芙蓉の人

駿河湾に浮かぶ

今日は、「富士山測候所記念日」ということになっているようです。

この測候所は、明治のなかばに初めて富士山頂に設けられた測候所ですが、気象庁が作ったものではなく、一民間人によって建てられてました。

野中到という人物がその人であり、妻の千代子夫人との共同作業によって世界で初めて富士山頂のような高所での冬期観測が試みられましたが、過酷な自然の中、残念ながら道半ばで二人とも測候を断念しています。

これが明治25年(1895年)のことであり、このころはまだ観測機器も極寒の地で耐えられるようなものもなく、またそもそもがそれまでの気象データがないわけですから、観測を始めたとしてもどんな不測の事態が起こるかもわかりません。

このため気象庁は、その後もここに観測所を建てるのには躊躇していたようで、結局、官による正式な測候所の発足は、この野中夫妻の観測所が設置されてから、37年も経った昭和7年(1932年)のことになりました。

ただ、この気象庁による新測候所もあくまで臨時のものだったそうで、その後の本格的な施設を建設する前の試験的なものだったようです。場所もその後の本格運用の測候所が富士山の最高位にある剣ヶ峰に建設されたのに対し、この臨時測候所は外輪山南東の東安河原に建設されました。

臨時とはいえ観測内容だけは本格的であり、このときから通年測候が行われるようになり、現在でもこのころからの気象データは貴重なものとなっています。ちなみに、その観測結果は超短波無線機で気象庁に送られたそうです。

しかし施設そのものが仮のものだったため、職員が山頂で観測を続けるための物資などを蓄えておくことはできず、このため、支援拠点としての事務所が麓の御殿場に昭和16年(1941年)に開設されました。

冬期には長期間の滞在ができないため、富士山測候所職員は、数日あるいは多くても一週間程度滞在したあと交代で「通勤」していたようであり、これとは別に食糧などの物資が強力によって搬送され、その登山道としては御殿場口登山道が使われていました。

現在でも、御殿場口登山道沿いには、このころの測候所職員が冬季の登下山に使った鉄製の手すりや避難小屋が残っているといいますから、今度この方面から富士山に登る人は気にかけてみてください。

その後、本格的な測候所が、建設されたのは、1936年(昭和11年)のことでした。日本最高峰の剣ヶ峯に建設されたのですが、これはここが最も高いからという理由からではなく、頂上付近の風の観測条件を考え、周囲に障壁がない場所としてここが選ばれたようです。

こうして、当時世界最高所にある常設気象観測所となった富士山測候所は、主に高山気象観測を目的とした気象観測を行い、これによって、日本上空を流れる偏西風の謎の解明につながるデータや高山気象における基礎的データが収集されるようになりました。

その後、この観測所は戦中戦後も機能し続け、この間も気象庁の職員の手により貴重な気象データが観測し続けられましたが、1964年(昭和39年)に富士山レーダードームが完成すると、その観測内容には台風などの低気圧の予測なども加えられるなど、よりその存在は重要になっていきました。

しかし、やがて気象衛星などが打ちあげられるようになり、富士山の山頂からよりもより広範囲で正確な気象データが得られるようになったことから、レーダードームもろとも富士山測候所は廃止されることになります。

1999年(平成11年)にはレーダー観測が取りやめられ、その後しばらくは職員によって気象観測が行われていましたが、2004年(平成16年)には自動観測装置が設置され無人施設となり、現在では気温、気圧、日照時間(夏季のみ)の気象観測が継続して行われています。

なお、それまで行われていた風向・風速の観測については、観測装置のメンテナンスが困難であることを理由に廃止されることになり、それまでNHKラジオ第2放送などの気象通報で放送されていた富士山頂の風向・風速は放送されなくなりました。

こうして現在の富士山頂に、気象庁の職員が足を向けることはほとんどなくなっており、行くとすれば自動観測機器のメンテナンスだけという状態となっています。

まあ、冬季の富士山の自然の厳しさを考えればこんなところに常駐するなんてのはどだい当然無理なことはわかります。しかし、なんでもかんでも自動化されていくんだなーとついつい文明の進む速度のことを考えてしまい、そういえば先日打ち上げ中止になったイプシロンロケットの打ち上げもほぼ全自動だそうです。

ところで、そんな自動観測装置など夢のまた夢のような明治の時代に、富士山で測候所を開設しようとした野中到という人はどんな人だったのでしょうか。

実は、この野中夫婦の物語は、「芙蓉の人」というタイトルの小説として1970年に新田次郎を作者として刊行されており、これにも先立つ1896年(明治29年)に劇化されて演劇公演されています。また、同じ年に、実際の登山記録をもとにした実録小説「高嶺の雪」が落合直文という人により作品化されています。

生前の至はこの「高嶺の雪」を比較的事実に近いものとしてある程度は評価していたといいます。現在ではこの小説は絶版になっていると思われますが、到が評価していただけに、そこには何故富士山頂に測候所を作ろうとしたのかという動機づけなども書いてあったのではないかと思われます。

しかし、さすがに古いものなので、現在は入手できないようです。が、新田次郎は、「芙蓉の人」の執筆にあたってこれには目を通しており、そこから読み取ったらしい動機を、その作品中で野中到自身のことばとして次のように表現しています。

「天気予報が当たらないのは、高層気象観測所がないからなのだ。天気は高い空から変わってくるだろう。・・・中略・・・富士山は3776メートルある。その山頂に気象観測所を設置して、そこで一年中、気象観測を続ければ、天気予報は必ず当たるようになる。だが、国として、いきなり、そんな危険なところへ観測所を建てることは出来ない。まず民間の誰かが、厳冬期の富士山頂で気象観測をして、その可能性を実証しないかぎり、実現は不可能である」。

ウィキペディアによる野中到の紹介は、さりげなく、その前半生は、1867年(慶応3年)筑前国早良郡鳥飼村(現福岡市)に生まれ、1889年(明治22年)に大学予備門(東大教養学部の前身)を中退した、とだけ書いてあります。

大学を中退した野中青年が何をめざそうとしていたのかについては詳しい言及がないのですが、大学を止めたあとはどうやら気象学者としての道を歩みたかったらしく、野中到というキーワードで探してみると、やたらと、「気象学者」という肩書が出てきます。

ただ、富士山頂に測候所を作ろうと決意したころにはまだ28歳くらいだったはずであり、大学もしっかりと出ていないような人物が果たして世間に「学者」として認められていたかいうと少々疑問です。しかし、そんな到を実家の野中家は認めて支援していたといい、また中央気象台も彼を援助していたといいます。

普通の予備門中退者であればそこまで認められることはなかったのではなかったと思われ、おそらくは大学中退とはいえ、気象学についてはそれなりの博識を持っていたのでしょう。

また、この国の人のために、気象観測の近代化を進めたいという、強い意志をもっていたことでしょう。その後の過酷ともいえる測候所建設にそこまで情熱を燃やしたのはそれほどこの「気象観測」という道に惚れ込んでいたに違いありません。

さらに、この頃の日本は清国に大勝、世界列強に負けじと国民意識が高まっている時代であり、野中到もまた、その自らの前人未到の試みが大衆の関心に答えるものだと感じていたのでしょう。

明治の半ばの時代であり、このころの若者は日本の将来を見据え、その中で自分をいかに昇華させていくか、という点に情熱を燃やす人物が多かったのではないかと思われます。このあたり、何かと軟弱な現在の若者とはえらい違いです(かつての私も含めて)。見習ってほしいところです。

さて、そんな到は、大学を中退後25歳のときに母方の従妹である、同じ福岡藩の出身の喜多流能楽師の娘、千代子と結婚します。

千代子はその後、52歳という若さで亡くなっていますが、至との間に早世した娘・園子のほかにも6人もの子をなしたそうです。

到が、富士山頂での通年の気象観測が成功すれば、正確な天気予報が実現して、国民の利益となり、世界に日本の名を高めることにもなる、と考えるようになったのが、この結婚前だったのかあとだったのかよくわかりません。

が、結婚後3年の間にその気持ちはかなり高まっていたようで、28歳になった明治28(1895年)1月には、富士山頂の気象状況を自らの目で確かめるべく、厳冬の富士山に登り、さらにはこれに続いて2月にも登頂に成功しています。そしてこの登山により、富士山頂の冬期滞在が不可能ではないという確信を持ったようです。

しかし、厳冬の富士山に登るのがどれほど危険なのかについては、登山のための機材などの発達した現在に至ってもいまだに冬期の登山が禁止されていることがそれを物語っています。

それを十分な登山道具もない明治期に二度も成功させたというのは、不可能を可能にしたともいえる大記録であり、登山史に刻まれるものとも言って良いでしょう。

ところが、到はさらにここに冬季の観測所を作ろうとしました。これはほとんど正気の沙汰とは思えません。真冬の富士山頂の気温は最も低い2月には、平均でマイナス38度にもおよび、また富士山は独立峰であるため、低気圧が日本付近を通過中は、猛烈な強風となり、そこでの風速は台風なみの風速20m/s以上となることもあります。

しかも高所にあるため高山病とは常に背中合わせであり、一度体調を崩すと命取りになりかねません。

本当にそこまで理解していたかどうかは今となってはわかりませんが、ともかくも冬の富士山測候をやりたいという情熱は、実際の状況の厳しさを上まわるほどのものだったのでしょう。こうして野中到は冬季の富士山頂観測という事業に命を燃やしはじめます。

この夫の決意に強く同調したのが妻の千代子でした。いとこ同士であり、幼い頃からお互いをよく知っていたこともあるでしょうが、明治時代の女性というのは、夫の夢をかなえることが自分の生きる目的と思っているような人物が多く、この人もそうだったのでしょう。

千代子の生家は能楽師とはいえ、九州黒田藩の武家であり、武家といえばその家に生まれた子供は男であれば切腹の作法を教えられ、娘は自害の際見苦しい死に様を見せぬようにもがいても着崩れしない足の縛り方を教えられます。

当然千代子もそうした教育を受けたと思われ、夫になった男には武家の娘として生涯を尽くすことが習いである以上、夫の決意にはどこまでもついていく、と考えたのでしょう。

しかし、単独で観測しようとする夫の計画を知り、聡明だった彼女は、それはあまりにも無謀な計画であることを知ります。しかし、夫への愛情からそれを告げず、自らはいざというときのためにと、夫に黙って山登りのための基礎トレーニングをはじめます。

1895年(明治28年)8月30日、富士山頂に野中によって投じられた私財によって日本最初の富士気象観測所が完成しました。その広さはたった六坪だったといい、これは12畳に相当しますが、観測機器などを置くスペースを考えれば居住空間などないに等しいものだったでしょう。

そして、10月1日、到は単独で富士山頂に登り、気象観測を開始します。やがて冬季に入り、吹き荒ぶ風雪の中のたった六坪の観測小屋の中、到はたった一人で冬期高層気象観測をはじめました。

ところが、自然の猛威は容赦なく、野中測候所を襲い、ひとりでの観測は睡眠時間を圧迫し、日に日に状況は悪化していきます。

ところが、そんな中、妻の千代子がなんと、女ながらも夫を追いかけて富士を登り、野中測候所へやってきたのです。驚いた到に対し、千代子はものおじもせず、一緒に観測をしたいと申し出ます。到の登山から10日遅れの10月11日のことでした。

突然訪れた妻に驚いた到ですが、当然最初は反対し、千代子を返そうとします。が、ついには千代子の熱意に負け、これを受け入れ、夫婦で協力して気象観測を行うことになりました。

ところが用意周到、自信満々で観測に望んだはずの到は、こと自分自身の身体に関してはまったくといって考えていませんでした。例えば食事のことについては考慮が足らず、どうやって高所で飯を炊くかについても十分な知識を持っていませんでした。トイレのない居住空間もその最たるものでした。

こうした無謀ともいえる「生活」に対する不備を千代子は的確に指摘し、また自らが準備してきた食材やその機転によって到は救われることになります。そして一日12回の気象観測など常人には到底無理ですが、一人では無理でも二人ならなんとか補えることを到は千代子の存在により気づいていきます。

千代子には気象の知識はほとんどなかったと思われますが、普段から夫の無鉄砲さは知っており、到がやがて生命の危機に直面するに違いないことはことを本能的に感じとっていたのでしょう。ともあれ、彼女がいなければ到が生還することはなかったでしょう。

しかし、自然の猛威はさらに激しくなり、やがて二人に死の危険が迫っていきます。寒さが厳しくなっていく中、貴重な観測機材が次々と壊れていき、到が起き上がれなくなることもありましたが、そうした時は千代子が補い、冬期連続観測の「記録の鎖」を二人で必死で繋いでいきました。

とはいえ、何もかもが凍りつく中、高山病が体力を奪い、次第に二人の健康を蝕んでいきました。寝不足と栄養不足が追い討ちをかける中、その後も交代で仮眠をとり観測を続けましたが、ある日とうとう千代子が風邪をこじらせ扁桃腺が腫れて呼吸ができなくなるという事態が発生します。

このとき、なんと到は、真っ赤に焼いたノミで千代子の扁桃腺を切り、膿を出して助け、この荒療治が功を奏し千代子は元気になりました。

しかし長引く観測に二人の体力はさらに落ちていきます。そんな中、極寒の富士山頂に慰問に訪れる支援者達もいたといいますが、到はそんな支援者たちにも「「野中夫妻は元気だったと云えてくれ」と懇願したといいます。

慰問者がここを訪問者が訪れたのは一度だけではなかったようで、何度目かの訪問者がきたときには、夫妻は生死をさまようほどの状態だったようです。

そんな彼らに訪問者は下山を促しましたが、頑として首を縦にふろうとしない夫妻に対し、ある訪問が、愛娘が亡くなったことを伝えました。実は二人の間には、園子という長女がおり、登山中は福岡の実家に預けていたものが肺炎で亡くなっていたのでした。

それまでの訪問者たちは、夫妻の頑張りに支障が出るからと口止めされていたのですが、夫妻の惨状を目の当たりにし、彼らを救うためには事実を告げるしかないと判断したのでしょう。

このときの二人の心情は計り知れませんが、このときですらまだ、二人は目指していた連続観測の記録を閉ざすことをやめることはありませんでした。

しかし、やがて12月に入り、沼津に向けて週1回の頻度で鏡の反射によって信号を送り、自分たちの生存を知らせていた習慣をも途絶えました。ふもとの住人はこのため、12月12日、夫妻の様子を見るため登頂しましたが、観測小屋に入った者達は二人の状態を見て息を呑みました。

二人はほとんど飲み食いをしていない状態で寝たきりのままといってもよく、特に到は瀕死状態であったといい、そんな中でも観測を続けていたのです。

このままでは二人とも死んでしまうと判断した彼らはいったん下山すると、救助隊を編成して再度登頂し、そして12月22日、ついに夫妻を強制下山させました。下山の決断がなければ、おそらく生命を落としていたことでしょう。

がんばり続けた富士山頂観測の記録はこうして82日間で途切れることになりました。

救助隊によって救出される夫妻の思いは、想像だに悔しさでいっぱいだったことでしょう。しかも、そんな彼らには亡くなったばかりの一人娘の元にかけつけるという悲しい役割がまだ残っていました。

その後、二人は再び健康の回復を取り戻し、長女に次いで6人の子供を設けました。しかし到は、富士山頂への再度の挑戦をまだ夢見つづけており、成長の著しい子供たちの世話に忙しい千代子もまた、その気持ちをわかっていました。

そして、最初の登頂から25年あまりの時がたっていましたが、子供たちがある程度成長したのを見計らい、二人はふたたび富士山への登頂のための準備を始めます。到は既にもう56歳にもなっていました。

ところがそんな中、インフルエンザの流行に罹り、千代子が52歳であっけなく急逝してしまいます。1923年2月のことでした。

それまでは妻を相手に、冬期富士山頂観測について熱く語り、友人たちにも再度の挑戦を吹聴していましたが、夫人の死とともに到はそうした情熱についてはぱたりと触れなくなっといい、やがてその顔から笑いが消えていったといいます。

千代子夫人が亡くなったあと9年後の1932年には、前述の富士山臨時測候所が建設され、到はこのときに至って既に自分の出番は亡くなったことを知ります。

そして戦後10年ほど経った1955年、その後の富士山レーダーの完成をみることもなく、到は亡くなりました。享年88歳。晩年は亡くなるまで、ほとんど富士山頂観測所設置、冬期観測に触れることはなかったといいます。

その晩年の到にはこんなエピソードもあります。

戦後のまもないころに、冬季気象観測の功績で褒章の話が上がったときのこと、到はあの仕事は、私一人でやったのではなく千代子と二人でやったものですと云って、結局、その栄誉は受けずに終わったそうです。

また、かつて自分たちが情熱を燃やした富士山測候所建設について書かれた小説についても不満を漏らしていたといい、その理由は自分の功績ばかりについて書かれていて、夫人の千代子のことが書かれていなかったためだといいます。

ただ、新田次郎の「芙蓉の人」は彼の死後に書かれたため、到はこれには目を通していません。

しかし、到本人よりも千代子夫人のエピソードがふんだんに盛り込まれたこの小説を到が読んだらさぞかし喜んだことでしょう。この小説のタイトルの「芙蓉」も、夫人が残した日記の題だったそうで、このことも喜んだに違いありません。

この日記は夫人の死後、報知新聞に掲載されていたそうで、新田次郎もこれを呼んで自作のタイトルにしたようです。

ちなみに、芙蓉はアオイ科の落葉低木で夏から秋にかけて白い花をつけるものもありますが、新田次郎自身も白い花が好きだったそうで、「白い花が好きだ」というタイトルの随筆を残しています。

日本が誇る名峰・富士はその姿から芙蓉峰と形容されてきており、新田次郎は千代子の生きざまを、まさに芙蓉のごとくであったと思ったに違いありません。

富士山における世界初の冬季観測というのは、確かに無謀な観測であり、失敗に終わっても不思議ではなかったといっても良いと思います。

しかし、それを未完とはいえ80日以上も継続させることに成功したのは、その裏側で支えた千代子夫人のおかげと言っても良いでしょう。彼女の助けがなければ到はどうなっていたのだろうかとついつい考えさせられてしまいます。

無謀な夫の行為に対して、あくまで冷静に判断し、夫の反対を押し切ってまで自らも冬期の富士に上るという、極めて冷静な判断はいったいどこからきたものなのでしょうか。

どこまでも夫である到の目指す目標を達成させるために自分の持てる力を発揮しようとする献身的な姿は人として素晴らしい生き方であり、女性のみならず、多くの人が見習いたいと感じると思います。

しかし、到自身も、自らの目標のためにその能力を伸ばし、努力を積み重ねていったその姿は素晴らしく、自分自身の可能性を信じて努力を持続すること、自分で限界を設けないことの大切さを感じる人も多いに違いありません。

……と書いてきてふと思い出したのが、最近テレビを賑やかしているドラマの「半沢直樹」です。実は私自身はほとんど見ていないのですが、いろんなマスコミ報道でその内容はだいたい把握しているつもりで、このドラマの中でも劇中の夫婦がお互いを信じ合い、ひとつの方向を向いて歩む姿が描かれていると聞いています。

野中夫妻が歩んだような、自らが誓った目的のために生死をかけて挑む、というほど厳しいものでないかもしれませんが、現在の日本のように離婚率の高く殺伐とした結婚砂漠が広がる国では、案外とこうした夫婦愛こそが最も求められており、それがこのドラマのヒットを支えているサブストーリーなのかもしれません。

新田次郎は、芙蓉の人のあとがきにこう書いています。

現在の世に、野中千代子ほどの情熱と気概と勇気と忍耐を持った女性が果たしているだろうか。私は野中千代子を書いていながら明治の女に郷愁を覚え、明治の女をここに再現すべく懸命に書いた。

「野中千代子は明治の女の代表であった」とも。さて、我が妻は、平成の女の代表になれるでしょうか……!?