4月になった。1日付で社員となり、港湾部という部署に配属された。文字通り港湾の施設、例えば港の防波堤とか船が接岸する護岸とかいったものを設計する部署だが、海岸の堤防の設計などもやっていた。
入社してすぐに与えられたのがその海岸堤防の基本的な設計の仕事で、それは古い堤防の高さを見直し、設計しなおす、というものだった。難しそうにみえるが、設計手順書のようなものがある。それに従って計算書に手入力していけば、初心者でも計算できる。
とはいえ、初めての仕事だったのでじっくり時間をかけて設計を行った。ありがたかったのは、そうしたことを初めてやる新入社員に対してその時間を十分に与えてくれたことであり、先輩社員たちのアドバイスも適切だったことだ。
入社したてのころは、慣れない社会人生活のこともあり、少々神経症気味だったが、1年も経たないうちに慣れ、その後さらに難しい設計も任されるようになっていった。
2年目に入るころ、山崎さんという5歳ほど年上の上司に付き、海岸の調査の仕事をやるようなった。その後長きにわたり、いろいろ指導してもらったが、妙に気が合い、プライベートでも付き合いがあった。食事を一緒にいったり、といった日常のことだけでなく、休みにはゴルフの打ちっぱなしなどにも連れて行ってもらったりした。
とはいえ悪い面での影響もあった。この先輩のおかげでタバコをやるようになったのだ。ストレスの解消にと最初は軽い気持ちで吸いはじめたのだが、そのうち一日に二箱も吸うヘビースモーカーになった。
休憩時間になると、山崎さんだけでなく、同じ職場の同僚とベランダに出て、タバコを吸いながら渋谷の街並みを見るのは良い気晴らしになった。時に、タバコを吸わない面々もそれに加わり、新宿の高層ビル街を眺めながらいろんな話をした。世間話が多かったが、社内の異性についての噂話などもある。独身者も多く、情報交換の面もあった。
社内には女性も比較的多く、各部署にはたいてい2~3人の正社員がおり、そのほかにアルバイトやトレーサーといった補助員の女性がやはり同数ほどいた。神宮前という場所柄、おしゃれな恰好をしたがる人もいたが、たいていは普通の服装をしており、まじめな人が多かったように思う。
狭い空間のことであるから、当然男女の間のことも数多くあった。が、それをここで書いていると他のことが書けなくなってしまうのでやめておこう。のちに一人の女性が私の運命を変える、とだけとりあえず書いておく。
仕事のほうでも、その後の運命を変える変化があった。ある時、山崎さんから、ある特殊な防波堤の設計を手ほどきしてもらった。
「離岸堤工法」といい、消波ブロックを3~4段積み重ねた短い防波堤を海岸線から、数十メートル離して置く。するとその背後には徐々に砂が溜まり始め、数か月後から1年も経つ頃には、海に向かって山型に飛び出した海岸線が形成される。
これを「トンボロ」という。そもそもは岸から離れた小島のすぐ後ろに砂州ができる現象を指す。島の後ろ側では波や潮の流れが弱まるため、そこに砂が溜まりやすくなる。語源は、ラテン語で「土手」を意味するから、その昔、ヨーロッパのどこかでこれを人工的に作り、その背後に砂を貯めることに成功したのだろう。
近年になってその土手を消波ブロックで作るようになった。積み上げただけで小島と同様の効果があり、そのすぐ後ろ側に砂が溜まることで、その部分の海岸線の浸食を防ぐことができる。このころ、海岸浸食が日本各地で問題になってきており、その対策のために最も有効な工法として日本中から注目を集めるようになっていた。
ちなみに、この消波ブロックのことを「テトラポッド」という人がいるが、これは商品名であって一般呼称ではない。「異形消波ブロック」または「消波ブロック」というのが正しく、公的な文書ではこちらを使う。
どの程度の砂が溜まるのかについては、この消波ブロックでできた離岸堤を置く場所によって決まる。岸から離しすぎると砂が溜まらないし、近づけすぎると溜まりすぎてすぐに離岸堤と陸が繋がってしまう。そうなるとそれ以上浜を沖に向けて肥やすことができなくなってしまう。
離岸堤のうしろにどの程度の砂がつくかについては、その海岸に押し寄せる波の平均的な高さや海底の地形にも左右される。海底の勾配がどのぐらいか、波の大きさはどのくらいか、といったことから始まり、さらにはそこを流れる砂粒の大きさがどの程度か、重さはどれくらいか、といったことにも左右される。
小さな砂粒なら波や潮によって流されやすいが、大きすぎると逆に移動しない。どの程度の大きさの波がくればその砂が動くのか、といったことも検討の対象となる。離岸堤を置く位置を決めるためには、その海岸にある、ありとあらゆる要素を検討しなければならないのだ。
さらにいえば離岸堤の長さをどの程度にするか、水面上どのくらい積み上げるか、複数を配置する場合は、離岸堤同士をどの程度離せばいいのか、といったことも背後に堆積する砂の量に関係してくる。単純にみえる工法だが、検討することはいくらでもあり、実に奥が深いのである。
この離岸堤の設計を含め、海岸の浸食の問題に対処する土木工学の分野を、とくに「海岸工学」と呼ぶ。
この当時まだ新しい学問体系だったが、「海岸」という言葉が入っているところに妙に心がときめいた。かつて高校生のころに「海洋開発」というキーワードにひらめきを感じた時とはまた違う心のざわめきだった。
その言葉との出会いがその後10年ほどに及ぶ長い学びの旅の始まりだとはこのときはまだ気づいていなかった。一生を左右するようなこととの遭遇というのは、そんなものなのだろう。漠然と頭の中に入ってくるだけで、形はまだ何もない。
ただ、離岸堤についての知識は既にあった。大学にいた当時、別の研究室に池上ゼミというのがあった。池上真(まこと)先生という人のゼミで、この先生は専門課程では構造力学を教えていた。実はこの離岸堤を日本で初めて発案して現場に導入したのがこの人だった。
元建設省の役人で、定年退官後に南海大学に入り教授となった。離岸堤の考案者ということで知名度は高く、大学4年になってゼミを選ぶとき、この先生の名前を知っていて、その研究室に入ることも考えた。
しかし、その当時は海洋開発のほうにより興味があり、福田先生の研究テーマのほうが魅力的に思えた。このため、結局池上研に足を向けることはなかった。ただ、池上先生の著書は授業でも使われ、一通り目を通していた。
就職後、この離岸堤に仕事をするようになってから、改めてその本を読み返すことになった。が、正直なところ、内容は高度ではなく、参考程度にしかならなかった。離岸堤そのものが新しい工法であり、池上先生もまた多くの知見を持っていなかったのである。
しかし、その本の中には他の重要情報が含まれていた。中でも離岸堤や海岸工学に関する多くの知見の多くは海外からのものであることを池上先生は示していた。実は離岸堤そのものも、最初の実践的利用は日本ではなく、アメリカであることなどもそこで知った。
もうひとつ、このころから海岸工学に関する論文集が毎年土木学会から出版されるようになっていた。「海岸工学講演会論文集」といい、私が入社したころの論文数は50にも満たないほどペラペラなものだった。現在は国内外から論文を集め、毎年500近い数の論文が集められている。
一方、この初期の論文集では投稿数が少なかったため、海外からの論文が目立った。なかでも、とくにアメリカ発のものが目を引いた。
カリフォルニアやフロリダ、ハワイやミシシッピーといったアメリカの各州がその舞台であり、離岸堤だけでなく突堤や養浜といった最新の海岸工学の知見がちりばめられていた。仕事の合間にそういう論文をながめつつ、いつかはそうした場所を訪れてみたい、と次第に思うようになっていった。
海岸工学の発祥の地こそアメリカ、という強烈な印象がこのころ私の頭の中に刷り込まれていったのである。
ただ、会社に入って4年目に入るとそれなりに忙しく、プライベートでそうした場所を訪れる時間も、具体的なプランを練る暇もなかった。個々の構造物の設計だけはなく計画的な仕事も任されるようになっており、長大な海岸全体の侵食対策を総合的に立案する仕事はそれなりに大変だ。
いくつもの大河川が流れ込んでいる海岸もあり、漁港や港湾がある海岸もある。河川から流れ出る砂の量や防波堤のような人工の構造物の設置状況によって、その海岸の浸食の状況は変わってくる。それらを総合的にみて対策を考えていかなければならないのである。
浸食の問題を抱えた海岸は全国にあったが、この当時、とくに浸食が深刻な海岸は北陸に多かった。このため、その方面へ頻繁に出かけたが、その後資格を取ったときに書いた論文の舞台となった海岸も富山だった。新潟や石川も多く、今でもときどきプライベートで近くを通ることがあるが、ついついそこへ立ち寄ってしまう。思い出深い地である。
思い出して懐かしいといえば、会社があった神宮前という場所もそうだった。神宮とは明治神宮を指す。その周囲には2020年のオリンピック開催の中心となる国立競技場や神宮球場、東京体育館といったスポーツ施設がたくさんある。
明治神宮に加えて、絵画館(聖徳記念絵画館)や日本青年館、津田塾大学といった文化施設もあり、周囲は公園化されていて、東京でも屈指の文化・スポーツ圏といえる。
会社の家屋自体もかつての東京オリンピックの際に選手宿舎として建てられたもので、三角形13階のちょっとしゃれた建物だった。上階に上がると、渋谷や新宿方面が一望に見え、すばらしい眺望が味わえる。
中央線千駄ヶ谷駅を出て南方の外苑前まで通る道をキラー通りといい、この通りに面していた。近くにはビクターのスタジオもあり、よく芸能人をみかけた。
そのすぐ西側には表参道があり、そこから足を延ばして5分も歩けば青山という立地だ。老若問わず、現在も人気の街である。表参道、外苑、原宿、神宮前、といったふうに切り離されて話題にあがることも多いが、私的には同じ町であり、それらを統一したこれらの環境が若き自分の青春の場だった。
おしゃれな街のおしゃれな会社ということで、アルバイトに来る面々の中にもちょいと時代の流行に敏感な連中が多かった。この当時「竹の子族」というド派手な衣装を着た種族が表参道に出没するようになっていた。休日になると歩行者天国となる路上で、ラジカセを囲みながら踊るのだが、そうした輩もうちにアルバイトに来ていた。
休日出勤中にそうした奴らに出くわすのだが、踊ったばかりの恰好でそのまま会社に来るわけだから、当然目立つ。こちらも休日だから私服が多かったが、それは普通のまじめなものであり、自分とのギャップに驚いたものだ。
もっとも、そうした輩に自分が影響されることはなかった。ただ、そうした流行に敏感な環境に合わせるかのように私もそれなりに着るものには気を使った。着の身着のままの今からは想像もできないほどのおしゃれだ。
ワイシャツにネクタイ姿という基本は崩さないまでも、カラーシャツを着て背広や靴、ネクタイにもこだわり、わりといいものをいつも着ていた。ワードローブという言葉を覚えたのもこのころである。
休日出勤では私服も許されていたことから、仕事のあと街に繰り出すことも考えて、それなりにファッションも楽しんだ。休日出勤はたいてい土曜日だから、その夕方からは同僚らと渋谷や新宿の街で飲み、何軒もはしごして朝方まで騒いでいるということもあった。
もっとも生来の孤独癖が首をもたげてきて、一人でぶらぶらと町を歩いて気晴らしする、ということも多かった。とはいえ、一人で飲み屋に入る勇気はなく、そうしたときは、好きな場所を歩き回ったあげく、たいていテアトル系の映画館に入る。
主として古い映画を扱っており、週末になると1000円ほど払えば一晩中映画を見ることができる。毎金・土曜日にそれぞれ4本ほどの映画を見、月通算で30本ほども鑑賞していたこともある。私の映画好きはこのころに始まったといえる。
「ぴあ」がこの当時の私の行動バイブルで、映画の上映情報はもとより、東京であるイベントのすべてがそこに書かれていた。高校時代から写真が好きだったこともあり、そこに掲載されている写真展にもよく出かけた。プロの写真家が撮り、プリント化した写真やはり質が格段に違う。かつての自分の写真の拙さを想いつつも、それらを堪能した。
こうしたフォトサロンがある場所は新宿に集中しており、渋谷以外で最も時間をつぶすことが多かったのがこの町だ。あまり忙しくないときは、平日仕事が終わってから、この新宿を目指して同僚や同期と飲みに行くこともあった。
この同期生─ 同年大学を卒業した新入社員は30人ほどおり、皆仲がよかった。とりわけ、会社に入ったころに住んでいた寮にいた面々とはその後も長く付き合いが続いた。
この寮のことを少し書いておこう。入社したその当初から、1年半ほどのお世話になった。小田急線の相模大野に位置し、駅から徒歩15分ほどの住宅街の中にある。
すぐ隣の駅が町田で、ここは今では関東屈指の繁華街となり、若者が集まる街として有名になっている。だが、この当時はまだ出来たてで、今ほど賑わっていなかった。というか駅のまわりには何もなく畑だらけだった。
入寮当時、一番古い人で10年ほども住んでいる人も数人いたが、それ以外に入社2~3年目までの若手5~6人とあとは新入社員で、それは私も含めて十数人いたかと思う。全部で20室くらいあったと思うからその約半分が新人だ。
大学、焼津時代の寮もそうだったが、この寮での共同生活もまたその後の人生に影響を与えた。もっとも大学の時と違って私生活の面ではなく、仕事でのことが多かった。同期の連中や先輩社員から聞かされる仕事の内容は、違う職場の内容、違う職種のことではあったが、参考になった。
それらと照らし合わせることで、自分の持ち分の仕事の会社での位置づけや重要度がわかり、また他の社員がどういう仕事のやり方をやっているかを自分の職場のものと比較できる。
それを参考にすることでまた工夫が生まれる。例えば、話を聞いた人同僚や先輩たちほぼ全員が夜遅くまで居残り残業をやり、そこで作った時間で落ち着いて仕事ができる、と語っていた。
しかし、私はこれはかえって効率が悪いと考えた。このため、できるだけ夜は早く帰るようにし、その代わりに朝できるだけ早く出社して仕事をするようになった。幸いなことにこの会社はフレックスタイムを導入しており、朝10時から午後3時のコアタイムに出社していれば、朝早くから何時に出社しても構わない。
それを幸いに、ほぼ毎日のペースで一番早く出社して仕事をするようになったが、思ったとおり朝のほうが効率が良い。仕事で消化できる量は午後やるよりも格段に多い上に、早く帰ることでプライベートの時間を作ることができる。
9時が普通のところをさらに早出して7時台に出社することも多く、このため同期の連中から「ニワトリ小僧」のあだ名がつけられた。
仕事に慣れるにつけ、私生活の面も充実してきた。とくに相模大野寮での生活は、同年代の会社同僚との共同生活であり、やはり楽しかった。帰寮してからその日あったことをしゃべりながら飲むビールはうまいものだ。週末には酒宴になることも多く、寮内だけでなく、駅前の飲み屋で宴会が始まることもある。
ただ、プライベートの確保という面では寮生活には問題も多く、一人になることが好きな私にとってはやや騒々しい環境だった。1年半ほど過ぎたころには、かなりの貯金もできたため、思い切って引っ越しをすることにした。
会社のある神宮前の最寄り駅のひとつに中央線の千駄ヶ谷駅がある。同じ引っ越すなら電車1本で通えるところが良いと考え、沿線をいろいろ探したところ、新宿から西へ5つ目、阿佐ヶ谷駅からほど近いところに一つのアパートをみつけた。
トイレは付いていたがバスはない。その代わりそのすぐ裏手に銭湯がある。仕事を終えて部屋に帰ると、すぐに洗面器とタオルを持って出かけ、隣の風呂屋ののれんをくぐると、わずか数分で湯舟に浸かることができた。
金はかかるが、無論、自分で風呂を立てる必要はない。静かな環境の上、近くには定食屋さんやスーパーなどもあり、一人暮らしには最適な環境といえた。駅近くにある商店街もこぎれいで、ウィンドウショッピングをするのも楽しい。しゃれた喫茶店もあり、休日にはよく入り浸った。
この界隈は戦前、「阿佐ヶ谷文士村」と呼ばれるほど多くの文士たちが好んで住んでいた。それも井伏鱒二や太宰治、川端康成、横光利や大宅壮といった錚々たる作家たちばかりであり、彼らは「阿佐ヶ谷会」と呼ばれる会合を催して交流を深めたという。
また阿佐ヶ谷には放駒部屋、花籠部屋といった相撲部屋が近くにあり、相撲取りをよく見かけた。喫茶店に入ってコーヒーを飲みながら、ふと後ろを振り返ると、大きな力士が小さなコーヒーカップを抱えている、といったこともよくあった。
こうしたことから、阿佐ヶ谷には、西東京におけるノスタルジックな街、文学の町、文化圏という印象があり、ここに住んでいる自分はかっこいい、ともよく思ったものである。
そんな街に引っ越したのは、かなり秋めいたころのことだった思う。住み慣れた寮の荷物をまとめ、寮母夫婦に別れを告げ、このころまだ大学のころから乗っていたジェミニに荷物を詰め込んで神奈川から東京へ向かった。
現在ならちょっとした引っ越しでも引越業者に頼むところだろうが、この当時は引っ越しと言えば自分でやるものだと思っていた。
しかし、独り身とはいえ、それなりの荷物はある。そこで、会社の同期数人に助っ人を頼んだ。ところが、荷物を下ろすだけの作業なので2人ほどもいれば済むものを、5人ほどもやってきた。私がどんなところに住み始めるのか興味がわいただろう。うち2人が女性で、そのうちの一人は同期入社の子で総務部に所属していた。
もうひとりは知らない女性で、聞くとこの春入社したばかりだという。国外事業部の総務担当だそうで、私の職場の一つ上の階で仕事をしているらしい。この日やってきた同期の男性社員の一人が吹聴し、引っ越しのあと打ち上げをやるから、という触れ込みで勝手に連れてきたようだ。無論、そんな話をした覚えはない。
その女性は3つ年上で、一目見たとき、そのまなざしの美しさにドキッとした。少し下ぶくれの唇がお愛嬌だったが、逆にそこがポイントとなってセクシーに見える。独特の透明感があったが、近寄りがたいというかんじでもない。
とりあえず引っ越しが終わり、部屋中に荷物が積み上げられている中、近所のスーパーで買ってきた酒とつまみで、打ち上げが始まった。みんな20代の若さであり、おバカな話題で盛り上がる中、くだんの美人も交えて会話が弾んでいく。
ひそかに観察していると、いわゆる天然で、周りの男性の失笑を買うことも多いが、それでいてケロッとしている。おバカを装っているな、と気づかせる部分もあったが、それができるほどの知性の持ち主であるらしい。
酔っているわけでもなさそうなのに、やたらに初対面の私に絡み、平気でため口をきく。とはいえ、嫌味のない程度で相手を持ち上げる術もわきまえていてなかなかの社交家だ。
明子さんといったが、名前のとおり明るい性格で、知らず知らずのうちにその笑顔に引き込まれ、「引っ越し祝い」と称したにわかパーティがたけなわになるころには、すっかり彼女の虜になっていた。
一目ぼれ、というのはこのことだろう。
宴会は、終電が終わってからも続いた。誰もが帰ろうとは言い出さず、2時を過ぎたころ、私が持ってきた数少ない布団をかぶってみんなで寝ようと誰かが言い出した。女性も二人いることだし、さすがにそれは無理だと抗議したが、当の本人たちは意外にも嫌そうでもなく、しかたがないな~と同意した。
その部屋は6畳一間しかなく、私が持ってきた荷物でいっぱいだ。そこに6人が寝るといってもほとんどくっつくような形でしか寝ることはできなかったが、みんなおかまいなく、それぞれのポジションを決め始めた。私はさすがに女性の隣はまずかろう、と思っていたところ、くだんの美女はさっさと私のそばに来て横になろうとする。
おいおい、と言おうとしたときはもう誰かが電気を消しはじめた。多少の荷物の運搬もして疲れ、アルコールも入っていたこともあり、おやすみーと別の誰かが宣言したあとはすぐに部屋は静かになった。
真っ暗闇の中、薄い布団にくるまりながら体が徐々に温まっていくが、それはすぐ隣に寝ている彼女の体温のせいでもあった。そのぬくもりを感じながら、次の朝を迎えたが、とうとうその夜は一睡もできなかった。
こうして私の新たな恋が始まった。
このころの私はもう初心そのものといった少年ではなく、異性に対して多少は自分のアピールをできるようになっていた。ここまでで詳しく書いてはいないが、大学時代の後半やその後の就職を通じていくつかの恋もし、いずれも実りはしなかったが、それらから何事かを学んでいた。
とはいえ、あまたの女性にアプローチしまくるプレイボーイのようにはいかない。あいかわらず相手に面と向かって自分の好意を直に伝えられるほど図太くはなかった。
それでも、それとなく意思を伝えて相手の感触を掴む、という技を覚える程度には進化していた。振られて落ち込む時間も短くなり、失恋に対しては免疫がある、と思い込んでいた。
なので、彼女に対しても、当たって砕けろ的なアプローチをしても傷つきはしないだろうと思った。そこで、あるとき酔った勢いで思い切って好意を伝えた。それがよかったのか、ストレートな答えは返ってこなかったが、だんだんと「よい感じ」にもなってきた。何度かデートに誘いだすことにも成功し、日がな一日一緒にいることもあった。
ところが年上の女性はしたたかだ。相手は私にのめりこむようなそぶりはみせず、本当に気があるのかないのかもわからない。
いや、本命でなかったのは確かだ。ある程度親しいにもかかわらず話ははずまない。二人だけの世界を構築する、という積極的な意思がみられないのだ。
彼女にすれば、釣りあげてしまった魚に餌をやる必要はない、というところだったろう。年下で頼りないし、新しく出会う他の男性と比べて値踏みをするほどのスリルも既にない。そこはわかっていたつもりだったが、彼女の魅力に振り回され続け、その後も悶々とした状況が長らく続いた。
そしてそのまま1年ほどが経った。同期の面々の結婚が相次ぐ中、あの引っ越し祝いのメンバーの何人かも結婚し、そのころは一緒に飲みに出かけることはほとんどなくなっていた。
彼女とは、相変わらずそこそこの付き合いもあり、ときには電話もした。夜遅く電話をしても切られるでもなく、楽しそうな話ぶりからも嫌われているというかんじはなかった。今思えばいいようにあしらわれていたのかもしれないが、お人よしの私は、きっと彼女は心の広い人に違いない、と思っていた。
あるとき、彼女から実は自分はクリスチャンだということを聞かされた。それも毎週教会に通うほど熱心な信者だという。彼女の博愛精神はそういうことだったかと、彼女の新たな側面を知って驚いた。
好きになった女性がクリスチャンとは思いもしなかったが、別の意味で興味がわいた。教会とはいったいどういうところなのだろう。これまでの人生では縁のない場所である。幼いころから山口のサビエル教会堂を知っていたが、中には入ったことがない。その教義には興味があり、教会とは何か知りたい、とかねてから思っていた。
そこで彼女に頼み込み、一度連れて行ってくれないか、と頼んだ。すると、断られるかと思いきや、意外にもあっさりと承諾してくれた。さっそくその週末、彼女が通っているという池袋の教会に連れて行ってくれるという。
「教会デート」のその日のことが思い起こされる。プロテスタントの教会だったので、教堂の中は質素そのものだ。祈りをささげる儀式に始まって聖書の朗読が続き、そのあと日本人牧師さんから「教え」が語られる。そして最後には葡萄酒とパンを授かる。
ミサが終わったあと、参列者やその牧師さんに紹介された。この集会に参加していたのは彼女を良く知る常連さんたちのようだったが、初めて参加する私を恋人だと思ったのだろう。歓迎してくれた。思わず舞い上がってしまったが、彼女は平気な顔をしていた。
彼女にすれば、また一人信者を獲得した、ということにすぎなかったのかもしれない。が、それでもよかった。実際、半分は教会活動に参加することが目的だったのだから。
二人で教会を後にしたが、それからさらに彼女を誘ったりといった無理強いはしなかった。天気の良い日曜の朝で、彼女と二人、肩を並べて秋の陽をあびながらほとんど無言で駅に向かって歩いて行った。
このとき彼女は何を思っていただろう、と今でも時々思う。女心は複雑だ。あのときもっと何かを話しかければ、また別の展開があったかもしれない、あるいは強引にどこかへ連れ出したら、案外とついてきてくれたかもしれない、などと妄想したりもした。
しかし、このとき私自身の心の中にも何か、よくわからない変化が生じかけていた。本能が告げていた。「こんなことをやっている場合じゃない…」
この教会デートを境に、彼女に対する思いが薄らいでいき、潮をひくように熱がさめていった。会社でも彼女を時節みかけたが、こちらからは積極的に声をかけなくなった。通勤途中で道すがら一緒になることもあったが、中身のない会話ばかりですぐに会社に着いた。
そのうち同じ通勤時間帯に彼女をみかけることがなくなったから、嫌われているのかな、となんとなく思った。それでもいいや、いまさら、と投げやりな気持ちで毎日を過ごした。
それからさらに1年ほどたった秋のころだったと思う。ある日のこと、彼女が結婚するという話が風の便りに伝わってきた。
私が26だったから、彼女はもうすぐ三十路だ。女性ならそろそろ本気で結婚を考えてもよい年ごろである。
久々に電話をかけてみた。すぐに電話口に出た彼女は前と少しも変わらず、昼寝でもしていたようなのんきな声が返ってきた。本当は、どんな奴と結婚するんだ、とすぐにでも聞きたかったがさすがにそれはできず、はやる心を抑えて、あたりさわりのない話題から入っていった。
最近はどうしていたこうしていた、という話のあとで、ところで…と切り出し、「結婚するんだって?」と問題の核心に触れた。
「そんなの嘘よ」という答えを期待していたが、しばらくの沈黙のあと、「誰から聞いたの?」という。
その問いには答えず、「もういい歳だからね」と茶化すと、素直に事実であることを認めた。さらに聞いていくと、相手は警察官、しかも刑事だという。
続けて聞きもしないのに、相手のことを話し出した。近所に泥棒が入り、そのことで聞き込みに来たその相手と親しくなった、といったことが馴れ初めだったようだ。そこからはじまり、強面で最初はヤクザかと思ったとか、ほかにもいろいろ聞かされたが、後ろのほうはほとんど聞いていなかった。
ほとんど上の空の会話の中で、いったいいつになったらこの電話を切ればいいんだろう、と思い始めたころ、ようやく彼女の長い話は終わった。
最後に何を彼女に言ったかはよく覚えていない。が、お幸せに、といったお追従だけは忘れなかった。やがて何もなかったかのように電話を切った。
受話器を置いたあと、しばし茫然とし、やがて泣きたい自分をそこにみつけた。泣きたくなかったが、そのあと、堰を切ったように涙が溢れ出てきた。酒を飲みながら一晩中やさぐれ、やがて冷たい畳の上で朝を迎えた。
終わっていたはずなのに、そんな感情の高ぶりを覚えたことに自分でも驚いた。やはりそれだけ彼女が好きだったのだろう。
やがて、朝霧が陽の中で消えていくように、彼女との思い出も薄れていった。社会人になってはじめて本気でのめり込んだ恋は終わった。
その後、何人かの恋人候補が現れた。しかしこちらの理由、あちらの理由もそれぞれあっただろうが、いずれも相容れぬまま本格的なものにはならず、月日が流れた。
入社して4年近くになろうとするころ、会社人としての私はほぼ独り立ちし、ほとんどの業務をひとりでこなせるようになっていた。お役人とも臆せず話をできるようになり、営業活動すらやっていた。後輩も何人かでき、逆に指導する立場にもなっていた。
このころ気分を変えるために引っ越しをした。一年半ほど住んでいた阿佐ヶ谷のアパートを引き払い、田園都市線の鷺沼というところに越すことにしたのだ。同じ会社の先輩が結婚をし、手狭になったので、そのアパートを君に譲ろう、と言ってくれたのがきっかけだった。
そこはいいアパートだった。あいかわらず6畳一間の部屋だったが、リビングキッチンが広い。またトイレに加えて風呂が付いており、しかも目の前は武蔵野平野が広々と見渡せるという好物件だ。
前に住んでいた阿佐ヶ谷と同じく住宅街の中にあったが、こちらは郊外でもあり、うんと開けている。職場からはやや遠くなったが、駅周辺には何でもあり、生活に不自由はない。
会社からは1時間弱。比較的近いので、同僚が遊びに来ることもあり、訪れた彼らとつるんで遊びに出ることも多くなった。ようやく心の傷が癒え、また新たな生活がスタートした感があった。
一方では、彼女のことがきっかけとなり、そのころは自分一人でも教会へ通うようになっていた。近くにカソリック教会があるのをみつけ、そこへ通い始めた。プロテスタントとカソリックはお互い相いれない部分があり、教義も異なるが、「初心者」の私にとってはどちらでもよかった。
ともかくキリスト教とはなんぞや、というところに興味があった。教会にやってくる人たちとも仲良くなり、イエス様がどれほど素晴らしい人だったか、といった話にも抵抗なく耳を傾けるようになった。が、それよりも、日曜日の朝に開かれるミサの厳粛な空気が好きで、それからしばらく教会通いを続けた。イセ・キリスト教徒の誕生だ。
みずから聖書を買い求め、毎週ミサのあとにある聖書勉強会なるものにも欠かさず顔を出した。それまでの自分から考えられないほどの傾倒ぶりであり、一時期はいつ、洗礼を受けてクリスチャンになろうかと真剣に考えたほどだ。
こうした宗教活動に加え、仕事や生活も安定し、いまのところもうこれ以上必要なものはない、という状況だったが、心の中には満たされない、切り欠きのようなものがあった。失恋の痛手からまだ立ち直っていないこともあったが、もうひとつ長い間心に中にわだかまりとして残っていたことが、このころふたたび首をもたげてきていた。
それは、かつて大学受験に失敗し、思うような進路に自分が進めなかったという思いだった。もちろん進学した大学では良い成績を収め、そのご褒美のように得た就職先もまた人がうらやむようなところだ。給料はよく、おそらく同じ大学卒の同期の間ではトップクラスのサラリーをもらっていたのではないだろうか。
職場も円満で、仕事も面白く、これ以上何を望むのか、という環境だったが、自分的にはまったく満足していなかった。
そもそもこの会社に入った目的のひとつは、海外に行く、ということだった。そのために卒業前に英語学校に通い、入社してからも英語の勉強は続けていた。ところが、国内での業務経験が十分にないものは海外へは出さない、という会社の方針があり、所属していた部の上層部も、私を海外へ出すのは、まだ時期尚早と考えているらしい。
失恋の相手はまだ会社を辞めたわけではない。同じ社内にいればそれなりに気にもなる。そろそろ海外へ出してくれればいろいろ心境も変わるのに、と思い始めていたが、会社の方針は方針で変わりそうもない。
それなら自分で行くしかないな、と思い始めたのが入社して5年目の春のころだ。かつて失敗した大学受験でてきた心の溝を埋め、かつ海外へ出ることができる道といえばただひとつ、留学しかない。会社に入ってから技術を磨いてきた海岸工学の聖地といえばアメリカであり、そこへ乗り込むことこそが今後自分が進むべき道のように思えた。
早速、赤坂にあるフルブライト教育委員会を訪れた。これはアメリカの大学の情報提供機関である。戦後、日本がまだ貧しいころ、太っ腹なこの国は優秀な学生を自国へ招聘し、無償で学ばせることにした。
親米化が進めば、日本の統治もよりやりやすくなると考えたからだ。フルブライト奨学金制度というものが設けられ、これにより毎年選ばれた学生がこの制度を利用して留学するようになった。
無論その制度を利用できるのは選ばれたエリートばかりであり、私など足元にもおよばない。制度を利用しての留学は無理だが、ただ、フルブライトが提供しているアメリカの大学情報は誰でも自由に閲覧できる。インターネットなどまだない時代であり、その情報は貴重だった。
もっとも、フルブライトにあったものは、かなり昔のアメリカ各地の大学のパンフレッぐらいだ。新しい情報は少なかったから、それを補うため、あちこちの図書館に通っては現地情報を集めた。しかし、必要な情報を探し出すのは結構大変だった。このころまだまだ留学というのは一般的な時代とはいえず、アメリカの大学を紹介する冊子は日英文とも少ない。
それらの情報をかき集めて進学先を探り、実際に入学が可能かどうかは、直接問い合わることにした。候補をだんだんと絞りこんでいったが、第一希望として日本に近いアメリカ西海岸の大学を考えていた。しかし、自分が希望するようなカリキュラムを持っている大学は少なく、次々と候補からはずれていった。
留学をしようと思い立ったものの、このころの私の英語はまだ拙かった。おい、ちょっと待て、その程度の語学力で留学かよ、と人から言われそうなレベルだったが、なぜか決意だけは固かった。とはいえ、英語ができなければ話にはならないので、入学前に使える程度に英語がレベルアップできるシステムがある学校が良いと考えた。
そうした中で最終的に候補地として絞り込んだのが、フロリダだった。言うまでもなくアメリカ屈指のリゾート地であり、映画やドラマでもよく舞台となる常夏の別天地だ。
ここを選んだのには理由があった。リゾート地であるだけに、ビーチの保全は不可欠であり、そのための海岸保全の学問体系を構築している大学が多い。候補の大学としては、州立のフロリダ大学と私立のフロリダ工科大学、マイアミ大学などがあった。
このうち、フロリダ大学は、公立大学なので学費も比較的安い。ELI(English Learning Institute)も充実していて、学びやすい、と何かの記事で読んだ。大学直営の英語教育機関で、外国人の入学を認めている大学なら大抵どこにもあるが、フロリダ大学にもあることを確認し、ここに決めた。
無論、フロリダ大学本校への正規入学ではない。まずはELIで英語を学び、ある程度レベルが上がったら、本校のほうへ転入すればいい、と考えたが、無論そんなに簡単にいくわけがない。
このあたり、まだ20代の若さがあった。これぞと決めると、成功しようがすまいが、その方向にわき目をふらずにまっすぐにすすめるだけのバイタリティとエネルギーにあふれていた。
会社勤めをしてほぼ5年が経っていたから、貯金もそこそこある。退職金も出るだろうし、そのころ新車で買い、乗り回していたホンダのスポーツカーを売り飛ばせば、2年くらいの渡航費用はなんとかなる、と算段した。
会社に渡航を告げたのはまだ梅雨前のころだ。海外業務も多い会社なので、会社に籍を置きながら社員のままで留学した例も過去にはあったようだ。こうした場合の規定も設けられていて、2年以内ならば退社せずに社員のままそれを認める、という。
しかし、退職金を目当てにしていた私はそれを断った。2年以内で帰ってこれる自信はなく、少なくとも3年はかかると考えていたためだ。ただ、会社上層部には一応ネゴシエーションをし、もし無事に学位を取って帰ってきたら、再就職もOKだという了承を得ての出国だった。
7月。退職する直前に、同期入社の面々が歓送会を開いてくれた。うらやむもの、危ぶむもの、それぞれだったが、私の決意を知ると、皆それなりに応援してくれた。会が終わった後、みんなの寄せ書きが入った色紙を渡されたが、その中に見覚えのない名前とメッセージがあるのをみつけた。
最初は誰だろうかと思ったが、文字をみて彼女だとすぐにわかった。しかし、苗字は結婚前のものから変わり、別のものになっていた。あなたならできる、祈っています、といった簡単なメッセージだったが、それを見たとたんにまた熱い思いが込み上げてきた。
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