夢の途中 12 再会

それから15年あまりが経った。

年号は平成から令和に変わり、いま私はこうしてこれを出張先の中国で書いている。

日本から回り込んできた台風が残したものは、大雨だった。目の前の松花江は連日増水し続け、先日ピークを迎えたが、今もまだ水位は下がる様子はない。ここ二週間はずっと待機しつづけで現場はほぼ封鎖状態だ。

もっとも事務が主作業の私にはあまり関係なく、むしろありがたいくらいだ。仕事を早めに終え、空いた時間があれば、せっせとこの自伝を書いている。まるでそれを書け、というかのようなこの天啓は、そういう流れなのだろう。

流れがあるときはその流れに乗る、というのがごく自然な生き方だと思う。いま自分の過去のことを書いていて、何度もそういう流れがあったことを思い出している。

ただ、昔はそういうことはまるで知らなくて、単に偶然だとばかり思っていた。

これまでの人生の中でも最もセンセーショナルな出来事のひとつ─ 先妻との出会いもそうだ。同じ時期、同じ職場で出会い、しかも同じ町に住んでいた、というのはどう考えても偶然ではない。結婚適齢期の男女ということで、年齢差もまるでおあつらえむきだった。

二人だけのことではなく、それに巻き込まれたそれぞれの両親もまた、我々二人が結びつくことで多くを学んだに違いない。すべてはそのために起こった、と考えるのが自然の流れだ。子供ひとりと夫を残し、自分だけが去る、というのも、生まれる前から決めていたことだったのだろう。

自分だけで決めたのか、いや、二人で決めたのかもしれない。もしかしたら、その相談に今の妻も入っていたかもしれない。

何のためだったかのひとつは明らかだ。

私の魂の成長を促すためだったろう。

ただ、ほかに必要だったことはなかったか、見逃していることがないか。考え始めている。

すべては必然。

だとすれば、今目の前で溢れかえっている水の流れもまた意味があることなのだろう。

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亡き妻の告別式には、およそ100人もの人が集まった。ちっぽけな会社の社長の妻の葬儀にしては多いほうだろう。

もっとも、集まった人の誰もが私を社長とは思っていない。会社関係者は皆無だ。その多くは息子の幼稚園時代から小学校時代までの彼女の交友を通じて集まった学校関係の人たちである。そのほか高校時代までの友人、地域の自治活動を通じて知り合ったひとたちも参列してくれていた。

さらに夫婦それぞれの親戚もいる。それらを含めてこの数になったわけだが、それにしてもこれだけの人が集まったということは、故人にそれなりの徳があったということだ。誰もそれを否定しまい。

暦は5月に入っていた。告別式を催した寺には、自宅前と同じ八重桜が数本あり、そのピンク色の花で境内は彩られていた。

霊柩車に棺が運び込まれ、いざ出棺というとき、参列者に対して挨拶をするよう、父から促された。喪服を着た多くの人の視線が私に集まった。来客を端から端まで見渡し、やがて私は静かに口を開いた。

「ご多忙の中、亡き妻の葬儀にお集まりいただき、ありがとうございました。幸いにも今日はこんなにも良い天気に恵まれ、その中をこれほどまでに多くの方に参列していただいたことを故人も喜んでいると思います。」

そして、満開に咲いている桜のほうを見ながら、こう付け加えた。

「今日はこんなにもきれいに八重桜が咲いています。まるで亡き妻を見ているような気がしてなりません。みなさん、この季節になってまたこの花が咲くのを見たら、こんなにもいい子がいた、ということをどうか思い出してやってください。」

語り終わると妻が納められている棺を載せたワゴンに乗り込んだ。火葬場へ向かう車列が出発した。運転手がクラクションを長押しし、プワーっという長い音が境内に鳴り響いた。その悲しげな音は、あとあとまで耳に残った。

以後、私は、八重桜の咲くこの時期に亡くなった彼女を思い、彼女が亡くなった4月28日をひそかに「八重桜忌」と呼ぶようになった。

葬儀のあと、しばし茫然とした思いで日々を過ごした。幸いにも仕事を持たない両親がその後1ヵ月にわたって滞在してくれて助かった。

息子は、葬儀のあと数日ほどほとんどしゃべらなかった。見た目は元気そうだったが、一人で部屋にこもれば、きっと泣いているに違いない。かくいう私も、父母や息子から離れ、ひとりになると涙が出て仕方がなかった。

一ヵ月ほどが過ぎ、父母は山口に帰っていった。また親子ふたりだけの生活が始まった。彼女が入院していた時と同じ状況だったが、あのころと違い、待っていても帰って来る人はいないのだ、という現実を改めて思い知らされた。

仕事のほうはあいかわらずかんばしくなかった。いろいろ手を変え品を変えて、違う角度からアプローチを続けてみたが、好転はなさそうだ。ただ、仕事以前の問題として、いかんせん、何をやるにも気力が湧いてこない。

夏になるころまでには、ほとんど続けていく意思を失った。開店休業状態でもあったので、HP上の店は閉め、関係者とも連絡を取って事実上閉店した。

季節は夏に入っていた。このため、息子の夏休みに合わせ山口に帰省して、その夏はほとんどをそこで過ごした。この年はオリンピックイヤーで、テレビでは連日日本人選手の活躍を流していた。しかし、ぼんやり見ていた中で、誰がどの競技でどんな色のメダルをもらったのか、ほとんど覚えていない。

ある天気の良い日、かつて三人で行った場所をふたたび訪れた。県北の豊北にある角島というところで、近年、青い海と白浜で有名になり多くの観光客が訪れる人気スポットになっている。そこに両親と息子を伴って海水浴に出かけた。

といっても、このとき父はもう80近くで、母も70を過ぎていたから海には入らない。波にもまれている息子と私を、ふたりで浜に座って見ているだけだった。

台風余波のやや時化気味の海に二人浮いているだけだったが、時折、大きなうねりによってそれこそ数メートルも持ち上げられたり、下ったりで、息子は大喜びだった。

彼が波に流されないよう、しっかりと彼が身に着けた浮き輪の紐を持っているのが私の役目だったが、波にもてあそばれながら、浜の方を見ると、白いタオルでほおっかむりをして並んで座り、二人を見守ってくれている両親の姿が見えた。

父はこの場所が好きで、家内がまだ元気だったころの我々の海水浴にもよくついてきた。一人でエメラルド色のこの海に入っては、日がな一日、そこで気持ちよさそにぷかぷか浮かんでいた。ふだんみたこともないそんなうれしそうな父の姿が、今も思い出される。

母と二人で仲良く並んでいる元気な父の姿をみたのは、結局それが最後になった。

そのあとの秋も深まるころ、夜中に突然、母から電話がかかってきた。何事かと思って電話に出ると、父が倒れたという。多少混乱しているようだったので、落ち着かせてから話を聞くと、風呂の脱衣所で突然倒れたらしい。

あわててすぐ隣の夫婦に助けを求めに走り、彼らが呼んだ救急車で運ばれたようで、どうやら電話はその先の病院かららしい。すぐに私からも広島の姉に連絡をとり、山口に向かうよう頼んだが、こちらは移動しようにも夜半を過ぎており、身動きがとれない。

あとで、駆けつけた姉からもらった連絡によれば、幸いにも、すぐに命に係わる事態ではなさそうだったので、翌日一番の電車で山口に向かった。

実家から歩いて10分もかからないところにある救急病院に駆けつけると、既に姉のほか姪がやってきていた。このころこの姪っ子は離婚し、一人息子を広島で育てながら働いていたが、ちょうどこの日は休みか何かだったようだ。

すぐに階上の病室に上がり、そこにいた母に父の容態を訪ねると、今のところ落ち着いているという。しかし、昏睡状態であり、意識が戻るには3~4日はかかると医者から言われた。倒れた原因は脳梗塞ということだ。

風呂に入る前に裸で体重計に乗ろうとした。しかし、暖かい部屋から冷たい脱衣場で服を脱いでそれをやったのがいけなかったらしい。脳の血管は急速に委縮し、それが血流を止めた。意識を失ってどすんと背中から倒れたが、その大きな音を聞きつけた母がかけつけたときにはもう口から泡を吹いていた。

とりあえず意識が回復するまではやることもない。数日実家に泊まったが東京に息子を残していることもあり、出直ししてくることにした。もっとも家内が亡くなったあとは、こうしたことがあるたびに義母がうちに来てくれるようになっていたので、彼女になついている彼をひとりにしてきても大丈夫だった。

一週間後に父は意識を取り戻し、片言ながらしゃべれるようになるまで回復した。しかし左半身を中心にかなりひどい麻痺があり、医者によればもう自宅に帰るのはかなり難しいのではないか、という。

それはつまり何等かのリハビリ施設に入ることを意味していた。両親は、ふたりともかなり長い間勤め人をしていた。そのおかげで、年金は比較的多い。それほど高額な医療施設でなければ入所は可能だった。しかし、問題は空いている施設が少ない事であり、高齢者の多い山口市内ではそれを見つけるのはなかなかに難しかった。

幸いなことに、母と一緒に編み物教室に通っている女性の夫が元県庁に勤めていたこともあって顔が広く、そのつてを頼った結果、郊外に入院先をみつけることができた。市の南部、小鯖にある施設で、日当たりもよく施設も充実していた。ここなら安心して父を預けることができると、安どした。

父はそれからほぼ2年間そこにいた。なんとかバス通いできる場所にあったので、運転免許をもたない母は、その後週一のペースで、そこに通った。

息子を連れて何度か私もそこを訪れ、父に面会した。回復が進むにつれ、聞き取りにくいながらもかろうじて会話ができるようになっていた。ただ、脳機能に障害が残り、普通の会話はできにくい。しかし、私が息子を連れてきているのを見ると、ひどく喜んだ。父は昔からこの孫が大好きだ。

父がここに入所したのは2006年の2月だったはずだ。そのすぐあと、今度は、東京の義父が入院した。

家内が亡くなったあと、彼の落ち込みようはそれはひどかったらしい。毎晩夜遅くまで酒を飲み、彼女の写真を目の前に置いて泣きながら酔いつぶれて眠ってしまう。そんな生活を毎日のように続けていた、とのちに義母から聞いた。

酒に酔った勢いにまかせて、私と結婚させたことが間違いだった、と言ったこともあったらしい。目に入れてもいたくないほど彼女を溺愛しいたから無理はない、と思った。

もし私がいなければ、ああした婦人科系の病気にはならなかっただろう、と私も少なからず自分を責めた。どうにもならないことだったが、結果に対する原因があるとすれば、我が身がその大元であるに違いない。義父が荒れた理由はそこだったろう。ただ、その荒れようは激しく、そうした気の病がいつのまにか体を蝕んでいったに違いない。

もとよりヘビースモーカーだった。このころはかなり控えめにしていたようだが、ひどく咳をするようになったため、病院へ行って精密検査をしたところ、肺癌だと診断された。

すぐに市内の病院に入院したが、その少し前、一度息子を連れて自宅に見舞いに行った。意外に元気そうだったが、医者に言われて好きな酒を控えていると聞き、かわいそうに思った。ほんの少しだけ、という約束でビールを酌み交わしたが、そのときぽつりと、「覚悟はしている」と言ったのが印象的だった。

この年の夏、義父は日の出町にある、末期の患者ばかりが入る病院に転院したが、やがて、秋になってから亡くなった。彼女の死からわずか2年も経たないころのことだった。いけないとは知りつつ、もしかしたら彼女が呼んだのかな、という思いが頭をよぎった。




この義父同様、私自身も泣き妻の死に長い間苦しんだ。しかし、一周忌を迎えるころから徐々に立ち直り始めた。とくにきっかけがあったわけではないが、自分はまだ50歳にもなっていない。まだまだこれからやれることはある、いや、やらなければならないことが待っているかもしれない、そう思うと少し元気が出てきた。

気持ちを切り替え、自堕落になっていた自分をもう一度鍛えなおそうと思った。彼女を看護する中、ストレスのためか、急激に増えた体重を10キロほども落とし、再びジョギングを始めるようにもなっていた。

仕事面では、かつて勤めていた会社の同僚に誘われて、防災関係のNPO法人に入ることにした。半蔵門に事務所開きしたその組織に通い始めたのは、義父が亡くなるちょうど一年ほど前の年の秋のことだ。

自分で経営していた会社は、名前を変えてそのNPO法人の関連会社とすることにした。このため、形式的ではあるが、そこの社長も続けることになった。一方で、NPOのほうでは研究員の名目で職員となり、主にここから給与をもらうようになった。

その組織を立ち上げたのは、前の会社で情報部門の次長をしていた人物だった。かつて出向していたWEMで同じ時期に職員だったことがあり、それが縁で今回のようなことになった。もとからやり手で、東大などの防災関係の有識者のコネをうまく使っては、大きな仕事を取って来ていた。

やがてそうした有識者たちと意気投合し、独立しようということになり、このNPOを立ち上げた。しかしメインとなるスタッフが足らず、そこへおあつらえむけに私が現れた、というわけだ。

ふたたび宮仕えすることに抵抗はあったが、このころの私は、ひとりだけで仕事を続けていることに萎えていた。久々に連絡を取ってみたところ、一緒にやろうと言われ、その要請を受けたかたちだ。これまでやったことのない防災という新しい仕事に多少の興味もあった。

しかし所詮は官公庁の仕事だ。津波対策など多少自分の専門に近い仕事もあったが、どれもお役人の自己満足で作ったような業務にしか見えなく、面白いと思ったことは一度もなかった。それでもそこそこの給料をもらえるから、そのころ急激に目減りしつつあった我が家の金蔵も多少はうるおうようになった。

義父の亡くなる少し前のまだ暑い9月のころ、その日は自宅で、会社が今のような形態になる前の残務整理などをしていた。NPOにはほぼ毎日出所していたものの、関連会社の社長であるからある程度の時間の融通は効く。夕方までに仕事を終え、息子が返ってくる前にくつろいでいたとき、ふと今日はポストをまだチェックしていないことに気づいた。

玄関を開けて、門柱横のポストを探ると、一通の封書がある。ダイレクトメールのような類ではなく、直筆で宛名が書いてある封書だから、私の住所を知っている誰か旧知からの手紙に違いない。

取り出して裏の差出人をみると、そこに書いてある名前はなんとなく憶えがある。しかし、誰だっただろう?と思い出せない。家の中に持ち帰って封を切り、入っていた手紙を開くと、そこには思いがけないことが書いてあった。

来年の正月に、30年ぶりの高校同窓会をやる、ついては出欠の連絡を返すとともに、音信不通になっている同窓生への連絡を乞う、という内容だった。

手紙をくれたのはかつての同級生のひとりであり、それを読んで急に顔を思い出した。しかしそれにしても、高校時代にはそれほど親しかったというほどでもない。なぜここの住所がわかったのだろう、といぶかしんだ。

かつて大学時代に恋した彼女が私の現在の住所を知っているはずはなく、どこからここを知ったのかまるで見当はつかなかった。しかし、そのときふと、数年前に親しかったクラスメートから夜半突然に電話がかかってきたことを思い出した。

電話の趣旨はどうしている、元気か?ということだったが、それに加えて、今、広島では有志が集まって、ひさびさの同窓会を検討している、という内容だった。たしか、日程が決まったら知らせるから、おまえもそれに合わせて帰ってこい、と言った。

その電話をくれた彼は広島在住だったが、このほか東京に出てきて就職した同級生が何人かおり、渋谷に勤めていたころは、何回か一緒に飲みにいったこともある。とくに仲の良かったヤツもいて、下宿が近かったこともあり、その彼とは休日によく遊びにも行ったりしていた。

おそらくはその彼あたりから、かつての会社の名前を聞いたのだろう。移転先の聖跡の職場に連絡すれば、自宅の電話番号がわかる。八王子に住み着いて以来、電話番号は変えていなかったから、それをたどれば、結婚後の住所もわかるはずだ。それにしてもそこまでして自分を探し当ててくれたことがありがたかった。

妻を亡くしたあと、親しくつきあっている友人もほとんどいなかったから、このイベントのことを聞いたときには正直うれしかった。懐かしい面々にひさびさに会える、しかも30年ぶりに、ということで、がぜんテンションがあがった。

さっそく、その手紙の持ち主に連絡をとると、まずは、東京で知っている同窓生へ連絡してくれ、という。かつて親交があった面々の連絡先はまだ捨てずに持っていた。なので、数日後には、関東のあちこちにちらばっていたそれら十数名の同窓生のほとんどと連絡がとれ、正月同窓会があることを伝えることができた。

その中のひとりに、つくば市で居酒屋をやっている同窓生がいた。もと野球部のキャプテンで、当時からなかなかのリードオフマンだ。電話をしたときは、夜11時を過ぎていたが、ちょうど店じまいをする時間だったらしく、他の旧友たちの近況の話に少しく花が咲いた。

このころ私は気象庁の仕事で頻繁につくばに行っていた。それを聞いた彼は、今度出張につくばに来たときうちに来い、ご馳走してやるから、という。社交条令ではなく、ぜひぜひということだったので、その後2週間ほど経った後に本当に出かけていった。つくば駅から車で15分ほどの郊外にある店で、「鳳凰クラブ」という店だ。

およそ30年ぶりになるその彼は昔とほとんど変わっていなかった。野球部のキャプテンだった当時と同じく丸坊主で、ただその頭には白いものが多く混じり、年月の隔たりを感じた。

入口に「一見さんお断り」の張り紙がしてある。中に入って本当か?と聞くと、笑顔でそのとおりだという。近くの研究所や大学関係者、病院関係者がよく来る店だということで、比較的高収入の人たちを常連客として取り込み、商売が成り立っているらしい。

しゃれた円形のカウンターが中央にあり、そこに細身の彼が立つと、シックな雰囲気の内装と妙にマッチしていた。高校時代、グラウンドでボールを追う彼の姿が脳裏に浮かび、そういえばあのころからこういうユニフォームが似合うやつだったな、と思い出した。

ちょうど昼時だったので、ランチをごちそうになることにして、その間ふたたび昔話やら同窓生の近況やらで話が盛り上がった。その日は仕事も兼ねての出張だったが、打合せは午前中に終わっていたので、2時間近くもそこにいたと思う。帰りがけに、何かを手渡された。手土産だというから、何かと思って中をみたら何かのリストだった。

なんでも、数年前に、広島で山水会の大会があたっときに手に入れたものだという。山水会とは、同窓生同士が助け合い苦労を分かち合おうという趣旨で設立されもので、この会で作成したリストには、ある時期以後に母校から卒業した人すべての住所や電話番号が掲載されている。無論、プライバシーの侵害になるため、一般には公開されていないものだ。

持ち帰り、中をみると、かつての初恋の相手の連絡先もそこにあった。懐かしく思い、会ってみたい気もしたが、今はそんな場合ではない。

今回の同窓会の対象となるわがクラスの面々のページを開くと、なるほどかつてのクラスメートの最近の住所や電話番号が書いてある。さっそく電話をかけ始めた。多くはそのまま連絡がつき、その連絡がついた相手からさらに不通だった同級生へも連絡をしてもらう、という芋づる方式で次第に輪が広がっていった。

と同時に、先に同窓会の案内をくれた彼が、ウェブ上にわがクラス専門のHPを立ち上げてくれた。誰でも書き込みができる形式で、時系列的にその内容を閲覧できる。かつての恩師のあだ名は「センコー」だったので、誰からともなく、これを「センコーズHP」と呼ぶようになり、目指す正月の集まりは「センコーズ同窓会」になっていった。

このHPで同窓会熱はまた一気に高まり、毎晩のように誰かが何かを書き込むようになった。近況をはじめ、まだ見つかっていない誰かがどこかに住んでいるらしい、といった情報が寄せられるようになり、これによってまだ行先がわかっていなかった同窓生のほとんどの連絡先が明らかになった。

中には途中で転校し、現在は他県に住んでいる女性をネット検索でみつける、という珍しい例もあった。結婚して姓が変わっているはずだが、試しに結婚前の名前で検索したらヒットし、そこにあった電話におそるおそる電話をしたら、当人だったという。

つくばのリードオフマンとはその後も連絡を取り合っていたが、その後、その他の東京在住の面々とも頻繁に電話で話をするようになった。この東京にいる面々だけで、30年ぶりの同窓会をやったのは、それからすぐのことだ。

11月になっていたと思う。東京は丸の内で開いたその会合には、10人近くが集まった。ほほとんど変わっていない連中がいる一方で、まったく変わってしまったやつもいて、30年という月日の流れを感じてしまった。かくいう私は最も変わったと言われた。

しかし、しばらく飲み交わしているうちに、すっかり昔に戻った。一次会だけでなく、二次会になだれ込むころには、もうすっかり打ち解け、昔と同じように俺お前になり、丸の内のビル街の中を、高校時代と同じように、みんなでふざけあいながら帰った。広島弁まるだしで。

楽しかった。たったこれだけの人数で盛り上がるのだから、次の正月の同窓会はどういったことになるのだろう、とさらに期待は高まった。

ちなみに、その後もこの東京在住の面々とは毎年のように同窓会をやるようになった。鳳凰クラブでの貸し切り同窓会も何度かやった。そしてこの会を私は「関東組センコーズ」と呼ぶようになり、その面々は今でも最も大切な古い友人たちになっている。



一方、大学時代の例の失恋相手への連絡においては、当初ちょっとした波乱があった。

こちらからの最初の電話は、鳳凰クラブの主から名簿をもらった時にすぐにした。大学当時のことがあるので当然戸惑いはあったが、思い切ってかけたところ、留守電に切り替わった。このため、自分の電話番号を伝え、電話を乞うとだけ告げて切った。

ところが、このメッセージを残していたことを私はすっかり忘れていた。その他の同窓生への連絡もしている中で話し込んでしまい、この夜多少アルコールが入っていたこともあって、最初に彼女に電話したことはすっかり忘れ去っていたのだ。

翌朝、半蔵門の事務所に通勤する途中、携帯電話に突然電話がかかってきた。こんな時間に誰だろう、と思って出ると、それは聞きなれない女性の声だった。「どなたですか?」と聞くと「中山です」という。はて、どこの中山さんだったろうか、と思いあぐねていると、中山タエ子です、という。

そこではじめてあの彼女だとわかったが、昨夜彼女に電話したことをすっかり忘れていて、思わず「なんでこの電話番号を知っているの?」と切り返した。これに対して「あなたが電話してっていったんじゃない」と言われてしまった。

これがおよそ30年ぶりに彼女と再び交わした会話である。よく聞きなおすと、電話の持ち主の声はたしかに昔と変わらず、その向こうにある姿もまた大学生当時のままの彼女だった。

今仕事に行く途中だからまた電話をするよ、といって切り、その夜ふたたび電話をし、近況を教えあった。聞くと彼女はまだ結婚しておらず、独り者だという。今の自分が一人であるということもあり、それに懐かしさも手伝って、以後何度か電話やメールでやりとりをするようになった。

そうしたなか、若いころ彼女にうつつを抜かしていたころの恋心が急激に蘇ってきた。あげくのはてに大胆な提案をするに至る。それは、近々山口に帰る用があるから、同窓会前に久々に二人だけで会わないか、というものだった。

これに対して彼女は急にガードを上げた。無理もない。30年という月日がどれほど相手を得体のしれないものに変えているかもわからない。まして、一度結婚をし、子供までいる相手だ。急激に距離を縮めるのは危険だと判断したのだろう。それ以後、シカとされぷっつりと連絡がとれなくなってしまった。

途方にくれたが、ここに救世主が現れた。先の東京同窓会で一緒だった女性だ。高校時代の最後のころ、卒業アルバムの編集委員を一緒にやったことがある。卒業後、同じく東京に出てきて就職し、渋谷時代にはほかの仲間ともときどき遊びに行っていた。

クラスの女性陣の中では一番話しやすい相手の一人でもあった。先の東京同窓会で教えてもらったメルアドで連絡をとってやりとりするうち、お互いの近況を知らせあうようになっていたから、ある日彼女とのことについても触れた。次いで、現在の窮状を訴えたところ、おもいがけず、「助けてあげる」という。

先妻と以外、ほとんど恋愛経験のない私は、女性への接し方が相変わらず下手くそで、メールひとつにしても、とんでもないことを書いていたりしたらしい。

以後、そうしたことにもアドアイスをくれるようになり、いきなり電話をしてはダメとか、メールにあまり過激なことは書かないようにとか、具体的なてほどきをしてくれるようになった。まさに恋のキューピッドだ。

そのせいもあり、ぷっつりと途絶えていた彼女との連絡もどうやらとれるようになり、同じく途絶えていたHP上への彼女の書き込みも久々に見られるようになっていった。

12月になり、正月3日の同窓会の日が次第に近づいてきていた。会場は広島一番の繁華街、八丁堀にあるグランドイーストホテルで、これは広島でも一流と言われている。いいところで行われるのだからと、せいいっぱいのおめかしをしようと考え、このころから背広やコートなどを買いそろえるなどの準備をいそいそと始めた。

年の瀬の迫った12月10日のこと。自宅で仕事をしていたところ、突然携帯電話が鳴った。誰からだろうと表示をみると、母だった。既に年明けに同窓会があることを伝えてあり、年末には息子を連れて帰るよ、といってあったから、そのことだと思った。

庭に出て通話ボタンを押して話始めたところ、いつもと様子が違う。やがて彼女の重い口から聞かされたのは、父が亡くなった、という事実だった。

母によれば既に葬儀の日程などはあらあら決めてあり、2日後だという。急いで帰ってこい、と言われるかと思いきや、意外にもこちらで準備するからゆっくり帰ってくればいいよ、と言う。

しかし、父の葬儀ということになると喪主はおそらく長男の私である。いろいろな手続きもあるし、父を亡くしたばかりで母もさみしかろうと思い、急遽その日の夕方から夜通し車で山口に帰ることに決めた。祖父の葬式であるから、直系の息子も当然連れていくべきであり学校は当然休ませるしかない。

急いで学校の関係者や近くに住む義母にも連絡をとって留守を頼み、八王子を出たのは、その夜の7時すぎだった。中央高速、名神、中国道と愛車を走らせながら、後ろを振り返ると、さっきまでゲームに夢中だった息子は、疲れたのかシートに崩折れて静かに眠っている。

前を向き直し、ハンドルを握りながら、ここ数年の間に自分の身の回りに起こったことを思い浮かべた。高速道のそのまわりでは、暗い中よく見えない景色が飛び去って行く。

これと同じだな、とふと思った。ひとつひとつ起こる出来事を十分に咀嚼する間もなく次々と新しいことが起こっては消えていく。

妻の死にはじまり、義父、そして実の父親の死と、続けて身近なひとたちが次々とこの世を去っていった。それがいったいどういう意味を持つのかを誰か教えてほしかった。

しばらくするとまた別の思いに切り替わった。始まりがあるから、終わりがあるのではないだろうか。死ばかりではない。新しい仕事、同窓生との再会は、新たなステージの始まりだ。今始まったそうした出来事の先に、何か新しい展開がみえてくるのかもしれない。

今はただそれを信じ、現実を受け止めて走り続けるだけだ。どんな形の未来が待っているのかはわからない。ただ、それをありのままに受け止めよう。ただ、いつかはそれもまた終わるに違いないが…。

やがて高速道のはるかその先の山の頂きから朝日が差し込んできた。窓を少し開けると年末の刺すような冷気が社内に飛び込んでくる。その冷たさで頬がこわばり、ハッと我に返った。





12月11日の早暁、私はふたたび山口に帰ってきた。

翌日には葬儀、そのあとの告別式と、父を送る儀式はあっけなく、早々に終わった。不思議なことにそれほど悲しくはなかった。非人情だといわれそうだが、少なくとも家内が亡くなったときのような嗚咽の涙は出てこなかった。

亡くなった81歳という年齢は、十分に長く生きた結果であり、その最後も静かだったと聞いた。その日の朝、看護婦さんが見回りにきたときには既に息がなかったそうだ。

最晩年には心臓の手術をしたり、高齢者医療施設でその最後迎えるなど、病院から離れなられない生活が続いた。しかし、シベリアから帰ってきて結婚し、我々二人の姉弟を設け、母とともに過ごした日々は平凡ながら充実していたのではないか。そしてリタイア後の生活はおおむね穏やかだったのではなかろうか。

大望を抱かず、コツコツと自分の人生を歩む、という生き方が自分に一番合っていると思っていただろう。その通りの一生となり、満足だったに違いない。

この父の死に関して、ひとつ不思議なことがあった。それは、幼いころに死別した彼の母の命日が、本人が亡くなった日と全く同じ12月10日だったということだ。

父の死後、書斎の遺品を整理していて気がついた。父は生前、金沢の先祖のことをいろいろ調べており、その中でこの自分の母の戸籍謄本なども入手していた。そこには生年月日もさることながら、没したときの年月日の記載もある。

見て気付いたとき、あっ、と思った。単なる偶然といえば偶然だが、母子二人の亡くなった日がまったく同じである、ということはそうそうめったにあることではないだろう。

実は、父の生前、この実の母が亡くなったときにも不思議なことがあった、と話してくれたことがある。その日は冬晴れの天気の良い日だったそうだが、ふと窓の外をみやると雨が降っている。何かの見間違いだろうと、手で両目をぬぐって拭いてみたが、やはり、雨が降っているようにしかみえない。

それを何度も繰り返しているうちに、やがて雨は見えなくなったというが、不思議に思った父は、そのことを周囲にも話してみた。しかし、誰も信じてくれない。やがて自分でも錯覚だったのかと思いはじめたが、そのあと何度もそのことを思い返すたび、やはりあのときは確かに雨が降っていた、という結論に達したという。

父はこの話を生前、何度か私に繰り返した。それを聞くたび、へえ~そんなこともあるのかな~くらいにしか思わなかったが、父が亡くなり、その命日が祖母のものと同じだと知ったとき、あの雨の話はやはり本当だったのかもしれない、と改めて思うようになった。

なぜ、雨が降ったように見えたのかはわからない。しかし、それは母親からの何かのメッセージだったのかもしれない。私を忘れないようにね、ということだったのか、あるいは、泣かないでね、という意味だったのかもしれないが、いずれにせよ、そうしたビジョンを見せられたのは、この二人の絆がよほど強かったからだろう。

命日が同じだったのも、二人で話し合って決めていたことに違いない。それを同じ日にすることに、どれだけの意味があったかもわからないが、一つの記念日のようなものにしたい、と二つ魂が考えていたのかもしれない。予定どおり、その記念日に召された父は満足し、今はきっと実の母とあちらの世界で幸せに暮らしているだろう。

実は、この父の死は、くだんの彼女と私の関係にも大きな意味をもたらした。

東京を離れる直前、私はセンコーズ同窓会のHPに、父の葬儀のためにこれから急遽、車で実家まで取って返す、と書き込んでいた。これを見た彼女が、それに対して長いメッセージを書き込んでいたのだ。

気をつけて無事に帰ってきてほしい、と書かれたその文面には、これまでの彼女の態度とは違った多くのニュアンスが含まれていた。新たな展開を思わせる内容であり、それを読んだ私は、はじめて固まっていた氷が解け始めたような気持ちになった。

その後彼女との距離は急速に縮まっていくことになるのだが、ふと、思ったのは、これもまた父が仕組んだことではなかったろうか、ということだ。

彼が亡くなったあの日、この日を境に自分の人生を終わりにしよう、と考えたと同時に、自分の死をもって二人を結びつけるきっかけにしてやろう、としたのかもしれない。そう考えるのはあまりにも出来すぎだろうか。

死を前にしたこの頃の父は、ほとんど会話もできず、眠っていることも多かったようだ。人とのコミュニケーションはそろそろ終わりだ、と言わんばかりの状態で、そんなことを考えただろうか。ましてや、私と彼女の関係を父が知る由もない。

もし知っていたとしたら、意識の外の世界でのことだっただろう。魂レベルでそれを知り、二人のためにと、あるいは最後のプレゼントをくれた、と考えることもできる。

人は眠っている間、肉体を離脱してあの世に帰り、そこでいろいろな準備をしてまたこの世に戻ってくるという。同様に昏睡状態の人は、たとえ意識はないようにみえても、魂だけはあちらの世界にあって活発に動き、思考さえもしている。そう書かれた本を読んだことがある。

父もそうだったとしたら、あちらにいる祖母とそんな相談をし、そうだね~、彼女と彼を結びつけるにはなかなかいい方法かもしれないわねー、そんな話をしていたのかもしれない。

父の死に接しては、そんなふうに深く考えさせられることが多かった。非日常的な出来事だけに少し神経が繊細になりすぎていたのかもしれないが、むしろ、父や祖母を含め、あちらにいる方々からの重要なメッセージだったと受け取るべきなのだろう。

そのメッセージを紐解き、無事に受け取ったことを報告し、改めてお礼を言いたい。




年が明け、2007年になった。

正月3日の同窓会は、まず母校の教室から始まった。

何かの間違いでは、と思うかもしれないが嘘ではない。普通、教育の現場を卒業生とはいえ、一般の人に使わせるということを学校はやらない。しかし、鯉城同窓会には、母校の事務や教育委員会に勤めている人間もいる。その彼らの計らいで、30年ぶりの授業を学校でやることが認められたのだ。

このときセンコー先生はまだご健在だった。80歳を超える高齢だったが、活舌ぶりはあいかわらずで、お得意の漢字に関する授業を、かつての教え子たちを前に延々と1時間も繰り広げてくれた。

この日集まったのは40数名で、欠席したのはわずか5~6名だった。30年ぶりの同窓会としては驚異的な出席率であったが、それは昨年暮れまでのHPへの書き込みによるフィーバーぶりを反映した結果といえた。

授業が終わると、ひとりひとりこの30年間のことを話す機会が設けられた。私もこのとき先に教壇に立って自分の半生を語った。ひげを生やし、少し痩せた風貌はかなり変わっていたらしく、あとあと誰だか、さっぱり分らなかった、と口々に言われた。

彼女もまた自、分の境遇について話したが、その落ち着いた話ぶりに、学校の先生みたい、という合いの手が入った。例の鳳凰クラブのリードオフマンだ。それ以後も他のクラスメートの話は続いたが、時間が押していたので、半分ほどを終え、残りはホテルで、ということになった。

教室を出た後、校門の前で、センコー先生を中心にみんなで記念撮影をした。カメラマンはもちろん、30年前と同じ私である。ハイハイ、真ん中によってー、間から顔を出してねーというテキパキとした私の指示を聞きながら、あちこちから「昔を思い出すのー」の声が上がった。

グランドイーストでの宴会は盛況だった。40人程度だったので、適度な人数で話しやすいということもあったが、誰もが30年ぶりというその年月の穴を埋めようとしていた。相手の話の多くは自分にとっては「失われた過去」だ。みなそれぞれのドラマがあり、興味は尽きなかった。

あっという間に予定していた時間が過ぎた。二次会は別のクラスの同級生が経営しているホテルで、と決まっていたらしく、そこへ移動した。誰もが一次会の熱が冷めやらず、帰ったのは遠方から来ていた数人だけだった。

実はこの一次会でも二次会でも彼女とはほとんど話さなかった。お互い意識していたのは確かだが、あえて会話しなかったのは、二人だけの時間が持ちたい、とともに考えていたからにほかならない。このため、最後の最後に皆がそれぞれ手を振り始めたとき、私から彼女を呼び止め、また連絡するから、とだけ告げた。彼女もうなずき、そして別れた。

その3日後、私が運転する車の横に彼女は座っていた。ついこの間開かれた30年ぶりの同窓会が夢のようだった。懐かしい面々に出会い、それぞれと時間の許す限り数多くの話をした。時間はいくらあっても足りなかったが、無常にもその時は過ぎた。

その同窓会で彼女とはほとんど、というかほぼ何も話をしなかったが、こうして車を走らせる中では、いくらでも話ができた。その日二人が目指していたのはどこでもなく、ただ単に東へ東へと向かっていた。

同窓会の翌日、すぐに彼女に電話をして、すぐにこの日のデートの約束をもらった。この日訪れた広島西方、五日市の高台にある彼女の家には、かつて彼女の両親と祖母が暮らしていた。しかし、三人とも亡くなり、今は彼女ひとりがその大きな家に住んでいた。

手ぶらで行こうかと思ったが、ちょっと考えて近くのコンビニで、一束の花を買ってから彼女の家に向かい、呼び鈴を押した。にこやかに出てきた彼女は、私から差し出された花を見て、まあうれしい、と言ってくれた。家の中を見てみたかったが、それは後日にすることとし、すぐに車に乗り込んで発ったのが9時過ぎのこと。

どこへ行こうか、と聞いたが妙案はなさそうだったので、それなら「しまなみ海道」でも見に行こうか、ということになった。尾道市と今治市の間の島々とそれらを繋ぐ橋が織り成すこの海の道からは瀬戸内海に浮かぶ島々の風景を存分に楽しむことができるはずだった。

ということで車は東へと向かっているわけだったが、その道中、二人は話に夢中だった。これほど長い時間話しても話のネタが尽きない相手はいない、そう私は思ったが、彼女もまたそうだったろう。

話の中身は、その昔彼女に振られたときのことから始まり、その後それぞれの社会人生活のこと、お互いの恋愛経験のことなど多岐にわたった。が、共通点として、ここ数年の間にそれぞれ身近な人を相次いで亡くした、ということがあった。

私は妻や父を、彼女は父母を最近失くしていて、独り身だった。かつて勤めていた広告会社を辞めてフリーとなり、いまはラジオの原稿を書いたりしている、といったこともこの時知った。ほかにもいろいろ聞きたいことはあったが、たった一日ですべての穴を埋めることはできない。

しまなみ街道を通り抜けて四国まで行くこともできた。しかし、さすがに日帰りはきついと思い途中で引き返し、また広島に向けて戻ったが、その帰りもまた話詰めだった。結局この日のデートは、ほとんどが車の中で過ごしたと思う。どこかでランチを食べ、コーヒーでも飲んだはずだが、そうしたことはほぼき記憶にない。

やがて正月休みが終わり、息子とふたたび東京へ帰る日が来た。ひとりになった母を置いていくのは忍びなかったが、またすぐに帰ってくるよ、と笑顔を残して別れを告げた。それは嘘ではなく、実際、彼女とのランデブーのため、その後頻繁に広島山口に帰ってくることになる。

この正月のデート以後、二人の間の距離は加速度的に縮まった。表向きは、母が心配だからという理由だったが、それにかこつけて頻繁に山口に帰ってくるようになり、その都度彼女とデートを重ねていった。このころから二人で県外へもショートトリップに出ることも多くなった。

いろんなところへ行った。二人にとって会いやすいのは、東京と広島の中間点ということで、奈良京都が多かったが、蛍を見に行くだけの目的で岐阜へ行ったこともある。奈良東大寺二月堂のお水取りへ二人で出かけたときにはその荘厳さに心を打たれた。

このとき、ちょっとまた不思議なことがあった。

その夜泊まった宿でのこと。朝方に起きようか起きまいかとうつらうつらしていたら、夢枕に年配の女性が出てきた。「タエ子をよろしくねー」という声だけを残してフェイドアウトしてすぐにいってしまい、姿形はよく見えない。しかし、その言動から、あとで彼女の母親らしい、と気づいた。

大学時代に彼女にぞっこんだったころ、家に電話をしたことがあった。ちょうど彼女が不在でこのお母さんが出たが、冷静を装ってそれではまた電話差し上げますとかなんとか取り繕って電話を切ろうとした。

そのとき、「また電話してやってねー」という意外に軽いノリの答えが返ってきたのを覚えている。奈良で夜明けに聞いた声はその時の声に確かに似ていた。

その後、彼女に会うことはなく、亡くなってしまったのだが、後にも先にもこのお母さんの生きているときの声を聴いたのはこのときだけだった。しかしそれから何十年も経ったころ、夢の中でまたその声を聞くとは思いもしなかった。

実は、このお母さん、生前は精神世界的なことに相当傾倒したひとで、五日市の彼女の自宅にはそうした本がゴマンとあった。私と彼女の話が合った理由のひとつもそれだ。

私がそうしたことに興味を持つようになったのは、亡き妻の死後のことである。彼女が亡くなった年の秋から、とある山口の建設コンサルタントの顧問をすることになった。会社経営をやめてすぐのころのことで、顧問料をもらう代わりとして役所を回り、営業活動をする、ということをやっていた。

その会社の社長と一番最初に会った時のことだ。立派な応接室に通され、これまでの経験などについて話していた。ひとしきり話が終わった後、プライベートな話になり、その気はなかったのだが話の流れで、つい家内が最近亡くなったことを話した。

すると、やにわに社長が立ち上がり、私の後ろにあった書棚のところまで行って、一冊の本を取り出してきた。

手渡され、表紙をみると「生きがいの創造」というタイトルで、著者は飯田史彦とあった。社長は「ちょっと不思議な本なんですけどね」といい、少しためらいがちに、読んでみたらどうか、と勧めてくれた。

ただその本にはあちこちに社長の書き込みがあったので、お借りするのはやめにして、タイトルと名前だけ控えて、社長室を後にした。

その日のうちに山口市内の本屋でその本を探した。人文科学か何かのコーナーに置いてあったと思う。買い求めてさっそく読み始めると、すぐにその内容に引き込まれていった。と同時に涙が止まらなくなった。そこには私と同じく身近にいた大切な人を失くしたひとたちの数々の「不思議な体験」が織りなされていた。

「死後の生命」や「生まれ変わり」といったこの本のテーマは、まさに私が知りたいと思っていたことばかりであり、目を開かされる思いがした。

後年、ことあるごとに他の人にも読むように勧めるようになったが、私のその後の人生を変えた本、といってもいいだろう。

ちょうどこのころ、テレビでも「オーラの泉」といった番組が放映されており、ちょっとしたスピリチュアルブームが起こっていた。そのブームに乗ったつもりはなかったが、江原啓之さんが多くの芸能人たちが持つ悩みや支障の背後にあるものをズバズバと見当てていくのを見て、これは本物だ、と思った。

以後、飯田さんや江原さんの著作は無論のこと、そうした類のものを読み漁るようになり、さらにその世界に深く入っていった。

彼女自身もそうしたスピリチュアル的なことに興味は深く、また私以上に知識があった。もっとも、彼女も最初はお母さんから受けたのだろうが。

そんなわけで、久々に出会っての旅行のときはもちろん、お互いの家に帰ってからも夜な夜な電話をしては、そうした話を一晩中するようになった。週末になると、夜も11時ぐらいから電話をはじめ、朝になって外がしらけてくるまで一晩中電話をしている、ということも日常茶飯事となった。

こうして二人は急速に愛を深めていった。その夏に山口に帰省したおりには、息子にも引き合わせた。このとき、息子を広島にも連れて置いき、そこで彼女に引き合わせるために選んだのは、広島市内に最近できた大型のモールだ。そこで三人一緒に食事をしたが、どんな反応を示すかな、という私の心配をよそに、ふたりは映画の話で盛り上がっていた。

後年、結婚後から現在に至るまで、この三人の共通の話題の中心にあるのはいつも映画だ。レンタルビデを借りて家で見ることも多かったが、休みになるとよく揃って映画館へ足を向けた。流行りの映画にはむしろあまり興味はなく、あまり人がみないような映画で秀逸なもの、というところでも三人の意見が一致していた。

まだ知り合って間もないのに、息子と彼女の間に共通の価値観のようなものが見いだせた、というのはありがたいことだと思った。もっとも考えてみれば私と彼女もまた知り合って間もない間柄であり、一年も経っていないのであったが。

こうして心配していた息子とのこともどうやらクリアーできそうに見えてきた。そうなるとごく自然にクローズアップされてくるのが結婚の二文字である。

ある晩、いつものように彼女と電話で長話をしていたところ、多少アルコールも入っていた私が、「このあと僕ら二人はどうなるんだろうねー」と軽いノリで振ってみた。これに対して彼女はなんと、「そりゃー結婚しかないでしょう」と頬をさわるような軽さでそれを言ってのけた。

「ええーっ」とのけぞる私。そのあと、その会話は忘れたように別の話題に移っていったが、のちに考えると、これが事実上のプロポーズだった。しかも私からではなく彼女からの。本来なら男らしく、私から正式な求めをすべきところだったろうが、それもうやむやなまま、我々の結婚狂騒曲は本番へと突入していった。





二人の結婚を前にして大きな問題がふたつあった。というか、大きな家がひとつと小さな家がひとつあった。大きな方は彼女の広島の家であり、小さな方は私の八王子の家だ。

彼女の家のほうは本当に大きく、もともと二世帯住宅として建てたものだったから、家の中には二世代分の家財道具がびっしりと詰まっている。私の家のほうも、小さいながらも過去10年以上にわたって住み続けてきたものであり、息子のものやら亡き妻のものやらがかなりの密度で仕舞い込んである。

この二つを整理し、一つにするか、あるいは二つとも処分をするか、といったことが当面の大きな課題だった。不動産処理をするにしても、中身はきれいに空けてしまわなければならない。

ここから私の苦闘が始まった。結婚を前に家2軒分の家財を処分する。しかも仕事をもやりながら。

通常のサラリーマンなら、難しいところだが、幸いと勤めていたNPOでの立場は管理職に近く、時間的な縛りは比較的緩い。とはいえ、手に職を持っているわけだから、平日に家財整理ができるわけではなく、週末や有休をうまく利用しながらの作業になる。

まずは広島のほうから、ということで、週末を中心に休みをまとめ、帰広しては集中して家財整理にあたることになった。

が、いざ整理を始めるとこれがなかなか進まない。まず多くの家具があることに加え、膨大な量の衣類の壁に阻まれて、十分な足場すら確保することができない。それに加えて大量の本。彼女もその母親もまた本の虫であり、家じゅうが本だらけだった。

大学進学以降、10回以上も引越をしている私ですら、この惨状にはほとほと参った。しかし、やらないことには終わらない。東京広島を何回も往復して、その都度コツコツと荷物を片付けていったが、大まかなものの処分を終わらせるだけで数カ月もかかった。出たゴミを捨てるために、処分場にはおそらく両手両足の指の数ほども通っただろう。

おかげでこの広島西方、五日市や廿日市といった地域の地理にずいぶんと詳しくなった。私は東部広島で育ったが、そことはまた違う土地柄だ。宮島などの歴史的な観光地もあるが、そもそもは埋め立てでできた町々なので、全体的に新しい。平地が多く、メリハリがないものの、海をすぐ近くに感じられる。

一方、埋め立てて作られたこの平地の北側には急に山が立ち上がっており、その山間部を切り開いて造られた住宅地も多い。広島は「家が山に登る」とよく言われるが、彼女の家を含むそこは典型的な山登り住宅だった。

結局彼女の家の片づけは年内には終わらず、年が明けて2008年になってからようやく下火になった。かなり空き家に近い状態になったが、最終的な処分方法としては、売るか、貸すか、というところに行きつく。彼女は後者を選んだ。当面貸家として収入を得ながら、折を見て売りに出そうという算段だ。

バブル崩壊後かなり時間が経っているが、このころもまだ不動産売買の条件はそれほどいいとは言えない。妥当な選択だと私も思った。市内の不動産会社をいくつか当たっていく中で、この家を建てた大手メーカー系の会社がやはり販路をたくさん持っているという理由で、代理店としてそこを選んだ。

借り手が決まるまではまだ彼女の家だから、寝起きはできる。しかし東京で使うために取り置いていた主だった家具などは、山口の実家に移動してしまっていて、今はがらんとした部屋だけが目立つようになっている。振り返って彼女をみると、同じように何もない部屋をぼんやりと見つめている。長年住んできた家だけに名残惜しいに違いなかった。

広島の彼女の家は片付いたものの、今度は八王子の家の片付けが待っていた。この家に三人で住む、というプランもないではなかったが、亡き妻の思いがこもった家でもあり、そこに彼女を住まわすのはかわいそうだ。

彼女自身もあまり乗り気でなかったのか、別途マンションでも借りましょう、という。そのころ中学3年だった彼の学校近くを中心に、手ごろな物件を探して回ることになった。

当初なかなかいい物件にぶつからなかったが、みなみ野というやや高台にある場所に、その昔建てられたマンション群があり、その中の1軒が貸し出されていることを、新聞広告で知った。

問い合わせてみると不動産屋が広告していたのではなく、そのマンションのオーナー自らが貸主だった。なんでもここが手狭になり、別のところに家を買ってそちらに移住したので、そのローンの返済のためにここを貸し出しているという。

前の家に比べて少し手狭ではあったが、スキップフロアという、ちょっと変わった家の作りに彼女が興味を示した。事実上2階建てなのだが、1階と2階の間にもう一間があって、あたかも3階建てのような造りになっている。キッチンとトイレが狭いのが難点だったが、リビングはそこそこ広く、息子の部屋と夫婦の部屋もそれぞれ確保できそうだ。

彼の中学校も至近距離にあり、通学にも便利だ、ということでここに入居することに決めた。前の家の家財の処分は、ここに住み始めてから徐々に始めればよい。距離的には車で5分ほどで行き来できる。

引越は息子が春休みの間に、ということで、この間、コツコツとふたつの家を往復して荷物を運んだ。広島から山口に移していた荷物も、引越し業者に依頼し、近日中に届いた。こうして、みなみ野での新しい生活の準備は整った。

これに先立ち、二人は広島の五日市市役所に婚姻届けを出し、公式に夫婦となった。2月14日のバレンタインデーがその日だ。たまたまだったわけではなく、わざわざその日を狙って届けを出した。記憶に残りやすいから、という彼女の発案だ。

その夜、近くのレストランで祝杯をあげたが、親戚を呼んでとかの祝い事は特段しなかった。というのも、このあと披露宴を伴った結婚式を宮島であげよう、と決めていたからだ。

広島から彼女が上京し、引っ越したばかりのマンションで3人の新生活が始まったのは、息子が中学校3年生に上がる直前の3月のことだった。

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