神々の黄昏

アメリカへ

第一次世界大戦が終わり、フランス国内の復興も徐々に始まろうとしていました。マリーらのラジウム研究所も再開しましたが、戦争で供出した設備や試料はあまりにも多く、しばらくはまともな研究や実験などできるような状態ではありませんでした。

そのころ、ユダヤ系ドイツ人のマイアー・アムシェル・ロートシルトを祖とし、ヨーロッパの各地に銀行を持つ大財閥のロスチャイルド家から申し出があり、財団からの出資によって、1920年にキュリー財団が設立されました。

主として放射線治療の研究を支援する非営利団体として発足したキュリー財団でしたが、その目的は、世界中の研究者の研究を支援することであり、マリーらの研究所の研究を支援することだけが目的ではありませんでした。

このため、マリーらの研究所に下りる研究資金は微々たるもので、せっかくの財団創設でしたが、マリーら自身の研究資金不足の解消にはほとんどつながりませんでした。

ちょうどそのころ、アメリカの女性雑誌「ディリニエター(Delineator)」の編集長、ミシイ・ブラウン・メロニーという女性が、マリーにインタビューを申し込んできました。マリーはこれに応じ、そのインタビューの席でメロニーから、今何が一番欲しいかという質問を受けました。

これに対して、マリーは、「1グラムのラジウム金属」が欲しいと答えます。その価格はその当時でも10万ドルに相当するほどの金額でした。

このころ、科学技術の新興に力を入れていたアメリカでは、先行する科学技術には豊富な研究資金が投入されており、アメリカならばノーベル賞を受賞するような優秀な科学者に対して、この程度の出資をするのは当たり前のことでした。

ところが、マリーのような優秀な科学者に十分な資金すら提供されていないフランスの科学界の実情を知り、メロニーは大いに驚きました。

マリーとのインタビューを通じて語り合い、第一次世界大戦での彼女の活躍などから、無私の心で社会貢献をしようとするマリーの生き方や、その人柄に強く惹かれたメロニーは、マリーを援助しようと心に決めます。

そして、アメリカに帰国後に、マリーにラジウムを贈呈する資金を集めるためのキャンペーン運動を起こし、やがてマリーの希望する「1グラムのラジウム」が彼女の元へ届けられることになるのです。

これをきっかけとして、マリーとメロニーの交流は深まり、その後、マリーは彼女の求めに応じて、アメリカへ講演旅行に出かけることに合意します。しかし、講演旅行とは名ばかりで、実情は研究資金を集めるための宣伝活動であったこの旅行は、メディア嫌いのマリーにとっては気の進まないものでした。

とはいえ、マリーはアメリカ各地で大歓迎を受け、この当時の大統領、ウォレン・ハーディングから直々にラジウムの授与が行われるというセレモニーまで設けられました。1929年には再度、アメリカに渡り、その4年前の1925年にワルシャワに設立されたキュリー研究所に導入する機器類の資金を集めるのに成功しています。

フランスでは心無いジャーナリストたちに自分たちの生活を踏みにじられたマリーでしたが、自由の国アメリカはそんなマリーの心を癒してくれるような場所であり、あれほど嫌いであった講演が楽しくなり、自らがホテルにジャーナリスト達を呼んで接待することもあったといいます。

指導者として

アメリカへの旅は大成功を修め、研究所はラジウム以外にも多くの鉱石サンプルや分析機器類、そして資金を得ることができました。しかし、彼女は、自分の名声や影響力が大きくなればなるほど、かつてのように研究や実験に没頭することは許されなくなっていくことを悟ります。

このころから、マリーは自らの研究よりも、パリのラジウム研究所を大きくすることを目標とするようになり、ここを放射能研究の拠点として、若手の研究者を育てていくことに自分の情熱を注いでいこうと考えるようになります。

このころのラジウム研究所は、性別・国籍を問わない多様なスタッフを抱えるようになっており、マリーは彼らの指導に多くの時間を割き、毎朝のようにスタッフと研究や実験の指針や進捗を相談していました。彼女の周りは、いつも論文の校正などを願う研究員らでひしめき、笑い声が絶えなかったといいます。

マリーは適切な指示や指導を与え、成果が上がった際には祝いのお茶会を開くなど、彼らを導き、その実力を伸ばすことにおいては一流で、そこでは、かつての貧困時代から一貫して女学校で教べんをとってきた経験がものをいいました。

やがてこの研究所からは、アルファ粒子のエネルギーが一定ではない事を示したサロモン・ローゼンブルムや、真空中のX線観察を行ったフェルナン・オルウェック、フランシウムを発見したマルグリット・ペレーなどの才媛が続出しました。

その中でも際立ったものは、娘イレーヌと結婚したフレデリック・ジョリオ=キュリーでした。彼とイレーヌが共同で行ってきた人工放射能の研究は、学界で高く評価され、夫妻は1935年にノーベル化学賞を受賞しました。

マリー自身が、ノーベル賞を受賞という栄誉を得たばかりでなく、その指導力を生かし、自身のDNAをその後輩に植付けてきた彼女の努力は、ここに結実しました。

しかも母娘二代にわたってのノーベル賞は過去にも例がなく、娘の誉と自らの栄誉、そしてかつての愛する夫ピエールの栄誉にも思いをはせ、ようやく何事かを成し遂げた気分に浸ることのできるマリーなのでした。

放射能その光と影

娘のイレーヌのノーベル賞受賞のほか、多くのすぐれた研究者を排出していたラジウム研究所でしたが、このような華やかな成果を出しつつも、放射能というその当時まだ未知の研究対象については、それが人体へどのような影響を及ぼしているか、という点においては十分な配慮が行き届いているとはいえませんでした。

東北大学を卒業後、東京帝国大学(のちの東大)の助教授をしていた日本の「山田延男」は、日本政府から派遣され、1923年から2年半、ラジウム研究所でイレーヌの助手としてアルファ線強度の研究を行っていました。

マリーの支援も受けながら5つの論文を発表しましたが、その直後、原因不明の体調不良を起こして帰国。翌年亡くなりました。1925年1月には別の元研究員が再生不良性貧血で死亡。さらに個人助手も白血病で亡くなるなど、ラジウム研究所では次々と「原因不明」の死が相次ぎます。

しかし、この当時の医学では放射線と人体の健康の間の明白な因果関係が明らかにされておらず、何かの病気にかかっても、それが放射線の直接的な影響だと考える研究者は少なく、強い放射線から何等かの遮蔽物で人体を防護するといった、具体的な対処法は習慣化されていませんでした。

1932年、65才になっていたマリーは、うっかり転倒して右手首を骨折してしまいます。しかし、その傷はなかなか癒えない上、頭痛や耳鳴りなどが続き、健康不良が長い間続きます。

1933年には、今度は胆石が見つかりましたが、手術を嫌がり、薬物治療で乗り切ろうとします。この年の春、マリーはポーランドを訪問しましたが、これが最後の里帰りとなりました。

1934年の5月のある日、気分が優れずいつもより早く研究所を後にしたマリーは、自宅に帰り、そのまま寝込むようになってしまいます。医者の診察を受けたところ、今度は結核の疑いがあるといわれたため、さすがに本格的に療養に入ることを決め、フランス東部のオート=サヴォワ県のパッシーにあったサナトリウムへ入所しました。

ところが、ここで受けた診察では肺に異常は見つからず、ジュネーヴから呼ばれた別の医師が行った血液検査の結果をみて下された病名は、やはり、「再生不良性貧血」でした。

再生不良性貧血は、骨髄中の造血幹細胞が減少することによって、骨髄の造血能力が低下し、血液中の血球が減少してしまう、一種の白血病です。必ずしも放射線だけが原因ではありませんが、原因のひとつとされています。

それからおよそ二か月後の、7月4日の水曜日。マリーはこのサナトリウムで静かに息を引き取りました。享年67才。愛する夫ピエールの死後、26年もの間、ひとりで放射能と戦ってきたヒロインの死は、苦しむこともなく安らかだったといいます。

エピローグ

パリのラジウム研究所は、その後、娘のイレーヌ・キュリーが二代目所長を務め、現在はキュリー研究所(Institut Curie)という名称で、医学、特に癌研究の拠点となっています。

この研究所の一部で、元マリーが研究所長をしてた当時の所長室と実験室は、博物館として整備され、一般の人でも見学できるようになっています。しかし、マリーの残した直筆の論文などのうち、1890年以降のものは放射性物質が含まれ取り扱いが危険だと考えられており、公開されていません。

当時彼女が使っていた料理の本からも放射線が検出されたそうで、これらは鉛で封をされた箱に収めて保管され、閲覧するには防護服着用が必要になります。また、マリーが使っていた実験室も、その昔は放射能で汚染されて見学できませんでしたが、近年汚染除去が施され、公開される運びとなりました。

この部屋には実験器具なども当時のまま置かれており、そこに残されたマリーの指紋からも放射線が検知されるといいます。

ふたつのノーベル賞を受賞しながら、外国人であることを理由に、1911年のフランスアカデミー学会の会員の選挙に敗れたマリーですが、その後、1922年には、パリ医学アカデミーが医療への貢献という理由で、前例を覆して彼女を会員に選出しました。

しかし、フランス政府としては、その後も、あいかわらず放射能の研究者としてのマリーに冷淡で、その死に至るまでラジウム研究所への資金援助は微々たるものだったといいます。

マリーが亡くなった当時、その亡骸は、夫ピエールが眠るパリ郊外のソーの墓地に、夫と並んで埋葬されましたが、60年後の1995年、ふたりの墓はフランスを代表するかつての偉人たちの墓のある、「パンテオン」に移されました。

パンテオンは、ギリシア語で「すべての神々」を意味するそうで、キュリー夫妻は、フランス人にとっては「神」になったわけです。

しかし、実際には日本の靖国神社のような宗教性はなく、どちらかといえば、「偉人の殿堂」といったところでしょう。フランスのパンテオンに女性が祀られるのは、初めてとのことでした。

ちなみに、このとき、マリーの棺内部の放射能測定が行われましたが、その結果としては、放射線量は若干高めながら、許容度の5%程度にとどまったため、彼女の死因が放射線被曝であるという説には疑問が挟まれたということです。

放射能研究者である彼女とピエールの墓がここに移されたのは、「夫妻の業績を称え」、ということでしたが、これには別の見方もあります。

原子力大国であるフランスとしては、このころから積極的な原子力利用を推進しようとしていましたが、それにあたり、ノーベル賞受賞者である二人を「殿堂」に祭り上げることで、そうした国の方針に国民を賛同しやすくさせるためではなかったか、とも考えられるのです。

もし、彼女が放射能の研究者ではなく、別の分野でノーベル賞をとった人物であったなら、その墓はパンテオンなどには移されなかったのではないでしょうか。

マリーとしても、そんな国家主義的なフランスの側面は生前から重々理解し、苦々しく思っていたことでしょう。しかし、そんなフランスに、マリーが骨をうずめたのは何故でしょうか。

その生涯で、何度か祖国のポーランドに帰るチャンスはあったのにも関わらず、最後までフランスで研究を続けたのは、それほどフランスが好きだったのでしょうか。

私は違うと思います。彼女がフランスを離れなかった理由、それは、ラジウムという秘められたパワーを持った物質を平和裏に利用していける国は、その当時のヨーロッパにあってフランスしかないと考えたからではないでしょうか。

ポーランドは独立したとはいえ、この当時まだまだ弱体国家で、いつまた他の国に占領されてしまうかもしれません。隣国のドイツもロシアも、昔から他国を占領してわが物にしてきた肉食系国家であり、イギリスやスペインも、世界各国に植民地を持つ侵略国家です。

フランスもまた、世界各地に植民地を持っていましたが、イギリスのように諸外国に執拗に自国の制度を押し付けたがるような国ではなく、かといってスペインのように弱体化しつつある衰退国でもありません。

何かにつけ、他国とは違うことをアピールしたがる国民性を持ち、他国に頼ることなく、独自の文化、独立した国家体制をこの当時築くことに成功していた数少ない国のひとつといえるでしょう。

そのフランスこそが、その当時にあって最も安心して放射能研究をおこなえる唯一の国である、とマリーは判断したに違いありません。

そして、もうひとつ大きな理由がありました。それは、愛する夫ピエールの母国がフランスであったということです。10年以上もの間、愛と信頼をもって、ともに放射能研究に挑んだ彼の存在は、彼女の体の一部のようであり、その夫を事故で亡くしたあとも、その彼が眠る祖国に居続けたい、と彼女は考えたのだと思います。

死した今、二人の墓碑はパンテオンに移されましたが、しかし、あの世で再び巡り合った二人の魂にとっては、そんなことはどうでもよいと考えているでしょう。

むしろ、すでに役割が終わったともいえる、原子力という技術にしがみついて生き残っていこうとしている、このフランスという国の行く末を憂えるばかりなのではないでしょうか。

いつの日か、このキュリー夫妻が再びフランスに生まれ変わったら、原子力に頼る必要のない未来永劫安全なエネルギーの供給源を見つけてくれるような気がます。

いや、キュリー夫妻が生まれ変わるのは日本かもしれません。生まれかわったキュリー夫妻が、荒廃した日本に手を差し伸べ、日本を安全な国に導くとともに、フランスだけでなく全世界を救済していくに違いありません。

そういう日が来るのを願いつつ、この項を終えたいと思います。