”半分青い” と少女漫画

この4月から始まった「半分、青い。」を毎朝よく見ています。

NHK「連続テレビ小説」第98作目の作品で、来年にはもう100作目にもなるのか、と改めてその歴史の長さを思ったりもしています。

ただ、今回の「半分、青い。」はそうした歴史の重さを感じさせるような重厚な内容ではく、人気脚本家の北川悦吏子さんの書き下ろしによるオリジナルストーリーは、軽妙なタッチで描かれています。毎朝見たその余韻で一日を楽しく過ごすことができ、さながら朝一番に飲む清涼剤といった感じです。

ヒロイン永野芽郁さんは、朝ドラオーディション参加者2,366人から、初めてオーディションに参加して選ばれたそうで、1999年生まれの18歳。女優ですが、ファッションモデルでもあるようです。

集英社の雑誌、セブンティーンの専属モデルのほか、小学生向けのファッション誌「ニコ☆プチ」の専属モデルを務め、少女マンガ雑誌「りぼん」のモデルも兼ねているといいます。

番組では、楡野鈴愛(にれのすずめ)という役で登場します。ふとしたきっかけから、「秋風羽織」という漫画家と出会い、その勧めで上京して漫画家を目指す、という設定で、これを豊川悦司さんが演じていますが、この二人や周囲の取り巻きとのやりとりがなかなかコミカルで笑えます。




“くらもちふさこ”とは

この“漫画家トヨエツ”が描く作品として、劇中にも実在の漫画家の作品が使われています。「いつもポケットにショパン」「東京のカサノバ」などで知られる「くらもちふさこ」の作品です。

くらもちさんは、主に80年代後半のバブル期に多くのヒット作を飛ばしましたが、その前の70年代からも既に活躍しており、我々の世代もよく知る漫画家です。

ふつうの女の子の身近な叙情感をテーマに展開する作品が多いようです。それぞれの絵を枠線によって区切り、場面の転換や時間の流れを読者に想起させる「コマ割り」による表現が絶妙で、またその細やかな描線による内面描写が特徴的な作家です。

実はお父さんは、倉持長次(1924~2005年)という実業家で、元日本製紙会長です。日本製紙は、現在日本第2位(世界8位)の製紙業会社であり、日本を代表する企業のひとつともいえ、つまりお嬢様といえます。本名は「倉持 房子」と書きます。妹の倉持知子(ともこ)も漫画家であり、姉妹揃っての漫画家というのはめずらしいといえます。

高校時代(豊島岡女子学園高校)在学時に描いた作品「春のおとずれ」で第49回別マまんがスクール佳作を受賞。その後武蔵野美術大学造形学部に入学後、本画を専攻しつつも漫画研究会に所属。1979年にはプロの漫画家としてデビューし、1996年 「天然コケッコー」で第20回講談社漫画賞を受賞したことで漫画家としての地位を確立しました。

2017年は 「花に染む」で第21回手塚治虫文化賞マンガ大賞も受賞しており、この賞はいわば日本の漫画界におけるノーベル賞のようなものです。

私も大学時代になぜか少女マンガで好きな友達がいて、借りたモノの中にくらもちさんの作品があったように記憶しています。この当時から“乙女チック”と言われるような少女漫画が多い中、ドラマチックな心理描写でストーリー展開するくらもち作品に、なんとなく「深み」のようなものを感じたのを覚えています。

その後デビューした漫画家たちに大きな影響を与えたとも言われており、1990年代に入ってからは、より挑戦的な作品を発表するようになり、そんな中で生まれたのが代表作「天然コケッコー」です。2007年には山下敦弘監督によって同名で実写映画化されたため、こちらでこの作品を知っている人も多いでしょう。

小さな村に住む主人公の高校生の日々を、東京からの転校してきた男子高生との恋愛を軸に描いた連作短編です。ネットで調べて改めてこのころの作風を確認しましたが、さすがにベテラン作家の作品といえるタッチであり、若い頃に書かれた作品とはかなり異なった進化を遂げているように思えました。



少女漫画、その黎明期

このくらもちさんだけでなく、現在の少女漫画のほとんどは女性が描いていますが、いわゆる少女漫画といわれるものが世に出始めたころ、実はそのほとんどを男性が描いていました。

その「はしり」といわれるものは、1935年に「少女倶楽部」に連載された倉金章介の「どりちゃん バンザイ」だといわれています。また1938年から「少女の友」に連載された松本かつぢの「くるくるクルミちゃん」など、日中戦争前の少女雑誌で連載された作品が少女漫画の先駆けであるといわれているようです。

この当時は、少女漫画を描くのはほとんどが男性であり、手塚治虫もその名声を広めたのは1953年(昭和28年)に描いた少女向け漫画、「リボンの騎士」でした。少女漫画にストーリー性を導入したのは手塚治虫だといわれており、この頃から少女雑誌においては、従来絵物語にすぎなかったものを押しのける形で少女漫画の比重が高まっていきました。

いわゆる少女漫画とは、絵柄としては可愛らしい・綺麗・清潔といった印象を与えるものが多く、情趣を大切にした上で毒々しいものをリアルに描き込むことは避ける、といったことが基本となります。

また、モノローグ、すなわち登場人物が相手なしに一人で独立した台詞を言う、といったシーンが多用され、心象を具象化した乙女チックな背景も特徴です。前述のとおり、場面転換や時の流れを意識したコマ割り、感情の流れを重視した画面技法にも特徴があるほか、少年漫画と異なるのは、必要最小限の描写に留められているものが多い、という点です。

立体感、動きを表現したり視点を頻繁に変更したりする絵は比較的少なく、また少年漫画と比較すると、「現実問題」を扱うことも多いようです。女性にとっての現実問題の最たるものはやはり「恋愛」や「家庭」であり、どちらかといえばパワーゲームが好まれ、冒険やアクションといったものに重きが置かれがちな少年漫画とはそこが最も違うところです。

また、少女漫画の少女漫画たるゆえんは「共感」である、という人もいて、これは言うまでもなく、他者と喜怒哀楽の感情を共有することを指します。

例えば友人がつらい表情をしている時、相手が「つらい思いをしているのだ」ということが分かるだけでなく、自分もつらい感情を持つのが共感であり、自分以外の他からの「独立」がテーマになりがちな少年誌とはここが違うといえます。

ただ、そうした現代的な少女漫画はまだこの当時には登場しておらず、ただ単に「女子向け」といった程度のものでした。そうした漫画もまた当初は男性が描いていたわけですが、それでも女性向けである以上は「共感」や「愛」といったものは重要であり、そこはやはり男性にとっては描きにくいものした。

その一方で、1950年代後半から1960年代前半にかけては、いわゆる「宝塚ブーム」が起きるようになり、これが少女漫画に大きな影響を与えるようになります。このころの少女の多くが宝塚歌劇団の影響を受けるようになり、「高橋真琴」のように、それを意識した作風で一世を風靡するような作家が出てきました。

「真琴」というと女性のようですが男性作家であり、いわゆる貸本漫画家としてデビューした作家たちの一人です。主に童話のヒロイン、雑誌のカラーページなど、少女を題材とした作品を手がけ、緻密な装飾的描写と、華やかで繊細な彩色に定評があります。

いわゆる少女漫画特有の装飾的な表現の基礎を創った人ともいえ、人物の背景に花を描き込む、キャッチライトが多数入った睫毛の長い目なども彼以降の少女漫画の定番となりました。

またこのころから「少女小説」も流行るようになり、宝塚の影響もあって美形の男性・男装の麗人などが登場し、華麗なストーリーが繰り広げられる作品が増えていきました。しかし、やはり男性による女性目線での作風づくりには無理があり、この当時の少女漫画を見ると、どうしてもそこに男性ならではの視線を感じてしまいます。

戦後すぐの時代から1950年代にかけてはまだまだ女性の社会進出は認められておらず、漫画家といえども男性が主体とならざるを得ない時代背景がありました。このため1950年代から1960年代前半においてもまだ、少女漫画は男性作家によって描かれることが多く、高橋真琴の他では、少年漫画でも活躍していたちばてつやや松本零士などがいました。

古典的な少女漫画の様式や技法は、こうした著名な男性作家や男性編集者によって築かれたと言っても過言ではありませんが、それはやはり少年漫画において定着していた技法の流用にすぎませんでした。



女性漫画家の登場

ところが1960年代も後半に入ってくると、このころから“少女クラブ(後年の少女フレンド)”や、“ひとみ”、といった少女漫画雑誌が流行るようになり、各誌で女性漫画家を育てよう、という機運が高まるようになります。そうした中から、女性ストーリー作家第1号とされる「水野英子」が現れ、彼女が少女漫画の表現の幅を広げていきました。

この水野英子は、日本の女性少女漫画家の草分け的存在ともいわれます。後の少女漫画家達に与えた影響の大きさやスケールの大きい作風から、女手塚(女性版手塚治虫)と呼ばれることもある作家で、1960年代のカウンターカルチャーを真正面から扱ったロック漫画「ファイヤー!」は少女漫画の枠を超えて広い注目を集めました。

また、かの有名な「ベルサイユのばら」を描いた「池田理代子」の登場も少女漫画界にとっては大きく、さらにこのころからは「24年組」といわれる個々の作家性の強い作家が存在を見せ始めました。

24年組とは、昭和24年(1949年)頃の生まれで、1970年代に少女漫画の革新を担った日本の女性漫画家の一群を指し、「花の24年組」とも呼ばれます。

青池保子(昭和23年生)、萩尾望都(昭和24年生)、竹宮惠子(昭和25年生)、大島弓子(昭和22年生)、木原敏江(昭和23年生)、山岸凉子(昭和22年生)、樹村みのり(昭和24年生)、ささやななえこ(昭和25年生)、山田ミネコ(昭和24年生)などが24年組であり、彼女たちによって少女漫画は飛躍的に進化していきました。

かつては単に少女趣味的なものであった作風が独自の変化を遂げ、作品の文芸性と独自性はより高く、より広くもなって、その後の1970年代から1980年代に至るまでの少女漫画の世界は大きく変わりました。この時期、男性少女漫画家はほぼ消滅し、例外だけが残るようになりました。

このころの少女漫画は、その演出技法だけでなく物語ジャンルへも広がり、それまでにないSF、ファンタジー、ナンセンスギャグ、少年同性愛を描く少女漫画家が出て、書くものに制限がないというほど少女漫画の世界が一気に広がりました。

さらに24年組の後輩に当たる「ポスト24年組」と呼ばれる女性漫画家たちが出るようになり、これは、水樹和佳(昭和28年生)、たらさわみち、伊東愛子、坂田靖子(昭和28年生)、佐藤史生(昭和27年生)、花郁悠紀子(昭和29年生)などです。

上述のくらもちふさこが若い頃に師事した「美内すずえ」も1951年、昭和26年生まれであり、ポスト24年組の一人といえるでしょう。代表作「ガラスの仮面」は、1976年(昭和51年)に「花とゆめ」にて連載開始されてから現在まで長期連載が続いており、累計発行部数が5,000万部を突破した大ベストセラーでもあります。

この24年組やポスト24年組など、1970年代初頭に登場し、新しい感覚で女性漫画界を切り開いていった女性作家たちは、SFやファンタジー、同性愛といった新しい概念を導入するだけでなく、画面構成の複雑化を図るなどの技法を用いるなど、次々と当時の少女漫画界の常識を覆していきました。

24年組の漫画家はまた、主人公が少年である作品も手がけるようになりました。ただ、当初は読者が少女なのに少年が主人公などとはあり得ないという編集部からの反発もあったといいます。ところが実際には少女読者たちからはこれが絶大なる人気を博すところとなり、ますます少女漫画の隆盛に寄与するところとなっていきます。




少女漫画から女性漫画へ

さらに1980年代に入ると、従来の少女漫画と一線を画す画風の少女漫画家が人気を博すようになります。従来の少女漫画は過剰ともいえる背景装飾がなされることが多かったものですが、これらの装飾的表現はこの時代徹底的に簡略化されていきした。

また等身大の女性を丁寧に描く作家が増え、シンプルな背景にキャッチライトが入らない目の人物像を描く漫画家が多くなり、「性」や「職業」といったいわばそれまではタブー視されていたようなテーマを取り上げた作品も増え、これによって少女漫画読者層が広がりました。

こうして、大人の女性向けの漫画、「女性漫画」といわれるものが成長していき、その中からレディースコミック、ヤング・レディースという名称の下に新たなジャンルが確立されていきました。

ところが、1990年代以降はバブル崩壊の影響で、世相が不安定になります。学校では授業崩壊などをきっかけに青少年問題の質の変化が現れ、少女漫画の中でもこれらが語られるようになり、心の問題を描く傾向が顕著になっていきました。

こうした中、これまではあまり見られなかった、「自ら行動を起こす」主人公像も求められるようになり、青年漫画が大きく成長したこともあって、元々こうした自立的なテーマの多かった青年漫画と同じテーマで少女漫画が描かれるようになりました。青年漫画と女性漫画の両者を手がける作家が男女を問わず増えるようになったのもこの時代です。

さらに1990年代後半以降は、若年層の人口減少と読者の嗜好の多様化に伴い、必ずしも「少女向け」とはいえない、従来の枠ではもはや捉えにくい、といった雑誌も増えました。そんな中、少女漫画や女性漫画の専門誌の発行部数は減少の一途をたどっていきました。

ただ、少女漫画的なテーマや表現手法は日本の漫画で広く定着したといえ、ある意味熟成の時代に入ったといえます。従来に比べて男性を含めた幅広い年齢層に女性向けの漫画が受け入れられるようになったことがそれを物語っています。

2000年代以降の現在、21世紀のインターネット普及時代に入って、漫画を掲載する雑誌やその他の媒体は、さらなる多様化の一途を辿っています。ネットの影響による時代の思考の変化などもあり、かつての少女漫画とは別の普及媒体と手法を持つものも確立されつつあるようで、それは例えばゲームやVR(バーチャルリアリティー)の世界です。

かつて女性向けの作品群を指していた少女漫画はさらに別の世界を目指して変化しつつある時代のようであり、その行き着く先を想像するのさえ難しい時代に入っているといえます。



24年組

しかしそれにしても現在に至るまでの少女漫画の系譜の底辺ともいえるものを形作ったのはやはり前述の「24年組」といっても過言ではないでしょう。

この中でも中心的な存在であったのは、竹宮惠子と萩尾望都といわれていますが、彼女たちを最初に見出し、世に送り出したのが雑誌編集者の「山本順也」といわれています。

若い頃から編集者として活躍し、数々の女性漫画家を育ててきました。日大藝術学部映画学科を卒業したあと小学館に入り、少女漫画誌「少女コミック」の創刊メンバーとなったのがその道の始まりで、のちの1970年に「別冊少女コミック」の創刊号で副編集長として加わり、その発展に寄与しました。

このとき、当時まだ無名に近かった萩尾望都、大島弓子、竹宮惠子らを登用し、その後も倉多江美、樹村みのり、伊東愛子といったのちの人気作家を次々と起用し、やがては彼女たちとともに少女漫画界に新しい波を起こすようになりました。

大人向けの女性漫画の第一人者として知られる里中満智子もまた「山本氏がいなければ日本の少女漫画の発展は10年は遅れたと思う」と語っています。里中は昭和23年生まれであり、画風などから24年組とは目されていませんが、彼女のような有名作家にも山本は大きな影響を与えたようです。

晩年の2000年には、京都精華大学芸術学部に日本で始めて新設されたマンガ学科の教員に就任するなど、その生涯を漫画に捧げましたが、残念ながら2015年に77歳で亡くなっています。

その山本が竹宮惠子と萩尾望都を見出したきっかけというのはこうです。1962年の「少女サンデー」休刊以来、小学館は講談社の「なかよし」や集英社の「りぼん」・「マーガレット」などに大きく遅れを取っていました。

そこで新雑誌創刊の任を負った山本は1968年、「小学一年生」などの学年誌に掲載されていた少女向けの漫画を集めて、月刊誌「少女コミック」を創刊します。

同誌は1970年に週刊化されましたが、当時は多くの漫画家が他の出版社と専属契約をしており、山本は作家の確保に苦労していました。そのころ竹宮を紹介したのが手塚治虫であり、彼女は手塚が経営する虫プロ商事が手掛ける雑誌「COM」に時折作品を投稿していました。

当時の竹宮は親の希望により郷里の徳島県の大学に通い、学生運動に参加し、本格的な漫画誌への漫画掲載を断っていましたが、そんな竹宮を山本は徳島まで赴き、「新しい事を始めたいので協力してくれ」と説得しました。

そして、その説得に応じて上京してきた竹宮は、共通の知人である手塚を通じて萩尾と知り合います。意気投合した二人は共同生活を始めましたが、その場所は練馬区大泉にあり、ここを紹介したのが竹宮の友人の増山法恵(竹宮のプロデューサー・原作者をへて、のちに作家)でした。




大泉サロンから

増山は、この若手の女性作家二人をみて「女性版トキワ荘」のような場所と作りたいと考えるようになったといい、増山の家の真向かいにあった長屋がその候補でした。のちに「大泉サロン」と呼ばれるこの長屋は、後年ポスト24年組の一人に数えられる坂田靖子が命名したとされますが当時はまだその名はなく、住み始めたのも竹宮と萩尾の二人だけでした。

2軒長屋の1戸建てアパートで、その片方一軒を竹宮と萩尾が借り、1階にある台所と6畳間がリビング、2階の二間を寝室兼仕事部屋として使っていました。周囲はキャベツ畑が広がる畑作地で、時に腐ったキャベツの匂いが漂うような場所だったといいます。

東京に生まれ育ち、プロのピアニストを目指していた増山は、幼いころからクラシック音楽、文学、映画、そして漫画にも親しんでおり、少女漫画・少女漫画家が低く扱われることを不満に思っていました。そこで増山は芸術として高いレベルの少女漫画を目指し、竹宮、萩尾にヘルマン・ヘッセの小説や映画、音楽など様々なものを紹介しました。

のちに二人の作品のテーマになる「少年愛」も、もともとは増山の趣味で、こういった作品を描いてほしくて二人に教えたといい、竹宮も増山からいろいろ聞いているうちに少年同士の世界「耽美」を認識するようになったと述べています。

そこに次第に同じ女性漫画家が集まるようになります。

山岸凉子(昭和22年生)、山田ミネコ(昭和24年生)、ささやななえこ(昭和25年生)、伊東愛子(昭和27年生)、佐藤史生(昭和27年生)、奈知未佐子(昭和26年生)、坂田靖子(昭和28年生)、花郁悠紀子(昭和29年生)、波津彬子(昭和34年生)などがそれで、昭和24年前後に生まれた若き女性漫画家達がこの大泉サロンに集まりはじめました。

漫画を描いたり、アシスタントをしたり、語りあったりしては帰宅する生活を送るようになった彼女らはその後の少女漫画界を担う人材として成長していきました。

この「サロン」は、1970年から1973年頃までのわずか3年ほどしか続いていません。しかしその活動期間に、肉筆回覧誌「魔法使い」の作成や、互いの作品制作への協力、少女漫画の今後のあり方に関する議論などの交流が日夜なされ、それらがやがて貴重な資産となり、今日の少女漫画の基礎へとつながっていきました。

仲間でつるんで旅行に行くこともあったといい、それらがまた作品の肥やしにもなりました。特に大規模なのは、竹宮、増山、萩尾、山岸の4名での45日間のヨーロッパ旅行に出たときもので、ハバロスク、モスクワといった東欧まで含めたこの大規模な旅行は彼らのその後の作風にも大きな影響を与えました。

竹宮はじめ24年組の多くがヨーロッパを舞台にした漫画を描くようになったのはこのころからであり、そこで形作られた作品が日本人だけでなく外国人を魅了するのはこのときの経験から得られた作風のためと考えられます。そうして作られた作品群は、やがては世界に通用する「少女漫画」という新たなジャンルの確立へとつながっていきました。

現・新潟大学准教授で専門は映像文化論が専門の石田美紀は、「映画学者」として知られますが、彼女は、この旅は単なる観光旅行ではなく、表現を深めるためのもので、戦後の女性史においても画期的なものだったと述べています。

大泉サロン解散後も、ここに参画した漫画家たちはそれぞれに親密な関係を持ち続けました。彼らの多くは、その後数々の賞を受賞するなど、少女漫画界だけでなく日本の漫画界全体の重鎮として現在も活動を続けています。とくに萩尾や山岸の活動はいまだ活発で、2000年代に入ってからもいろいろな漫画賞を受賞しています。

「大泉サロン」があった場所は、東京23区内にしては当時からかなり田舎っぽいところであり、現在も農地に囲まれています。サロンがあったアパートは既に解体されてなくなっていますが、萩尾望都「キャベツ畑の遺産相続人」などに名を残すキャベツ畑は今も健在です。