シヴァと大黒

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6月になりました。

新緑は早、深緑になりつつあり、その色が伊豆の野山のほぼ全部に定着するようになるころには、そろそろ雨の季節がやってきます。

東海地方の梅雨入りの平年値は、6月8日だそうで、昨年は少し早く6月4日でした。長期予報を見ると、来週末あたりが雨になっており、おそらく今年の梅雨入りは平年並みなのではないでしょうか。

この、梅雨をもたらす、梅雨前線は、気象学的にはモンスーンをもたらす前線(モンスーン前線)の1つだそうです。モンスーン(monsoon)とは、ある地域で、一定の方角への風がよく吹く傾向があるときの風、「卓越風」のことを指します。季節によってその卓越風の向きは変わります。このため、アラビア語では「季節」を示す(マウスィムmawsim)と呼び、これがこの言葉の語源といわれます。

日本では夏季には太平洋高気圧(小笠原気団)から吹き出す南東風が卓越し、モンスーンとなります。これが、中国北部・モンゴルから満州にかけて発生する、暖かく乾燥した大陸性の気団、揚子江気団や、オホーツク海にある、冷たく湿った海洋性の気団、 オホーツク海気団と干渉しあって梅雨前線ができるわけです。

日本を含む南アジアや東南アジアで発生するモンスーンは、インド洋や西太平洋に端を発する高温多湿の気流が原因です。この地域のモンスーンは地球上で最も規模が大きく、このため、世界最多の年間降水量を誇ります。広範囲で連動して発生していることから、総称してアジア・モンスーンと呼ばれ、同時にこの影響を受ける地域をモンスーン・アジアといいます。

気象学では一般的に、梅雨がある中国沿海部・朝鮮半島、そして日本列島の大部分もモンスーン・アジアに含まれます。

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このモンスーン・アジアにおいて、世界最多の年間降水量を有する場所は、インドのチェラプンジです。インドの東部、メーガーラヤ州にある都市で、北西部にはネパール、東にはミャンマーがあり、それぞれの国境まではわずか200kmほど、という位置関係です。

標高1,484mの山地に位置し、ベンガル湾からの吹き上げる湿気の影響が非常に大きく、これが多雨の原因です。1860年8月から1861年7月の1年間には26,461mmという世界最高の年間降水量を記録し、長年、年間降水量世界一の記録を保持していました。

しかし、1994年、近隣のマウシンラムにその記録を抜かれました。

マウシンラムは、同じメーガーラヤ州のカーシ山地にある村で、2017年現在も、「世界で最も湿った地」として知られ、ここ約50年間の年平均降水量はおよそ11900mmに達します。ギネスブックによれば、中でも1985年度の降水量は26000mmに達したとされます。

日本で一番雨が多いとされる高知県の年間降水量が3700mm程度ですから、いかにものすごいかわかります。ちなみに、静岡県は9位で、2400mmほど。1985年のマウシンラムの降雨量のわずか10分の1以下です。

加えて、ここの降水量は年較差が比較的少ないのが特徴です。また、極めて霧が多く、晴天を望むことが少ないといいます。年から年中雨、というのは、考えただけでも気が滅入りそうですが、いったいどんなところなのか、想像に絶します。カビ対策はどうしているのでしょうか。

ところで、このマウシンラムと多雨度に関してライバル関係にあるチェラプンジは、東に直線距離でわずか9~-16kmの位置関係です。従って、その降雨量に関してはおそらく目糞鼻糞です。このためマウシンラムが1994年に世界で最も降水量が多い地として認定された際、ライバルのチェラプンジの住民が強く憤慨したといいます。

このマウシンラムには、「マウシンビン」とよばれる洞窟が存在します。マウシンビンにはシヴァ神の宝塔を象ったかのような巨大な石筍(せきじゅん)や巨大な岩塔が立ち並び、シンパー・ロック(Symper Rock)とよばれています。

石筍とは、洞窟の天井の水滴から析出した物質が床面に蓄積し、たけのこ状に伸びた洞窟生成物です。これに対して、洞窟の天井面から垂れ下がる形態のものが鍾乳石です。鍾乳石は、広義ではこの石筍や石柱などを含む洞窟生成物の総称としても使用されています。

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シヴァは、サンスクリット語で「吉祥者」の意味です。ヒンドゥー教の神であり、現代のヒンドゥー教では最も影響力を持つ3柱の主神の中の1人。そしてヒンドゥー教の一派、シヴァ派ではとくに最高神に位置付けられています。

シヴァは形の無い、無限の、超越的な、不変絶対のブラフマンであり、同時に世界の根源的なアートマンであるといわれます。ブラフマン(brahman)とは、ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根本原理。一方、アートマンは、最も内側 (Inner most)を意味する サンスクリット語の Atma(アートマ)を語源としており、意識の最も深い内側にある個の根源を意味します。「真我」とも訳されます。

真我は、スピリチュアル的には、「自我」、「魂」であり、言い換えれば「本当の自分」です。自己の中心であるアートマンと宇宙そのものであるブラフマンとは、同一であるとされており、つまり、宇宙と真我は表裏一体、ひとつのもの、ということです。

これを古代インドの思想では梵我一如(ぼんがいちにょ)といいます。アートマンとブラフマンが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとするのが梵我一如であり、インド哲学の聖典、ヴェーダの究極の悟りとされます。

ヴェーダ(Veda)は、日本語では「梵」と書き、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称で、「知識」の意でもあります。

こうした流れから、すなわち「シヴァ」とは全ての中の全て、創造神、維持神、破壊神、啓示を与える者です。全てを覆い隠すものだと信じられており、とくにシヴァ派にとってシヴァは単なる創造者ではなく、彼(彼女)自身も彼(彼女)の作品だといいます。

シヴァは全てであり、普遍的な存在である… というのですが、ここまでくると何やらわけがわからなくなってきそうです。この世、いなや宇宙に広がり、私たちの体をも突き抜けるという、ダークマターのようなもの、というのが現代的な解釈かもしれません。こちらも物理学が専門でない私にはわけのわからないものですが…

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ただ、そうした説明は一般人にもわかりかねます。このため、古来から数多くのシヴァ像が形作られてきました。偶像上のシヴァの特徴としては、額の第三の目、首に巻かれた蛇、三日月の装飾具、絡まる髪の毛から流れるガンジス川、武器であるトリシューラ(三叉の槍)、ダマル(太鼓)、などなどがあります。

また、シヴァは通常「リンガ」という形に象徴化され信仰されることも多いようです。リンガは、一般に男性の性器(男根)を指すサンスクリット語で、本来は「シンボル」の意味を持ちます。

特にインドでは男性器をかたどった彫像は、シヴァ神や、シヴァ神の持つエネルギーの象徴と考えられ人々に崇拝されています。リンガ像の原型が、インダス文明にあるという説もあります。が、この当時の遺跡から発掘されたものが性器崇拝に使われたかどうかは判然としません。ただ、リンガ像の原型になったという考え方は正しいと考えられているようです。

こうした性器崇拝に関する記述は、古代インドの宗教的、哲学的、神話的叙事詩「マハーバーラタ」にも数多くみられます。ヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるものの1つで、そこには豊穣多産のシンボルとしてのリンガの崇拝が記録されています。

後世にシヴァ信仰の広まりとともに、こうしたシヴァの姿がより人々に鮮明に意識されるようになり、大小さまざまなリンガ像が彫像されるようになりました。こうした彫像が多くのヒンドゥー教寺院に祀られるようになったのはこの聖典に拠るところが大きいといわれます。

その説明によれば、通常、リンガの下にはヨーニ(女陰)が現されます。人々はこの2つを祀り、白いミルクで2つの性器を清め、シヴァの精液とパールヴァティーの愛液として崇める習慣があります。

シヴァの主要な性格は、「サマディ」で、これは日本語の「三昧」に相当する言葉です。日本では、「贅沢三昧」「ゴルフ三昧」というような、悪習慣の意味でよく使われますが、本来はシヴァ神の本質を意味するものであり、極度の偏執的な「凝り性」を表しているといいます。

つまり、瞑想だけでなく、エッチに関しても、何に関してもシヴァは何億年もの時をかけてひとつのことに没頭するわけです。こうした究極の凝り性の姿が「リンガ」という偶像に例えられ、これを尽きることなく生命を生み、さらに破壊する女神として崇めるわけです。リンガは、シヴァの原理や現世の本質をあらわしており、この世の万物を生み出し続ける性器そのものという位置づけがなされてきました。

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こうした性器崇拝はかつての日本にもありました。我が国にも「男根崇拝」の時代があり、その名残のひとつが、実は「道祖神」だといいます。ご存知の通り、守り神として主に道の辻に祀られている民間信仰の石仏であり、自然石・五輪塔もしくは石碑・石像等の形状のものが多いようです。基本的には、厄災の侵入防止を祈願するために村の守り神として崇められてきましたが、実はそのルーツには子孫繁栄の意味も含まれていたといいます。

こうした思想を生み出したインドの特異性は、その思想をさらに発展させ、性魔術である「タントラ思想」を生み出しました。今でもインド北部のカジュラーホーには、ミトゥナという男女の性交場面を現した彫刻がありますが、これはタントラ思想を具現化したものと言われます。

シバ神妃の性力 (śakti)を崇拝し、実践行法に関する規則や、神を祀る次第、具体的方法も含む魔術だそうで、その術は192種もあるとされます。どんな秘術なのか想像しかねますが、セックスにも48手あるそうなので、あるいは似たようなものなのかも(※ここのところ未成年の閲覧不可!!)。

これが元となり、のちに発展したインド密教では、タントラを所作、行、ヨーガの3種に分類しています。また、チベット密教では、タントラを所作、行、ヨーガ、無上ヨーガ、の4種に分けています。

所作とは、現在の日本語では、行い、振る舞い、しわざのことで「一日の所作を日記に記す」という風に使います。が、もともとは仏語で、身・口・意の三業(さんごう)が発動することを意味します。

また、行も、現在の日本語に名残として残っており、こちらも仏教用語です。心の働きが一定の方向に作用していくこと、意志形成力のことであり、例えば、桜を見て、その枝を切って瓶にさしたり、苗木を植えてみようと思い巡らすこと、といった場合に使われます。

ヨーガは、現在では、身体的ポーズ(アーサナ)を中心にした、宗教色を排した身体的なエクササイズとして行われていますが、本来のヨーガは、古代インドに発祥した伝統的な宗教的行法です。心身を鍛錬によって制御し、精神を統一して人生究極の目標である輪廻転生からの「解脱」に至ろうとするものです。

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こうした現在の日本語にも残るタントラの思想を日本にもたらしたのが、密教です。性魔術であるタントラ思想は、最初インド密教に取り入れられ、さらにはヒンドゥー教、ボン教、ジャイナ教、そして仏教にも取り入れられて共通して存在します。こうしたタントラはさまざまな形で南アジア、カンボジア、ミャンマー、インドネシア、チベット、モンゴル、中国、韓国、そして日本に伝わりました。

タントラ思想と仏教が融合したものが、チベット密教であり、これが中国に伝わり、そしてこれを初めて日本に持ち帰ったのが、弘法大師こと、空海です。空海はこれを真言密教の形にまとめ上げ、これがさらに発展したのが、今なお日本中に数多くの信者のいる真言宗になります。

タントラの心は日本に今なお強く息づいているといえ、このタントラの流れをひく密教の聖地としては、比叡山、高野山などが有名です。このほか、全国の身近にある稲荷もタントラの影響から発生したものといわれています。

このタントラを人類にもたらしたのは、そもそも人知を超えた存在に対する恐れの感情と、自然のメカニズムです。そしてそれを具現化したものがシヴァであったわけですが、このシヴァは実は非常に化身が得意だとされます。このため、多数の別名を持ちますが、その一つが「マハーカーラ」です。「時間を超越する者」、「時間を創出する者」という意味を持ち、すなわち「永遠」を意味します。

マハーは「大いなる」もしくは「偉大なる」、カーラは「黒、暗黒、時間」を意味し、世界を破壊するときに恐ろしい黒い姿で現れます。シャマシャナという森林に住み、不老長寿の薬をもします。力ずくでも人を救済するとされており、本来は、究極のいいヤツです。

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ここで、「大」と「黒」といえば、日本人ならすぐに思い浮かべるのがあの「大黒天」です。

タントラの流れを引く密教用語が、日本に入ってきた際に翻訳されてできた言葉ですが、大黒天は、大暗黒天とも漢訳され、その名の通り、もともとは青黒い身体に憤怒の形相をした護法善神でした。

例えば、東京の神田明神の大黒天像は怖い顔をしており、福岡県の大宰府市にある観世音寺の大黒天立像も憤怒相です。

この逆に、千葉県市川市にある日蓮宗の寺院、本光院の大黒様は柔和な顔をしていますし、近年お土産物店などで売られている大黒天像なども、ほとんどが優しい顔をしています。

これはなぜか。実は、憤怒相は鎌倉期の頃までで、これ以降、大国主神と習合して現在のような福徳相で作られるようになったためです。習合(しゅうごう)とはさまざまな宗教の神々や教義などの一部が混同ないしは同一視される現象のことで、神道の神格と仏教の尊格が習合した場合は神仏習合と呼ばれます。

日本での大黒天は、「大黒」と「大国」の音が通じていることから神道の大国主神と習合したといわれており、現在の大黒天が上記の本来の姿と違い柔和な表情を見せているのはこのためです。

しかし、鎌倉期以前は、破壊と豊穣の神として信仰されていました。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となりました。室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となりました。

現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表されますが、袋を背負っているのは、大国主が日本神話で最初に登場する因幡の白兎の説話において、八十神たちの荷物を入れた袋を持っていたためです。また、大国主がスサノオの計略によって焼き殺されそうになった時に鼠が助けたという説話から、鼠が大黒天の使いであるとされます。

奈良市の春日大社には平安時代に出雲大社から勧請した、夫が大国主大神で妻が須勢理毘売命(すせりひめのみこと)である夫婦大黒天像を祀った日本唯一の夫婦大國社があります。

かつて、ここ静岡、熱海の伊豆山神社(伊豆山権現)の神宮寺であった走湯山般若院にも、像容が異なる鎌倉期に制作された夫婦大黒天像が祀られていたそうです。が、現在では熱海の老舗温泉旅館、古屋旅館に移されているといいます。一泊数万円する高級旅館のようなので、当分、お目にかかることはないでしょうが。

その熱海に近い場所に住む、我々夫婦の結婚記念日もそろそろ近づいてきました。6月20日のそのころにはもう既に梅雨に入っていることでしょう。

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