1986年8月下旬。私は、フロリダ州、ゲインズビル・リージョナル空港に降り立った。
エアコンの効いたロビーからガラスドアを開けて外に出ると、むっと熱い空気が体を包みこむ。日本の夏とは違う強烈な暑さだ。日差しが強く、むき出しの肌はすぐにチリチリと日焼けしてしまいそうだ。
到着したのは10時くらいであり、朝食をとるにも昼食をとるにも中途班半端であったため、食事はせずそのままタクシーを拾い、これから住むことになる大学近くのアパートを目指した。
その車中、改めてここまでの旅のことを想った。重いスーツケースを引きずり、生まれて初めて訪れた成田空港は思った以上に広かった。長い旅はそこから始まった。
成田も初めてだったが、そもそも海外旅行そのものが初体験だ。出国手続きや、税関申告のことなど事前にいろいろ勉強はしていたつもりだったが、聞くと見るとでは大違いで、ずいぶんと戸惑った。
現在もそうだろうが、この当時も日本国内からフロリダまでの直通便はほとんどない。このときの私も、まず西海岸のロサンゼルスへ飛び、そこから東部のアトランタへ、さらに乗り継いでようやくフロリダに到着した。
ロスまでのフライトが約10時間、アトランタまではさらに4時間、そこからさらに1時間半かかる。待ち時間も含めれば24時間を超え、足掛け2日間にもおよぶ長旅だ。移動だけでも疲れたが、慣れない英語で情報を見聞きしながらの道中の緊張は半端ではなかった。
寝不足も加わって疲労はピークに達していたが、アトランタから最終目的地まで乗ったレシプロ機では窓外の景色を見落とすまいと、ずっと起きていた。アトランタを飛び立った直後に見えていた街並みはすぐに消え、やがてジャングルや湿地帯の上を飛行機は飛び始めた。
ところどころに陸地があるだけの、見渡す限り沼ばかりの場所も多い。もしここで飛行機が落ちたらうようよいるワニの恰好の餌になるんだろうなーと悪い想像をした。その未開の地を窓から眺めながら、あーこりゃあ、もしかしてとんでもないところに来てしまったかもしれない、とも思った。
飛行機はやがて最終目的地のゲインズビルの街中に入っていく。高度が下がってくると、それまでの湿地帯ばかりだった風景が変わり、ジャングルの中に点々とする街並みが見えてきた。やたらに平屋が多く、またやけにオレンジ色の屋根が多いな、というのが第一印象だ。
後で知ったことだが、フロリダはどこの町も沼地や湿地を干拓してできたところが多く、いわば海に浮かんだ孤島のような場所ばかりである。島から島へ渡るには道路を通す必要があるが、それも干拓して作らなければならない。
このため地図をみると、点と点を結ぶ道路がまるで蜘蛛の巣のように通っている。文字通り「網」というのにふさわしい交通事情だ。
ただ、当初は道路以上に鉄道が発達していた。ゲインズビルは、南北戦争後、大西洋やメキシコ湾の港から鉄道が直結する町として発展した。柑橘類生産の中心として繁栄し、1905年にフロリダ大学がここにできると、上下水道や電力供給システムもが整備され、町としてさらに大きくなった。
とはいえ、現在の人口は12万人ほどで、フロリダ南部の主要都市、人口30万人のマイアミの半分以下だ。
空港で拾ったタクシーの車窓からぼんやりと外を眺めていると、灌木に囲まれた家々が次々と現れては消えていく。空からも見えたように二階建てはほとんどなく、平屋ばかりだ。もっと背の高い建物ばかりの街並を想像していたので、えらい田舎だなーという印象をもった。たいして変わり映えもしない景色をしげしげ見ているうちに目的地に着いた。
今回の留学における飛行機の手配や滞在先、入学手続き等は、北の丸のエージェントに一括して頼んであった。留学斡旋といえば今でこそ数多くの会社が手掛けているが、この当時、信頼できそうなのはここぐらいしかなかった。
毎朝新聞社が運営しており、英米への留学を主に扱っている。私の相談にも懇切に答えてくれ、留学先での生活にもいろいろアドバイスをくれた。
そこが手配してくれたのが、到着先のラ・マンチャ・アパートメントという下宿だ。ほとんど留学生ばかり、アメリカ人はほとんど住んでいないと聞かされていた。
ドキドキしながら、玄関をくぐると、若い女性が出てきたが、第一印象からして悪かった。整った顔立ちではあるが、つんけんしていて、東洋人だとわかるととたんに態度が横柄になった。あとでわかったことだが、南米から移住してきたヒスパニックの一家がここを経営しており、そこの娘らしい。
あんたの部屋はここよ、といわんばかりにあご先で部屋のある方向を指し、相手が理解していようがいまいがおかまいもなく、早口で説明を始めた。最後に注意書きの書いてあるらしいパンフレットをポイっと渡された。
部屋への案内もなにもない。仕方がないので勝手に部屋に行き、ようやく荷物を下ろしたが、そこで待っていたのは、アフリカ人と中近東から来たという留学生二人だった。
黒人のほうはソマリア、中近東のほうはヨルダンからとのことだ。生まれて初めて身近に接することになる外国人がはるか遠い、行ったこともない国から来たことに少々面食らった。
もっとも驚いたのはそのときだけで、そのあとから会う人会う人すべてがこれまで見たことも話したこともない人種ばかりであり、そのうち慣れてしまった。言葉が違うだけで、所詮は同じ人間だ、と思えるようになったのは大きな進歩だ。
外国人を見ただけでドギマギしてしまう人がいる。しかし「人種のるつぼ」の中に入ってしまえば、そんな外国人アレルギーなどは、すぐに消えてしまう、ということをこのころの実生活の中で知った。
ラ・マンチャ・アパートの部屋は思ったほど広くはなかった。しかし、バストイレ付きで、共同のキッチンやランドリーもあって、生活には不自由しなかった。暑い時期だったがエアコンも効いていてこちらも問題ない。
ルームメイトのうち、ヨルダン人のほうはいけすかないヤツだったが、ソマリア人のほうとはすぐに仲良くなり、夜になるとお互いのことをよく話した。化学専攻の大学院生でこれから博士課程で学ぶという。ソマリアといえば、その後の内戦によって国が荒廃し多くの難民が出たことで知られるが、この当時はまだ平穏な国だった。
家族のことや、母国のことなどをこのソマリア人の新しい友人と夜な夜な話した。外国人が友人?ということ自体が信じがたいことだった。話の中身は日本人相手でも話したことのないような内容で、それを英語でしゃべり、ちゃんとコミュニケーションがとれている、ということも驚きだった。
このソマリア人の彼とはその後アパートを移ったこともあり、疎遠となったが、初めて親しくなった外国人ということで今でも懐かしく思う。祖国が内戦で大変なことになっている中、今どうしているだろうか。
そんな日常会話を通じて、私の英語は格段に進歩していった。無論、英語学習の場は下宿先が主体ではなく、フロリダ大学の構内にあるELIだ。
このフロリダ大学は、1853年に創設された州立大学であり、フロリダ州で最古の歴史と最大規模を持つ。もともとは神学校として創設されたものだが、その後普通の大学に昇格し、1905年に現在の校名となった。
学生数は、学部生と大学院生を合わせて約5万人で、全米第2位という巨大な学び舎だ。100を超える専攻と16のカレッジを有し、ゲインズビルの人口12万人のうち、約4割がフロリダ大学の学生である。その運営費は約20億ドルと言われ、こちらは全米で8位だ。
レベルは高く、州立大学のランキングでは毎年、上位に名を連ねる名門大学である。卒業生には多数の上院議員、州知事、米国大使のほか、ノーベル賞受賞者もいる。2014年に青色発光ダイオードの研究でノーベル物理学賞を受賞した中村修二さんも、研究者としてこの大学に1年間籍を置いていた。
このほかワイモバイル創業者の千本倖生氏は、ここで電子工学の修士・博士(Ph.D.)の学位を取得しており、元プロゴルファーの東尾理子さんも、ここの心理学科を卒業している。アメリカ人の卒業生にも多くの有名人がいるが、日本人になじみのある人はそれほど多くない。「羊たちの沈黙」でアカデミー賞監督賞受賞したジョナサン・デミ監督ぐらいだろうか。
そのキャンパスは広大で、総面積は約810ha(8.1平方キロ)もあり、これは全米で3番の大きさを誇る。おそらく大小200以上の建物がある中には巨大なフットボールスタジアムも含まれ、ゲイターズ(Gators)と呼ばれるフットボールチームに対する市民や学生の熱狂ぶりは有名である。
広大な敷地内はまるで森のようでもあり、樹齢100年以上の巨大な樹木の間に教育施設が点在する。あちこちに池を中心にしたサンクチュアリが設えられており、学生や教師たちの心の安らぎの拠り所だ。秋になると、その間を縫うようにしてリスが走り回る。木々の枝を昇り降りするその姿を見ると癒された。
娯楽施設などもあり、ゴルフ場やボーリング場まである。道路は広く、4車線道路が普通だ。構内には専門の警官がいて、パトカーや白バイで巡回し、常時速度違反や駐車違反を取り締まっている。
この広大なキャンパスの一番北の端にELIはあった。マーサリーホール(Matherly Hall)と呼ばれるビルの中にあり、このビルはまた、リベラルアーツ(liberal arts and science:基礎教養学部)の本部になっていて、ELIはこの学部の一機関、という位置づけだ。
私の担任の先生は3人ほど。すべてが同学部の大学院生もしくはそれを専門とする先生だ。ELI全体では10人ほどの教師とスタッフがいたと思う。
ゲインズビルに着いて、1週間後には、このELIで初めての授業があった。ここのELIもそうだが、どこの大学のELIも自前のプログラムを持っている。基本的にその内容はグラマー(文法)、リーディング、ヒアリング、日常会話などで、科目自体は日本とほとんど変わらない。
しかし大学毎にそれぞれ独自の教え方を研究しており、フロリダ大学のものは他より優れている、と聞いていた。
あたりまえのことだが、教材は無論のことすべて英語であり、先生によるインストラクションも英語だ。時折催されるディベートもプレゼンテーションもすべて同じであり、まさに英語のシャワー漬けである。
放課後は、指定の教材をリスニング室に持って行って、ヘッドホンで聞く。内容はアメリカの歴史や偉人に関するもの、風土や観光に関するもの、と多彩だが、どれも外国人の興味を引きそうな内容が用意してあって、なかなか面白い。
歴史ものなら、たとえばアラビアのロレンス。映画で有名になったイギリス人だが、なぜアラビアに渡ったのかを私は知らなかった。教材を通じて知ったのは、オスマン帝国に支配されていたアラビア半島の開放のため、スパイとして潜入した、ということだった。
そうした偉人の生涯、あるいは地域の歴史などが簡潔にまとめてある教材を、テキストを読まずに耳だけを使って理解していくのだが、いくつかの章立てがしてある。
先に進むためにはそれをひとつひとつクリアーしていかなければならないのだが、内容もよく練ってあって、わかりやすい。どんな人物だったか、どんなことをしたのかを知りたいがゆえに必死になって理解しようとする。そのうちに、知らず知らずにヒアリング能力がアップしていく。
その他の教材についても、日本のものとは一味違うな、と思った。ネイティブな専門家が、英語を母国語としない外国人にいかにそれを理解させるか、といった計算をもとに作られている。
たとえば、リーディングであれば、何がポイントか、どこがわかりにくいか、といった本題が、学ぶ側に認識できるようになっており、それを確認し、クリアーしていくうちに、どんどんと英語力が深まっていくのが自分でもわかる。
また、どの先生も、いかにわかりやすい英語を自分でも使うか、というところに気を配っていて、難解なことはしゃべらない。英語というのは、実は単純な単語だけで意味が通じる、ということを身をもって教えてくれているわけで、生徒のほうもそれに倣ってわかりやすい英語を使うようになる。
日本の英語教育の場合、まずやたらと難しい単語や文法ばかりを先に習わせる。次いで、長文を読ませ、さらには無理やり英会話をさせようとするが、たいていの人は途中で挫折する。
一般に高すぎるレベルの教材を与えがちであり、そのことが原因でがんじがらめになり、読もうにも読めない、しゃべろうにもしゃべれない、というふうになってしまう人がいかに多いことか。
難しすぎない単語、シンプルな言い回し、基本的な文法、これを繰り返し覚え、理解する。それを自分でしゃべれるようになるだけでなく、人から聞いても理解できるよう、リスニングの練習を重ねる。そんな簡単なことだけで英語はうまくなる。シンプルイズベスト、これが英語習得の極意である。
そうしたコツのようなものが分かってからの私の英語能力は飛躍的に伸びた。3ヵ月もしないうちに、アメリカの学部入学に必要な最低レベル、TOEFLで500点をクリアーした。もとより日本で勉強してきた素養があったせいもあるが、これほど早くこのレベルに至るとは自分でも考えていなかった。
しかし、大学院への進学を目指していた私にとってはこの点数ではまだ不十分だった。最低でも550点を入学条件にする大学が多いことから、今少しここでの勉強を続ける必要があることは明らかだ。
とはいえ、ある程度のレベルに達したことから、あとは急に楽な気持ちになった。クラスの内外の人たちともよく会話をするようになり、友達は次々とできた。
私が所属していたクラスは雑多な人種の集まりで、アルゼンチン、コロンビア、プエルトリコなどの南米からが多かったが、ほかにもイラクやナイジェリアなど中近東やアフリカ諸国から、スイスなどのヨーロッパからの留学生もいた。
彼らとはクラスの中ではもちろんのこと、授業が終わってからもプライベートな話題で盛り上がり、すぐ仲良くなった。お互いが住んでいる国や環境のことだけでない。何を考えているのか相手のことをもっと知りたい、という原動力が人と人とを結びつける。好奇心こそ、言語を習得するコツだ、ということをこの異国の地に来て改めて学んだ気がする。
同じクラスで東洋人は私一人だけだったが、アジア系が少ないのはここのELI全体でいえることで、その理由はやはり母国から遠い、ということだったろう。地球の裏側から来るにはやはり時間も金もかかる。距離という点ではやはり南米が近いことから、ここからの留学生が最も多く、次いでアフリカ、ヨーロッパの順である。
もっともヨーロッパでは英語を習う環境が整っているため、わざわざアメリカまで英語を習いに来る人は少ない。とはいえ、半ば物見遊山で来る輩もいて、そういう連中の目的は英語習得というよりも観光である。
私のクラスにいたスイス人は若い女性だったが、面白い子で、いつもジョークで皆を笑わす人気者だった。この子も英語習得が目的というよりも、何か面白いことがありそう、といったノリでやってきたようなところがある。学校が終わるといつもどこかへ遊びに行っているようだった。
どこへ行っているかまでは詮索しなかったが、一度デートに誘われたこともある。もっともこのころの私にはそんな心の余裕はなく、丁重にお断りした。あとになって、仲良くしておけばよかったなーと後悔したが後の祭りだ。
いずれまたヨーロッパへ行く機会があったときにはお世話になったかもしれないのに、と思ったものだが、向こうも案外と同じような下心があったのかもしれない。
仲良くなった友達は外国人ばかりではない。数は多くなかったが日本人もいた。最初に接触があったのは、同じELIで学ぶ女性だった。江田幸代という名前だが、親しくなってからはサッちゃんと呼ぶようになった。
親しいといっても男女関係のそれではなく、同じ学校で英語を学ぶ友達の域を出ない。まったく意識しなかったわけではないが、なるべくそれは考えないようにしていた。このころの私は密かに自分に課していたことがあり、それは「女人禁制」ということだった。
かつて高校や大学時代、また就職してからも焦がれるような恋をしたが、その都度勉強や仕事が手につかなくなり、いつもみじめな終焉を迎えた。
今度の留学は、いわば一世一代の大勝負であり、女性「なんかに」うつつを抜かしている場合ではない、と思っていた。スイス人のクラスメートからのデートの誘いを断ったのもその思いからであり、サッちゃんとの間もそうした関係にならないよう気を付けていた。
ところが困ったことに、この子がまたなかなかチャーミングな女性だった。外国人にも人気で、一緒にいると行く先々で彼女へお声がかかる。その都度、おれは恋人じゃないよ、というフリをした。
彼女のプライベートな環境には頭を突っ込まないようにしていたが、気にはなっていた。言動からそれとなく異性関係を類推した。すると、やはり何人かの外国人とデートも重ねているようでもあり、そのうちの何人かとはかなり親しそうだ。
もっとも、デートという感覚自体が古い。最近の日本でも同じだろうが、知り合った男女が一緒にどこかへ出かけたとしてもそれをいちいちデートとは言わない。四六時中一緒にいて明らかにべたべたしているようなら、恋人同士といえるだろうが、少なくとも彼女にそういう相手はいないようだ。いわゆる八方美人というやつだ。
明るく奔放な性格だったので、ELIの中でも人気者だった。3つか4つ年下だったと思うが、年上の私をつかまえて「オジさん」と呼ばわっていた。あとで聞いた話では新宿に実家があり、かつてはOLをやっていたらしい。フロリダへ来たのは脱サラして新たな新開地を開きたい、といったところだったろう。
その後日本に帰ってからも時折近況報告をしあっていたが、最後に声を聴いたのは、ある日突然、電話連絡してきたときのことだった。このとき、東海岸にある大手の日本の銀行の支店に勤めることになった、と話していた。
意外にお固い職に就いたんだな、と驚いたが、それだけ適応力あったということなのだろう。結構遊び人だと思っていたのに、見直した。その後音信不通となってしまったが、今も元気でいるだろうか。
そのサッちゃんの紹介で、もう一人の日本人を知ったのはフロリダに来て2ヵ月ほども経ったころだったろうか。こちらは男性で、角田(つのだ)俊介といった。驚いたことに、私が入学しようとしていたフロリダ大学の海岸工学科の大学院生で、年も私とあまり違わないという。
きっかけは、サッちゃんと話している中、日本人留学生の中にあなたが志望している学科に入っている人がいる、と聞いたことだった。えっと思ったが、続けて彼女が、すぐ近くに住んでいるから紹介するわよ、という。
その日すぐにではなく、翌日か翌々日かだったと思う。彼のほうから私のアパートを訪ねてきた。少しやせ型で長髪、背は私よりも少し高いが長身というほどでもない。笑うと犬歯がむき出しになり、目じりが下がって愛嬌がある。
さっそく、私がフロリダに来た理由や、彼が所属する学科の話など、専門的なことの情報交換をして盛り上がった。以後、家族のことなどのプライベートなこともいろいろ話をしはじめ、すぐに打ち解けて仲良くなった。
一歳年下の彼は、横浜出身で、大学は商船大だったという。卒業後、大手の運輸会社に勤めていた父のつてで関係会社に入ったらしいが、そこを辞めてフロリダに来た。
住んでいるのは私のアパートからすぐのところで、歩いて5分もかからない。以後、頻繁にお互いの住処を行き来するようになったが、彼のアパートメントのほうが広かったせいもあり、こちらから出向いていくことのほうが多かった。
料理好きで、同じく何でも調理できた私とはその面でも気が合い、一緒にキッチンに並んでは、異国ではふだん味わえない料理をお互いが作りあう、ということが続いた。私がかつ丼を作れば、彼がラザニアを作って振る舞ってくれる、といった具合で、その場に共通の外国人の友達や、サッちゃんも加わることもあり、一気に友達の輪が広がっていった。
もともと一人でいることが多く、自分のテリトリーを広げることが苦手な私にとって彼は、その環境を押し広げてくれるありがたい存在だった。既に大学院2年目に入っており、同じ学科の友達も含め多くのアメリカ人の友達がいた。彼らのアパートであったパーティなどにも参加させてもらう、といったことも増えた。
私はその後、ラ・マンチャ・アパートを出て、別のもっと広いアパートに移り住んだ。そこで彼の友人たちを集め、自らが主宰するパーティを開いたこともある。
アメリカには「パーティ・アニマル」という人種がいる。週末になり、学業や仕事が休みになるとあちこちでパーティが開かれる。そうした集まりが本能的に好きでたまらない、というお気楽連中を指す。大学関係者の中にもそうした嗜好者がおり、どこかで何か集いがある、という情報を仕入れるとすぐに飛んでくる。
ようするに大学というところはたいして行くところがないのである。毎日難しい勉強や仕事ばかりしていては息が詰まってしまう。映画やゲーム、ビリヤードなどの娯楽にいそしむ人たちがいる一方で、そうした普通の遊びにはすぐに飽きてしまう人も多い。
大勢が集まる場はやはり楽しいし、ときには思いがけないハプニングもあったりする。人間関係が絡む場なので良いこと悪いこと色々だろう。が、お相手を見つけるチャンスでもありそうした出会い場を求めては、会場をはしごする。パーティを通じてストレスを発散する、という意味もあり、それがひとつの文化になっている国なのだ。
ゲインズビルにはおよそ10カ月ちょっといた。その後、アメリカ国内を旅行したりもしたから、このときの渡米での滞在はおよそ11カ月に及ぶ。
ここでの生活は、当初こそ先が思いやられたが、ある程度英語が身についてからは楽になった。ELIでの生活が終盤に近付いたころには、ひとりでレンタカーを借りて、あちこちを運転して回ったりもし、また友達同士、方々を旅行した。
友達というのはほぼすべて日本人である。フロリダ大学で学ぶ日本人の数は少ない。それすべてを私が知っている、というのは過言かもしれないが、全部集めても20人いるかいないかだったろう。知っている、というのは半ばあたっていたかもしれない。
僻地に行けば行くほど日本人は結束が強くなるようで、そうした数少ない日本人が集まる機会は割と多かった。そうした旅行も誰ともなく起案し、なんとなく出かける、ということが多かったが、あるとき、角田君と私、ほかに日本人女子学生3人を加えた5人で旅に出かけようということになった。
ゲインズビルから南下して、フロリダ最大の湖、オキチョビー湖を経由してマイアミ、そこから最南端のフロリダ・キーを目指した。しかし、学生ばかりだったので、みんな金がなく、車中泊を一度、またもう一泊は安宿の一部屋に5人が泊まる、という貧乏旅行だった。
男性二人に女性三人ということで、そこからさぞかしラブロマンスが生まれただろう、と読者は思われるだろう。が、そんな浮いた話はこの旅行ではまったくなかった。皆、初めて見るフロリダ南部の広大な光景に圧倒され、それどころではない、というところだったろう。
また別の機会には、別のメンバーと、フロリダ州を離れてはるか西方にあるルイジアナ州はニューオリンズを目指した。3月にマリデ・グラという大きなお祭りがあるということで、これも角田君の触れ込みで、ぜひ見に行こうということになった。そのときはインド人一人を含む、男性ばかり4人で出かけた。
ニューオリンズはその昔はフランス領だったこともあって、街の作りはほぼフランスと同じであり、哀愁のただよう町だった。一日中パレードが繰り広げられ、町中の人々が踊り狂う、というお祭りで、外国人もここに殺到する。
ジャズの町としても有名で、高名なミュージシャンを多数輩出している。私は一緒に行かなかったが、角田君は一人でジャズバーに出かけて生演奏を聴き、そうした有名人の一人と握手をしてもらった、と自慢していた。
フロリダ州内のそのほかの場所にも頻繁に出かけた。スペイン統治時代の古都、ジャクソンビルや、商工業地帯として発展したセントピーターズバーグ、タンパ、ディズニーランドで有名なオーランドなど、およそフロリダの主要都市はほとんどすべてをこのころ旅して回った。
セカンドセメスターが終わる4月末、私は何度目かのTOEFL試験で、540点ほどの点数を得た。目標の550にはもうすぐであり、この点数で受験をしても受け入れてくれる大学は多数あると判断できた。
当初はこのままここにいてフロリダ大学の本校に転入しようと考えていたが、問題がふたつほどあった。
ひとつは気候だ。その前の年、初めてフロリダの夏を経験したが、8月に渡米してからというもの10月のはじめごろまでずっと、ぐずぐずと天気が悪かった。加えて気温も異常に高くてまるで毎日が蒸し風呂状態だ。
学校やアパートに帰れば冷房は効いているものの、天気の悪い日が続けば気分も落ち込む。フロリダに来た当初、まだ英語もうまくしゃべれず、その上にこのうっとうしい夏を迎えたので、逃げ出したい気分に何度もなった。
ここにさらに長くいれば再び同じ季節が近づいてくる。それが嫌だった。卒業まであと何年もかかるとして、その間、この天気を何度も経験するのはたまらない。もともと広島育ちの私は暑さには強いほうだが、初めて経験するこのアメリカ南部の海洋性気候にはほとほと参り、もういいや、という気になっていた。
もうひとつは資金だ。当初、ELIでの勉強はそこそこで終え、スライド式に大学院に転入すれば、2年ほどは生活できるはずだった。そのあとは大学内で何らかのスカラーシップ(学究的な職に就いて奨学金をもらう制度)をもらえればなんとかなる、と考えていた。
しかし、ELIでの授業に金をつぎ込んだせいもあり、残った資金は、1年少々分しか残っていない。大学に入学するためには2年分ほどの自己資金が求められるため、このままでは入学できない。
選択肢としては、このままアメリカに残って何等かの職を見つける、というのがひとつ、もうひとつは一旦日本に帰って、再度体勢を整えるという選択だった。
前者は就労ビザの問題があり、なかなか簡単にはいきそうにない。それなら一度日本に帰り、アルバイトでもしながら金を稼ぎ、その間、志望校を再度選定しなおしたうえで、もう一度来米しよう、と心を定めた。
はじめての渡米から10カ月近くになろうとしていた6月、私は帰国の準備を始めた。
しかし、往路とそのまま同じ経路で帰るつもりはなかった。どうせなら、このアメリカという国をとことん見て帰ろう、という気になり、そこで思いついたのが、アムトラックだった。
アメリカの主要都市間を結んでいる鉄道のことで、これを使えば、ほぼ全米の主だった都市へ行ける。例えば、アメリカを横断したければ、首都ワシントンを発し、中東部のシカゴ、オマハ、ラスベガスなどを経て、サンディエゴやロサンゼルスなどの西海岸の町に至ることができる。
こうした便利な鉄道ができたのは比較的最近で、1970年代のことである。もともと、アメリカには、国有鉄道が存在した時代がなく、全土の鉄道ネットワークは私鉄の集合体であった。第二次世界大戦後、航空や自動車輸送の台頭により、アメリカの鉄道旅客輸送量は減少の一途をたどっていたが、その傾向は1960年代に加速した。
この時期、多くの鉄道会社が旅客営業の廃止に踏み切り、残存するわずかな旅客列車についてもその存続が危ぶまれるようになった。こうしたことから、鉄道旅客輸送を維持するために、各地域の鉄道会社の旅客輸送部門を統合した全国一元的な組織として設立されたのがアムトラックである。
形態としては、「アムトラック」という一つの鉄道会社が、全米にある鉄道各社の線路を借り、そこに自前の旅客列車を運行する形になっている。アムトラック自身も線路は保有しているが、それはアメリカ東北部などのごく一部の運行区にすぎない。
その運航路線は、50種類近くもあるが、アメリカ大陸を横断する路線として有名なのが「カリフォルニアゼファー」と呼ばれる路線で、これはイリノイ州のシカゴとサンフランシスコ・ベイエリアを結ぶ長距離列車である。3,924km (2,438マイル)の行程を車中2泊3日、50時間以上かけて走るこの列車は、沿線の景色の良さで知られる。
始点はシカゴであるが、フロリダにも近いアトランタからワシントンD.C.へ、さらにD.C.からシカゴまで行くアムトラック路線と組み合わせると、ほぼ私の望み通りの旅行ができそうだ。途中、3~4度の乗り継ぎをする必要があるが、このとき途中下車で、次の列車の出発時間まで余裕があれば、それぞれの都市の見学ができる。
さっそくこのプランを実行に移すべく、大学近くの旅行代理店に出かけて、チケットを求めたが、たしか1000ドルくらいだったと思う。アムトラックの乗車運賃のほか、西海岸に着いてからの数泊のホテル代も含めてこの値段であり、円に換算して10万円ちょっとでこの大旅行ができるというのは安いものだ。
旅の始点はアトランタだった。ゲインズビルからここまで飛行機もあったが、どうせなら地上を走っていきたいと思い、電車の便を探していたら、ちょうど角田君が今だったら試験の合間だから一緒に行ってもいい、という。
このときまでに8カ月以上の付き合いとなり、いまやツーといえばカーというほど仲良くなっていた彼との旅は、フロリダ最後の旅としても最高のものに思えた。
かくして私は、彼の黄土色のカローラバン(私はこれを「うんこ色のカローラ」と呼んでいた)に乗って、遠路はるばるの帰国の旅についた。このころ私は既にアメリカの免許も取得していたが、運転は彼がやってくれた。
およそ700km、行程6時間ほどの旅は瞬く間に終わった。朝早く出たので、少し遅めの昼飯を二人で食い、アトランタの街中を散策して回った。このころのこの町はまだその後オリンピック景気にわくほど賑わっておらず、新興都市というかんじだった。地下を走る地下鉄も真新しく、アメリカで初めて乗る地下鉄ということで、ふたりではしゃいで乗った。
ワシントンDC行きのアムトラックは、その夕刻アトランタ中央ステーションを出発する予定だった。駅の外に車を止め、角田君に別れを告げた。これが最後じゃないよな、とお互いに確認しあったが、そのとおり、彼とはその後何十年来の友人となり、現在に至っている。
その後、私が途中下車したのは、ワシントンD.C.とシカゴで、最終降車駅はサンディエゴだった。
なかでもD.C.はアメリカの首都であり、そこを訪れることができたことは今でもよい思い出となっている。ホワイトハウスは無論のこと、リンカーン記念館、スミソニアン博物館など、主要な建築物を見て歩いたが、直にアメリカという国を感じることができた。
シカゴも印象的だった。かつてギャングが徘徊した町は近代的なビル群で構成される瀟洒(しょうしゃ)な街に生まれ変わっており、こちらもアメリカを代表する都市だ。あまりゆっくり見て過ごす時間はなかったので、シカゴ近代美術館など主要な観光地を足早に回った。
その後、コロラド州のデンバーを経て、西海岸のロッキー山脈を越え、ラスベガスを経てサンディエゴに至る。東から西へとゆっくりと走る列車の車窓から飽きもせず荒々しい大地を眺めつつ、その雄大さを満喫した。とくに名高いロッキー山脈を越えたときには、ああとうとう俺もアメリカ大陸を横断したか、と感慨に浸ったものである。
終点のサンディエゴからはレンタカーを借りた。実は再度渡米するときは、できればアメリカ西海岸の大学に入りたいと思い、候補としてあげていた大学のいくつかを検分して帰るつもりだった。
このときは、カリフォルニア大学のサンディエゴ校と、サンタ・バーバラ校を見て帰った。どちらもすばらしい環境だったが、のちに希望する学科がなく、入学には適さない学校だとわかった。
このときは3泊ほどして、西海岸の各都市の観光もした。ロサンゼルスは観光地として目立ったものがない。そんなことはないだろう、ディズニーランドがあると言う人もいるだろうが、一人で行く場所でもない。強いていえばハリウッドがあるが、あまり興味はなかった。
そのほか特段見たい場所もなく、このため、日がな一日車を飛ばしてあちこち走り回っただけで終わった。
一方、そのあと足を延ばしたサンフランシスコは見どころ満載で、名高いゴールデンブリッジのほか、急坂を上がり下がりする例の路面電車も間近で見た。今回の旅で一番印象に残った町だったが、残念ながら旅の終わりに近づいており、ここでもあまり時間は取れなかった。
かなり疲れも出ていたが、最後にサンフランシスコからはさらにハワイ、ホノルルにも立ち寄った。後年、ここに足掛け4年ほどもいることになるわけだが、このときも滞在時間が短く、ほとんど外出できなかった。パールハーバーだけは行ったが、あまり強い印象は残らなかった。
このときはもう一刻も早く日本に帰りたいと思っていたから、ハワイは単なる通過地点にすぎなかった。
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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。