夢の途中 9 ホノルル

1987年7月上旬、私はふたたび日本の地を踏んだ。

約11ヵ月間のアメリカ本土での生活は中身が濃く、長く感じた。おそらく、これからの一生の中でも忘れえない時間になっていくのだろう。

成田から東京へ出てからは、新幹線でそのまま広島に向かった。そのころもう東京に拠点はなく、アパートもすでに引き払っていて泊まるところはない。広島の両親は、長年住み慣れた東雲の官舎を出て、かつて住んでいた堀越にもほど近い府中というところに一軒家を購入して住んでいた。

姉は遠の昔、私が高校のころに結婚して両親の元を離れている。私も広島を出て行ったから、長らく二人は東雲の官舎で生活していた。そのままそのそこに住み着いてもよさそうなものだが、父の定年がそろそろ近づいており、いつまでもそこにいるわけにはいかない。それなら、ということで、当初はどこかアパートでも探して住もうか、という話になったらしい。

ところが、これに母が反対した。どうせなら小さくてもいいから家を買おう、と言い出した。これに対して何事につけても保守的で消極的な父はなかなかうんと言わない。そうこうしているうちに、母が昔住んでいたところに小さな立て売りが出ている、という話を聞きつけてきた。

「昔住んでいた」というところにどこまで父が食いついたのかわからないが、ともかく熱心な母の勧めによってようやく腰を上げ、かつて住んでいた堀越の隣町にあたるその場所の家を買った。

退職金の一部をつぎ込み10年ほどのローンを組んだ。大借金に違いはなかったが、私が大学を卒業したあとのことでもあり、夫婦ふたりなら返せるだろう、と父も腹を決めたようだ。

1階に1DKと4畳半、2階に6畳間が二間、といういかにもこの夫婦らしい、こじんまりとした家だった。眺めもたいしてよくはない。ひしめきあった住宅街の中にあり、隣の家との間も一間ほどしかない。ただ交通の便はよく、歩いて数分のところからバスに乗れ、広島中心部までは10分ほどで行ける。

退職後の父は、市内にある電気関係のコンサルタント会社に再就職した。建設省OBの巣窟のようなところで、いわゆる天下りである。どこかの営業所長の肩書をもらったようだが、仕事が面白かったかどうかはあまり聞かなかった。とはいえ、すぐやめる、と言い出すでもなく、その後長く続けていたところをみると割となじんでいたのだろう。

そこへ私が帰ってきた。高校を卒業し、広島を出て行ってから10年ぶりの息子の帰郷に夫婦は戸惑ったことだろう。が、ありがたいことに文句も言わず、二階の一室を提供してくれた。そして、そこが私の“次”への前戦基地となった。

日本へわざわざ帰ってきたのは、留学資金の補填のためでもあったから、帰って来てすぐに父にアルバイト先を頼んだ。学生だったころのように測量会社を紹介されるのはさすがにきついと思ったが、そのあたりは父もわきまえていて、広島駅近くの建設コンサルタントに臨時職員の仕事を見つけてきてくれた。

ちょうど港湾の設計部門でアルバイトを募集していたとのことで、さっそく翌週からそこへ働きに出るようになった。WVC時代のように正社員でない分、気も楽で、仕事の内容も設計補助ということで、私にすれば簡単な部類に入る仕事内容だ。

が、できる、と思わせると大変なことになると思い、能ある鷹は…を決め込んで、爪はなるべく見せないように仕事をした。家賃を払う必要もなく、実家なので食費もかからない。両親には申し訳なかったが、貰った給料は家に入れるでもなく、すべて貯金に回した。

このため、その後およそ半年ちょっと勤務することで、次なる留学のための資金は十二分に蓄えることができた。おりしも円高となり、1ドルが100円ほどにもなったためだ。ほんの少し前までは100円台後半だったから、1.5倍以上貯金が増えたことになる。フロリダ時代、アメリカに残るか帰国するか悩んだが、結果は吉と出た格好だ。

幸い、この会社に勤めていた間は繁忙期ではなかったため、仕事はそれほど忙しくなく、休日もカレンダー通り休める。こうして空けた時間を、留学先情報の入手に使い、また入学願書の書き方の勉強などもやった。次の年の春が終わるころには、最終的な願書提出先を決め、入学案内を送ってもらえるよう、各大学に依頼文書を書いた。

この当時はまだパソコンなどは普及しておらず、八丁堀にある骨董店で値ごろなタイプライターを手に入れた。生まれて初めて使うものだったが、慣れればそれなりに早く打てるようになるものだ。一字一句間違えないように入力していく作業は大変だったが、それはそれで楽しく思えるほどに上達した。

頭で考えた英文が活字になって紙に打ち出されていくのを見るのは楽しい。日本語なら手書きでしかできないことができる、ということに驚いたりもする。後年、パソコンが普及し、ブラインドタッチを覚えてから文章を書くのが好きになったが、そのころの私は英語ですでにそれを体感していた。

このころ私が入学願書を取り寄せた大学は多岐に及ぶ。できるだけ多くの選択肢の中から希望校を選ぼうと思ったからだ。

西海岸ではワシントン大学、オレゴン大学、カリフォルニア大学サンディエゴ校、同サンタバーバラ校、かつていたフロリダではフロリダ大学をはじめ、マイアミ大学やフロリダ工科大学、東海岸ではデラウェア大学であり、このほか南部のテキサス工科大学やハワイ大学のものもあった。

いずれも海洋学、もしくは海洋工学で有名な学校ばかりであり、州立大学を中心に選んだ。無論、理由は学費が安いためである。マイアミ大学とフロリダ工科大学は私立であり、もとより眼中にはなかったが、どんなカリキュラムがあるのか州立大学と比較してみたいと思い、パンフレットを入手した。

自分が希望するカリキュラムがあるかどうかがわからない大学もあり、それを問い合わせるために手紙も書いた。カリフォルニア大学のサンタバーバラ校もそのひとつだったが、そうした問い合わせに対して、担当の教授から懇切丁寧な手紙をもらったときは感激した。

自分の学校にはそうしたカリキュラムはないが、紹介する別の大学を当ってみてはどうか、という内容のその手紙をみて、見ず知らずの外国人に対してもこうした情報を出してくれるアメリカという国の学際機関の懐の深さを感じた。その後実際に留学したあとも、そうしたこの国の奥の深さを何度も味わうことになった。

こうした選別のあと、最終的には、ワシントン大学、デラウェア大学、テキサス工科大学、ハワイ大学の4校を選び、願書を提出した。東海岸に、西海岸、南部に太平洋上、とバラバラだが、これらの大学を選んだのには理由がある。海岸工学に関するしっかりとしたカリキュラムが組まれており、十分な知識が得られると判断できたからだ。

こうした願書には、大学時代の成績証明書に加えて、推薦状をつける必要がある。通常二通必要であり、学部卒の場合はその大学の教員、職場経験がある場合にはそこの上司のものをもらうのが一般的だ。大学のほうは、福田先生にお願いすることにした。一方務めた正規社員として勤めた会社は一社しかない。その会社、WVCの誰からもらわなければならない。

WVCを退職する直前、運輸省を退職してきた人が、前職と入れ替わって部長に就任していた。短い間のお付き合いだったが、それなりのコンセンサスはとれる間柄になっていたのでこの方に推薦状を依頼することにした。英語も堪能な方だったので、文面もお任せしたところ、立派な推薦状を書いてくださった。

もうひとり、福田先生のほうは英文はお得意ではなかったため、文案を自分で作り、それを見てもらった上でサインしてもらい、推薦状を準備した。

かくしてすべての書類が整い、5月半ばには発送した。早ければ6月に入ってからすぐにも返事がくるだろう。

このころの私は次のステップに対して意欲的だった。中学時代に勉学に目覚めたこと、また大学時代にはスポーツに目覚めたのとはまた違った形の自己改造に臨もうとしており、今回は勉強だけでなく、体をも鍛えなおそうと考えた。

もともと大学時代に射撃に燃え、基礎体力はつけていた。しかし就職後は忙しさにかまけて運動はおろそかになっており、先輩に勧められて始めたタバコの害もあって、体力はかなり落ちていた。

しかし今回のチャレンジは、今までとは違う、と何かが教えていた。ただ普通に臨んだだけでは失敗する。頭の中だけではなく、体全体を鍛えようと考えたのは、もしかしたら背後にいる誰かが後押しをしたのかもしれない。

幸い、アルバイトは忙しくなく、毎日早朝にランニングをしてもそれほど疲れなかった。十分な学資がたまり、バイトを辞めたあとは十分な時間にも恵まれたため、徹底的に自分をいじめた。朝夕5kmほどのランニングを課すとともに、腹筋背筋100回、腕立て50回づつを2セッション、その他の柔軟運動も加えて、毎日を過ごした。

おかげで2ヵ月もたたないうちに、腹部にはみごとなシックスパックができた。後にも先にもこれほど体づくりが進んだ時期もなかっただろう。

そうした中、先に提出した願書の結果が次々と帰ってきた。最初に返ってきたのはワシントン大学だった。そこには、学力は十分だが、英語能力が足りないので入学は許可できない、と書いてあった。やっぱりな、と思ったが案の定そのあと返事が来たテキサス工科大学も同様の内容だった。

ところが、その後続けてきた2通は二つとも合格だった。ハワイ大学とデラウェア大学である。いずれも英語力がやや不足しているため、入学前にELIで英語をシェイプアップすることが前提条件となっていたが、入学を認める、という内容に変わりはなかった。

この時はさすがにうれしかった。フロリダまで行って英語の習得に勤めたこと、日本に帰ってきて出直したことなど、それまでやってきたことが間違ってはいなかったという思いがこみ上げてきて泣けた。

だがしかし、まだ入学が決まっただけである。アメリカの大学は日本のそれと違い、入るのは簡単だが出るのが難しい、ということはよく言われることだ。その先のことが思いやられ、逆に不安にはなったが、ともかく扉が開いたことは間違いない。あとは努力していくだけだ。

最終的にどちらの大学を選ぶかについては、しばらく悩んだ。デラウェアといえばニューヨークにもほど近く、アメリカの文化を肌で感じ学び取ってくるには絶好の土地柄だ。一方のハワイも恵まれた気候と東西の文化の融合地点であり、何か面白そうなことがたくさん待っていそうだった。

かなり迷ったが結論として選んだのはハワイだった。かつてアメリカ西海岸の大学への進学を夢見ていたころがあり、ハワイはそこにも近い。いずれはそのチャンスも訪れるかもしれない、と考えたからだった。一方のデラウェアは、東海岸にあり日本からはあまりにも遠い。興味がないわけではなかったが、寒いイメージもあり、少し気が引けた。

後年、この時の選択が果たして正しかったかどうかについて、よく考えさせられた。人生にもしも、は禁物だとよく言われるが、このときデラウェアに行っていたらまた違った人生があっただろう。

一つの生で二つの人生を歩むことはできない。が、もしもう一度生まれ変わって同じ選択を迫られ、この時と同じ状況に置かれたらデラウェアを選ぶかもしれない。その理由は、その後のハワイでの勉強は想像以上に厳しいものだったからだ。

アメリカの大学でセメスター制をとる大学とクウォーター制をとる大学のふたつがある。前者は、一年を3つに分け、それぞれの時期に入学するが、後者は年に4つの学期がある。先のワシントン大学などがそれである。

どちらが良いとか悪いとかはいえない。それぞれの大学の特色に応じたカリキュラムの一環である。ただ、セメスター制にするか、クウォーター制にするかどうかの選択は、どうも大学がある場所の気候などにも左右されるらしい。

北部にある大学などでは、寒い時期には入学者が少ない。このため、クウォーター制にすれば学期を細かく刻むことで入学者が増える可能性がある。なぜなら学期が多いといういことはその間の休みも多くなるからだ。地方から来ている学生にとっては帰郷の回数が増える。留学生にとってはあまりメリットはないが、地元の学生にはありがたい仕組みだ。

ハワイは言うまでもなく常夏の国である。一年を通して気候は安定しているから、そうした調整はする必要はない。また、相対的に島外の遠方からやってくる学生が多いから、クウォーターはむしろ有難迷惑だ。

いずれの制度にせよ、アメリカの大学の一年は9月に始まるところが多い。ということは8月に多くの学生が卒業していくということになる。かくいう私の入学も9月であり、ホノルルにやってきたのは、その学生大移動の時期と重なった。このため、アパートなどの多くの下宿先ががら空きになり、選びやすくなる。

今回の留学先のハワイは日本にも近いということもあり、フロリダに行ったときほど多くの荷物を用意する必要はなかった。気候も良いため冬ものはほとんど必要ないし、日本人が多い場所だから、食べたくなったときのためにと日本食を用意する必要もない。このため、最初に比べて荷造りはずいぶん簡単に済んだ。

ただ、今回はふと思い立って一台の軽量なスポーツサイクルを預け入れ荷物で持って行った。これが、のちには大活躍することになる。

再び広島を離れる日が来た。前回と同じように母が広島駅まで見送りに来たが、お互い、前のようにはもう泣かなかった。高校を卒業して静岡へ向かったあの日から、ちょうど10年。母はもう54歳になっていた。

いつもその年齢より若々しく見えるその顔に向かって笑顔で手を振りながら、新幹線ホームで別れを告げて、東京へ向かった。今回も成田からのフライトである。東京では、父の友人である小山さんの国分寺のお宅に一泊お世話になった。

大学を出て就職をして以降、いつも家に呼ばれ、ごちそうになっているお宅だ。父の満州時代の友達で幼馴染である。でっぷりと太って布袋様のような顔をしている。私のように若い連中を家に呼んでは話をさせ、それを酒のつまみにしているような人で、ともかく面倒見がいい。

私も慕っていて、人生の節目節目には必ずお宅に伺い、あれこれとご高説を賜るのが好きだった。かつて小学校時代に近所の鉄工所の社長さんに車で学校まで送ってもらっていた時代から培ってきた「オヤジ殺し」がここでも生きていた。

ただ、特段気に入られようとしているつもりはなく、時に私のほうからも毒舌を吐くのだが、そこをまた面白がられた。忙しかったりしてしばらく疎遠にしていると、向こうから電話がかかってくる。毎回夜遅くまでしこたま飲ませてもらい、一泊して自分のアパートへ帰っていく、ということを何回繰り返しただろうか。ともかくいろいろお世話になった。

このときも出発前にお世話になり、翌朝発つ前には餞別までいただいた。恐縮していると、お礼は帰ってからの土産話でいい、といつものように豪快に笑った。その姿を今も懐かしく思い出す。このときから7年ほど経ってから亡くなったが、70歳前だっただろう。若くして亡くなったのはあの酒のせいかな、と今も思う。




1988年(昭和63年)8月。私は再びアメリカの地に立った。

もっとも前回のように、広大な広さを持つアメリカ本土ではなく、太平洋に浮かぶ、ちっぽけな島である。

ハワイ諸島─ ハワイ州の州都、ホノルルは、ハワイ王朝ができて以来220年の歴史を持つ。人口約40万人と言われるが、一時滞在の観光客やアメリカ国籍を持たない外国人居留者を加えれば、おそらく、常時50万人に近い人口になるだろう。

なぜこの地を選ぶことになったのか、今考えても運命の不思議さを想うが、その後この地で起こった数々のことを想えば、来るべくしてやってきた時間だったようにも思える。人は自分の人生のスケジュールを生まれる前に組み立ててから、この世にやってくるという。

その自分で用意した試練と喜びをこのあと、嫌というほど味わうことになるわけだが、ホノルル空港に降り立った時の私はまだそのことを知らない。

ハワイまでのフライトはだいたい8時間前後。アメリカ本土、ロサンゼルスへは10時間ほどだから、さほど違わない。太平洋のど真ん中にあるような印象があるが、思った以上にアメリカ本土に近いのだ。

とはいえ、朝飛べば夕方には到着できるということで、アジア人には人気が高い。とりわけ日本人渡航者が多いのは、その昔ハワイ州が多くの日本人を移民として迎え入れていたことと関係がある。現在でも日系人が多く住み、日本人観光客の来訪を支えている。

日本人や日系人が多いということから、私自身にも安心感があった。最初にフロリダに行った時に比べれば緊張感も少なく、また前回立ち寄ったことのある土地だったから不安は少ない。

ただ、前回のように事前に住まいをエージェントに頼んだり、といった事前準備はしていない。すべてはぶっつけ本番だ。下宿先は自前で探さねばならず、その他生活に関することの準備はすべて自分でやらなければならない。

その分、先が思いやれたが、なんとかなるさ、と開き直った。その昔、フロリダに初めて行った頃に比べれば、格段に英語がうまく話せるようになっていた、ということがその気分を後押ししていた。

ホノルルに着いてから一週間ほどはホテルに滞在した。住処を定めるまでには、それぐらいはかかるだろうと、それだけは事前に予約しておいた。アラワイ運河に面した宿で眺めはよくなかったが、ワイキキの町にほど近く、大学もすぐそばで、入学前に周囲の環境をいろいろ見聞きするにはちょうど良い立地だ。

ハワイ大学は、このアラワイ運河の北側に広がる斜面にしつらえられた大学で、一番上まで行くとホノルルの町や海が見渡せるほど山の手になる。眺めのよい校舎が多く、私の入学を認めてくれたOcean Engineering のメインオフィスのあるビルも高台にあった。

鉄筋コンクリート造りの近代的なビルで、その4階にある事務室に顔を出すと、ナタリー・タナカ、という年配の日系人秘書が対応してくれた。おそらく50代後半だろう。面倒見のいい女性で、その後卒業するまで何かとお世話になった。日本人や日系人多いホノルルだが、この学科に入学する日本人学生は少なく、私でまだ3人目か4人目のはずだった。

Ocean Engineering のスタッフにはほかにも日系人がおり、彼らにもその後いろいろと親切にしてもらうことになる。

まだ下宿先を決めていない、とナタリーにいうと、候補先のアパートのリストをくれたが、どこがいいとか、ここへ行けとかいったアドバイスまではくれなかった。ただ、大学院の学生向けのアパートばかりということで数は少なく、そのひとつひとつを明日から当たってみよう、と思った。

帰り際、ナタリーが、あっそうそう、ここへ電話してみて、と一つの番号をくれた。誰ですか?と聞くと、同じOcean Engineeringに在籍しているカズヒロという人だという。同じ学科に日本人がいるという話は聞いていなかったので寝耳に水だったが、ホテルに帰ってさっそく電話をしてみた。

口頭、何の御用ですかと聞くと、もう下宿先は決めたのか、と逆に質問された。いえまだです、と答えると、明日うちのアパートに来いという。どうも下宿先を紹介してくれるらしかったが、いきなりのことで驚いていると、いろいろ教えてやるからともかく来いという。

その日はもう夕方近くになっていたため、では明日お伺いしますと答え、住所を聞き、訪問時間を決めて電話を切った。これが右田さんとの初めての出会いであった。この人もまたその後私の人生に大きく関わってくるのだが、このときはまだこれから起こるそうしたことも予想すらできなかった。

翌日教えられた住所のアパートを、指定された時間に訪ねた。Kalo Terrace という下宿で、コンクリート造り2階建ての建物だ。20部屋ほどがあり、すべての部屋が大学院生向けだという。あとで紹介してもらった大家は日系人女性で、片言の日本語を話した。

右田さんの部屋は2階にあった。中に招き入れてもらうと広いリビングルームがあり、中には4部屋の個人スペースがある。いわゆるシェアハウスというもので、アメリカの大学ではよく見られるスタイルだ。

リビングキッチンでコーヒーか何かを入れてもらったと思う。大学がまだ始まっていなかったためか、ルームメイトはおらず、相手は右田さんひとりだった。まずはお互いの自己紹介から始めたが、彼は右田昭雄といい、私より5歳年上だった。

驚いたのは私と同じく建設コンサルタントに勤めていた経験があることだった。WVCほど大手ではなかったが、ライバル会社のひとつだ。失礼になると思い、こちらからはなぜ会社を辞めたのか、なぜ留学したのか、といった細かいところは詳しく聞かなかったが、要は私と違って待遇があまりよくなかったから、といったことのようだった。

面倒見のいいひとで、というか少々おせっかいなところもあり、頼みもしないのに、今後私がどうすればいいか、といったことについて一通りのレクチャーをしてくれた。

まずは住むところは迷わずここにすること、英語学校(ELI)は怠けずきちんと行き、早めに終わらせること、学科のカリキュラムはあれこれで、あの先生はどういう性格でこの先生はこう、といった具合だ。次から次へと説明されたが、最初に説明された下宿のことだけで頭がいっぱいになり、ほとんど頭に入ってこない。

この右田さん、その後日本に帰ってからは都立大学に努め、教授になる人だが、このころからもう人に教える、ということが好きな人だった。ともかく人に対してアドバイスをすることが自分の義務と思い、信条としているようなところがある。

私が入学したOcean Engineeringで既に修士号を取り、その後博士課程に入って2年目とのことで、私のことはどうやら他の先生方から聞き、入学してくる前から手ぐすねを引いて待っていたらしい。

その後も卒業する直前まで、学業のみならずプライベートなことについてもいろいろ教わり、お世話になった。さらにはその後日本に帰ってからも仕事の面でいろいろとアドバイスをいただいた。恩人といってもいいだろう。ただ、このころはまだ恩人というよりも面倒見のいい先輩、くらいに思っていた。

下宿の問題については、結局彼の言う通り、Kalo Terraceに住まうことにし、解決した。本当は自分でもっといろいろ探してみるつもりだったが、時間の無駄だ、学業優先ならここにしろ、学校も近くて便利だと諭された。その後実際に住んでみて、それを検証することになったが、彼の判断は正しかったことが証明された。

ところが、ここに住むにあたってはちょっとしたトラブルがあった。右田さんから勧められたあと、早速アパートメント側に申し入れをした結果、入寮資格としては問題なしと言われ、了解をもらった。で、どこが空いているのか、と大家に尋ねたところ、いますぐなら一階にひとつあるという。

ただ、その部屋には前のセメスターが終わってもまだ居座っているアメリカ人学生が住んでいるらしい。早速その部屋を訪問するとその白人男性が出てきた。何やらいらいらしているような感じだったが、構わず、いつ出ていくのか、と聞いたがはっきりしない。

何か事情があって、しばらくホノルルにいなければならないらしい。いつまでも出ていかないのは、おそらくホテルに泊まると金がかかるからだろう。数日置いて、また出かけて行ったが、今度は、直接本人には聞かず、大家にどうなったか聞きにいった。

すると、彼女も手を焼いているふうで、申し渡した期日になっても立ち退く様子がない、と逆にボヤかれた。

しかたがないので、ついには、再度自ら交渉に行くことにした。部屋をノックするとくだんの男が出てきたので、さっそく、いつになったら出ていくんだ、と聞いたところ、いきなり相手がブチ切れて口論になった。

私の英語もまだ拙いところがあるので、喧嘩といってもほとんどキャッチボールになっていなかったが、お前に言われる筋はない、とか指図される必要はない、とか相手の言っている意味はだいたいわかる。

これに対し、こちらも自分が知っている少ないボキャブラを駆使して応戦し、相手を非難した。生まれてはじめて英語でネイティブスピーカーと口論をしたわけで、あー俺もついに英語で喧嘩ができるまでになったか、とあとで感心した。

とはいえ、英語だろうが日本語であろうが喧嘩のときに使うことばは意味不明なものが多い。感情のもつれからくる争いであるからボキャブラリーはほとんど意味をなさない。喧嘩という感情のぶつかり合いは万国共通なのだということを悟り、妙に納得した一幕だった。

とはいえ、結局埒はあかず、入居問題は宙に浮かんだ格好となったが、はてと困ってしまった。いつまでたっても出ていかない相手と同じで、自分自身もホテル住まいばかりでは金がかかってしょうがない。

そこへ思いもかけずに救世主が現れた。その次にアパートを訪れた際、同じ一階に住むアメリカ人で、ジェームスという白人男性が、私に声をかけてきたのだ。のちに比較言語学か何かを専攻しているという話を聞いたが、眼鏡をかけてひょろ長く、人好きそうな顔をした好青年だった。

日本人でも一目見るなり、お互いウマが合うということが分かる人間が時たまいる。この時のジェームスがそうであり、事情を話すと、なんだそんなことか、それなら俺が住んでいるところに一つ空きができたから、お前が入ればいい、といとも簡単にいう。

見ず知らずの外国人、しかも日本人にいきなり声掛けをして、自分の仲間になれ、というに等しく、一瞬とまどったが、それなら、ということでともかく部屋を見せてもらうことにした。

このアパートには一つのパーティションに4人が入る個室がある、ということは前に述べた。あとの二人はどんな奴だろうと思ったら、同じく言語学科で学ぶケニーという白人男性と、もうひとりも同じ学科でラルフという人物で、彼も白人だった。

二人ともちょうど部屋にいて、私の事情を知ると、おー大歓迎だ、ここへ入れは入れという。思いがけない事の展開にさらに戸惑ったが、いずれにせよ大家に話をしないと、と断りを入れ、一旦その場を去ることにした。

大家はこの部屋に空きが出ることを把握していなかったらしかったが、そのあとジェームスが口添えをしてくれていたらしく、それなら、ということでそのあとすぐにOKが出た。

最近よく思うが、人生においてはその時に本当に必要な出来事がまるで魔法のように起こる。このときも、もし最初に交渉していた部屋がすぐに空いていたら、この3人と出会うことはなかっただろう。その後約1年を通して彼らと共同生活をしたが、アメリカ人とはかくある人種かということを、彼らによって学ばせてもらったような気がする。

そうした経験から思うに、アメリカ人とは要するに直情的なのである。自分たちが正しいと思うことは、万難を排してでも推し進めようとする。さきの居座りアメリカ人が自分の我を通そうとしたのもそれだが、別の人物が助け舟を出してくれたのも、正しいことは押し通そうとする心からだ。直情的というのは、別の言い方をすれば「おせっかい」である。

かつて幕末に日本が鎖国を解いて開国したときのアメリカ人がそれだ。半ば強引にそれを押し切ったのは、自国の覇権をアジアにまで及ぼしたかったという理由以外にも、日本近海での捕鯨活動において必要な燃料や食料・水などを調達したかったからと言われている。

しかし、これまでのままでは日本は孤立してしまうぞ、他の国と付き合うほうがメリットは多いぞ、と幕府には諭したようで、こちらも半ば本音だったかもしれない。いわば老婆心から出たことだ。

結果として、そのおかげで日本という国は大いに発展したわけだが、ほかのどの国もなしとげなかったことをアメリカが率先してやった、というこの歴史的事実をこのとき思い出すとともに、アメリカ人の本質を見たような気がした。

とまれ、こうして、私のハワイでの大学院生活は、アメリカ人3人との共同生活、という思いもかけない展開でスタートすることとなった。



下宿の問題は片付いたが、問題は学業のほうである。Ocean Engineeringのオフィスに、今後何をどうしたらいいか、とお伺いを立てたところ、当面はそれほど難しくない専門課程の授業を受けながら、ELIに通えという。しかも三か月間も。

今回の留学で用意していた金は2年間ほど分だったから、3ヵ月のロスは大きい。もっと短くならないか、と交渉したが、ダメなものはダメだという。

しかたなくELIと学科の授業を掛け持ちで学業がスタートしたが、学科の授業はなるほど難しいものではなく、当初はそれほどきついとは思わなかった。ELIの授業も特段難しいものではなく、むしろ受講したことでさらに英語力はアップした。ところが、ELIでの履修期間を終え、ほかの専門課程の授業を受けるようになると、その厳しさに頭を抱えた。

英語の能力そのものはほとんど関係ない。その中身は高度そのものであり、かつて焼津や浜松で学んだことが、まるで幼稚園か小学校レベルに思える。

毎回、次の講義までに答えを出しておくように、と宿題を必ず出す先生もあり、その回答を導き出すために、昼夜問わず勉強しなければならない。昼間の授業は平均的に3~4課程ほど、時間にすれば4時間ほどだったが、下宿に帰ってからの勉強時間はその倍以上で、食事と寝る時間以外はほとんどの時間をそれに充てざるを得なかった。

下宿で勉強してもよかったが、学内には大きな図書館が3つほどあり、自主学習室があったため、そこを主に利用した。ひとりで勉強するよりも、周囲の耳目があるほう学習が進む。片やひとりだとすぐに怠けてしまう。やれお茶を飲むのに一服、外の空気を吸うのに一休みといったことを理由に勉強をサボりがちになるものだ。

その点、集団の中に身を置けば、ほかのみんなも頑張っているのだから、という意識が働く。自分にハッパをかけやすいのだ。人がいると集中できなくなるという人もいるかもしれないが私の場合それは逆で、周りの人以上に自分はやっている、と自分に暗示をかけることができる。ひとりでいるよりも集中力が高まるのである。

図書館のそうした自習室は夜中の12時には閉まる。夕方食事を終え、6時過ぎごろからその時間まで熱心に勉強している連中は、だいたい同じメンツだ。同じ学科の人間はほとんどいない。一体何を勉強している人たちだろう、と時には思うが、自分の勉強に忙しく、他人の勉強の中身にまでかまっている暇はない。

図書館は週末にも空いていて、さすがに休む人も多くなるが、私は土曜・日曜にも図書館のムシだった。もっとも日曜日の午前中だけは、少しだけ自分へのご褒美ということで、図書館の中の本を自由に見て遊ぶ時間を与えた。

ハワイ大学は、アジアと欧米文化の交流拠点ということで、人文系で高いレベルの学際部門があることで有名だ。イーストウェストセンターという比較文化の専門研究機関があり、東西からその分野の研究者たちが集まる。

大学の図書館内にもそれが反映されていて、その蔵書には世界屈指のコレクションが多数含まれている。日本語の書籍・文書も多数保管されていて、書架の「日本文化」のコーナーには、およそ100年以上の前の古書なども無造作に並べてある。

それらの中には江戸時代に印刷されたものと思しき、糸綴りの文書や絵画などもあった。さすがに漢文は読めないので手にしてじっくり読むことはなかったが、見る人が見ればすごいものなのだろうな~と感心しきりだった。

明治時代に発刊された本なども多く、私が確認した中では、ラフカディオハーン(小泉八雲)のKwaidan(怪談)の初版本(1904年に出版)は確かにあった。そのほか、名前を聞けばああ、あれか、というような有名な書物が、誰でも閲覧できる状態で置いてあるのだ。

とはいえ、興味はあったものの、それをいちいち見ていたら時間はいくらあっても足らない。ということで、古書解読のにわか専門家になることはなかったが、戦前の雑誌なども置いてあって、ついつい読んでしまう。

とくに週刊朝日の戦前のコレクションがあり、これがなかなか面白い。書いてあることの中身は現在とたいして変わらないのだが、その時代の風俗や習慣を窺わせる記述があちこちにあり、タイムスリップしているような気分になる。また、時々明らかにその当時にしか書けないような記事にもぶつかった。

例えば科学記事。「半世紀後に実現している技術」というコラムをみつけたので読んでみると、そこには太平洋戦争が始まる前に予想した未来の世界が描かれていた。けっこう奇天烈なものも多いが、当たっているものもそれなりにある。

弾丸列車の実現はそれすなわち新幹線のことであり、超小型の無線電話は、現在の携帯電話だ。遠く離れた場所へ瞬時に物を運ぶ技術、といったものはさすがに現在でも実現していないが、インターネットを通じた通販のことを指しているのならばあながち当たっていなくもない。

このほか、遠い昔に亡くなっている有名人のその当時のゴシップ記事なども面白く、時間を忘れてそうした記事を読みふけった。しかし長い時間熱中していると、ハッと気が付き、いかんいかん、勉強しなければ、とまた自主学習室に戻るのであった。

日々の宿題の中では、まったく人のいないところで、集中的に考えなければならないような考案もあり、そういうときには、少し離れたところにある法学部の専門図書館に行った。一つ一つ壁を隔てたブースがあり、そこに入れば外部からは完全にシャットアウトされて、物事に集中できるようになっている。

土日にはそこへ行き、一週間の間にクリアにならなかった問題に集中して当たったが、こういうときに必ずといっていいほど一緒にそこへ行く友人がいた。樫村君という。もともとこの図書館のことも彼から聞いて知ったのだったが、linguistics に所属する大学院生で、外国人に日本語を教える教師になるための勉強をしていた。

勉強の合間合間に食事に行ったり、何かに気晴らしに出かける際、お互いをよく誘った。文科系だけに当然、英語のレベルは私に比べるとはるかに高く、複雑な内容を相手に伝える必要があるときは、よく彼の助けを借りた。

彼は山梨の出身だが、祖母がここホノルル在住の日本人だといい、聞くと広島で生まれた人だという。直接会ったことはなかったが、また聞きで私のことを聞き、同じ広島で育ったと知ると、その後、お菓子だの果物だのをよく差し入れとして彼に持たせてれるようになった。

そんなこともあり、ハワイ留学時代には右田さんと同じく最も仲良くしていた友人のひとりとなった。卒業後は音信不通になったが、風の便りでは、都内の短期大学で英語教師をしているという。その後どうしているだろう。




ハワイにおける1年あまり、学業また学業ということで、こうした勉強ばかりの日々は瞬く間に過ぎた。と同時に持ってきた学資もあっという間に減っていった。

これまで節約したこともあってまだ半年分ほどは残っていたが、そろそろ何か手を打たなければならない。

もともと持ってきた資金だけで卒業できるわけはなく、そのときは何等かのスカラーシップを獲得しようと考えており、このころがちょうどその潮時だと判断した。

秘書のナタリーに相談すると、いくつかのジョブを紹介してくれた。そのうち二つほどが興味のある、というか自分にできそうな仕事だった。ひとつは、数値解析の補助ということで、トルコ人の先生の仕事。もうひとつは海洋温度差発電に関する研究ということで、こちらのスポンサーはポーランド人の先生だった。

いずれも授業でお世話になっている先生であり、初対面ではない。どうしようかな、と右田さんに相談したところ、トルコ人のほうはやめておけ、という。理由はよくわからないが、この先生を毛嫌いしているらしく、どうも中近東の人間には偏見があるふうでもあった。

なので、いろいろお世話になっていることもあるし、ということでそちらはやめにし、海洋温度差発電のほうを選ぶことにした。

ポーランド人のほうは、Ulam(ウラム)先生といった。東欧には多い名前らしい。研究室はどこか、とナタリーに聞いたところ、校内にはなく、学校から少し離れたところに研究所があり、その中にあるようだ。

さっそくアポを取ってもらい、そこへ向かった。ワイキキから西へ2kmほど離れた倉庫群の中にあり、海に面している。その昔、津波の研究で業績があったLook博士という人の名前にちなんで造られた研究所だが、かなり古い。

おそらく40年以上は経っているだろうその建物は、外から見ると廃墟に見えなくもない。入り口にある、J.K.K.Look Laboratory の看板を見落とせば、誰もが倉庫と間違えただろう。

実際、造りは倉庫とほとんど変わりない。同じように内部が空洞になっており、ただ、そこには大きな実験水槽がしつらえてある。

そのそばに立っていた日系人の男性スタッフに、先生はどこかと尋ねると、今2階の研究室にいるという。階段を上がり、ドアをノックすると、授業で見慣れた顔が現れた。

しかし、直接会話をするのは初めてだった。ネイティブのスピーカーではない、とUlam先生はわざわざ最初に言い訳したが、確かにそれほど英語がうまいとは言えない。無論、私よりもはるかに達者なのだが、どことなく訛りがある。

このとき、My English is still improving(私の英語はいまだ進化中だ)と先生が言った言葉が頭に残り、その後自分でもよく使うフレーズとなった。

お互いの簡単な自己紹介のあと、具体的な仕事の中身の話に入った。最近新しい計測機器を仕入れたが、処理するプログラムが古いコンピュータの仕様のままなので、新しいマシンに合わせてプログラムを組み替えてほしい、ということだった。

ハワイへくる以前、自前でパソコンを買うほどのオタクだった私にはうってつけの仕事で、無論、二つ返事でこの仕事を受けることにした。

その後、この仕事が終わったあとも、いろいろな仕事をやらせてもらい、結局ハワイ大学の後半の学資は、すべてこのUlam先生の研究費用から出してもらったことになる。

最初に任された仕事が終わったあとも、いろいろな仕事をやらせてもらった。海洋温度差発電を実現するための実験装置の整備や、ホノルル湾の海水汚濁の状態を把握するための採水調査、といった仕事などがそれだが、後者は結局私の卒論のテーマとなった。

学会があるからといって、ハワイ島へ連れて行ってもらったこともあり、何かにつけ面倒をみていただいた。恩人と言ってもいい先生だが、卒論のときにちょっとしたトラブルがあった。私が書いた論文の中身が気に入らないので書き直せという。

私としては完璧なものに仕上げたつもりだったが、先生によれば構成とか文章とかがなっていない、ということらしく、私が手を入れてやるからともかく修正しろという。

仕方なく仰せにしたがったが、その校正というのがいつまでたっても上がってこない。そうこうしているうちに、一ヵ月が過ぎ、二カ月が過ぎで、とうとうハワイ在住が三年半にも及ぶころ、さすがにしびれを切らした私は、いったん日本に帰りたい、と頼みこんだ。

そのころの私はアメリカに残るよりも日本に帰って再就職をしようと考えており、いつまでも大学に縛り付けられるのはこりごりだと思い始めていた。卒業に必要な単位はすべて取っており、あとはその論文だけだ。

それなら日本に帰ってこい、その間論文の校正をしておいてやる、と言われて帰国したが、結局その後、その論文は自分で最終校正もすることもなく、学校に提出された。

結果オーライで何も問題なく、その後私は無事ハワイ大学を卒業したが、その知らせが届くころには日本におり、結局卒業式に出ることもできなかった。ハワイに4年近くいて唯一悔いが残ることではあったが、アメリカの大学院を無事に卒業できたということは、大きな自信となるとともに、その後の人生における勲章となった。



閑話休題。

いきなりハワイ時代の最後の方に飛んでしまったが、ここでの生活についてもう少し書いておこうと思う。

これまで書いてきたことの多くは学業のことだが、それ以外のことだ。ハワイでの生活の90パーセントだったと思えるほどに勉強は忙しく、おそらく人生の中でもこのときほど勉強した時期はなかっただろう。一生分の勉強をこの時期にしたようにさえ思える。

しかし残る10パーセントは楽しかったこと、よかったことばかりである。そのひとつは気候だ。ハワイの空気は一年中爽やかで、ほとんど湿気がない。年から年中季節風にさらされているためであるが、その風が山間部に当たって上昇気流を作り、時折雨を降らせる。

ふもとは晴れているのに山のほうは晴れている、というお天気雨の状況がたびたび現れ、これが美しい虹をもたらす。レインボー・アイランドの別称があるほど虹が頻繁に出ることで知られ、それにあやかってハワイ大学のフットボールチームの愛称は、レインボーズだ。

もともとは海底火山だったものが海底から隆起してハワイ諸島を形成しており、このためオアフ島も、島全体が火山岩でできている。多孔質の岩であるため、雨が降っても中に水を溜めず、それがそのまま海岸線まで流れ落ちる。

その水が柔らかい火山岩の大地を穿ち、この世のものとは思えないほどの奇形を作るともに、その合間に植物が根を生やし、大きく育って実に美しい景観を形成した。

その景観は海岸ごとに異なる。南にあるパールハーバーでは比較的単調で穏やかな地形を示すが、東へ向けては徐々に荒々しい海岸線に変わっていき、北部ではほとんど断崖絶壁の様相を示す。

その合間あいまに白い砂浜があり、渓谷があり、場所によっては美しい川が流れていて、季節や時間変化によってまさに変幻自在の風景を醸し出す。

そうした風景の数々を学業の合間に見て回る機会が何度もあり、その都度感嘆したものだ。
とくに学校にも近いパンチボールや、ダイヤモンドヘッドにはよく登り、そこから見える絶景を日が暮れるまで飽きもせずによく眺めていた。

日本から持ってきた自転車はそんなときにお供をしてくれる最高の道具だった。10キロほどの軽量サイクルで、これに乗ってそれこそホノルル中を巡った。

2年生の後半になってからは50ccのバイクを手に入れ、これによってさらに行動範囲も広がった。住んでいたところから、かなり離れた場所に日系人の経営する床屋があることを知り、数か月に一度はそのバイクで通った。日本語のできる年配の美容師さんがいて、ハワイに来てからの彼女の苦労話をここでよく聞かされた。

その彼女の旦那さんは日本語がしゃべれなかったが、私が行くと、いつも英語で、「シェイブアイス食べるか」、と聞く。かき氷のことであるが、床屋の隣でやっている乾物屋の商品のひとつでもあるそれを食べるのが、この床屋へ行くもう一つの楽しみでもあった。

レインボーアイスと称し、虹色のシロップがかかったシェイブアイスの味は忘れることができない。髪を切り、シャンプーをしてもらい、まだ乾ききらない頭に風を受けながらバイクを飛ばして走る夕暮れのホノルルの町は、バラ色に見えた。

このころ、ハワイでの学業以外の活動として私は、ジョギングを日課にしていた。留学する前、かなりハードに体を鍛えていた私は、ここでもその手を緩めなかった。

住んでいたアパートを走り出て、毎日ダイヤモンドヘッド近くの動物園の脇を通り、ワイキキの浜沿いに走って大学方面に帰る、というコースをお決まりにしていて、毎日だいたい6~7kmほどは走った。

卒業間際になるとさらに距離が延び、日によっては10kmほども走ることがあった。ホノルルには毎年12月になるとホノルルマラソンという大イベントがある。日本航空が主催するもので、1990年のこの年の暮れの大会に、私も参加した。

集合は朝の5時。スタート地点は、ホノルル東部にあるカピオラニ公園という場所だ。与えられたゼッケンをつけて、号砲とともに走り出したのは6時。早暁のホノルルの街中を走り抜けてゆく。

ゴールであるアラ・モアナ公園に着いたのは昼過ぎ。目標5時間というところを4時間半で走り切り、初めてのマラソンとしては上々の成績を得た。もっともいきなり出場したのではなく、数か月前からこの大会を意識し、毎日かなりのトレーニングを積んでいた。

それでも走り終えたあとはへとへとで、翌日は筋肉痛で歩けず、その後1週間ほどはびっこを引いて歩いていた。あとで聞いた話だが、ホノルルマラソンの翌日はいつも、ホノルルの街中を同様にびっこをひいた日本人観光客が多数歩いているそうだ。

その数週間後、体に異変を感じた。ある朝トイレに行って小用を足すと、深紅の小便が出た。これが自分の体の中から出たものか、というほど大量であり、どう考えてもこれはただ事ではない。

すぐに大学構内にあるクリニックに行き、精密検査をしてもらった。血液検査やらCTスキャンやらいろいろ検査を受けたあと、最後に韓国人の先生の問診を受け、そのあと後ろ向け、いまから俺がやることを勘違いするな、といわれた。何のことかよくわからずにおとなしく背を向けたところ、ズボンを脱ぎ、前にある机に手をついて前かがみになれという。

大腸からの出血があるかどうかを確認するための肛門検査であったが、「勘違いするな」の意味は、いわゆる男男関係にある人たち間で行われることと間違えるな、ということか、とあとでわかった。この国の裏事情を垣間見た気がしたが、それを勘違いする奴もいるとすれば素直には笑えない。

検査結果が出るまでは気が気ではなかった。ハワイまでやってきて苦学した結果がこれかよ、とワイキキの浜で海をみながらたそがれたが、幸いなことに、一週間後にもたらされた結果は異状なしだった。

のちに帰国して再度精密検査を受けたところ、尿道結石だと言われた。体質的に石ができやすいともいわれ、薬を飲んでいれば直る、ともいわたが、その後痛み止めを飲み続けているだけでなんとか完治した。

想像するにもともと尿道に石が詰まっていたところを、マラソンなどの激しい運動によってそれが動き、周囲の細胞を傷つけたからではないかと思う。正しい見立てかどうかはいまだわからないが、おそらくそんなところだったろう。

帰国を前にしたとんだハプニングだったが、これ以後、ジョギングはそこそこにし、来たる卒業に備えて勉学に集中することにした。

これ以外にもハワイでの思い出は多々あるが、それらも加えたここでの生活は中身が濃く、ぎっしりと詰まったもの、という印象がある。おそらく今後もこれと同じような日々はこないだろう。地道な努力を重ねる厳しい日々ではあったが、人生最良の一時期として、生まれ変わってもまたその記憶は持ち継がれていくに違いない。

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