天才バカボンと天才

2017年に50周年を迎えた赤塚不二夫原作「天才バカボン」が、今年7月に「深夜!天才バカボン」としてTVアニメ放送されることが決定したそうです。

前作から18年ぶり、5回目のTVアニメ化となるこの番組では、主人公となるパパ役を、俳優の古田新太さんが、また、バカボン役を入野自由さん(いりのみゆ:声優)、ママ役を日高のり子さんが担当するそうで、古田さんは今回初のアニメ作品主演となります。

この天才バカボンが世に出たのは、1967年のことで、4月9日発行の「週刊少年マガジン」でした。その後、「週刊少年サンデー」「週刊ぼくらマガジン」と連載雑誌が変わりましたが、最終的に「月刊少年マガジン」連載となり、1978年12月号で一応の完結を見ました。

その後も現在に至るまで単なるギャグ漫画の枠を越え、単行本、テレビ、CMなど各種メディアに取り上げられており、ドラマとして実写化もされたこともあります。

「天才バカボン〜家族の絆」のタイトルで、2016年3月11日に日本テレビで実写ドラマが放送され、バカボンはお笑いコンビ・おかずクラブのオカリナ、バカボンのパパはお笑いコンビのくりぃむしちゅーの上田晋也が演じました。

また、バカボンのママは 松下奈緒、レレレのおじさんは、小日向文世、おまわりさんが高嶋政伸、バカボン家の「隣人」としてマツコ・デラックスが登場するなど、豪華な俳優陣が脇を固めました。さらに昨年1月6日には「天才バカボン2」のタイトルで、第2弾を放送。今年のゴールデンウィークにも第3弾が放送されることが決まっているそうです。

私も昨年の放送をチラ見しましたが、小日向さんが演じるレレレのおじさんが、なかなかいい味を出していました。また、オカリナさんは、バカボンにそっくりでしたが演技のほうは???上田さんのバカボンのパパもちょっと「これじゃない感」がありましたが、同じくご覧になっていたみなさんはどうだったでしょうか。

この「バカボン」の語源は、梵語の「薄伽梵(ばぎゃぼん)」に由来しているそうで、これは仙人や貴人の称号です。また、バカボンパパの常套句「これでいいのだ」も「覚りの境地」の言葉とのことで、レレレのおじさんも、お釈迦様のお弟子の一人で「掃除」で悟りをひらいたチューラパンタカ(周利槃特=しゅりはんどく)をモデルにしているのだとか。

もっとも、これはバカボンが売れ始めたのちに、巷で作られた風説のようで、赤塚さん自身は1967年の連載第1回の扉絵の部分に、「バカボンとは、バカなボンボンのことだよ。天才バカボンとは、天才的にバカなボンボンのことだよ」と説明しています。おそらくは熱烈なファンが、そのストーリー中に「哲学」を見出したく、勝手に創作したのでしょう。

私くらいの年代の男性は、この漫画を読んだことがある、という人が多いと思います。このころのマガジンには「あしたのジョー」「巨人の星」といったその後テレビアニメとしても人気を博すマンガがたくさん掲載されていて、毎週発売の水曜日前になると、わくわくしていたのを覚えています。無論、バカボンも大笑いしながら読んだものです。

初期にはちょっと天然なママのネタを中心に、頭が足りない純粋なバカボンとパパが騙されたり周囲を振り回す、ホームコメディでしたが、のちにバカボンとバカボンパパが話の中心となるナンセンスギャグに移行。中期よりパパの母校であるバカ田大学の後輩などが登場し、パパを中心としたドタバタ劇になっていきました。

1969年になって、それまで「週刊少年マガジン」に掲載されていたのが、「週刊少年サンデー」に掲載誌が変更になりました。その後、1971年に初めてテレビアニメ化が決定したことを理由に「週刊ぼくらマガジン」で連載を再開。1か月後、同誌の休刊で「マガジン」本誌に返り咲き、以降1976年まで連載されました。

1971年に掲載誌が「マガジン」に復帰してからは、次第にシュールなギャグが頻出するようになり、突如ひとコマだけ劇画タッチになる、意図的な手抜き、といった実験的手法が増え、子供向けのナンセンスギャグだった作風が、どちらかといえば大人向きの、とはいえギャグとばかりは言い難いグロテスク、皮肉、ブラックユーモアになっていきました。

後期になると「おまわりさん」、「ある家族の話」、「漫画家と編集者」などといった、主役のバカボンパパさえ登場しない作品が登場するようになり、刑事用語の解説が出てきたり、わざと絵を下手にして自らのアシスタントが不在という設定で描いていたりで、本作とは全く関係ない話も多くなりました。

まだ子供だった私には、こうした変化について行けず、次第に読み飛ばすようになっていたのを覚えています。その最終回もあやふやで、各紙に掲載されていたため、どれが本当の最終回なのかわからないそうです。

作者本人は、「「毎回が最終回」のつもりで全力投球で描いていました」と語っていますが、本心かどうか疑わしいところです。作中、バカボンパパも「最終回が何度もあったので、わしも分からないのだ」と発言しており、読者を煙に巻くエンディングをいろいろ模索しているうちに、連載を打ち切られた、といったところが本当のところでしょう。

一応、デラックスボンボン1992年12月号に書かれたものが最後とされているようですが、1988年の月刊少年マガジンに、赤塚不二夫とフジオプロのアシスタントが「最終回の内容を考える」という記事が掲載されたそうです。

その内容は、「パパとママが離婚」、「バカボンがハジメちゃんを包丁で刺し殺す」、「パパと本官さんがピストルで撃ち合い両者血まみれ」といったものであり、そして最後にはアシスタントが暴走で描いた、という設定で、本編とまったく関係ない漫画が6ページも掲載され、最後にパパが「読者の諸君また二度とおあいしないのだ」言う、というものでした。




赤塚不二夫、その半生

赤塚不二夫は、1935年(昭和10年)9月14日、満州国熱河省古北口(現在の北京市北東部)に赤塚藤七と妻リヨの6人兄弟の長男として生まれました。本名は、「赤塚藤雄」で、後のペンネームの不二夫は、本人曰く、「二人といないから”不二夫”と名づけた」「親がかってにつけた名前だから、勝手に変えた」と書いています。

しかし、親しかった同じ漫画家の松本零士によれば、赤塚不二夫の「不二」も、藤子不二雄の「不二」も、この当時彼らが自分の作品を持ち込んだ、「不二書房」にあやかって付けたペンネームだといいます。

その赤塚が生まれた、古北口は当時の満州国と中華民国との国境地帯でした。父親である藤七は新潟県の農家出身で、地元の小学校を経て苦学の末、陸軍憲兵学校の卒業試験を2番目の成績で卒業し関東軍憲兵となりました。

しかし、上官の理不尽な言い分が我慢できずに職を辞し、満州国警察の保安局特務警察官になりました。そして、国民革命軍と対峙して掃討・謀略(防諜)活動を行う特務機関員として働くようになり、地元住民を宣撫する、といったこともするようになりました。

この父・藤七は非常に厳格な人で、かつ権威的であったといい、赤塚も「のらくろ」や「日の丸旗之助」といった漫画を読むことを禁じられ、箸の持ち方などでも厳しくしつけられたそうです。幼い頃の彼は父に恐れさえ感じ、大の苦手だったといいます。

しかし宣撫官という職務柄もあって普段から現地に住む中国人とも平等に接することに努め、補給された物資を村人達に分け与えたり、子供たちにも中国人を蔑視しないよう教えるなど正義感の強い人物でもありました。

その後終戦間際になると、満州の治安はかなり悪化し、日本人はしばしば抗日ゲリラ側から攻撃を受けるようになりました。とくに父の藤七は特務機関員ということでゲリラから目を付けられており、当時の金額で2000円もの懸賞金がかけられていたといいます。

しかし、同じ中国人の村人からも密告されることもなく、また終戦直後の奉天で赤塚家の隣に住む日本人一家が中国人に惨殺される中、普段から中国人と親密にしていた赤塚の家族は、彼らの助けを得て難を逃れています。

1945年(昭和20年)8月15日、赤塚は10歳の時に奉天で終戦を迎えました。しかし翌16日、中国人の群衆が鉄西の工場内にある軍需物資を狙って大挙して押し寄せ暴徒化、凄惨な殺戮に発展しましたが、この時の体験について赤塚はのちにこう書いています。

「ぼくたちが住む消防署の官舎の隣は鉄西消防署、その隣が憲兵隊。道路をはさんで藤倉電線と東洋タイヤの工場があった。その工場内にある軍需物資を狙って、数え切れないほどの中国人が殺到したのだ。無秩序の略奪は、中国人どうしの目を覆う殺しあいに変わった。これに日本人の工場関係者と憲兵が加わって、三つ巴、四つ巴の地獄絵が出現した。」

この時、馬小屋に潜んでいた一家は父の部下だった中国人の手助けもあり、全員中国服を着せられて消防車に乗り、鉄西から無事脱出して事なきを得ました。後に赤塚は「いつも部下の中国人を可愛がっていたおやじが、ぼくたち一家を救ったと思わないわけにはいかなかった」と語っています。

しかし父は侵攻してきた赤軍によってソビエト連邦へ連行され、軍事裁判後、4年間シベリアに抑留されました。奉天に残された母は11歳だった赤塚や他の兄弟を連れ、翌年の1946年(昭和21年)引揚船を目指して徒歩で渤海沿岸を歩き始め、葫芦島から大発動艇で4日かけ佐世保港に到着。汽車で母の実家がある奈良県大和郡山市矢田口に移りました。

しかし、その引き揚げまでに妹の綾子はジフテリアにより死去し、弟は他家へ養子に出され、更には生後6か月の末妹も母の実家に辿りついた直後に栄養失調のため夭折。帰国する頃には兄弟は藤雄と弟と妹の三人と半数となっていました。このとき母親には泣く気力もなく、その姿を見た赤塚は「胸がえぐられるようだった」とのちに語っています。

漫画家人生のスタート

父を除いた一家が奈良へと引き揚げてから母親は、大日本紡績・郡山工場の工員寄宿舎で寮母として働くようになり、赤塚は地元の小学校に編入して小学5年生となりました。このころの奈良での経験について、彼は次のように回想しています

「満州から引きあげてきて、奈良の大和郡山に3年間住んでいたんだけど、あのあたりってヨソ者を徹底的に排除する風潮があったんだ。差別意識が定着してたのかもしれないな。オレも差別されたよ。配給の列に並んでて、オレの順番になると「満州、ダメ」とか言って本当にくれないんだから。いい大人が子供に対してだよ。今でも忘れられないよ。」

「奈良の少年時代は餓鬼のように動物のように生きた。底辺に生きる少年たちの群像から、私の登場人物のキャラクターを得ている」とも回想しており、一緒に遊んでいた近所の当時3歳の馬車屋の息子が、「おそ松くん」に登場する浮浪児「チビ太」のモデルに、またいたずらをして遊んだ野良猫が「ニャロメ」のモデルにもなったといいます。

このころ、赤塚をいじめていた連中の番長で奥村という寿司屋の息子がいましたが、あるとき、「俺のこと、そんなにイジメるんだったら、漫画を描こう」と、藁半紙16枚を糸で縫い、そこに「寿司屋のケンちゃん」というマンガを描いて、これを番長に差し出しました。

番長はしばらく、パラパラめくり、それからみんなを集めて、「いいか、今度からなぁ、赤塚イジメたら、俺が承知しないぞ」といい、以後、赤塚はイジメにあわなくなったといいます。

これをきっかけに奥村と仲良くなった赤塚は、柿畑から柿を盗んで売り警察の厄介になるなど、数々の悪行に手を染めることになりますが、実はこの番長は性格の優しい面がある男で、体に障害があるような仲間などには、けっして手出しをしなかったといいます。

クラスに一人、重度の小児マヒの子がおり、運動会の日がきましたが、彼は参加できません。窓から外を見ているだけの彼に、ボス奥村は、赤塚に命じました。「お前残って、あいつと一緒にいてやれ。」しかたなく赤塚は運動会に出ないで、二人で教室に残ったといいますが、そのとき、この番長が体がでかくて腕っぷしが強いだけの男ではない、と悟ります。

ハンデを背負った友達の気持がわかり、赤塚に運動会を休ませて付き添わせるという、教師ではできない対応をやってのけた彼の姿に、赤塚は強い立場にありながら弱い者を守り、決して差別しない態度をとっていた父の姿を重ねました。

周囲から差別される立場の人間に対して優しい態度をとる、というこの二人の姿は、少年時代の赤塚の心に深く刻まれることとなり、この経験がきっかけとなって後の赤塚作品では「弱い者いじめはしない」という姿勢が貫かれることとなりました。

こうした中、赤塚は2学期の頃から貸本屋で5円で漫画を借りて読むようになります。戦後、小説や漫画単行本、月刊誌を安く貸し出す貸本店が全国規模で急増しており、その書き手の中には戦後を代表する数多くの作家や漫画家が排出されました。手塚治虫もその一人であり、赤塚はその作品「ロストワールド」に出会ったことで漫画家になることを決意。

そもそも幼いころから絵が得意だった彼はその後も漫画を描き続け、小学6年生になった12歳の時には「ダイヤモンド島」というSF長編漫画を描き、母親と一緒に大阪の三春書房という出版社へ最初の作品を持ち込みます。しかし、これは失敗に終わりました。

13歳の時の1949年(昭和24年)秋、母親は、わずかな稼ぎでは3人の子供を養っていくことが困難となり、兄弟は父の郷里である新潟の親類縁者にそれぞれ預けられることになりました。中学1年生になっていた赤塚は新潟県に住む、大連帰りの父親の姉一家に預けられることになり、ここで母親からのわずかな仕送りで暮らすようになりました。

1952年に中学校を卒業。しかし、貧困から高校進学を断念し、映画の看板を制作する新潟市内の看板屋に就職しましたが、これが赤塚ののちの作風にも影響を与えることになります。仕事柄、映画看板の制作に携わっていたことから花月劇場という映画館であらゆる映画を鑑賞するようになり、キートンやチャップリンの喜劇に感銘を受けました。

この時期から「漫画少年」への投稿も始めましたが、その中に手塚治虫が投稿作品を審査するコーナーがあり、そうした論評を通じてこの頃から自分の絵柄を模索し始めるようになります。やがて18歳になった1954年、父親の友人の紹介で上京。ここで就職した江戸川区小松川の化学薬品工場でも勤務しながら「漫画少年」へ投稿を続けました。

ちなみにシベリアへ抑留されていた父は、赤塚が14歳になったその年の暮れに舞鶴港へ帰国し、農業協同組合職員の職を得ていましたが、外地から戻ったもてあまし者として、排他的な農村では心底とけこむことは出来なかったといいます。



デビュー

こうした中、投稿していた漫画のひとつが石森章太郎の目に留まります。これを機に、石森が主宰する「東日本漫画研究会」が制作する同人誌に参加することになりますが、この同人に「よこたとくお」がいました。また既にプロの漫画家だった「つげ義春」が同じく赤塚の漫画に興味を持ち、しばしば彼の下宿に遊びに来るようになりました。

このつげからプロへの転向を勧められた赤塚は、一人では心細いというよこたを誘い、彼と西荒川で共同生活をしながらプロ漫画家として活動するようになります。やがて、つげの仲介で曙出版と契約を交わし、1956年、描き下ろし単行本「嵐をこえて」でデビュー。

同年、上京した石森を手伝う形でトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加。少女漫画の単行本を3〜4ヶ月に一冊描く貸本漫画家となりますが、トキワ荘の他の面々と同じく収入は少なく、原稿料の前借をして漫画を描く自転車操業状態にありました。将来を悲観して廃業を考え、新宿のキャバレーの住込店員になろうと思った時期もあったといいます。

1958年、「少女クラブ」増刊号で編集者が石森との合作を企画。合作ペンネーム「いずみあすか」名義で作品を発表。続いて石森と、同じトキワ荘にいた女性漫画家、水野英子との合作を3人の頭文字(水野のM、石ノ森のI、赤塚のA)をとり、「U・マイア」というペンネームにして作品を発表しました。

このネーミングは、3人ともワーグナーが好きだったためドイツ名の「マイヤー」が候補としてあがったものであり、それにU(ドイツ読みでウー)を付け「うまいやー」をもじったものでした。

ちなみに、この水野英子は、日本の女性少女漫画家の草分け的存在で、後の少女漫画家達に与えた影響の大きさやスケールの大きい作風から、「女手塚」と呼ばれることもある漫画家です。赤塚の母は向かいの部屋に住んでいた水野英子を非常に気に入り、事あるごとに結婚を勧めていたといいますが、本人は赤塚亡きあとも現在まで独身を貫いています。

こうした合作で石森は赤塚を高く評価するようになり、ちばてつやや、秋田書店の名物編集者として知られる壁村耐三に推薦。壁村は赤塚に「まんが王」1958年11月号に読切漫画を依頼。こうしてギャグ漫画「ナマちゃんのにちよう日」が発表されましたが、好評であったため「ナマちゃん」として連載が決定しました。

栄達と影

1961年(昭和36年)、26歳になった赤塚は、8歳年下のアシスタント第1号、18歳の稲生登茂子と結婚。このためにトキワ荘を退去しました。翌1962年「週刊少年サンデー」で「おそ松くん」、「りぼん」で「ひみつのアッコちゃん」の連載を開始し、一躍人気作家となり、1964年(昭和39年)、「おそ松くん」で第10回小学館漫画賞受賞しました。

そして、1967年「週刊少年マガジン」で「天才バカボン」を発表、「週刊少年サンデー」でも「もーれつア太郎」を発表して天才ギャグ作家として時代の寵児となりました。さらには、代表作である「ひみつのアッコちゃん」「もーれつア太郎」は1969年に、また「天才バカボン」は1971年にと、代表作が相次いでテレビアニメ化されました。

以後2010年現在までに「天才バカボン」は4度、「ひみつのアッコちゃん」は3度、「おそ松くん」「もーれつア太郎」が2度にわたりテレビアニメ化されています。

1975年(昭和50年)、バカボンシリーズ第二作目となる「元祖天才バカボン」が日本テレビ系列で放映開始。この時期には漫画家としては最も多忙を極め、週刊誌五本の同時連載をこなす一方で、パロディ漫画におけるパイオニアとして知られた長谷邦夫の紹介によりタモリと出会います。

以後、タモリを中枢とする芸能関係者との交流を深めるようになり、1977年(昭和52年)を境に、ステージパフォーマンスに強い関心を示すようになった赤塚は、テレビの世界に傾倒していくようになり、数多くのイベントを企画・出演するようになりました。

そんな中、1978年(昭和53年)、長らく主力作家として執筆していた「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年キング」での連載が全て終了。また、同年の「月刊少年マガジン」12月号でも、「天才バカボン」が終了し、以降、執筆活動は縮小傾向を迎えます。

昭和57年、執筆していた週刊誌の最後、「ギャグゲリラ(週刊文春)」の連載が終了。この頃より、酒量が激増するようになりますが、そんな中の昭和62年に再婚。お相手はアルコール依存症に陥った彼のサポートを行っていた、写真家の国玉照雄の元アシスタントの鈴木眞知子。この結婚は先妻・登茂子が後押したもので、保証人も勤めたといいます。

その後も「ひみつのアッコちゃん」や「天才バカボン」「もーれつア太郎」が続々とリメイク放映されるたびに赤塚はその制作に参加し、また新作漫画が「コミックボンボン」を中心とする講談社系児童雑誌に連載を描くなど、健在さを印象付けていましたが、リバイバル路線が終焉を迎えた1991年頃より、更に酒量が増え始めました。

晩年

1997年(平成9年)には第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。翌年(平成10年)にはついに、紫綬褒章を受章を受賞するに至りますが、同年12月12日、吐血し緊急入院。精密検査の結果、食道がんとの告知を受けました。

医師から「2か月後には食べ物がのどを通らなくなる」と告げられ、「食道を摘出し小腸の一部を食道の代用として移植する」と宣告されましたが、この時も赤塚は「小腸を食道に使ったら、口からウンチが出てきちゃうんじゃないの。」とギャグで返す気丈さを見せといいます。

手術は成功しますが、その後再び悪化し再入院。10時間に及ぶ手術を受け、5か月間の長期入院を余儀なくされ体重は13キロ減少した赤塚ですが、酒とタバコはやめられず、退院後のインタビューでは水割りを片手にインタビューを受けていました。

その後も毎月定期的にアルコール依存症治療の「ウォッシュアウト」のため入院を繰り返していましたが、2000年(平成12年)8月25日、自宅内で転倒して頭部を強打。数時間後に言葉が不明瞭になったため緊急入院。検査の結果、急性硬膜下血腫と診断され、緊急手術を行いましたが、その後は順調に回復し、11月には退院を果たしました。

同年暮れ、点字の漫画絵本「赤塚不二夫のさわる絵本“ よーいどん! ”」を発表。ある日テレビで見た視覚障害を持つ子供たちに笑顔がなかったことにショックを受け、「この子たちを笑わせたい」という思いから制作したもので、この絵本は、点字本としては空前のベストセラーとなり、全国の盲学校に教材として寄贈されました。

2002年(平成14年)4月、検査入院中にトイレで立とうとしたところ、身体が硬直し動けなくなり、脳内出血と診断され、5時間に及ぶ手術。これ以降、一切の創作活動を休止していましたが、その後2004年ごろから意識不明のままの植物状態になりました。

そんな中の2006年(平成18年)7月、赤塚を看病してきた妻の眞知子がクモ膜下出血のため56歳で急死。さらにその2年後の2008年(平成20年)8月2日午後4時55分、赤塚不二夫もまた、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属・順天堂医院で死去しました。満72歳没。

残したことば

赤塚の葬儀では藤子不二雄A(安孫子素雄)が葬儀委員長を務めることとなり、8月6日に通夜、翌7日に告別式が東京都中野区内にある宝仙寺で営まれました。喪主は長女・りえ子が務め、告別式には漫画・出版関係者や芸能関係者、ファンなど約1200人が参列し、藤子不二雄A、古谷三敏、高井研一郎、北見けんいちらが弔辞を読み上げました。

タモリもまた、本名の“森田一義”として弔辞を読みましたが、この時手にしていた巻紙が白紙であった事が報じられ、話題となりました。その弔辞の最後は「私もあなたの数多くの作品の一つです。」と結ばれていました。

タモリは、1970年代半ばに福岡で赤塚に出会いました。カンパの資金により月1で上京して「素人芸人」として即興芸を披露していたタモリの芸を認めた赤塚は、大分県日田市のボウリング場の支配人であったタモリを上京させました。そして、自らは事務所に仮住まいしながらタモリを自宅に居候させ、物心双方から援助を続けたといいます。

赤塚不二夫の生前の最後の言葉は、倒れた時に偶然、女性の胸に手が触れて際に放ったという、「おっぱいだ、おっぱい」。

原稿に記した最後の文字は「思い出を積み重ねていくのが人生なのよ。イヤーン! H」だったそうです。