当たらぬも八卦


今年もあとわずかになりました。

今日が御用納めで明日からは家の大掃除だという人も多いでしょう。その中で、来年はどんな良い年になるだろう、とみなさん期待を膨らませているに違いありません。

では、自分はどうかと振り返ってみたところ、来年のことを思うとワクワクするか、といえばそうでもありません。ああまた歳をとるのか、とどちらかといえばネガティブなほうに目が行ってしまう今日このごろです。

ある占いによれば来年の私の運気は「乱気」だそうで、精神面で不調となりやすいとか。「乱心」で辞書を引いてみると「心が乱れ、心神喪失の状態になること」とあり、仏教用語としては「散乱する心。煩悩などにとらわれて乱れる心」だそうです。

何らかの理由で心乱れることがあるということのようで、あまりいい年ではなさそうなのですが、過去に同じ運気だった年の出来事を振り返ってみると、意外にそうでもありません。

高校に入学した年であったり、最初に勤めた会社を辞めた年、別の組織から離れた年、出向先から戻った年、といったように、どうも何か自らの境遇に変化が起こるという星回りだったようです。

そうした変化を「運が悪い」と受け止めるかどうかですが、当時のことを思い出してみるとそんなことはなく、マンネリ化していたそれまでの人生に向かって新たな風が吹いた、とむしろ歓迎するような気分だったかと思います。

考えてみれば、こうした占いというものは、人の運勢をたかだか10か12ほどのカテゴリーに分けて示しただけのものです。地球上に80憶ほども人がいるというのに、それをわずかこの程度の数で縦割りしていいのでしょうか。かなり乱暴な気がします。

そのほかの占いもそうです。例えば星占いは、その人が生まれた月に空にかかっていた星座が何であったかで占いますが、これも12パターンにすぎません。四柱推命や九星気学も9通りの運勢しかありません。

あるアンケート調査によれば、かなりの数の人々がこうした占いに示されたことを信じ、それに従って行動をしているといいます。毎日のようにテレビや新聞雑誌でいろいろな占いが紹介されていますが、多くの人がこの単純な仕分けの結果を見て一喜一憂します。

しかし、それぞれが違った個性を持っているように、本来なら運命もそれぞれ違っているはずです。

私自身、占いを全く否定しているわけではありませんし、同じようにテレビや雑誌で紹介されているものを見ています。しかし、信じるかどうかといえば半々で、どうせ占うならちゃんとしたもので占いたいなと思っています。

例えば同じ星占いでも、もっと細かい星の配置から運勢を見ることもできます。その人が生まれた時の星々の配置と、占いたい時々の惑星の動きとの関係性をもって運命を占うというもので、いわゆるホロスコープを使った占い方です。

生まれた時の惑星の配置と現在の惑星の配置の組み合わせはそれこそ天文学的ですから、こうした占い方法によれば、まったく同じ運命の人はほぼいない、ということになります。







もともと、理科系志向だった私は、子供のころからこうした星占いには興味がありました。天文学者になりたい、とまでは思いませんでしたが、天文学雑誌を定期購読し、夜空を双眼鏡で毎晩ながめていたりする少年でした。

そして、この夜空の果てにはどんな不思議があるのだろう、それを人類は解き明かすことができるのだろうか、と子供心に思ったりしていたものです。

そもそも、占星術と天文学は深い関係があります。それぞれastrology、astronomy、というようastroが冠詞として付きます。これからもわかるように両者はルーツが同じで、天文学というものの母胎が占星術でした。

天文学はプトレマイオス以来の天動説の宇宙観のもとに発展したもので、この地球を中心に天は動いているという説は占星術から生まれたものです。ケプラーの法則で有名なヨハネス・ケプラーは天文学者・数学者であると同時に、占星術師でもありました。

ところが、コペルニクスが「地動説」を唱え始めたころから、分化が始まりました。それまでは、自然についての考察は「自然哲学」という体系で行われおり、単に星がどのような周期的な動きをするか、ということだけに関心が寄せられていました。

そこに地動説という科学的な視点が出てきました。それまでは占星術と天文学は未分化で混然一体の状態でしたが、それからは別者になっていきました。とくに、1687年にアイザック・ニュートンが「自然哲学の数学的諸原理」を著わしてからは占星術と自然科学の分化は歴然としたものになりました。

占星術専門家が、月の満ち欠けや太陽の位置、惑星と星座の位置関係といった単純な天文現象にだけしか興味を示さなかったのに対し、ニュートンらの新しい考えを持った科学者たちは、近代的な自然科学を用いて、より正確な天体の動きを予測するだけでなく、それぞれが力学的・物理学的に関与し合っているかといったことを紐解くようになりました。

こうした結果、現代では占星術と天文学は、原則として全く別のものになりました。現代の天文学者たちはさらに、天体の配置や動きを予想するだけではなく、それらが生まれた原因を探り、将来にわたってどうなっていくのかを予測するとともに、目に見えない天体についてもその存在の意味を探ろうとしています。

一方、旧来の占星術家たちには新たな探求心はありません。現代自然科学を用いれば、より正確な惑星の位置などを予測することもできるはずですし、また太陽系内外に新たに見つかった小惑星なども取り入れた新たな占いもできるはずです。

しかし、そうしたことにはまるで興味はなく、あいかわらず太陽と月以下、水金地火木土天海冥の星の配置だけを捉え、それだけで人の性格や相性、国家の未来などを予測しています。







このように、占星術と天文学は、現代では目的も手法も、まったく別のものになっています。ただ、若干の例外はあり、微妙な領域の研究で占星術と自然科学が重なる場合があります。

例えば心理学です。フランス、ソルボンヌ大学の心理学者で国立科学統計センターの統計学者でもあるミッシェル・ゴークランという学者は、出生時の惑星の配置と性格を分類する統計研究を行い、両者には相関関係がある、と結論づける論文を発表しました。

しかし、日本の明治大学コミュニケーション研究所の検証結果は、その関係性は有意水準ではあるものの、あまりにも小さすぎて実際に適用する根拠には乏しい、といったものでした。

このほか、パーソナリティ研究の分野で第一人者であるドイツの心理学者ハンス・アイゼンクも、統計学的調査に基づき、様々な観点からの西洋占星術の妥当性を検証しましたが、その答えは否定的なものでした。

占星術者と言われる人たちの中には、これは「統計」によるものと説明する人もいます。確かに星の運行の情報は統計データに基づいて計算することができますが、星の動きと個々の人間の運命との関係性を統計的に立証できた例はありません。

こうした占いが部分的にでも当たったように感じられるのは、バーナム効果だと言う人もいます。誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分、もしくは自分が属する特定の特徴をもつ集団だけに当てはまる性格だと捉えてしまうことです。

例えば、以下のような文章を見た時、自分に当てはまる、と感じる人も多いのではないでしょうか。

・あなたは他人から好かれたい、賞賛してほしいと思っているが、にもかかわらず自己を批判する傾向にある。
・あなたは外見的には規律正しく自制的だが、内心ではくよくよしたり不安になる傾向がある。
・あなたは独自の考えを持っていることを誇りに思い、それゆえに十分な根拠もない他人の意見を聞き入れることがない。

実はこれは、ある星占いの星座ごとの占い結果をまとめて表示したものです。アメリカの心理学者バートラム・フォアという人が行った実験で使われたもので、彼は学生たちに、この分析がどれだけ自分にあてはまっているかを0(まったく異なる)から5(非常に正確)の段階でそれぞれに評価させたところ、その平均点は4.26だったそうです。

いかに人がこうした占いを信じやすいか、を端的に示した結果といえますが、このほかにも確証バイアスというものがあります。これは仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のことです。

その結果として稀な事象の起こる確率を過大評価、または過少評価しがちになりますが、こうした現象は2011年に起こった東日本大震災でもたくさん確認されました。

こんな場所にまで津波はやってこない、あるいはここにいれば津波から身を守ることができる、といった思い込みです。これが例えば星占いの場合だと、あなたは魚座でこうこうこういう性格だ、と一度言われればそれを信じ、他の星座の占い結果などはまったく見なくなります。



このように、占いというものは、元々不確実性が高いもので、また曖昧なものです。このため科学的な視点でものを見ようとする姿勢の人の目には、いかがわしいものとして映ります。占いを信じる、という人は意外に少なく、博報堂がアンケートを使って「占い・おみくじを信じる」と言う人の割合を調べたところ32.5%にすぎなかったそうです。

では、占いというものは、我々にとって全く必要のないものか、といえば、はっきりそうだと割り切れるものでもなさそうです。

たとえば、何かを決断したいけれども、はっきりと決めきれない、といったときに占いの結果に頼ったりはしないでしょうか。

卜(ぼく)、または卜定(ぼくじょう)といいう占いがありますが、何かを決断するときなどに使う事が多く、これは人が関わりあう事柄(事件)を占うものです。

時間、事象、方位など基本にして占いますが、占う事象を占う時期、出た内容などとシンクロニシティさせて結果を観ます。ある意味、偶然性や気運を利用して観る占い方法です。

ちなみに卜の文字は、亀甲占いの割れ目を意味する象形文字を原形としており、「亀卜」と呼ばれていました。21世紀の現代でも宮中行事や各地の神社の儀式で行われており、宮中行事では、大嘗祭で使用するイネと粟の採取地の方角を決定するために用いられています。

かつて明智光秀が信長を本能寺で討つときも、この亀卜でもってその成否を占ったという話もあるようです。結果は凶と出たようですが。

この卜をもっと簡単にしたものが、花占いで、一輪の花を手にとって花びらを一枚一枚摘んで「好き・嫌い」を判断したりします。また、神社では「鳥居へ投石をして、乗るかどうか」で願いが成就するかどうかを占うところもあり、これも卜のひとつといえます。

では「シンクロニシティ」とは何でしょうか。

シンクロニシティ(synchronicity)とは、「意味のある偶然の一致」とされるもので、日本語では「共時性」とか「同時性」「同時発生」と訳されます。

例えば、歩いていて急に靴の紐が切れた、としましょう。ただそれだけはなく、ちょうどその時「病院で祖父が亡くなった」と考えてみましょう。

出来事というのは、単純な物理現象ではありません。例えばこの靴は実は祖父が自分にと贈ってくれたもの(歴史)で、その紐が突然切れた(状況)ことを、自分だけでなく周囲の人たちが不吉に思う(体験)かもしれません。このように出来事というのは、複数の事柄が1つにまとまったものです。

シンクロニシティである場合には、そうした中でも「靴の紐が切れた」という出来事と、「病院で祖父が亡くなった」という出来事が偶然にも重なった場合に起こり、この場合、両者の間には“通常の因果関係がない”、という条件が必要になります。

靴紐が切れたことで祖父が亡くなったわけではありませんし、靴に何等かのバイキンがついていてそれが原因で紐が切れたり祖父が亡くなったわけでもありません。一方が他方の原因になっていたり、共通の原因から両者が派生していたりしない必要があるわけです。

ふたつの出来事は必ずしも同時に起こる必要はありません。1日違いかもしれないし、1週間後かもしれません。ただ、もしほぼ同時、もしくは近い時間に起きたとしたなら、その衝撃は大きなものになります。



これを全くの偶然と考えて因果関係などはないと考えることもできます。しかし、この二つの出来事が共起したことには何か意味があるのだ、その靴は祖父の象徴であり、紐が切れたということで永遠に別れることになったのだ、と考えることで両者の出来事の橋渡しができます。

つまり、シンクロニシティとは、それが起きることで何等かの「意味」が生成されたように捉えること、と定義できます。

心理学者のカール・ユングは、その意味するところを示そうとして、占星術をその傍証に取り上げたそうです。

例えば、あるとき自分の星座に木星が入ったときに、ある偶然で将来の結婚相手が見つかったとしましょう。ふたつの出来事が同時的に起きていることに当初は気づいていませんが、後になってこのとき木星が自分の星座に入っていた、ということを知ります。

遠く離れた場所で客観的な出来事が二つ同時的に起きたと判明したわけですが、このときこれを単に偶然と片付けることもできますが、それについて意味を見出すこともできます。

「将来の結婚相手との出会い」という客観的な出来事が、木星が自分の星座に入ったというタイミングでシンクロ的に起きたのだと確信的に考えることができるとすれば、そこに木星は幸運の星なのだ、という意味が生まれます。

このようにシンクロニシティは、それが起きることで「意味」を生成します。日常におけるシンクロニシティにおいても、そこに何かのサインや意味を見出だすことができたなら、それがその偶然が起きた理由です。

この靴の紐の例は、「虫の知らせ」とも呼ばれます。家族等の生命に危険が迫った際に何等かの予兆を感じるもので、このほか下駄の鼻緒が切れたり、突然棚から花瓶が落ちたりといったことがあるかもしれません。それを「虫の知らせが起きた」と認識し、人の死を悟ります。

このほか、よく知る誰かから何か電話がかかってくるような気がする、と思っていたら実際に電話がかかってきた、といったことはないでしょうか。さらには通勤途中で小銭を拾ったら、その日に宝くじが当たった、ということもあるかもしれません。

このように何か出来事が起こる前に予知できるものもシンクロニシティといえますが、同じようなものに「嫌な予感」というものもあります。

何か今日は車の調子が悪いとか、なんとなく外出したくないといった「いつもと違う」ということを感じたりしますが、そういう時に限って交通事故を起こしたり、外でつまづいて骨折したりといったことが現実になったりします。

人間には元五感を超えた「第六感」とよばれる感覚があるといいます。もともと誰でも持っていたはずですが、文明人になるにしたがって、その働きが弱くなってしまい、現在ではいわゆる霊感が強いと言われる人だけが持つようになった感覚ともいわれます。

超感覚というべきものであり、誰でも持っているものではありますが、普段はあまり表には出てきません。しかし、時にそうした能力をいつも使え、他の人以上超常感覚が優れているといわれる人がいます。



霊感がある人とか、ある種の予知能力を持っている人などがそういう人たちですが、実は彼らの中には占い師が多いようです。

最近、占いをテーマにしたテレビ番組が高視聴率を取っているようですが、ここに登場する人たちは実はそういう特殊能力を持った人たちだと私は思っています。

一応、「占い師」の体裁を保っていますが、実は鋭い第六感を持ち、シンクロニシティの意味を即座に理解して人に伝えることができる人たちであるに違いありません。中には占う相手のオーラを見ることができる人もいるようで、番組ではそうは明かしてはいませがん、私には実際にそれが見えているように思えます。

実は私たち夫婦が良く占ってもらう占い師さんがそういう人で、実はかなりの霊感がある人ですが、表向きには占い師ということで通っています。

かつて広島でその人に占ってもらったときに彼女が言った言葉が印象的でした。「こうした占いの形でも取らないと信じてもらえないんですよね~」

この人は、幼いころにまるまる2年ほど記憶がない時期があるそうで、その時期を過ぎたあとにそういう能力が身に付いたとのことです。無論、オーラを見ることもでき、私の先祖のことまで的確に言い当てました。

最近読んだ本に、我々が普段見ている世界というのは、実は本当の世界の一部にすぎず、実際の世界が100%であるとすれば、そのうちのわずか1%にも満たない世界しか我々は見ていない、と書かれていました。

従来の物理学では、物質の最小単位は原子、素粒子、クォークといった点粒子であると考えられていましたが、さらに研究が進んだ結果、最近ではそれらの存在だけではこの世の成り立ちが説明できないことがわかってきました。

身のまわりの物質はすべて極めて小さな「ひも」が集まってできているというのが、最近の物理学の最先端の理論で、これは「超ひも理論」と呼ばれています。

この理論によると、実はこの世界は、縦・横・高さの「3次元空間」ではなく「9次元空間」だといいます。さらに、私たちが暮らす宇宙とは別に、無数の宇宙が存在する可能性があるそうです。にわかには信じがたいことではありますが、かつては SFの世界と言われていたような世界が現実の世界なのかもしれません。

そうした時代に占いかよ、と言う声も聞こえてきそうですが、そうした超能力を持った占い師さんたちだけが、そうした我々に見ることのできない世界を見ることができるのだとしたら、その言葉を信じてみようかという気にもなります。

この世の中に不思議はまだまだたくさんあります。その不思議の一端を「占い」という我々にもわかりやすい形で見せてくれるのが彼らだとすれば、それを科学的ではない、という理由だけで片付けるはもったいない気がします。十分に理論的であるとされたその科学ですら、その存在があやうくなりつつある時代なのですから。

いつかそうした占い師さんたちの占い結果も理論的に説明できるような時代が来るに違いありません。その中で、来年私に訪れるという「乱気」もきっとその本当の意味がはっきりするのでしょう。

心乱れる年ではなく、12に一度回ってくる千載一遇のターニングポイントだと信じ、そこから人生が大きく変わることを、しかも良い方に転がることを信じたいと思います。

みなさん良いお年を。