旅鳥

最近、庭に野鳥の餌付け台をとりつけ、インコ用の餌を盛っていたところ、頻繁にシジュウカラやヤマガラがやってくるようになりました。どちらも昆虫や木の実をエサにする留鳥で一年中みられるそうです。いまのところ、この二種以外には訪問者はありませんが、これから秋冬と寒くなるにつけ、野外ではエサが少なくなってきますので、ほかの鳥たちも増えてくるかもしれません。楽しみです。

鳥には、一年中同じ地域にとどまって生活する留鳥のほか、春に南の越冬地から日本にやってきて繁殖し、秋になるお再び南の越冬地に去っていく夏鳥、そしてその逆に秋に北の繁殖地から渡来して越冬し、春にまた北へ帰る冬鳥がいます。また、北の繁殖地と南の繁殖地を行ったり来たりしていて、その途中で日本に立ち寄り、あちこちで姿を見せる鳥のことを「旅鳥」といいます。

江戸時代に、日本全国を歩きまわり、西洋人も感嘆するほど正確無比な地図を作った「伊能忠敬」の人生もまた、この旅鳥のようでした。足かけ17年をかけて全国を測量し大日本沿海輿地全図を完成させ、日本国の歴史上はじめて国土の正確な姿を明らかにし、その名を日本だけでなく全世界に知らしめた人物です。

教科書には必ず出てくるこの人の名は誰もが知っていると思いますが、もともとは商人で、しかも測量学を学び始めたのは、隠居した50歳以降という事実は、意外と知られていないと思います。よく知っているようでどんな人物だったのかは私もよくわかっていなかったので、今日はその伊能忠敬の生涯について、書いてみようと思います。

少年時代

忠敬が生まれたのは、1745年(延享2年)の江戸中期のころ。場所は上総国山辺郡小関村(現:千葉県山武郡九十九里町)で、「神保貞恒」の次男として生を受けました。

この神保家は、戦国末期に、小田原の北条氏の部下であった坂田城主の井田氏の宿老だった家系で、1590年(天正18年)に北条氏が滅亡したあと、井田氏は常陸(現茨城県)に逃れましたが、神保家は、この後土着、帰農したということです。

その末裔の神保貞恒は、小関村(現九十九里町)のいわし漁の網元、小関家に入婿となり、小関家の娘、ミネとの間に忠敬等三人の子供をもうけました。

次男の忠敬の幼名は「三治郎」。6歳の時、お母さんのミネが亡くなり、婿養子だった父は兄と姉を連れ実家の武射郡小堤村(現・千葉県横芝光町小堤)の神保家に戻りますが、三治郎は小関家の祖父母の元に残ります。その後、三治郎が10歳の時に父の元に引き取られましたが、この父の実家も小関家に劣らぬ名門で、酒造業を営んでいる大地主でした。

三治郎は、小さい時から学問が好きで、特に算術に優れていたそうです。干鰯(ほしいわし)の産地であった九十九里の村々は、昔から商人の出入りが多く、網元の小関家もこれらの商人と深くつきあっていたため、三治郎も自然と金勘定を学ぶようになったためと思われます。

また、上総・下総の人々は昔から勤勉な人が多いといわれており、三治郎が育った農村でも寺子屋で読み書きや和算を学ぶのが普通、という環境でした。父の貞恒も、分家してから寺子屋を開いていたそうで、かなりの教養人であったと伝わっています。三治郎もこの父からも学問の基本を教わりましたが、この素養があってこそ、のちの測量術の大家、伊能忠敬があるのです。

三治郎は13才の時から、算術を学ぶために常陸土浦(茨城県土浦市)の寺に通うようになり、16才になったときに、「佐忠太」と名乗るようになります。このころから、土浦の医師のもとでも経学(儒学の経典を素とする学問)の中にある医療技術も学んだと伝えられており、生まれつきの勤勉さから、このように幅広い教養を身につけながら成長していきました。

1762年(宝暦12年)、佐忠太こと忠敬が17歳になった年の夏、近隣の郷で土地改良事業をやろうという声があがり、佐忠太は算術の知識を見込まれ、その若さで現場監督を頼まれました。

この時の仕事ぶりが評判になり、神保家と伊能家の両家と深い親戚関係にあった平山藤左衛門という人物の目に留まり、佐原村(現佐原市)の伊能家へ養子として入るという話が持ち上がりました。伊能家は、佐原村の名門といわれており、父の貞恒も忠敬が次男であることから依存はなく、こうして忠敬は伊能家に婿入りすることが決定されました。

伊能家の当主として

この伊能家は、佐原の小野川の東側に広大な屋敷を持ち、代々この地域の名主をつとめていました。名主として佐原村の用水工事のような大工事でも重要な役割を果たしていましたが、一家の主人が2代も続いて若死するという不運が続いており、もともとの家業である米穀売買や酒造は衰運に向かっていました。

佐忠太は伊能家に入ると、まず、家業であったその酒造と販路の拡大につとめました。伊能家に入ってすぐ、名前を「源六」に変えましたが、後に三郎右衛門と改め、さらにその後、名を忠敬と改めました。

忠敬が、伊能家の主人となって18年目の32才のころには、努力の甲斐もあり、傾いていた家業も順調に伸び、江戸に出店までできるようになっていました。伊能家は「千石造り」といわれる大酒造家になっており、奉公人も常時20人以上、酒造りの間は50人以上にもなったそうです。忠敬も人を見る目、人を使う手腕もさらに鍛えられ、佐原の造り酒屋の大店の主人としての風格を備えるようになっていました。

江戸時代の佐原村は、関東一円の中でも有数の大村でした。1768年(明和5年)の記録では、家数1,322戸、人口も5,085人を数え、村といいながらも実質は町のような存在でした。佐原村民が先に作った佐原村用水と利根川の水運が、佐原村に一層の繁栄をもたらし、伊能家も存分にその恩恵を受けることができました。

江戸時代中期以降、佐原村やその近付から、多くの学者や文化人があらわれたのも、江戸との水運と、その繁栄による豊かさによると思われます。忠敬をはじめとして、佐原村が生んだ学者・文化人の多くは、名主などの地位につき、村政に深くかかわった人たちでした。

1784年(天明元年)、忠敬は36才のとき、佐原村の本宿組の名主となりました。それから2年後の1786年(天明6年)、佐原村が利根川の大洪水で大きな打撃を受けたとき、忠敬は家業で得た収益の相当の部分を村民のために使用し、このため佐原村では一人の餓死者も出ませんでした。この功績によって、忠敬は佐原の領主・津田氏から苗字帯刀を許されました。

隠居志願

しかし、ちょうどこのころ、忠敬は永年連れ添った妻ミチを失いました。その後しばらくして再婚し、二男一女をもうけましたが、40才を既に超えており、先妻を失った悲しみもあり、そのまま家業を続けていく情熱を失いつつあったようです。そして「伊能家の当主としてなすべき事は終わった。そろそろ隠居してもよいではないか。」と思いはじめます。

祖父は45才、父は44才で隠居しており、長男の景敬は、もう20才を過ぎていました。自分が17才で伊能家を背負ったことを考えれば、もう家を継がせても良い年齢です。

そのころ、忠敬が興味を持っていたのは暦学でした。これまでも測量術と算術については相当な研鑽を重ねてきていましたが、暦学についてはまだ十分な知識を得ていないと感じていました。また、この当時、日本の暦学は中国の暦から西洋の暦学へ移行する転機を迎えようとしており、幕府天文方の改暦の動きと、大坂の町医、麻田剛立一門の西洋暦研究などが有識者の関心を集めていました。

忠敬が酒屋の家業にせいを出していたころ、1774年には、杉田玄白・前野良沢らがオランダの医学書を訳してして「解体新書」として刊行、平賀源内は蘭学全般を学び、1776年にエレキテルの修理や寒暖計などを発明。伊勢の商人の大黒屋光太夫は1782年に漂流してアリューシャン列島からロシアへ渡りました。10数年を経て帰国を果たし、その豊富な海外知識を桂川甫周が「北槎聞略」としてまとめて出版されました。

このように、このころは暦学以外にも、「蘭学」という新しい学問の波が我が国にも押し寄せており、江戸に識者の有人の多い忠敬はそのうねりをひしひしと身近に感じていました。

そして、1790年(寛政2年)に、45才になった忠敬はついに隠居を決意し、地頭所に願い出ます。しかし、領主の津田氏は息子の景敬が家督を継いたばかりであり、力不足とみて忠敬の隠居をなかなか許可してくれません。しかし、忠敬は、景敬に家業の全てを任せるように仕向け、暦学の書を読み、機器を買い入れて天体観測を行なうなど、隠居が許可される日を目指して独学の日々を始めます。

この間、1793年(寛政5年)には、忠敬は伊勢参宮の旅に出かけ、江戸から東海道沿いの名所旧跡を訪ね、参宮の目的を果たしてから、奈良・吉野・堺・大坂・兵庫を回り、京都とその近郊を見物し、3ヶ月以上の長旅をしています。

忠敬はこの旅で、測量・観測の記事もある旅行記を残しており、この時同行した津宮村の名主、「久保木清淵」と知り合っています。17才も年下でしたが、和漢の学問に通じ、漢学にかけては、近隣に並ぶ者がない程の学識を備えており、のちに忠敬の日本地図作製を補佐する重要なパートナーのひとりになります。

この旅の翌年、忠敬が49才になった1794年(寛政6年)、彼は幕府の改暦事業についての噂を耳にします。大坂の麻田剛立(ごうりゅう)の高弟、高橋至時(よしとき)と間重富(はざましげとみ)の二人が、近々江戸に迎えられ改暦に当たるというのです。

麻田剛立は、豊後国杵築藩(現・大分県杵築市)の漢学者の家に生まれ、幼い頃から天体に興味を持ち、独学で天文学・医学を学び、その後、国を脱藩して大阪で医師を生業としながら天文学の研究を続けた人物です。

望遠鏡・反射鏡などの観測装置を改良し、理論を実測で確認するなど、近代的な手法で天文学・測量学にアプローチした人で、無論、この当時にあってはその道の第一人者でした。その後幕府の天文方となる、高橋至時や間重富もこの麻田剛立から天文学と測量学を学んでおり、高橋至時から測量学を学んだ伊能忠敬の師匠の師匠ということになります。

改暦の話を聞いた忠敬は、興味を持っていた暦学を深めるためには、ぜひ江戸へ出てその事業に自分も携わりたいと考え、再度、隠居願いを地頭所に提出します。これまで何度も願いを出しては断られていた隠居ですが、今度は許可がおり、ようやく家業から解放されるときがきました。

そして、この隠居を境に、名前を伊能家の代々の隠居名である勘解由(かげゆ)に改名。息子や親戚の同意も得て、ようやく江戸へ出向き、好きな道にまい進できる環境が整いました。1795年(寛永7年)、忠敬50才のときのことです。

江戸へ

忠敬が本格的に暦学の研究に進もうとしていたこの時代は、それまでオランダからの知識だけで形成されていた蘭学に加え、オランダ以外の国からの知識も導入され、「洋学」と呼ばれる学問が勃興し始めていた時期であり、日本においてもようやく西洋の近代科学が根付こうとしている時期でもありました。

多くの民間の研究者たちが、この新しい学問に身を投じるようになり、天文暦学の分野でとくに名声が高かったのは、大坂の麻田剛立を中心とする民間の研究者グループでした。剛立は母国の杵築藩で医学を極めて藩医にまでとりたてられていましたが、自由に天文暦学を研究したいと望み、脱藩して大坂に住むようになっていました。そして、町医者として生計をたてながら研究を深め、「先事館」という塾を開いて多くの弟子たちを養成してい
ました。

この弟子たちの中にいたのが、高橋至時と間重富の二人でした。高橋至時は定番同心という身分の低い役人で、間重富は大坂の大きな質屋の主人でしたが、二人とも極めて優秀な生徒で麻田にも大変かわいがられていました。

麻田の先事館では実証が重んじられ、盛んに天体の観測を行なうとともに、度々観測器械の改良や考案を行なっていましたが、間重富は特に関心が深く、質屋として蓄えた莫大な財力を投入して職人に色々な観測器械を作らせ、天文暦学の発達に大いに貢献しました。

このころ、幕府は中国の暦から西洋の暦学へ移行する、いわゆる「寛政の改暦」を計画していましたが、従来の天文方の実力がおぼつかないので、大坂から麻田剛立を呼び寄せ、これに当たらせようとしました。しかし、麻田は高齢を理由にことわり、代わりに最も信頼していた高橋至時と間重合を幕府に推薦したのでした。

こうして、高橋至時と間重富は、幕府の暦局に入ることになりました。二人ははじめ、測量御用手伝いという身分でしたが、高橋の方は武士であったため、まもなく天文方に任ぜられました。二人が江戸へ来たのは1795年(寛政7年)の夏で、忠敬が隠居して江戸へ出たのが、同じ寛政7年の5月でしたから、忠敬は念願の暦学を実地で学ぶ絶好の機会に恵まれたというわけです。

忠敬は、江戸へ出ると、江戸深川黒江町(江東区)に隠宅を構え、高橋至時が江戸へ来ると早速その門をたたき、その弟子となることを願い出て許されます。高橋至時は忠敬よりも19才も年下でしたが、田舎の佐原で独学で測量学を学んでいた忠敬にとっては、その若い師の教えは最新の知識に基づいたものであり、その内容の緻密さに驚かされます。

忠敬は至時から西洋の暦法を教示される一方で、この師から日本全土の測量の必要性を教えられます。忠敬は熱心な生徒だったようで、定例の講義日での教義にあきたらず、随時文書で至時に質問していたそうです。また至時が長期の出張中も、暦局に残っていた間重富を師匠として指導を頼んだほどでした。

こうして忠敬はこの当時としては最新・最高の暦学理論を学ぶとともに、異常な熱心さで天体観測や測量の実習に励み、みるみるその実力をつけていきます。間重富も観測に必要な器械を京・大坂から取り寄せ、ときには自ら大金を投じて江戸の職人に作らせるなどして、忠敬の旺盛な知識欲に答えました。

こうして、入門後4~5年の間に、忠敬の黒江町の自宅にはいろいろな観測器械が整備されるようになり、幕府の司天文台にある機器と比べても見劣りがしないほどになりました。忠敬はこの自宅の天文台にこもり、日々、昼には主として太陽を、夜には恒星が子午線を通る時の水平高度やその時刻を測定したといいます。

そして、研鑽を極めた洋暦法の理論や計算の精密さは粋を極め、観測の成果と相まってその確かさを忠敬自身が確信していくようになります。やがて忠敬は、天体の観測や測量の技術にかけては、至時の門下で第一に推されるようになり、師匠以上の技術を持っているとまで評されるようになっていきました……

今日は、伊能忠敬の生涯に焦点を当てて書いてきました。実は、今日は伊能忠敬がその生涯の最後に携わった「大日本沿海実測全図」が幕府に納められ、それが公表された日ということで、たくさんある伊能忠敬の記念日の中でも特別の日ということのようです。全国の博物館で「伊能図」と呼ばれた「大日本沿海実測全図」の原図やコピーが公開されるのもこの日を中心としたまとまった期間になることが多いようです。

その緻密さは「目を見張る」ほどだといいますが、残念ながら本物を私はまだ見たことがありません。佐原にいけば、伊能忠敬記念館でそれが見れるようですが、機会があればぜひ訪れてみたいものです。

本日の分量は予定量を大幅に超過してしまったので、続きはまた明日以降にしたいと思います。「旅鳥」としての忠敬の足跡はかなりストイックなものだったようです。またご興味があればこのページにお越しください。