1991年5月、私は日本に帰ってきた。
前年の1月には天皇が崩御され、年号は昭和から平成になっていた。
物事の始まりはいつもドラマチックなのだが、終わりはあっという間に幕が引かれる。ハワイで過ごした2年と10カ月の最後もやはりそうだった。一気に潮が引いてすべてが終わり、気がつくとまた荒野にいた。
卒業を前にして、このままアメリカに残ろうか、と考えないわけではなかった。なんらかのつてを探り、海の向こうで職をみつけてさらに次のステップを踏む、というのは不可能ではなかっただろう。
しかし、英語はかなり堪能になってはいたものの、異言語を使いながら、海外での生活に馴染んでいくにはまだまだ時間がかかりそうだ。大学院生として学んでいた間習得した英語は技術英語であり、実生活の中で使う英語としては不十分である。新たな職をみつけるにはそれなりの語学力が必要と思えた。
もっとも、学ぶより慣れろのことばがある通り、英語社会に身を置いていれば、いずれはネイティブと同じとはいえないまでも、かなり英語が上達することはわかっていた。英語力が不十分だというのは言い訳にすぎず、正直にいえば、新しい環境に身を置くのがこわかったのだろう。
一方では、博士課程に進む、という道もあった。しかし自分の能力を考えたとき、もうかなり限界を超えていると感じていた。修士を修了できたということだけでも驚きであり、耐えてここまでこれたことは奇跡のようにさえ思える。
このころの私は既に疲れていたということもある。フロリダ時代も加えて4年近くにもなる海外生活は、当初想像していた以上に厳しいものだった。そうした苦難の時を経てようやく卒業という切符を手に入れたあと、もう少し楽な道を選びたい、と考えたとしても誰に批判される筋合いはない。
いずれにしても、すでにスタミナを使い果たした感があり、さらに次の奇跡を起こすためにはまるでエネルギーが足りない。さすがに少し休みたかった。
思えば、私の人生はこうしたことの繰り返しだ。かつて中学校で勉学に燃え、望み通りの学校へ進学したが、その反動で高校ではつまづいた。少し休んでまた大学で燃え、就職してからはまた疲れてしまい… と、同じことを繰り返すとすれば、ここでまた休んだとしたら次は何がくるのだろう。
ともかく、徹底的に休もう、と思ったものの、留学で学資を使い果たしたあげくに残っている資金はわずかにすぎない。
かくして、今回に限っては休む間もなく次のステップを踏まざるを得なかった。日本に帰り、生活していくためには再就職するしかない。その就職先をいろいろ考えたが、かつて勤めていたWVCに戻るのも芸がない。もっと別の世界もあるのではないかといろいろ悩んだ末、せっかくなので別の会社を当ってみようか、という気になった。
そこで、少し軌道修正して大手のゼネコンなどに打診をしてみたものの、思うような返事がもらえない。考えてみればすでに30を過ぎており、フレッシュな人材が欲しいだろう活気のある会社にはなかなか就職は難しそうだ。さらに、このころはちょうどバブルが崩壊し始めたころであり、新たな仕事を見つける身には極めて厳しい時期でもあった。
それなら、ということでやはり古巣に戻ることに決めたのが7月。ハワイから帰国してわずか2カ月後のことだった。それほど早く再就職を決めたのはやはり先立つものがなかったからに他ならない。
親に生活資金の無心をし、もう少し時間をかけて落ち着く先を見つけるという手もあったかもしれない。しかし、この年齢になり、さすがにいまさら郷里に帰ってまで迷惑をかけようとは思わなかった。
このときもう少し思案をし、我慢を重ねればまた違う人生があったのかもしれない。しかし新生活のための資金は乏しく、また心が疲れていた私に余裕はなく、つい安易な方向を選んだ。
ところが、ここで下した決断がこのあと、思いもよらぬ展開をもたらすことになるのだから人生とは不思議なものである。
このころ、かつて勤めた会社は、多摩川の西岸、京王線の聖蹟桜ヶ丘の駅近くに移転していた。大学を卒業後、多感なころを過ごした神宮前の三角ビルは取り壊され、今はフィットネスクラブになっているという。たった5年ほどの間の空白なのに、それほどの変化があったか、と何やら浦島太郎になったような気分になった。
ビルの移転に伴い、会社組織にもかなりの変動があったようだ。国内部門の人々の大半は新宿の別ビルに移り、主として国際部門がこの聖蹟桜ヶ丘に建てた新社屋に移ってきていた。
実は私が渡航している間、この会社では不動産がらみで大きな損失を出しており、その関係者だった人たちの多くが会社を辞めていた。幹部の大半も入れ替わって違うメンバーが会社を切り盛りするようになっており、そうした上層部に近い部署の職員であったかつての思い人もとうに退職していた。
一方、自分が勤務していた港湾部はほぼそのまま残っていた。海外部門だけでなく国内部門とともに聖跡に移って来ており、昔懐かしいメンバーの多くもそのまま勤務している。しかし、お世話なった先輩諸氏の中には、大阪や福岡などの支社に転勤になった人もおり、最もお世話になった山崎さんもまた大阪へ移動していた。
また海外へ出張中の人も多く、知己はかつてのメンバーの3分の2ほどまでに減っている。残る3分の1は中途入社や嘱託社員として入ってきた人たち、あるいは新入社員である。
また、その昔はトレーサーやオペレーター、パート、アルバイトといった社員ではない女性スタッフが10数人ほどもいたが、彼・彼女たちも大半が入れ替わり、知っている人はわずかしかいない。
このように同じ会社に再就職したといっても、多くの人やものが入れ替わり、あるいは新しくなっていて、なにやら新しい会社に入ったような気分になった。かつては都心に住み、渋谷に通う毎日だったが、これからは郊外にある会社に通うことにもなる。
それにしても、どこに住もうかと考えたとき、さすがにもう都内には住む気にはなれなかった。逆に西のほうなら、緑も豊かだし、家賃も安いに違いない。そこで、会社のある聖蹟桜ヶ丘からほど近い、同じ京王線の八王子を中心に住み家を探し始めた。八王子駅や高尾駅が始発であり、そこから乗ればたった30分、しかも座って通勤ができる。
八王子の歴史は古い。伊豆や小田原を拠点として関東一円を納めた後北条氏の第3代目当主、北条氏康の時代に大きく発展したとされる。その氏康の四男、北条氏照が、牛頭天王の8人の王子神である「八王子権現」を祀り、ここに八王子城を築いたのがその名の起源だ。
やや時代が下がり、この城が豊臣秀吉の小田原征伐によって落城すると、この地方には徳川家康が転封された。やがて関ケ原で勝って江戸に拠点を移したが、このとき、八王子が交通の要衝であるとともに、江戸を甲州口から守るための軍事拠点とし重要だと気がついた。こうして町の整備に注力するようになっていった。
江戸時代初めごろには宿場町としての様相見せ始め、いわゆる甲州街道が整備されてからは急速に発展する。幕末の開国後、明治維新期以降は織物産業が繁栄し、江戸時代からの宿場町を中心に街はさらに発展した。
特に生糸・絹織物については市内で産するだけでなく、遠くは群馬や秩父、山梨、長野からも品を集めた。そして、国外へ輸出するため、拠点港がある横浜に運んだ。このため、その中継地としても賑わい、絹都と呼ばれるようになった。八王子から横浜へ絹を運ぶために整備した道は、現在も「絹の道」としてその一部が残っている。
その賑わいのまま、明治、大正、昭和と栄えた。しかし、太平洋戦争では八王子も空襲を受け、焼け野原になる。多くの被害を受けたが戦後の復旧は他の都市より比較的早かった。東京の復興のために、各地から物資を集める拠点として注目されたためである。
ただそれが災いして急ごしらえの都市計画のまま町がどんどんと発展した。現在でもどこへ行っても道が狭く迷路のようで、町全体が農工商ごちゃまぜで雑然とした印象がある。
とはいえ、始発電車が出る八王子駅があり、都心に勤めるサラリーマンには人気がある。このため、私も当初は八王子駅周辺に住むことを考えた。しかし、古い町並みはお世辞にもおしゃれとはいえないし、野暮ったい感じはあまり好きになれなかった。緑が少ないのも気になるところだ。
京王線は途中駅の北野から二股に分かれており、片方がこの八王子駅行の路線で、もう片方の終点が高尾山口駅である。
高尾山といえば、いまやミシュランガイドにも名を連ねる一大観光地であり、多くの外国人も訪れる人気スポットとなっている。しかしこの当時はまだ知名度はそれほどではなく、地元の子供たちが遠足に行く山と認識されている程度だった。
ちなみに、高尾山に登るには、京王線なら終点の高尾山口駅で下車する。JR中央線利用なら、中央線の高尾駅で京王線に乗り換え、一つ先の高尾山口駅で下車する。この駅から登山道を使い、1時間ほどで頂上まで行けるが、ケーブルカーとリフトが並行して用意されており、これを使えばその半分ほどの時間で頂上まで到着できる。
どうせなら、うんと田舎のほうがいい、と当初はこの高尾山口駅の周辺で下宿を探した。しかし見つからず、その一つ手前の高尾駅で再度探し始めたところ、駅から西へ歩いて10分ほどのところに手ごろなアパートをみつけた。
2階の角部屋ですぐ目の前には川が流れており、アパートの脇を中央線がガタゴトと通る。古いアパートだがトイレは付いていた。ただ風呂は一階の外にあり、入るためには部屋を一旦出なければならない。そこが少々難点だった。
しかし、何よりも安いことが魅力的だった。ハワイから帰国してきたばかりで懐は寂しく、少々不便ではあるが、目の前の川や列車の見える風情が気に入り、ここに住むことに決めた。
こうして高尾を拠点とし、聖蹟桜ヶ丘までを毎日往復するという、新しい生活が始まった。
再び社会人として仕事を始めたが、その内容は昔と変わり映えせず、たいして楽しいとも思わなかった。なんのために留学までしたのだろう、と時に考えることもあったが、ハワイで学んだことを生かす機会がそのうち来るだろう、と新たな環境になじもうとした。
1991年のこのころ、仕事においてコンピュータは不可欠な時代になりつつあった。職場でも小型コンピュータを何台か置いて、設計や積算に活用しはじめていた。しかし、個人でコンピュータを持つ人はまだ少なく、パーソナルコンピューターの本格的普及は、数年後に発売されたwindows95まで待たなければならない。
だが、それに先立ち、どこの会社も文書管理の効率化を求め、ワードプロセッサーを導入していた。手書きで書いた文章を、それ専用の機械で電子入力するこの機械は、この当時まだ誰でも使える、といったものではない。その操作方法を専門的に習ったオペレーターを雇い、文書処理をやってもらう、というのが一般的だった。
正規雇用をすると人件費が嵩むということで、人材派遣会社から派遣してもらったオペレーターにそれをやってもらう、というパターンも多い。私が配属された港湾部でも常時1~2人を頼んで来てもらっていた。
日本に帰ってきてからの仕事は、設計よりも調査が主体で、結果を報告書としてとりまとめていく作業が必要となる。文章化してワープロ処理が必要なものも多く、毎日のようにそのオペレーターさんに文書作成を頼んだ。
そのうちの一人に初めて文書作成を依頼するため、ワープロ室に入ったときのことが強い印象として残っている。
機械に背を向けて何か文章を打っていたが、ピシッと背筋を伸ばして前を向き、凛としたかんじで手を動かしていた。いわゆるおかっぱだが、髪は肩ほどまで伸びている。その色は染めているのか茶色っぽく見えた。
近寄りがたい感じがあったので、横に立っておそるおそる声をかけたところ、手を止めてこちらを向き、あっこれも打つんですね、と言った。ポーカーフェイスのまま、事務的に返ってきたその問いに対し、丁重に、お忙しいところすいません、とだけ返した。それ以上の会話はなく、そそくさと原稿を渡し、すぐにその場を立ち去った。
これが彼女との最初の出会いだった。とくに、ときめきのようなものはなかったが、瞬間、何かふんわりとした空気が流れたような気がした。ゆるやかに吹く風の中で木の葉と木の葉がごく自然に触れ合ったような、そんな印象だった。
それ以後、毎日の原稿を手渡し、出来上がったものをもらい受ける、という繰り返しの中で、徐々に彼女との会話は増えていった。
あとでわかったことだが、彼女もまた人材派遣会社から派遣されてきたオペレーターのひとりで、ここへやってきてからまだ半年も経っていないらしい。ワープロを教える学校を卒業し、のちには人に教える資格も取得したプロだった。八王子の街中にあるワープロ学校で講師もしていたことがあるという。
部内にはこのほか二人のトレーサーがいた。まだCADなど普及していない時代で、こちらは鉛筆と定規、消しゴムで設計図を仕上げていくアナログな職業だ。一人は年配で50代、もう一人は40前後のそれぞれ女性だった。この二人と、オペレーター二人の4人が仲が良く、昼食時にはたいていテーブルをはさんでおしゃべりをしながらランチを取っていた。
食事後、その会話の輪に他の社員が加わることもあった。時に私も加わったりして取り留めない会話をすることもあり、それを通じてそれぞれの関係がより緊密になっていった。
くだんのオペレーターの彼女とも普通に会話をするようになり、時にはお互いジョークを交わして笑いあうほど仲がよくなった。ただまだ親しいというほどではなく、なんとなくお互いを観察しているようなところがあり、ぎこちなさは続いていた。
ところがある時、その距離を急激に縮める出来事があった。
その日の午後、いつものように原稿をもってワープロ室に入っていくと、ちょうど暇だったのかオペレーター二人が楽しそうに話をしていた。何の話をしているの?と聞くと、例の彼女が、近々フロリダのディズニーランドに遊びに行くという。
えっフロリダ?そこなら僕は住んでいたことがあるよ、と言ったところ、それに食いつき、どんなところなのかと彼女がいろいろ聞いてきた。仕事中だったのでその会話はすぐに終わったが、翌日になってまたお昼にその話を二人でしているところを通りがかり、足を止めて会話に加わった。
今度は時間の制限はなく、自分が住んでいたときのことを色々話したが、そのとき彼女は目を輝かせて私の話を聞いていた。特段、大した話をしたわけではなかったが、ディズニーランド以外にもいろいろいいところがある、あそこへいくといい、ここがきれいだ、いった話は普通の人は知らないことばかりであり、彼女にとっては新鮮だったようだ。
その後、彼女は長い休みをとった。8月だったので、夏休みも兼ねていたのだろう。二週間ほど姿をみせず、その間、彼の地に行ったようだった。
帰って来てからすぐに出社したその日、私の机にやってきて、お土産を買ってきたからあげる、という。いろいろアドバイスをくれたからそのお礼よ、ということだったが、ははーん、それを口実に好意を見せてくれているんだな、ということはすぐに分かった。
そのお土産はケープ・カナベラルで手に入れたそうで、アポロ計画で有名なケネディ宇宙センターで売っていた宇宙食ということだった。ウケを狙ったな、と茶化したのに対し、「ばれたかしら」と軽妙な答えが返ってきて二人で声を上げて笑った。
お互い、意識し始めたのはそのころからだ。しかし考えてみれば私はまだ彼女の名前すら詳しく知らなかった。「アサイ」という名前だとは知っていたが、浅井だと思っていたし、下の名前も聞いていない。無論、どこから通勤しているのかすらも知らない。
聞き出そうとすればそれもできたかもしれないが、このころの私はまだ、フロリダ時代かにらの慣習である「女人禁制」をなんとなく意識していた。そんな習慣はもう捨ててもいいはずなのに、その気分から抜けきれないでいた。
ある日のこと、仕事を終え、いつものように京王線に乗り、高尾駅に降り立った。住んでいるアパートは駅の北口にあるため、通常ならJR側の改札口を通って自宅に帰るのだが、この日は南側にある京王ストアで買い物があり、こちら側の改札を出た。
すると私の横を通って、出口の階段下に向かおうとする女性がおり、よく見るとあのアサイさんだとわかった。追いついて顔をみせたが、彼女ほうは驚くでもなく、普通に笑顔を返してきたから、あるいは車中にいたときから私の存在に気が付いていたのかもしれない。
その日は忙しくなかったので早めの帰宅だった。偶然だね、と声をかけ、ごく自然にお茶に誘った。断られるかと思いきや、こくんとうなづいた彼女と、そのすぐそばにあった喫茶店に入った。しかし後々考えるとよくもまあ、そうして偶然に会ったところにおあつらえ向けに喫茶店があったものだな、と驚いたりもした。
そのとき、30分ほども話をしただろうか。あまり長い時間拘束すると嫌われるかも、と妙に気をまわし、早めにそこを出た。しかしその短い時間の間にいろいろと彼女について知った。アサイは浅井ではなく朝井だということ、齢は私よりも5つ下だということなどである。
驚いたのは彼女の住まいがすぐ近くだったことだ。高尾駅から東へ1キロほど離れたところに、御陵公園と呼ばれる公園がある。隣接して歴代の天皇ほかが祀られている広大な陵墓があり、その入り口付近に整備されたものだ。今は廃駅になっているが、その昔はこの公園から歩いてすぐのところに皇室の専用列車が停車する「浅川駅」という駅舎があった。
彼女の家はそのすぐそばで、位置的には高尾駅を挟んで私の下宿とちょうど反対側にある。駅から西と東に分かれて同じぐらいの距離のところにそれぞれの住処がある、ということがわかり、驚いた。
このときは、そんなあれこれの巡り合わせをまるで意識はしなかった。しかし、今思えば、これもまた生まれる前から計画されていたことだったのだろう。運命の人との出会いは、そんなかたちで、まるで偶然であるかのように演出され、現実のものとなった。
その後も、そんな奇遇を装ったランデブーは続いた。お互い意識してかせずしてか、仕事帰りに駅前で鉢合わせすることもしばしばとなった。最初はお茶だけだったものが、食事の場にかわり、やがては本格的なデートへと発展していった。運命は間違いなく二人を結びつけようとしていた。
1991年の秋、私は再び引越をした。それまで住んでいたアパートは環境は悪くはなかったが、外にある風呂場はあまりきれいとはいえず、入るのもおっくうになっていた。近所に銭湯があったため、そこへ通うことのほうが多くなっていたが、残業して遅く帰って来てからはそれも面倒になった。
そこで、そろそろ別のアパートを探そうと再び不動産屋巡りをしたところ、駅の南口に手ごろのアパートがみつかり、さっそくそこへ引っ越した。6畳一間に小さなキッチンがついている小さなアパートだ。居住環境はかなり縮小されたが、清潔な風呂が付いていたのがありがたかった。駅からも至近で5分とかからない。
そのころは寂しかった懐もかなり潤うようになっており、夏に出たばかりのボーナスをはたいて買ったレガシーを置く駐車場もすぐ裏手にみつかり、生活はさらに便利になった。
彼女との交際はさらに発展し、その車に乗ってはあちこちにお泊り旅行にまで出かけるようになっていた。箱根や伊豆などの比較的近くの観光地が多かったが、一度は北海道へ二人で行った。その間、二人のことが会社にばれないように、うまく取り繕って休みを取ったが、誰にも気づかれなかった。
会社内では二人の交際はいっさい表ざたにせず、秘密だった。帰りの電車もわざわざ一駅先で待ち合わせをし、そこから一緒に帰るという念の入れようだ。幸い職場には、高尾方面から通勤してくる人は誰もおらず、目撃されたこともなかった。
そんなわけで、ふたりだけで構築した「秘密の花園」は誰にも知られることなく続いていった。週末には高尾山や相模湖といった眺めの良いところに日がな出かけ、そこから八王子の町に帰ってきて、駅前の居酒屋で一緒に食事をする、というパターンがお決まりになった。
ともかく楽しかった。ここまでの30年あまり、特定の恋人というものを持たず、禁欲的な生活をしてきた私にとっては、すべてがバラ色だった。
彼女の茶目っ気があるところが好きだった。自分のことを「おちゃらけている」と言っていたが、それはふざけているとか、ひょうきんとかいうことではなく、相手を楽しませようというサービス精神からきていることはわかっていた。
自然に内側から染み出してくるような明るさがあった。それがじんわりと私を包み込んでくれる。そばにいてくれるだけで、ホッとできる存在だった。もともと一人でいることが好きな私がそばに誰かを寄せつけている、ということ自体、不思議に思えた。
かつて恋人が欲しい、と思う時期があったが、それを手にしたらしたで、戸惑うだろうな、と思っていたことが現実となった。その戸惑いが驚きに変わり、やがて愛情に変わるころにはなくてはならない存在となっていた。
頭のいい子でもあった。付き合い始めたころ、すぐに分かった。人の言うことをすぐに理解し、反応が早い。市内の普通高校を出ていたが、のちに成績表を見せてもらったところ、数学はオールAだった。もっとも、物理とか化学は苦手だったようだ。3歳年上で、のちに大学で薬学を専攻していたお兄さんにいつも助けを求めていたという。
後年、私が技術士の試験を受けたあと、そこで書いた答案について、なぜかいろいろ聞くのでそれに答えて長々と解説をしたことがあった。それに対して、そのときもすぐに理解したようだったが、そのあとさらに、「こうやって素人に説明することで自分でも理解が深まるでしょ」とのたまわった。
それを聞いてなるほど、と思った。専門家として自分で理解しているつもりでも、一般人に説明するためにはさらにかみ砕いた説明ができなければならない。それができてこそ、初めて自分で分かった、ということになるのだ、と教えられた気がした。逆に頭が下がった。
そうしたことも含めてお互い足りないものを補うことができるカップルだった。私は細かいことがきらいで、すぐにああ面倒くさい、ということになってしまうが、彼女はコツコツとそれをやり、気が付いたら私が知らないうちにそれを仕上げている、ということがよくあった。
一方、彼女は逆に計画立てて何かをやるのが苦手なタイプで、旅行のプランを立てたり、週末にどこかへ出かけたりするときのタイムスケジュールを管理するのはすべて私だった。
もっとも男と女はそもそもそういうものだろう。内にこもることの多い女性は細かいことが得意で、外に出ることの多い男性はおおまかではあるが計画性がある、というのはよく言われることだ。
いずれにせよ、それぞれの役割をきちんと担えるかどうか、お互いの穴を埋められるか、というところにその関係が長続きするかしないか、というコツがあるような気がする。その点、我々ふたりは、そうした役割分担がよくできていたように思う。
1992年11月3日。二人は結婚した。
子供のころから私は一人でいるのが好きだった。その自分のためだけに作り上げた世界に彼女が迷いこんできた。その家族もまたそれに巻き込まれて入って来てしまったのではなかったか、最近、そんなふうに思う。
彼女だけでなく、彼女の父─ 私にとっての義父は、もしかしたら、その私の世界にもっとも翻弄された一人だったかもしれない。
彼女の両親は二人とも東京都内で生まれだ。それも東のほうで、葛飾だか柴又だかそのあたりだったと記憶している。お義父さんが立川にある病院で調理の仕事をしていて、そこの看護婦だったお義母さんと知り合い、結婚。彼女と彼女の兄の二人を設けた。
当初、一家は東村山に住んでいたが、高尾に小さな建売りを見つけてそこに移り住み、彼女もそこで育った。
初めてその両親に会ったときはひやひやものだった。というのも我々の交際は会社内ではもちろんのこと、彼女の家族にも内緒だったからである。どうも娘に虫がついているらしい、とお義父さんが知ったとき、どんな奴だか俺が探してしばいてきてやる、と息巻いていたという。その話を後で聞いて首筋が寒くなった。
若いころにはかなり血の気が多い人だったらしい。同僚と喧嘩するなどは日常茶飯事で、自宅でも何回もちゃぶ台をひっくり返したという。また、遊びに行こうと家族を連れてクルマで出かけても、途中で引き返してきてしまう、ということもた度々あったという。単に渋滞していたから、というのがその理由だ。
そんな気短で気分屋なところがある一方で、一度心を許した相手にはとことん尽くす、といったところがあった。
江戸っ子気質とでもいうのだろうか、気にいりゃあ家族同然よ、というわけで、同僚でもセールスマンでも気にいったとなると、すぐに家に連れてきて酒をふるまう。
子供二人もそうした度量の大きさには一目置いていたようだ。彼女はこの父のことを「かっこいい」とよく言っていたし、彼女の兄もまた陰口はたたきながらも、しょっちゅう子供連れで遊びにきていた。この人の頑固さに呆れ、よく喧嘩をしていたようではあるが。
私も初対面で気に入られてからは、それはもう実の息子のようにかわいがってもらったものであり、その後この家によく遊びに行くようになった。
そのたびに二人で深酒になり、いろんな話をしたが、その中で時折、私に初めて会ったときのことを話題にした。
この当時、高尾山口駅から甲州街道を上っていく途中に「ごん助」という山賊焼きの店があった。両親に会わせるため、自宅では気詰まりだろうと、彼女が用意したのがこの店で、地元では知る人ぞ知る店だ。屋外で焼鳥などを野趣あるふうに調理して食べさせるということで有名だったが、のちに後火事で焼失してしまったのが残念だ。
店の入り口で初めて、この義父に挨拶をしたとき、満面の笑みで迎えてくれたことを思い出す。その後何度も酒の席で繰り返すようになった言葉が、「一目見て気に入った」だった。額面通りに受け止めていいかどうかは別として、確かにその日はご機嫌だった。どうやら、この初回の面会で及第点をもらったらしい。
その後頻繁に自宅にも呼ばれるようになってからは、夜遅くまで飲ませてもらって、泊めてもらうことが多くなった。結婚前、私はまだ高尾駅前のアパートに住んでいて、そこは歩いても行けたことから、呼ばれてはすぐに出かける、といったことを繰り返すようにもなった。
それを心配していたのが、ほかでもなく未来の奥様だ。夜遅くまで頻繁に義父につき合わせられる私を見て前々から苦々しく思っていたらしい。どこか遠くへ二人で引っ越したほうがいいのでは?という提案があった。
今の6畳一間の小さなアパートに二人で住むわけにはいかないから、別の場所にもっと大きなアパートかマンションかを借りようか、と私も考えていたところだ。ふたりでいろいろ話し合ったが、その結論として二人が選択したのは、小さくてもいいから我が家を持とう、ということだった。
この当時、彼女が高校を卒業してからコツコツと貯めた貯金があり、これには及ばないにせよ私の貯金も合わせればそれなりの額になる。それぞれの両親から借金をしてそれに加えれば、なんとか家を購入するほどの前金が用意できそうだ。
お互い、親のすねをかじるのは気が引けたが、無理を承知で頼んでみることにした。その結果、朝井家からはすんなりとOKが出たが、案の定、しぶちんの私の父はなかなか了承せず、母の助けを得てようやく了解をもらった。
父がいい顔をしなかったのには訳がある。ちょうどこのころ、両親はそれまで住んでいた広島の建売りを売り払い、山口にある母の実家に移り住んでいた。かつて祖父が建てた古宿だが、そこに一人で住む祖母の面倒を見たい、というのが表向きの理由だ。
これより数年前、父は第二の就職先を退職してリタイアしていた。勤めていたころに比べ、格段に家にいる時間が増えることになったが、小さなその広島の家をなにかと窮屈に思っていたらしい。そこで、家を売り、できた資金でより広い義母の家を改装し、そこに移り住もうと画策した。
これに対し、友達も多く、長年住んだ広島を離れることに母は難色を示した。賑やかな広島に比べてひなびた山口戻ること自体も気に入らなかったらしい。ただ、借金まみれで疲弊した実母がひとり老いていくのは見るに忍び難かったようで、その面倒をみる、という父の口上には同意せざるを得なかった。
早速業者を手配して家の修繕に入り、私がハワイから帰って来てしばらくたってからすぐに山口に移住した。リフォームの費用は、建設省を退職したときのなけなしの貯金を使いこんだ。住んでいた広島の家の買い手さえみつかれば、使ってしまった金はすぐに回収できるだろうと考えたようだ。
しかし、その資金の回収にはまだまだ時間がかかる。というわけで、そのころの両親にはそれほど潤沢な資金があったわけではなく、そこへ来て息子から金を貸せ、と言われて渋った、というわけだ。
もっとも、我々二人もタダで貸してもらおうとは思わず、それなりの金利を積んでその金を借りた。その後10年も経たずして、全額両方の親に返済することができたのは、この間、私が安定した職に就いていたからに他ならない。広島の両親が住んでいた家もその後無事に売れ、しかもそこそこの値段だったようで、一安心だった。
資金のめどが立った我々二人は、その後あちこちの不動産をめぐっては、めぼしい住宅を探した。基本的にはふたりとも高尾が好きで、ここからあまり遠くへは行きたくなかった。しかし、駅周辺を中心に探し回ったものの、なかなか思うような物件がなく、行き暮れてしまった。
そんなとき、八王子市街にも近い不動産屋で、気になる物件を見つけた。4区画ほどあるうちの一つで、建築条件が付いていて、これは土地の購入から一定期間のうちに、持ち主である業者によって住宅を建てなければならない、というものだ。
50坪ほどもあり、広さの割には安い。なぜかと思って調べると、土地の3分の1ほどが市街化調整区域になっており、これは住宅が建てられない土地だとわかった。残りの3分の2を対象として建蔽率や容積率が決まってくるから、土地の広さほどには大きな家は建てられない。
とはいえ、かなり割安な設定なので、早速二人で見に行くことにした。最寄り駅は、京王線の片倉という駅で、そこから歩いて15分のところにある。駅から南へ歩いて行くと、急な下り坂になり、そこを降りると川がある。
湯殿川という川だと後から知ったが、この小さな川が古い時代から氾濫するたびにあたりを侵食し、土地を掘り下げてこの一帯に谷筋を作ったようだ。その周辺の多くはその昔、足場の悪い河川敷や沼だったところと思われたが、近年になって大半が埋め立てられ、畑や住宅になった。
くだんの売地もそうした荒地の一角にあり、周囲は畑ばかりでほかの住宅はほとんど建っていない。南側は市街化調整区域であるため、当面ここに家が建つ予定はない。このため、かなたまで広々とした空間が広がり、さらにその先には小さな公園があった。
右手の東側には背の高い屋敷林があり、のちに調べたところでは、鎌倉時代、ここには小さな砦があったらしい。今は寺になっており、屋敷林はそこの垣根の役割をしていた。
さらに西側にも広場があり、南側のかなたにある公園と合わせると、周囲に二つも公園があることになる。特に気に入ったのは、家の目の前を通って奥の公園へ行く小道の脇に、八重桜の並木があったことだ。春先にはさぞかしきれいだろう、と思ったが、実際、そのあとここに住むようになってからは、毎年そのピンクの花園を存分に楽しむことができた。
将来的に子供ができたときには絶好の環境といえ、同じ価値観を持つ二人は、一目でこの場所を気に入った。ちなみにここを初めてみた義父は、なんてひどい場所だろう、と思ったという。
このころちょうどバブルは崩壊したころであったが、まだまだ不動産の値段は高かった。現在の5割増し、といったところだったろう。若い二人にとってはかなり負担となったが、長期のローンを組めばなんとかなると考え、思い切って購入を決めた。
3カ月後の10月下旬。我々の新居となるその家は完成した。
生まれて初めて建てる家だったので、不動産の購入やら住宅の設計やらでいろいろ面倒なことは多かったが、なんとかこなして竣工にこぎつけた。
建坪20ほどの本当に小さな家だった。しかし、生まれて初めて借り屋ではなく自分の家を持ったということに大きな満足を覚えた。
完成間際のある天気の良い秋の日、二階西側の和室の出窓のかまちに一人で座って感慨にふけっていると彼女が入って来た。そして、静かに私の左側に座り、ぽつりと言った。「ほんとにできちゃったわね。」
そのとき、窓から入ってくる心地よい風に吹かれた彼女の横顔がのちのちまで強く印象に残った。
その彼女の言葉には、こんな立派な家に本当に住んでいいんだろうか、という戸惑いのような気持ちと、これから起こることに対する恐れのようなものが入り混じっていたのだろう。私も同じ思いだった。
しかし、このとき、私がどういう答えを返したのか、どうしても思い出せない。
さあこれからだ、と言ったか、もう安心だ、と言ったのか、それともこれから一緒にがんばろう、とでも言っただろうか。何にせよ、そのときの言葉を思い出せる者は誰もいない。
入居の直前、ほんのささやかな結婚式を私たちは挙げた。ささやかといっても、二人だけというわけではなく、双方の主だった親戚もであり、彼ら十数人を集めて、一泊二日の旅行を企画した。
もとより派手な披露宴や結婚式はしたくなかった。ごくごく身内だけで質素な結婚式をやればそれでいい、という考えだった。家を買ったばかりでもあり、贅沢はできない、ということもあったが、これに双方の両親も納得した。その会場は伊勢の賢島にあるホテルで、賢島といえば2016年にG7伊勢志摩サミットが行われたことで有名になった場所でもある
無論、サミット会場にもなった豪華ホテルではない。ただ、まがりなりにも披露宴の代わりであるから、そこそこいいホテルを選んだ。
それにしてもなぜ三重県だったのか。大きな意味はなく、単に私が行ったことがない場所だったからだ。仕事柄全国の海岸を飛び回り、ほとんどの都道府県に足を向けていたが、これまで三重県と和歌山県だけはその対象になっていなかった。
前日、伊勢神宮にも近い、猿田彦神社で簡単な式をあげた。夫婦ふたりと、それぞれの両親を合わせた6人だけの結婚式で、花嫁衣裳、羽織紋付きなどは着ず、二人ともスーツ姿で臨んだ。式といっても簡素なもので、神主さんに祝詞をあげてもらい、指輪を交換するだけで終わった。
披露宴を模した翌日の親族へのお披露目も質素なものだった。通常の宴会場に十数人が集まった。大阪に近かったので、西宮近辺に住んでいる父方の叔父叔母も来てくれていた。猿田彦神社での結婚報告とそれぞれの家族紹介をし、なごやかに談笑したその宴は2時間ほどで終わった。
翌日からは一週間ほどかけて熊野めぐりに二人で出かけた。新婚旅行である。
いわゆる熊野街道と言われる、三重和歌山の海岸線を西へとレンタカーで辿る旅行だ。熊野那智大社や那智の滝はもちろん、伊勢神宮や熊野大社、アドベンチャーパーク、といった主だった観光地はほとんど回った。
一番印象に残っているのは熊野市にある「鬼が城」と呼ばれる海岸地帯だ。侵食により奇岩が連続する間を細いトレールが通っている。落ちれば断崖絶壁の下、という場所もあり、ふたりとも笑いながらそこを通り抜けた。スリル満点のショートハイクだった。
帰りは大阪に出て、そこから新幹線で東京に帰った。目指すは無論、できたばかりの新居である。東京駅から中央線で高尾に向かい、ここから京王線に乗り換えて片倉駅に降り立った。そこから歩いて二人で新居に向かい、真新しい玄関の前に立ち、鍵を開けて中に入ると、新鮮な畳の匂いがした。まだ家具などはほとんど何もなく、置いてあるのは寝具だけだ。
がらんとしたリビングに二人立ち、顔を見合わせ、次いで庭のほうを見やった。そこもまだ何もないただの荒地があるだけである。さあこれからここをどうやって住処にしていこうか、二人が考えていたことは同じだった。しかし、我が家といえるほどにその環境が整うまでには、それから半年ほどもかかった。
休み明けに職場に出て、上司に報告した。旅行に出る前あらかじめ二人の結婚は伝えてあり、そのために長期休暇を取得することは伝えてあったから、特段なにも問題はなかった。その上司は笑って、おめでとう、と言ってくれたのでホッとした。
我々の結婚のことはこの上司以外には誰も伝えていなかったので、その日のうちにフロア中がその話題でもちきりになったようだった。会社のだれにも伝えず、結婚式を挙げたことについての批判的な声は上がらなかった。もとより変わり者で通っていたようなところがあり、しかたがないな、という雰囲気だっただろう。
彼女のほうは、派遣打ち切りということで、これよりかなり前から出社はしていなかった。代わりのオペレーターが同じ派遣会社から既にやってきていた。
年が明けて1993年になった。このころバブルは既にはじけ、長い不況が始まっていた。勤めていた会社は、公共事業が主な収入であったから業績が大きく傾くことはなかったが、ボーナスなどは大幅にカットされるようになった。
このころ、新たに港湾部長に昇格した人は、かつて神宮前にいたころからの先輩社員で、この不況にあって新たな市場の開拓などを会社から要請されていた。その一環として東京は亀戸に新たなオフィスを設け、そこで東京東部での新たな事業展開を目指していた。
その業務の一端を担え、ということでそこへの出向が私に命じられたのが前の年の12月。東京の西の端から東の端までの通勤には2時間半以上かかる。結婚したてだというのに、なんという仕打ちだと嘆いたが、会社命令である以上逆らうことは許されない。
毎日往復5時間をかけてそこへ出勤したが、仕事の内容も申請書類の作成ばかりで面白みがなく、毎日うんざりしていた。部長の話では、1年我慢すれば戻してやる、ということだったが、それまで持つだろうか、と日々の通勤の中で考えるようになった。
また戻してやる、といっても今度は海外へ派遣されるに違いなかった。英語ができる私を再雇用したのもそのためであろう。
しかし海外といってもどこへ行かされるかわからない。この会社の海外出張先としては東南アジアと南米が最も多く、そのどちらかであることは明らかだった。私もある程度覚悟はしていたものの、結婚してすぐのことでもあり、妻と別れて単身そんな僻地に行かされるのは正直勘弁してほしいと思っていた。
もとより積極的に求めて得た職ではない。ハワイから帰ってきたばかりで疲れており、先立つものがない中、仕方なくこの職場を選んだ、というのが本音だ。
それなら、と一大決心をしたのが、4月。2カ月後には退職し、フリーとなった。
後年、このときの決断が正しかったかどうかと、何度も考えたが、結論はいつも同じだ。正解だったに違いない。見よう聞きようによっては古巣に後ろ足で砂をかけるように出てきてしまったことになるが、生活を守るためにはまったく正当な離別であり、誰にも非難される筋はない。
何の未練もなかったが、強いていえば2年の間にできた新しい仲間や、かつての渋谷時代からの仲間とのきずなが絶たれることは悲しかった。ただ、それは社内でなくても保つことができる。実際、その後も親しい人たちとは長い付き合いが続いた。
最後に送別会を開いてもらったが、その席でちょっとしたトラブルがあった。亀戸へ行けと命令を下したくだんの部長が、私への送辞を述べる際、暴言を吐いたのだ。こんな形で会社を辞めてもロクなことはない、世の中はそんなにあまいもんじゃないぞ、といったことばの数々は聞くに堪えないものだった。
一瞬、ひんやりとした空気がその場を包んだが、私のすぐ上の別の上司が、まあまあと部長をなだめ、最後は穏やかな形で会を終えた。のちに同じ部の同僚で、同期入社の一人が言った。
「あのときの発言で、部長は大きく株を下げた、おまえは、ただ一身上の都合で、とだけ言い、言い訳めいたことは一言も言わずに会社を去った、偉かった。」
素直にうれしかった。しかし一方では、一つ年下の親しかった後輩のひとりが、あれはボタンの掛け違いではなかったか、もっと話し合えばよかったのでは、とのちに私に意見した。確かにそういう面はあったかもしれない。しかし、なるべくしてなった必然だと今でも思っている。
ちなみに、このとき爆弾発言をした部長は、それから10年も経たたないうちに早世した。また私のことをほめてくれた同期生も、その少し前に他界した。ボタンの掛け違いだと言った後輩は、彼もまた会社と折り合いが悪くなってその後退職し、今は同業他社に勤めている。
人それぞれとはいえ、人生とはかくも浮き沈みの激しいいものか、と今改めて思う。しかし私自身、さらに大きな変転をその後経験することになる。このとき、そんなことが起ころうとは露ほどにも思っていなかったが。
こうして私はまた荒野に投げ出された。しかし前と違って今は伴侶がおり、一人ではなかった。投げ出されたのではなく、荒野に飛び出たのだ。
ただ時はバブル崩壊後の大不況の中。はたして再就職は可能なのだろうか。そうした不安がなかったわけではない。しかし、私には妙な自信があった。新妻にも不安か、と聞いてみたが彼女もケロッとしている。むしろ、全然不安じゃないよ、あなたなら大丈夫、とこの転職にはむしろ賛成してくれていた。
のちに就職が決まった時、「運がいい人はいつも運がいいのよ」と彼女が言い、その後口癖のようにこの言葉を何度も口にするようになった。意味深といえば意味深な発言であり、このことばの持つ本当の意味が何だったのか、と今もときどき考えてしまう。私は本当に運がよかったのだろうか…。
これも運がいいといえるのかどうか、実はこのころ、妻のおなかの中には新しい命が宿っていた。
ある日、月のものが不調なので病院に行く、と言って帰ってきた家内の口からそれを聞いて知った。職もなく、今後の収入のめども立たない中、なんということだろう、と思ったが、彼女は平然としていた。精神的に不安定になってもおかしくない状況といえたが、改めて見直す思いだった。
すぐに、定期的に診断に出かけるようになったが、その病院というのは、同じ京王線の北野という駅近くにあった。
彼女がそこを選んだのは、院長が女医さんだったからで、医者とはいえ他の男性に体を触られたくなかったというのがその理由のようだった。こういう潔癖症ともいうべきところが、彼女にはあり、年に一度の健康診断などもいろいろと理由をつけて行きたがらなかった。
それがのちに大きな問題を生むことになるのだが、ともあれ、我々の初めての子供はやがてこの病院で生まれることになる。
一方の私は新しい仕事をみつけようと躍起になっていた。ただ、新たな就業にあたっては、どうせならこれまでとは違う道を選ぼうと思った。一度新宿にある都市計画系の建設コンサルタントをあたったが、今は募集がないと断られた。それなら、と同じ業界でもかつての職場の最大のライバルと目されている会社に当たってみよう、という気になった。
ちょうど就職情報雑誌で広告を出しており、それを口実に担当者とコンタクトを取ろうと思った時、ふと頭をよぎることがあった。
かつてハワイ大学でお世話になった右田さんが、確かその会社の関連会社に就職した、と連絡をくれていたのを思い出したのだ。土木現場で採取される水や土の化学分析をする会社で、柏にあった。早速コンタクトを取り、会いに行くと、おぉ久しぶり、と相変わらずの笑顔で迎えてくれた。
早速事情を話すと、それなら俺よりもっといい人がいる、という。いぶかしんでいると続けて、我々の先輩だ、自分より先に博士号を取って卒業した、と右田さんは言われて、ようやく思い出した。かつて、そういう人がOcean Engineeringを卒業したことは聞いていた。
その人も卒業後帰国し、なんと私が当たろうとしていた会社の部長をしているという。右田さんが今の職場にいるのもその関係らしい。すぐに連絡をとるから、そのうち会って一杯やろうと言われ、その日は別れた。
後日、その人と右田さんの三人で酒を酌み交わした。木下さんというその人は私よりも10歳ほど年上で、その後も何かとよくお世話になった。ハワイ大学では秀才でならしたひとで、教授陣の評価も高かったようだ。人づてに聞いた話から伝説の人のように思っていたが、想像していたよりも若々しく、気さくな人だった。
ハワイ大学の卒業生ばかりということで彼の地の話で盛り上がり続いて今の職場の話にもなったが、その中で私の就職についても、上部に声をかけておく、と約束をしてくれた。
重ねて同じことを書くようだが、人生においては起こるべくして起こることが何度もある。このときはまだ必然の意味をわかっていなかったが、ここでもそうした運命を感じざるを得ず、その出会いに驚いたものだ。だがしかし、まだその会社に入れると決まったわけではない。
その後、その会社の就職担当者とも正式にコンタクトを取り、入社試験を受けた。面接では社長自らに会い、いろいろ聞かれたがすべてよどみなく受け答えができた。ところが筆記試験があり、実はこれが曲者で、全然できた気がしなかった。ちんぷんかんぷんの問題ばかりで、書き終わって提出したあと、あーこりゃやってしまったな、と思った。
のちに聞いた話では、こうした会社での入社試験ではよくあるパターンのようで、時間内に解けないような難問を出し、それに対してどうアプローチするか、を見る試験だということだった。
試験後にかなり落ち込んでいた私だったが、後日、のちに入社後にお世話になることになった配属先の部長さんから、合格間違いなし、の連絡をもらった時は耳を疑った。しかしそれは嘘ではなく、後日本当に採用通知が来た。家内ともども喜んだことは言うまでもない。
喜びもつかの間、とはいえ、先のことを想うと少々憂鬱な気分になった。というのも、その会社は日本橋にあり、八王子から通勤しようとすると2時間近くかかる。かつての亀戸よりはましだとしても、はたして勤めあげられるだろうか、と不安になった。
しかし、たとえどんなに通勤や仕事が大変だろうがやりとげよう、とこのとき自分に言い聞かせた。家内のおなかもかなり大きくなっている。生まれてくる子供のためにも彼女のためにも、やればできる、なんとかなる、と自分を鼓舞して不安を払拭しようとした。
この入社問題でばたばたしているこのころ、これもまた私を試すかのように、もう一つの試練が訪れていた。
それは技術士試験の受験だった。実は亀戸時代より少し前から、この資格をとろうと考えていて、ちょうど一年前のこのころから通信教育を受けていた。技術士の経験の長い人や建設省OBなどが厳しい採点をする本格的なもので、毎月送られてくる試験問題に対して複数の回答を出さねばならない。仕事の合間を縫ってのこの論文の作成はかなり大変だった。
しかし、ハワイ大学で学んでいたことに比べればこんなことは屁でもなかった。いつのまにか試筆した論文は山のようになっていたが、その年の試験が近づいていたこのころには既に目標とするところのレベルには近づいている、という自覚があった。
技術士は、弁護士に次いで取得するのが難しいといわれる国家資格であり、何等かの科学技術に携わっている人にとっては最高峰の資格といえる。受験資格として5年以上の就業経験があることが求められるが、かつての会社には7年以上勤めあげていたから受験資格は問題ない。
これを受けようと思った理由は単純だ。資格をとれば会社から資格手当はつくし、またその資格が技術士ということになれば社会的信用も高まる。この先どこへ就職するにしても、そこでの出世レースにおいて当然有利になるはずだった。
というわけで、このころは再就職とこの試験の二方面での対策で大わらわの日々だった。しかし幸い、5月に前の会社を辞めていたから時間は十分にあった。このため、自宅で徹底的にこの試験について研究することができた。さらに朝から晩まで毎日のように論文を書き続け、来たるべき試験に備えた。
このころ、時間に余裕があることもあって、座禅に凝るようになった。朝夕の涼しい時間を選んで、長々と瞑想にふけり、ときには宇宙のかなたまで意識は飛んで行く。座禅をやったあとには気持ち、心にゆとりができるような気がした。無心になる、ということは何か人間性を高めるような効果があるらしい。
この座禅の有効性は、その後の就職試験や技術士試験の双方で証明された。集中力を途切らせることなく、心を安定させてそれに臨むことができたのは、そのおかげといっていい。
やがて技術士試験の日がやってきた。会場は高田馬場の早稲田大学の一室だ。この当時、この試験会場を含めて多くの技術士試験会場にはエアコンなどはなく、受験者はみな半パンにTシャツといういでたちで臨む。水筒とタオルは必需品だった。
タオルは本来額の汗を拭くためのものだが、答案を書く際に手からも噴き出る汗をぬぐいとるためのものでもある。脱水症予防の水筒と同じく、技術士試験にはどうしても必要なアイテムのひとつだった。
朝の9時ぐらいから論文を書き始め、夕方4時ぐらいまでに3つの論文をひたすら書き続けなければならない。建設一般と専門科目、そして経験論文だ。経験論文のウェイトが一番高く、これは事前に用意したものを記憶して書けばよい。ただし、中身については高度であることはもちろんのこと、独創性や文章力が求められるため一筋縄ではいかない。
建設一般は、毎年出題内容が変わる。たとえば漠然と、今の公共事業についての問題点を書け、とか、未来にわたって必要な建設事業は何か、言った出題内容だ。どんなテーマに沿った問題が出るかはわからないため、幅広く勉強しておく必要がある。
ただ、過去に出された出題傾向を探ると基本的には5つか6つほどのテーマに分類される。それぞれのテーマにおける想定問題を予習すれば対応できなくはない。ただ5テーマとはいえ必ずしもそこからの出題があるとは限らないから、それ以上の幅を持たせた広い視野からの勉強が必要になる。
実はもっともやっかいなのは専門科目である。受験する科目に関して、最近起こった事象についての出題が多いといわれる。例えば私の専門は河川・海岸であるから、それに関しての最新技術であるとか、最近起こった災害についての問題が出たりする。
しかし、必ずしもそうとは限らない。フェイントでかなり基礎的な法則問題が出題されたりもする。受験者の専門とする科目なのだから、何を問われても書けなければ技術士とは認められないよ、というわけで、何が出題されるか蓋をあけてみなければわからないのだ。
自分の専門とはいえ、建設一般以上に幅広い勉強をしておく必要があり、しかも深くなければならない。このため事前にそうした類の専門書を山のように読まなければならなかった。
私にとってラッキーだったのは、このときの専門科目の問題は、この年7月に起こったばかりの奥尻島での津波に関するものだったことだ。津波に関する対応策を知っている限り記述せよ、というような内容だった。ほかに二問ほどの出題があり、三問のなかから選択するかたちだったが、ハワイ大学で波を勉強していた私は、迷うことなくこの問題を選んだ。
試験後の自己採点では、経験論文は90点、だが建設一般とこの専門科目の出来がまあまあだったので、及第点ぎりぎりかな、といったところだった。しかしまがりなりにも国家試験の最高峰である。それを初めて受験して、合格するのは極めてめずらしいと言われている。
落ちて当たり前、と思っていたから、結果はあとからついて来るさ、とさほど気にはしなかった。
再就職が決まった会社、新未来環境研究所へ入社したのは、それから約半月ほど経った9月になってからだった。ほかに十名ほどの採用があり、同期ということで、その後、何人かと仲良くなった。
その中には、元自衛隊の戦闘機のパイロットもいた。かつての私のように結石の持病があるため退職したとのことで、異色中の異色といえる。その他の採用者もそれほどでもなかったが、再雇用ということもあって、様々なキャリアを持っていた。ただ、残念なことにのちにこの会社を辞めたことで縁切れとなった人も多い。
こうして新しい会社で新しい仕事が始まった。通勤は2時間かかったが、高尾駅か八王子駅まで戻って始発の電車に乗れば、その間眠っていられる。帰りも同じで、会社の最寄り駅は神田だったが、一駅戻って東京から乗れば、座って帰れることが多い。苦にならなかった、といえば嘘になるが、我慢のしどころの許容範囲ではあった。
入社当時、配属されたのは環境計画部というところで、これは、動植物調査が中心の環境部門と、都市計画を扱う都市部が合体してできた新しい部署だった。先に内定の連絡をくれた、倉田部長という人がこの部門の責任者だ。
結局、この会社にはその後10年にも及ぶ長きにわたってお世話になることになる。この間、公私につけ、いろいろなドラマがあったが、私事のなかで最大のイベントのひとつといえるのが、入社したこの年に長男が生まれたことだ。
11月22日のこの日の前日、私は泊りがけで宇都宮に出張に行かなければならなくなった。出産間際でもあり家にいてやりたかったが、彼女の母親で元看護婦の義母がそばについているから大丈夫と思いなおし、予定どおり家を空けた。
その夜、宿泊先に連絡があり、私が出かけた日の夕方から陣痛がきたため、急遽、入院したという。いつも通っていた北野の病院だ。それまでの経過は順調だったので、大して心配はしていなかったが、それでも不安な夜を過ごした。
翌日、相手先との打ち合わせを終え、市役所を出ようとしたとき、義母から無事、男児を出産したとの連絡が携帯にあった。このとき、一緒にいた上司に、感想はどうだ、と聞かれたものの、正直なところピンとこず、どう答えていいかわからなかった。
もとより子供が欲しいとは思っていなかった。子供が子供を持つようなものだ、といつも思っていたし、もし子供ができたらどんなふうな父親になるのだろう、と想像してもまるでイメージがわかない。
その日はもう帰っていいよといわれ、急ぎ八王子に取って返したが、病院に着いたときはもう夕方近かった。受付で案内を乞うと、母子とも二階にいるという。
スーツ姿のまま急ぎ、階段を駆け上がると、ちょうど彼女は病室から出て新生児室の窓越しに中を覗き込んでいるところだった。天気の良い日で、彼女が立っている廊下には、秋の日の柔らかな日差しが降り注いでいた。
その日差しを浴びながら中をのぞいていた彼女は、私をみつけると、すぐに駆け寄ってきて抱きついた。そして顔を胸にうずめ、しばらくの間、泣いた。やがて面をあげ、目線で私を促すと、その先には小さなしわくちゃなわが子がいた。白いシーツの上にのせられ、ローブをかけてもらってすやすやと眠っている。
聞くと、お産はスムースで、ほとんど苦しむことなかったといい、やれやれと安どした。ただ、出産時の体重は2500グラムにも足りない。未熟児というほどはなかったが、念のために母親とは離し、新生児室で経過をみている、ということだった。
彼女自身が休んでいる個室に招き入れられ、昨日からのことを次から次へと聞かされたが、なにやら遠い世界のことを聞いているようで頭に入ってこない。あとで再度確認したところでは、なんでも夕食後に急に産気づき、すぐに母親とタクシーに乗って、入院したらしい。
このときハッと思い返し、カバンの中から一枚の紙を取り出した。そして折りたたんであったその紙を広げ、横になっている彼女のそばに置いた。
そこには我々二人の間にできたこの子供の名前の候補が書いてあった。3つほど用意していたが、実は自分的にはそのうちのひとつが本命だった。
ちょっと変わった名前だったので彼女がどう思うかな、と気になっていたのでいくつかほかにも候補を用意していた。どれがいいと思う?と私に聞かれた彼女は、置かれた紙を手に取り、しばらくそれを眺めていた。やがて彼女が指さしたのは、私が良いと考えていたそれだった。
「一生」と書いて「かずき」と読む。
その我が子を抱いて、家族三人で我が家に帰ったのは、それからおよそ一週間後のことだった。
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