今年もあと2週間を切りました。
体感的にはまだまだ残りがあるだろう、とつい思ってしまうのですが、カレンダーをみれば今年残されている日数がわずかであることは一目瞭然……
アレアレまだあれもやっていないし、これもやっていない、できていないこともたくさんあるのに… もう終わりなの? というかんじなのですが、ここまで押し迫ってくると、いっそのこと、もういいや来年やれば… と諦める気持ちもわいてきます。
なんでもかんでも無理して今年中にやってしまおうとするから悪いんだ、と言い聞かせたりもしてみるのですが、やはり大掃除と年賀状作成くらいはやっておかねば、と長年染みついてきた習慣にはやはり勝てません。
しかし、別に大掃除を早めにやる必要はなく、一般には、これは年末にやるものとされています。ただ、さすがに大晦日にやるのはせわしないので、たいていは御用納めのころに合わせて12月28日頃にやることが多いようです。
一年分の汚れを除去し、新たな年に「歳神」を迎える準備をし、新年を新たな心持ちで始められるようにする意味があり、その昔は煤払い(すすはらい)と呼んでいました。そもそもは神社仏閣において、仏像や祭神についていた煤を払うことが歳末の恒例行事となっていたものが、民間に下って行ったものです。
歳神というのは、毎年正月に各家に来てくれる神さまです。来訪してくれるから来方神ともいいます。地方によってはお歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神、大年神(大歳神)、年殿、トシドン、年爺さん、若年さんなどといろいろな呼び方があるようです。
現在でも残る正月の飾り物は、もともとこの歳神さまを迎えるためのものです。門松は年神が来訪するための依代(よりしろ、神さまが居ついてくれる)であり、鏡餅は年神への供え物でした。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を供えていた名残です。
そのお正月を気持ちよく迎えるための年末の煤払いは、旧暦では本来は12月13日に行われていたそうです。これは徒弟奉公などの人々が新年に間に合うよう里帰りの旅路の時間を考慮して行われていたからです。
江戸時代にはこの煤払いの作業後は、冬の時節の体をいとうためと彼らの重労働をねぎらうために滋養強壮と長寿を願って「鯨汁(クジラ汁)」が日本各地で食されたといいます。
江戸時代の人々はあまり肉食はしなかったといわれていますが、クジラは別だったようです。組織的な捕鯨が行われており、今でも捕鯨がさかんな和歌山や静岡といった地域周辺の漁村では、鯨肉は常食とされていました。
現在でも、大坂など近傍経済圏にもこの頃に生まれた伝統的な鯨肉料理が存在し、京都でも「鯨の吸い物」を提供するところがあるようです。高知県では土佐藩の高知城下を中心に数々の鯨料理が伝承されており、特に「はりはり鍋」は現在でも高知の代表的な物の一つです。
江戸城下では、みそ汁や澄まし汁にクジラ肉が加えられて食されていたようで、これらがクジラ汁のことです。また、鯨肉を素材に調理した「鯨鍋」というものがあったようですが、これは家庭だけでなく、料理屋で出されることも多かったようです。
東京都内にこうした江戸時代から続くあるドジョウ鍋料理店では、160年間以上にわたり「鯨汁」を提供し続けているといいます。江戸時代の江戸城下では、ドジョウ鍋屋(柳川鍋屋ともいう)で鯨汁が出されるのが一般的だったそうですが、なぜドジョウ鍋屋だったのでしょうか。
一説では一番小さな魚を使った料理であるドジョウ鍋に対しての洒落から一番大きな魚の鯨汁を提供したといわれています。だいたいどの店でもドジョウ汁と鯨汁は同じ値段で十六文で売られていたそうで、明治末期にはドジョウ汁が一銭五厘、鯨汁は二銭五厘でした。これは現在の価値に換算すると200~300円のようで、庶民にも手の届きやすい値段です。
煤払いが終われば、この鯨汁を家庭や料理屋で食べ、商家では奉公人規制して、残るは主人一家だけになります。しかしその前に、煤払いが終わると誰彼構わず胴上げを行うのが慣わしとなっていたともいいます。これは江戸だけでなく畿内も含め全国的に行われていた風習です。
胴上げの発祥は長野市の善光寺との説があります。善光寺では、現在でも12月の2度目の申(さる)の日に、寺を支える浄土宗14寺の住職が五穀豊穣、天下太平を夜を徹して祈る年越し行事「堂童子(どうどうじ)」というのがあります。
胴上げをするのはこの行事のときで、このときこの行事を仕切るリーダーを胴上げをするそうです。江戸時代初期から行われていたそうで、「牛にひかれて善光寺」と呼ばれるほど観光地として人気のあったこの寺から全国にこの風習が広まっていったのでしょう。
江戸時代の記録では、「ワイショ、ワイショの掛声のもと、三度三尺以上祝う人を空中に投げ上げる」とあります。
無論、現代では年末に胴上げなどをやる風習はなく、胴上げといえば、大学に合格したときや結婚などの人生の節目、スポーツでの勝利の場面、選挙で当選した候補者を胴上げするときくらいのものです。
こうした風習が消え去っただけでなく、現在では大掃除の形態も変わってきています。昨今は掃除用具の多岐や高機能化により、日頃から多くの場所を掃除できるようになったため、室内で箒やはたきを使って掃除をする家庭というのはほとんど見られません。
家族総出の大掃除をしない家庭も増えてきているようで、日ごろから掃除し、綺麗にしておけば大晦日前に慌てて掃除をする必要はないという考え方のほうが浸透しているようです。
が、小中高などの学校では、終業式前に大掃除を生徒の手でやらせるところも多く、学校教育の一環として行われる大掃除も多いようです。とくにトイレなどの水回りなどのように雑菌が繁殖しやすい場所などでも生徒自らに掃除させる学校も多く、これらを適切に管理することは社会的協調性を獲得する手段として重要な教育目標とされます。
日本では、公共教育の一環として清掃活動は重要視されます。「触れたくないもの」「忌避すべきもの」を適正に処置できる技術を学ぶこと、あるいはその体験を積み重ねることで、自主自律のための自信の獲得に寄与することが期待されており、これは諸外国にはあまりみられない風潮です。
多くの外国では、学校の掃除は、業者に委託したほうが正確かつ丁寧であるとして外部業者の手により掃除が行われることが多いようです。しかし、最近、サッカーの国際試合などで日本人サポーターが自分たちの観客席の掃除をして帰ったことなどが世界的に「美徳」として喧伝され、高い評価を受けています。
このため、日本の学校の掃除の様子なども諸外国に伝えられることも多くなり、アラビア諸国などでも教育の一環として一部で行われるようになってきているといいます。
海外に進出した日本企業においても、こうした掃除方法は従業員教育の一環として行われることがあり、こちらも着目されています。生産ラインや工具の分解清掃は、製造工程の品質維持を目的とするほか、ラインや工具の耐久性向上、食品ラインなどにおける異物混入事故の予防や発見など通常業務における効果が期待できます。
また、未熟練作業者が品質に対する理解を深め、あるいはラインや製造工具、作業内容に対する知識を高めるための研修効果が期待されます。こうした日本的な掃除手法が日本の高い生産技術を支えている、という評価が世界的にも年々高まってきているようです。
ところで、こうした日本人の「きれい好き」はどこからきているのでしょうか。
いろいろ調べてみたのですが、まず挙げられるのは、日本には水が豊富にあるということです。年間を通じて降雨量が多く、かつ山が中央にあるため、ここに降った雨は常に麓に流れ、その生活環境に潤いを与えます。日本の川は、急峻な山岳から一気に海へ流れるので、流れが早く、淀むことがなく、汚れは消え去りそのため清流になります。
この清流のあることが日本人の綺麗好きと関係がある、とはなんとなく想像はできそうです。ただ、平安や鎌倉・室町などのかなり昔に遡ると、このころの日本もまだそれほど綺麗ではなかったようです。
12世紀後半の作とされる「餓鬼草紙」には、平安京の住民が男女・年齢の区別なく道端で排便・排尿しているところが描かれているそうで、ウンチを拭いた捨木(くそべら)がそこいら中に散らばっていたことなども書かれています。
この時代はまだ日本各地で戦乱があり、人々の心の中には豊富な水を使って自らの周囲をきれいにしよう、というような心のゆとりはなかったためと考えられます。ところがその後戦国時代を経て江戸時代になると、平和が社会を豊かにし、民衆の生活も安定するようになり、人々の心にも余裕がでてきました。
日本中の都市の整備も進み、京、江戸、大坂はもとより、地方の城下町や田舎にも水路が引かれるようになり、豊富な水を使って野菜を洗ったり、洗濯できるようになりました。
また、水と燃料となる木が入手しやすいことから、江戸時代、庶民の社交場として銭湯がたくさんできました。これにより、多く日本人は自らの体の汚れにも気を配るようになり、また食についても清潔なものを口にするという習慣が定着したと考えられます。
このほか、こうした「綺麗を保つ」という風習が定着した背景には、日本人には古くから仏教や神道に基づいての価値観があったこともあると考えられます。
日本の神道はそもそも自然の中に八百万の神を見いだす多神教であり、自然と神とは一体的に認識され、神と人間とを取り結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされました。従って、自分たちの生活環境はさておき、そうした聖域の清潔さは常に保たれるべき、と考えるようになりました。
一方では、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方、いわゆるアニミズム(animism)的な考え方もまた、古代日本人の思考の根底にありました。
いわゆる「付喪神(つくもがみ)」というものを信じる風習であり、これは「九十九神」とも書きます。長い年月を経た道具などに神や精霊(霊魂)などが宿るとされたもので、当初は日常生活で使う道具が中心でしたが、そのうち、「あらゆるものに神が宿る」といった風に変わっていきました。
つまり、自分たちの周囲の自然の中に神さまがたくさんいるし、自分たちの生活の中にも神が宿る、と考えるようになったというわけで、要は日本人の回りには神さまだらけ、ということになっていきました。
この付喪神が存在するという考え方は室町時代には既に定着していたようですが、このころからさらに大陸から入ってきた仏教の考え方も浸透し始め、両者の融合が始まりました。
いわゆる神仏混淆(こんこう)であり、神仏習合ともいいます。日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆して一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象です。
一方、それまでの日本の神道は定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついており、その信仰は極めて閉鎖的でした。そうしたところへ、誰でも信じれば救われるとする普遍宗教である仏教が伝来し、こうした日本的な神の観念に大きな影響を与えました。
仏教が伝来した奈良時代後期または平安時代だと言われています。この仏教には、死・疫病・月経などによって生じる「穢れ(けがれ)」という観念がありました。仏教の発祥の地、インドのヒンドゥー教では穢れは共同体に異常をもたらすと信じられ避けられており、仏教の伝来ともにこうした考え方も日本に流入しました。
やがて死、出産、血液などが穢れているとするこの穢れ観念は、平安仏教の成立とともに京都を中心に日本全国へと広がっていきました。
そしてさらに時代が進み、神仏習合がさらに進むようになると、従来それほど顕著でなかった、浄とケガレの二極が強調されるようになっていきました。そもそも神道では浄を重んじますが、一方の仏教ではケガレを忌嫌います。その両者が融合するなかで、この二つは二極対立の様相を呈すようになっていきます。
仏教が伝来してきた当初から、日本にもケガレという観念が根付きましたが、当初神道では、このケガレはお祓いで消え去る程度の扱いでした。ところが、9紀から10世紀ころになると、陰陽道の影響もありこのケガレはかなり重いものになっていき、「物忌み」という言葉や習慣も生まれてきました。
物忌み(ものいみ)とは、ある期間中、ある種の日常的な行為をひかえ穢れを避けることであり、具体的には祭りの関係者は祭りの前一定期間は歌を歌わない、肉食をしない、下肥を扱わない、などといったものです。
要は神聖な儀式を行うにあっては、汚れたもの穢れたものに触ってはいけない、持ち込んではいけない、といった考え方であり、こうした風習の定着により、日本人の潔癖性はより加速するようになりました。
江戸時代以前の争いが長く続いた時代にはさらに神仏混淆はかなり進み、こうした穢れと浄化の両者が屹然とこの世に存在するようになりました。それ以前の戦乱の続く中で人々の生活は安定せず、自分の周囲の穢れを排除するという心の余裕はありませんでした。
しかし、江戸期に入り生活が安定してくると、上述のとおり自分の体や周囲のものを綺麗にしようという機運が高まり、と同時に古くから人々の心の中にあったもともとの森羅万象すべてに神が宿る、また、自分たちの周りにもたくさんの神がおり、これらを大切にしようという考え方が復活し始めました。
これに加えて仏教によってもたらされたケガレを排除する、という精神が融合し、より一層「きれい好き」の精神が発達しました。つまり、現在の日本人のきれい好きはもともとあったわけですが、神仏習合によって、汚れ・ケガレの排除が加わり、さらに綺麗好きが加速したといえるわけです。
さらにあえていえば、仏教の伝来がなく、日本古来の神道だけではもたらされなかった、ということになります。世界に名だたる清潔好みの国民性が育まれる過程においては、仏教という外来宗教のスパイスが極めて重要な役割を担ってきた、というわけです。
この日本に伝来するまえの仏教とは、いうまでもなく、お釈迦様が発案した宗教です。そのお釈迦さまの弟子のひとりに、周利槃特(チューダ・パンタカ、しゅり・はんどく)という人がいました。
呼び方は伝わった経典によって異なり「周利槃陀伽」、「周利槃陀迦」とも、あるいは修利、周陀、周梨、注茶、半託迦などさまざまですが、小道路、路辺生など「路」で表現されることも多い人物です。
利槃特は釈迦の弟子中、もっとも愚かで頭の悪い人だったと伝えられており、そのため、「愚路」とも呼ばれることもありました。
この名前を漢訳したときに「路」の字がつくのは、彼の母親のエピソードによります。彼の母親は王舎城(ラージャガハ)の大富豪の娘でした。王舎城は、古代インドのマガダ国の首都です。ガンジス川中流域に位置し、釈迦が説法した地の一つとされます。
釈迦の在世当時は、マガダ国最大の都として栄えており、釈迦が最も長く滞在した地で知られています。
この国の富豪の娘だった母親は、あるとき下男と通じてしまい、このため父親の怒りを買い、他国へ逃れることを余儀なくされます。ところが、その逃亡途中に身ごもっていることがわかり、かつての下男であった夫に実家に戻って産みたいと頼みました。
夫は一度は同意したものの、娘と駆け落ちしたことを罪に問われることを恐れたため、妻とともになかなか王舎城に戻ろうとはしません。そうこうしているうちに臨月が近づいてしまい、彼女は仕方なく一人で実家へ戻ろうとしましたが、途中で産気づき、そこで一子を産み落としました。
実家へ帰る途中で産んだので、その男子には槃特(パンタカ、路辺生)と命名しました。こうして期せずして夫の元に我が子とともに帰ることになった彼女でしたが、その後ふたたび妊娠してしまいます。このときもまた、最初の子を手を引いて実家へ戻ろうとしますが、このたびもまたその途中で子供を産むことになります。
第二子も男の子であっため、この次男には周利槃特(チューラ・パンタカ、小路)と名付け、先に生まれた兄には摩訶槃特(マハー・パンタカ、大路)と改めて命名しました。
この兄弟の兄・摩訶槃特は、成長するにつけ、資質聡明な男児となりました。しかし、一方の弟、周利槃特は兄とは比べることもできないほど愚かでした。その理由はこの弟の過去世にありました。
その前世において彼は賢明な僧でした。しかし、迦葉仏(かしょうぶつ)という如来が出世された時、この迦葉仏の説法を暗誦できなかった別の兄弟弟子を嘲笑しました。その業報により、釈迦如来の出世された自分の生まれ変わった世では、愚鈍に生れついたのでした。
その後、兄・摩訶槃特は、釈迦の弟子になりました。この聡明な兄は並み居る弟子たちの中でも特に秀でており、日に日にその名は高まっていきましたが、ある日のこと、弟の愚鈍ももしかしたら釈迦の説法によって治るかもしれないと考え、弟にも弟子になるように勧めてみました。
弟は判断する能力もないほど愚鈍であっため、二つ返事でこれを了承し、師匠の下で修業を始めました。しかし、四ヶ月を経ても一偈をも記憶できず、兄もそれを見かねて精舎(出家修行者が住する寺院・僧院のこと)から追い出し還俗せしめようとします。
ところが、これを知った釈迦仏、彼に一本の箒を与え、東方に向かって、「塵や垢を除け」と唱えさせ、精舎を払浄するように命じました。
愚鈍だった彼はやがてこの修行によって次第に心身を揃えることができるようになり、と同時に聡明だった前世の自分を思い出します。そしてついには汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟るに至ります。
こうして仏の教えを理解した彼は、その後も修行を励み、阿羅漢果といわれる仏教の教えのいては最高位に近い階位を得るに至ります。そして晩年までには神通力を得て形体を化かすなど種々示現できるようになったと伝えられています。
さて、私と同様、年末までの大掃除に嫌気がさしている皆さん。
皆さんも周利槃特のように年末までは、せっせせっせとみなさんの精舎をきれいにしようではありませんか。そしてその暁には来年こそは、なんでもかなえられる神通力を手に入れておられるに違いありません。
きっとこれから大掃除に参戦する私の神通力を上回っているかもしれませんが、年が明けたらその神通力どうしで勝負をしましょう。
そして、それまで風邪などひかれませんように。