先日、「御嶽」の項を書くための資料をネットで漁っていたとき、明治時代にこの山を登った欧米人の中に、「パーシヴァル・ローエル」というアメリカ人がいたという記述に目がとまりました。
アメリカの天文学者としても知られるこの人物は、明治期に5回にわたり来日し、日本に関する3冊の著書を残しています。うち2冊は、「極東の魂」と「NOTO(能登)」というもので、あとの一冊は、「オカルト・ジャパン」といい、英題は、“Occult Japan or the Way of The Gods”です。
1895年(明治28年)に書かれたもので、副題には、“An Esoteric Study of Japanese Personajity and Possession”とあり、これらの訳は、「神秘的な日本、あるいは神々の道 -外国人の見た明治の御嶽行者と憑霊文化-」とされています。
この本を訳したのは、足利工業大学や駒澤大学の先生を務め、日本山岳修験学会理事でもあった、宗教人類学者の菅原壽清という人です。特に民俗宗教と仏教との「宗教複合」などにお詳しいようで、「木曽御嶽信仰」の宗教人類学的研究が主な業績です。御嶽研究の第一人者でもあり、平成14年には、日本山岳修験学会賞なる賞も受けておられます。
ローエルは、4度目の来日の際に木曽御嶽山に登り、3人の行者による憑霊(これを「御座(ござ)」といいます。後述)を見てたいへん驚き、東京に戻って神道の教派のひとつである、「神習教」の初代管長・芳村正秉に教えを乞うて神道の研究をし、東洋の神秘を解き明かそうとしました。
そして、その研究に基づき、このオカルト・ジャパンをはじめとする本を記したわけですが、菅原壽清氏が訳したこの本の第1章から7章までは、彼が実際に観察・体験したことが報告されているようです。
とくにその第8章では、この「憑霊」というものの背後にどのような本質が隠されているかを彼なりに分析しており、「神懸り」とも言いかえることのできるこの現象について詳しい見解を示しています。
この章にある細項目には、憑霊、日本人の性格、夢、催眠トランス、憑霊トランス、神道の神々、といったものがあってかなりマニアックです。が、元々は天文学者でもあり、そうした科学者の視点から、御嶽信仰に係る日本の憑霊文化を解き明かそうとしたようです。
このパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)という人は、1855年、アメリカ合衆国ボストン生まれです。ボストンの大富豪の息子として生まれ、ハーバード大学で物理や数学を学び、その後実業家となりました。しかし、数学の才能があったことから、火星に興味を持って天文学者に転じました。
ちょうどこのころから屈折望遠鏡の技術が発達しはじめており、その上に火星の二つの衛星が発見されるなど火星観測熱が欧米で高まっていたこともその動機となったようです。お金持ちであったことから、私財を投じてローウェル天文台を建設、火星の研究に打ち込みました。
この天文台は、アリゾナ州フラッグスタッフにあり、1894年(明治27年)に設立されました。2つの施設に9台の望遠鏡が設置されていますが、そのうちの61cm屈折望遠鏡は歴史的記念物に指定されていて、一般公開されています。天文台自体は現在も機能しており、ボストン大学と共同運用されています。
ここでローウェルは火星観測に打ち込み、その観測結果から、300近い「図形」と「運河」らしいものを識別しました。彼はこの運河の一部は二重線(平行線)からなっている、とこの当時主張しましたが、その後の火星探査機の観測によりこれらは図形でも運河でもなんでもないことが実証されています。
しかし、小惑星「アリゾナ」を発見するなどの実績も残しており、最大の業績は、最晩年の1916年に「惑星X」の存在を計算により予想したことです。1930年には、その予想に従って観測を続けていたクライド・トンボーという天文学者が冥王星を発見しています。冥王星の名 “Pluto” には、ローウェルのイニシャルP.Lの意味もこめられています。
また、彼の建てたローウェル天文台はその後、惑星研究の中心地となりました。フラッグスタッフという土地は、天体観測に最適な場所だといわれており、ここを見出した彼の着眼点の良さも評価されているようです。
しかし、火星に刻まれた模様を幾何学的な図形や運河であると主張したように、「火星人」の存在を唱えるなど思い込みも激しく、1895年にはこうしたことを書いた「Mars」という火星に関する著書を出版しています。この本には、黒い小さな円同士を接続する幾何学的な運河を描いた観測結果が掲載されています。が、無論彼の妄想の産物です。
彼の天文学に関する業績については、現在に至っても悪口を言う人も多く、著名な天文学者、カール・セーガンは「最悪の図面屋」と酷評し、またSF作家のアーサー・C・クラークも「いったいどうしたらあんなものが見えたのだろう」と自著の中で書いています。また、ある眼科医は彼は実は飛蚊症だったのではないかという仮説を述べています。
上述したように、日本研究家という側面も持ち、明治16年(1889年)から明治26年(1893年)にかけて日本を5回も訪れており、通算約3年間滞在しました。
来日を決意させたのは大森貝塚を発見したエドワード・モースの日本についての講演だったといい、モースもまた、神道の研究など、日本に関する著述が多いことで知られています。ローウェルは来日後、小泉八雲、アーネスト・フェノロサ、ウィリアム・ビゲロー、バシル・ホール・チェンバレンといった日本通とも交流を持っています。
能登半島の研究にもいそしみ、「NOTO」を書くための旅の途中で訪れた能登半島中央にある穴水町では町民に親しまれたようです。このためこの街には現在もローエル顕彰碑が置かれており、彼がここを最初に訪れた5月9日には「ローウェル祭」なる祭典も開かれ、彼にちなんで天文観測会や講演会が行われているということです。
このローエルも登ったという、御嶽山は山岳信仰の山です。通常は富士山、白山、立山が日本三霊山と言われていますが、このうちの白山または立山を御嶽山と入れ替えて三霊山とすることもあるようです。日本の山岳信仰史において、富士山の「富士講」と並び講社として庶民の信仰を集めた霊山であり、教派神道の一つ「御嶽教」の信仰対象です。
鎌倉時代、この御嶽山一帯は修験者の行場でした。山頂の御嶽神社奥社登拝に当たっては、麓で75日または100日精進潔斎の厳しい修行が必要とされたといい、この厳しい修行を行ったものだけに年1回の登拝が許されていました。
それほど激しい修行が必要だったこともあり、この道を究める人たちは、「道者」と呼ばれ、当初そのほとんどは木曽谷に住まう人達だけでした。しかし、のちには他の地域からの人々による登拝も盛んとなっていきます。
遠方から御嶽の登拝にやってきて最初に御嶽山を望むことができる場所は仏教の教えに基づいて「御嶽の四門」と呼ばれていて、それぞれに鳥居などが設置され、御嶽山を遠方に望む遥拝所がありました。
この四か所の詳細な位置関係は地図で調べて頂きたいと思いますが、現在は木曽福島町になっている旧岩郷村神戸には「発心門」と呼ばれる遥拝所があり、岐阜県高山市と長野との県境にある長峰峠には、「菩薩門」、王滝村の三浦山中には「修行門」、諏訪湖に近い塩尻にある鳥居峠には「涅槃門」がそれぞれありました。
また、御嶽頂上にある「御嶽神社奥社」には修験道の本尊である「蔵王権現」も祀られていて、この四門にも同様の権現様が祀られていました。例えば涅槃門とされる塩尻の鳥居峠の遥拝所では、権現様の石碑や祠が設置されていたようです。
これらが置かれた理由は、御嶽山に登ることのできない女性や老人でも修験道ができるようにとの配慮からであり、これは、その昔御嶽山は女人禁制の山だったためです。
この四門から長い道のりを歩き、登頂して行きついた先にある最高点の剣ヶ峰に「御嶽神社奥社」は置かれています。ここは「御嶽大神」と呼ばれる国常立尊、大己貴命、少彦名命などそれぞれを祭神とする神社です。
さらに、御嶽山東側の御嶽ロープウェーの起点のある飯森のすぐ近くにある黒沢口には、「里宮」「若宮」と呼ばれるお宮があります。これもまた、奥社にまで登ることのできない女性などの参拝の便宜のために設けられたものです。
また、御嶽南東部にある王滝口にも里宮と若宮があり、この王滝口からの参道を登った先の王滝頂上にも、木曽御嶽神社王滝口の奥社があります。
このほかにも、王滝口と黒沢口の参道には多数の霊場と修行場跡が残っており、これは御嶽信仰では自然石に霊神(れいじん)の名称を刻印した「霊神碑」を建てる風習があるためです。黒沢口の参道には登拝者を祀った約5,000基の霊神碑があり、王滝口の参道にも多数の霊神碑が並んでいます。
このように、御嶽山頂上およびその登山道、登山口には数多くの霊場が残っており、これほどこの御嶽山というのは周辺地域の人々、とくに木曽谷のひとたち崇拝されてきたことがわかります。
御嶽信仰は、鎌倉以後も戦国時代、江戸期、明治大正を経て現在にも受け継がれていますが、1944年(昭和22年)には「御嶽教」などの教団と御嶽神社が「木曽御嶽山奉賛会」を設立し、その後「御嶽山奉賛会」と改称し神社の運営を行っており、御嶽神社黒沢口ではこの団体によって毎年太々神楽が奉納されています。
もともと女人禁制の山であったことは上述のとおりです。が、1868年(明治元年)に黒沢口の8合目には「女人堂」が御嶽山で最初に山小屋としての営業が開始され、ここまでは女性も登れるようになりました。
その後しばらくの間は、これより上部への女性の立ち入りが禁止されていましたが、明治5年(1872年)の太政官通達により女人禁制が解かれました。これは、他の国内の山と比較してもかなり早い時期の解禁でした。
その後、御嶽南部、南西部に林道黒石線や白崩林道といった有料道路ができ(現在は県道として解放)、また東部からは御岳ロープウェイによるアクセスもできるようになり、これらのルートを通ってきた、ひのき笠と金剛杖の白装束の信者によって、御嶽の参道は埋め尽くされるようになりました。
1985年(昭和60年)以降には山腹に4つのスキー場も建設され、さらに修験道信者に混じって一般の登山者も多くこの山を訪れるようになりました。年間およそ30000人が訪れると言い、今年もまた紅葉の時期を狙って多くの登山客でにぎわっていたようです。
そして今回の噴火です。が、この話題は脇に置いておいておくとして、もう少し御嶽の歴史について記述しましょう。
江戸時代前期には、仏教彫刻で有名な僧円空も御嶽山に登拝しており、周辺の寺院で多くの木彫の仏像を残しています。また江戸時代後期には、かの有名な絵師、谷文晁が「日本名山図会」にこの山を描いて、名山として紹介するなど、江戸時代には既にその名は全国に知れ渡るようになっていました。
この江戸時代が始まる前の40年ほど前の、1560年(永禄3年)には、木曾谷の領主、「木曾義昌」もまた御嶽に登っています。おそらくはこの当時最もアクセスのしやすかった黒沢口からかと思われますが、ここの里宮で100日の精進潔斎を終えあと、従者と共に武運を祈願するために登拝したという記録があるようです。
この現在も「木曽御嶽山」に名を残す、「木曾家」のことについて少し書いておくことにしましょう。
木曽は、古くは「木曾」と書きました。木曾氏は、南北朝時代から室町時代後期にかけて代々信濃国南部の木曾谷を領した国人領主だった家系です。治承・寿永の乱で木曾谷から発して上洛を果たした「木曾義仲」が、その隆興の租とされ、以後の戦国時代の木曾氏の多くはこの義仲の子孫を自称するようになりました。
実は、この木曾義仲は、源頼朝・義経兄弟の従兄弟にあたり、源氏の系統です。「平家物語」においては朝日将軍とも、旭将軍ともと称された人物で、以仁王の令旨によって挙兵し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って上洛を果たしました。
その後、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となりましたが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれてその生涯を終えました。寿永3年(1184年)没。享年31の若さだったといいます。
御嶽神社に参拝した記録の残る木曾義昌は、この木曽義仲が生きていた時代よりもさらに400年ほど時代が下ったあとの人物です。時代としては、戦国時代から安土桃山時代にかけて、江戸時代の少し前であり、この人もまたこの木曾義仲の子孫と称していました。
今も「木曽」の名を地名に残す、信濃国木曾谷の領主であり、ここに代々君臨した木曾氏の第19代目の当主で、その正室は武田信玄の娘、真理姫(眞龍院)でした。
当初は近隣の武将である、小笠原氏や村上氏らと共に甲斐の武田信玄の信濃侵攻に対抗していた木曾氏ですが、度重なる信玄の侵攻を受け、ついに武田家に屈服しました。これにより木曽は、武田家の美濃や飛騨への侵攻における最前線基地化され、以後、信玄はここを通って京への上洛を夢見るようになります。
しかし道半ばで果たせず、信玄の死後、木曾氏は、織田信長と盟約を結んで逆に信玄の子、勝頼に対し反旗を翻すようになります。ところが、その信長も本能寺の変で死にます。すると今度は家康に通じて盟約を結ぶようになり、これによって木曽谷安堵の約定を得ます。
ところが、天正12年(1584年)、家康と羽柴秀吉との対立をうけて木曾義昌は盟約を反故にし、次子・義春を人質として秀吉に恭順するに至ります。
こうしたいつの時代にものらりくらりと「寝返り上手」を繰り返す木曾氏を当然のことながら家康は快く思っていませんでした。このため秀吉に讒言したと思われ、天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴い、木曾義昌は秀吉から徳川附属を命ぜられ、下総阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)に1万石ほどが与えられただけで木曽谷を退くことになりました。
秀吉が課したこの移封の名目には諸説あり、秀吉の小田原征伐の際に自身は病気と称して行かず、嫡男・義利を代理として参加させたため忠誠心を疑われたせいだとも、交通の要衝にあり優れた木材を産出する木曽谷を取り上げると同時に、家康を懐柔するために体よく使われたともいわれているようです。
この移封によって精神的にも経済的にも逼迫した義昌は、文禄4年(1595年)失意のままに同地で死去し、家督は子の義利が継承しました。しかし、義昌の死後、義利は叔父・上松義豊を殺害するなどの乱暴な振る舞いにより、慶長5年(1600年)に改易に処されました。この改易にも、「下総国に流罪」とする説と単に「追放」とする説があります。
これによって、木曾氏の直系が消え、木曾氏は消滅したことになりますが、義昌には他に二男義成と三男義一(義通)がいました。が、義成は大坂の陣における豊臣秀頼の浪人募集に応じ大坂城に入って戦死。また義一は母の真竜院と共に木曽谷で隠遁して生き延びたとも言われていますが、その後や子孫に関する記録は伝わっていません。
木曾家の名跡と総禄高1万6千2百石にのぼる領地は、家臣であり、親族でもあった千村氏・山村氏や久々利九人衆といった面々が継承し、江戸期に至っていますが、いずれにせよ、こうして大名家としての「木曾家」の名は完全に消滅し、残ったのは木曽の地名だけ、ということになりました。
以上が、「木曽」の地名に名を残す木曾家のだいたいの系譜になります。そして、御嶽山はこの消滅した木曾家が本拠地としたこの木曾の地における最高峰であり、この義昌をはじめとする代々の木曾一族が鎌倉期以降、最も尊んできた山ということになります。
が、上述のように木曾家が没落すると、ここの修験道者たちは独自の宗教色を強め、戦国武将とは一線を画すようになり、そのまま江戸時代に至ります。
1785年(天明5年)には、尾張春日井郡出身の「覚明行者」が、旧教団の迫害を退けて地元信者を借りて黒沢口の登拝道を築き、軽い精進登山を普及させることに成功し、厳しい修行をしなくても水行だけで登拝できるようになりました。
この普寛行者は黒沢口以外にも、王滝口と小坂口を開き、これら3つの参道の開通により、尾張や関東など全国で講中(普寛講他)が結成され御嶽教が広まり、信仰の山として大衆化されていきました。そして、江戸時代末期から明治初期にかけては、毎年何十万人の御岳講で登拝されるようになっていきます。
覚明行者は、1718年(享保3年)3月3日に尾張国春日井郡牛山村という場所の農夫、丹羽清兵衛(左衛門)と千代の子として生まれました。幼名は源助で後に仁右五衛門に改名、幼少期は新川村土器野新田の農家で養われていました。
出身地の旧牛山村にある、愛知県春日井市立牛山小学校の校歌では、現在でも「北に御岳見はるかす 覚明行者の産湯の街に」と歌い込まれています。
1818年(文政元年)に記された「連城亭随筆」には、「医師の箱持ちをした後お梅と結婚し餅屋を開き商いをしていた」と記録されていますが、ある時、盗みを働いた、といわれています。しかし、冤罪だったらしく、これをきっかけとして、世に無常を感じ、各地で巡礼修行を行う行者となりました。
あちこちを流浪したあげくにたどり着いたのが木曽谷であり、ここの村々で布教活動を行い信者を増やしました。そして、その布教において御嶽山を自宗のシンボルにしようと考えます。
1782年(天明2年)には、この当時御嶽山を管轄していた神職の武居家と、この地の代官であった山村代官に登山許可の請願を行いますが、数百年に渡る従来の登拝型式である「精進潔斎」を破ることになる、と言われて却下されます。
精進潔斎とは、五辛(にんにく・らっきょう・ねぎ・ひる・にら)や魚鳥の食用を断ち、行いを慎んで身を清めることですが、これを断られたというのは、もともと農民であった普寛行者がその日常で肉を喰らい、五辛を肴に飯を食うといった習慣を持っていたためでしょう。
この頃の御嶽での登拝は、上述のように、五辛や魚鳥の食用を断つなどの厳しい精進を求められ、これを「重潔斎」と言っていたのに対し、多少の精進軽減は大目にみる、ということで、例えば五辛だけを絶てば良いといったことを、「軽精進潔斎」といい、この軽めの精進で登山することを「軽精進登拝」といいました。
普寛行者は登山許可がないまま、この軽精進登拝を強行しようとし、1785年(天明5年)、地元住民8名と尾張の信者38名、合計約80名を引き連れて強引に登拝を行いました。しかし、下山後にこの暴挙に対する罪を受け、全員が21日間の拘束を受けたとされています。
しかし、普寛行者はさらにその翌年の1786年(天明6年)にも多数の同志を引き連れて軽精進登拝を強行し黒沢の登山道の改修を行おうとしました。しかし、その途中の6月20日に頂上付近のニノ池湖畔で病に倒れ、その68年の生涯を終えました。
普寛行者の遺骸は、その直下にある黒沢口九合目の覚明堂の宿舎上の岩場に埋葬されました。現在も山小屋「覚明堂」の横に覚明行者の霊場があるといいます。
その後、普寛行者の死後60年余りたった1850年(嘉永3年)には、江戸時代の宮門跡、つまり皇族・貴族が住職を務める特定の寺院の一つ、上野東叡山寛永寺の日光御門主から「菩薩号」が授与されています。神仏習合の時代の習わしであり、仏門に入った者がその死後、「神」として与えられる称号です。
この覚明行者は、生前、御嶽山の麓の村人に「アカマツの苗が育てば必ず稲ができる」と教えました。村人がこの教えを受け、苗を植えたところ、実際に赤松が育ったあとに豊作となったことから、この地は田を新しく開く、という意味で「開田」と呼ばれるようになりました。その由来は1806年(文化3年)に設置されたこの地の碑に刻まれています。
このように、覚明行者は地元の人々からも崇拝された人物であり、また御嶽山を中興開山させた先駆者であるわけですが、彼が布教した信仰はその後もこの地の人々に受け継がれるとともに、その後王滝口三合目の清滝には清滝不動明王が祀られ、ここを登拝者が水行を行う新たな行場とするなど、御嶽山はさらに修験道の地としてにぎわっていきます。
その後覚明行者の志を受け継いだ信者により、彼が道半ばで倒れた黒沢口の登山道の改修も完結され、さらに御嶽信仰はエスカレートしていきます。覚明行者が強行登拝したことによって事実上の「軽精進による登拝解禁」となり、信者であれば誰にでも認められるようになったためでもあり、それほど御嶽信仰の隆盛に寄与した彼の功績は大きいわけです。
このころまでには信者はますます増え続けましたが、これによって、御嶽山の麓である王滝や黒沢と言った地元にも経済効果が生まれるようになりました。
こうしたこともあり、1791年(寛政3年)には麓の庄屋が連名で、一般庶民の「軽精進登拝」の請願を提出した結果、1792年(寛政4年)にはこれが許可が下され、以後、入山料200文を払えば、軽精進による登拝を認めるという規定が作られるようになります。
金を治めれば誰でも信者になることができ、登山ができることができるようになったわけであり、これによって益々御嶽登山者は増えました。
覚明行者亡きあと、この地をさらに発展させたのは、「普寛行者」といわれています。普寛行者は、1731年(享保16年)に武蔵国秩父郡大滝村落合で生まれ、青年期江戸に出て剣術を学び酒井雅楽頭家に仕えたと伝えられています。
1764年(明和元年)、現在の埼玉県秩父市三峰にある三峯神社に入門し、ここの修験者となりました。1792年(寛政4年)5月に江戸などの信者を引き連れて開山のために旅立ち、6月から各地の山に入り「御座(おざ、またはござ)」を行い、そしてついに御嶽山に登拝しましたが、このときはじめて御嶽南麓の王滝口が開かれました。
この御座こそが、冒頭で説明したように、ローエルが解き明かそうとした「憑霊」であり、「御座」とは普寛行者が普及させた「巫術」による神降ろしの儀礼と祈祷のことです。
巫(ふ)は、「かんなぎ」とも読み、これは「神和(かんな)ぎ」の意でもあります。巫覡(ふげき)とも言い、神を祀り神に仕え、神意を世俗の人々に伝えることを役割とする人々を指します。
日本においては古来より巫の多くは女性であり、「巫」もしくは巫女(みこ、ふじょ)という呼称で呼ばれ、この巫女(みこ)の呼称は現在でも使われています。ただ、現代において巫女という場合、単に神道における神職を補佐する女性の職の人々を指す言葉として使われることが多ようです。
一方、古代初期の日本においては巫女と同一の役目を担う「巫覡、男巫、巫子」も少なからず存在しており、男性の場合は「覡」、「祝」といいました。現在、神職の一般呼称である「神主(かんぬし)」とは、本来、文字通り神掛かる役目を持つ「覡」、「祝」職のことであり、これも元々は、巫(ふ)もしくは「かんなぎ」から来ていると考えられています。
なお、「かんなぎ」の語源については、神意を招請する意の「神招ぎ(かみまねぎ)」という語からであるとか、「神和(かむなぎ)」という語からであるなどといわれていますが、どちらもはっきりとした裏づけはとれていないようです。
このように古来からいろんな呼称のある、「巫」ですが、いずれにせよ自らの身に「神おろし」をして神の言葉(神託)を伝える役目の人物のことで、邪馬台国の時代に遡る古代の神官は、ほぼ巫と同じ存在であり、彼らが告げる神託は、国の意思を左右する権威を持ちました。
この神おろし、はすなわち「憑依」のことであるわけですが、実際にそうした現象が存在するかどうかについては、解釈が分かれるところでしょう。が、現在でも、青森県などのように「イタコ」・「イチコ」などの名称でこの職が伝わっているケースもあります。
また、日本本土と異なる歴史背景を持つ沖縄県周辺では、ユタ・ノロ(祝女)といい、これは古代日本の巫と同じ能力・権能で定義される神職です。琉球王国時代以前から現代まで存続しています。
これらのことから、古代日本の信仰形態は、神職という形で残っている以外にも、その古い形態のまま、各地に残されており、だがしかし呪術性が高いだけに、表だってはあまり公表されていないものも少なからずある、と考える民俗学者も多いようです。
さて、この「御座」を通じて「巫術」を普及させた普寛行者は、その後江戸方面でもこの御嶽講を組織し御嶽信仰を日本全国に浸透させました。1794年(寛政6年)には現群馬県の上州の武尊山を、また1795年(寛政7年)には、新潟県南魚沼市にある八海山の開山を行い、ほかにも各地の開山を続けるなど活発な活動を行っています。
しかし、その後、1801年(享和元年)、巡錫(錫杖を持って巡行する)をしている最中に、武州本庄駅、これは、現在の埼玉県本庄市にあたりますが、ここで倒れ、70歳の生涯を終えました。
以下のような辞世の句が残っています。
なきがらは いつくの里に埋むとも 心御嶽に 有明の月
王滝口3合目の清滝上には、現在も普寛行者の墓塔があります。1850年(嘉永3年)には、覚明行者と同様に普寛行者にも上野東叡山日光御門主から菩薩号が授与されました。また、1890年(明治23年)王滝村で普寛行者百年祭が開催され記念碑が建立されています。
普寛行者の直弟子としては、その後広山行者、泰賢行者、順明行者などが現れ、さらにその後も次々に有力な行者が登場し、現在もなおさかんな「御嶽講」を日本全国に広めました。
この御嶽講についても少し書いておきましょう。御嶽山の登拝は、行者と信者が一緒にその聖地を巡礼する旅をする形式で、これを通称「御嶽参り」といいます。このグループを「講」または「講社」といい、先達(せんだつ)に導かれて集団で登拝が行われます。
信仰により病苦が救われるとされ、その最初のころには、主として江戸などの関東地方に普寛行者系の御嶽講社が開かれました。
その後普寛行者の弟子である儀覚行者(きかくぎょうじゃ、1769-1841年)が東海地方に宮丸講を初めて開き、覚明行者系の講社が愛知県を中心に西日本へと広まりました。とりわけ濃尾平野の農民は木曽川の水源となる御嶽山を水分神の山として尊崇していましたが、木曽谷の地域でも普寛行者系の講社が次々と結成されました。
これら各地方の講社の先達の魂は、その死後「霊神」とされ、その碑が御嶽山の登拝道に鎮められており、この「死後我が御霊はお山にかえる」という信仰に基づく「霊神碑」が設置されることこそが御嶽山信仰の最大の特徴のひとつです。自然石に霊神の名称を刻印したものである、とは上でも書きました。
江戸時代には関東や尾張から中山道を通っての参拝が行われていましたが、1919年(大正8年)に中央本線が全線開通すると登山者は木曽福島駅で降りて、ここから直接御嶽山へ歩き始めるようになります。
さらに、1923年(大正12年)には木曽森林鉄道が敷設され、これは御嶽の南麓から東南麓にかけて敷設されていたようで、これにより登山の利便が増し、さらには木曽福島駅から黒沢と王滝まで「おんたけ交通」の乗合バスが利用されるようになりました。
昭和に入り、1966年(昭和41年)に有料道路林道黒石線が全線開通すると貸切バスで直接王滝口の田の原へ入ることができるようになり、1971年(昭和46年)有料道路白崩林道が全線開通すると貸切バスで直接黒沢口の中の湯まで入ることができるようになりました。
近年では、天気が安定している7月下旬から8月中旬頃に1泊2日または2泊3日で登拝が行われるようになり、黒沢口から8合目の女人堂を経て山頂を往復するか、黒沢口から山頂を経て王滝口へ下る、あるいは王滝口から山頂を往復する、王滝口から山頂を経て8合目の女人堂から黒沢口へ下るルートなどで登拝が行われるようになっています。
こうして多くの修験道者の登山の便が整備されるにつけ、彼等に混じって、一般の登山客も数多く上るようになっていきました。御嶽山の登山口は木曽谷側からは王滝口、黒沢口、開田口の3つありますが、飛騨側からは小坂口ひとつでした。しかしその後、真北を通る日和田口が新しく開かれました。
木の丸太などで整備された階段状の登山道は「木曽御嶽奉仕会」などによる地元の有志や御岳信仰の関係者によって修復整備がなされており、大多数の信仰登山者が利用する黒沢口と王滝口の登拝道は、一般登山道としても利用されています。黒沢口などでは、今でも御嶽講の先達を背負ったり、信者の荷物や、山小屋の物資を運ぶ強力を担う人がいます。
御嶽山は宗教登山が盛んであるため、各登拝道や山頂などに多数の山小屋と避難小屋があります。山頂地域に多くの有人山小屋がありますが、王滝口の終点の王滝頂上には、「王滝頂上山荘」、剣ヶ峰山頂には、「御嶽剣ケ峰山荘」、「御嶽頂上山荘」があるほか、黒沢口9合目には、「石室山荘」、9合目半には「覚明堂休泊所」があります。
このほか、二ノ池周辺に「二ノ池本館」、飛騨側に「二ノ池新館(本館とは別経営)」があり、以上でざっと7つの山小屋が山頂付近に集中していますが、このほか、御嶽山の北西側の小坂口道を上り詰めた9合目には、「五の池小屋」という大きな山小屋があります。
今回噴火があった場所よりかなり北側になり、小屋周辺は森林限界のハイマツ帯で、高山植物のお花畑となっています。
その前身は明治時代に御嶽信仰の人々によって建てられ、以後多くの登山者に利用されてきました。1997年(平成9年)に管理者が高齢で病弱になったことから、旧小坂町へ寄付され、以後合併して現下呂市になった同市が運営しています。2010年(平成22年)東隣に2階建て30m²の新館が増築されました。
これにより、収容人数が従来の2倍の100人となり、2012年(平成24年)にはカフェ「ぱんだ屋」もオープン。市の経営であるため、宿泊料金も9000円(1泊2食付)、6000円(素泊)とリーズナブルであり、いつも多くの登山客でにぎわっていたようです。
噴火口から少し離れているので、先月27日の噴火の際にも緊急の避難小屋として機能し、付近の子供も含む登山客を屋内避難させ、翌28日には管理人も含む26人が全員無事に下山しました。
しかし、仔細はまだわかりませんが、テレビのニュースなどで見る限りは、この小屋もかなり被害が出ているようです。また、これより南側に位置し、噴火口により近いその他の山小屋周辺では多数の人が亡くなっているといい、痛ましい限りです。
早く噴火が鎮まり、行方不明者も発見されてほしいものですが、それが実現するためには、それこそ御嶽の神に祈るべきなのでしょう。
これらの山小屋の再開も望まれます。が、そのための道のりはかなり遠いでしょう。どのくらいかかるかはわかりませんが、私も死ぬ前には一度登り、ぜひ亡くなった方々を弔いたいものです。