夢の途中 13 未来へ

今や世界遺産となった宮島は、広島市西部、廿日市市の沖合にある。

国土地理院は「厳島」を正式名称としているが、神様がいらっしゃる島という意味の「宮島」という名称も広く使われており、こう呼ばれるようになったのは江戸時代からだ。ただ、他にも宮島と呼ばれる島が複数あることから、「安芸の宮島」と呼ばれることもある。

厳島の「厳」は、「イツク」と読むが、これは「斎く」という言葉から来ていると言われる。心身のけがれを除き、身を清めて神に仕える、という意味である。

その名の通り、島全体が穢れのない聖域とされ、神が宿っているとされている。その祭神の筆頭は、イチキシマヒメ(市杵島姫)であり、その名もこの「斎く」から来ているようだ。ただし、語源は同根という説もあり、イチキシマヒメの命名の方が先で、ここからイツクという言い回しができたのかもしれない。

厳島神社縁起の伝えるところでは、スサノオ(素戔男)の娘とされる宗像三女神、すなわち筆頭女神のイチキシマヒメ(市杵島姫)と、タゴリヒメ(田心姫)、タギツヒメ(湍津姫)の3柱が、2羽の鴉(カラス)に導かれ、現在厳島神社のある場所に鎮座されたという。以後島全体が神域となった。

私が育った東広島とは正反対の場所にあるが、子供のころからここをよく訪れた。たぶん小学校、いや幼稚園の遠足か何かで行ったのが最初だと思う。私だけでなく、おおかたの広島育ちは同じく遠足や日帰り観光でここを訪れた経験があるだろう。

県外から来る人はおそらく知らないだろうが、海水浴場もある。そこも含めて、島の北側はほとんどが、観光地化されている。しかし、島の中南部はほとんど手付かずの聖域で、アクセス道路すらない。島全体が神域とされているこの島では、そうしたところには自由に立ち入ることができないのだ。

島の中央部には弥山と呼ばれる岩山があり、その山頂には巨石群があり、これは古代に作られたとされる墳墓ではないかという人もいる。UFOと結びつける人もいて、ただでさえミステリアスなこの島をより神秘的なものに魅せている。

弥山中腹からは古墳時代末に創られたと目される祭祀遺跡も発見されており、宮島全体を聖域とする山岳信仰はこの頃始まったものと考えられている。伝承では推古天皇元年(593年)、地元の豪族、佐伯鞍職(さえきのくらもと)がイチキシマヒメの神託によって、厳島神社を創建したと伝えられる。

ただし、この当時の社殿は残っていない。厳島神社を現在のような雅な神社に変容させたのは、平清盛と言われている。

平安時代末期の久安2年(1146年)、安芸守に任ぜられた平清盛は、父・平忠盛の事業を受け継いで高野山の大塔の再建を進めていた。その落慶法要に際し、ここの高僧に「厳島神社を厚く信奉して社殿を整えれば、必ずや位階を極めるであろう」と進言を受けた。

平治の乱で源氏に勝利し、朝廷から仇敵を一掃して政権を掌握すると、さっそく清盛は寝殿造の神社の造営を開始した。海上に浮かぶ現在に至るまで継承されているその壮麗な様式は、仁治2年(1241年)に完成したとされる。

清盛がこの神社を創建した狙いは日宋貿易にあったと言われている。父・忠盛は舶来品を朝廷に進呈して信を得ており、清盛は厳島神社を拠点として一層の貿易拡大を図ろうとした。さらに、博多の湊や大輪田泊(現・神戸港の一部)を開いて自ら瀬戸内海航路を掌握するとともに、祭神「厳島大明神」には畿内へと通じるこの航路の守護神という重要性を持たせた。

厳島を拠点として日宋貿易で財政基盤を堅固なものにすることに成功した清盛は、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。しかし、やがて平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立するともに、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受けるようになる。源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、清盛は熱病で没した。

清盛の死後、平氏政権に対する反乱は加速し、各地で内乱が勃発。一ノ谷の戦い、三日平氏の乱、屋島の戦いと主要な合戦にすべて敗れた平氏は、瀬戸内海の制海権を失い、長門へ撤退する。元暦2年(1185年)3月24日、関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われ、これにも敗れた平氏はついに滅亡した。

平氏政権の崩壊により、源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権が樹立された。鎌倉幕府である。平氏滅亡のあと、厳島神社はこの源氏の崇敬を受け、擁護されるようになる。しかし鎌倉幕府もまたのちに幕政が腐敗して政情が不安定になり、その中で恩恵を受けていた厳島神社の勢力も徐々に衰退した。

承元元年(1207年)と貞応2年(1223年)には火災の被害も受けた。朝廷の寄進も受けて一応の再建はされたものの、室町時代から戦国にかけてまでは社殿もかなり荒廃していたと伝えられている。

戦国時代に入ると、安芸を本拠に勢力を伸ばしていた毛利氏と、周防・長門を領有していた大内氏が対立し、安芸・周防国境付近はその最前線となる。厳島は周防から安芸への水運の要衝であるため、毛利を警戒する大内はここに実力者の陶晴賢(すえはるかた)を配して防衛に努めた。

弘治元年(1555年)、ついに厳島を戦場として両者が激突する。この戦いで毛利元就は陶晴賢を討ち、その勢いのまま周防・長門を併合して大内氏を滅亡に追い込だ。

これ以後、毛利氏は中国地方10か国に加え豊前・伊予をも領有する西国随一の大大名に成長していく。しかし、もともと厳島神社を崇敬していた元就は神の島を戦場にしたことを恥じ、戦後はこの島の保護・復興につとめた。現在の本社社殿は、元亀2年(1571年)にこうして毛利元就によって再建されたものである。

その後、戦乱の世は豊臣秀吉が収束させるところとなる。天正15年(1587年)、すでに関白太政大臣となっていた豊臣秀吉は、多くの戦で亡くなった者の供養のため、厳島神社のすぐ裏手に大経堂を建立するよう政僧・安国寺恵瓊に命じた。

その建築に際して、柱や梁には非常に太い木材を用い、屋根に金箔瓦を葺くなど、秀吉好みの大規模・豪華絢爛な構造物が計画されていた。しかし、秀吉の死により工事は中断され、寺の名前もつけられないまま放置された。

現在に至るまでも御神座の上以外は天井が張られておらず、板壁もない未完成のままである。本堂は巨大なもので、畳が857畳敷けることから一般からは「千畳閣」と呼ばれるようになった。明治初期の神仏分離令のとき、寺ではなく厳島神社の末社とされ、この時初めて正式名称として「豊国神社本殿」の名が与えられた。

慶応4年から明治元年にかけて実施されたこの神仏分離令では、民衆を巻き込んだ廃仏毀釈運動が激化し、厳島の寺院も主要な7ヶ寺を除いてすべて廃寺となった。厳島神社や千畳閣などに安置されていた仏像等も寺院へ移されたり、一部が失われるなどしている。

1876年(明治8年)には、老朽化していた海上の厳島神社の大鳥居が建て替えられた。現存しているのはこの時の大鳥居で、創建当時から数えて8代目とされる。棟の高さ16.6メートル、柱間10.9メートルのこの大鳥居の基礎は、松材の丸太の杭を密に立てて打ち込んだもので、現在はその上をコンクリートと花崗岩で固めてある。

鳥居はこの土台の上に自重で立っており、最上部の島木と笠木からなる「横梁」の部分は箱状の構造である。この中に拳大の石が多数詰め込まれており、その重みによって大鳥居は自立し、風や波に耐えるようになっている。

この鳥居を「入口」とする厳島神社本殿があるのは、厳島の北部、大野瀬戸に面した有浦(ありのうら)と呼ばれる湾の奥である。最も奥まったところに宗像三女神を祀る本社が北を正面として建ち、その周囲には大小の副殿や回廊がある。本殿も含めたこれら拝殿・回廊など6棟が国宝であり、14棟が重要文化財に指定されている。

その美しいたたずまいは世界的にも評価が高く、平成8(1996)年12月にユネスコの世界文化遺産として登録された。2011年には、トリップアドバイザーが「外国人に人気の日本の観光スポット」トップ20のうちの第1位と発表した。

2019年にも3位に入っており、毎年のように上位に入っている。ちなみに同年の2位は、広島平和記念公園で、1位は京都の伏見稲荷大社だった。

私もこの厳島神社が大好きで、物心ついたころにはここはもう、特別な場所だった。行けば必ず何かインスピレーションのようなものを授かってくるような気がしたし、何かすがすがしい気持ちにでその後の日々を過ごせた。




そんな場所で我々は結婚式を挙げることになった。

しかし、まがりなりにも世界遺産だ。最初はさすがにそれは無理だろう、と思った。ところが電話で問い合わせをしたところ、意外にも、そうですね、5月までは無理ですが、6月ならば空きがあります、という答えが返ってきた。

電話をしたのは、籍を入れた2月ころのことで、4カ月も先ではあったが、それでもここで結婚式を挙げることが可能だ、ということ自体が信じられなかった。

こどものころから大好きだった場所で、生涯一度あるかないかの式を挙げることができる。本当か、と正直驚いた。少々先でもそれが実現するならば、素晴らしいことだ。

で、6月ならいつが空いているんでしょうか、と重ねて尋ねた。電話の先は宮島の社務所で、事務員と思われるその男性はちょっとお待ちください、と受話器を置いた。しばらく経ち改めて電話に出てきていくつかの候補日を教えてくれたが、それをすぐそばにいた彼女に手振りで伝える。OKだと指で丸を作って示す彼女。

このとき、世界遺産、厳島神社での結婚式が現実のものとなった。

その日は6月20日。ヨーロッパではこの月に結婚すると幸せになれる、とされる。ジューン・ブライドだ。

欧州のこのころというのは、天候が穏やかで花が咲き誇る時期だ。色とりどりの花々を結婚式のために用意できる。このため6月に結婚する人が増え、この月に結婚すれば幸せになれる、というおとぎ話があとから付け加わった。

一方、6月といえば日本ではそろそろ梅雨入りの時期である。紫陽花を思い浮かべる人も多いだろう。花の季節というよりもむしろ雨の季節だから、ヨーロッパの風習を日本にあてはめること自体にそもそも無理がある。

ところが、日本のブライダル業界はしたたかだ。一年で一番結婚式場の契約率が低いこの月の売り上げを何とか高くしたい。そこで思いついたのが「ジューン・ブライド」というキャッチフレーズだ。

大々的に宣伝し、この月に結婚すれば幸せになれる、と拡散した。その言葉につられ、その後はこのうっとうしい季節をわざわざ選んで結婚する、という風流人が増えた。

我々は、そうしたミーハーな理由で日取りを決めたわけではなかった。しかし、結果的にジューン・ブライドとなったことについては、悪い気はしなかった。何にせよ、幸せになれると言われているなら文句を言う筋合いはない。

とはいえ、梅雨に入っている可能性は高い。だが、雨が降るこの時期も捨てたものでもない。濡れた宮島もまた風情がある。子供のころからそんな雨模様の宮島も何度も経験してきたから、そこはあまり気にならなかった。

こうして結婚式の日取りを決めたら、あとは披露宴をやるかやらないかである。もともと私はこうした類の儀式が大きらいだ。最初の結婚のときもそれをパスして、ただの宴会にすり替えたことは前にも述べた。

今度の結婚でも、あまり気乗りではなかった。しかし、新しいお妃さまはそれをお望みになった。しもべの私は必至に抵抗したが、結局おおせのまま、披露宴を執り行うことになった。しかも一流ホテルで…。

広島南部に宇品というところがある。ここに広島港と呼ばれる港があって、これは広島における海上運輸や物流・貿易の拠点である。四国や瀬戸内海の島々に向けてのフェリーの大半もここから出ていて、かつて生まれたばかりの私が、母に抱かれて四国から上陸したのもここだった。

その昔は宇品港と呼ばれていた。軍事拠点として重要視された場所で、1894年(明治27年)に日清戦争が始まると、当時の山陽鉄道(現在の山陽本線)・広島駅からここまで軍用鉄道が敷設された。宇品線と名付けられ、多くの兵士を宇品港まで運んだが、その後の日露戦争の際にも兵員輸送に使われた。

1897年(明治30年)からは山陽鉄道が陸軍省から借入れて一般旅客も運ぶようになり、これにより、宇品地区は軍事拠点としてだけでなく、市街地としても発展していく。

文教地区としての様相も示し始め、1921年(大正10年)には、夏の全国高校野球大会の常連校、広陵高校の前身である旧制広陵中学校が設立されたほか、1935年(昭和10年)には、広島女子専門学校が設立された。ちなみにこの学校は、未来の奥様が卒業した県立広島女子大学の前身であり、現在は県立広島大学となっている。

1933年(昭和8年)には大和紡績(現ダイワホールディングス)の紡績工場なども進出し、工業地区の性格も持ち始める。市の中心部から南へわずか5kmほど、人や物資の集まる場でもあることから商業活動も活発で、大正時代ころまでには既に海岸通り一帯に商店がずらりと並ぶようになっていた。

1945年8月6日の原爆被災においては宇品地区も被災した。しかし、爆心地からそれなりに離れており、被害は比較的軽微だった。このため、宇品に駐屯していた「陸軍船舶司令部」は被爆直後から市街地における救援活動の中心的役割を果たした。

陸軍船舶司令部とは、戦時における国内の軍隊・物資の船舶輸送を統括し、その指揮を統率していた組織で、通称「暁部隊」と呼ばれていたものである。

原爆が投下された際、広島城周辺に駐屯する、中国軍管区司令部を初めとする陸軍部隊は直撃を受けて壊滅。また地方官庁である中国地方総監府や広島県庁、市役所も大きな被害を受け、行政機能はほとんど停止した。

ただ、こうした有事が生じた場合の最高指導者たるべき高野源進知事は、このとき市外への出張で難を免れていた。6日の夕方になって市内に戻ってくると、知事のもとで臨時の「県防空本部」が設置された。場所は、比治山の影になって爆風の被害を受けなかった山麓の多聞院である。

生き残った知事以下の幹部らが協議を重ねた結果、被害が少なかった宇品の船舶司令部、暁部隊を中心として「広島警備本部」を設立し、体制を立て直して市内の救援活動や警備活動にあたることになった。

こうして、暁部隊を骨格とし、県防空本部などのかつての県中枢部も傘下に入れた警備本部は翌7日から活発な活動を始め、被災した市民の命を救い始めた。また、復旧のためにはまずは交通をということで被害を受けた広島電鉄の復旧に努めた。部隊が所有していたマスト300本がそのための電柱として利用された、という話が残っている。

こうした努力もあり、被爆からわずか3日後の8月9日には、2kmに満たない距離ながら、電車を走らせることができた。このときこの電車を運転したのは、広島電鉄・家政女学校生徒の生存者たちだった。

この学校は、深刻化していた運転士、車掌らの人手不足を補うため、国民学校高等科を卒業した女子を対象に広島電鉄が急遽創設した学校である。その寄宿舎も原爆の被害を受けて多くの女学生が亡くなっていたが、その生き残りが、この復旧車両の運転手にと、名乗り出たのだという。

暁部隊は、こうした市内の交通の復旧にも努めたが、これ以外にも市内各所での市民の救のために総動員された。しかし、その結果、活動に従事した部隊員の中から多くの二次被爆者を出すことになった。

この暁部隊には、後年、落語家として有名になる江戸家猫八や、戦後民主主義のオピニオンリーダーと目されるようになる思想史家の丸山眞男らも所属していた。

猫八(本名・岡田六郎)はこのとき24歳。召集により入隊して以来、3年ほど南方戦線を転々する際、生死の間を彷徨ったこともあったが、その後帰国し、兵長として暁部隊に配属されていた。原爆投下の当日朝は、休みをもらい、広島に滞在していた女優・園井恵子と会う予定だった。

入隊前、岡田は、古川ロッパ(エノケン・ロッパと並び称されて人気を競ったコメディアン)が結成した劇団に所属しており、同じ劇団員であった花形女優、園井と仲がよかった。園井は宝塚歌劇団出身で、高い演技力をもつ名バイプレーヤーとして知られており、出演した映画「無法松の一生」が代表作といわれる。

戦時下にあっては仲間とともに各地の部隊を慰問する移動劇団である「桜隊」を結成し、その一員として広島に来ており、病院で傷病兵の慰問などを行っていた。

猫八は、この園井が市内に来ていると聞き、久々に会えると楽しみにしていたが、前日の連隊記念祭で得意の声帯模写を披露、獲得した優勝賞品の酒を少々飲み過ぎていた。二日酔いで寝坊してしまい、朝の点呼にも出ることもできず、部下の初年兵に起こされた直後に原爆に遭遇した。

幸い大きなけがはなく、比治山町に臨時に設立された警備本部との連絡係を命じられ、その後も部隊の一員として市民の救援・医療活動に動員された。だがこの間、市内に高濃度に残留していた放射線に被曝。その後生涯にわたって被爆が原因と思われる体調不良と戦い続けることとなった。

この救援・医療活動動員としての体験は、生涯トラウマとなるほど忌まわしいものであったようで、長い間この体験は語らなかったが、晩年出版した「兵隊ぐらしとピカドン」「キノコ雲から這い出した猫」の中で自らの被爆体験を語っている。1988年、紫綬褒章を受章、1994年には勲四等旭日小綬章を受章したが、2001年、80歳のとき心不全で亡くなった。

ちなみに、このとき会う予定だった園井は、爆心地に近い宿舎で被爆し、拠点としていた神戸に戻ったあと、2週間後に亡くなった。原爆症(放射線障害)のためで、満32歳だった。1952(昭和27年)年には所属していた桜隊の原爆殉難碑が東京目黒に建立され、1959年(昭和34年)には広島市の平和大通りにも同様のものが建立されている。

実は、この原爆による被害の直後、広島は大規模な自然災害にも見舞われている。9月17日に襲来した枕崎台風がそれで、隣の呉市内では、住宅地背部の多数の急傾斜地が崩壊し、土石流が発生して、市内だけで1,156人が死亡した。

宮島のある佐伯郡大野町(現・廿日市市)では、陸軍病院が土石流の直撃を受けて複数の病棟が全壊。医療従事者や治療中だった被爆者、京都帝国大学から来ていた調査関係者など合わせて100名以上が犠牲になった。

その一方で、原爆によってもたらされた放射性物質がこの台風の風雨によって洗い流され、市内一帯が居住可能になったと考える識者もいる。ただ、たった一ヵ月ほどの間に、火と水の両方によって痛みつけられた広島の荒廃は激しく、その復旧には長い年月を要した。

しかし、そうした中でも相対的に被害の少なかった宇品の復興は比較的早かった。宇品線の利用も再開され、すぐに沿線の学校、大学病院、県庁仮庁舎、工場などへの通勤・通学および貨物輸送を行うようになり、住宅の再建が進んだ。

商工業地の復興も進んだが、著しい被害を受けた市中心部の商工業者をさらに受け入れるためには土地が足りない。このため、ここにあった広大な軍用地・施設が民間企業・官庁などに払い下げられて民需に転換されることとなった。

こうして多くの企業や商店がここに誘致されるようになるとともに、1966(昭和41年)年には、先の大和紡績の工場跡地にマツダが進出し、宇品における最大の企業となった。以後、宇品東部を中心に埋立地が進み、マツダ傘下の企業やその他の企業の工場なども次々と建設された。

近年はさらに埋め立てが進んで再開発され、多くの商業施設が建設・出店するようになっている。2012年には、広島港宇品旅客ターミナルを代表施設とする「みなとオアシス広島」が造成され、市民の交流拠点となった。さらに、地区の南端を通過する広島湾岸道路の造成にともない、宇品地区は今後も大きく街並みが変わろうとしている。



さて、前置きが長くなった。この宇品地区の中に、海に突き出るように飛び出ている半島がある。島だった昔、その形状が牛が伏せたようになっていたことから「牛ノ島」と呼ばれていた。時代が下がるとこれが「牛奈(うしな)島」と呼ばれるようになり、やがて「宇品島」となった。「宇品」という変わった地名はここから生まれた。

現在は元宇品公園として整備されて地域住民に親しまれている。その先端には、かつて旧陸軍が建設した信号所があり、戦後、これを海上保安庁が灯台に改造。その後、老朽化したため、昭和46年に現在の灯台が新設された。

その灯台のすぐ北側にあるエルロワイヤルホテルが、我々の披露宴の会場となったところだ。ここを選んだのは、この界隈では評判のホテルだったからでもあるが、海に面しており、いかにも魅力的な場所に見えたからでもある。広島駅など町の中心部からアクセスしやすく、招待客を招くにあたっても都合がいい、ということもあった。

式場である宮島へも、ここから船をチャーターし、神社まで送り迎えてくれるという。隣接してホテル専用の船着き場があり、船好き、海好きの私としては文句のないシチュエーションだ。

二人で下見に行って、すぐに気に入った。式が行われる最上階はガラス張りで、瀬戸内海が一望できる。食事も実際にその日に出される、というものを二人で食べてみた。魚介と肉類が選べるフレンチで、味も内容も申し分ない。その他、花などのテーブルアイテムも自分たちの好みに自由にアレンジしてくれる。

すぐさま申し込みをし、日にちはまだ先なので細かい話はまた折々にしましょう、ということでホテルを後にした。式場も決まり、披露宴会場も決まったということで、さあ他の準備だ、といった段階でふと気になったのが、息子のスケジュールだ。まさか大丈夫だよな、と思って予定表をみたところ、なんとこの日は彼の修学旅行と重なっていた。

ふたりとも一瞬凍り付いたが、思い直して直接本人に確認してみようということになった。電話でおそるおそる息子と話をした結果、自分は修学旅行のほうに行きたいという。そりゃそうだろうな~、結婚式もさることながら、修学旅行も一生に一度のことだし、じゃあ別の日に…と言いかけたところ、別にいいよ、僕がいなくってもいいじゃん、とあっさりという。

本当にいいのか、と重ねて聞いたが、そもそもあまり知らないひとばかりのところに出るのは気兼ねだし、だいいち、余計におかねがかかるでしょ、という。

別に金の心配までしてもらう必要はなかったが、そこまで言ってくれるなら、と彼の申し出をありがたく受けることとし、結婚式の日程の件はそれで無事落着となった。

後々考えたら、ほとんど知り合いのいない結婚式に出るのは、彼にとってはたしかに気兼ねだったろう。我々二人も変に彼に気を使わない分、ほかの人への接待に集中できる。すべては必然。これもそういう流れなのだろうと納得した。

このころ、既に我々は八王子の新居で新しい生活を始めていた。毎朝彼女が息子の弁当を作る。私の分も作ってくれるので、毎日半蔵門のオフィスでそれを食べた。我々が仕事に行っている間、彼女は洗濯をし、掃除をし、ともう既に息子を加えた新婚生活はスタートしていた。

当初、一緒に住んだこともない、彼と彼女の間を心配したが、いざ暮らし始めてみるとこのふたり、意外に気が合うようだった。上の階で雑用を済ませて下のキッチンに降りていくと、何やら二人で楽しそうに話しをしている。そういう光景を何度も目にするようになった。

どんなことを話しているのかと聞き耳を立ててみると、学校の友達のことや映画やゲームのことのようだ。直接二人の会話には加わらなかったが、どうやら異性のことまで話をしているらしい。

中学三年生といえば、お義父さん大っ嫌い、という家庭が多いようだ。そうした中で私は比較的受け入れられている方だと思ったが、それ以上に彼女と打ち解けているようで、ありがたいことだと思った。と同時に、改めて彼女の人間性をすばらしいと思った。

思えば母親を亡くして4年近くが経っている。彼女に母性を感じ、母親と同じというわけにはいかないまでも、それに近い存在として受け止めてくれているとするならば、こんなにありがたいことはない。

接する彼女のほうも聞き上手で、何かと自分の話を優先したがる息子のせっかちをうまく受け止めてくれているようだ。とはいえ聞きっぱなしではなく、話の途中途中のここぞというところで、自分の意見をさしはさむ。相手が興味を持ったらそこを突破口に自分の意見を話し出す、というやり方はなかなか扱い上手だ。感心した。

後年、ある霊感のある有名な方に我々三人を見てもらったことがあるが、その人もまた、私よりも彼女のほうが話しやすいはずだ、とおっしゃっていた。私の場合、オレがオレがになりがちであり、そこが彼の自我とバッティングしてどうも喧嘩になってしまうことが多い。

彼女はそこをうまくコントロールし、わが子でもない息子をうまく手懐けている。まるで友達のようにだ。

そんなわけで、新しく三人で始めた生活は思った以上に順調で、かつ楽しかった。映画好きの家族だからよくレンタルビデオを借りてリビングで見ることも多かったし、ときおり話題の映画を見にも出かけた。

食事中、彼が好きなテレビ番組、学校での出来事などの話題で盛り上がることも多く、夕食後に三人でゲームをしたりすることもあり、こうした時間はは毎日の中でも楽しいひとときとなっていった。亡き妻の死以来、久々に家族の団欒を取り戻した、という気がした。

結婚式の日取りを決めたとき、彼の修学旅行と重なってしまったときの彼の反応も、そうしたコミュニケーションが取れていたからこそのことだ。その一事だけで家族仲が悪くなってしまうということはなかった。

穏やかな日々が続いていた。春が来て、大型連休が来る前、亡き妻の命日が訪れた。あれからもうそんなに時間が経ったか、というほどあっという間の4年間だった。彼女の墓は作っておらず、それは我々二人がもう家族の墓を作るのはやめよう、と決めているからだ。

魂は生き続けて永遠に残るが、人は死んだらただの骨になる。それを納める器を作ったところで何の意味もない。それが二人の共通認識だ。このため彼女の両親の遺骨、そして亡き妻の遺骨もこの八王子に持ってきたままにしてある。いずれは自然葬などで散骨しようと考えている。

この日の命日もどこかへ墓参りに出かけることはなかった。三人それぞれ仏壇の前で香を焚き、静かにそれぞれの思いを故人に伝えるだけにとどめた。

この連休中、立川の昭和記念公園に三人で出かけた。このとき、はじめて亡き妻の母、義母に新しい妻を引き合わせた。会ったときからすぐ二人は打ち解けたようで、安心した。広い公園内を散歩している間、二人は立ち止まり、いろいろ話し込んでいるようだった。

あとで聞いた話では、私の姿がみえないところで、かなり込み入った話もしていたらしい。そのひとつとして、2年前に逝った義父が、亡くなる前に話していたことを語ってくれたという。私の再婚のことをほのめかし、まだ若いのだから早く新しい人をみつけて結婚したほうがいい、と語っていたそうだ。

酒に酔っていたとはいえ、彼女の死を私のせいにして荒れていた彼が、生前、そんなことを言っていたか、とその話を聞いて、改めて故人の徳というか、私に対する愛情を感じた。ありがたかった。

義母はその後、八王子にあった思い出の自宅を売却し、あきる野にある公営住宅に居を移した。一人暮らしのそのアパートにその後三人で何度か遊びに行ったが、元看護婦で80近くになっても元気いっぱいのこのご婦人は、いまだにそこで息災に暮らしている。



2008年6月20日。その日は朝から雨だった。

前日広島入りした二人は、披露宴を行う予定のエルロワイヤルに宿泊し、この朝を迎えた。前の夜には、彼女の知り合いのかなりの人数に紹介され、親しい親戚と共に夕食をした。フロアーにいる何人かはそれらのひとたちだ。夕べのこともあるため、笑顔で会釈をするだけで心地よいこの朝の気分を伝えあうことができる。

雨にもかかわらず、そこには和やかな空気が流れていた。薄い靄に覆われ、小雨にけぶる静かな瀬戸内海がガラス越しに見える。朝食はバイキング形式で、客たちがそれぞれ好きな席に陣取り、その眺めを楽しみながら食事をしていた。我々二人も、それにまじり、軽くこの日の予定などを確認しあいながら、なごやかに朝食を採った。

結婚式の当日であり、本来ならもっと緊張していてもよさそうなものだが、なぜかこの日私は朝からリラックスしていた。二度目の結婚であり、慣れていたということもあるかもしれない。しかし、海が見えるこの環境が自分を自分らしくしているのだろうと思った。やはり私は海の申し子だ。

食事後、ひとやすみしたあとに、彼女は化粧や着付けのために別の階に移動した。彼女の昔からの親友である韓国系の人がスタイリストとしてその役割を申し出てくれていた。彼女の着付けが終わると私の番になったが、男である私にはたいして手間はかからない。彼女の支度が1時間余りもかかったのに対し、たった15分ほどで終わった。

このあと、ホテルの一室でお互いの親族が顔を突き合わせて、お互いの紹介をした。それぞれが広島出であるため近場から来る親族が多いが、彼女の側では東京・横浜在住の親戚がやや多い。総人数はどちらが多いともいえなかったが、父母の姉弟の多かった彼女の家のほうが数では少し上回っていたか。

なごやかに挨拶をしあい、お互いの家族のことなど話しながらしばし談笑が続いた。彼女のほうの両親は当然不在だったが、叔父叔母たちが来てくれており、私の側も母以外に叔母が出席してくれていた。同年齢の彼らの間ではとりわけ話が盛り上がっていたようだ。

午前9時。ホテル前の桟橋に宮島に渡るチャーター船が横付けしたとの知らせがあり、結婚式の参列者一同はロビーに集まった。

このときにわかに雨が強くなった。着物を着た彼女は、裾をからげ、スタイリストとホテルスタッフの助けを得ながら、衣装を濡らさないようなんとか船に乗り込んだ。私も裾をあげてそのあとに続き、さらに親戚たちも駆け足でその連絡船に乗り込む。

この日、我々の結婚式に来てくれていた招待客の中に、旧知の霊感のある女性もいた。その彼女かのちに聞いた話では、このときちょうど天空に竜神様が訪れていたという。我々の結婚式のお祝いにと、この雨を降らせたのだそうだ。

半信半疑だったが、そう言われて悪い気はしない。のちのちまで、この日起こったことのすべてが夢の中のことだったように思えたものだが、この竜神様のこともまた夢の中のことと思えばいい。それもとびっきりの吉夢として。

宮島での結婚式に立ち会うのは、彼女の叔父叔母や、私の母や叔母、姉といった、近しい親戚ばかりで総勢、20人ほど。無論、誰もが宮島での結婚式に参列するのは初めてだ。

私自身も経験のないことだったが、ふだんは連絡船でしか渡ったことのない宮島へ、自分のためだけに用意された船で行ける、ということに興奮し、テンションはあがりっぱなしだった。結局この日の結婚式は最初から最後までこのテンションのまま終えることになる。

船が宮島に着くと、車が用意してあり、桟橋から神社まではこれによって移動した。おかげで雨には濡れなくてすんだ。車を降り、いつもは参拝料を払って進む入口は、受付の人に会釈するだけで通してくれた。

ここからは長い回廊を通って本殿に向かうことになるが、多くの観光客が行きかう中、長身の彼女はとくに目を引いた。外国人観光客が和服姿の彼女の写真を撮りまくっていた。こちら、ひげオヤジは所詮、添え物にすぎず、目もくれない。

本殿に着くと、その横にある待合室に案内された。そもそもいつもお参りする本殿横にそんな部屋があることを知らなかったので、ちょっと驚いた。出席者全員が入ったが、それでもスペースが余るほどの広さがある。

進行担当の社務所職員が近づいてきて、この日の儀式についてのシナリオを全員に手渡し、一通りの説明をしてくれた。新郎新婦が神奥に向かって座り、その両隣に親戚一同が向かい合って座る。雅楽の演奏があって、三々九度の盃の所作はこれこれ、指輪の交換をしたら親族それぞれで拍手してお祝いをすること、といったこまごまなことだ。

しばらくして式が始まる時間となり、一同は正殿に入るよう促された。一番奥にご神体とされる鏡が置かれており、それより20mほども離れた手前にお賽銭箱が置いてある。そこに柵があって、一般の参拝者の立ち入りはその手前までだ。我々の結婚式はその柵の内側で行われる。

つまり、我々の結婚式は、親戚だけでなく背後に参拝者である観光客の目があるなかで行われた。神前式であることは間違いないのだが、人前式のような趣さえある。

式が始まった。神主の長い祝詞のあと、三々九度の盃を二人でかわし、さらに親族たちも盃の酒に口につける。雅楽がおごそかに演奏される中、静かな時間が過ぎていく。不思議なことには背後の観光客の声は聞こえず、我々と親族だけがそこにいるような錯覚にとらわれた。

最後に指輪の交換をし、我々の結婚式は終わった。本来ならこのあと正殿を出たところにある小舞台で雅楽に合わせた舞を見ることができる。しかしこの日は雨であり、残念ながらその喜びの舞は見ることができなかった。

無事に式が終わり、一同はまた来た回廊を逆戻りして、桟橋に向かった。雨は既に上がっていたが、遠くの山はけぶっている。その手前の海をみやると、みなれた赤い鳥居がはっきりと見える。あぁ宮島で結婚式を挙げたんだな、という実感がその時初めてわいてきた。

朱に塗られた回廊とその先の海に浮かぶ赤い鳥居、そして正装の新郎新婦の取り合わせは、いかにも絵になる。しばらくのあいだ、親戚たちは私たちと一緒に記念撮影にいそしんだ。黒をベースにしたシックだが華やかな花嫁衣裳を着た彼女と羽織袴に紋付き姿の私のツーショット写真は、その後親族に贈った写真帳のなかにも納められた。

ふたたび連絡船に乗り、ホテルに戻る。船の中から振り返ると、赤い鳥居を前に、雨にけぶり薄墨で描いたように見える厳島がだんだんと遠くなっていく。いつも見慣れた晴れた日の厳島もいいが、こうした影絵のような幻想的な光景もいいな、と思った。雨の日の結婚式、しかも世界遺産での、というのはそうそう味わえるものではない。

瞬間、1400年の歴史をそこに垣間見たような気がした。清盛も、元就も、秀吉も見たであろうこの景色を、自分もまた見ている。そうした偉人たちの足元にも及ばないが、自もまた歴史の中の一人であるという事実に変わりはない。もしかしたら、彼らと同じように過去から現在までくり返し、くり返しこの景色をみてきたのかもしれない。そして来世もまた…。

ホテルに帰るともう11時を回っていた。披露宴会場は最上階にあり、三方がガラス張りで、瀬戸内海を一望できる。子供のころに過ごした堀越や青崎がその先にある。その横には小学生のころそれを描いて褒められた黄金山も見えた。

彼女が簡単なお色直しを終え、二人が席に着くころには親族以外の招待客もおおかた到着し、それぞれの席についていた。

この日の親戚以外の招待客としては、二人の恩師であるセンコー先生をはじめ、クラスを代表して幼馴染でもある藤井君、二人のキューピット役を務めてくれた小菅さん、そして高校からの私の親友である高橋君と彼女の親友、金指さんなどだ。

ほかに、新夫側としては、私が勤めているNPO法人の代表のほか、このころ一緒に仕事をするようになっていたWVC時代の同僚夫婦なども招いていた。

一方、彼女のほうはかつての仕事仲間が多く、広島時代によく一緒に遊びに行ったという独身シスターズの面々と、先にヘアメイクをしてくれた韓国系の友人、そして、彼女の亡き母とも知り合いだった、例の霊感のある女性も来てくれていた。相対的に新婦側の招待客の方が多く、それは彼女の広島在住歴が長かったためでもある。

これに双方の親戚を入れて総勢40人ほどで披露宴が始まった。司会をしてくれたのは、シスターズのひとり。テレビのナレーションの仕事などもしている人で、彼女はさとみちゃんと呼んでいる。我々より一つ年下で、国泰寺高校卒業の後輩にあたる。

しゃべることが本職だけにこうした結婚式にもしばしば呼ばれるらしく、場慣れしている。軽やかな口調でオープニングを告げると、会場からは盛大な拍手が巻き起こった。

私も仕事柄数多くの委員会を経験しており、こうした大勢の人が集まる場でしゃべることは比較的慣れている。冒頭、彼女のマイクを借りて、一言挨拶をした。

今日は堅苦しい披露宴ではないので、リラックスしてほしい。何か話したいことがある人は遠慮なく演壇にあがってください、といったことをアナウンスした。少しでしゃばりすぎたかな、とも思ったが、朝からのハイテンションはここでも続いていた。どうにも今日はしゃべりたい気分だ。

そのついでに、ここにいる司会の彼女もまだ独身ですが、素晴らしい女性です。誰かいい人を見つけてあげてください、と付け加えると会場から軽い笑いが起こった。

彼女もそれを受け、そういう奇特な方がいればよろしくお願いします、というとさらに会場が湧く。その後も、彼女のかろやかな司会のなか、式次第がひとつひとつ終わっていった。

親戚や友人それぞれのお祝いの言葉が続く。それぞれの心のこもったメッセージは会場を和ませたが、近頃はやりの音楽やビデオといった催しはない。そうした演出も悪くはないが、50近い夫婦の結婚式にはそぐわない、普通のシックな結婚式にしよう、と二人で決めていたためだ。

親戚や友人たちが次々と演壇に上がる中、彼女が姉のように慕っているシスターズ最年長の女性がそこに上がった。そのスピーチは感動的で、年下の後輩への愛情が痛いほどわかるような内容だった。まるで実の妹に対するようだ。目頭をハンカチで押さえながらしゃべり、聞いている彼女も涙していたが、私自身も目頭が熱くなった。

その後、この日の料理を用意したシェフ自らが、塩釜焼きの鯛を大きな包丁でさばいて開ける、といったパフォーマンスがあり、また私のWVC時代の同僚がピアノ演奏をしてくれて会場を和ませた。

宴なかばでお色直しがあり、我々二人は一旦中座した。それまでは宮島での結婚式に出たときのままの着物姿だったが、ここからは洋装に着替えることになっている。楽屋に戻り、急ぎ着替えをする二人。目を合わせて、盛大な結婚式になってよかったね、というと彼女もうれしそうにうなずいた。

このお色直しの間、会場では二人が用意したスライドが上映されていた。高校時代に巡り合ったことから始まり、大学時代のニアミス、お互いの就職、といった紹介が順に進み、やがて私が最愛の妻を亡くしたことなどにも触れていた。そして、「3度目の奇蹟」、というところで、会場が再び湧いた、という。あとでこれを見ていた友人からそれを聞いた。

昨年の正月、30年ぶりの高校同窓会を開く前、幹事からの招待状が届いていた。その中には、高校時代の音楽祭で全員が歌った「空飛ぶクジラ」にちなんだイラストが描かれ、メッセージとして「2度目の奇蹟を起こそう」と書かれていた。

最初の奇蹟とは、我々クラス全員が、あの学校のあの場所で初めて出会ったこと。2度目とは、30年ぶりの同窓会での再会のことだ。それをぜひとも成功させようという意図から出たコピーであり、考えたのは誰あろう、彼女だった。

我々の結婚が決まったことは、既にセンコーズHPの中で既に報告していた。多くのクラスメートからお祝いの言葉をもらい、掲示板はしばらくのあいだその話題で盛り上がった。そのなかで、「3番目の奇蹟」という言葉が書き込まれるようになっていた。

このスライドの文句はその書き込みのいわばパクリだったが、めぐり逢い別れ、再会してまた別れ、3度目にして再び出会ったが、それまでと違って今度は結ばれたというのは確かに奇蹟に近いかもしれない。後日、この日披露宴に参加していた別の出席者に聞いたところ、このスライドによる演出が一番良かった、と言ってくれた。

お色直しが終わり、案内係に促されて会場に向かって二人手を組んで歩いて行った。このとき、ホテルスタッフにあらかじめ流すよう頼んでいた、平原綾香の”Jupiter”がかかり始めるのが聞こえた。扉をあけるとそこは真っ暗闇だったが、その先にアーチ状の白いゲートが用意してあるのがぼんやり見える。

打合せにはなかったことでちょっと戸惑った。おそらくホテルの計らいで二人には内緒で準備されたものだろう。心憎いことに、ちょうどそこを通りがかるころに、曲が盛り上がるように計算されていた。

我々が歩いて行く中、前奏がおわり、次のフレーズに向かって曲のテンションが上がっていく。そしてゲートに差し掛かった瞬間、突然、ふたりにスポットライトが当たった。真っ白いウェディングドレスをまとった彼女とタキシード姿の私がその中に浮かび上がると、会場からワーッという歓声とともに拍手が巻き起こった。

後年、この結婚式当日のことを思い出すとき、真っ先にこのシーンが脳裏によみがえってくる。印象深かった厳島神社での式もさることながら、このときだけは特別だった。

Jupiterの流れるようなメロディーが平山綾香のハスキーな声で盛り上がるなか、スポットライトを浴びた二人が次のステップを踏み出すという場景は、演出されていたものとはいえ、これ以上のものは望めないものだった。

のちに、改めてこの曲の詩を読み返してみたが、まるで我々のことを言っているような気がしてならない。

「愛をまなぶために孤独があるなら、意味のないことなど起こりはしない」

お互い、つらい孤独の時間を費やしてきたが、それは愛というものを学ぶためだったのかもしれない。結果、この日という意味のある日を迎えることができたのだろう。これからもその歌詞のままの人生を歩いて行くに違いない。

こうして二人の結婚披露宴は終わった。

が、宴はこれで終わりではなかった。実はこの後、さらにセンコーズの面々との二次会が待っていたのだ。同じホテルの別室で行われたこの会には20人近くが集まってくれていたが、その席には獅子舞までもが飛び出した。

地元の神主に知り合いのいる同級生がわわざわざ神社に頼み込んで演出してくれたものだ。賑やかな舞のあとは、4年前の同窓会以来の再会を喜ぶ旧友たちの笑い声が、夜遅くまでその部屋に響いた。

地上階に下り、市内に帰る旧友たちをホテルの前で見送り、すべてが終わったときには夜の12時近くになっていた。

宴の衣装を脱ぎ、普段着に着替えて部屋に戻ったころにはさすがに二人ともへとへとに疲れていた。その部屋は最上階にあり、ホテル最高のスウィートルームということだった。しかしその豪華さよりも、窓の外にまだ雨でけぶっている広島の町灯りのほうが私にはゴージャスに見えた。

窓際のソファにぐったりと座り、ぼんやりとその光景をみているうちに、すぐに眠気が襲ってきた。2008年、6月20日。記念すべきこの日の結婚式はこうして静かに幕を下ろした。




それから10年の月日が流れた。

中学生だった息子は、高校、大学と進み、今は就職して、かつて私が住んでいた阿佐ヶ谷の隣町、荻窪に住んでいる。親子ともに、若きころをこの界隈で過ごすことになった、というこの偶然をどう考えるべきだろう。

しかしそれにしても、彼は私とは全く異なった人生を歩んでいる。いったい誰に似たのだろう、とまた考えてしまう。私でないことは確かであり、かといって亡き妻かといえばそうでもなさそうだ。

おそらくはそれまでの過去生とは異なる、全く違う人生を求めて生まれてきたのだろう。そしてその人生の最初の時期、私と亡き妻、そして血のつながっていない彼女と暮らすことを選んだ。その理由は何か、と考えるとき、はてな、と再び考えてしまう。

答えは出そうもない。しかしヒントはありそうだ。

かつて、先妻と結婚したことで、それぞれの両親の人生が少なからず影響を受けた。それと同じように、この息子も、我々とともに人生を歩むことで何らかのメッセージを送ろうとしているに違ない。

そのメッセージが何かはまだよくわからない。しかし、きっと単純なものではないのだろう。白黒はっきりしたものではなく、もっと複雑な色合いのものかもしれない。だとしたら、玉虫色のようなものであってほしいが、あるいは刺すような重さを持った群青かもしれない。

しかし同じ青なら、できればかつて過ごしたハワイの空のような透明なブルーであってほしい。

子を持つ親はそのメッセージに対する答えを出すことを通じて、生まれてきたことの意味を知るに違いない。その答えを持ってふたたびあの世に旅立ち、自分を送り出してくれた人たちに報告して、はじめてその人生を終えるのだろう。

その日がくるまで、あとどれほどの時間が流れていくことだろう。

二人が同時にその時を迎えることはできない。しかし、願うことなら、同じ時をもって旅立ちたいものだ。かつて、父と祖母はそれを願って叶えた。我々ふたりもそう望めば、きっとそうなるに違いない。

その後我々は、東京を離れて伊豆に移住した。ここに至るまでにはまたもう一つ別のストーリーがあるのだが、それはまたいつか機会を変えて書いてみたい。

本稿で書きたかったこと。

繰り返しになるが、そのひとつは、人生においては、その人が本当に必要とすることがその必要性に応じて起きる、ということだ。

住み慣れた地を離れ、ふたりは今、富士が望めるこの地で暮らしている。そうしたことも、この人生で起きた必然のひとつである。

いまそこから2000キロ離れた中国で、この稿を書き終えようとしている。黒竜江省の朝日がいま昇ったばかりだ。3日後には帰国し、またふたたびその伊豆の青い空の元での生活が始まる。

その先にどんなことが待ち受けているのか。今は知る由もないが、起きるべくして起こることへの恐れはない。これまでの人生において、起こった困難のすべては、自分を成長させるものだったから。

運命は乗り越えることができない試練を与えたりはしない。また、たとえ試練だと思ってもそれは実は大きなチャンスであったりする。

すべては必然である。ふたたび訪れるかもしれないそうした困難や試練は、再び私の魂を成長させてくれるに違いない。

残る人生では、それがやってくるのをむしろ楽しみに待ってみようか。いま、少しそんな気になっている。

(稿了)

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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。