国はもとより、ここから七夕の風習が伝わった台湾や韓国、ベトナムなどでもこうした風習はないそうです。

こうした短冊に願い事を書き葉竹に飾るという風習は江戸時代ころから始まったようです。

江戸の昔には夏の暑気を無事に越すための「大祓(おおはらい)」の意味も込めて、茅(かや)で輪をつくり、この両脇を笹竹で囲むように飾っていたそうで、現在よりももう少し手の込んだお飾りでした。

ではなぜ笹の葉だったかというと、これが中国の七夕と日本のお盆が習合したといわれるゆえんです。

日本では、古くから笹は精霊(祖先の霊)が宿る依代(よりしろ)とされてきました。依代とは、依り代、憑り代、憑代とも書き、つまり神霊が「依り憑く(よりつく)」という意味であり、その対象物のことです。

日本には森羅万象のものに対し神や魂が宿るという考え方から、多くのものや事柄に対し「畏怖や畏敬の念を抱く」という考え方があり、またそれは、物に対する感謝や、物を大事にする・大事に使う・大事に利用する(食する)という考えにつながり、様々なものを依代として祀ってきたわけで、笹もそのひとつだったというわけです。

江戸時代には、このカヤと葉笹で作ったお飾りに短冊をぶら下げて手習いの上達を願ったわけですが、この短冊の色も最初は単色だったものが、いつのころからか小学校唱歌の「たなばたさま」にも出てくる「五色の短冊」をぶら下げるようになりました。

この五色の色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をさします。五行説とは五行思想ともいい、古代中国に端を発する自然哲学の思想です。万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説であり、つまり、五色の短冊の色は、土や水、木といったこの世にある万物の象徴というわけです。

ところが、もともとの発祥国の中国では五色の短冊ではなく、七夕は針仕事の上達を願ってのお祭りでしたから、前述のように五色の糸を刺した反物をつるしていました。これが日本に伝来してからは単色の木の葉に変わったわけですが、江戸時代からはこれがさら短冊に変わりました。しかし、色だけは元の中国のような五色が復活したのです。

現在、お盆や施餓鬼法要でもこの五色は良く使われます。施餓鬼のために供えられる幡(のぼり)の色もまた五色であり、こうしたところにも、中国の七夕と日本のお盆が習合した実例がみてとれます。

このように奈良時代に七夕が中国から伝わってきて以降、その風習はお盆の風習と合体し、そこに込められる願いの内容もかなり拡大解釈されて現在に至ってきました。

しかも、本来ならばお盆に祝うべき行事を、前倒しで梅雨も明けていない7月7日に行うというヘンなことになっているわけです。

私などは、いっそのこと、来年ぐらいからはもとの8月にやるように改めればいいのにといつも思います。毎年のようにこのころは良く晴れますから、織姫と牽牛のランデブーも成功の確立が高いのではないかと思うのです。

自民党さんも今度の参議院選挙で大勝したら、その政権が長続きすることを祈るためにも、こうした法案を議案に盛り込んだらいいと思うのですが、どんなものでしょうか。

ところで、そもそも、この織姫と彦星の話ってどんなんだっけな~と気になったので改めて調べてみました。するとそのいわれは、その昔、織女と牽牛という男女が恋しあっていたところを天帝に見咎められ、年に一度、七月七日の日のみ、天の川を渡って会うことになったということでした。

小学校のころにそう習ったはずであり、あー、そういえばそうだったなと、思い出しましたが、そういえば、その時には牽牛星は、アルタイルという星のことであり、わし座の中で最も明るい恒星、また、織姫星はベガのことであり、こちらもこと座の中で一番明るい1等星であるといったことも習いました。

この二つは、はくちょう座のデネブとともに、夏の大三角を形成しており、夏空の名物である……というようなことも習ったはずです。

しかし、中国ではこの天の川は「西遊記」に出てくる猪八戒が天帝より任され、その管理をしていたことになっているそうで、さすがにそんなことまでは学校では教えてくれませんでした。

この天の川ですが、日本や中国だけでなく、当然、ヨーロッパからも見えるわけであり、織姫と彦星のようなラブストーリーはないようですが、ギリシャ神話にもこの天の川にまつわる別のお話があります。それはこういうものです。

ゼウスは、自分とアルクメネの子のヘラクレスを不死身にするために、女神ヘラの母乳をヘラクレスに飲ませようとしていました。しかし、嫉妬深いヘラはヘラクレスを憎んでいたため母乳を飲ませようとはしなかったそうです。

一計を案じたゼウスはヘラに眠り薬を飲ませ、ヘラが眠っているあいだにヘラクレスに母乳を飲ませました。この時、ヘラが目覚め、ヘラクレスが自分の乳を飲んでいることに驚き、払いのけた際にヘラの母乳が流れ出します。そして、これが天のミルクの川になったのでした……

ギリシャ語では、この天の川の夜空の光の帯のことを、川ではなく、「乳の環」というそうで、英語での天の川の呼称もこの神話にちなんで「Milky Way」といいます。

なかなかロマンチックなお話であるのですが、日本や中国などのアジア人からみれば、これが乳にみえるという発想はなかなか出てこないでしょう。牧畜がさかんだったヨーロッパ人ならではの発想であり、同じ夜空にまつわる伝説も民族が違うとこういうふうになるか、と妙に感心してしまいます。

しかし、実天の川の実体は、今では知る人ぞ知る、膨大な数の恒星の集団にすぎません。

宇宙に数えきれないほどある銀河のひとつが「天の川銀河」、つまり「銀河系」であり、我々の地球を含む太陽系はその中に位置しているため、この銀河を内側から見ることになり、この星々たちが川のように天球上の帯として見えるわけです。

天の川銀河の中心はいて座の方向にあり、天の川のあちこちに中州のように暗い部分があるのは、星がないのではなく、暗黒星雲があって、その向こうの星を隠しているためだそうです。

しかし、天の川の光は非常に淡いため、月明かりや、町の灯りなどの人工光による光害の影響がある場合はなかなか確認できません。

日本では、1970年代の高度成長期の終了以降、天の川を見ることができる場所は非常に少なくなってしまったといい、天の川を見るためには、月明かりの無い晴れた夜に、都会から離れたなるべく標高の高い場所に行くしかありません。

ただ、その見え方には季節差があります。

我々の太陽系は、この銀河系のわりと外縁の端っこのほうに位置しています。地球からみるとこの銀河系の中心方向が、夏の星座である「いて座」の方向になります。このため、夏にはその中心方向をみていることになり、天の川としてたくさんの星々が確認し易くなります。

逆に、冬の天の川が淡く確認が難しいのは、いて座が天上に出ることが少なくなり、銀河の中心方向を見づらいためです。無論、これは日本のことであり、外国にいけば、その地域で見えるいて座の方向によって天の川が良く見える季節は当然変化します。

透明度の高い夜空が見えるとよくいわれるオーストラリアなどでは、どの季節にいて座の方向が良く見えるのか知りませんが、シドニーやメルボルンといった都会を離れた砂漠地帯では、天の川の光で地面に自分の影ができほどよく見るそうです。

地球上の物体に影を生じさせる天体は、太陽、月、金星、天の川の4つのみだそうですが、日本では、せいぜい太陽と月まででしょう。せめて金星の影がみえるほどの場所へ行ってみたいところですが、ここ伊豆ならなんとかなるかもしれません。

もうすぐ梅雨が明け、夏空が戻ってくるころには、夜空を眺める機会も増えてくるに違いありません。できれば晴れた日を選んで天城山にでも登り、空いっぱいの天の川を眺めてみたいところです。

皆さんの夏はいかがでしょうか。まだ梅雨も明けていないのに予定なんか立ててないよーという人も多いでしょうが、いまから天の川観望のために伊豆までプチ旅行、なんてのも考えるとよいかもしれません。

あっそうそう。富士山も高所にあるので、ここからは星が良く見えるそうです。世界遺産に登録された今、こうした夜空観察含めて富士山を登山しようと考えている人も多いに違いありません。あなたも検討してみてはいかがでしょうか。大混雑が予想されそうではありますが……

我々はどうするか……。思案中です。