B’zの松本孝弘さんが、20年以上前になくしたギターを探しているそうです。
「公開捜査」として、
公式サイト(https://bz-vermillion.com/lostguitar/)まで立ち上げ、ギターの写真を掲載し、メーカーやロゴなど特徴を詳しく紹介するとともに、情報提供者向けの入力フォームも用意されています。
捜査対象となっているの、松本さんがかつて所有していたメインギターで、公式サイトでは「突然のお願いで恐縮ですが、皆さまのお力をお貸しください」と協力を呼びかけており、公式サイトにおけるこの文々は、5000回以上リツイート(拡散)されたといいます。
B’zは、現在、東京有楽町で「B’z 30th Year Exhibition “SCENES” 1988-2018」を開催中ですが、松本さんはそもそもここにおいて、このギターを展示したかったのだそうです。上記サイトでも、「本来であればこの場所に展示されるべき1本のギターがあります」と書いており、それが「1997年に保管先より忽然と消えてしまった」ことを明らかにしています。
「当時、あらゆる可能性を考えて捜したものの所在がつかめず、手がかりもないままに捜索が断念」したのだといい、展示会の準備を進める中で「30年の軌跡を感じていただく中で、やはりこのギターを諦めてはいけないという思いが高まった」といいます。
20年以上前とは違い、現在はインターネットやSNSによる情報の発信・拡散が可能となっており、今回捜索に踏み切ったのも、もしかしたら「奇跡」も起きるかもしれない、という思いから、ファンの方々の協力を呼びかけるに至ったようです。
捜索対象となっているB’zのギター (オフィシャルHPより)
このB’zについては、今や国民的スターとして知らない人はいない、と思います。が、一応説明しておくと、1988年に結成され、同年にシングル「だからその手を離して」、アルバム「B’z」の同時リリースでメジャーデビュー。以降多数のヒット作を輩出し、日本音楽界における数多くの記録を樹立したことでも知られる、ロックユニットです。
結成当時、日本の音楽シーンが「バンドブーム」を迎えていた中、B’zは当時としては異色であった2人組のユニットという形式でデビューしました。当初は他のメンバーも探すつもりだったそうですが、2人でデモテープを作っているうちに「2人でもいい」と思うようになったといいます。
通常のバンドでは4~5人いるのが普通ですが、だとしても重要なものを飾るのは2人くらいです。しかし、松本さんは、ギターと気に入ったボーカルさえあれば、ユニットは成り立つ、後はサポートメンバーを入れればなんとかなる、と考え、稲葉さんと2人でやっていこうと思ったといいます。
その松本さんも今年でも57歳。相棒の稲葉さんも54歳であり、さすがに月日の流れを感じてしまいます。しかし、現在も日本国内外で900回を超える公演数をこなしており、その活動は衰えを知りません。これまでに約8,000万枚を超えるアーティスト・トータル・セールスの日本記録を達成しており、この記録はまだ誰にも破られていません。
ミュージック・マン
そんなB’zのリーダー、松本さんが探しているというギターは、彼が1995年~97年にかけて使用していたエレキギターで「ミュージック・マン」といい、製造はアメリカの「アーニー・ボール」という会社です。
鮮やかなピンクのカラーリング、そしてヘッドにドクロと「GO NO FURTHER」の文字があしらわれたロゴマークが入っているのが特徴であり、「ミュージック・マン(Music Man)」は、アーニー・ボール社が販売する楽器ブランドです。
もともとは、レオ・フェンダーという人が1946年に立ち上げた楽器メーカー、「フェンダー社」の一ブランドでしたが、1972年にこのブランドを手放し、フェンダー自身が「ミュージック・マン社」として独立させました。
レオ・フェンダーがこのブランドを立ち上げた理由は健康上の問題もありますが、自身が「技術者として新製品を開発したい」という気持ちからであったからだといいます。
ただ、最初にミュージック・マンの名が入った製品はギターやベースではなく、アンプであったといい、のちの1976年になって、ミュージック・マン初のギター・ベース、「スティングレイ」を発表したところ、ルイス・ジョンソン(マイケルジャクソンの“スリラー”のセッションミュージシャン)をはじめとする多くの有名ベーシストの支持を受けました。
その後、1986年に経営移行し、社名が「アーニー・ボール」に変わって以降も「ミュージ・マン」ブランドは継続しました。新たな社名で初めて発売されたギターで初めてリリースされたギターにも「ミュージック・マン」のブランドが冠され、「ミュージックマン・シルエット」として販売されました。
このモデルの開発には、「Guitar player’s guitar player」と評され、卓越したテクニックと幅広い音楽性から業界で崇拝を集めている「アルバート・リー」が加わっており、さらに販売されてからは、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズの使用で大人気となりました。
1987年には、のちの「ディープ・パープル」のギタリストとしても知られるスティーヴ・モーズの「シグネチャー・モデル」を発表。シグネチャー・モデル(Signature Model)とは、有名人の署名(signature)が入ったモデルのことであり、有名ミュージシャンの名前を冠することで、販売拡大を狙った商品のことを指します。
さらには、エドワード・ヴァン・ヘイレン(EVH)スティーブ・ルカサー(LUKE)ジョン・ペトルーシ(JP)といった、アメリカの著名ギタリストのシグネチャー・モデルを次々と発表し、何れのモデルもその実用性やクオリティの高さからプロアマ問わずに多くの愛用者を得ることに成功しました。
松本さんが所有していたというミュージック・マンは、このうちのEVH モデルであり、現在市場に出ているものでも、30~50万円程度はするようです。ましてや20年前のこうした特注仕様と思われるようなものは、おそらくその2~3倍のお金を積んでも入手できないようなシロモノと思われます。
アーニー・ボール社
このミュージック・マンを買収して発展させたアーニー・ボールという人は、型破りな経営方針で知られた実業家です。市場調査を無視し、まず先に製品を市場に出してからそれが成功するかどうかをテストするのを好んだといい、損益を必要悪とみなし、失敗を恐れない人物でした。
自身の直感を信じ、それを疑わなかったことでも知られ、1980年代初め、高級ギター、ベース、アンプ製造に手を伸ばすため、ミュージック・マン社を買収したときも、その直観力によって、彼らの技術力が将来にわたって利益をもたらすことを見越していました。
彼はまた、元フェンダー社員で、のちにその優れたデザイン力で知られるようになる技術者、ジョージ・フラートン (George Fullerton) を抜擢しました。彼の力を得て、世界初ともいえる現代的アコースティック・エレクトリックベースを開発し、「アースウッド」というブランドで1972年に発表しました。
しかし、奇抜なデザインであったため、まったく売れずに2年で販売中止になりましたが、
生産台数が少なく、現存する物は、超レアものとして、高い金額で取引されるとともに、マニアの間では垂涎の的になっているといいます。
アーニー・ボールは、需要を読み、既存の製品を改良し、市場の要求を充たす、というやり方で、ギターというそれまでは、素人の趣味の世界でしか用いられなかった一楽器を、「プロが用いるインストゥルメント」という形容に変え、その結果、彼の会社から生み出された製品は55万軒以上の店で売られ、70カ国以上に輸出されるに至りました。
1970年代初めのことであり、彼はアメリカの小さな楽器メーカーにすぎなかった会社をヨーロッパやアジアでも認められる大企業に押し上げました。
またギターだけでなく、これに張る「弦」にも着目し、その主力商品「スリンキー」は、ジミ・ヘンドリックスやエリック・クラプトン、ピート・タウンゼントのほか、ロックの象徴達が使う一流ブランドとして定着させ、アーニー・ボールを世界の「弦メーカー」としても成長させました。
アーニー・ボールの生涯
アーニー・ボールは、1930年、カリフォルニア州サンタモニカで生まれました。生名は、シャーウッド・ローランド・ボール(Sherwood Roland Ball)といい、父は車のセールスマンの傍ら、ハワイアン・スティール・ギターを教えていました。
また、彼の祖父は、1910年代にヒットしたポピュラーソングのスタンダード「アイルランド人がほほ笑むとき (When Irish Eyes Are Smiling)」という曲の作者であり、ボール家は音楽一家として知られていました。
ボールもまたそうした父や祖父の感化を受け、9歳の時から、スティール・ギターを手にしていたといい、毎日3時間以上の練習をこなし、1年も経たずにミュージシャンズ・ユニオン(アメリカのプロの音楽家の労働組合)の一員となったといいます。
10代はじめにはすでにプロとしての演奏活動を開始。南ロサンゼルスのビアバーでギターを弾いていたといい、19歳の頃、「ウェスタンスイング(注:1920年代後半に起きたアメリカのカントリー・ミュージックのサブジャンル)」のパイオニアとして知られる、「トミー・ダンカン」の主催するバンドに加わり、米南部をツアーして回りました。
その後勃発した朝鮮戦争では兵役に取られましたが、この間も空軍バンドに入ってツアー続け、ここではギターだけでなく、バスドラムも担当。軍役の後、ロサンゼルスに戻った彼は、しばらくの間、酒場やラウンジでの演奏を続けていましたが、そこへ転機が訪れます。
ロサンゼルスの老舗テレビ局、KTLAの人気テレビ番組「ウェスタン・バラエティ」から演奏依頼があり、この番組への出演によって、彼の活躍の場は、一躍ロサンゼルス中のミュージック・シーンに広まるところとなり、番組の評判も手伝って、ギターの第一人者としての名声を得るようになりました。
1958年、ボールはアメリカで最初のギター専門店を、ロサンゼルス郊外の町、タルザナ(tarzana)に開きました。このころ、ミュージックショップといえば、ギターだけでなく、ドラムスティックや他の楽器も置くのが常でした。これに対し、まだ弦楽器としては亜流とみなされていたギターしか置いていないこの店は、当然奇異な目で見られました。
ギターしか扱わないことを批判されることもしばしばでしたが、こうした時必ず彼が言っていたセリフが、「俺はギターを売りたいだけだ」でした。しかも「ギターショップなんて儲かりゃしないさ」という彼の決めゼリフは逆に評判になって噂を呼び、やがて何マイルも離れた所から人々が店に来るようになりました。
こうしてギター専門店を軌道に乗せたボールが次に打った手は、それまで着目されてこなかった「弦」の販売でした。
ボールの店がオープンした1960年代というのは、ギター中心のロックのリバイバル期にあたっていましたが、こうした曲を弾くにあたり、初心者の多くが当時のベストセラー、フェンダー社製の「#100 ミディアム・ゲージ弦」を使っていました。
しかし、この弦は太すぎ、とくに0.029インチ(0.74mm)の3弦を押さえることは難しいことに彼は気付きました。
ボールは、このころまだ、フェンダー社にいたフェンダーにこの問題を持ち出し、より軽いゲージを提案しましたが、断られてしまいました。しかしあきらめず、別の弦メーカーに、3弦をより細い0.024インチにした特製のセットを造らせ、彼自身の店で売ることにしました。これが、アーニー・ボール・ブランドの始まりです。
ハリウッドに程近い彼の店に置かれたこの弦は評判を呼び、次第にザ・ビーチ・ボーイズやマール・トラヴィス、ザ・ベンチャーズといった著名プロミュージシャンの支持を得るようになっていきました。
しかしボールは更なる改良を恐れず、それまでの標準的6弦を捨てて、替わりにより細いバンジョーの弦を使うことにより、全体的により軽いゲージを実現し、これを演奏するプレイヤーの増加を目指します。
再び彼は、フェンダーに、このより軽いゲージのセットを提案しますが、また却下され、次いで、このころすでに大企業になっていた楽器メーカー、ギブソンに対してもアプローチしましたが、このアイディアは一笑に付されてしまいました。
そこで彼は、再び無名の弦メーカーに彼のアイデアに基づく弦を発注し、これに「アーニーボール・スリンキー」という製品名を付けました。
このスリンキーは当初、個人や小売店からの注文メールを細々と受けるだけでしたが、時を経て多くのプロミュージシャンから注文が来るようになってからは大ヒットし、この弦を装したギターは彼らとともに世界中を旅するようになりました。
しかし、このころのボールはまだ、自分の店を弦メーカーとして拡大させるつもりはなく、ミュージシャンからの要望に応じて弦を制作する、という注文生産にこだわるとともに、彼らが好みのセットを実験出来るよう、店頭で様々なサイズの弦を展示していました。いわば町工場のようなもので、とことん、その質にこだわりました。
成功、そして晩年
その後、1967年店舗を売り、弦ビジネスをカリフォルニア州南部のニューポートビーチに移設、前述のとおり、ジョージ・フラートンの力を得て、1972年に現代的アコースティック・エレクトリックベース、「アースウッド」を発表するに至ります。
これにより、会社の業績は飛躍的に伸びてきたため、1985年、より広い工場敷地を求めて、会社をニューポートビーチと同じカリフォルニア州南部のサンルイスオビスポに移しました。さらに翌1986年、高級ギターやベース、アンプ製造に手を伸ばすため、ミュージック・マン社を買収しました。
ニュージック・マン社の買収後、彼のリーダーシップの元、会社はさらに拡大し、年商4,000万米ドルをあげる、全米でも屈指の楽器メーカーにまで成長しました。
このころから、毎年バトル・オブ・ザ・バンドという、新人ミュージシャンの登竜門ともいえるようなコンテストも開催するようになるとともに、他の全国的商業イベントにも参加するようになり、単なる楽器メーカーからプロミュージシャンを生み出すプロモーターとしても全米で注目を集めるようになっていきました。
アーニー・ボールは、その後、2004年9月9日に亡くなるまで、自社の経営に関わりました。創業以降42年間、ギターの改良と発展だけに生きたその一途な人生は、現在でもギターを愛する人々の間ではレジェンドとなっています。
しかし、彼はギター以外にも多趣味だったことで知られ、カー・コレクターとしても有名でした。サーフィンや飛行機操縦など、アクティブな趣味も多く、その一方で、ギター教則本の執筆なども行う文化人であり、そうした影響を受けて、彼の孫娘のハンナ・ゲイル・マークスは、映画女優になりました(アメイジング・スパイダーマンなどに出演)。
また、アーニーは結婚後、息子3人と娘ノヴァを授かりましたが、自分が育てたそのビジネスを、ほぼそっくりこの家族に残して死去しており、息子の一人、スターリングは、現在のアーニー・ボール社のCEOです。
彼の墓は、かつて自社工場のあった、カリフォルニア州サンルイスオビスポ近郊の自宅近くにあります。州内でも最古級の町であり、多くの歴史的建物があります。
「アメリカで最も幸福な都市」とも言われているようです。
ギターのお好きな方は、アーニー・ボールの墓参りがてら出かけてみてはいかがでしょうか。