夢の途中 5 焼津

進学先を決めたあと、卒業までの日にちはほとんどなかった。

3月になると、クラスメートがそれぞれどこの大学に合格したか、といった情報がぽつぽつと流れてくる。あいつはどこに受かった、あそこを落ちた、といった話が授業の合間にささやかれていたが、私は自分がどこに進学するかはあまり人に話さなかった。

「三流校」という言葉がいつも頭に浮かんでいた。自分の進学先のことを話す友達たちの間をすり抜け、足早に家に帰る日が続いた。

正直なところ、この時期、何をやっていたのかはほとんど覚えていない。好きな写真を撮る元気もなく、うつろな時間だけが流れていた。起きている時間よりも寝ている時間のほうが長かった。病んだ体を、知らず知らず治そうとしていたのかもしれない。

やがて時は確実に流れ、卒業の時を迎えた。この卒業式も何があったのか全く覚えていない。体育館で卒業生全員が並んでいたことぐらいは覚えている。しかし両親が来ていたかどうか、自分がどんなふうに卒業証書を受け取ったかといったことはまるで記憶にない。ほとんど心身喪失状態だったといっていい。

その日もなんとなくクラスメートとも別れを告げ、3年間通い続けた学校を後にした。去り際に卒業出来てよかったとか、楽しい、あるいは苦しい3年間だったとかといった感慨はまるでなく、ただ単に、あぁ終わったんだ、という脱力感しかなかった。

卒業式が終わるとあわただしく広島を出る準備が始まった。母がいろいろ生活用品を揃えてくれるのをぼんやり見つめ、あれこれ説明してくれるのを半ば上の空で聞いていた。洗濯の仕方、料理の方法、といったことだったと思うが、どうでもよかった。

このころ、実際に入学する前、下宿先を見に行こう、と突然父が言い出した。なんでも満州時代の父の友人が大学の近くの町に住んでいるらしい。そこに泊めてもらって旧交を温めると同時に、お前の行く学校周辺の様子を見てこよう、息抜きにもなるし、というふうなことを言う。

父にすれば息子の進学先を無理やり決めた、といううしろめたさがあったのだろう。私はといえば、進学先についてはすっかりあきらめモードとなっており、まったく父に反応しなくなっていたから、そのことを気に病んでいたたに違いない。

私自身は別にそんな下見をしなくても、ぶっつけ本番でいいや、と思っていたから、少々ありがた迷惑に思った。が、父にすれば、最近落ち込み気味の息子を少しでも前向きにさせよう、という気持ちがあったのだろう。そう思い当たったら断れなくなった。

このとき新幹線で行ったのだと思うがそれすらも記憶にない。たぶん静岡駅で降りたのだろう、東海道線に乗り換えて父の友人宅からの最寄駅に着いたころには夕方になっていた。

ところがこのところ心身不調だった私は、この日はさらに体調を崩していた。二人でタクシーに乗り、そのお宅に辿り着いたころには、高熱を発し、下痢気味のままそのお宅にお世話になる羽目になった。親切な一家で、年ごろの娘さんがいたと思う。お母さんと一緒に薬の手配や食事の面倒をみてくれ、ありがたく思ったことなどを覚えている。

大学のあった焼津は、その家から目と鼻の先であった。手厚い看護で体力を取り戻した私は翌朝、父とともにバスを乗り継いで現地に赴き、大学とその周辺を視察した。

第一印象は、とんでもないところへ来てしまったな、というものだった。下宿のある周辺は田んぼと畑ばかりで、そのまわりに民家がぽつぽつ。店らしいものは何もなく、そのかわりにあちこちあるのは町工場と製材所の類だ。

あとで知ったのは、そこは石脇という集落で、昔、そこに北条早雲が起居していた城があったらしい。ここから、バスに乗れば10分ほどで焼津の中心部に出ることができる。

この集落から北は、なだらかな丘になっており、「高草山」という領域になる。石脇はその山のふもとにあたり、山のほうへ向かって緑の茶畑が広がる。大学はその茶畑のさらに上のほうにあり、バスで曲がりくねった坂道を登って行った終点にあるらしい。

父と二人、その連絡バスに乗ると、最初は茶畑の中を走っていたが、そのうち、うっそうと茂った雑木に左右を囲まれた道を分け入って進んでゆく。こんなに山奥か、とだんだんと不安になっていったが、そうこうするうちに目の目が開けてふたたび茶畑が広がり、バスが止まった。

バスを降り、そこから校舎らしい建物のほうへ歩いて行き、振り向いたが、その瞬間驚いた。目の前にはたおやかな斜面を利用した茶畑やミカン畑が広がり、その先には茫洋とした駿河湾が広がっていた。はるかかなたには三保半島らしきものが見える。キラキラと輝く駿河湾は織り上げたばかりの絹のようで、その美しさに思わず息をのんだ。

この大学が高台にあることは知っていたが、まさかこれほどの景色を持っているとは知らなかった。これ以降の2年間、その景色を日々堪能しながらの学生生活が始まることになるのだが、そのときの駿河湾の美しさはその後の生涯でも忘れることのできないものとなった。

ところが、である。キャンパスを後にし、ふもとにある下宿先を見学した時には正直唖然とした。

その下宿は三洋荘といった。40人ばかりが入居できるアパート二棟からなり、大学までは目の前のバス停から毎朝定時に便が出ている。入居者には個室が与えられるが、広さは3畳ほどしかなく、収納スペースはほとんどない。風呂とトイレは共用で、とくに風呂は大浴場といった趣で、大きなバスタブに皆が共同で入る、といったものだった。

食事は朝夕まかないが出るが、昼は自分で用意することになっており、そのための自炊スペースがあった。既に先輩の学生たちが暮らしており、その生活ぶりを垣間見ることができたが、なんというか貧乏くさかった。これまで家族以外の人間と暮らしたことのない私が、はたしてこんな世界に溶け込めるだろうかと一抹の不安を覚えざるを得なかった。

父もそんな私の様子をみて心配になったのだろう。大丈夫か、と声をかけてきたが、即答でなかなか気に入った、と嘘を言った。わざわざ休みを取り、息子のためにとここへ連れてきてくれたことへの感謝の思いからだったが、内心は泣きたい気持ちでいっぱいだった。

その後広島へ帰り半月ほどが経ち、再び広島を離れる日を迎えた。だが今度の旅は短期間ではなく、かなりの長期間になるはずだった。15年超住んだその町は、その日やけにもやっていた。晴れてはいるのだが空気がよどんでいる感じがしたのは、あるいは私の心象風景だったかもしれない。

既に荷物は静岡に送ってしまっていたから手荷物はわずかだった。駅までは母が見送りに来た。平日で父は仕事に行っていたと思う。

新幹線ホームでしばらく待っていると、私が乗る列車が来た。母を見るともうすでに泣き出しそうな顔をしている。私は悲しくなんかないぞとばかりに笑顔でこれまでのことの礼を言おうとしたが、うまく言葉にならない。車両に乗り込み、窓越しに母を見るともう泣いている。

私はもう一度精いっぱいの笑顔で手を振った。やがて発車し、ホームに立ち尽くす母が遠ざかっていく。と、思わず大粒の涙が出て、そのあとしばらく泣いた。平日のその時間、車内はまばらだったから、号泣するその声はおそらく誰にも聞かれなかっただろう。




こうして私の大学生活が始まった。

といっても、町中にある大学のようにはいかない。ちょっとしゃれた服を着て、小ぎれいな靴を履いて出かける、などということはありえない。夏ならほぼ全員がサンダルを履き、上はTシャツで下はGパン、時には半ズボンを履いて通学、というのが標準だった。

もう少し身なりに気を付ければいいのに、といわれそうだが、どうせ通学路は農道である。下宿そのものが畑のど真ん中にあり、そこを出ると一面の茶畑が広がる。その間を縫うようにして農作業用の道が山の上のほうに伸びており、これをせっせと登攀するとキャンパスに行きつく。上りは片道30分ほどだったろうか。下りは逆にその半分程度で済んだ。

親からはバス通学できるほどの十分な金はもらっていたが、節約して別のものに使うことにした。奇しくも小中高で貫いた、歩いて学校へ通うという習慣がここでも続くことになった。

下宿であてがわれた部屋は、一階の真ん中ほどにあり、窓を開けるとそこは生活道路を挟んで一面の畑であり、眺めはさほど悪くはなかった。寮母一家がともに住んでいたが、優しい家族で、食事もおいしく、気配りができる人たちだった。心配した風呂も最初はとまどったが、他の寮生と同じバスタブに入ることにもそのうち慣れた。

友達も次から次へとできた。一番最初に声をかけてきたのは、隣の部屋の住人で菊池君という。岩手の一関出身で、東北なまりがあったが、すぐに打ち解けていろいろお互いの境遇を話すようになった。

自転車とジャズが好き、ということで、自転車のほうはとくに影響は受けなかったが、後者のほうには興味がわいた。言われるままに彼のお気に入りを聞いているうちにいいなと思うようになった。

ほかにも、友人がたくさんできたが、その後長い付き合いとなった者も多い。出身地はというと、東京、千葉などの関東圏がやはり一番多かった。

しかし、北海道や鹿児島、新潟や岐阜といった地方からやってきた連中もおり、日々いろんな方言が飛び交う。私の出身である広島や山口の人間はいないのが残念だったが、逆に同郷者がいれば、小さな閥ができてしまった可能性もあるわけで、それはそれでよかったと思う。

父と最初にここを見たとき、大丈夫かなと心配したものだが、そんなことがあったかな、と思うほどにすぐにこの寮生活には慣れた。というか、毎日が楽しく、いろんな連中と色々な共通の楽しみができ、そのひとつのきっかけが、工藤君という一人の寮生だった。

現在もそうだが、この当時も未成年者の喫煙は禁じられている。ところが彼は、一目をはばかることもなく、おかまいなくタバコを吸っていた。しかも日に一箱は軽く開けてしまうほどのヘビースモーカーだったから、そのうちみんなから「ヤニ」と呼ばれるようになった。

いったいいくつの時から吸っているのか、ついぞ聞いたことはなかったが、北海道のかなり田舎のほうの出身だと教えてくれた。おそらくは育った場所柄、未成年者も喫煙しやすかったのだろう。地方のある地域では、子供のころからタバコに寛容な地域がある、と聞いたことがある。

道人らしくおおらかな性格で、来るものは拒まない、というところがあった。このため、彼の部屋にはなぜか人が集まることが多く、一種の社交場のようになっていた。

学校から帰ると真っ先にみんながそこに集まる。ヤニはそれを嫌がるでもなく、自ら入れたコーヒーを振る舞ったりするものだから、その評判を聞いた連中がまた集まる。一種のサロンのようなもので、学校から帰ってきたらまずみんながその部屋に来るようになった。

普通ならプライバシーの侵害の問題だ、と本人が拒否しそうなものだが、自分の部屋に大勢の連中を抱えていること自体が、この人物にとってはうれしいらしい。有志の巣窟、梁山泊が彼氏の理想のようだった。

ヤニの部屋に出入りするのは、毎日は来ない連中も含めて最初は7~8人程度だったろうか。
そのうち友達が友達を呼び、この寮に住んでいる以外の住人も遊びにくるようになり、多いときには狭い部屋に10数人もの人間がつめかけたこともある。

こうしてこの不思議なサロンに大勢の寮生が集まるようになり、最小はただ単にダベっているだけだったが、誰ともなしに暇だからトランプをやろう、ということになった。

はじめは、誰もがやったことがある、ババ抜きやざぶとん、七並べといったものだったが、やがて、ポーカーや大貧民などの複雑なものになり、これにみんな熱中した。我々のグループ─そのころはもうすでにそうした雰囲気があった、は麻雀などにはまるで興味を示さない面々ばかりで、ある意味同質の人間が集まっていた。

割とおとなしくまじめ。勉強もまあまあできて羽目をはずさない、といった連中で、無論、私もそのカテゴリーに入っていた。梁山泊のように、優れた人物が集まっていたかどうかははなはだ疑問だが、近い性質の人間が集まっていたことは確かであり、類が友を呼ぶ、というとはこのことだ。



一方、学校の授業はというと、つまらなかった。この学校は独特のカリキュラムを持っていて、1~2年生はこの山の上にある焼津校舎で「教養課程」を学ぶ。3年になると浜松に移り、専門課程を学ぶという決まりだった。

教養課程の教科の中には、測量や土木工学の基礎といった専門分野もあったが、基本的には基礎教養をつけさせる、という方針だった。このため、第二外国語や美術、体育などの授業もあり、私は第二外国語でフランス語を選択し、体育ではゴルフや柔道を習った。

フランス語はほとんどお遊びのようなもので、授業を受けた後も全く上達しなかった。体育の時間も同様だったが、初めてやるゴルフは新鮮で面白かった。

意外だったのは柔道で、担当の先生から、君は本格的にやればうまくなるよ、と言われた。南海大学は、オリンピックでメダリストを輩出するほど、柔道教育に熱心な大学である。こうした体育の授業にもかなり名うての先生が就任している。

その先生から、柔道がうまくなる、といわれて悪い気はしなかったが、体育会系のその方面へ行く気はさらさらなかったので、その助言は無視することにした。同じ寮に柔道部に属する友達がいて、入らないかと誘われたが丁重にお断りした。

一方、私がこの学校に来て、本当に学びたかったのは専門分野だ。かねてより海に関わる仕事のエキスパートになりたいと思っていた私は、もっと海洋に関する授業があると思っていた。しかし、焼津校舎ではそうした内容の授業は極端に少なく、しかも内容が薄い。

せっかく大学に学びに来たのに、この程度しか教えないのか、と不満でしかたがなかった。しかも、カリキュラムが極端に手抜きで、週間工程表をみると専門科目の授業はガラ空きだ。

受験して合格したのは土木工学科というコースだったが、ほかには海洋環境学科、養殖学科、資源学科、造船学科などがある。他の学科のカリキュラムの予定表をみると、一年次からもうすでに専門分野の授業がびっしりと組んであるではないか。

我々土木科には授業が全くない日もあるほどで、ほかの学科の生徒がせっせと授業を受けている間、あたかも遊んでいるかのように見られた。実際、他学科の学生からは「遊びの土木」と揶揄される始末だ。

数少ない専門学科の内容も、私からするとかなりレベルが低く、そんなことをここでわざわざ教えなくても、というものもあった。高校の地学程度の内容のものばかりで、大学という最高教育機関で教える内容ではない、と憤りもした。

一方、教養課程の内容も物足りなかった。そもそも第二外国語などは、卒業後に必ずしも必要なものではない。なぜ英語がないのだろう、と思った。また数学は、高校の授業で受けたものよりも程度が低く、同級生が首をかしげながら授業を受けているのを見て、なんでこれがわからないのだろう、といつも思っていた。

もともとは国立大学に入れるレベルにあった、と自負していた私にはすべてが物足りなく、ここに入学したのはやはり失敗だったと思いはじめた。入学を強要した父親の顔が改めて目に浮かんだが、こうした事態を招いたのも決断したのも自分である。父は責められない。ましてや高い学費を払ってくれているのである。

しかしそれにつけても大学の授業はつまらなく、レベルが低すぎる。もっと貪欲に学びたい、と思った。そんなふうな気分になったのは、中学校以来かもしれない。高校時代には勉学だけでなく恋愛にも挫折し、立ち直れないほど落ち込んでいた私の心の中にひさびさにムラムラと闘志がわいてきた。

いっそのこと別の大学に入り直してやろうかとも思ったが、新しくできた友達と過ごす今の寮生活もなかなか楽しい。こちらもなかなか捨てがたいな、と考えたあげく、そこでひそかにある目標を立てることにした。

それは、このままこの生活を続け、いっそのこと首席でこの学校を卒業してやろう、ということだった。

どうせ回りはバカばかりだ、ちょっと勉強すれば首席になんて簡単にとれる、と考えた。思い上がりもなはだしい、いやな奴だな、と自分でも思ったが、実際、それが可能と思えるほどに学科全体のレベルは低く思えた。

しかし、たとえレベルの低い学校でも、もしトップで卒業すれば、それに伴う代償がきっと得られるに違いない。その先のことはまたそのときに考えればいい、と考え直した。

こうして、新たなチャレンジが始まった。あいかわらず授業はつまらなかったが、それならそれでどんな内容でも吸収してやろうと燃え、前にも増して熱心に授業に対峙するようになった。大学の授業も高校と同じようにテストがあるものが多かったが、そうした機会にはできるだけ万全を尽くそうと、徹底的に研究して試験に臨んだ。

そのおかげもあり、大学一年を終わるころには、それまでに取得した単位のほぼすべてがAという成績を得た。

しかし一方では、周囲には自分がそれほどできる、ということも悟られないよう注意した。
私が所属していた学科はほとんどが男子学生で、こうした集団では、出来がいいやつはたいてい孤立する。中・高時代のように男女混交集団ならばそれも目立たないが、男ばかりとなると目の敵にされることも多くなるものだ。

実際、私以外にもできそうな奴はひとりふたりいたが、周りからはできのいいおぼっちゃん、といった目でみられ、孤立気味だった。周囲に溶け込み、周りと仲良くやっていくためには、「同胞」を装うのが一番いい。

そうした人間関係に割と敏感な私は、そうしたことにならないよう、適度にバカを装い、自分の成績はあまりひけらかさないようにした。しかしその一方で、学習が遅れている同級にはできるだけ手を差し伸べるようにした。それだけ余裕があり、自分の勉強時間はさほど必要としなかったためだ。

そのおかげもあり、クラスメートからは一目置かれるようになった。あいつ、バカなことを言っているけれど、なかなかできるみたいだぞ、みたいに思われていたと思う。

やがて、あいつに聞けば親切に教えてくれる、ということでほかの寮からも教えを乞う者が訪れるようになり、それに伴い別の学科からの訪問者も増えた。それまでは同質の人間とばかり遊んでいたが、そうした中から異種の友人がひとり、また一人増え、そのおかげもあってさらに新たな動きが生まれることになるのだが、それについては後述する。

首席で卒業する、という野望は結論から言うと結局達成できなかった。しかし、実際にはほぼそれに近い成績で卒業することができた。それに続く就職活動もその成績のおかげで順調だったが、そうしたことについても後で書こう。




話は変わる。

高校を卒業し、焼津で暮らすようになってから、最初の夏を迎えたころのことである。

大学の夏休みは長い。7月の半ばぐらいから始まって、9月の初頭あたりまで休校だからほぼ丸々二か月ほどもある。

おいおいこんなんでいいのかよ、とも思ったが、これほど自由で長い夏休みを過ごせるのは小学校以来のことである。せっかくだからゆっくり休もうかとも思ったが、何かアルバイトでもやったほうが、遊ぶ金にもできていい。そのころ、昔熱中した写真熱が復活しており、新しいカメラなども手に入れたかった。

焼津にもアルバイト先はたくさんあったが、休みのあいだ、静岡にいればそれだけ食費もかかる。それならいっそのこと広島へ帰れば食費も浮くし、両親も喜ぶだろうと思い、帰郷することにした。

久々に帰った広島の町は、それまでと違って見えた。かつて15年余り住んだ町と焼津の町を比べると、格段に広島のほうが都会だ。だがしかし、同じ学生でも高校生と大学生の視点の違い、とでもいうのだろうか、それまでわからなかった広島の欠点がわかるようになった。

第一に野暮ったい。当然ながら広島弁が飛び交っているわけであるが、この言葉は聞きようによっては下品に聞こえる。しかもその方言に比例して町もどこかバタ臭い感じがする。

八丁堀や流川あたりを歩いていると、街並みはきれいなのだが、ビルの陰などはゴミだらけで掃除が行き届いていない。ステテコを履いたおっちゃんや汚いなりをした子供が普通に歩いているし、気のせいか町ゆく人のセンスも遅れている。

タクシーだけでなく一般車両の運転も荒っぽいし、だいいち車が多すぎる。中国地方最大の町ということで隣県から多数の車が流入してくるためだが、街中を縦横に走る市電や、市内を流れる七つの川にかかる多くの橋がその交通を妨げている、ということもある。

加えて暑い。夏の間、日中の暑さは半端ではないが、それに加えて、夕方になると風がピタッと止まる。日中は街中のほうが海よりも気温が高いから陸から海に向かって吹く風が卓越している。

一方、夕方になって日が落ちると逆に陸上の気温が下がり海風のほうが強くなる。その両方が均衡する時間帯があり、その時間になると広島中の風が止まる。これが「凪」とよばれるものである。この風のない時間帯の広島の暑さは筆舌に尽くし難いものがある。

一般に広島の町は暑い、とよく言われる。もっともこれはこの凪のせいだけではなく、原爆が投下された町、ということでそのイメージが増幅されてきた、ということもあるだろう。実際には夏にもっと暑い町はたくさんあるわけだから、その分損をしているかもしれない。

とはいえ、戦後の復興期を経て広島の町はコンクリートジャングルになっている。加えて他県からの流入者の増加とそれに伴う車両の増加によって明らかにヒートアイランド化している。実際にも暑い町なのである。

その暑い夏の広島に帰ってきた私を無論、両親は歓待してくれた。久々に自宅で食べる母の手料理はどれもおいしく、帰ってきてよかったと思った。しかしその帰郷の目的は両親を喜ばせることだけではなく、アルバイト先を探すことである。

広島でのアルバイト先など一つも思い浮かばなかったが、父に相談すると、役所の取引先に聞いてみてくれる、という。

後日、紹介されたのは小さな測量会社で、仕事内容は測量補助ということだった。「補助」の内容は、測量士にくっついていって、見通しの確保のための藪漕ぎをしたり、スタッフ(測量用の棒)を立てたり、といった内容で、実際にやってみると思ったより重労働だった。

「補助」の意味は、測量機器を操る測量士のその先の見通しをよくする、ということであり、場所によっては川の中に入り込んだり急な山の斜面を登ったりで、山中を藪漕ぎしながら草刈りをしなくてはならない場合もある。それまであまり体を使うことに慣れていなかった私は、一日が終わると何もする気にならないほど疲れ切る、ということも多かった。

ただ、仕事はきつかったが、学ぶべきことも多かった。測量会社のアルバイトということで、現在自分が学校で学んでいることの延長戦にある実態を知ることができたのも大きい。

とはいえ、卒業後にこうした職に就くのかな、と思うと正直ピンとこなかった。測量屋になるために大学に入ったのではない。もっと大きな仕事をしたいためだ。アルバイトをしながら改めてそんなことを自分に言い聞かせた。

その後、大学が休みになると広島に帰省して、「外貨を稼ぐ」ことが習慣化した。大学の春休みは夏の次に長い。2年生の春にやったアルバイトは、芸北のかなり高い山の中にある林道でガードレールと作る、というものだった。作業内容はいわゆるドカチンと変わりなく、相当にきつかったが、体が鍛えられたし、仕事を通じて年配の土方達と仲良くなった。

いわゆるブルーカラーの人々が、いかに身を削って日銭を稼いでいるかを体験し、それまで机の上でしか知らなかった「土木」という世界の幅がいかに広いかを実感した。

その後も測量関連のバイトをいろいろ経験したが、3年生の夏くらいまでには、そうした仕事にも慣れ、いっぱしの測量助手になっていた。頼りにされ、広島を出て他県での仕事に駆り出されることもあり、一番遠くでは長野まで行ったこともある。



そうした中、2年生の夏のことだったと思う。ひさびさにセンコーズの面々で同窓会をやろう、という話になった。私はよく覚えていないのだが、卒業時に同窓会幹事、というのを決めたらしく、男女二人が任命されていた。

その二人のうちの一人が坂田君といい、もう一人がかの中山さんだった。かつて同じ班にいて、年賀状をくれた相手だ。ふたりがなぜそう決めたのかは知らないが、その同窓会は普通の飲み会ではなく、どこかで野外活動をやろう、ということになったらしい。

たぶん他の同級生の意見も聞いて決めたのが、「県民の森」というキャンプ場での同窓会で、これは市北部の山中にある。二人の呼びかけで、男女合わせて十数人が集まった。市内から電車で移動し、現地集合したが、高校卒業後1年以上たっての再会である。それぞれが大学生の板がつき、多少大人びたように見えた。

その中に幹事である中山女史も当然いたが、高校で毎日顔を突き合わせていたころと比べて、格段に変わったな、という印象を受けた。ベージュのトレーナーに黒いパンツといういでたちで、特段おしゃれな恰好をしているわけでもないのだが、妙に垢ぬけたかんじがした。とくに表情が変わって、きれいになったな、と思った。

高校時代には同じ班になっても特段意識もせず、親しくもなりたいとも思わなかったが、昔とは変わった雰囲気の彼女を見て、妙に心がざわめいた。

漫画チックに表現すると、キューピットの放った矢が、ズッキューンと心臓に突き刺さった、という構図だ。なんだこの気持ちは、と最初はとまどったが、それがしばらく忘れていた恋愛感情というものだと気づいたころにはもうすっかり彼女に夢中になっていた。

そのキャンプはたった一泊二日のものだったが、その間、それとなく彼女を観察しているうちに、さらに気持ちが高ぶってくる。しかし無常にも別れの時間は差し迫っていた。

みんなで楽しく過ごしたあとの最後、記念撮影をしようということになった。ただ、普通に撮ったのでは面白くない、ということで、人間ピラミッドを作って、それを撮ろうという話になった。

実は言い出しっぺは私だったのだが、それはもしかしたら間接的に彼女の手に触れられるかもしれない、という下心丸出しの発案だった。

無論、撮影者はこのクラス専属のカメラマンである私、撮影するカメラも自前のものである。三脚にカメラをセットして、セルフタイマーで撮ったが、その時の写真をみると、一枚目はシャッターがなぜか半切れで、私が左側下から二段目、そのすぐ上に大柄な彼女が崩れ落ちそうになりながら、かろうじて私の背中に手をついて乗っている。

ピラミッド崩壊寸前のタイミングで撮ったその写真はしかし、みんな笑顔で、いかにも楽しそうだ。青春してます、的ななかなかいい写真となった。ちなみにこの写真は、これよりはるか後の結婚式で使われることになった。

こうして大学二年の長い夏が終わろうとしていた。しかし、新たに火のついた恋の火種はそう簡単には消えない。

高校時代には引っ込み思案が災いとなり痛い目に遭っていた私は、ここでは大胆な行動に出ることにした。県民の森のキャンプの際、彼女から市内にある本屋でアルバイトをしている、と聞いていたので、そこに顔を出すことにしたのである。

彼女のバイト時間は昼間ではなく、夕方近くからで、これはこの時間帯のほうが時給がよかったためだろう。これを彼女から聞いて知っていた私は、あらかじめこの時間帯を選んでこの「犯行」に及んだ。

その本屋は八丁堀のアーケード街にあり、割と大きな店だった。最初、一階を探したが、ここにいないとわかると、二階にいるのだろうと見当をつけた。そこには学術図書などが置かれているコーナーがあり、ドキドキしながら階段の一段目に足をかけた。急いで上がってすぐのところにレジがあり、そこにいた彼女がこちらを見て、あらっ、と笑いかけた。

自分で仕掛けていたくせに、いきなりの再会なのでなんと答えていいか戸惑った。ぶっつけ本番でやればいいやと思ってはいたが、どう声をかけるかまるで何も考えていなかったのだ。咄嗟に、「ちょっと学校で使う専門書を買いに来てね」と嘘をついてその場を取り繕った。

そして彼女には関心がないようなふりをして、書棚を探り、海洋関係のかなり分厚い本を取り、レジへ持っていった。それを見た彼女が、「まあ、こんな高い本を」と言う。「学校でちょっと使うんだ。高いけれどしょうがないよ」と嘘八百の言い訳をしたあと、「ところで」と切り出した。

そして、「今回の帰省には車で帰ってきてるんで、もしもうすぐバイトが終わるなら、家まで送ろうか」と言った。

ついこの間、キャンプ場で親しく話をしたあとでもあり、流れ的には自然だったと思う。しかし、大胆にも車での初デートをこのとき自分の口から提案できるとは、思ってもみなかった。

これに対して彼女は、ちょっと考える風だったが、「じゃあ7時に終わるから、すぐ近くで待ってて」と答えた。

このとき、彼女の答えを聞いて、思わず、「しめた!」と思った。その時間までには30分ほどあっただろうか。夕方のことであり、また食事も取っていなかったが、腹が減ったのも忘れて、ひたすらに待った。

やがて車を止めた待ち合わせ場所に彼女は小走りでやってきた。緊張していたので彼女がどんな服装をしていたかはよく覚えていないが、ロングスカートをはいていたと思う。前回ハイキングスタイルで現れた彼女とはまた違う魅力があった。

このころの彼女の自宅は、市内北部の安古市というところにあった。彼女を乗せたあと、車を西に走らせ、市内で一番大きな川、太田川にぶつかると右に曲がって北を目指した。

正直なところ道順などはどうでもよく、いかに彼女とうまく会話ができるかに集中していたので、あちこちで道を間違えた。かなり遠回りをしたが、その分彼女と長い時間話ができてありがたかった。

もっとも、彼女は道を間違えたことなどまるで気づくそぶりもない。いつもはバスを使っているので、乗用車での移動はあまり経験したことがないのだろう。

車中、彼女との会話の内容は、お互いの学校のことや家族のことなど、当たり障りのないことばかりだったと思う。40分くらいだったろうか、その楽しい、というか妙に舞い上がった気分の時間はあっという間に過ぎた。

別れ際に手を振る彼女を笑顔で返しながら、自宅のある東部を目指して黙々と取って返したが、心の中は高揚していた。そしてこの恋、ぜったいうまくいく、大丈夫、と自分に言い聞かせた。

やがて夏が終わろうとするころ、私はひとり静岡に帰って行った。彼女を送っていった車は、そのころ中古で買ったもので、白いセダンのジェミニだ。車好きの私はその後何台も乗り継ぐことになるが、いすゞの車はこれが最初で最後だった。そして、彼女との恋もまたそうなる運命にあるはずだった。はるか遠い先の未来のことがなければ…。

恋をしている身には、一分一秒が長く感じるものだ。ましてや秋。静かに深まる季節の中、ふたたび彼女に会いたい、声が聞きたい、という思いも日に日に深くなっていく。しかし物理的な距離に加えて、彼女と新たな接点を持つ手立ては今のころなに一つない。

電話番号は教えてもらっており、同窓会の日時の確認などで以前一度電話をしたことがある。しかし、そのときは不在だった。今回も電話してみようかと思ったが、夏に会って以来、数か月が経っており、いきなりの電話は不自然だ。

どうしよう、こうしよう、と考えているうちに、また再び、高校時代と同じ迷宮に落ち込んでいった。もがいても逃げられない恋の罠というヤツだ。

そして考えあぐねた末に出した結論はやはり、手紙だった。

高校時代にあれほど痛い目にあった方法でしか思いを伝えられないのは、どれほど不器用なのだろう、とこのときも思った。しかし他に打つ手立てもなく、彼女宛ての手紙をせっせっとそれこそ徹夜で書き、翌日投函した。

しかし、一週間経っても二週間経っても返事はこない。その手紙には、またお会いしたいといったあたりさわりのないことを書いていたと思う。そのため返事の書きようがないのか、などと都合のよい解釈をし、さらに待つことにした。

それでも手紙は来ず、一ヵ月ほどが経った。さすがにしびれを切らした私は、第二弾の手紙を書くことにした。最初の手紙とは異なり、好きか嫌いかはっきりしろ、とまではいかないまでもそれに近いことを書いたと思う。

それに対して今度はわりとすんなりと手紙が帰ってきた。たぶん1週間かそこいらだっただろう。おそるおそるそれを開けると、そこには短い文章が書かれており、末尾にあったのは、予想通りの “No!” の文字だった。

それまでの相手の反応をみて、もしかしたら、とは思っていたが、案外とストレートなその返事に、正直なところ、やられた!ぐらいにしか思わなかった。失恋も二度目になるとだんだんとそのダメージが小さくなるものなのかもしれない。

このとき、何をとち狂ったのか、私はさらにそれに返事を書こうとした。しかし相手の強烈な否定の手紙に対して、書いて返す言葉は容易にはみつからない。半日考えた挙句、引き出しに入れてあった年賀状用のゴム版を持ち出し、そこに大きな文字を彫り始めた。

やがて出来上がると、赤い絵の具を筆につけて版に塗り、用意してあった便せんを重ねると馬連で伸ばして一枚の「手紙」を完成させた。この間、わずか30分ほどの作業だったと思う。息を切らすほどのスピードで刷り上げたその手紙を両手で持ち上げると、そこには、赤い「合格」の文字があった。

実はこの手紙、その後再び日の目を見ることになるのだが、このときはそんなことは思いもよらない。

現在の妻の引き出しの奥深くに30年間密かにしまってあったその手紙には、このほかに「人生二勝一敗」と書かれていた。

一敗は彼女に振られたことへの意趣返しのつもり、二勝はこのあとその倍ほどの恋を勝ち取ってみせるぞ、という意気込みを込めたつもりだったが、「合格」の印字と同じく、要は単なる照れ隠しにすぎない。

それをどう彼女が理解したかどうかは知る由もなかったが、出す必要もないこの手紙を出したことこそが、その後何十年も経ったあとに意味を持ってくるのだから人生とは不思議である。

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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。