今日は、日本に初めてペリーのアメリカ艦隊がやって来た日です。
いまから165年前の1853年7月8日(嘉永6年6月3日)午後5時に浦賀沖に現れ、停泊したその黒々とした船体は、それまでもたびたび日本近郊を訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものでした。
黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げており、その様子から、日本人はこれを「黒船」と呼びました。
浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(同)の4隻からなっていました。大砲は計73門あり、急な日本側からの襲撃を恐れ臨戦態勢をとりながら、上陸に備えて勝手に江戸湾の測量などを行い始めました。
さらに、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射しました。実はこの突然のように見える来航は、事前にオランダから日本側に通告がありました。このため、幕府は先刻承知済みであり、江戸の町民にその旨のお触れも出していました。
にもかかわらず、この黒船の最初の砲撃によって江戸は大混乱となりました。しかし慣れとは面白いものです。それがやがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んだと伝えられています。
これが、長い鎖国を経てアメリカという国と日本人が接した初めての出来事とされるわけですが、実は、このとき浦賀にやってきたペリー提督らは、その前に同じ日本である小笠原諸島に立ち寄り、ここを探検していた、という話はあまり表だって語られていません。
小笠原諸島は、「特別区」として東京都に編入されている島々で、東京都「小笠原村」とされている30余の島々を指します。東京の南南東約1,000km以上の太平洋上にある島々で最大のものは父島、母島などでこれらを含むものが「小笠原群島」として知られます。
ここで、小笠原の命名の由来について述べておくと、1593年(天正20年)に信濃小笠原氏の一族を自称する小笠原貞頼なる者が発見したという説があるようです。しかし出典が明確ではなく貞頼という人物の存在自体を否定する説もあります。
これを根拠に1727年(享保12年)、貞頼の子孫と称する浪人者の小笠原貞任が貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求めて幕府に訴え出ました、これが始まりで、ここは小笠原島と呼ばれるようになります。
しかし最終的に貞任の訴えは却下され、探検の事実どころか先祖である貞頼の実在も否定されてしまい、貞任はその後領有どころか詐欺の罪に問われ、財産没収の上、重追放の処分を受けています。
この小笠原諸島というのは、小笠原群島だけではなく、ここから南西へ300kmほど離れた硫黄島なども含みます。太平洋戦争時にアメリカ軍との激戦地となった島であり、これは北硫黄島、南硫黄島と合わせて「硫黄列島」または「火山列島」とも呼ばれます。
その名の通り活発な火山活動によって出きた島々であり、また最近噴火して日々その領域を広げ続けて話題となっている「西之島」も小笠原諸島に含まれます。、さらに本州から1800kmも離れた日本最東端としても知られている「南鳥島」や「沖ノ鳥島」もまた小笠原諸島です。
このうちペリーらが探検をしたのは最大の父島です。ここに上陸する前には、琉球王国にも寄港しており、この浦賀来航よりもひと月以上前の5月26日に琉球王国の那覇沖に停泊しました。ペリー入国を拒否する琉球王国側を無視して、武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進しながら首里城まで進軍し、開国を促す大統領親書を王国側に手渡しました。
王国側は困惑したものの、来客への慣例としてぺリーらに料理をふるまってもてなしをさしました。が、このとき、清からの使者に対するもてなしよりも下位の料理を出したそうで、そのことにより、暗黙の内にペリーへの拒否(親書の返答)を示していたといいます。
しかし、ペリーはそれに気が付きませんでした。琉球王国としては表面的には友好的に振舞い、まんまとペリーをあしらったつもりであり、このためその後の武力制圧を免れました。ただ、このように曖昧なままに終わらせてしまったため琉球王国はその後、アメリカが日本やアジア諸国へ進出するための前線基地として長い間利用されるハメになりました。
この琉球王国にペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ、小笠原諸島を探検しました。現在は明らか日本の領土と世界から認識されているとはいえ、ここのころにはまだ領有のはっきりしていなかったこの島の領有の可否を判断しようとしたためです。
とはいえ、その探検はわずか4日ほどです。6月9日に琉球を出航、6月14日から6月18日にかけてのことであり、このとき父島の西側にある二見浦にペリーは上陸しました。2組の調査隊を出してこの島を探索し、その結果、このひとつの調査隊がカナカ人が島の数カ所に点住していることを発見しました。
カナカ人とは、マーシャル諸島、パラオ等の島々の住民であり、いわゆる太平洋南部のミクロネシアからやってきた移民であり、カナカは「黒い人」の意味です。さらに山稜を越えて島の南に降りていくと、ポリネシアのマルケサス諸島のヌクヒバ島出身者の居住者を発見し、さらにタヒチ出身の黄褐色肌の住人がおり、彼は英語を少し話しました。
ちなみにミクロネシアとポリネシアの違いですが、ミクロネシアは「小さな島々」という意味で、オセアニアの中で日本にもっとも近いところに位置する、どちらかといえば「西太平洋から南太平洋にかけてのエリア」で、グアム、サイパンなどのマリアナ諸島やマーシャル諸島、パラなどが含まれます。
一方、ポリネシアは、「多くの島々」という意味で、北半球に属するハワイ諸島のほか、南半球に散在しているトンガやサモア、タヒチ、クック諸島、イースター島、ニュージーランドなど、「中央太平洋から南太平洋にかけてのエリア」になります。
もうひとつ、我々には馴染の少ない言葉ですが、「メラネシア」というのもあり、これは「黒い島々」という意味で、オーストラリアの北東部の海域を指します。上述のふたつよりもエリアとしてはかなり限定的ですが、ここにはニューギニアや、ニューカレドニアなどの比較的大きな島々が含まれ、ソロモン諸島、ヴァヌアツ、フィジーもここに含まれます。
父島の南端でポリネシアからの移民をみつけたペリーの調査隊の一行は彼らが片言の英語を話すことを見て驚き、訝しみましたが、彼等は、さらに北部へ進んで調査を進めた結果、そこにと比較的大きな集落を発見。これは現在の扇浦付近と呼ばれる場所ですが、驚くべきことにそこには、ナサニエル・セイヴァリー(セボリー)というアメリカ人がいました。
実は、このセボリーはアメリカ東海岸のマサチューセッツに生まれで、長じてからハワイに移住しましたが、そののちここで太平洋の西のほうに未だアメリカ人が見知らぬ島があるという噂を耳にし、これがきっかけで小笠原へ入植したのでした。
このころ林子平という地理学者が「三国通覧図説」という地理本を出しており、その中に小笠原諸島についても記載がありました。これがオランダ交易の中でヨーロッパにもたらされ、翻訳されてボニン・アイランズ(Bonin Ilands)の名で知れ渡っていました。
ボニンとは、「無人」が訛ったもので、もともとは「無人島」として記されていたものですが、これをフランス人の東洋学者が翻訳したものです。無論、この当時日本は鎖国しており、近づくことはできませんでしたが、この本が広く紹介されるようになったことから、日本近海である小笠原諸島へは欧米の外国船がしばしば寄港するようになっていました。
そうしたヨーロッパ船の中に、イギリス海軍のブロッサム号という船がありました。ブロッサム号は、行方不明船となった自国船を探索するため、その船が消息を絶った日本近海にやってきていたのでしたが、1827年5月、この艦の艦長、フレデリック・ウィリアム・ビーチーは、琉球から東へ進路を取り、このボニン・アイランズをめざしました。
そして一行は6月8日に小笠原の島々を発見。翌9日に現在の父島二見港のある湾から島へ上陸してみると、前年行方不明となっていた捜索目的のイギリスの捕鯨船、ウィリアム号の乗組員2人、すなわち水夫長ウィットリエンと水夫ピーターセンに遭遇しました。
早速彼等にこれまでの事情を聞いたところ、彼らはその前年に湾内に停泊中に突風で難破し、その後寄港した、ティモール号という別の捕鯨船に仲間は救出されたことがわかりました。しかし、この2人は自らの意志で島に留まり暮らすことにしたと語りました。
このとき、ビーチーは2人に帰国を促したといいますが、このときにはまだ彼等にはその気がなかったようです。もう少しここで生活してみたいという彼等2人を残し、ビーチーらは島の領有宣言を記した銅板を木に打ち付けただけで、父島を出航しました。
この父島に残されたこの水夫2人は、翌1828年5月にここを訪れたロシアの調査船セニアビン号でその後帰国しています。このとき2人はこの無人島?での生活にほとほと疲れていたようで、同号が二見港に着くと促されるまま、ほうほうの体で島を後にしたようです。
一方、その後ホノルルに寄港したビーチーは、このボニン・アイランズのことをホノルルに入植したばかりのセボリーに話して聞かせました。これを聞いたセボリーが、在ホノルルのイギリス領事に相談した結果、ここへの入植計画がもちあがりました。
こうして、天保元年(1830年)、イタリア出身のイギリス人と・マテオ・マザロを団長とするイギリス人2名、セボリーを含むアメリカ人2名、デンマーク人1名の5名と、ハワイ人男女25名がホノルルを出港し、6月26日に父島の扇浦に到着し、入植をはじめました。
その後、1835年に、マザロはハワイに一時帰国。イギリス領事に自分ら「小笠原移住民」の保護を請願していますが、このとき、この入植地には原住民はいなかったと報告しています。しかし、実際には上述のカナカ人やポリネシア系移民が多数居住していました。
マザロやセボリーらの入植後は、各国の捕鯨船が頻繁に寄港するようになり、彼等は物資や手紙のやりとりを託す連絡船として機能していました。このように、この当時の小笠原諸島は全くの孤島ではなく、英米と強いつながりを持っていました。
ところが、その後入植者の英米人のあいだで対立が起き、その中でマテオ・マザロは死に、もう1人のイギリス人リチャード・ミリチャンプはグアムへ去ると、アメリカ人、ナサニエル・セボリーが事実上の首長的地位につきました。
その後、1851年4月にイギリス軍艦エンタープライズ号が父島に寄港しましたが、このときの艦長の航海記には、セボリーはまだ健在であること、また入植後20数名の子どもが生まれ半数は死に、また成長後島を出て行った者もいると記されていました。
また島内には、捕鯨船から脱出したハワイ・オアフ島出身の使役船員たちが身を隠していたことや、その他の船が寄港した際にも、病気のため下船しそのまま島に住み着いた白人がいたことも書かれていました。
これらのことから、ここでの生活はかなり過酷なものであるにもかかわらず、アメリカ人やポリネシア人にとっては一種の「駆け込み寺」的な存在であったことがうかがわれます。
ちなみに、これに先立つ5年前の1847年には、ジョン万次郎が米捕鯨船に乗って小笠原に来航しています。彼はその6年前、手伝いで漁に出て嵐に遭い、仲間の漁師とともに伊豆諸島の鳥島に漂着し、そこで米捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助されました。
漂流者のうち年配の者達は寄港先のハワイで降りましたが、ジョン万だけが船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られて渡米し、教育を受けたあと、彼自身も船乗りを目指しました。学校を卒業後は捕鯨船に乗る道を選び、1846年(弘化3年)から捕鯨船員として生活していましたが、この父島への寄港はそのときのものです。
後年、今度は日本側官吏として小笠原にやってくることになりますが、それはこのときよりもさらに15年もあとのことになります。
そして、1851年のこのエンタープライズ号の寄港から2年後の嘉永6年(1853年)5月、マシュー・ペリー提督率いる艦隊が小笠原を訪れました。彼等は、その後首長のセボリーとも親しくなり、いずれこの地をアメリカの植民地とする際には、その新政府の頭目に彼を据えようと考えたようです。
このときのペリーらの航海日誌には、父島には最年長のセボリーなどの欧米系白人のほかにミクロネシア系カナカ人やポリネシア系移民がおり、全体で39人の島民が住んでいると記されています。
その2カ月後の1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、ペリーは浦賀に入港し、日本の開国へ向けて大統領の親書を幕府に手渡しました。翌年2月には7隻の軍艦を率いて再び横浜沖に迫り、早期の条約締結を求めた結果、3月に日米和親条約が締結されました。
さらに1858年7月に日米修好通商条約が締結されました。日本に関税自主権がないなど、この条約は日本にとっては不平等なものでしたが、こうしてともかく日米の交易が始まると、下田・箱館に加え、その後も神奈川、長崎、新潟などが次々と開港・開市されました。
そして、1861年12月(文久元年11月)、幕府は列国公使に小笠原の開拓を通告。翌年1月には、外国奉行水野忠徳と、ジョン万次郎を含む一行が咸臨丸に乗り込み、同船を含む4隻の艦隊で小笠原に派遣されました。その目的は「開拓調査」でした。
ジョン万次郎が選ばれたのは上述の通り小笠原付近に知識があったためであり、また当時ここに住んでいた英米人とも面識があったあめであり、しかも通訳としても有用だったためです。ちなみに万次郎はこの翌年に幕府の軍艦操練所教授となっており、帆船「一番丸」の船長に任命されると、同船で小笠原諸島近海に向い捕鯨を行っています。
水野はこの小笠原での開拓調査に赴く前に、駐日イギリス公使やアメリカ合衆国公使に接触をしており、その目的は、アメリカやイギリスの小笠原領有の意思があるかどうかを内々に確認しておきたかったためでした。
これに対してアメリカ公使ハリスは、「本国政府へ報告し回答を待つ」と答えて即答を控え、ただ「小笠原島在住アメリカ人の既得権の保護を要請する」とだけ水野に伝えました。一方のイギリスの対応はというと、イギリス公使オールコックは、日本との貿易の伸長のみを主張し、領土に対する野心がないという態度をとりました。
その背景には、ちょうどそのころ、ロシア軍艦が対馬を占領する、という事件があったことが関係していました。この対馬占領のロシア側の意図は、極東での根拠地獲得、南海航路の確保だったといわれ、当時アジア一帯に広大な植民地を持っていたイギリスに先を超され、対馬を租借されるのを恐れていたためでした。
これに対してイギリスは、公使オールコックとイギリス海軍中将ホープが幕府に対し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案。老中・安藤信正らと協議した結果、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻を対馬に回航して示威行動を行い、ホープ中将はロシア側に対して厳重抗議を行いました。
その結果、ロシア領事ゴシケーヴィチは、イギリスの干渉を見て形勢不利と察し、対馬から退去しました。しかし、イギリス側にはこのように幕府に加担してロシアの侵略を阻止した手前、自分たちも小笠原を領有したい、とは言いだせない雰囲気がありました。さらにイギリスは「東禅寺事件」をめぐって、幕府と問題を抱えていました。
東禅寺事件というのは、攘夷派志士が高輪東禅寺に置かれていたイギリス公使館を襲撃した事件で、1861年と1862年の2回発生したものです。最初の事件は、文久元年(1861年)5月、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃した事件で、彼は危うく難を逃れましたが、書記官と長崎駐在領事が負傷しました。
事件後、オールコックは江戸幕府に対し厳重に抗議し、イギリス水兵の公使館駐屯の承認、日本側警備兵の増強、賠償金1万ドルの支払いという条件で事件は解決をみました。
水野忠徳がオールコックに小笠原の領有の意思を確認しようとしたのはちょうどこのタイミングでした。イギリスはこの東禅寺事件において日本との交渉を有利に進めようとする中で、下手に小笠原の問題を持ち出せば、交渉が難航する可能性があると考えたわけです。
こうして、水野は、イギリスに小笠原の領有の意思がないことを確認し、アメリカからは明確な回答がない状況下ではありましたが、咸臨丸で父島二見湾に入港しました。そして、ジョン万次郎を通訳として島の長であるアメリカ人、セボリーと会談しました。
この会談の中では、35年前にイギリス人ビーチーが、島の領有宣言を記した銅板を木に打ち付けた話なども出たようですが、水野は上述のとおり事前にイギリスに領有の意思がないことを確認しており、あえてその話は深入りしないようにし、セボリーらアメリカ人の現在の島での生活についての話題を中心にしました。
セボリーらもこの島での過酷な生活に辟易していたようで、自分たちの生活の将来に憂いたこともあり、この会談の結果、日本人らに島内の木々の伐採や野獣の狩猟を認めました。しかし、セボリーらも自らの生活に必要な分は自由に採ることを幕府側に認めさせるなど、双方にとってのハッピーハッピーの結論が強調されました。
一行は続いて母島にも向い、この合議の結果の通達を行っています。無論、この協議結果はアメリカ本国政府からの回答を得る前のことでした。が、日本側としては既に各国に小笠原開拓の意思を表明してしまっており、かつ現地の最高責任者セボリーも異議を唱えなかったことから、その後アメリカが小笠原領有を主張してくることはありませんでした。
この翌年の文久2年(1862年)には、再び東禅寺において、警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺する、という事件が起こりました(第二次東禅寺事件)。幕府は警備責任者を処罰し、松本藩主松平光則に差控を命じ、イギリスとの間で賠償金の支払い交渉を行いましたが、紛糾するうちにさらに次の事件、生麦事件が発生しました。
現・横浜市鶴見区生麦付近において、薩摩藩の島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件で、尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となりました。
このための賠償にあたっての日英交渉はこじれにこじれ、このためイギリスとの一戦が懸念されるようになると、翌年、小笠原では日本人全員に避難命令が出されました。
1863年(文久3年)6月、イギリス艦隊は鹿児島城下前之浜約1km沖に投錨。艦隊を訪れた薩摩藩の使者に対しイギリス側は生麦事件犯人の逮捕と処罰、および遺族への「妻子養育料」として2万5000ポンドを要します。が、薩摩藩は「生麦事件に関して責任はない」とする返答書をイギリス艦隊に提出したため、ついに「薩英戦争」が起こりました。
この戦闘において、イギリスは薩摩の軍事施設や城下へ甚大な被害を与えました。が、一方の英側も戦艦の大破1隻・中破2隻、死者13人を含む死傷者63人の被害を出し、弾薬や石炭燃料の消耗も激しかったことから薩摩を後にし逃げ帰るように横浜港に戻りました。
当時の世界最強のイギリス海軍が事実上勝利をあきらめ横浜に敗退したこの結果は、世界を驚かせ、当時のニューヨーク・タイムズ紙に「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ」と言わしめました。
しかし結局、この戦争の後始末は当事者の薩摩ではなく幕府がやることになり、幕府は生麦事件の賠償金とともに1万ポンドを支払うこととなり、事件は解決を見ましたが、この賠償金の受領によってイギリスは小笠原への入植の理由づけを失いました。また小笠原への執着は損益の方が大であり、他の港での交易を優先すべきと判断するに至ります。
幕府もまたこのころから自国領土というものを強く意識するようになったようで、そのため小笠原も日本固有の領土、と諸外国に認めさせるため、その後も八丈島などから日本人入植者を次々とここへ送りこみ、開拓を進めました。これによりさらにイギリス人が入り込む余地は少なくなりましたが、この点はアメリカも同じでした。
ところが、明治になってこの小笠原問題は再燃します。イギリスはかつてビーチーが父島に領有の証しを残したことを理由に突如この島の領有を主張。このため、日本政府は1875年(明治8年)、この当時国内における最優秀船であった「明治丸」を父島へ派遣しました。
同年11月21日、明治丸は日本政府調査団を乗せて横浜港を出航し、24日に父島に入港しましたが、新鋭船であるため船足が速く、22日に同じく横浜を出航した英国軍艦「カーリュー」より2日早く着きました。このためイギリスよりも早く調査を進めることができ、このため、日本の小笠原諸島領有の基礎を固めることができたといわれています。
このとき、調査団はセボリーの息子ホーレス・セボリーやフランス人ルイ・ルサールを含む13戸68人(男性36人、女性32人)および日本人女性2名を父島で確認しています。
そして、翌1876年(明治9年)小笠原諸島を内務省所轄とし、日本の統治を正式に各国に通告し、ここに小笠原の日本領有は確定しました。
その後1882年(明治15年)には、居住していた20戸72人全員が、帰化して日本人となりました。ちなみに明治丸はその後、1887年(明治20年)にも東京府知事、高崎五六らを乗せた硫黄列島の視察調査にも従事しました。その結果、1891年(明治24年)にここも日本の所轄となり、1904年(明治37年)には硫黄島への入植・定住が始まりました。
その後の第二次世界大戦中の小笠原諸島は、戦火が間近に迫っていると判断されたことから、1944年(昭和19年)に父島母島を中心とする住民7000人弱が本土へ強制疎開されました。が、残留者800人は余りはその後の戦闘に巻き込まれました。
父島は日本海軍が日露戦争後に着目し、貯炭場、無線通信所などを設置していましたが、その後陸軍築城部父島支部が設置され、砲台が築かれ1941年からは戦備に入りました。日米開戦後は陸海の各部隊が防備にあたるとともに、海軍航空隊が防備に当たっていました。
1944年、大本営はマリアナ諸島及びトラック島を始めとする南洋諸島の防備拡大を目的とした第31軍を編成、父島要塞司令部もこの指揮下に置かれ、同年5月、父島・母島・硫黄島の各守備隊を元に第109師団を編成、小笠原兵団栗林忠道兵団長の指揮下に入りました。
この頃から父島要塞への米軍の空襲が激化。特に1944年8月頃から開始されたスカベンジャー作戦では艦砲射撃も交えた猛攻撃が行われ、日本側は父島海軍航空隊がほぼ壊滅、濱江丸等の多数の艦艇を喪失しました。
しかし日本側の反撃も激しく、幾つかの米軍機が対空砲火で撃墜されており、その中には、後に第41代大統領となるジョージ・H・W・ブッシュ中尉の乗機も含まれていました。
その後の父島要塞には散発的に空襲が行われた程度で、母島共々大きな地上戦闘は発生しないまま終戦を迎える事となります。戦闘も食糧事情もそれほど厳しいものではありませんでしたが、これに対して、両国にとって最も戦略的に重要とされたのは硫黄島であり、ここでの戦いは熾烈でした。
日本側守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死或いは戦闘中の行方不明となり、第二次世界大戦中を通してノルマンディー上陸作戦を上回る各国最大の犠牲者を出しました。この硫黄島の事については、後日また日を改めて書いてみたいと思います。
この硫黄島での激しい戦いに物資や食料の抽出が行われた事もあり、父島では、残留島民のみならず守備兵も困窮と飢餓の中で苦しい自活を強いられました。が、空襲のみで地上戦はおきておらず、現地自活が営まれ、食糧事情は極端には悪くなく補給はある程度確立されていました。
そうした中で、「小笠原事件」と呼ばれる事件も起きています。日本の陸海軍高級幹部が、米軍捕虜8名を処刑し、うち5名の人肉を嗜食したとされる事件です。陸海軍幹部が酒宴の場にて敵愾心高揚・士気高揚を目的とし行ったものですが、人肉を食するほど食糧事情が悪化していたわけではない中での出来事であり、戦後大きな批判を呼びました。
1945年9月3日、米海軍駆逐艦ダンラップ艦上で小笠原の日本軍は降伏調印。父島は米海軍の占領下に置かれ、残存していた重火砲類は全て爆破処理にて無力化が行われました。10月には欧米系島民が日系島民に先んじて帰島を果たしましたが、占領下での困窮した生活の中、要塞跡内の兵器の残骸を屑鉄として回収し生計を立てる住民もいました。
戦後アメリカの統治下に置かれると、小笠原諸島は日本の施政権から切り離されました。そして欧米系島民のみが帰島を許されました。アメリカ統治時代は英語が公用語とされ、義務教育課程校の「ラドフォード提督初等学校」で英語による教育を受けました。
1956年に設立された9年制の学校で、「ラドフォード」は当時のアメリカ海軍第七艦隊司令官の名に由来します。職員は3人だけで、学習用語は英語で、軍人や欧米系島民の子弟がここで学びました。島内には高等学校は無かったので、進学希望者はグアム島の高校へ進学しましたが、のちの日本復帰後は、小笠原村立の小中学校になりました。
1967年(昭和42年)、小笠原諸島の日本への返還が決まり、1968年(昭和43年)6月26日には 協定が発効し、小笠原諸島は日本に返還されると同時に、東京都小笠原支庁設置。東京都小笠原村に属するようになりました。かつて小笠原支庁直轄だった硫黄列島および西之島もこのとき小笠原村の区域となりました。
日本への返還後は、戦前からの移住民に加え、新たに本土から移住してくる新島民とともに共存するようになりました。このほかの欧米系島民の出自は、米本土、ハワイ、イギリス、ポリネシアのほか、ドイツ、ポルトガル、デンマーク、フランス、など多種多様です。
しかしアメリカ統治下で英語教育を受けた世代は、日本語に馴染めず、アメリカ本国に移住した人達もいます。
残った多くの欧米系島民はその後姓を日本風に改めました。アメリカ系であるセイボリーは「瀬掘」あるいは「奥村」に、ワシントンは、「大平」・「木村」・「池田」・「松澤」、ウェッブは「上部」に、ギリーは「南」にといった具合であり、ほかにポルトガル系のゴンザレスは「岸」・「小笠原」になどに姓を変えています。
4~6世代目を迎えた現在、大多数は日本人との混血となっており、外見上は日本人とほとんど変わらない人も少なくないようですが、今でも小笠原の電話帳などでみられる、これらの姓は欧米系島民の入植者の子孫だそうです。
日本に帰化した後も、キリスト教を信仰するなど彼らの文化を維持し続けたものもおり、言語についても日本語の中に英語の語彙が混じる一種のピジン言語・クレオール言語化した「小笠原方言」が用いられています。
2011年(平成23年)、小笠原諸島は、ユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録。小笠原諸島は形成以来ずっと大陸から隔絶していたため、島の生物は独自の進化を遂げており、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれるほど、貴重な動植物が多いのが特徴です。
先の大戦で日本は多くの者を失いましたが、幸いにもこの小笠原諸島は取り戻すことができました。日本の固有の領土として育んできたこの豊かな自然を未来永劫守っていきたいものです。