大洲のこと

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先日、BS放送のあるテレビ局で、愛媛県の「大洲城」の特集をやっていました。

2004年(平成16年)9月1日、木造で天守が復元されたもので、日本100名城のひとつになっています。

大洲城は別名、大津城ともいうようで、大津とは大洲の旧称でもあります。この地に初めてこの城を築城したのは、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の「宇都宮豊房」で、元徳3年(1331年)のことであるといわれています。

城下は江戸時代の「大洲藩」の中心地であり、明治時代までは喜多郡という郡部に属する大洲町でしたが、昭和になって市政が布かれ、現在は「大洲市」となっています。

実は私の生誕地でもあります。50××年前、この城のある場所からそう遠くないところで生まれました。

この大洲の地は、伊予を南北につなぐ大洲街道・宇和島街道の結節点にあり、また東には四国山脈を抜けて土佐国に出る街道があり、すぐ西には大洲の外港とも言える八幡浜(現八幡浜市)があります。このように、ややひなびた立地ながらも交通の要衝といえる場所です。

大洲城は、宇都宮氏が創建した当初は、肱川と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に築城したことから地蔵ヶ岳城と呼ばれていました。

その築城にあたっては、川に面した高石垣の工事が難航したため、人柱を立てる事となったと伝えられます。くじによって「おひじ」という若い女性が選ばれ、彼女はやむなく生き埋めにされ人柱となりました。工事は無事完了し、おひじの最期の願いにより大洲城下に流れる川を肱川と名付け、大洲城を「比志城」と呼ぶようになったともいわれています。

豊房には子がなく、親戚筋の筑後宇都宮氏の「宇都宮宗泰」を養子に迎え、宇都宮氏はその後、国人として二百数十年間にわたって南伊予を中心に支配を行いました。が、永禄年間の末期に、長州の毛利氏の伊予出兵に屈服し、毛利の傘下に入りました。

さらには天正初年(1573年)に、宇都宮氏は土佐の長宗我部元親と通じた家臣の大野直之によって大洲城を追われました。しかしその大野直之も天正13年(1585年)には豊臣秀吉の意を受けた「小早川隆景」によって攻め滅ぼされました。

隆景が35万石で伊予に入封してのちは、大洲城は伊予小早川家の一支城となりました。ただし、小早川家による約2年の領有の間も、隆景の本拠地は山陽の三原のままであり、隆景自身がこの地に入ることはありませんでした。

その後、秀吉の古参の家臣で、秀吉親衛隊の黄母衣衆(きほろ衆)として仕えた「戸田勝隆」が四国全土を平定しました。このため、勝隆は天正15年(1587年)にその恩賞として秀吉から大洲7万石を与えられ、城主として大洲に入りました。

その4年後の天正19年(1591年)、今度は高野山で出家して隠居の形をとっていた「藤堂高虎」を秀吉が召還し、彼に大洲と隣国の伊予国板島(現在の宇和島市)7万石が与えられました。秀吉は高虎の武勇をこよなく愛しており、彼の将才を惜しんだための措置でしたが、これに答えるため高虎はわざわざ還俗して伊予に入りました。

文禄4年(1595年)のことであり、このとき、高虎によって大洲状は大規模に修築がなされ、近世城郭としての体裁を整えました。そして伊予大洲の政治と経済の中心地として城下町は繁栄していきました。

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しかし秀吉の死後、関ヶ原において高虎は徳川側につき、江戸期に入ってからは徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げました。

この功績のため、慶長13年(1608年)に、伊賀一国、並びに伊勢8郡22万石に加増移封され、津藩主となりました。秀吉同様、家康もまた、高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格として重用しました。

高虎が津藩に移封となったため、城主が不在になった大洲城には、その翌年の慶長14年(1609年)に淡路の洲本から「脇坂安治」が入城しました。

この時すでに大洲城は高虎によってかなり近代的な城郭となっていましたが、これに仕上げの手を加えたのが脇坂安治であり、現在までに至る遺構はほぼこの時代に完成したと考えてよいようです。また、この脇坂安治の時代に城下の名前が、従来の「大津」から現在の「大洲」に城名が変更されました。

脇坂安治という人は、戦国時代には、はじめ浅井長政に仕えていましたが、天正元年(1573年)の浅井氏滅亡以後は織田家に属するようになり、明智光秀の与力として黒井城の戦いなどで功を立てました。黒井城は兵庫丹波の赤鬼といわれた赤井直正の居城であり、その堅城を攻め落とした功により、信長は丹波一国を光秀に与えました。

しかし、安治は光秀よりも秀吉のほうに将来性を見出していたのか、光秀の元を離れ、自ら頼み込んで秀吉の家臣となりました。その後は播磨国の三木城、神吉城攻めなどの諸戦に従軍して功を重ね、次第に秀吉の信頼を受けるようになります。

天正11年(1583年)、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で行われた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家との戦いで、福島正則や加藤清正らと共に活躍し、「賤ヶ岳の七本槍」の1人に数えられました。

戦功により山城国に3,000石を与えられ、さらに秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた「小牧・長久手の戦い」では伊賀上野城を攻略するなどの手柄をあげ、秀吉より摂津国能勢郡に1万石、大和国高取に2万石を与えられるとともに、淡路国洲本に3万石を与えられ、ここを本拠としました。

それほど秀吉には気に入られていたわけですが、彼の死後、関ヶ原の戦いで安治もまた、徳川方に寝返りました。藤堂高虎といい安治といい、秀吉の人望で固められていたはずの豊臣家がいかにもろかったかがわかります。あるいは家康も信望の人だったからかもしれません。

この関ヶ原では安治は小早川秀秋の裏切りを機に東軍に寝返り、大谷吉継隊を壊滅させ、石田三成の居城佐和山城攻めに加わるなど東軍の勝利に貢献しました。

しかし、戦前に通款を明らかにしていたため、裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、戦後に家康から所領を安堵されただけでなく、慶長14年(1609年)伊予大洲藩5万3,500石に加増移封されました。

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その後安治の子、脇坂安元は、その後勃発した大坂の役では徳川方の先鋒として活躍しました。大坂冬の陣が勃発すると、藤堂高虎指揮下で大阪城南部の生玉口を攻め、大坂夏の陣においては土井利勝と共に、夏の陣最後の戦いといわれる、「天王寺の戦い」で豊臣軍と対峙して勝利を収めました。

これにより同年、安治の隠居に伴い大洲5万3,500石を父から襲封し、大洲城2代目城主となりました。しかし、その統治はわずか8年ほどでした。元和3年(1617年)、伊予大洲藩は5万3,500石から、信濃飯田藩5万5000石に加増移封され、これに代わってこの年、伯耆米子から6万石で「加藤貞泰」が大洲城に入りました。

一方の脇坂元安は、伊予大洲藩5万3500石から、信濃飯田藩5万5000石に加増移封されました。以後、3代安政と共に55年間にわたって飯田の城下町を整備し、飯田城の掘割を完成させました。さらに街道の流通と伝馬を確立し、飯田十八町を完成させ、文化産業振興にも力を注ぐなど、飯田の発展に尽くしました。

なお、父の元安の父、安治は、この飯田への移封の際、大洲を去って京都西洞院に住み、剃髪して出家していましたが、寛永3年(1626年)に京都で死去。享年73でした。

脇坂家に代わって、大洲城の主となった加藤貞泰は、秀吉の家臣・加藤光泰の次男として誕生した人で、いわば豊臣家生え抜きの武将です。このため関ヶ原においては石田三成に従い、その要請を受けて尾張犬山城を守備していました。

が、序盤で東軍に寝返って徳川方の井伊直政の指揮下につき、美濃大垣城にて西軍と対峙しました。ここにも一人豊臣家を見限った家臣がいたことになります。本戦では島津義弘率いる島津軍と戦い、本戦後は豊後国臼杵藩の稲葉貞通と共に西軍の長束正家が守る水口岡山城(現・滋賀県甲賀市水口町)の攻略で功を挙げました。

このため、徳川家康より所領を安堵され美濃黒野藩主となり、黒野城と城下町の建設に努め、黒野に楽市などを造って発展させ、その後2万石を加増されて伯耆米子藩6万石の藩主となりました。

その後、大坂の陣でも徳川方として参戦して戦功を立てたため、伊予大洲藩を貰い受けたものです。しかし、貞泰はこの移封から6年後の元和9年(1623年)に44歳で死去し、跡を長男の泰興が継ぎました。以後江戸時代に入ってからは加藤氏が12代にわたって大洲藩主として君臨しました。

大洲藩は勤王の気風が強く、幕末は早くから勤王で藩論が一致していました。このため勤王藩として慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでも小藩ながら参陣して活躍し、そのままほぼ無傷で明治維新を迎えました。

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維新後の大洲城は、明治政府から出た廃城令によって城内のほとんどの建築物は破却されました。伊予には、藤堂高虎の時代に築かれた名城が多く、このうち宇和島城、松山城の天守閣が現存12天守として残っています。が、大洲城や今治城は棄却されました。

ただ、大洲城も、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓などの一部が保存されました。が、天守は老朽化と構造上の欠陥もあり、明治21年(1888年)に解体されました。他の城よりも解体が遅れたのはその所有が個人のものだったためです。

従って現在ある天守は再建されたもので、大洲市市制施行50周年記念事業として施工され、平成16年(2004年)に竣工したものです。しかし他諸藩の天守のように、戦後再建されたもののほとんどが鉄筋コンクリートなのに対し、この大洲城は昔ながらの木造工法で復元されました。

明治時代に撮影された外観写真のほか、大洲藩作事棟梁の中村家に伝わる天守雛形(木組み模型)など内部構造を知ることができる資料が充実していたためであり、往時の姿をほぼ正確に復元できました。このように、多くの資料が残っていたことで再建が果たせた例というのは他にはほとんどなく、ラッキーとしか言いようがありません。

この再建にあたっては、天守の高さは石垣の上から19mあり、本来なら建築基準法で木造では認められない規模であったため、旧建設省や愛媛県は建設計画をなかなか認めなかったといいます。しかし2年近い熱心な大洲市の折衝を経て、ようやく保存建築物として建築基準法の適用除外が認められ、往年の複合連結式による天守群の復元に至りました。

天守の復元資金には、民間からの浄財が多く寄せられ、その寄付者の名簿は天守内にレリーフで残されています。この復元は高く評価され、国土交通省の外郭団体、国土技術研究センターから第七回国土技術開発賞を受賞しています。

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さて、せっかくですから、この大洲城を中心に発展してきた現在の大洲の町を改めて俯瞰してみたいと思います。

愛媛県の南予地方に位置し、「伊予の小京都」と呼ばれ、肱川の中下流域に造られた街です。肱川の源流部は標高1000mを越える地点もありますが、それ以外は500〜800mの比較的なだらかな山々が連なっており、それらの山間にある盆地です。

肱川はさらにその下流に向かっては谷を形成しつつ、長浜地域において伊予灘に注ぎ込みます。盆地であるため、霧が発生しやすく、肱川河口の長浜地区では、「肱川あらし」という現象が観察されます。

冬型の気圧配置が緩んだ日に、大洲盆地と伊予灘の気温差が原因で陸地において地表が放射冷却によって冷え込み、発生した霧が、一気に海側に流れ出します。河口付近まで両岸の山足が川の両岸に迫っていることもこの流出を助長しており、大規模な時は霧は沖合い数キロに達します。風速15km/h以上にも及ぶことから「あらし」と呼称されます。

市としての沿革は、1954年(昭和29年)9月1日、喜多郡大洲町を中心とする村々が合併し、市制施行して大洲市が誕生したことに始まります。2005年(平成17年)には、喜多郡長浜町・肱川町・河辺村と合併して新しい大洲市となり、現市域となりました。

台風等の来襲は少ないものの、肱川は下流で狭まっていることから、大洲盆地でボトルネックとなり、大雨が続くと増水しやすく、過去に何度も浸水被害に見舞われています。1943年(昭和18年)と1945年(昭和20年)の2度に渡って大暴風雨の被害を受け、肱川が氾濫して大洪水となりました。

このため、戦後になって治水のために肱川上流に造られたのが「鹿野川ダム」です。高さ61.0m、堤頂部の長さ167.9mの重力式コンクリートダムです。背後のダム湖の総貯水容量は48,200千m3で、愛媛県内に15ある多目的ダムの中で四国中央市にある富郷ダムに次いで2番目の総貯水容量を有するダムとなります。

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実は私の父はこのダムの建造に関わっていました。旧建設省の電気技師としての赴任であり、このダムの建造中に私が生まれました。父母と5歳上の姉が住んでいたのはこのダム付近の官舎だったようですが、私が生まれたのは下流の大洲市内にある病院だったようです。この場所は、現在消防署になっています。

私の生まれたあとも、主な買い物は市内中心部まで出てしていたようなので、私がまだ幼いころ、母はこれをしょって、市内中心をあちこちを出歩いたでしょう。グーグルのストリート・ビューなどを見ると、気のせいか懐かしいような気がします。ただ、生まれてすぐだったため、当然その記憶があるわけはありません。

ダムは昭和34年に完成しました。電気技師だった父は、その翌年に発電所が完成するのを見届け、完全な動作試験が終わるまでこの地でその仕事を続け、その後一家揃って次の赴任地である広島へ移住しました。

その後できた鹿野川ダム湖ではヘラブナが繁殖し、釣りのメッカとなりました。ちょっと昔、へら師で知らない人がいない程有名なダムだったといい、釣れたそのヘラブナの魚体は肩が張った上に肉厚で、今でもマニアの中では「鹿野川ダムのへらが日本一」と熱っぽく語られるといいます。またダム湖周辺は、県内有数の桜の名所だそうです。

この鹿野川ダムの完成によって、その後大洲市では目立った洪水は起きていません。が、その恩恵を受けて大きく発展したといった産業もなく、農業としては野菜、畜産(養豚)、かんきつ類が主で、第二次産業は、電機、製材業、歯ブラシ製造などです。

かつては、手すき和紙、木蝋(もくろう)、製糸業が盛んで、現在でも、和紙は大洲和紙として、蚕糸は良質の伊予生糸として知られています。第三次産業は観光や飲食業が主であり、県庁所在地の松山や今治などの県内中堅都市からも離れているため、その他の産業はというと、押して量るべきやです。

名産品として、「志ぐれ」があります。羊羹のような外郎のようなお菓子で、大洲市街以外に海辺の旧長浜町地域にも製造業者があり、長浜の方がどちらかというともちもちしているといいます。市内のお土産物屋でだいたいどこでも買い求めることができるようです。

このほか意外にもフグが名産だといいます。長浜沖で獲れ、昭和40年頃が最盛期でしたが、最近では漁獲高は激減しました。それでもふぐ漁専用の設備を持つ漁業者が10戸程度あるといいます。主として、広島、松山方面に出荷されますが、地元料理店にも卸されるため、長浜にはふぐ料理店も数店存在し、隠れた名物となっているそうです。

このほか、肱川の「鵜飼い」は有名です。「古事記」や「日本書紀」にも記述がある昔ながらの漁法で、鵜の食道で魚を一気に気絶させるため、傷がつかない新鮮なアユを食することができます。このため、鵜飼いで獲れたアユは天皇、貴族、大名などへの献上品とされていました。大洲藩でもこの鵜飼いで獲れたアユを上級武士が食していたようです。

明治以降は、漁法も近代化が進み一時は衰退していましたが、昭和32年に観光事業として復活。見物客は年を追うごとに増え、現在では水郷大洲市の夏の風物詩となっています。

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大洲城以外の観光スポットとしては、「お殿様公園」というのがあり、ここには国の重要文化財「大洲城三の丸南隅櫓」や国指定有形文化財「旧加藤家住宅主屋」があり、大洲城のある城山公園と結ぶ歴史公園として整備されています。

施設の整備に併せて、市民から愛称を公募し、歴史観を大切にしつつ親しみやすい名を、という観点から「お殿様公園」と命名されました。

さらに、市中心部、肱川沿いの臥龍淵に立つ臥龍山荘は、明治時代に4年の歳月をかけて建てられた数寄屋造の名建築です。このほか、肱川河口に全国的にも珍しい道路開閉橋、長浜大橋があります。1935年(昭和10年)に完成したもので稼働中のものとしては国内で唯一国登録有形文化財に指定されています。

この臥龍淵と大洲城を結んだ線の中間あたりに、「おおず赤煉瓦館」もあります。大洲は明治時代には養蚕・製糸の一大中心地として郡外からの繭も運び込まれるなど、養蚕・製糸業盛況でしたが、このために資金を提供するために開業したのが「大洲商業銀行」でした。

同銀行は主に繭を抵当として融資することが多かったことからその繭の保管も手掛けました。が、その保管場所が手狭となり、1898年(明治31年)本町の土地を購入し、倉庫と銀行本店などの一連の構造建築群が施工されたのが赤煉瓦館です。ただ、現在は銀行としては使われておらず、市が買収して観光情報の拠点としています。大洲市有形文化財指定。

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市内にはこのほか、長浜地区に古い庁舎があり、これは1936年(昭和11年)に建築された木造総2階建の旧長浜町庁舎で、入母屋造、瓦葺で昭和初期の洋風庁舎建築です。また、同じ長浜にある末永家住宅旧主屋は、1884年(明治17年)に建築された木造二階建であり、両者とも国登録有形文化財に指定されています。

このほか、長浜沖の伊予灘には青島という小島があります。もともとは無人島で、江戸初期に鰯の好漁場であることがわかり、漁師が住むようになりました。現在でも、一本釣、建網等の漁業が中心の島です。現在、漁師を含む50歳代から80歳代の島民が15名ほどいらっしゃるようですが、これに対して猫が100匹以上も生息している「猫の島」です。

島民の数が50名を割った10年ほど前から逆に猫の数が増え始めたといい、猫の生態を撮影した写真がブログなどに転載されたことで一躍注目を集めるようになり、猫好きの観光客が猫目当てに次々と訪れるようになりました。ただ、住民の半数は「猫嫌い」だそうで、「でも、なんとなく共存してきた」のだとか。

その他、大洲といえば、やはり「おはなはん」です。市中心部に「おはなはん通り」という通りも整備されており、なまこ壁の家や腰板張りの土蔵群などが並びます。1966年(昭和41年)から翌1967年(昭和42年)にかけて1年間放送されたNHK連続テレビ小説の第6作である「おはなはん」のロケ地でもあった場所です。

明治中期の愛媛県大洲市出身の茶目で明るい主人公・はなは、軍人とお見合いで結婚し子供も授かったが夫は病で他界してしまいます。女手一つで子供たちを育てながら、幾多の困難を乗り越えて成長していく、というストーリーです。

1966〜 67年の平均視聴率は45.8%、最高視聴率は56.4%もあり、また昭和41年5月に四国放送の行った徳島県内での調査では64.7%に上りました。

放映当時、その人気故に毎朝放映時間になると全国で水道の使用量が激減する、という現象まで全国で見られたといいます。食後の跡片づけの合間を縫って皆この番組を見たのでしょう。それほどの国民的人気ドラマでした。

また最近でも、朝日新聞のが行った「心に残る朝ドラヒロイン」アンケート(2010年9月)の結果では、本作の主演、樫山文枝が堂々の第1位になっています。

このドラマでは、夫の速水中尉は、高橋幸治が演じました。樫山さんは現在73歳ですが、ドラマでも時々出ているようです。しかし、現在80歳の高橋さんのほうは、90年代以降寡作となり現在はほぼ引退状態のようです。

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原作は、随筆家、「林謙一」によって書かれ、「婦人画報」、昭和37年4月号で発表された、「おはなはん一代記」です。モデルは林の母・「林ハナ」であり、旧姓は深尾といい、明治15年(1882年)に生まれ、昭和56年(1981年)に99歳という高齢で亡くなっています。

この原作は、「おはなはん」が放映される前の1962年11月2日に、同じNHKで単発ドラマ「おはなはん一代記」として一度放映されていました。「深尾ハナ」の名はテレビドラマでは「浅尾はな」と変更され、主演は森光子が演じ、林中尉は速水(はやみ)中尉と変更されて神山繁が演じました。第17回芸術祭奨励賞受賞をするなど評判の高い作品でした。

このドラマで森光子が主演を務めていたことから、その後の連続テレビ小説の方でも森が主演となる予定でした。が、撮影開始直前の1965年11月に急病(乳腺炎)により降板し、急遽白羽の矢が立ったのが樫山文枝でした。

この「おはな役」は彼女の当たり役となりましたが、以後のNHKの朝ドラでは、彼女のようにけっして美人ではない(?)ものの、お茶の間の誰にも愛される親しみやすいキャラクターが選ばれることが多くなりました。

実際の、深尾ハナも人々から「おはなはん」と親しみを込めて呼ばれていたようです。長じてから徳島市の旧・安宅村生まれで育ちの林三郎陸軍中尉(のちに大尉)と結婚し夫の赴任先である東京に上京し生活を始めました。

しかし、25歳のときに数え3つの長男と長女を残して夫が急死。以降女手一つでたくましく子供たちを育てて行く、といった人生はドラマそのままです。「おはなはん一代記」では、その彼女の生涯を忠実に追っていますが、ドラマ化されたときには、その舞台がハナが実際に生まれ育った徳島市の旧富田浦町から、宇和島に変更されていました。

徳島市で撮影しようにも、昭和20年7月の徳島大空襲により市街の大部分が焼失しており、明治時代の雰囲気が徳島市では再現できないという理由からでした。

さらに連続テレビ小説「おはなはん」でも、同じ理由でその舞台は大洲に変更されました。また、おはなはんの夫の速水中尉の実家も、実在の林三郎中尉の実家が徳島市内の安宅町というところであったにもかかわらず、ドラマでは鹿児島県の生まれと変更されました。

これらの変更は、公式にも「戦災で徳島の古い街並みがほとんど失われたため、古い街並みの残る大洲が選ばれた」とされていました。しかし、一説には撮影に際して徳島市が費用などの便宜に難色を示したからだともいわれています。

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ドラマの撮影が決定後、大洲市ではさっそく「おはなはん通り」を整備して観光に活用し、さらにドラマがヒットしたことから、その後も多くの観光客を呼び込むことに成功しました。一方、ロケ地とすることを断った一方の徳島市民および徳島県民は、このことをのちのちになって地団太を踏んで悔しがったといいます。

そのために当時の豊田徳島市長は、県民に尻をたたかれる形で、当時東京都信濃町に住んでいた林ハナさん宅を訪れ、徳島県への里帰りと県民への顔見せを直訴をするハメに追い込まれました。

このとき林家を訪れた徳島市長は、「この旧盆には市発展のためせめてお里に帰って県民にご尊顔を……ぜひ徳島にお帰りなして。県民が承知しまへんのや。」とやって、ハナさんに里帰りを懇願したといいます。

しかし、その後、ハナさんが徳島へところ帰ったという話はないようです。ただ、今でも徳島市内には、おはなはんゆかりの場所が残っているらしく、それを売りにした観光開発の動きがあるとのことです。

そのひとつは劇中の名場面とされるシーンであり、おはなはんが人力車に乗ってやってくる見合い相手の陸軍中尉を見つけようと、和服姿で自宅の木に登ったという場所です。

この木があったという屋敷はもうないとのことですが、この場所に銅像を建てようという話も持ち上がったとかで、そのほかにもおはなはんが通った母校なども残っているため、これらの場所も合わせて観光ルートを創ろうとかいった話が今もあるようです。

市のシンボルである眉山、徳島城跡以外では、名物の阿波踊りのほかもひとつ、パッとした観光資源のない徳島市としては(徳島の方スイマセン)、現在でも人気のあるおはなはんにどうしてもあやかりたい、ということなのでしょう。わからなくもありません。

一方の大洲のほうは、最近大洲城も再建されたことも手伝って、人気がさらに高まっているようです。上述のような観光スポットのほか、江戸及び明治の面影を残す町並みが数多く残っており、腰板張りの武家屋敷などは、同じく人気のある萩に通じるものもあり、小京都の風情を感じることができるといいます。

最近、大洲には「おはなはん通り」以外にも、「ポコペン横丁」なる昭和30年代のレトロ空間を整備して観光地としてアピールしているようで、中華そば、コロッケ、焼き鳥、ラムネ、おもちゃ、骨董品、昔遊び等のお店が軒を連ね、懐かしさが漂う場所のようです。

このほか、大洲市では上述の「肱川あらし」が起こる時期に発生しやすい「雲海」を売りにしています。

市内東の高台にある大洲市藤縄には「雲海展望公園」が整備されていて、ここからは10月~2月にかけて、天気のいい日の早朝に町内の小高い丘に登れば、この雲海を目にすることができるといいます。壮大にして神秘的な自然現象である雲海をぜひこの目で見てみたいもの。

実は私は生まれてこの方、一度もこの生地に里帰りしていません。今日この町のことを長々と書いてきたのも、そこに対するノスタルジックな感傷気分が多少あるからにほかなりません。

9年前に亡くなった父は、生前その生まれ故郷である満州の土地への里帰りを切望していましたが、晩年になってそれを実現しました。

父のその夢を実現した年齢にはまだほど遠いものの、私もだんだんとそれに近い年齢になりつつあり、やはり親子は似る、というか、人間は誰でも老いると、原点に戻りたくなるものなのでしょう。

大洲への帰還は、父が夢見た満州への里帰りほど難しくはないものの、今はまだ何かと多忙であり、行くとしても来年以降になりそうです。しかし、あれこれと言っているうちにすぐにでも還暦になってしまいそうです。せめて60の大台に乗るまでにはぜひ実現したいもの。

じゃあ、その還暦を迎えるのはいつなのよ、というご質問にはお答えせずに、今日の項は終わりにしたいと思います。

大洲を訪れるのはみなさんのほうが早いのかもしれません。

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