東海地方が梅雨入りして一週間。本格的な雨の季節に入りました。
今のこの時期は、二十四節気では「芒種(ぼうしゅ)といい、その語源は稲や麦などの実にある「芒(のぎ)」に由来します。稲でいうと籾殻にあるとげのような突起のようなものが芒であり、イネ科の植物に多くみられます。芒のある穀物の種蒔きの時期であることから芒種といわれるようになったようです。
天文学的には、太陽が黄経75度の点を通過する時を意味し、これはだいたい6月6日ごろですが、期間としての意味もあり、次の節気の夏至(6月20日ころ)までが芒種です。
蟷螂(かまきり)や蛍が現れ始め、梅の実が黄ばみ始める頃でもあり、中国では「鵙始鳴」の候といわれます。すなわち、モズが鳴き始める季節です。
モズは、漢字で百舌または百舌鳥とも書き、大分類ではスズメの仲間です。しかし体長は20cm程度と雀よりもかなり大きく、眼の上に眉状の白い筋模様があるのが特徴で、喉や頬は淡褐色、尾羽の色彩は黒褐色、翼の色彩も黒褐色で、全体的に茶褐色のイメージがあります。
様々な鳥(百の鳥)の鳴き声を真似た、複雑な囀り(さえずり)をすることでよく知られており、「百舌」の呼称も百通りほどもの物まねができる、とされることろから来ています。
日本では開けた森林や林縁、河畔林、農耕地などに生息しています。年間を通して同じ場所に生息し、季節移動をしない留鳥ですが、日本列島の北部に分布する種や山地に生息する個体は秋になると南下したり標高の低い場所へ移動して越冬します。
食性は動物食で、昆虫 節足動物、甲殻類、両生類、小型爬虫類、小型の鳥類、小型哺乳類などそれこそなんでも食べます。根っからのハンターで、樹上などの高所から地表の獲物を探して襲いかかり、再び樹上に戻って捕えた獲物をついばみます。
モズはその捕らえた獲物を木の枝等に突き刺したり、木の枝股に挟む習性を持つことでよく知られています。秋になって初めて得た獲物を生け贄として奉げているのだという言い伝えがあり、このことからこの行為は「モズの早贄(はやにえ)」といわれます。
しかし、なぜモズが早贄を行うかについてはよくわかっておらず、諸説があります。ひとつには、モズは足の力は弱く、獲物を掴んで食べるのが下手なので、小枝や棘にフォークのようにして獲物を固定しているのだといわれています。
また餌の少ない冬季の保存食としているのではないか、という説もあります。ただ、はやにえにされた生物がそのまま残されているのが目撃されることも多く、このことから、これまではこの保存食説は否定されることも多かったようです。
しかし最近の研究では、はやにえのほとんどは消費されていることがわかっており、特に気温の低いときにその消費量が多いことなどがわかってきました。気温が低いということは餌が少ない寒い時期ということであり、はやにえにはやはり冬の保存食の役割を持っているのではないか、という昔ながらの説が定説になりつつあるようです。
さらに、はやにえに関する他の研究では、その消費量はモズの繁殖行動と関係があるのではないか、ということも言われるようになってきています。
2019(令和元)年に大阪市立大学と北海道大学が共同で行った研究では、はやにえの消費が多かったオスほど繁殖期の歌の質が高まり、つがい相手を獲得しやすくなる事が明らかになりました。これは、モズのオスのはやにえが「配偶者獲得で重要な歌の魅力を高める栄養食」として機能していることを示しているものと考えられます。
おいしいものをモリモリ食べて精力をつければ、声もよくなるし、子宝にも恵まれるというわけです。
そのモズの鳴き声ですが、秋から11月頃にかけて「ギョンギョン」「キチキチッ」といった大きく高い声で鳴くのをよく耳にします。モズの「高鳴き」と言われるもので、これは縄張り争いのためだと言われています。この高鳴き合戦で勝ち残った個体は、確保した縄張りを単独で冬を越すことができます。
動物にとってこうした縄張りを確保するということは、個体や集団の防衛や、食料の確保の上で重要です。なによりも種の保存の点でも大きな意味を持ち、競争相手のいない環境で配偶者とともに過ごすことができれば、より繁殖の成功率も高まる、というわけです。
ヒトの縄張り
考えてみれば人間も同じであり、ライバルを蹴散らして相手を独占できれば安心して愛の巣づくりができます。狩猟採集社会成立以来、よく働いてたくさんの獲物を得たり農作物を作る者にはより多くの縄張りが与えられるという風習が定着しています。
見返りバランスともいうべき社会システムであり、人が集団で暮らすようになった結果、自然に成立してきたしくみです。
縄張りの確保は、他の縄張りとの線引きを計り、混み合いをなくすことによってストレスを回避する、という意味もあります。花見で場所取りを行うとき、ブルーシートの上の鞄や靴を置いたりするのと同じであり、こうした目印を置くのはその縄張りへの暗黙の了解を得たいと考えるからです。
一方では、それが行き過ぎると自分の縄張りの存在を主張したがるようになり、これを縄張り根性あるいは縄張り意識、などといいます。しかし平和な社会では、傷つけあったり言い争いでその境界は決められないので、法的に線引きをし、所有者が明確になったものを不動産と呼びます。
ほかに狩猟権、漁労権といったものもあり、地域間だけでなく、組織間、分野間などでも制度化され定着してきたいろんな縄張りあります。個々の利益のためのものですが、それぞれがぶつかりあえば緊張が生じ、やはり色んな問題が起こります。戦争がその最大規模のものであり、国家間の縄張り争いは数々の悲劇生んできました。
一方、本来縄張りの意味は、やはり争いを避けるためのものであって、境界における他の縄張りとの軋轢は別として、縄張り内部の世界はいたって平和です。神社の神域、お寺の寺領といったものが良い例であり、その中で過ごすことによって争いをなくすことができ、また同一の文化が形成されます。
男子禁制、女人禁制といった異性の立ち入りを制限する独特の世界もまた作り出されてきましたが、ただ、一般的に男女は同じ世界に住んでいます。老若男女、不特定の人々が暮らしているのが普通の社会というものであり、その中において自然に形成される縄張りは、現在風にいえば「パーソナルスペース」です。
他人に近付かれると不快に感じる空間のことをいい、パーソナルエリア、個体距離、対人距離といった呼び方をする場合もあります。その距離は社会文化や民族、個人の性格やその相手によっても差がありますが、一般に女性よりも男性の方がこの空間は広いとされています。
また、親密な相手ほどパーソナルスペースは狭く、その人がある程度近づいてきても不快さを感じません。逆に敵視している相手に対しては広くなり、相手によっては距離に関わらず視認できるだけで不快に感じるケースもあります。
東京大学で人間の心理や行動に基づく環境デザインを研究している西出和彦教授によれば、対人距離はつぎのように分類されます。
1. 排他域:50 cm 以下。絶対的に他人を入れたくない範囲で、会話はこれほど近づいては行わない。
2. 会話域:0.5~1.5m。日常の会話が行われる距離。 このゾーンで会話をすると強制的であるかのような「距離圧力」を受け、会話なしではいられない。もし会話がないときは何らかの「居ること」の理由が必要になる。
3. 近接域:1.5 ~3m。普通に会話をするためのゾーン。会話をしないでここに居続けることも不可能ではない。距離圧力としては微妙なゾーンであり、しばらく会話なしでいると居心地が悪くなる距離である。
4. 相互認識域:3~20m。なんとか知り合いであるかどうかが分かり、相手の顔の表情も分かる。普通、挨拶が発生する距離であり、特に3~7 mの距離では、知り合いを無視することはできない。
最近のコロナ騒ぎでよくつかわれるようになったソーシャルディスタンス(social distance)もまた、人の心理や行動の研究から生まれた概念であり、日本語では「社会距離」と訳すことができます。
アメリカの文化人類学者のエドワード・T・ホールによれば、相手に手は届きづらいが、容易に会話ができる空間がソーシャルディスタンスで、だいたい1.2~3.5mであるとされます。うち、1.2~2mは知らない人同士が会話をしたり、商談をする場合に用いられる距離、2 ~ 3.5 mは、公式な商談などで用いられる距離です。
一方、相手との距離がこれよりもさらに近い密接的な距離はインティメートディスタンス(intimate distance)といい、これは0~45cmの範囲です。うち、0~15cmは、ごく親しい人に許される空間で抱きしめることができる距離、15~45cmは頭や腰、脚が簡単に触れ合うことはないものの手で相手に触れるくらいの距離です。
ただ、上記はあくまで目安であり、こうした人と人との境界線には当然個人差があります。それぞれの個人が持っているソーシャルディスタンスのことをパーソナル・バウンダリー(Personal boundaries)といい、自分に対して何等かの行動をとってくる他人に対して、合理的で安全、許容可能な距離を個人個人が設定しています。
それぞれが、自然とガイドラインやルールを作り、制約を設けてその距離を決めており、相手の好き嫌いをおおまかに判別し、他人の接近を許容している距離です。その判断の基準としては、身体的、精神的、心理的、精神的といったいろいろのものがあり、また信念、感情、直感、自尊心などに左右されます。
上で定義したソーシャルディスタンスのように明確に線引きをするものではなく、ある程度幅を持たせた境界といえ、アメリカ・オールドドミニオン大学でナルシシズムなどを研究しているニーナ・ブラウン教授は、以下のように4つのタイプがある、としています。
1. 柔らかい境界を持つ人: 自分と他人との境界線が重なっている人。この境界を持つ人は、心理的操作術の犠牲者になりやすい。
2. スポンジ状の境界を持つ人:時には柔らかく時には硬い境界を持つ人。柔らかい境界線の人よりも感情的伝染を受けることは少ないが、硬い人よりは影響を受けやすい。スポンジ状境界の人は、何を受入れ、何を受入れないかははっきりとしていない。
3. 硬い境界を持つ人:閉鎖されるか壁で囲われている人で、誰も身体的・感情的に近づくことはできない。物理的、感情的、心理的、性的に虐待を受けている人によく見られる。時間、場所、状況に依存する「選択的な硬い境界線」を持つ場合もあり、それは過去の悪い経験と似た状況に遭遇した場合によく起こる。
4. フレキシブルな境界を持つ人:硬い境界よりも柔軟で「選択的な硬い境界線」ともいえ、より良くコントロールされたものである。こうした人は何を受け入れ、何を受け入れないかを決めているため、感情的な伝染や心理的な操作術に抵抗できる。その境界を破ることは困難なことが多い。
いかがでしょう。自分に似たタイプがあったでしょうか。
理想的には4の「フレキシブルな境界を持つ人」になることですが、1や2のようにある程度他人に流されてしまうという人のほうが多いのではないでしょうか。ただそれが悪いということではなく、こうした境界の概念を正しく理解し、自分が設定している他人との距離を把握することで、より良い人間関係を構築することができるようになります。
こうした個々人の境界という概念を理解すれば、いわゆる「仕切り屋」の制御もやりやすくなります。他人との距離を無視し、自分の周囲のあらゆる物事の処理を自分でコントロールしたがる人物です。
こういう人を英語ではコントロールフリーク(Control freak)といい、freakは「変人」という意味です。他人の個人的生活など「全て」をコントロールしなければならないという誤った信念を持ったひとたちで、完璧主義者に多いようです。
自身が抱える内面的な精神の脆弱性から身を守っているといわれており、こうした人々は、他人へ自身の認識を強制し、操作し圧力をかけ、内面の虚しさから逃れるために他人の力を利用します。
一種の病気ともいえ、「依存症」の一種であるともいわれます。他人を自分のコントロール下に置くことが、人生において成功と幸福を達成する方法だと信じており、大抵の場合、他人に依存することを幼少時からに生存スキルとして習得してきたひとたちです。
このほか依存症といえば、アルコール中毒、薬物中毒のように、中毒と呼ばれる物質依存や、ギャンブルや買い物に夢中になるプロセス依存がよく話題になりますが、人間関係への依存も時に問題になります。
「関係依存」と呼ばれ、上のコントロールフリークもそうですが、それほどひどくはないにせよ、一般にこうした人たちは、過剰に面倒をみてもらいたい(構ってもらいたい)欲求があり、まとわり付く行動を取り、分離することを恐れます。
また他者からの過剰のアドバイスがなければ、物事を決定できず、責任を負うために、他者を必要とします。さらに、他者からの賛同を失うことを恐れ、反対意見を述べることができなかったり、自ら物事を開始することが苦手です。
他人からの保護を得るために、不愉快なことまで行うということもあり、他者との密接な関係が終わると過剰に不安になり、保護を得られる新しい人を探しだしたりします。
はっきりとした症状が出ていなくても、これに近い人を時折みかけます。ようするに「甘え」の意識が強い人であり、小さな子供の中によく見受けられます。大人になってもそれが治らない人は「アダルトチルドレン」などとも呼ばれます。
依存症のひとたちは他者への心理的依存が強く、何事も一人ではできないという点が極まっており、病院で依存性パーソナリティ障害といった病気と認定される人もいます。度が過ぎると重大な精神疾患にいたることもあるため注意が必要です。
一方、依存症の中には「共依存症」というのもあります。こちらは自分のニーズよりも他人のニーズを優先し、他人事の問題解決に夢中な人々で、「ペア」である場合が多いようです。
ペアの一方または両方が、自身の充足のためにもう一方に依存しており、その多くは、自分の価値は他人に由来するという誤った考えを持っています。
無意識的に他人の人生を第一義に考えた生活を送っており、パートナーのニーズを満たすために極度の犠牲を払うという目的意識を持っているため、当人の自給性や自律性がありません。
もっとも一般的な例としては、アルコール依存の夫と妻というパターンがあります。飲酒によって夫は妻に多くの迷惑をかけますが、同時に妻は夫の飲酒問題の尻拭いに自分の価値を見出しています。一見、献身的・自己犠牲的に見えますが、実際にはアルコール依存をやめさせ、当人が自立する機会を奪っていることになります。
こうした共依存は、家族や仕事上の仲間、その他のコミュニティなど、あらゆる種類の人間関係で起こりえます。健全な人間関係の間には、適切な境界があり、その上で成り立つ感情的空間のようなものがクッションのような形で存在しますが、 共依存者たちにはそのようなものがなく、限界線を設定することができません。
つまり自分で自分の自立を阻害しているわけで、自己中心的ともいえます。こうした共依存に陥りやすい二人は、自己愛が未熟であり、常に他者の価値に依存しています。
親がアルコール依存症の家庭で育って成人した人に多いともいわれており、こうした親がいる家族は一般に不仲で、虐待に走ったり、感情を抑圧する、といった傾向がみられ、家庭としては「機能不全」ともいうべき状況にあります。そうした中で育った結果、生きづらさを抱えたりするようになり、それが家族以外に向けられた結果、共依存を招きます。
共依存症のひとたちは、「自分が依存している対象について、常にコントロールを失う事の恐怖」を感じています。このため他人から共依存という関係を否定されたり、そうした関係を責められると極端に不安定になります。
強烈な自己否定感から精神的安堵を求めようとし、その結果更に強い共依存の関係を求めるようになったり、時としてその関係が苦しくなり、それを一気に解消するために自殺を選ぶ人もいるといいます。
依存症であれ、共依存症であれ、こうした状態から回復するには、やはりそうした症状を扱う医療機関の門をたたき、その道のプロのカウンセリングを受けることが必要になってきます。
こうした人たちは、他人との境界がわからなくなっている人が多いことから、他人に何をするか、何をされることを許可するかといった制限を設定することが推奨されています。また、依存の対象となっている相手との関係を逆説的に認識する必要があり、他の人の思考、感情、問題に支配されないように自己を確立しなければなりません。
職業的境界
さて、これまでは、個々人に引かれている境界線にまつわるいろいろな問題について述べてきましたが、そうした多くの個人が働きに出る世間の中においては、「職業的な境界線」というものもあり、そこにも問題が生じることがあります。
あらゆる職業において、そこでの仕事に従事する人とその顧客との関係において、この境界線は重要な事項となります。特定の職種に従事する者のガイドライン、ルール、制約でもあり、職業倫理の一環でもあります。
こした職業境界を越えた振る舞いは「境界侵害」と呼ばれ、多くの場合、その職または所属組織に対する信頼と評判を損ね、損害を与えるものとなります。特に、弱者と強者という関係性において境界を越えた場合、職業倫理に反する行為、または搾取となり不法な犯罪行為となるケースもあります。
たとえば自らの教え子である生徒との間に性的関係を持ってしまった、というケースがあります。欧米では昔から問題視されてきており、このため絶対的なタブーとされ、万一発生した場合は非常に厳しい制裁が課されています。
日本でも教師という立場を利用し、そうした行為に及ぶという事件が最近目立ってきた結果、厳罰に処されるケースが増えています。その多くは立場の弱い、未成年でもある生徒に対して行われ、こうした行為に及んだ教師の多くは懲戒免職となり、相手が年少の場合は児童買春・児童ポルノ禁止法違反として立件されることもあります。
また性行為だけでなく、自らの信条等にもとづき、私的な意見を、あたかも事実や真理であるかのように生徒に教える行為もまた職業倫理に反します。一種のパワハラとして摘発されることもあり、教育の現場だけでなく、一般企業などの職場でも起こるえるものです。最近の日本では社会現象として問題視されるようになっています。
このほか、医療関係者と患者との境界を超えるというケースもあります。たとえば看護師が患者と恋愛関係になる、といったことがそれであり、看護師と患者とが個人的な関係を持つことは、患者に対し害を及ぼし、看護職の信頼性を損ねるものとみなされています。法的にも定められた不法行為の一つであり、基本的な職業モラル違反です。
世俗的には、きれいな看護婦さんと若い男性患者、といったイメージが湧いてきたりして何が悪いのか、と思いがちですが、看護師と患者との間というものはそうしたものばかりではありません。
例えばかなり衰弱した老年の患者と若い看護師という関係が想定されます。こうした場合、年老いた患者は看護師に対し脆弱で言いなりにされるがままの弱い立場に置かれる、といったことが発生しがちです。看護師がその職業的立場を自覚せずにそうした関係性を軽視すると、患者は潜在的虐待と搾取の対象となりえます。
看護という仕事の特性上、患者に対して肉体的、精神的、感情的に密度の深い付き合いをすることになり、通常、そうした関係性は患者を快方に向かわせるためのものです。しかしこの関係を悪用すれば患者の脆弱性を増長させてしまうかもしれません。潜在的な権力の乱用につながる可能性があるわけです。
看護師としては、健全な者と衰弱している者という力関係の不均衡を認識することが重要です。患者を萎縮させてしまうように感じさせたり、依存させるようなこと、または弱い立場に付け入るようなことにならないように注意することが必要です。
医療従事者ということでは医師と患者の関係も同様です。日本だけでなく世界中の医療の現場には「医療倫理指針」的なものがあり、患者との性的接触について独立した項目が設けられています。多くの場合、患者と医師との間に起こる性的接触は、違法行為とされており、性的または恋愛的な交流によって医療免許を失い、訴追を受ける場合もあります。
日本の場合、明確に法律化されているわけではありませんが、上の看護師と患者の関係と同じく、患者の弱い立場が悪用される可能性があります。 医師の客観的な判断を鈍らせる可能性がある場合は、医療機関毎の倫理委員会などで訴追されることもあります。
医療という現場において定められているこうした倫理的な職業的境界線を破ることは、治療者の中立性に違反しています。患者を私的な願望や要求の対象にしないこと、患者も治療者も一定の禁欲を互いに守る、といった「禁欲規則」はこうした現場では鉄則として守られているようです。
このように教育や医療といった現場では、一般に職業倫理が厳しく、相対する生徒や患者との間にもきちんとした境界線が引かれています。それ以外の職場でもほとんどの場合、「就業規則」を設け、優越的立場の乱用からの搾取にならぬよう、自主的に自制することによって顧客を保護するように行動規範を内部的に設けています。
これは顧客の利益のためだけでなく、その職業に属する人々の利益のためでもあり、専門職として一般からの信頼と支持を得ていくために必要とされるものです。
ミリグラム実験
ところがそうしたはっきりした規則がない組織もないわけではありません。例えば戦時中の軍隊のような特殊環境下で、はたして同様の倫理規則が自発的に機能するかどうかについては疑問が残ります。また刑務所の中のようなそもそも懲罰を目的とした閉塞空間の中では一般的な倫理は構築されにくいように思えますが、どうなのでしょうか。
こうした疑問に答えたもののひとつに、ミルグラム実験というものがあります。閉鎖的な状況における権威者の指示に従う人間の心理状況を実験したものであり、アイヒマン実験・アイヒマンテストとも言われるものです。
1961(昭和36)年に行われたアイヒマン裁判(1961年)の翌年に行われたもので、以後50年近くに渡って何度も再現されてきた社会心理学を代表する模範実験でもあります。
アイヒマンというのは、アドルフ・アイヒマンという、ナチス政権下のドイツの親衛隊将校です。アウシュヴィッツ強制収容所へのユダヤ人大量移送に関わり、数百万人におよぶ強制収容所への移送において指揮的役割を担いました。
ドイツ敗戦後、南米アルゼンチンに逃亡して「リカルド・クレメント」の偽名を名乗り、自動車工場の主任としてひっそり暮らしていましたが、彼を追跡するイスラエルの諜報機関モサドに発見され、イスラエルに移送されて裁判にかけられました。
クレメントが大物戦犯のアイヒマンであるとわかったのは、妻との結婚記念日として、花屋で彼女に贈る花束を購入したことでした。その日がアイヒマン夫婦の結婚記念日と一致したことが逮捕のきっかけになりました。
アイヒマンは、アルゼンチン政府との軋轢を避けるため極秘裏に連れ出されて、イスラエルに護送されました。その裁判は、1961年4月11日にエルサレムで始まり、アイヒマンは「人道に対する罪」「ユダヤ人に対する犯罪」および「違法組織に所属していた犯罪」などの15の犯罪で起訴され、275時間にわたって予備尋問が行われました。
その結果としては当然、当時のナチスドイツの残虐行為が明らかになり、それを率いていた一人であるこの人物の狂気が明らかにされると期待されていました。しかしその過程で描き出されたアイヒマンの人間像は、意外にも人格異常者などではなく、真摯に「職務」に励む一介の平凡で小心な公務員の姿でした。
このことから「アイヒマンはじめ多くの戦争犯罪を実行したナチス戦犯たちは、そもそも特殊な人物であったのか、それとも妻との結婚記念日に花束を贈るような平凡な愛情を持つ普通の市民であっても、一定の条件下では、誰でもあのような残虐行為を犯すものなのか」という疑問が提起されました。
同年12月15日、すべての訴因で有罪が認められた結果、アイヒマンに対し死刑の判決が下されました。そして翌1962年6月1日未明にラムラの刑務所で絞首刑が行われました。
そしてこの処刑に先立つ、1961(昭和36)年7月、上記の疑問を検証しようと実施されたのが「アイヒマン実験」でした。
アメリカ、イェール大学の心理学者、スタンリー・ミルグラム(Stanley Milgram)主導して行ったもので、その結果は1963年にアメリカの社会心理学会誌“Journal of Abnormal and Social Psychology”に投稿されました。
この実験における実験協力者は新聞広告を通じて集められました。「記憶に関する実験」とアナウンスされ、20歳から50歳の男性を対象として募集された結果、40人ほどが採用され、一時間ほどの実験に対しての報酬が約束されました。イェール大学に集められたこれら実験協力者の教育背景は小学校中退者から博士号保持者までと変化に富んだものでした。
被験者にはまず、この実験が参加者を「生徒」役と「教師」役に分けて行うものであり、学習における罰の効果を測定するものだと説明されました。そして、各実験協力者は「教師」と、ペアを組む別の実験協力者として「生徒」のふたつをくじ引きで選ぶよう指示されました。
しかし実際には「教師」が真の被験者で、すべてのくじには「教師」と書かれていました。生徒役としては別途、役者が演じる「サクラ」が用意されており、このサクラは引いたくじが「生徒」と書かれていたかのようにふるまうよう言われていました。こうして本来の被験者全員が「教師」となるよう仕組まれました。
そして本試験が始まりました。その実験の内容は、次のようなものです。
被験者たちはあらかじめ「体験」として45ボルトの電気ショックを受け、「生徒」の受ける痛みを体験させられます。次いで「教師」と「生徒」は別の部屋に分けられ、インターフォンを通じてお互いの声のみが聞こえる状況下に置かれました。
「教師」はまず2つの対になる単語リストを読み上げ、その後、単語の一方のみを読み上げ、対応する単語を4択で質問します。サクラの「生徒」の前には4つのボタンがあり、答えの番号のボタンを押して正解すると、「教師」は次の問題に移ります。
このとき、「生徒」が(わざと)間違えると、「教師」は「生徒」に電気ショックを流すよう指示されました。また最初、電圧は45ボルトですが、「生徒」が間違えるごとに15ボルトずつ電圧の強さを上げるよう指示されました。
電気ショックを与えるスイッチは、最初の45ボルトも含めて9種類あり、最大は450ボルトでした。450ボルトより三段階下の315ボルトのスイッチには「はなはだしく激しい衝撃」と書かれ、二段階下の375ボルトには、「危険で苛烈な衝撃」と書かれていました。
しかし、450ボルトとその一段階下の435ボルトには、但し書きはありませんでした。これは被験者の心理をぎりぎりまで追い込むための巧妙な仕掛けであり、人というものは何も書かれていないと、勝手に想像力を働かせてしまうものです。“危険”を超えた強さの電流が流された場合のさらにひどい状態を想像させることがねらいでした。
このように「教師」には「生徒」が間違えるごとに高い電圧が加えられると信じ込まされましたが、実際には電圧は加えられませんでした。ただし、各電圧の強さに応じ、あらかじめ録音された「うめき声」がインターフォンから流されるようになっていました。
しかも電圧が上がるごとに、苦痛のアクションが大きくなるよう工夫されており、たとえば、
75ボルトでは「不快感をつぶやく」程度ですが、150ボルトになると、「絶叫する」といった具合です。
さらに270ボルトになると、「苦悶の金切声」を上げ、300ボルトでは、壁を叩いて「実験中止を求める」、315ボルトでは、壁を叩きながら「実験を降りる」と叫び、そして330ボルトになると、無反応になる、という手のこんだものでした。
こうして多数の被験者を「教師」と「生徒」に見立てて実験が開始されましたが、「教師」が生徒の反応を耳にし、恐ろしくなって実験の続行を拒否しようとするたびに、その実験に立ち会っている男が、試験を続行するように促しました。
その男は白衣を着ており、まるで権威のある博士のようにふるまっていました。そして感情を全く乱さない超然とした態度で次のように通告しました。
「続行してください。この実験は、あなたに続行していただかなくてはいけません。あなたに続行していただく事が絶対に必要なのです。迷うことはありません、あなたは続けるべきです。」
「教師」は実験が続けられてボルテージが上がるごとに恐怖にかられ、スイッチを押すことを躊躇するようになりますが、その都度同じ通告を受け、思いきってスイッチを入れます。しかしやがては「生徒」の絶叫を聞いても躊躇は少なくなり、やがては通告を受けなくてもスイッチを押すようになっていきました。
ただし、通告が行われるのは3度目までで、4度目の通告がなされた場合、その時点で実験は中止されました。一方、そうでなければ、設定されていた最大ボルト数の450ボルトに達するまで実験は続けられることになっていました。
この実験に先立ち、ミルグラムは、イェール大学で心理学専攻の4年生14人を対象に、実験結果を予想する事前アンケートが実施していました。
その結果、回答者は全員、実際に最大の電圧を付加する者はごくわずかだろうと回答(平均1.2%)し、同様のアンケートを同僚たちにも行ったところ、やはり一定以上の強い電圧を付加する被験者は非常に少ないだろうという回答が得られていました。
ところが、実際の実験結果は、まったく違うものでした。被験者40人中、半分以上の26人が最大ボルトの450ボルトまでスイッチを入れており、その率は65%にも上りました。ただ、多くの被験者は途中で実験に疑問を抱き、中には135ボルトで実験の意図自体を疑いだした者もいました。
何人かの被験者は実験の中止を希望し、「この実験のために自分たちに支払われている金額を全額返金してもいい」という意思を表明した者もいたといいます。しかし、300ボルトに達する前に実験を中止した者は一人もいませんでした。中には電圧を付加した後「生徒」の絶叫が響き渡ると、緊張の余り引きつった笑い声を出す者もいたといいます。
この実験では別のバリエーションも試され、「教師」と「生徒」を同じ部屋にさせるなど、「教師」の目の前で「生徒」が苦しむ姿を直接見せた実験も行われたといいます。無論、生徒の側に電圧はかけられず、苦しむ様子すべてが演技でした。
しかしそれでも「教師」がスイッチを押してしまう率は高く、結果は30~40%の被験者が用意されていた最大電圧である450ボルトまでスイッチを入れたといます。
この実験の結果は、一般の平凡な市民が一定の条件下では冷酷で非人道的な行為を行うことを証明したもので、以後こうした現象は「ミルグラム効果」と言われるようになりました。国内外において高く評価されましたが、嘘とはいえ人の痛みを題材にした試験内容について、倫理性の問題はなかったかとする批判の声もあがりました。
この実験が行われてから9年後の1971(昭和46)年には、同じアメリカのスタンフォード大学で同様の実験が行われました。こちらは「スタンフォード監獄実験」と呼ばれ、心理学者フィリップ・ジンバルドーの指導の下に行われたものでした。
この実験は、刑務所を舞台にしたもので、普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、その役割に合わせて行動してしまうことを証明しようとしたものでした。監獄実験とはいうものの、実際の監獄を使ったのではなく、模型の刑務所(実験監獄)をスタンフォード大学地下に作ったもので、実験期間は2週間が予定されていました。
この実験では、新聞広告などで普通の大学生などの70人が集められました。そしてその中から心身ともに健康な21人が被験者として選ばれ、内11人を看守役に、10人を受刑者役に見立ててグループ分けし、上の模擬刑務所内に入れました。
実験の目的は、犯罪者でもなんでもない普通の人々が「監獄」という特殊な環境に置かれた場合、そこで管理する者と管理される者を演じた被験者がその「役」どおりにふるまうようになるかどうかを確認することでした。管理するのは看守の被験者で、管理される側は受刑者役の被験者です。
その結果、時間が経つにつれ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者もより受刑者らしい行動をとるようになっていきました。しかし、実験の途中から被験者同士で暴力行為がみられるようになり、被験者の一人が危険な状況を家族へ連絡、家族達は弁護士を連れて中止を訴えたため、協議の末、実験は6日間で中止されました。
暴力行為が起こるようになっても試験を継続しようとしていたことなどもその後発覚し、かなり強引なやり方で実験を行ったことへの批判や実験の内容の厳密さに問題があるとされました。
いまだその結果については賛否両論の意見があるようであり、試験は失敗に終わりましたが、特殊な条件下に置かれた人間は、どうやらその環境に合わせて行動するようになるようだ、ということがある程度明らかになりました。同じく特殊な条件下ではいかに人間は非道になれるかを証明したミリグラム実験の実験結果とよく似ています。
アイヒマンの公判中、その人物に接したある人は、「実に多くの人が彼に似ていたし、彼はサディストでもなく、恐ろしいほどノーマルだった」と評しています。そうした人物が大量虐殺をなぜ行ったかを解明することがミリグラム実験の目的でしたが、その結果は、確かに普通の人が非道な行為を起こしうる可能性を示していました。
また、アイヒマン自身も自分が犯した罪を罪と思ってはいなかったようです。死刑の判決を下されてもなお自らを無罪であると抗議していたといい、その死刑執行の直前、ドイツ政府によるユダヤ人迫害について「大変遺憾に思う」と述べたそうです。
また自身の行為については「命令に従っただけ」だと主張し、「1人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉を残したとされています。
アイヒマン最期の言葉もまた、次のようなごく普通の人間を思わせるような内容でした。
「ドイツ万歳。アルゼンチン万歳。オーストリア万歳。この3つの国は私が最も親しく結びついていた国々です。これからも忘れることはありません。妻、家族、そして友人たちに挨拶を送ります。私は覚悟はできています。全ての人の運命がそうであるように、我々はいずれまた会うでしょう。私は神を信じながら死にます。」
こんな話もあります。
刑務官に「最後に何か望みがないか」と言われたとき、アイヒマンは「ユダヤ教徒になる」と答えたといい、なぜかと尋ねられると「これでまた1人ユダヤ人を殺せる」と返答をしたというのです。こちらが最後の言葉だったとする説がありますが、実際にはこのような事実はなく、彼にナチ戦犯としてのネガティブな印象を与えるための創作と考えられています。
アイヒマンの死刑執行は、1962年6月1日未明にラムラの刑務所で行われました。絞首刑による死刑執行後、遺体は裁判医が確認するまで、1時間ほど絞首台にぶら下がったままだったといいます。あるいは見せしめの意図があったのかもしれません。その遺体は焼却され、遺灰は地中海に撒かれました。
なお、この死刑はイスラエル建国以来同国で執行された唯一の死刑となりました。イスラエルでは戦犯以外の死刑制度は存在しないためであり、死刑は戦時の反逆罪および敵性行為をした者か、ナチスおよびその協力者を処罰する場合においてのみ適用されます。
後年、元ソ連赤軍軍人で、ナチス・ドイツの強制収容所の看守であったウクライナ人、ジョン・デミャニュクが居住していたアメリカで拘束されました。アイヒマンと同様にイスラエルに移送されて死刑判決が下されましたが、こちらは実際に残虐行為をしていた人物ではないことが証明され、1993年に無罪が確定しています。
ミリグラム実験やスタンフォード監獄実験などにより人間の残虐性が浮き彫りになりましたが、アイヒマン自信が本当に善良な人間だったのかどうかという疑問は、結局明かされることはありませんでした。
しかし、たとえ模範市民といわれるような善人であっても、いざ権威を与えられると盲目的にその役にはまってしまう可能性がこれらの実験から明らかになりました。
そうした役を与えられことで非道といわれるような行動も安易に起こしてしまう可能性があるということであり、ごくごく普通の生活をしている私やこれを読んでいるあなたもそうした残虐性を内に秘めているのかもしれません。ちょっと考えさせられませんか?
ちなみに、ミリグラム実験は、「アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発」というタイトルで映画化されています。2015年にアメリカで製作されたドラマ映画で、本作は批評家から高く評価されています。
「人間の本性についての問いを提示している」とのことで、こちらも「観客を考え込ませている」とのことです。これから長く続く雨の季節、こうしたものを観て自分の本性について考えてみるのもよいかもしれませんね。