1993年というこの年は、退職、再就職に加え、長男が生れるなどせわしない年だったが、さらに年末近くになって、技術士の二次試験の日時を知らせる通知が来た。
これすなわち、夏に行われた一次試験に合格したということにほかならない。国家試験の中でも最難関に類する試験に一発で受かったということで、心躍る気分だった。
年の初めには暗い気持ちで会社通いをしていたのが、そこを辞め、再就職した後半には尻上がりに運気があがり、長男の出産に続いて最後にもうひとつご褒美が出た、という印象だ。
しかし、面接によるこの二次試験にパスしなければ、技術士の資格は手に入れることはできない。二次試験の合格率は90%以上とも言われ、よほどのことがない限り落ちることはない、と言われていたが、最後まで油断はできない。
年が明けて、翌1994年の2月。代々木でその二次試験に臨んだ。元オリンピック村だった建物群の一部をスポーツ振興財団が買い取り、オフィスにしていたところが試験会場だ。かつて講堂だったらしい大きな部屋に入ると、面接官が二人いた。
うち一人はよく知らないひとだったが、もう一人は会ったことがあり、建設省の外郭団体の研究所の所長さんだ。質問は主にこの人が行った。早速、試験内容のうち、経験論文について最初の質問が飛んできた。ただ業務の内容とかではなく、経験論文に書いた業務はどこの事務所から発注されたものでしたか、というものだった。
論文の中身のことではなく、いきなりヘンなことを聞くな、と思ったが、淀みなく〇〇工事事務所です、と答えると、あー、あそこですか、というのんきな感じで答えが返ってきた。
やる気があるのかな、と一瞬思ったが、続いての質問は、私の経歴についてのことで、ハワイ大学出身というところに興味がいったらしい。ハワイにはなぜいったのですか、会社を辞めていったのですか、といったことを聞かれたが、ハイそうです。勉強をしたかったので行きました、と正直に答えた。
それが好印象だったのかそれ以上はとくに難しいことは聞かれなかった。所長が隣の人に他に何か質問がありますか、と聞いたが、とくにありません、とその人は答えた。
こうして、何か拍子抜けのようなかんじで二次試験は終わった。特段大きなミスはなかったと思ったが、それでも万一のことがないとはいえない。
しばらくの間悶々とした気持ちで過ごしたが、およそ一カ月後、技術士協会から手紙が届いた。おそるおそる封を切って中身を出し、広げるとそこには、技術士試験に合格したことを告げる文面があった。
過去に数多くの試験と称するものに対してきたが、その結果として得たなかで、これほどうれしかったものはない。早速同封されていた技術士登録の申請用紙に記入し、返信封筒で送り返すと、2週間ほどして、科学技術庁長官のサイン入りの技術士証が送られてきた。
このときの長官は江田五月氏だった。その後参院議員の議長も務めたこの大物議員のサイン入りの技術士証は、今も私の机の中に大事にしまってある。
技術士には受かったものの、このころ会社でやっていた仕事はさほど面白いものではなかった。都市計画の一環ということで、公園設計の仕事が多く、関東圏内のあちこちの公共事業で持ち上がっている大小の公園の設計、施工に携わった。
Civic Designという言葉が使われ始めている時代で、これまでのありきたりの公共事業で使われてきたような古いデザインから脱却し、欧米並みの優れたデザインを取り込もうという機運が高まっていた。
ただ、それを理解してくれる事業者がまだまだ少なく、昔ながらの古いデザインに固執するあまり、そうした新しいデザインを毛嫌いする向きも多い。優秀なデザイナーに頼み、優れたデザインを持って打合せに臨んでも、相手にそれを理解する能力がない限り話は進まない。
一度、茨木県東部の小さな町の公園計画に携わったことがあったが、ここはその公園計画に対して、町長派と反対派が分かれている町だった。そのデザインを巡ってもその両者が激しく対立し、いつまでたっても計画が進展しない。事前の調査さえ、先に進めることができず、両陣営の間に挟まれ、ほとほと参ってしまった。
またぞろこの会社に入ったのは間違いだったのかな、と思いはじめていたが、そんな中、年が暮れ、新しい年、1995年を迎えようとしていた。
長男は先月満一歳を迎え、そろそろ歩き始めていた。彼が生まれてすぐだったこの年の正月こそ見送ったものの、毎年、年末年始には山口の実家に帰ることにしていた私は、このとき初めて息子を連れて帰省した。
このときの両親の喜びようは半端ではなかった。朝から晩まで孫につきっきりで、こちらが面倒みる時間さえないほどだ。とくに父の喜びは大きかった。このころ息子はしゃべり始めており、葉っぱ、葉っぱということばを発し始めたのを聞いて、「ハッパ君」と勝手にあだ名をつけるほどのかわいがり様だ。
その後、亡くなるまで、いつもこの息子のことを気にかけているようなところがあり、私よりもむしろこの孫のほうがよりかわいいと思っているのではないかと嫉妬するほどだった。
この年、社会的にはいろいろな大事件があった。この正月の帰省から帰ってすぐには、阪神淡路大震災が起こり、2カ月後の3月には地下鉄サリン事件が続いて起こった。会社のすぐ近くにはサリンがばらまかれた小伝馬町駅がある。
朝からわんわんと救急車やパトカーが目の前の道路を通るのを見聞きして何事かと思っていたが、誰かがつけたテレビの報道でその内容を知った。幸い社員の中で事件に巻き込まれた人はいなかったが、その日は家人を心配する社員の家族から、電話がひっきりなしにかかって来ていた。
この年、私にまたも転機が訪れた。ある日倉田部長から電話がかかってきて、外の喫茶店で待っている、話があるからそこに来い、という。
話なら別に社内ですればよさそうなものを、わざわざ電話で外に呼び出してまでするというのはよほど大事な話なのだろう。なんだろう、と思いながらその喫茶店へ向かった。
出てきた珈琲をすすりながら、私の近況についていろいろ聞いていたが、そのうち、実は…と切り出したのが、出向の話だった。
もともとこの会社に入った当初、これまであちこちと点々としてきたことから、しばらくは同じ部署にいて、じっくりと同じ仕事をさせてほしい、という要望を会社に出していた。
これは本音で、前の会社では、遠く離れた支所に飛ばされたあげく、海外に出される可能性もあったことから、今回の会社では一カ所にとどまり、落ち着いて仕事をさせてほしいものだと思っていた。
その要望を部長も知っていて、社内でちょっと呼び出していきなり辞令を渡す、というやり方はまずい、本人を納得させられないと思ったのだろう。いわゆる根回しだ。
で、どこに出向するんですか、と聞いたところ、財団法人だという。河川局の外郭団体で、建設省や水資源開発公団が管理するダムや堰の周りの環境を整備する。幹部は建設省や公団の役人だが、実働部隊は一般企業からの出向者が担うことになっており、任期は一般に2年だという。
寝耳に水の話だったが、ちょうどそのころ、都市計画の仕事内容に不満を持っていた私は、正直なところ、ここぞとばかり喜んだ。が、そんなことを考えているとはおくびにも出さず、そうですね~家内とも相談しないと、と一旦話を引き取り、また後日お返事させてください、と答えた。
実際はもうその時点で行く気満々だったが、よく考えてみればどんなところなのかもよく知らずまた、2年間いわば役人になるわけである。はたしてそんな役割を私が担えるものなのかどうか、とだんだんと不安になってきた。
とはいえ、こういう話が直接本人に降りてくるときは、たいていその人事は固まっている。断り切れないなとわかっていたから、せめて何か保証をもらおうと思い、後日それを承諾する旨を報告に行ったときには、念を押した。「ちゃんと2年で返してくれるんでしょうね。」
結局その出向はその後、3年もの長い期間に及ぶことになるのだが、結論からいえば、公園の計画や設計ばかりをやって過ごしたであろう3年間よりもずっとエキサイティングでワクワクするものになった。
ここででもまた、人生においては、その人がその時本当に必要とするものが、あちらからやってくる、という理論が証明された。
こうして、水環境整備財団(WEM; Water Environment Maintenance Foundation)へ会社から派遣され、出所するようになったのはその年の6月からだった。
前任者がおり、5月いっぱいで帰ってくるその人と入れ替わりで私が出向する。その引継ぎで彼にどんなところかを聞いたところ、「ヘンなところだよ」と言われた。どこがヘンなのかもっと具体的に聞きたいところだったが、そこははぐらかされ、入ればわかるよ、と言われた。のちにその言葉の意味を理解したが、たしかにヘンな組織だった。
入所して配属されたのは、企画部というところだった。前園さんという人が部長で、この人も建設省OBだ。建設省中枢での補佐時代、カリスマ的と言われた人らしく、次々と新しい企画を打ち出しては新事業を実現させてきた実力者である。
長身だが頭が薄く、にやっと笑うと独特の愛嬌がある。それでいて風格というのか、どこか品がある。嘘か本当かわからないが、後で聞いた話では、前園家というのは皇族に連なる名家だそうだ。鹿児島出身ということだったから、旧薩摩藩になる。
薩摩といえば、徳川二代将軍・秀忠の正室となり、娘は天皇家に嫁ぎ、息子は第三代将軍となった、江姫(ごうひめ)の出身地だ。そこの名家というなら、皇族に縁があってもおかしくない。
入所してから挨拶に行くと、おぉ君か、待っていたよ、と気軽に声をかけられた。もっと怖い人だと思っていたから、案に反して好々爺としたそのかんじに親しみを覚えた。
企画部ということで、宣伝のためのパンフレットでも作る仕事を任されるのかと思いきや、全く違う仕事を言い渡された。魚道をやれ、という。川にダムや堰を作ると、それが邪魔になって魚が行き来できなくなる。それを通すための通り道を指すが、これまでそんなものを見たことも聞いたこともなかった。
すぐに席を与えられ、左側に座っていた男性を紹介された。その人物は自ら名乗り、青山です、といった。水資源開発公団から出向してきた人で、公団内ではエリートとされているキャリア組だ。入所してかなり後になってからそのことを知った。
これも後で知ったことであるが、WEMにある各部署のリーダー的な役職にはこうした、役所からの派遣者が就任し、その下に一般企業からの出向者が付く。私は技術士を持っているということで、企画部では、前園、青山に次ぐ、ナンバー3という位置づけらしく、首席研究員というおどろおどろしい肩書をいただいた。
この青山さんと私は年齢も近かったが、確か彼のほうが一つ二つ下だったと思う。「企画部次長」の肩書を持っており、ゆえに最初は上司と部下、という関係を意識していたが、そのうち親しくなるにつけ、友達関係のようになっていった。
とはいえ、所詮は役人であるから、やたらに仕切りたがるところがあり、表向きの上下関係にはうるさかった。職場にいる間は上司面をしていたが、とはいえ、二人で出張にいくときなどは、ため口で語り合ったものだ。
一番最初にこの人とやった仕事は、北海道で新たな委員会を立ち上げる、という仕事だった。彼はその事務局長、私はその補佐役、ということで業務がスタートした。
北海道のほぼ稚内の下にある、朱鞠内湖という湖でその第一回の会合が開かれた。私にとっては生まれて初めての委員会であり、極度に緊張した。ただ役割としては言われたとおりに議事次第を作り、それに沿って進められる委員会の討論内容の議事をとる、ということだけで、特段難しい仕事ではなかった。
とはいえ、そもそもなぜ北海道なのか、どうしてこんな僻地で委員会をやるのか、といった疑問が次々と頭に浮かんできた。しかし、このときはまるでその意味をわかっていなかった。
その後東京に帰り、委員会の議事を整理したり、前園部長や青山次長と打ち合わせていく中で、徐々にこの業務の意味がわかってきた。
まず、北海道である理由。それはここに豊富な水産資源があることである。北海道といえばまずサケを思い浮かべる人が多いと思うが、一口にサケといっても、シロザケもいればベニザケもいる。シロザケは正式にはチャムサーモン(白鮭)といい、ベニザケはレッドサーモン(紅鮭)だ。
このほか、ピンクサーモン(カラフトマス)、シルバーサーモン(銀鮭)、キングサーモンがおり、これらが太平洋にいる5大サケ類になる。またこれらを総称して、サケマス類という。
これらサケマス類は、川の上流で生まれてすぐにこれを下り、海へ出てそこにある豊富な栄養素を食して大きくなる。成魚になってからは再び川をさかのぼり、川の上流で産卵をして息絶え、その卵がまた翌年ふ化して川を下る、というルーチンを繰り返す。
川と海を行き来するため、「回遊魚」と呼ばれ、ほかにはシシャモやアユ、ウナギなども回遊魚とされる。
日本列島は急峻な山で形成されており、その間を下る川もまた流れが速く、また距離が短い。ここにダムや堰をつくると、こうした回遊魚は川を行き来できなくなり、やがては滅亡の道をたどることになる。これまではサケが上っていたのに、ダムや堰ができたことで最近は上らなくなった、ということが全国で繰り返されてきた。
一方、北海道は内地に比べれば川の流れが比較的ゆるい。つまり、サケマス類にとっては川を遡上しやすく、かつその距離も長い。従ってダムや堰を作っても場合によってはその下流で産卵することも可能であり、北海道以外の地に比べればまだ種の保存がききやすい。
また、まだ開発途上でダムや堰も数が少ない。このため内地に比べればサケマス類の資源が比較的豊富に残っている。こうしたことから、今後はこうした水産資源を絶やすことなく、しっかり保護していく、ということは大きな意義がある。枯渇しつつあるといわれる我が国の水産資源の保護の上では重要案件なのだ。
国としてもこれまではこうした自然を犠牲にして水資源開発をしてきたが、今後は姿勢を正し、環境保全にも考慮しようと力を入れようとしている、というわけだ。
WEMに入り、私が最初に手掛けることになったこの委員会は、北海道を所管とする建設省の出先機関が主催するものだった。その中で今後のダムや堰の開発にともなう、こうした水産資源の保護について、専門家を交えて話し合おう、という意図があった。
一方、この委員会ではさらに別の視点からの水産保護についても話し合われた。ダムや堰で「蓋」をされてしまった川では、その上流にできる湖から魚は下流に行けなくなる。これを「陸封」という。
ダムや堰の上流に閉じ込められてしまった魚のことをとくに「陸封魚」と呼び、これらは川や湖の中で独特の進化を遂げる。ワカサギがその代表例だ。
冬に凍った湖の中で、氷に穴をあけて釣るワカサギ釣りを思い浮かべ、ワカサギといえば湖にしかいない、と思っている人も多いだろう。しかし、ワカサギの中には海と川を往復して産卵を繰り返す種もいる。成長期に降海するタイプと、生涯を淡水で生活する河川残留型がおり、後者が一般にワカサギと呼ばれているものだ。
同様にアユも同じような二タイプがあり、湖の中で産卵・成長するものもおり、その代表的なものが琵琶湖の陸封アユである。また、ニジマスのように、もとは海と川の間を行き来していたものが、やがて川の中だけで上下するようになったものもおり、これらも陸封魚の一種である。
これら陸封魚は、それはそれで水産資源としての価値がある。内陸の地域では、食料調達のためにわざわざ海までいかなくてもこれを活用できる。こうした種の保存の在り方についても検討していこう、ということで、北海道内のこうした陸封魚を有する湖の実態調査の結果が報告される予定となっていた。
朱鞠内湖もそのひとつであり、ここにいる魚をいかに活用していくか、ということがこの最初の委員会の中でも話し合われた。ここではとくに、この湖に生息する「イトウ」というサケ科の魚が話題になった。
日本最大の淡水魚として知られており、体長は1mから大きいものでは1.5mに達する。1mほどまでに育つのに、10年程度もかかるという。サケ科の魚としては長命ではあるものの、近年数がかなり減っている。産卵を行う最上流域までの移動距離が長く、その間にダムなどの人工構造物が作られることにより産卵・生育形態が脅かされているという指摘がある。
この委員会でもそうしたことに対しての対策が話し合われたが、そのあとに開かれた懇親会では、なんと、この希少なイトウの刺身がふるまわれた。その白身は、さほどうまくももなかったが、幻ともいわれる魚を食する機会というのはそうそうめったにあるものではない。あとでもっと食べておけばよかった、と思ったものだ。
以後、こうした委員会が道内の他の湖や川のそばの会場で開かれることとなり、そのたびに私は出張を重ねた。このため頻繁に北海道を訪れるようになったが、それだけでなく、他の魚類調査のためにも足繁く通うようになる。多いときには週二回ほど、少なくともひと月に2回は渡道していた。
結果、WEMでの業務を終えたとき、その3年間で北海道を訪れた回数は数えきれないほどとなったが、訪れた場所もほぼ全道となり、行ったことがない地はダム湖がない稚内方面だけになった。
一番多く訪れたのは、道南にある二風谷ダムというところだ。2018年9月に発生した北海道胆振東部地震があった鵡川町に近い。ここを流れる鵡川のすぐ東隣を流れる沙流川に作られたダムで、このころ竣工したばかりだった。
最新式のダムということで、魚道はもちろん整備されていたが、はたして本当に効果があるのか?というところが疑問視されていた。そこで、その実態を調査するため、魚道に網をかけて魚を捕獲し、実際のどのくらいの魚が遡っているのかを確認するといったことをやった。
しかし、これとは別に、このダムではある特殊な実験をここでやることになっており、これを監督するのが私の役目だった。それは、ダム湖に下ってきたサケの稚魚を、魚道まで光で誘導するという、変わった実験だった。
サケは秋になって上流で産卵し、翌年の春に孵化して、川を下って海に向かう。しかしその途中に立ちはだかる大きな試練が「ダム湖」である。
早い流れに乗って上流から下ってきたサケの稚魚は、このダム湖に至ると、急に流れがなくなることから、その行く先を見失う。広いダム湖を彷徨ったあげく、ようやくダムまで到達したとしても、さらにそこを越えるのが難しい。下流に至るためには、ダムからの放水の中に飛び込むか、あるいは発電用の取水口に入るかのふたつしかない。
ところが、落差のあるダムでは、放水口から飛び出た稚魚はダム下の川にたたきつけられて大半が死んでしまう。また、発電用取水口から入った稚魚も、発電用タービンをくぐりぬける間にズタズタに切り刻まれてしまい、ほとんどが生き残らない。
無事に下流にたどり着くための唯一の道は魚道である。しかし、ダム湖は広く、その入り口の流れも微弱であるため、なかなか魚道にたどり着けない。一歩間違えば放流口か発電用取水口に迷い込んでしまうのだ。
そこで、ダム湖の上流から魚道まで、「光の道」を作ってやり、それに沿ってサケの稚魚が魚道までたどり着けるよう、誘導してやろう、というアイデアが生まれた。
多くの生物は光に対して敏感に反応する。サケの稚魚もまた、光に強く反応するということが水産試験場で確認されており、私は当初からそうした室内実験にも関わっていた。
WEMに入所した最初の年、まずそうした室内での実験から準備を始め、サケの稚魚が光に反応することを確認した。2年目からは、実際にダム湖上に防水加工したランプを敷き並べ、稚魚を誘導するという実験を行い始めた。その後も実験を重ね、やがて3年目に入ろうとするころには稚魚の多くを魚道に誘導できるようになった。
こうした一連の結果はのちには論文にもとりまとめ、科学雑誌にも発表され、反響を呼んだ。しかし残念ながら、実は、このようにサケが下る途中にダム湖が存在するという場所はそれほど多くはない。機材コストの関係もあり、こうしたことからこの装置はまだ全国的には広がっていないようだ。が、いずれはこうした成果が日の目を見る機会もあるだろう。
この実験のために、それこそ何十回も東京と北海道を往復することとなったが、このとき、ここで一緒に仕事をよくしたのが内水面開発公社という社団法人の人たちで、この光実験のほかにも道内の特殊な魚類調査を一手に引き受けていた。
道内各地の調査でよくご一緒したが、仕事が終わると、たいてい酒宴になった。委員会のメンバーとしても出席してもらっていたため、委員会の後の酒席でもまた飲んだ。それやこれやで長い付き合いとなり、30年近く経ち、北海道と疎遠になった現在でも年賀状のやり取りをしている面々がいる。
WEM在籍中はこの北海道だけでなく、岐阜の長良川水系や琵琶湖水系、奈良の吉野川水系、鹿児島の球磨川水系などでも仕事をした。必ずしも魚がらみとばかりは限らず、ダム湖に発生する淡水赤潮の原因を探る、といった仕事もした。
難しい仕事も多かったが、充実した3年間だった。自分の能力を最大限に発揮した時期ともいえ、それもやはり私の魂の成長のためには必要なことだったろう。
この3年の間の奉仕には、それなりのご褒美もついた。ここに勤める企業からの出向者は、二年目になるとどこか海外へ「視察旅行」に行かせてもらうことができた。各人が各年いろんなところへ派遣されていたが、私も二年目を迎えたときに好きなところへ行かせてやる、と言われた。
そこで、スペインに行きたい、と言ったら本当に実現した。もっともスペイン内のダム湖の環境整備に関する実情を調査してくる、という出張だったから、行先としては山奥が多かった。しかし、ある程度は自分たちが行きたい場所近くの水源地を選ぶことができる。
このため、このスペイン出張では、ダム現場の視察が終わるたびに、近くの観光地を訪れた。休みの日もあり、そうした日は一日観光ができたから自由旅行に近い感覚で彼の地を満喫した。
マドリード、グラナダ、マラガ、バルセロナ、といった主要都市を2週間ほどもかけて旅して回った。初めて行く国であり、行ったこともない町ばかりだったが、何故かどこを歩いても違和感がない。とくにバルセロナでは、あちこちで明らかな既視感があり、あぁここへ来たことがある、見たことがある、ということの繰り返しだったのには驚いた。
とくにバルセロナオリンピックのマラソン競技のゴールに近いところにあるモンジュイックの丘と呼ばれるあたりでとくに強い感じを覚え、さらにその坂の下では、そこから見える港の風景を見て、思わず立ち尽くした。おそらく前世での思い出の場所なのだろう。かつての人生で見たビジョンのひとつに違いなかった。
モンジュイックの丘以外でもそうした体験があり、グラナダを訪れた時にも何度かデジャブを見た。ここにあるアルハンブラ宮殿の造形は素晴らしく、いまもって夢に出てくるほどその光景に心打たれた。その見学のあと、城の外の町を歩いたのだが、その際も、あちこちで見たことのあるような光景に出くわした。
このように、このスペイン旅行は、思いもかけず自分の過去生を思い出させてくれる旅でもあったが、そのすべてが素晴らしく、かつて訪れたアメリカよりもはるかに強い印象を受けた。
ちなみに、WEM3年目にも視察旅行に行かせてもらったが、その行先はアメリカだった。かつて住んでいたフロリダをはじめ、東西海岸にあるダム湖の魚道施設を見学して回ったが、先のスペインの時ほど強い感覚は覚えなかった。アメリカでの前世はない、ということなのだろうか。
このWEMからの卒業にあたり、論文ならぬ本の執筆も任された。「最新水産土木設計」というそれまでの3年間に経験してきたことをそこに凝縮する内容だ。
もっとも、私一人の執筆ではなく、北海道でお世話になった先生方も含めての共同執筆作業だ。私はその編集者という立場であったが、自ら書いた部分も多く、出来上がった本には無論、執筆者として私の名前も記載された。
こうして、数々の記憶に残る仕事や、国内外のいろんなところへの旅を提供してくれたWEMの3年間は終わった。
ふたたび日本橋の本社に通勤するようになったが、このときの配属先は、以前の都市計画部門ではなく、「環境調査部」という部署だった。かつて環境計画部といわれて一つだった部署は、都市計画部と環境調査部の二つに分かれており、そのひとつに帰属することになった。
出向から帰ってきたとき、どちらを選択してもよかった。無論、以前の上司からは都市計画部に戻ってくるよう促されたが、平々凡々とした公園設計の仕事に戻るつもりはなかった。WEMでやってきたことを生かし、これからは環境部門で身を立てていこうと考えていたからだ。
こうして、出向から本社へ帰った私は環境調査部で仕事を始めた。ところが、実はそこからが大変だった。
この当時、「環境アセスメント」という事業が一般化されようとしていた。何か公共事業を行おうとするとき、例えばダムや道路を作ろうとすると、そこにある自然環境を痛め、破壊すらしてしまう可能性が生じる。
このためその公共事業によって引き起こされる影響がどの程度のものであるかを調査することが法律で求められるようになってきており、その調査のことをアセスメントという。
しかし新しい概念であることから、一体どういった調査をやるのか、という疑念が当然生じる。欧米では既にこうした調査を当たり前にやる風習が定着しているが、日本ではこれまでそういうことをやってこなかった。このため、仕事を発注する役所側もさることながら、受ける側の民間も参考にする基準がほとんどない。
また、公共事業といってもいろいろある。ダムや道路だけでなく、海岸堤防の建設もあれば、新たに橋をかけるといった事業もあり、それぞれの事業毎に行う環境調査の種類や内容も千差満別である。そこで、それぞれの事業毎の環境調査についての標準化手法を作ろうという話になり、それを一手に引き受けたのが古巣のWEMであった。
わが社環境調査部はそのWEMのお手伝いをする、ということで業務を受けるところとなり、かつてそこの職員であった私にその窓口をやれ、という社命が下った。
ところが単に窓口のつもりが、この「お手伝い」に関してもお前が手を動かしてやれ、と来た。その内容も、単に資料整理をするわけではなく、様々な過去の事例を調べて、その結果を取りまとめる必要がある。
それを参考にしながらアセスメントを実施するための調査方法を確立するという手順となるが、誰もそんなことをやったことがないだけに、かなり難しい内容になることは容易に想像できた。
高度な専門技術に係る内容だけに、我々の判断だけではできない。ある種の国の基準を作るわけであるから、名のある先生方を集い、委員会形式でマニュアルを作る必要があり、そうした委員会を運営するの事務局的な仕事もやらなければならなかった。
しかも委員会はひとつだけでなく、各種の事業毎に立ち上げなくてはならない。ダム事業、河川事業、道路事業といった具合に小分けされたマニュアルを完成させなくてはならず、その数だけ委員会を立ち上げる必要がある。
もっともWEMは河川局の外郭団体だったから、河川に関する事業だけのマニュアルを作ればよかった。それでもダム、堰、堤防などの複数のものを作る必要がある。また、アセスメント調査する内容も動物、植物、生態系、水質、景観といったふうに分化されており、それぞれの専門家の意見を聞きながら作業を進めていかなくてはならない。
かくして、膨大な量の資料を集め、それを整理したうえで委員会にかける資料の原案を作り、専門家の意見を聞きながら修正していくという気の遠くなるような作業が始まった。毎晩遅くまで資料を作り、翌日は委員会を起こしては審議を行い、また修正して諮るということが何度も繰り返された。
寝る時間はなんとか確保するよう努めたが、通勤時間の長い私にとっては苦行そのものであり、ほとほと疲れはてた。まるでエンドレスかと思われるほどこの仕事が続いたが、WEMから本社に戻って2年目が終わろうとするころ、ようやくその収束をみた。
今振り返るに、この一時期は、苦しい時間の連続ではあったが、それなりに得るものは多かった。異国の地であるハワイで経験したことほどではなかったにせよ、それまで経験したこともなかったような仕事をやり、その進め方についても多くを学んだ。
また、環境アセスメントに関する指針という、先駆性のあるものを仕上げることができた。そのための一助を自分がなした、という満足感がある。辛く厳しい時間を過ごしたが、その分、社会人としても大きく成長し、「一皮むけた」気がした。
それにしても、私はこの時すでに40になっており、20代、30代のようにバリバリと仕事し、何夜でも徹夜ができる、というほどの体力はなくなってきていた。
そのためか、このアセスメントの指針作成を通じての疲れはひどく、そのことを同僚も知っていたし、会社もそのあたりの事情はわかっていたのだろう。この仕事が終わってからは、通常の調査業務の監督管理者などを務めるよう、命じてきた。調査業務というのは、主には動植物・生態系の現地調査だ。
実際の現場業務にはときたま顔を出し、調査結果をまとめた中間報告や最終報告の際には、担当職員である若手に同行して打合せに出る、といったルーチンワークになる。年度末には管理技術者として検査に立ち会う、といった内容であり、アセスメントをやっていたころに比べれば委員会も少なく、うんと楽な仕事だった。
このころ、所属していた環境調査部が、さいたま新都心に移転する、という話が持ち上がった。建設省の関東地方建設局や水資源公団などがここへ移転することを決定しており、わが社としてもここへ拠点を移すことで彼らとのコンタクトが密接になる。これにより一層の受注増を目指したい、という思惑があった。
さいたまへの通勤時間は、それまでの日本橋と同じくやはり2時間程度であり、また行き帰りの電車もほぼ座って通勤できたから、辞令が下りたときも、会社に文句は言わなかった。さいたまのオフィスはできたばかりで、新しい環境の中で仕事ができるというのも、好印象だった。
アセスメント業務をこなしたということで、ある程度の評価も得たのか、このころ私は課長に昇格した。部下7~8人ほどをあてがわれ、いっぱしの「島」を築いた。ただそれだけでは飽き足らず、新たなメンバーを他社から引き抜いてきては自分の部下に加える、といった荒っぽいこともやった。
このため、内外からはやり手の課長という目でみられていたかもしれない。さいたま新都心の移転に際しても、引越し担当として抜擢され、準備からすべてを取り仕切った。机のレイアウトや備品の購入といったことまで関わり、自分の好みに近い環境をつくりあげた。
このころ、同じ部内で上にいた直属の上司は、部長と次長だけであり、私の立場はそれに次ぐナンバー3だった。いずれは次長、部長にと会社も考えていただろう。
しかし、もともと人の上に立つような器ではない、とかねがね思っていた。高校・大学を通して責任ある立場に据えられそうになるたびに逃げていたことは前にも書いた。そもそも人に何かを命じるくらいなら、自分で手を動かしていたほうがいい、というタイプだ。だから本当は自分自身にしかできない仕事の世界を追求したかった。
しかも、毎日繰り返される動植物調査はもとより自分の専門のものではない。部下が成果をあげてくれば褒めてはやるものの、専門でないだけにどこか上っ面の評価にならざるを得ない。やがて、このままでいいのか、という疑念が生じるようになった。
かつてWEMで担っていたような企画的な仕事をもっとしたかったが、このころのこの会社にそうしたポジションはない。いや、あったのかもしれないが、会社が既定していた路線は、私をいずれは今いる部門の責任者にということであり、自由な道を選ぶ余地はなかった。
つまりこの会社にいる限りは、自分で自分の場所をみつけられない、ということか、とついに悟った。そう考えると、いてもたってもいられなくなった。今何かを新しくはじめなければ一生後悔する、という気持ちが、やがて少しずつ確信に変わっていった。
このころ、今の仕事とは別に興味を持ってみていることがひとつあった。それは建築の世界だった。土木と双璧をなすこのカテゴリーは、ともに建設ということばでひとくくりにできるが、その内容は全く異なっている。
なかでも「セルフビルド」という分野があることを知った。自分で材料を探してきて、自らの手で家を建てる、という方式で、個人による原材料の入手が比較的簡単な欧米では広く行われている。
しかし、日本においてはいわゆるメーカーハウスが主流であり、これに加えて中小の工務店や建築事務所があって、彼らがほぼ100%に近いシェアで住宅を建設していた。
このため建築資材の自由化が行われず、個人がこれを入手することが困難な時代が長く続いてきた。ところが、近年になって大手のホームセンターがこうした資材を扱うようになった。こうした店では、基礎から屋根に至るまで、すべて自分で建築するための資材の入手が可能だ。
書店などでもそうした類のハウトゥーものをよく見かけるようになってきており、日本においてもセルフビルド普及の機運が高まって来ている、と考えた。実際にそうしたトレンドができつつあった。
おそらく数年後には、自分で自分の家を建てるという人がさらに増え、そうしたことが流行するに違いない、と考えた私は、残る一生をこれに賭けてみようと思った。
今思えば無謀だったかもしれないが、このときは十分に勝算がある、と考えていた。結論から言えば、のちにこの事業は失敗し、大きな痛手を負って手を引くことになるのだが、コンセプトそのものは優れていた、と今でも思っている。
2002年6月、私は長年お世話になった会社を退職し、独立した。
無論、事前に家内に話したうえでの独立だったが、私が言い始めたら聞かないことを知っていた彼女はほとんど反論しなかった。ただ本当にそんなことで食べていけるのかどうか、疑念に思っていたに違いない。のちに彼女が日記替わりにつけていた手帳を見返したところ、そこには肯定的なことは何ひとつ書かれていなかった。
退職してまず最初にやろうと思ったことは、本を書くことだった。セルフビルドに関してそれまでに集めた書籍や資料は相当な数に上っており、それをネタにHow toものを書こうと考えた。売れれば印税は入ってくるし、宣伝にもなる。
一軒の家を素人がすべて一人で建てるとしてどれぐらい時間がかかるか、どの程度費用がかかるか、どんな材料や道具が必要か、といったことを具体的に書き出す。またただ単にそうした情報を提供するだけでなく、具体的なモデルハウスを取り上げ、その作り方を紹介する、という内容にしようと考えた。
本が売れればモデルハウスが売れる。売れればまた本も売れるだろう、ということで相乗効果を狙ったわけだ。このコンセプトを受け入れてくれる出版社を探したところ、かねてWEMに出入りしていた大手の出版社が手をあげてくれた。
土木に関する出版物で有名な会社でかなり名の通った老舗だ。ここなら大丈夫ということで、契約を結び、3000部ほどの売り上げを会社が保証する形で前金が出た。
執筆料をその前金としてもらい、その部数以上売れればさらに印税が入ってくるという仕組みで悪い契約ではない。前金は大した額ではなかったが、いいものを書いて売れればさらに儲かるわけで俄然意欲がわいた。
ここまでの考え方は間違っていなかったと思う。しかしその先がいけなかった。まず、執筆に時間がかかりすぎた。集めた資料は必要十分だったが、逆に多すぎて整理するのに時間がかかった。また、文章に添える挿絵をこの会社が用意してくれると思いきや、全部自分で用意してくれという。
確かに契約書には挿絵まで会社が準備するとは書いていない。しかたがないので、そのころ少し習い始めていたCADを本格的に使えるよう自習し、そのためにさらに時間がかかった。結局半年程度で仕上げるはずだった執筆活動は、予定を超えて半分も終わらず、新しい年を迎えてもまだ残り3分の1が書ききれていない状態だった。
もともとやり始めたら凝るタイプなので、とことん中身を追求する。さらに時間をかけているうちに、用意していた自己資金が次々と生活費に消えて行った。
さらに著書の中に盛り込むモデルハウスのデザインに恵まれなかった。その設計は、知り合いの一級建築士さんに頼んだのだが、出来上がってきたデザインはどうみても平々凡々としている。これを建ててみたい、というような意匠を求めていたのだが、そこは完全に空振りに終わった。
のちにこうしたデザインは自分でも手掛けるようになるのだが、このころは執筆作業とCADの習得に時間を奪われ、そこまでの余裕がなかった。すべてをひとりでやる、ということのマイナス面がここで顕著に表れてきた。
もっとも、執筆業だけで食べていくつもりはなかった。前年の暮れまでに一応会社化し、建築業を営む企業としてスタートしていた。セルフビルドのための資材を提供する会社ということで、手間暇かけてホームページも作り、会員を集めた。
会員になってくれれば、セルフビルドのアイデアはタダで提供する。実際に作業にかかるときには資材を格安で提供する、というコンセプトだった。このサービスは評判となり、一時期には500人以上の会員を得た。
実際の現場にお呼びがかかるなどの案件も数件あり、何世帯かに資材が売れはじめた。しかし、家一軒をまかなうなどの大きな契約はなく、事業が順調に推移するためにはまだまだ時間がかかりそうだった。
この年の暮れ、いつものように家族3人で山口に帰省した。が、今年は途中、どこかで連泊していこうか、という私の提案で、行ったことのない知多半島に一泊することにした。その翌日、岐阜の養老別天地というテーマパーク寄った。あいにく雨の日で、外で遊ぶには適さなかったが、せっかく連れてきたのだから、と息子を連れ出した。
ところが、どこが具合が悪いのか、片方の足を引きずって歩いている。足をひねったか何かなのだろうか、よくわからなかったが、たいしたことはないと思い、さらに連れ歩いていたところ、これを見ていた家内が、なぜか急に怒り出した。
めったに怒ったことのない彼女が、「足が痛いっていってるでしょう!」と声を荒げて私を責めるのだ。いったい何が起こったのだろう、と一瞬戸惑ったが、売り言葉に買い言葉で私も反論した。ただ単に遊ばせてやろうと思っただけだ!といったことを声を荒げて言ったと思うが、後にも先にもこれほど大ゲンカをしたことがないほどの口論になった。
その日は夜までお互いに口を利かないほど冷たい空気が流れた。しかし、翌日は彼女も機嫌を取り戻し、次の目的地である倉敷のチボリ公園、牛窓などの観光地を経ていつものように山口入りをした。しかし、年末年始となぜか彼女が落ち込んでいるように見えるのが気になった。あとになって思えばもうこのころから何かの異変があったのかもしれない。
新しい年が明けた。
その後、私の著書の執筆はかなり進み、春を待たずに出版はできそうになった。
ただ、住宅事業のほうは相変わらず低調で、なかなか資材は売れない。実際に自分で家を建てるという段階まで進んだ顧客はわずかだった。一軒分の資材が売れれば実入りは大きいのだが、そうした大型物件に漕ぎつけることがなかなかできなかった。
なぜだったかな、と今もう一度考えてみるが、セルフビルドをやる人達というのはもともとお金のないひとたちだ。企業と契約すればその手数料を取られる、という心配は当然するはずで、実際、契約後には10~20%程度の手数料をもらうことになっていた。
手数料を下げればもっと顧客は増えるかもしれないと思い、実際試しに下げてはみたものの、やはり結果は同じだった。つまりは金だけではない、何かがある。おそらくは動機づけだろうが、それが何であるかが、ついにはわからなかった。
本は完成しない、契約もなかなか成立しないまま、会社設立から半年以上が過ぎ、季節はもう夏になろうとしていた。結局起業後に契約をできた大型物件は、わずか1件にすぎず、これではとてもやっていけない。それでもホームページの会員は増える一方だったし、そのころ著書はようやく出版にこぎつけていた。
本が売れれば印税も入ってくることだし、宣伝にもなる。もう少し頑張ればなんとかなるかもしれない、と思った。しかし、新たな手は打たなかった。というか、打てなかった。
この年は妙に雨の多い年だった。夏になるころから連日雨が降り、湿気の嫌いな私はかつて暮らしたフロリダのことを思い出して嫌な気分になった。
夏休みになったので、いつものように家族で山口に帰ろうと、今年はいつにしようか、と家内に話しかけたところ、今年は私は行かない、という。えっ、どうしてなの、楽しみにしていたのに、と重ねて問いかけると、うつむきながら、ちょっと調子が悪いので、病院に行ってきたいという返事が返ってきた。
どこが悪いのかと聞くと、はっきりとした症状は言わない。おなかを押さえてさする仕草をするから、どうも腹部に異常があるらしい。あっ、そういうことか、女性特有のあの症状ね、と私がそう受け取ったのも無理はない。
以前より、彼女は生理になるとおなかが痛い、といって数日伏せってしまう、ということがよくあり、今回もそうなのだと思った。ただ、いつもより少し症状が重いのかな、とも思い、それほど心配しなかった。
なので、時間が経てば直るよ、今年も行こうよ、とその後も同行を促したが、やはり今回はやめておく、という。無理強いはよくないし、もしかしたら昨年末の旅行のことが尾を引いているのかもしれない、とも思い、さらにはたまには一人でいたいのかもしれない、と考えた。
私自身、一人でいることを好むタイプだったから、それなら、ということでそれ以上誘うことはしなかった。
7月下旬、初めて息子とふたりだけで帰省したが、彼女がいない夏休みはなんとなく物足りなかった。仕事もうまくいっていなかったし、いつもなら身近に楽しめる山口の海と山がなにやら遠いものに思えた。
10日ほどの滞在を終えたが、その間、電話して彼女から聞いたその内容が気になった。病院で精密検査を受けたら何やら異変がみつかったという。検査結果が出ないのではっきりしたことはまだわからないが、私が帰るころまでには出るとのことだった。
一方では、いつ見ても健康そうな彼女が重病にかかるはずはない。まだ30代の彼女がかかる病気なんて知れている、きっと軽いものに違いない、といった根拠のない想像ばかりをしていた。
今思うとこのときの自分のバカさ加減に本当にあきれてしまう。
きっと大丈夫さ、と思いつつもその一方で東京へ帰る気持ちは焦っていた。途中の中央高速では、知らず知らずスピードも出ていたのだろう。
5~6台が走行車線をだらだらと走っているのを、邪魔だなーと思いながら一気に抜かしたところ、しばらくたったあと、後方からサイレンが聞こえた。ハッと気が付いてバックミラー越しに見たら、白いセダンが追いついてきていた。
あっ、やっちゃったかな、と思ったがもうすでに時遅しだ。その覆面パトカーに次のサービスエリアまで誘導され、20kmのオーバーで切符を切られた。スピード違反といえばかれこれもう10年近くも経験していなかっただけに、ショックだった。
すぐ後ろのシートに座ってゲームをやっている息子には笑顔を向け、たまにはこういうこともあるさ、と強がりを言った。このころ小学校4年になっていた彼は苦笑いでそれに答えたが、はたしてこの状況をどこまで理解していただろうか。
このころちょうど夏の甲子園大会が開催されていた。運転中聞いていたそのラジオ放送でアナウンサーは、今大会屈指の投手のことばかりを話していた。相手チームのバッターに対して剛速球を投げ、次々と三振の山を築いているその選手の名前は変わっていた。ダルビッシュ。後年、大リーグに行くこの大物の名を聞いたのはその時が初めてだった。
いつもは15~6時間もかけて帰るところを、このときは12時間あまりで八王子に着いた。着くと同時に慌てて荷物を下ろし、玄関から入るとすぐそこに彼女が立って待っていた。いつもと変わらない様子で、ほっとしたが、車の荷物をすべておろして、ようやく落ちつくと、山口でできごとなどをかいつまんで話した。
だけど、と続けて帰りのスピード違反のことなども彼女に話すと、そう、大変だったのねーと言いながら、今度は自分からぽつぽつと病院での結果のことを話し出した。
実は…という。「おなかの中にわりィやつがいるらしくってねー」続いて彼女の口から出てきた言葉を聞いた瞬間、凍り付いた。まさか。
さらに彼女に問い質した。すると、まだそうとは決まったわけではなく、再度検査をしてみて、そのうえでさらに詳しいことをご相談しましょうと言われた、という答えが返ってきた。
「ご相談しましょう」というところが問題であることは明らかだった。何をどうご相談するのか、このさきどうなるのか、といったところを教えてほしかったが、彼女もまたそれに対するはっきりした答えを持っているわけがない。
できるだけ冷静を装いながら、そうか、そんな大変なことだったのか、一人にしてスマン、と素直に詫びた。彼女はそれに対して笑いながら、いいのよ、あなたたちがいない間、ひさびさにひとりでのんびりできたんだから、と本気とも嘘とも思えるようなことを言う。
嘘にきまっている。夜な夜な不安だったに違いない。一人どんなに寂しかっただろう、せつなかっただろう。そんなことも思いやってやることもできず、自分たちだけで旅行に出かけたことが情けなく、どうしようもなくふがいない自分を責めた。
その日は長い運転で疲れたこともあり、早めに休んだ。が、アルコールなしでは眠ることはできなかった。半分眠りかけながら、すぐ横に寝ている彼女を気にかけつつまた目が覚める。これから先どうなるのだろう、と思いつつも、いつのまにか睡魔に負けていた。
翌朝、少し頭も体もすっきりしたあと、彼女からこれまでのもう少し詳しい経緯を聞いた。それによれば、すでにわれわれが山口に立つ前から異常を感じていたらしい。いつになく咳が出るので、風邪にしては変だな、といつもは息子を連れて行く、かかりつけの内科へ自らの診察のために出かけた。
検査結果が出た。異常を感じたその医師はその場で、ここではこれ以上の詳しい事はわからないから、すぐに医療センターへ行きなさい、連絡しておくから、と彼女に告げた。
医療センターというのは、我々が居を構えているところから比較的近いところにある。南に向かって坂を上っていった先にある病院で、首都医療大学の附属病院だった。八王子の中では最も規模が大きく、我が家からは歩いていっても30分ほどで着く。
行きつけの病院から紹介状をもらって行った先は、産婦人科だった。そこでより詳しい病理検査を受けることになった。最初の検査結果から、それは陽性であることがわかり、それすなわちおそれていたものであること意味した。癌である。
彼女が「わりィやつ」と表現したものの正体がそれであった。次に彼女が受けてください、と言われた検査はそれがどの程度進行しているのか、今後どういった治療をすべきなのかの判断材料を得るためのものと推察された。
数日後、予定した時間に彼女は検査を受け、後日その結果をお知らせしますから、またいらしてください、と言われた、というところまでがここまで彼女が話してくれた経過だった。
首都医療大学付属病院・片倉医療センターというのがこの病院の正式な名前だ。八王子には都内に本部を持つ有名私立大学も多く、おそらくこの別院も、渋谷にあるその本校から研修医を派遣する教育機関的な意味合いもあって建設されたものだろう。
とはいえ、八王子では最高レベルの医療が受けられる病院として知られており、医療設備としても高度なものが揃っている。町のかかりつけ医ではできない検査や治療を受けるために連日多くの患者が押し寄せていた。地域医療の切り札的な存在だ。
二人でこの医療センターを訪れる日が来た。この日も平日であったにもかかわらず、多くの患者で溢れており、我々が待つ産婦人科の待合室もほぼ満席だった。9月も中ごろのことで、残暑が続く時期だがその日はかなり涼しかった。朝だったせいもあり、窓から入る日差しがむしろ心地よいくらいだ。
二人横に並んで座り、まるで若かったころのようにぴったりとくっついて座った。そしてお互いの体温を肌で感じながら長い時間を待った。去年の暮れ、大ゲンカしたことが嘘のようだった。強いきずなによって結ばれていることを改めて感じた。
しかしふと思った。病魔という、普段ならけっしてそばにいてほしくないものがその間を取り持っているのではないか。艱難辛苦は、時として人と人を結びつける。その関係をより一層堅固なものにする接着剤として作用するものなのかもしれない。
担当医に呼ばれ、診察室に入ると、検査結果について説明された。子宮頸がんという診断だった。子宮奥、産道に入る手前のくびれた部分に発する癌で、子宮がんに分類されるが、日本人女性が発する癌の中では最も発症率が高い。
後年、そのためのワクチンが開発されて、広く使用が勧められたが、副作用があることが報告され、現在ではその積極的な使用が控えられている。無論このころには望もうにもそんなワクチンはない。また、もしあったとしても間に合わなかっただろう。
続けてその医師が言うには、ステージ2か3の段階であり、摘出施術をすれば生存率は高いという。
初めて「生存率」という言葉を聞き、あらためて重篤な病気なのだという事実に愕然とした。彼女のほうをちらりと見たが、私と違って特段動揺しているふうもなく、ふだんと同じ冷静そのものの横顔がそこにあった。
結論としては、できるだけ早く手術をしましょう、ということになったが、その話に至るまでも彼女の反応はいたって普通で、本当はものすごいショックを受けているのではないかと逆に不安になった。
しかしそのあと家に帰ったあとも、「大丈夫、私元気になるから」という。その気丈な言葉を聞いて、落ち込みそうになっていた私のほうが逆に元気づけられた。あらためてわが妻ながらたいしたものだと見直した。
医療センターでは、手術による患部の摘出が最善の方法だと告げられた。しかし、私としてはほかに手段はないのか、と必死になって色々調べた。このころ、我が家でも小さいパソコンを購入しており、ネットでいろいろ検索できるシステムを手にしていた。
すると、温熱療法という新しい治療法があることがわかった。そして後日、関東地方で唯一その治療設備を持っているという多摩市にある病院を彼女を連れて訪れた。しかし、運悪く機械が故障しているといわれ、その治療方法はあきらめた。
ほかに、アガリクスやプロポリスといった天然自然食品を用いた免疫療法などのことも知り、そうした薬品も求めて彼女に与えてみた。しかしこうした薬品は高価だ。大量に購入して与えることができず、そのためもあってか、やはり急激な効果は認められなかった。
このほかにも四方八方ありとあらゆる可能性を探ったが、何も見つからず、最後にはやはり手術しかないのか、とあきらめざるを得なかった。
10月に入った。秋は深まりつつある。家のすぐ前の小道にある、例の自慢の八重桜を横目で見ながら病院に行く。その桜の葉っぱも、ついこのあいだまで青々としていたのに、既に枯れ始めていた。
実はこれより1年ほど前、そのうちの一本が突然何の前触れもなく倒れた。台風が来ていたわけでもなく、おそらく根腐れでもしたのだろうが、これにより我が家自慢の桜並木が歯抜けの状態になった。何か悪いことでも起きなければいいな、と思っていた矢先のことだったから、思わず彼女との関連を疑ってしまった。
前日の検査入院のあと、手術が行われた。午後からのオペだったが、当初は1時間か、1時間半くらいで終わるだろう、と聞かされていた。ところが、2時間経っても、それから30分経っても、一向に手術室の扉は開かない。
ようやく3時間近くも経ったころになって、看護婦が出てきた。今手術が終わりました、もうすぐ先生からの説明がありますから、ここでお待ちください、と言う。
このとき一緒にいてくれたのは、元看護婦だった義母であり、ふたり顔を見合わせて、言われたままそこに立って待った。しばらくして手術着のままの執刀医がやってきて、大変お待たせしましたと挨拶をしてくれた。
お世話になっております、とこちらが返すと、早速ですが、と手術の結果について話し出した。それによると、思ったより癌細胞と正常な臓器との癒着がひどかったらしい。それをはがすために相当時間がかかったとのことで、そして当初ステージ2という診断だったが、開腹して状況を見た結果、自分の判断としてはステージ4と考えている、という。
さらに、手元から金属の器を取り出し、摘出したばかり彼女の体の一部を見せてくれたが、血だらけのそれを見た瞬間、いきなりふっと気を失い、足元から崩れ落ちそうになった。
バランスを失いながらも意識はあり、なんとか持ち直したが、顔面は蒼白で、額に汗が噴き出てきた。倒れそうになっている私の横で、義母が医師に向かって何かを言っているようだがほとんど何も聞きとれない。
しばらくしてようやく気を取り戻し、二人が何を話しているかが少し耳に入ってきた。気を失いそうになっていたことは気取られないようにして、その会話に加わった。
しかし、頭の中は真っ白で、半分も理解していなかった。どうやらこのあとの治療法について話をしているようだったが頭に入ってこない。あとで義母に確認したところでは、経過をみて状態がよいようならば放射線治療に入りましょう、でもそれまでには傷が治る必要があり、時間がかかります、といったことらしかった。
ちなみに義母は私が失神しそうになったことがわかっていたらしく、よく持ちこたえてくれましたね、と後で正直に言ってくれた。数多くの修羅場をかいくぐってきた看護婦ならではであり、今後のことも考えると心強く感じた。
手術した彼女が退院して我が家に帰宅したのは、それから3週間ほども経ってからのことだ。11月に入り、季節はもう冬に入りかけていた。
このころから、治療の次の段階として放射線療法に入ることになった。しかし、医療センターは、これほど大きな規模を持つ病院なのにその治療室がないのだという。しかたなく、渋谷にある医療大学本校の治療ラボに通うことになった。
片道、車で2時間以上かかる行程は、手術してすぐの彼女にとって負担に違いなかったが、進みゆく病魔の進行を止めるにはそんなことは言っていられない。1週間に1度ほどのペースで、4回ほど出かけて行った。最後の回が終わると、それ以上は患者の負担になるため、やめておいたほうがいい、と主治医から言われた。
放射線治療の効果があったのか、その年の暮れまでの間、彼女の容態は安定していた。年末になり、久々に実家でゆっくりしたい、と彼女が言うので、それなら、と彼女の両親に任せることにし、こんな時に、と思いながらも息子と私は夏に引き続いて山口に帰省することにした。
気晴らしの意味もあったが、このころ私は一人で家事をやるのも面倒なほど精神的に疲弊していた。帰省すれば、息子の面倒は自分の両親がやってくれる。山口のひなびた風情が気持ちを和らげてくれることも期待した。
しかし、東京の家内のことを考えるとどうしても気持ちが落ち込んだ。以前、彼女をひとりにして、帰省したことなども思い出される。あのときはその後の帰郷で、悪い報告を受けた。
今回も同じように何か悪いことが起きなければいいが、などと考えながらの山口行が楽しかろうはずはない。心晴れぬまま彼女のいない年末年始を終え、ふたたび八王子の我が家に帰った。
しかし幸いなことに、今回は事態に大きな変化はなかった。帰京後、彼女のほうは、正月にひさびさに両親と三人で過ごし、楽しかった、と言った。確かに11年あまりの結婚生活の間、彼女が両親と水入らずで過ごした時間というのはほとんどなかったかもしれない。
良い時を過ごしたな、と思ったが、「最後の時間」という言葉が頭に浮かびかけてきて、思わず首を振った。こうして我が家に帰ってきた彼女と私、そして息子と過ごす時間もまた残り少ないのかもしれない、と思うと泣けてきた。
その後およそ3カ月間彼女は自宅で過ごした。入退院を繰り返していた昨年後半にくらべれば落ち着いた日々だったが、病魔は確実に彼女の体を蝕んでいた。
ただ、彼女は気丈だった。「私元気になるんだから」と前と同じことばを時々口にした。リハビリ、と称して、よく散歩にも連れて行った。長距離は歩けないので、車に乗せて実家の近くの浅川まで行き、その川沿いを、ふたりでゆっくり歩いた。東京の冬の日差しは暖かい。天気の良い日も多く、この二人きりの散歩は私自身も気晴らしになった。
しかし、最初は500mほども歩けていたのが、次第に歩けなくなった。100mほど歩いて休み、また50mほど歩いて休む、というふうにだんだんと距離が短くなる。最後のほうは連れ出しても、もうほとんど歩けないほどになった。
歩けなくなったのには理由があった。手術したすぐあとの診察から、このあとだんだんと足にむくみが出てくるだろう、と言われていた。
摘出した患部を中心に水が出て、下肢にそれが溜まりやすくなるらしい。詳しいメカニズムはよくわからなかったが、だんだんとむくんでくるその足を毎朝毎晩さすってやるのが私の日課になった。
最初は一人で立ってトイレにも行けていたが、2ヵ月も経つと、歩行が困難になってきた。風呂に入るのにも母親の介助が必要となり、補助のために手すりや専用のいすなども買い付けてきて据えた。
術後に、執刀医からすべての腫瘍を取り切れなかったので、もしかしたら転移があるかもしれない、といわれたが、この段階ではそうした兆候は見られなかった。しかし、むくみはさらにひどくなる一方で、3月なかばになってから、担当医から、そろそろ再入院を考えましょうか、と言われた。
春まだ浅いころの朝、彼女は住み慣れた我が家を後にして、再び入院した。家を離れることに彼女自身とくに感慨はなさそうにみえたが、平静を装っていたかもしれない。むしろ私のほうがセンチになっていた。おそらくここへはもう帰ってこれないだろう…
4月。病院に行く途中の沿道には桜が咲いているはずだったが、この年はそれを見た記憶がない。
ある晩、急に彼女が倒れたという連絡があった。慌てて病院にかけつけると、彼女自身はそのことを覚えていないらしく、ベッドに寝たままぼんやり天井を見ていた。その目のまわりには、転んだときに作ったらしい、黒いあざがあった。翌日、CTスキャンの結果から、ついに恐れていたことが起こったことがわかった。癌はついに脳に転移していた。
転倒したのは、おそらく脳へ腫瘍が転移したことによる何等かの機能障害だろう、と主治医が教えてくれた。
それは、残された時間がいよいよ少なくなったことを意味していた。はたしてそれを息子に伝えるべきかどうか迷った。
このころ、病院のカウンセラーの女性が私に話しかけてきた。こういうときにいろいろご相談に預かるものです、という。話の内容は、残る時間が少ない時こそ、息子さんに事実を話し、お母さんとの間に記憶に残るものを作ってあげる方が良いのではないか、という提案だった。
それは考えないではなかった。しかし、息子はまだ小学5年生だ。それを伝えることによる衝撃の方を心配した。情緒不安になり、何らかの障害が生じないか。元看護婦の義母にも相談したが、やはり私と同じ意見だった。最後まで黙っているしかない。
辛い日々が続いた。午前中仕事をし、午後から見舞いに行く。朝は義母が彼女をみていてくれている。昼からは私。交代交代の看病だった。午後の私の番では、2時ぐらいから2時間ほどいるのが普通だったが、息子が義母宅へ行っていることもあり、そういうときは夕方遅くまで病室にいた。
その息子の学校のことや、最近の話題、テレビ番組のことなどをひとしきり話すと後は何もしゃべることもなくなる。ただ黙って彼女のむくんだ足をさすってやる。それだけで時間が過ぎていった。
あるとき、昔撮った写真アルバムを持って行ったことがある。写真が趣味の私は、10年来、家族の写真を撮ってきた。それを貯めこんだものが、十何冊もあり、それを持っていって、日がな二人で眺める、ということがその後しばらく続いた。
あるとき、彼女がぽつりといった。「やーねー。しみじみしちゃって。」
いろんな意味が含まれていると思った。しみじみと昔を思い出したりして、二人とも年とったわねー、の意味もあるだろう。しかし、もうすぐお別れね、という意味にとれなくもない。どうしようもなく悲しかった。
最後の日が近づこうとしていたある日、息子を伴って見舞いにいった。この時もうすでに彼女はかなりやせ細っていて、手首の肉もほとんどないほどになっていた。それを見た息子が、突然、「骨じゃん」と口にした。
とたんに彼女はシーツで顔を覆い、嗚咽しはじめた。それを見た息子はバツが悪そうな顔をしていたが、悪気があって言ったわけではなかっただろう。怒る気にもならず、そっと病室から連れ出して、「かわいそうだよ」とだけ言った。
うつむいていたが、それを聞いてコクンとうなずいたようにも見えた。もとより背のあまり高くない彼だったが、いつもよりもずっと小さく見えた。自分を責めているのは痛いいほどわかった。
彼が母親を愛していたことは疑いもない。久々に顔を出して何か勇気づける言葉をかけようとし、冗談のつもりが、思わず口をついて出たのがあれだったのだろう。かわいそうだよ、ということばで軽く諫めたつもりだったが、彼こそが、かわいそうでしかたがなかった。
それから10日もたたないうちに彼女はもうしゃべれなくなっていた。見舞いに行ってとれるコミュニケーションはすでに、アイコンタクトと手ぶりだけになっていた。私が来ると、目を合わせ、少し微笑んで指先で足元を指さす。足をさすってね、の意味だ。
うなずき、以前会話ができたときと同じように、彼女をみて微笑みながら、無言で彼女の足をさする。そうした日が数日続いた。
その日、いつものように朝仕事をし、昼食を食べたあと、リビングで昼寝をしかけていた。そのとき突然電話が鳴った。あわてて飛び起きて出ると、相手は義母だった。様子がおかしいので急いできて、と言われた。
すぐに、玄関を飛び出て、階段を駆け上がり、車に飛び乗った。ところが、そんなときに限って、なぜかその先に車が止まっている。どうやら隣の家に何かの荷物を届けに来た業者のものらしかった。まわりのことなど構っていられるときではない。大音量でクラクションを数回ならすと、隣の家から持ち主らしい女性があわてて飛び出てきた。
私を見て眉をひそめたが、ただならぬ様子をみて何かを悟ったのか、あわてて車に乗りこむ。それが発進して前が空くのを待つのももどかしく、猛ダッシュで自分の車を出し、病院に向かった。
家から病院までは車なら10分程度の距離だ。しかしそれがまるで何時間にも感じられる。病院の駐車場に着いたが、そこにはゲートがあり、コインをいれなくてはならない。いらいらしながらそれをやり、病院入口に一番近いところで乗り捨てるように止めると、再び猛ダッシュで彼女の病室のある階へと駆け上った。
ナースステーションの前まできたとき、私を待っていたらしい看護婦に出会った。急いで!と言われるのかと思いきや、意外にも冷静にうなずき、病室のほうを指さす。意味かわからなかったが、ともかく扉をあけて中に入ると、そこにはもうすでに意識もなく横たわっている彼女がいた。
茫然と立ち尽くしていると、すぐにひとりの医師が看護婦を伴い病室に入ってきた。そしてまるで何かの儀式のように彼女の脈をとり、やがて私に向かっておごそかに告げた。「ご臨終です。」
おそらく、その少し前からもう既に彼女の脈はなかったのだろう。ただ、私が来るのを待ち、その時をもって彼女の死を確認したことにしてあげたい、という病院側のはからいだったに違いない。
やがて医師と看護婦は出ていき、入り口のドアが静かに閉まった。誰もいなくなった病室。そこには私と亡骸となったばかりの妻の二人しかいなかった。おずおずと彼女に近づき、顔を彼女の胸に押しつけ、泣いた。そして何度も何度も彼女の名前を呼んだ。
何度呼んでも返事がないのはわかっていた。そのとき突然こう思った。「これもまた儀式だ。いつまで泣いていてもしょうがない。」
ついで静かにたちあがり、ドアを開けて外に出た。今、やらなければならないことがある。
それは息子を迎えにいくことだった。せめて彼女の臨終にできるだけ近いところで、彼をひき合わせなければならない、なぜかそれが親としての務めだと思えた。
その時部屋の外にいた義母にどう声をかけて出て行ったのかもよく覚えていない。看護婦には息子を迎えに行ってきます、と伝えたと思う。ふらふらと出ていき、息子の学校の駐車場に車を止めたときにはもう普段の自分に戻っていた。
職員室で来訪の目的を告げ、彼の教室がどこかを教えてもらった。授業中だったらしく、中で教えていた先生に促されて外に出てきた彼。その先生は彼に何かを告げ、次いで私の顔をみて、うなづくとまた教室の中に戻っていった。
廊下に二人だけ残され後、彼に言った。「お母さん、先に逝っちゃった。」
それを聞いたととたん、彼は廊下に泣き崩れ、片手でフロアをたたき始めた。声を上げるでもなく、ただ単に叩き続ける。しばらく自由にさせたあと、立ち上がった彼の肩をそっと抱いて廊下を引き返し、校舎を出た。
病院に着き、ついさきほどまでいた病室の前まで彼を伴い歩いて行った。しかしそのとき、病院側では彼女に死化粧をしていた。手に包帯を巻き白い布で顔を覆うそれをやっている間、部屋の外で待たされ、息子はいらいらしながら廊下にある長椅子に座っていた。
そんな必要もない準備をもどかしく思っていたのだろう。終わったと聞くや否や、「ええいっ」と声を荒げ、病室に飛び込み、母親に取り付いた。そして初めて大声で泣き始めた。
「おかあさん、おかあさん、おかあさん」
何度も何度も呼び続けるその声が永遠に私の頭の中に残った。
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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。