夢の途中 6 浜松

こうしたことを書いていると、大学時代のことで書くことというのはそれこそ山ほどあることに改めて気づく。その後の人生を考えても、これほど密度が濃かった時間はない。多くのことを経験し、いろんなことを吸収した。

今考えても、現在の自分を形成する骨格は、ほとんどこのころにかたち創られたといってもいい。

その延長上にある大学卒業後のこともそろそろ書いていきたい気分もある。しかし、自伝であるこの稿においては、もう少しどうしても書いておかなければならないことがいくつかある。

焼津時代の後半、そろそろ二年生になって数か月が経とうとしていた。このころまでには下宿生活にも慣れ、家族と離れて暮らしているといった悲哀はまったく感じなくなっていた。多くの友達にも恵まれて毎日が楽しく、大学のカリキュラムにも余裕があったため、ストレスなく過ごせていた。

学校まで約30分の登山活動もまた、体を鍛えるにも効果的で、大学受験の前後、精神的にも肉体的にも疲弊していたことが嘘たったかのように健康を取り戻していた。おそらく中学校時代以来だろう、穏やかな気持ちで毎日を送っていた。

「ヤニの部屋」ではさらに入場者が増え、下宿の内外からいろいろなタイプの人間が集まるようになっていた。出身地はもとより、性格も好みもそれぞれ違っていたが、共通しているのはみんなエネルギーを持て余している、という点だった。

その余った力を勉強に向ければよさそうなものだが、学校をさぼって焼津の町をぶらつく者、アルバイトに没頭する者、パチンコなどのギャンブルに手を出す奴もいた。良し悪しは別として何か新しいことにみんな飢えていたことは確かだ。それほどこの片田舎の学生生活は退屈だった。

私もそのひとりだった。勉強はそれほど必死にならなくても、悠々と人の前に出ることができる。高校時代に熱中した写真活動も復活し、アルバイトで稼いだ金で新しいカメラを買ったりしたが、当時ほどの情熱は戻ってこず、時折撮影に出る程度だった。

同じ寮で、栃木出身の伊藤君という友達がいた。同じ学科であることから学校で一緒にいることが多かったが、寮へ帰ってからのプライべートの時間も共有できる友人だった。彼もまたカメラが趣味だということが仲良くなったきっかけだが、その彼からはほかのことでも影響を受けた。

ジャズフュージョンが好きで、その関連でオーディオ機器にも詳しい。その彼に触発されて、あまり高くない程度のオーディオを私も買ったりした。FMラジオをエアチェックしたテープをたくさん持っていたので、借りて聞いているうちに私も虜になり、自分でもエアチェックをするようになった。

アースウィンド&ファイヤーやシャカタク、チック・コリアやカシオペアといった、この時代を一世風靡したフュージョンの名曲の多くは現在までも聞き続けている。

しかし、カメラにせよ音楽にせよ、所詮は個人趣味だ。一日中没頭できるほど時間を潰せるわけではなく、第一、ひとりの世界に閉じこもるのは不健康だ。私を含め「ヤニの部屋」に集まる面々のあり余ったエネルギーを発散させるため、また自分のためにも何か新しいことを始められないか、と考え始めていた。

あるとき、ヤニの部屋の住人のうち、とりわけそうした新しいことを好みそうな者数人が集まって私と雑談をしていた。そのとき誰が言ったのか、あるいは私が言ったのか忘れたが、「射撃って難しいんだろうか」という話題になった。

なぜ射撃なのか、ほかにも面白そうなことはあったかもしれないが、その話題にみんなが飛びつき、それで新しいサークルを作るのも面白いかも、と口々に言い出した。確かに学内にはいろいろな部活があるが、射撃部はない。それにしてもいかにも危なそうな飛び道具を使ったクラブ活動がはたして実現するものなのかどうか。

何の情報もないため、その場では何の結論もでなかったが、とりあえず俺が調べてみるよと自分が請け合い、その後焼津市内の書店や市立図書館などで情報を集め始めた。

すると、いろいろなことがわかってきた。まず、射撃にもいろいろあるが、オリンピック競技に採用されているようなポピュラーなものは、大きくわけて散弾を使うクレー射撃と精密射撃を行うライフル射撃の二つだ。

クレー射撃は散弾を広範囲に飛ばすために強い火力が必要で、火薬が不可欠だ。一方、ライフル射撃には火薬を使うジャンルと、火薬を使わないふたつの分野がある。

火薬を使うライフルは国内では所有が厳しく制限されているが、火薬を使わないタイプはエアライフルという。すなわち空気銃であり、それほど規制も厳しくない。筆記試験を受けて受かれば、申請して銃を持つことも夢ではない。

このころ、ヤニの部屋に入り浸っていた外部からの訪問者の一人に、里田君という人物がいた。市内にある水産会社の社長の息子で、市内に一人でアパートを借り、そこから車で学校まで通学している。いわゆるボンボンだ。

父の会社を継ぐために必要な水産の知識を得ることが目的で入学し、ここでは養殖学科に所属していた。同じくヤニ部屋には養殖学科に所属する人間が何人か出入りしており、彼らがここに来る呼び水になったようだ。

おっとりした性格でいつもニコニコしていたが、意外と行動派で、この射撃部創設の話を聞くと、眼を輝かせて自分も仲間に入れろという。父が社長だけあって顔が広いらしく、射撃部を作るためのアドバイスをしてくれる人間を探してみる、と言い出した。

ヤニ部屋の面々の中でもこの話をしているのはごく数人だ。まだ部を作ろうといった具体的なプランは何も出ていない段階だったが、その申し出によって話はとんとん拍子に進み始めた。

孤独癖があるくせに、人を集めて意見をまとめる、ということは妙に得意だった私は、ここで中心的な役割を担うようになっていく。

最初のメンバーはこの里田含めて4~5人だったが、寮内外に声をかけるとたちまち10人以上に膨れ上がった。部活動として認められる人数は8人ほどだったから、既に人数的には十分である。

ただ、大学側にその設立を認めてもらうためには予算計画や、設立趣意書、規約や練習計画といった多くの書類を作成しなければならない。顧問の先生やコーチといった指導者も誰かに乞わねばならず、部活動を開始するための手続きは結構面倒なものであった。

そうした書類関係の作成、手続きは結局ほとんどすべてを私がやり、大学との交渉、指導者の要請など渉外的な事柄は里田がやった。部活動の方針を決めるため、頻繁にグループディスカッションを開いたが、その中である時、ところで部長は誰にするか、という提議が出た。

一同が一斉に私のほうを向いた。

が、このとき私はそれを是としなかった。理由はいくつかあったが、ひとつは中学時代の経験から、リーダーというのは傍が考える以上のプレッシャーがかかる役割だということを実感していたからだ。高校時代にも写真部で責任ある立場にされかかったことがあるが断ったことは前にも書いた。

生来、リーダーというよりもサブリーダーのほうが性に合っていると思っており、あるいは補佐役として指導者をサポートする側のほうが向いていると考えていた。このため、このときもリーダーよりも、サブリーダーの立場を選んだ。

これはこのあと、私の人生におけるポリシーのようになっていった。人の上に立つのを嫌い、いつも目立たないようにふるまうのが常となった。陰で人を操るフィクサーのような存在ともいえ、悪ぶるところのある私にはぴったりだ。

サブリーダーを選んだのには、別の理由もあった。リーダーになれば、四六時中人に指示を出さなければならず、いつも取り巻きに囲まれ、人と繋がっていなければならない。リーダーは孤独だ、ということがよく言われるが、それは心理的な面を指しているのであって、物理的に孤独はありえない。当然、一人が好きな私には向かない。

サポート役なら、組織員に直接命令を下す必要はない。ある程度のコミュニケーションがとれればいい。人との付き合いはなんとなればリーダーに押し付ければ済むわけで、私のように自己完結を好み、単独行動が好きな人間にはサブリーダーのほうが向いている。

もっともリーダーほどではないにせよ調整能力は必要だ。チーム全員の動向をある程度把握できる能力がなければならず、孤独でいつも押し黙っているようでは務まらない。チームのムードメーカー的な役割が求められる。

その点、私は場の雰囲気というのを読むのが得意で、全体の話をそれとなく自分が望む方向に持っていける、という特技を持っていた。これは、子供のころから培われてきた「オヤジ殺し」の才能の進化形ともいえる。

一方では優柔不断だから決断力はなく、リーダーには向いていない。このため、その役割は里田にやらせることにし、私は副部長、ということで皆を納得させ、そのとおり学校に申告することになった。




こうして、数か月後、わが射撃部は正式に学校側に認められた。年間の活動費用をもらえるようになり、またトレーニングをするにあたり、学内の設備はどんなものを使っても良い、との許可を得た。ただ、まだ部室は与えられず、着替えなどは空いている教室を使うよう指示された。

この射撃部創設にあたっては、実は警察公安からの調査が入っていた、ということを後から知った。広島に住まう両親の元にある日、警察がやってきたといい、その目的はリーダー格である私が怪しい人物であるかどうかを確認したい、ということだったようだ。

これには面食らったが、考えてもみれば、部として成立すれば、そのメンバー十数人が一同に人を殺傷する能力がある道具を手にすることになる。もしその集団が狂気的なものであった場合、社会的な脅威になるわけであり、警察にすれば、そうなる前にその組織化を阻止しなければならない。

無論、我々は銃を手にした過激組織になろうとしていたわけではない。当然、調査の結果、何も危ない奴らではない、ということになったのだろう、結局のところ、何のお咎めもなかった。

おそらく学校へも警察から問い合わせがあったのだろうと思うが、その際、私が作成した創設趣意書などの書類も提出されたに違いない。こうした書類の作成には細心の注意を払ったつもりであったが、その結果として部の創設が認められたのだと思うと、うれしかった。

それにしても、何も知らない両親はさぞかし驚いただろう。わが息子はいったい何をやらかしたのか、と思ったに違いない。私自身まさか、広島の実家にまで警察が行くとは考えていなかったので、何も告げていなかったのだが、のちに二人から警察による突然の訪問のことを聞いて、少し心が痛んだ。

こうした小さなトラブルはあったものの、無事に射撃部の活動が大学からも公安からも認められた格好だが、まだまだ問題は山積みだった。その最大の問題は、射撃部といっても我々誰しもが射撃などやったことはなく、また銃そのものも手にしたことない、ということであった。

部として活動していくためには、どうしてもその専門家による指導が必要だった。そうした指導者としては学内の人間、できれば教職にある人が望ましかったが、こんな片田舎の大学のキャンパスにそんな都合のいい人がいるわけがない。

しかし学外からコーチを招いている他の部活もあり、とくに教職にある人なら問題ないようだったので、これについては、かねてより里田が接触していた静岡市内の高専の先生を招聘することにし、大学に申し出て了承を得た。

ところが、この先生はただものではなかった。自らも射撃の選手をしており、エア射撃の一つのジャンル、エアピストルの名手だった。国体にも参加したことがある本物だ。一見、やわな体のように見えるが、運動神経は抜群で体がものすごくしなやかだった。

のちにこの先生に教わったところによると、射撃には筋肉は禁物なのだそうで、あまり隆々となると撃てなくなるという。むしろ柔軟性が必要だということで、しなやかな体を作るためにはやはりトレーニングは欠かせない。

その後、我々が画策した射撃部は学校側に正式意に認められ、かくしてこの顧問兼、トレーナーの先生を筆頭に部活動が始まった。基本的には毎日トレーニングを行うが、2日に一度ほどのペースで先生にも来てもらい、実践的な指導をしてもらうことになった。

日々のトレーニングの内容としてはランニングを基本とし、これに柔軟運動が加わる。腹筋背筋を鍛えるための前屈背屈運動に加え、腕立て伏せや片足座屈などを組み合わせたもので、複雑なものはない。ただ、単純であるということは実はハードである、ということを後で思い知った。

とくにきつかったのはランニングで、もともと山中にあるこの大学では、ほとんど平場はない。一周400mほどの小さなグラウンドを出ればあとは山道ばかりで、片道1キロもこれを登れば脈拍は最高レベルに達する。

さらにそのあとに柔軟運動が待っている。一番ヘビーなのが、片足座屈であり、これは片足だけで立ち、どこにも手をつかず、その軸足一本だけを曲げ伸ばして上体を持ち上げまた下げる、というものだ。実際にやってみていただきたい。かなり足を鍛えないとできない。

コーチの先生はこれを楽々とやっていたが、最初からできる者は私を含めて数人しかいなかった。ちなみにのちに私はこれを一人で練習し、最終的には両片足ともに20回は楽にできるようになった。また、ランニングについても、一番先に順応し、長い坂道を一番で駆け上がるのはいつも私だった。

それまでは体育系のサークルに入ったことは一度もなく、自分の体力がどのくらいあるのか考えてもみなかった。ところが、意外に順応できていることに驚いた。やればできるじゃん、ということで、それまでにも増してトレーニングに励むようになった。

まがりなりにもサブリーダーである。自分自身が率先してをやらねば示しがつかない、ということもある。そういう気分が、トレーニングにはっぱをかけた、ということもあっただろう。

が、考えてみれば小中高と学校に歩いて通ったように、もともと自分の体をいじめ、鍛えることには前向きだった。このときもこの苦行に、次第に快感を覚えるようになっていった。

通学のようにただ単に歩くということではなく、射撃というひとつのスポーツを通じて、体を鍛えるということに目覚めたわけで、学業以外のことで意欲的に自分の能力を伸ばすようになっていったことは新鮮だった。

それまでの人生ではありえなかったことであり、自分にはまた別の能力があり、それが開花し始めたのだ、と考えるとそれは驚きでもあった。人間とはいったいどれほど潜在的な能力を持っているのだろう。

ところが、私以外の面々もそうだったかといえば、必ずしもそうとはいえない。入部した部員は、私も含めてそれまでは日頃帰宅部を決め込んでいた元オタク少年ばかりである。他の運動部と比較しても遜色ないほどの練習量に根をあげる奴が次々とでてくるようになり、日々の練習を休むやつも目立ってきた。

それは、小中学校時代、理由をつけては水泳の時間をさぼっていたかつての自分をみているようでもあった。ただ、脱落者は出なかった。というか、出さなかった。特段罰則などは設けなかったためであり、休みたい奴は休め、という方針だった。

だがしかし、射撃に限らずなんでもそうだが、訓練を積まなければうまくなるはずはない。練習をさぼった者は、その後実際に銃を手にしても一向に上達しなかった。

トレーニングではこれ以外にも、銃を構えたときの姿勢制御の練習、といったこともやった。いわゆる、シャドートレーニングで、このときはまだ銃は手にしていなかったので、銃と同じ長さ、重さの棒などを使う。

棒を目の前で構え、上半身をやや後ろに倒しながら腰は前のほうに突き出す、いわゆる「立射」の構えをこのとき初めて学んだ。この構えでは、ほぼSの字に体を折り曲げ、そのまま長時間立ち続けなければならない。なるほど体が柔軟でなければだめだ、というあたりまえのことが、この練習でわかった。

実際の銃を手にし、実弾を打てるようになったのは、トレーニングを始めるようになってから三ヵ月ほども経ったあとだった。既に正式に部活動が学校から認められていたが、まだ実際の射撃はしておらず、もうすぐ2年生の夏休みを迎えようとしていた。

射撃の場合、その道具である銃は他のスポーツのようにレンタルというわけにはいかない。その所持は許可制であるためであり、自前で買って用意し、警察署でそのナンバーなどを登録する必要がある。その費用について、私自身は春休みの間いつものように測量のアルバイトをしており、銃を買うために十分な額を用意できていた。

しかし、さらに購入の前には公安が主催する「猟銃等講習会」という講習を受けなければならない。講習の終わりには、考査があり、合格の場合修了証が交付され、これをもって初めて銃を持つことが許される。

試験そのものはさほど難しくない。銃刀法に関する法律文を熟読して中身を理解し、30問ほどの答案用紙に〇☓をつけていくだけの簡単なものだ。ところが、あろうことか私はこの試験に落ちた。他のメンバーは全員がパスしたのに、である。

原因はあまりにも簡単なテストなので油断をしたことと、あらかじめ法令を十分に読みこなすなどの準備を怠ったことにある。が、サブリーダーが銃を持つ資格がない、というのではさすがに皆に示しがつかない。幸い、一回限りの試験ではなかったため、もう一度受験しなおして合格し事なきを得たが、冷や汗ものだった。

こうしてようやくほんもの銃を手にする日が来た。購入したのは東京、恵比寿にある「タクト」という銃砲店だ。静岡にも銃砲店はあるが、こうした競技専門の銃を扱っているところはひとつもない。

また競技専門の銃はそのほとんどが輸入品だ。国産もあるが、精度が低いとされ、国際大会などでは見向きもされない。外国製の銃のなかでも最高級といわれたのが、ファインベルグバウというドイツ製である。ほかにワルサーなど、ピストルで有名なメーカー品もあるが、多くの競技者がファインベルグバウを使っていた。

そうした輸入品を扱っている業者は日本全国でも少なく、調べたところ静岡から一番近い店がそのタクトだった。恵比寿の駅を降り、商店街が立ち並ぶ通りにその店はあった。4~5人がまとまって上京し、銃を受け取ることにした。あらかじめ注文してあったので、あとは代金を払い持ち帰るだけである。

店に入り、店主からいろいろ説明を受けたあと、注文していた銃を受け取ったが、初めて手にするそれに手が震えた。まがりなりにも本物だ。扱いを間違うと、人を殺傷する凶器になるし、他人に盗まれては大変なことになる。

このため、自宅に持ち帰っても、鍵付きの金属製のロッカーを用意して自分以外の人間がそれを開けないよう、厳重に管理することが求められる。

そもそも銃というものの原理はすべて同じで、吹き矢と変わりない。鉄で作った筒に弾を込め、入り口から圧縮した空気を送り込み、出口から射出する。その空気を送り出す原動力を圧搾機に求めたのが空気銃であり、爆薬による発動力に求めたのが火薬銃ということになる。

ところが、空気銃の場合、「空気」という日本語に惑わされ、威力がない、と思っている人が多い。しかしそれは違う。圧縮した空気により筒から射出される弾の速度は、小型拳銃に匹敵する。当たりどころが悪ければ死に至らしめる凶器であり、それを持つことには重大な責任が伴う。空気銃=殺傷能力がない、という理解・認識自体が間違っているのだ。

戦前、日本では誰しもがこの空気銃を持つことができた。が、それは家の周りにいる小鳥などの小動物を捕獲するため、あるいはイノシシや鹿などの作物を荒らす害獣を脅かすためのものであり、威力も精度もたいしたものではなかった。いわゆる「鉄砲」の域を出るものではない。

現在のエアライフルと比べれば雲泥の差がある。ライフルとは「旋状」の意味であり、近代的な銃の中には弾を射出する筒の中にらせん状の溝が彫ってある。これにより発射する弾丸を回転させ、進む方向を安定させることができるとともに、対象物に当たったときにはその衝撃を大きくする効果がある。

標的に正確に当てる銃を作るためには、このライフル加工が必然であるとともに、ほかにも極めて高度な加工技術が必要である。高い圧力がかかる銃の強度を高めるための精錬技術、弾を込め発射するまでの複雑な連動機構、正確な射的を可能にするための照準装置などがそれである。

隣接する国同士が争う期間が長かった欧米では、火薬が発明されて以降、それを最大限に活用する技術として銃の製造がさかんになった。日本にも輸入された火縄銃のような原始的な銃に始まり、その技術はいくつかの大きな戦争を経て洗練され、現在のようなものになっていった。

一方、一次・二次世界大戦のようなグローバルな争いがなくなった近代以降は、大容量の火薬に大きな弾丸といったオーバースペックな銃は必ずしも必要なくなった。比較的治安の良い国や地域が増え、日常的な防衛のためには最小限の威力を持った銃があればいい、ということになった。

さまざまな試行の結果、弾丸を射出する原動力も必ずしも火薬である必要はない、という結論に達し、エアライフルのようなエコノミックな銃が生まれた。

一方、いざ戦争が始まったときのためには、射撃技術を保ち続けることが必要である。その必然性から日々の射撃練習が行われるようになり、射撃に巧みな者同士を競わせるなかからスポーツ射撃というジャンルが生まれた。火薬を使わないエアライフルは万人に受け入れられやすく、平和的なスポーツ競技の道具としてはぴったりだ。

この点、かつて同様に戦争の武器であったアーチェリーや槍投げなどと同じである。射撃と同様にスポーツ競技として生き残り、オリンピック競技として親しまれている。

戦争の名残といえば、マラソンもかつては伝令が前線からの報告をもたらすために走ったことが起源だといわれているようだ。馬術競技もそもそもは騎馬に代表される馬を利用した軍備にその発祥がみられる。

それほど遠くない将来、戦争そのものもスポーツ化されるのではないかという説まである。eスポーツなる、わけのわからないようなものまでがスポーツとして認められようとしている。かつては射撃がスポーツになるなど誰もが予想しなかったのと同様、想像を超えるスポーツが未来には登場しているかもしれない。



さて、念願の銃を手に入れた面々は静岡に帰った。

その後は、皆もくもくと練習に励み、とくに私はそれに熱中した。

スポーツ射撃においては立射が基本だ。このほか、膝射、伏射があって、立射と合わせ3種混合で行う複合競技と、立射だけ、あるいは伏射だけの単独競技がある。最近はエアピストルやビームライフルと言ったものも導入されていて、これらを組み合わせた複合競技もあるようだが、私の時代にはそれだけだった。

立射だけの競技の場合、60発を撃つ。また立膝伏の3種競技の場合は、それぞれ20発づつを撃ち、合計60発で命中率を競う。安定が悪いのは、立射、膝射、伏射の順であり、立ったまま競技を続けなければならない立射が一番難しい。

実際に銃を構えてみるとその難しさがわかる。まずは、なかなか狙いが定まらない。重い銃を支える体のバランスがうまくとれないこともあるが、そもそも10m先にある的が小さすぎるのである。たかが10mと思うかもしれないが、その距離は100mほどにも感じる。

標的の直径は45.5mm、同心円状になっていて一番外側が1点、中に向かって5mmづつ減じるたびに加算され、最終的に中心が10点となるが、その部分のテンはわずか0.5mmしかない。その部分にかすめさえすれば10点満点だが、実際やってみてほしい。ちょっと練習したくらいでは、まずは当たらない。

一度や二度では照準が決まらず、3度4度と繰り返し、ときには一発撃つのに5回も6回もかかることもある。その都度、銃をいったん降ろし、また持ち上げる。ずっと持ち続けるよりもそのほうが楽なのだ。

もっとも、時間制限があり、60発競技ならば1時間15分と決められているから、延々と上げ下げを続けることはできない。限られた時間に重量物を急いで上げ下げするといことは、それなりに瞬発力もいるということであり、著しく体力を損耗する。

エアライフル競技に使う銃の重さの上限は5.5キロと決められているが、ほぼほとんどの銃がこのMAX重量だ。これを持ち上げ下げるという行為、すなわちこれは同じ重さのバーベルを同じ回数上げ下げするのと等しい。いや、体を妙な具合に折り曲げて行う動作だから、単純に重量物を上げ下げするよりかなりきつい。

仮に一発撃つのに3回照準をやり直したとすると、60発打つためにはその動作を180回繰り返すことになる。

立射の練習時、60発ワンサイクルの実射を、最低でも3サイクルくらいは行う。180×3=540回もの銃の上げ下ろしをすることになるから、練習が終わることにはへとへとになる。射撃がうまくなるためにはかなりの体力が要る、ということがおわかりだろう。加えて体の柔軟性を高めることが重要であることは先にも述べた。

日頃の練習では一番命中率の悪いこの立射競技を中心に行う。膝射と伏射は、当たってあたり前の世界なので、ほとんど練習しなかったが、いざ試合ともなるとこの姿勢での射撃も行うことになるため、そのいずれもが練習できる場所が必要となる。

練習を行えるのは公的に認められた射撃場だけである。焼津校舎の中にはもちろんないが、近くにも実射を行える射撃場はなかったため、富士市にある岩本山射撃場まで出かけていた。

いつも車を持っている連中が同伴してくれるとは限らず、そもそも運転手も練習を行うわけだから帰りの運転が大変だ。というわけで、たいていは片道1時間ほどをかけて焼津駅から電車でそこへ通っていた。当然のことながら、練習に出かけた面々は疲れ果て、帰りの車両の中では泥のように眠っていた。

ただこれは我々が二年生までのことで、三年生になって浜松校舎に移ったあとは、焼津キャンパスのすぐ近くに射撃場ができ、こちらへ通った。その場所は、丸子(まりこ)といい、安部川の右岸側にある。広重の浮世絵にも出てくる、かつての丸子宿であり、とろろ飯で有名だ。現在もとろろを食べさせる店があり、この当時もあった。

この丸子射撃場には、週末になると必ず訪れ、日がな一日練習に明け暮れたものだ。授業が午前中しかないときに練習に来ることも多く、浜松時代の私は射撃の虫になっていた。

立射600点満点を目指す中、練習ではあるが、私が達成したスコアは最高で590点台で、常時580点台後半をキープしていた。これは国体レベルの選手が出すほどのスコアだ。他の部員はといえば、よくても560点程度だったから、手前味噌ながら私の技量は頭抜けていた。

ところが、残る学生時代の時間は少なく、こうしたスコアを出せるようになったころには、卒業論文の仕上げや就職活動が待っていた。射撃に割く時間は減らさざるを得ず、次第に射撃場からは足が遠のいていった。

もっと射撃をやりたかったが、学業に忙殺され、結局試合にも出ず、私の射撃生活は終わった。その後社会に出てからは、今度は仕事のほうで忙しく、射撃を再開する機会は永遠に失われた。

もし、もう一年ほどあれば、もっと射撃の腕を上げていたと思うし、公的な大会などにも出場できたに違いない。もっとも、練習で高いスコアを出せても試合になればそうはいかないことは知っている。射撃もスポーツであり、その厳しさは知っているつもりだ。しかしそうだとしても、結局一度も競技に出ることができなかったことが悔やまれる。

が、それはそれでよかったのだと思う。そのことによって、その後また違う道を歩むことができたのだから。また、いつの日か生まれ変わって別の人生を歩むとき、このことをもし思い出したなら、再び射撃にチャレンジしてみたいものである。




射撃の話はこれくらいにしておこう。

その記述に熱が入り、また、そのなりゆきで、いきなり大学生活の終わりのところまで飛んでしまったが、ここからは、3年次から移り住んだ浜松の町でのことについて少し書いていこう。

焼津での2年間は、終わってみればそれまでの人生での中で一番中身の濃く、かつ長く感じた一時期だった。それに比べ、浜松に移ってからの時の流れは矢のように速い。

3年次になって移動した浜松キャンパスは、浜松駅から南へ6kmほど離れた海岸沿いにあった。駅前にもたくさんのアパートがあったが、できれば海の近くがいいと思い、大学にもほど近い、遠州大砂丘とも呼ばれる中田島砂丘のすぐ近くに選んだ。

2軒長屋の片側で、もう一方には何かの職人さんの一家が住まわっていた。古い建物だったが、バストイレ・キッチン付きで生まれて初めて誰にも干渉されない空間を手に入れることができ、喜びはひとしおだった。

無論、親からの仕送りだけでは十分とはいえず、いろいろアルバイトをやって稼いだ金で家賃を補充した。家具などには一切金をかけず、ベッドなどは酒屋でビール瓶の空き箱をもらってきて敷きならべ、その上に布団を引いて代用した。

大学3年になってからの大学の授業は専門科目が多くなり、格段に難しくなった。それでも時節あるテストなどでは集中力を途切らすことなく加点を重ね、1・2年次に獲得した成績の上にさらにA評価を重ねていった。最終目標である首席での卒業は、不可能ではないと思った。

4年生になり、卒業論文を書くためにそろそろ所属するゼミを決めろと大学側が言ってきた。だが、正直なところ卒論などどうでもよく、そのゼミを主宰する先生のほうに興味があった。

というのも、卒業後の就職先はその先生のコネによって決まる、ということが大っぴらに言われていたからである。実際、東京にある大企業とつながりがある先生のゼミ出の学生は、その企業へ就職する確率が高く、逆にコネのない先生のゼミに入ると、静岡の地元企業ぐらいにしか入れない、という事実があった。

当然、就職の良いゼミの先生は人気が高い。中でも福田耕三先生という海洋構造物が専門の先生のところに入ると、よい就職先を紹介してくれると評判だった。このため福田ゼミへ入ることを希望する学生は多く、最終的にはくじ引きで決められた。

そのくじに当選し、福田ゼミに入ることに成功したときは小躍りした。だが、姑息ながら、そこから先、いかに先生に気に入られるかが問題だった。

無論、金銭や贈り物の贈与で関心を買うことはできない。勉学で認められる以外に道はないとわかっていたから、ゼミに入って先生が提示したテーマの中でも一番難しそうなものを選んだ。

海の上に浮かぶ大型構造物にかかる「波漂流力」という特殊な力を実験的に計測し、考察する、という内容で、構造物としては、巨大な石油タンクのようなものが想定されていた。私以外に二人が手をあげたが、そのひとりは焼津時代に同じ寮にいて仲良くなった伊藤君、もう一人は3年次になって親しくなった坂井君という人物だった。

この研究テーマは先生にとっても重要だったらしく、ほかに大学院生が一人ついた。日本人ではなくインド人で、アタルさんという。この研究テーマで博士論文をとり、祖国へ帰って大手の企業に勤めたい、という希望があることをのちに聞いた。

ところがこの研究テーマを選んだのは失敗だった。というのも、学校側から与えられる研究費用は微々たるもので、実験に使う模型を購入する金がない。それをすべて自分たちで自作しなければならないことが後で判明したからである。

さすがに困り、先生になんとかしてください、と泣きついたが、そこはなんとかうまくやれ、と逆にやり込められてしまった。仕方なく、学校の近くにある造船所などを回って頭を下げて安い材料を仕入れ、4人がかりで苦労して手作りでそのモデルを作り上げた。が、そのためだけに優に半年はかかった。

が、出来上がった模型を実験水槽に浮かべ、計測装置からデータが無事に取れた時の喜びはひとしおだった。生まれて初めて自分たちの手だけで行った研究が成果をあげたことに対しては、大きな満足感が得られた。

この実験の成功は無論、先生への印象もよくした。その後先生と何かと会話をするようになり、プライベートなことも話すようになった。先生は元、海上保安庁に勤めていたことがあり、私の父が建設省で公務員であることを知ると、さらに親近感をもったようだ。何かと広島の両親のことも聞いてくださるようになった。

逆に先生のことも聞かせてもらうこともあり、神奈川の大和にあるご自宅の様子なども話してくれた。お嬢さんが一人おり、ペットとしてポメラニアンを飼っている、といったことも聞かされた。ポメ、と呼んでいるとおっしゃっていたが、少々お堅いイメージのある先生の一面を見た気がして、親しみがより沸いた。

我々の研究が着々と進む中、4年になって半年もしないうちに最後の授業が終わった。早めに終わったのは、あとの時間は卒論に注力せよ、ということである。すべての学内試験結果が出たあと、土木工学科、約200名の成績発表があった。

結果として、私の順位は3番だった。目指していた首席の座は射止めることはできなかったが、多くの学生を率いてひとつの組織を立ち上げ、それを運営するという忙しさの中で、この成績を得た、というのは手前味噌ながら人に自慢できることだ、と思った。

首席は、土質が専門の先生のゼミに入っていた、あまり付き合いのない学生だった。一方、驚いたのは、私と一緒に卒業論文に取り組んでいた伊藤君が2番だったことだ。

前から成績が良いことは知っていたし、趣味の面でもいろいろ教わった。お互い切磋琢磨して勉強をしあった仲だからうれしく思ったが、まさか自分よりも上とは知らず、複雑な心境ではあった。

こうして、首席で卒業するという、入学当初に掲げた目標に向かっての私のレースは終わった。目標は達成できなかったものの、成績表にはずらりとAが並んでおり、もし大学院を希望したとしても、問題はなく入れただろう。

とはいえ、さらに進学の道を選ぶつもりはなかった。高い学費を出してくれた両親にこれ以上甘えるわけにはいかなかったし、4年間、十分に勉強したわけであり、もういいや感があった。今は勉強を続けるよりも実社会に出て経験を積むべきだ。就職活動こそが次の目標だ、そう思った。

このころ、卒業後に入る企業への就職活動が認められているのは10月くらいからで、現在よりかなり遅かった。成績発表が終わり、卒業論文の発表があるまでの約3ヵ月ほどがその期間となるが、我々の福田研究室でも、ゼミ生それぞれが先生の情報をもとに、就職先を模索し始めた。

ある日のこと、授業が終わり、同じ卒論をやっていた伊藤、坂井の両君とゼミ室で雑談をしていたところ、突然、福田先生が現れた。こんな時間に何のご用かとおもったら、開口一番、よい就職先があるが、君たちのうち誰かひとり応募してみないか、という。

詳しく聞いてみるとその会社は、大手の建設コンサルタントだという。先生はそこの取締役と昔から懇意であり、その関係もあって福田ゼミからは毎年一人枠で、その会社への採用があるということだった。

思わず三人とも顔を見合わせたが、中でも一番成績のよかった伊藤君にやはり優先順位があるだろう、と思った。ところが彼は、私の顔をみるばかりで沈黙している。坂井は、というと、どうせ俺には関係ないさ、というかんじでこちらも黙っている。えっ、それじゃぁ俺?と驚いていると、伊藤君がかすかにうなずくではないか。

後で聞いた話では、彼はこのとき別の企業への就職を視野に入れていたらしく、自力でそこに入社することを望んでいたようだ。

私自身も自分でいくつか候補として考えて始めている会社があったが、どれも強いモチベーションを持って入りたいと思ったものばかりではなかった。決め手がなく、どうしようかと思っていたところだ。

それなら、ということで福田先生のその申し出をありがたく受けることにしたわけだが、この時こそが、その後10年以上にも及ぶこの会社との腐れ縁が生じた瞬間だった。

のちにわかったことだが、大学と企業との間には、文書化されていない就職協定的なものがあるらしい。企業は人材が欲しいし、大学側も就職率が良いということになれば入学してくる学生も多くなるわけで、お互い持ちつ持たれつの関係だ。

その「協定」のパターンはいろいろ。企業出身の教師はその会社と太いパイプがあり、かつての古巣に自分の愛弟子を嫁がせる、という方向性がひとつ。また、企業から研究費の名目で資金を提供してもらっている教師は、資金源であるその企業と当然繋がりが強くなるため、自分の教え子をそこに送り込むことも多くなる。

このほか、単純に企業のトップと友達、というケースもある。かつての友人から乞われ、人材提供をするという場合もあり、私の場合はどうもそのパターンだったらしい。

後で聞いた話では、福田先生とその会社の取締役は、若かりし頃に海軍で一緒だったらしく、そのころからの友人だったということだ。最初に先生が紹介して入社した教え子が優秀で、その後もあたりはずれのない学生を提供し続けてくれていたので、今年もよろしく頼むよ、ということらしかった。



こうして、その年の秋の日のこと、私はその会社、ワールドビジョン・コンサルタンツ(WVC)を訪問した。会社訪問とはいいながら事実上面接である。緊張して何をしゃべったか、相手がどんな立場の人だったかも忘れてしまったが、お互い、好印象だったと思う。

面接を終えてそのすぐあとのこと、会社の裏手に小さな神社をみつけ、そこでささやかな合格祈願をした。鳥居をくぐって出たとき、のどが渇いたのでそばにあった自動販売機でジュースか何かを買ったところ、めずらしく「当たり」が出た。当たるともう1本タダで飲める、というやつだ。

こうしたくじに、めったに当たらない私にとってはめずらしいことで、こりゃー幸先がいいわい、きっと神様からの伝言だわ、と思ったものだ。

後日、形式ばかりの入社試験があり、その1週間ほどあとには早くも正式の採用通知が来た。先の自動販売機の予告はやはり本当だったか、と妙に納得した。

しかしこの会社への就職は、実は本来自分が思い描いた道とは違っていた。もともと何等かの海洋開発をやっている組織へ入ることが目標だったから、それとは少し違う方向性の会社を選んだことになった。

建設コンサルタントという分野は、一般にもなじみがないだろうが、この時の私も同じで、実は、そうした企業を選んだことについては、のちのちまでしこりが残った。海で仕事がしたい、という思いはこのときもまだ強かった。

しかしこの会社は主に海外での仕事が多く、海を渡っての向こうに活躍の場がある。面接時にもそう聞かされた。なので、いずれは海に関連した仕事もできるだろう、ということでなんとか自分を納得させた。

これ以外にも訪問した会社がふたつあり、ひとつは土木水理実験をやる会社で、もうひとつは大手ゼネコンの関連会社だった。いずれも会社規模は小さく、また海洋に関係ある仕事は少なそうだったので、合格通知が来た段階で、丁重にお断りした。

こうして、大学院への進学はやめ、他の会社の申し出も断り、何か退路を断つような形で就職先を決めたあと、卒業までにすることはあとひとつ、卒業論文を仕上げることだった。しかし、こちらも年内中には片がつき、卒業までには、数か月も時間が残った。

何をして過ごそうかなと思ったが、射撃についてはこのころもう熱が冷めており、また腕も相当鈍っているようだったので、もう一度熱中しようとは思わなかった。それよりももっと将来に役立つことをやろうと考え、就職先が海外系ということもあって、英語をもう一度勉強しなおそうと思った。

もともと英語は好きだった。中学校時代には塾通いもし、NHKの英会話番組も視聴するなどして習得に努めた。しかし高校時代のいわゆる受験英語で挫折した。リーディングが中心のその授業は面白みがなく、時折あるヒアリングの時間も苦痛だった。

その後留学もし、ある程度英語が自由に使えるようになった今考えると、こうした日本の学校の英語教育はどこか間違っているとしか言いようがない。

留学先のアメリカで、わずか半年で英語がある程度使えるようになってことなども加えて考えると、明らかに文部科学省は間違った指導方針を掲げていると思う。

もっとも文科省の影響が及ぶのは高校までであり、大学での英語教育はその学校側の裁量でどうとでもできる。より力を入れる大学もあるが、その一方で専門科目に専念させたい、という目的などから全く英語教育をやらないところもある。

私が卒業した南海大学も英語の授業はなかったが、世界に飛び立つ専門家を育てたいなら、なぜ英語の授業がなかったのだろう、と思う。英語科目がカリキュラムに取り込まれなかった理由は知る由もないが、これにより私はすっかり英語からは遠ざかることになっていた。

そうしたこともあり、ここへきて急速にまたそれを学びたいという意欲が出てきた。こため、何で調べて知ったのかよく覚えていないが、たぶん新聞の広告か何かだったろう。浜松の駅近くに評判のいい英会話学校があることを知り、早速通い始めた。

今でも持っているが、その学校で配られた「Thinking in English」という英語教材は、私の英語能力を高めるのに実に役に立った。高校でもこういった実のある英語教材を使えばいいのに、とその時も思ったものだ。

その英会話学校には、卒業までの3ヵ月ほど通っただけだったが、それなりに使える英語が身についたように思う。ただ、実際はそのあとの就職した会社ではほとんど使う機会がなかった。英語をシャワーのように浴びるようになるのは、それからさらに5年ほども経ったあとのことになる。

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