金シャチへGO!

先日、名古屋城の敷地内に「金シャチ横丁」なる商業施設がオープンしたそうです。

城周辺で食事や買い物が楽しめる同施設は、河村たかし名古屋市長の肝いりでできたもので、尾張名古屋のシンボルともいえる名古屋城とその周辺の魅力を向上させ、さらに国内および海外からの来訪者に名古屋の魅力をアピールすることを目的とした、といいます。

河村たかし市長は、2010年(平成22年)に、 自身が主導した市議会リコールの署名数が法定数を下回ったとして、名古屋市長を引責辞任しましたが、出直しのために再出馬し、翌年2011年(平成23年)名古屋市長に再選、見事返り咲きました。

その再選にあたり、公約だった名古屋城周辺に再現する城下町構想を推進し、「世界の金シャチ横丁(仮称)」基本構想」を策定。2014年2月には正式名称が「金シャチ横丁」となることが決定しました。

具体的には、「なごやめし」と呼ばれる名古屋名物の食べ物を提供する老舗飲食店や、地元の若手経営者が創作する新しい食文化を提案する飲食店、さらに古くからの伝統工芸品を販売する物販店・お土産物屋が集まっています。

2つの商業施設区域に分けられており、それぞれ異なるコンセプトで形成されていて、正門側は「義直ゾーン」、東門側は「宗春ゾーン」と名付けられています。

「義直ゾーン」は、尾張藩初代藩主・徳川義直にちなんで命名。伝統的な純和風の街並みをイメージし、建物は名古屋城の築城当時にも使われた木曽の材木を使用しています。昔から続く名古屋の食を提供し、名古屋が得意とする伝統工芸に触れる機会を与える情報発信の場ともなるほか、イベント会場などに使用される広場も設けられています。

また、「宗春ゾーン」は、徳川家きっての派手好きで知られた7代藩主・徳川宗春にちなんで命名。義直ゾーンとは差別化し、モダンなデザインを取り入れた建物で構成されます。出店店舗は、若手経営者による意欲的な飲食店が立ち並んでおり、道路に面したテラス席や夜のライトアップなど、おしゃれな空間も演出されます。

オープンしたての施設なので筆者もまだ行ったことがありませんが、ネットを見る限りはなかなか魅力的に仕上がっており、今度名古屋へ行ったらぜひ、立ち寄ってみたいと思います。




天守閣の再建

しかしそれにしても、名古屋って、ここ以外にどんな観光施設があったでしょうか?

私がそう悩むほど、名古屋、といえば何かこれといって行きたい、という場所をあまり思いつきません。かつては、「魅力に欠ける都市第1位」に輝いた?こともあり、あるテレビ番組では、「日本一行きたくない街」などとレッテルを貼られてしまいました。

名古屋市民からも「住む街やから、観光的な魅力はないかも」、「他の都市でここには負けてないってトコがない」といった意見が出るほどで、日本を代表する大都市でありながら、住んでいる市民もやや自嘲気味のようです。

そんな名古屋の中でも、名古屋城周辺というのは、駅にも近く、隣が県庁という立地にあり、開発が進んで賑やかな西側に比べて、どちらかといえば地味な駅東側においては、一番人が集まりそうな場所です。

ただ、名古屋城周辺にはこれまで、固定の飲食店などが非常に少なく、観光の途中で一休みできる場所があまりありませんでした。「金シャチ横丁」のような施設が増えることによって城周辺での滞在時間が増え、長い歴史を持つ名古屋の魅力が再認識されるようになれば、観光の町として一皮むけるかもしれません。



ところが、この「金シャチ横丁」のオープンに水をかけるように、名古屋のシンボル、名古屋城の天守閣が、この5月から閉鎖されることが決まっているそうです。

実は、この名古屋城、従来の鉄筋コンクリート造りの建物を壊し、木造で再建されることになっており、事の発端はやはり川村たかし市長です。

河村氏は、名古屋市長に就任以降、「名古屋を訪れても“行く所が無い”と言われるのはいかんこと。わしは天守閣を木造で再建しようと言う意見ですけど」などと述べ、かねてより、名古屋城の木造復元化に前向きの姿勢を見せていました。

この市長の木造復元化計画に対しては当初、有識者からの厳しい批判がありました。在任が長くなり(今年で9年)、近年影響力が低下していると言われる同市長が注目を浴びるために打ち上げたネタの一つに過ぎず、文化庁への申請もなされていない無理な計画であり、議会を押し切る力もないだろう、といったものです。

その一方で、別の有識者からは、名古屋城は資料が豊富に残る貴重な城であり、木造復元は外国人へのアピールとなる。また、城は外国人観光客が訪れることの多いスポットであり、木造化は外国人観光客への相当なインパクトが見込まれる、といった賛成意見も寄せられました。

こうした中、コンクリートで作られている現在の天守閣の耐震性が現行の建築基準法に適合しないことなども指摘されるようになり、また老朽化も進んでいることなども明らかとなるなど、城の建て替えがより現実味を帯びてきました。

再建築にあたっては、従来のものを耐震補強すればよいという意見もありましたが、新発田城三階櫓(新潟県 2004年)、大洲城天守(愛媛県 2004年)など、近年、全国各地で木造による天守の再建が相次いでおり、名古屋城においても2013年に木造再建の検討結果が示され、その総工費はおよそ500億円と試算されました。

同年、2027年の完成をめどに再建を実施する方針が正式に名古屋市から公表され、2017年3月、自由民主党、民進党、公明党等の賛成多数により名古屋市議会で可決。当面、10億円の木造復元関連予算が支出されることになりました。

さらに、同年4月には川村市長が4選を果たしました。この選挙においては、木造復元に反対する弁護士の岩城正光元名古屋市副市長が出馬したものの河村氏に大差で敗れ、これで木造による天守閣の復元は確実なものとなりました。

5月、名古屋市は優先交渉権者の竹中工務店(大阪市)と基本協定を締結し、当初目標としていた2027年の予定年度よりも大幅な前倒となる、2022年12月の完成を目指し、最大505億円と目される事業がスタートを切りました。

これを受けて名古屋市は、現天守への入場は、今年の5月7日から2022年末の復元完成まで禁止すると正式発表。天守以外はこれまで通り見学できるものの、今後4年に渡って近隣のエリアは立ち入り禁止になるようです。

来年3月には外部エレベーター、9月には天守閣本体の取り壊し始めるそうで、木造復元工事に入るのは、オリンピックの始まる直前の2020年6月からの予定。それに先立つ来年6月頃より、工事に伴う囲いを天守閣まわりに建て始めるとのことです。

この天守閣の木造復元化により、従来の天守閣で展示されていた重要文化財や刀剣や甲冑の展示はできなくなります。しかし、同じく重要文化財の旧本丸御殿障壁画やガラス乾版写真などは西之丸に建設予定の重要文化財等展示施設に移設するといいます。

とはいえ、名古屋市の活性化に向け、せっかく「金シャチ横丁」ができたというのに、それに水をかけるようなこの天守閣の封鎖は、名古屋離れを加速させるのではないか、とする向きもあります。これに対して市は、観光客の減少を食い止めようと、名護屋城跡公園の開園時間の延長や無料化の検討など、さらなる「目玉づくり」を急いでいるといいます。

戦後の急成長時代の中、戦災で焼け落ちた天守などのコンクリートによる再建が日本各地で進みましたが、「城フェチ」の筆者としては、何をそんなに急いでいたのだろう、従来の木造建築で立て直して欲しかったなあ、とかねがね思っていました。なので、今回の木造建築への「回帰」に関しては私的には大賛成です。

先般、1994年にやはり木造建築で再建された掛川城を見学する機会がありましたが、古絵図などの調査に基づいて忠実に再現された同城は素晴らしく、再建されたとは思えないほどの「古さ」を感じました。城の雰囲気というものはやはり、建てられた立地とか、周囲の環境とマッチした「造り」。古きを偲ばせるものはやはり木造だ、と感じたものです。

コンクリートから再度木造によって立て替えられ、新たなスタートを切る名古屋城もまた、現代の名古屋の地に「古きよき時代」の風を吹かせてくれるに違いなく、今後観光に力を入れようとしている名古屋の期待にも応えてくれるに違いありません。その再建に大きく期待したいところです。



名古屋城とは

ところで、この名古屋城ですが、いったいどういう歴史のあるお城なのかということをおさらいしておきましょう。

名古屋城は、大阪城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と詠われていました。大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の街の象徴にもなっていることは、みなさんもご存知のとおりです。

名古屋一帯は、その昔、尾張国と呼ばれており、その中心は長らく清須城でした。現名古屋城から北西に直線距離で6kmほど行ったところにあった城で、織田信長が1555年(弘治元年)に、現在の名古屋城の二之丸にあった「那古野城跡」を移設したものです。

現在、清須城跡は開発によって大部分は消失し、さらに東海道本線と東海道新幹線に分断されており、本丸土塁の一部が残るのみですが、天守は、平成元年(1989年)に旧・清洲町の町制100周年を記念して、RC造による模擬天守として再建されています。

その後、信長が本能寺の変で入滅すると、清須城は秀吉配下の福島正則の居城となりました。正則は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの折りには東軍に加担したため、清須城も東軍の方拠点として利用され、戦後は安芸に転封した福島正則に代わり、徳川家康の四男・松平忠吉が入り、以後、徳川家の居城となりました。

しかし、水害に弱い清須の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に新たに城を築くことを決定。1610年(慶長15年)、西国諸大名を主体とした天下普請で築城が開始されました。

石垣は諸大名の分担によって築かれましたが、中でも高度な技術を要した天守台石垣は、城造りの名手といわれた加藤清正がこれを主導しました。清正は、九州などの外様大名に激飛ばして巨大な石垣石を負担させ、各大名が刻印を打って運ばれてきた石の積み上げには延べ558万人の工事役夫が動員され、土台は僅か1年足らずで完成したといいます。

そのあと、天守の築造が始まり、1612年(慶長17年)後半までにはほぼ完成しました。
大天守は層塔型で5層5階、地下1階、その高さは55.6メートル(天守台19.5メートル、建屋36.1メートル)と、現代の18階建て高層建築に相当するものでした。

高さでは江戸城や徳川大坂城の天守に及ばなかったものの、延べ床面積では4,424.5m2に及ぶ史上最大規模の城で、体積では姫路城天守の約2.5倍もありました。

その落成にあたり、大天守の屋根の上には徳川家の威光を表すためのものとして、天守の屋根に据え付けられたのが、金の板を貼り付けた金鯱(金のしゃちほこ)です。

その後、江戸期を通じて、本丸御殿、二之丸、西之丸、御深井丸、三之丸などが次々と完成するとともに、外堀や内堀なども整備され、現在の名古屋城跡公園を形作る全体の城郭は17世紀前半までにはほぼ完成したようです。

維新後は、1872年(明治5年)に東京鎮台第三分営が城内に置かれ、1873年(明治6年)には名古屋鎮台となり、1888年(明治21年)に第三師団に改組され、第二次大戦が終わるまで陸軍が統治していました。

ただ、本丸だけは、1893年(明治26年)、陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮と称されていましたが、その後名古屋離宮は1930年(昭和5年)に廃止されることになり、宮内省から名古屋市に下賜されました。

太平洋戦争時には、空襲から本丸の金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていましたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲によりついに焼失。焼夷弾が、金鯱を下ろすために設けられていた工事用足場に引っかかり、そこから引火したといわれています。

この天守は1612年(慶長17年)の完成後、何度かの震災、大火から免れ、推定マグニチュード8.0の濃尾地震(明治24年)にも耐えました。しかし、この空襲ではついに持ちこたえることができず、ほかにも本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて失われました。

戦後、三之丸を除く城跡のガラクタは片付けられ、北東にあった低湿地跡と併せ「名城公園」の名で公開されました。園内には、戦災を免れた3棟の櫓と3棟の門、二之丸庭園の一部が残り、また三之丸を含め土塁・堀・門の桝形などは比較的良好な状態で残りました。

1957年(昭和32年)、名古屋市制70周年記念事業と位置づけられて天守の再建が開始。このときも、再建天守を木造とするか否かで議論がありましたが、鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)で再建することが決定。焼失で傷んだ石垣自体に建物の重量をかけないよう配慮するため、天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、その上に再建されました。

天守は1959年(昭和34年)に完成。以後、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなりましたが、竣工からはや60年を経るまでになり、近年老朽化が目立っていました。ちなみに、当初工事を請け負ったのは、同じく鉄筋コンクリート造りの会津若松城や、木造復元の白石城、伊予大洲城などの再建で知られる「間組」でした。

再建天守は5層7階、城内と石垣の外側にはエレベータがそれぞれ設置されており、車椅子でも5階まで上がることができるバリアフリー構造となっています。外観はほぼ忠実に再現されましたが、最上層の窓は展望窓としてつくりかえたため、焼失前より大きなものとなり、このためオリジナルと同じにした下層の窓とは意匠が異なります。

RC造りとはいえ、ちょうど昭和の高度成長期に入ろうかという時代に再建されたこの天守は、長らく名古屋のシンボルとして親しまれてきました。とくにその頂に置かれた金鯱は名古屋の象徴とも言ってよく、西区に本社を置く、スタンプメーカーのシヤチハタもこれを由来にするとともに、かつては「名古屋金鯱軍」というプロ野球チームもありました。

本丸御殿の完成

木造による再建が完了までは、このシャチホコも天守もしばらくその雄姿をみることができなくなりますが、一方では、本丸に隣接する「本丸御殿」が、もうすぐ完成します。

既に2008年から復元工事に入っており、この6月にも完成する予定の「本丸御殿」は、城主(藩主)が居住する御殿で、将軍、秀忠、家光、家茂の3人が上洛の途中に宿泊したこともある由緒ある建物です。

本丸と同じく戦時中に消失しましたが、こちらも創建当初の柿葺(こけらぶき)を再現する形で、今年中の全体公開を目指して総工費150億円が投じられて復元されています。杮葺とは、木材の薄板を用いて屋根を葺く工法で、通常は火に強い瓦葺が用いられますが、この本丸御殿には「迎賓館」としての優雅さを演出するために用いられていました。

御成専用としただけあって、その豪華さは当時の二条城本丸御殿に匹敵したといい、3つの書院ほか、大小合わせて14~15もの建物群からなります。これら殿舎等はすべて第二次世界大戦の空襲で失われましたが、内部にあった障壁画のうち移動可能な襖などは取り外して倉庫に収められていたため焼失を免れ、戦後重要文化財に指定、保存されていました。

完成した本丸御殿とともに、これら文化財も同時公開されるようですが、今のところ、その予定は6月8日だとか。改築のために「本丸ロス」になりかねない名護屋城跡公園にとっては救世主であり、また新たに完成した「金シャチ横丁」とともに、「新生名古屋」を盛り上げる立役者として活躍してくれそうです。




実は見どころいっぱいの名古屋

冒頭では名古屋には何もない、などと書きましたが、実はこのほかにも名古屋にはまだまだたくさん見どころがあります。

そのひとつ、熱田神宮もまた観光の名所として有名です。三種の神器の一つ草薙剣を祭神とする由緒ある古社で、境内は広く、「日本三大土塀」の一つとされる「信長塀」や「日本三大灯籠」として知られる巨大な「佐久間灯篭」など見どころがはたくさんあります。

名古屋城より少し離れていますが(南へ約7km)、名古屋駅からは名鉄名古屋本線を使ってわずか10分でアクセスできます。

また、名古屋といえば、「トヨタ」です。名古屋城から西へわずか2kmほどのところにある「トヨタ産業技術記念館」は、トヨタが明治44年(1911年)に創設した試験工場跡地と建物を利用して開設した博物館で、隠れた人気があります。

繊維機械館と自動車館から成り、繊維機械館ではグループの原点となった紡績業で実際に使用された歴代の紡績機械などを展示しており、紡績技術の発展を学ぶことができます。また、自動車館は自動車事業創業期、自動車のしくみと構成部品、開発技術、生産技術の4ゾーンに分かれており、トヨタの自動車づくりをさまざまな角度から紹介しています。

さらに、イケメンゴリラ「シャバーニ」で有名になった「東山動植物園」もあります。こちらは少々遠く、名古屋駅から地下鉄東山線で40分ほど東へ行ったところになります。

展示種類数日本一を誇るこの動物園は、愛知県民から最も愛されている人気スポットで、60haもの敷地に動物園だけでなく、植物園、遊園地、東山スカイタワーなどもあり、一日いてもあきないほど魅力的な施設にあふれています。

そろそろ桜も終わり、新緑の季節に入ります。今年の大型連休は、いまもっともトレンディーな街に生まれ変わりつつある、名古屋を目指してみてはいかがでしょうか。