沈黙の商い

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節分です。

季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊ばらいが宮中行事として執り行われたことに由来します。

その日付けは、今日2月3日ですが、いずれは違う日になるようで、2024年からは2月2日になるといいます。

なぜかといえば、節分は立春の前日と定められているからです。立春は太陽黄経が315度となる日であり、天体の運行に基づいているので年によって異なり、これに伴って節分の日も変わるというわけです。忘れている人も多いでしょうが、節分が現在のように2月3日になる前の1984年までは2月4日がこの日でした。

このように思い込みというのはいろいろあるもので、こうだと深く信じていたことが、時々裏切られる、というのはよくあることです。昨日も西武などに所蔵して活躍した某元有名野球選手が、覚醒剤保持で逮捕されたばかりです。えっ、あの人が、と信じていただけにびっくりした人も多いでしょう。

節分の掛け声も、通常は「鬼は外、福は内」ですが、必ずしもそうでないこともあります。地域や神社によってバリエーションがあり、鬼を祭神または神の使いとしている神社、また方避けの寺社では「鬼は外」ではなく「鬼も内」としています。

家庭内での豆まきに於いても、「鬼」の付く姓、たとえば「鬼塚」、「鬼頭」といった姓を持つご家庭や、鬼が付く地名を持つ地域では「鬼は内」とする家が多いようです。かつて江戸時代には大名九鬼家の領地でも、藩主に敬意を表して「鬼は内」としていました。

九鬼家は紀伊、志摩が根拠地だったので、これは現在では和歌山県にあたります。今年サミットが開かれる予定の志摩地方のご家庭の多くも、今日は「オニは~ウチ」とやるのではないでしょうか。

さらには、節分に撒くのは豆でなくてはならない、というわけでもないようです。そもそも豆を投げるようになったのは、宇多天皇の時代に、鞍馬山の鬼が出て来て都を荒らしたことがきっかけです。祈祷をして鬼の穴を封じ、三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れたという故事伝説が始まりと言われています。

豆撒きとなったのは、五穀の中でも収穫量も多く、鬼を追い払うときにぶつかって立てる音や粒の大きさが適当だったからのようです。また炒り豆を使うのは、撒いた豆から芽が出ては不都合であったためといいます。

節分の行事はそもそも旧年の厄災を豆に背負わせて払い捨てるためのものであり、そのために撒いた豆から「厄の芽」がそこら中に出ては困る、というわけです。

このため、芽が出てしまう大豆の代わりに別のものを投げよう、とした地方があります。北海道・東北・北陸・南九州などの一部地域がそれであり、こうした地方の家庭では大豆でもなくてもいい、というわけで代わりにピーナッツ(落花生)を撒くそうです。

このほかの寺社や地域でも、餅や菓子、みかん等を投げる場合もあるといい、これはさらに、豆撒きのあと、拾い易くて地面に落ちても汚れないという合理性からきているようです。かつては、豆のほかに、米、麦、かちぐり、炭なども使用された地方もあったといいます。

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節分に食べると縁起が良いとされる恵方巻も、大阪を中心に行われていた風習が広まったものであり、全国的なものではありません。

そもそも「恵方巻」という名称はも、1998年(平成10年)にセブン-イレブンが全国発売にあたり、商品名に「丸かぶり寿司 恵方巻」と採用したことにより広まったそうです。

かつて、大阪ではこれを「丸かぶり寿司」と呼んでいました。それをまるごと一本無言で食べるイベントが行われる場合があり、それが昭和初期に「幸運巻寿司」と称して豪華な太巻きを丸かじりするように変わりました。

戦後に一旦廃れましたが、土用の丑の日に鰻を食べる習慣にあやかって、1949年(昭和24年)に大阪のすし商組合が、この戦前に行われていたこの風習を復活させようと画策しました。

が、うまくいかず、1955年(昭和30年)になって、業務用海苔を販売していた「元祖たこ昌」の社長さんが自社で製造していた海苔販売の促進活動の一環として、再び恵方巻を流行らせようと考えました。

このときの名前が「丸かぶり寿司」です。「かぶる」を辞書で引くと「気触る」「被る」のほかに、「齧る」というのがあるようで、標準語では「かじる」と変わっていますが、大阪など畿内では古いこの呼び方が残っていたのでしょう。しかしこのときも大ヒットとまではいかず、そこそこ売れたという程度だったようです。

その後昭和40年代前半にも、この「たこ昌」をはじめとする海苔問屋の協同組合と大阪のすし組合とが連携し、この「丸かぶり寿司」を食べるという行事を大々的に普及させようとしました。このときは、飛行機をチャーターしてビラを撒くなど大々的に宣伝し、これが受けたため、1970年(昭和45年)頃からメディアに取り上げられるようになりました。

4年後の1974年(昭和49年)にはさらにこの大阪海苔店経営者らがオイルショック後の海苔の需要拡大を狙いとして節分のイベントで「巻き寿司早食い競争」を始めました。これもまたマスコミが取り上げられ、これに触発された関西厚焼工業組合も同時期頃に宣伝活動を開始したことなどが契機となり、徐々に知名度が上がっていきました。

さらにこの節分のある2月というのは、正月も終わって一段落した時期なので、商業的に売り上げの落ちる時期なのだそうです。このため、長い不況によって売り上げが落ちていたコンビニエンスストアを中心とし、これにスーパーマーケットなども加わって、この丸かじり寿司を売り出すようになりました。

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「恵方巻」の名を冠したのはセブンイレブンですが、丸かじり寿司そのものの販売はファミリーマートのほうが先だったといいます。1983年(昭和58年)に大阪府と兵庫県のファミマで販売されたものが、コンビニ店としては初めてのものでした。

その後、バレンタインデー・ホワイトデー・オレンジデーの菓子などの贈答と同じく、節分に関連する商業的イベントとして、主に関西の海苔業界やコンビニ業界など関係業界の主導のもと、恵方巻を巧みに利用して販売促進が進められていきました。

節分に関係の深い食材である豆やイワシに比べ、恵方巻は様々なアレンジが可能です。このことから新たな商品開発が行われ、2000年代以降には本来の太巻きだけではなく「海鮮巻き」「ハーフサイズ」など食材・大きさの多種類化が進みました。

発祥の地、大阪では「阪神タイガースバージョン 虎十巻」のような公認グッズまで出現し、また、東武百貨店などの百貨店でも中華・洋風といった複数種類の恵方巻を用意するようになりました。東武では2013年には金箔を圧着させた焼海苔を使った恵方巻が数量限定で発売されましたが、あっという間に売れたそうです。

また、現在では本来の太巻きとは全く関係が無い食べ物にも恵方巻を模した商品が各種展開されており、「丸かぶりロールケーキ」「恵方巻きロール」などの洋菓子が売り出されたほか、江崎グリコは「節分かぶりつきシリーズ」として、鬼の金棒をモチーフにした「ポッキー」を発売しています。

このほか、トルティーヤ、ロールサンド、オムライス、包餅などいろいろな料理にも恵方巻きバージョンがあるといい、今晩はそうしたメニューを自前で作る、というご家庭も多いのではないでしょうか。

さらには一部のコンビニでは、節分が2月だけではなく年に4回あることに着目した別の展開を図ろうとしています。節分というのは、各季節の始まりの日の前日のことであり、立春のほかにも立夏、立秋、立冬があります。このため、「秋の恵方巻」を11月に販売しているコンビニチェーンもあるそうで、このほか8月の「夏の恵方巻」もあります。

しかし、11月の節分は本来「立冬」であり、これを「秋の」とするのはそもそもナンセンスです。同様に8月の節分は「立秋」であり、これを「夏の恵方巻」と呼ぶのは少々苦しいのではないかと、突っ込みたくなります。

これほどまでに商魂たくましいのをみると、なにやら同情までしたくなってしまうほどですが、そこまでやらないと不況が続く現在では商売は立ち行かないのでしょう。先日日銀によりマイナス金利が発表されたばかりですが、一日も早く、景気が回復してほしいものです。

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ところで、この商売の「商」、「あきない」という字にはどういう語源があるのか、と調べてみたところ、これは中国からの輸入用語のようです。

紀元前1600年ごろ中国に栄えた殷王朝は、自らは商王朝と称し、最後の首都が殷であったことから殷王朝とも呼ばれていたそうです。この商王朝が崩壊して、亡国の民が行き場を求めて各地で貿易・流通業に手を染め、糧を得たことから、その仕事を「商」と呼ぶようになったといいます。

その中国で大規模な商業が営まれるようになったのは、唐王朝後期のことであり、中国人は、9世紀初めには茶や絹の遠隔地交易を簡便にする手段としての「飛銭」という送金手形を使い始めました。そしてこの飛銭が更なる商業の発展を促進するとともに後には紙幣へと発展したと言われています。

それに伴って牙行(がこう)と呼ばれる仲介業者による一種のギルドが発達して、中国国内の遠隔地交易に関与するようになっていきました。明の頃にはこの牙行は大規模な施設を構え、倉庫業務・宿泊業務・輸送業務・銀行業務なども手がけるようになります。

こうした業務拡大は牙行本来の仲買業務と深く密接しており、商品を生産地から消費地に運ぶなどの地域間交易に従事する「客商」や、消費地などに店舗を構えて卸売業や小売業に従事する「坐賈(ざこ)」などは、この牙行に商談の世話をして貰っていました。

また、客商や坐賈は、必要があれば実費で長期間宿泊・滞在することができ、牙行に商品を保管して貰うこともできました。牙行もまた有利と見れば自らが彼らから商品を買い付けて卸売としての役目を果たすこともありました。

決済は牙行が出す手形で行われ、送金も為替で処理されるのが普通でした。牙行を開くためには政府が出した「牙帖(がちょう)」と呼ばれる営業許可証を必要としていましたが、実際には無許可の私牙行も少なくはなかったようです。

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時代が下るにつれて穀物、茶、絹、木材、家畜などの商品によって専業化していき、社会的分業をとげていきました。牙行でもっとも有力な存在であったのは、農村から穀物を買い上げるとともに農村で必要とされる都市の手工業製品を販売する「糧貨店」でしたが、これも後には糧店と貨店に分化されるようになります。

糧は、食糧・食物のことですが、古くの読みは「かりて」であり、貨は言うまでもなく、金です。金の借り手と貸し手に分かれていったというわけで、現在の銀行と借り手である商売人の関係、ということになります。

こうして急速に勢力を伸ばすとともに組織化された牙行は、やがて中国国内のみならず対外貿易にも手を出していくようになります。そして日本との交易の合間においてそのシステムはそのまま日本にも伝わり、現代日本の「商売」のルーツとなっていった、というわけです。

この商売というものは、商品と仕入先と販売先のふたつが存在しないと当然成り立ちません。単純そうに見えますが、社会の変化に対応しなければならないものであり、さらに同じ地域もしくは経済圏・文化圏の内部で行われる商売と、異なる地域の間で行われる商売があります。いわゆる貿易といわれるものはその後者になります。

同じ地域内、すなわち日本なら日本国内で行われる取引の場合、相互に使われる言語や貨幣などの交換手段が一致するため問題は少なくなりますが、外国との交易においては互いの言語・交換手段の違う相手間ではコミュニケーションを取ることがしばしば困難です。

現在ではグローバルな標準語として英語があるため商売が円滑に行われることが多いわけですが、その昔は言語にスタンダードはなく、たとえばスペイン語圏で頻度の高い商売が行われるのに対し、一歩その外へ出ると、とたんに商売がしにくくなる、ということが頻繁にありました。

それでも「言語」いうものがあれば、ひとつの国の言葉を別の国のものに翻訳して意志を伝える、ということができます。しかしさらに古い時代になると言語を持たない民族も多く、この場合の商売のための意思疎通はジェスチャーぐらいしかなくなります。

このため、最も古い形式では「沈黙交易」と呼ばれる手段が取られていたと考えられています。一般的には、交易をする双方が接触をせずに交互に品物を置き、双方ともに相手の品物に満足したときに取引が成立した、と考えられています。

交易の行なわれる場は中立地点であるか、中立性を保持するために神聖な場所が選ばれたといい、そうした時代にはまだ通貨といったものも当然ありません。こうした場所に身なりや風習も違う複数の民族が集まり、無言で黙々と物々交換が行われたのでしょう。

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このように、「沈黙交易」というものは言語が異なるもの同士の交易という解釈をされがちですが、現在「ハワイ」と呼ばれているかつての「サンドイッチ諸島」では言葉が通じるにもかかわらず沈黙交易がおこなわれていたといいます。

従って無言で交易をするそもそもの理由は、「沈黙」が目的ではなく、言葉を交わすことによる「接近の忌避」とする解釈もあるようです。つまり、あの部族と取引をしたいが、しゃべり方が卑しく思える、あるいは言葉を交わすことによって、自分たちの神聖なる言葉が汚される、といったこともあったのかもしれません。

日本では古い時代には、「言霊(ことだま)」という概念がありました。これは声に出した言葉が、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられていたためです。良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされました。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意されたといいます。

これは、古代において「言」と「事」が同一の概念だったことによるものです。漢字が導入された当初も言と事は区別せずに用いられており、例えば「事代主神(ことしろぬし)」が「古事記」では「言代主神」と書かれている箇所があるそうです。

従って、ハワイなどにおいても、交易においてそうした大事な言霊をむやみやたらに使わない、あるいは魂を相手に盗まれる、といったふうに考える部族がいたと考えても不思議ではありません。

一方、日本での沈黙交易の最古の記録は、「日本書紀」にみられるそうです。飛鳥時代の将軍、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が。斉明天皇6年(660年)に中国満州の部族、粛慎(しゅくしん)と戦う前に、彼らとこの沈黙交易を行った、と書かれているといいます。

また、明治初期の民族学者、鳥居龍蔵は、かつて北東アジア全般に沈黙交易が存在したと論じており、とくにアイヌ民族は中国との交易において無言交易を行っていたとされます。

新井白石が「蝦夷志」に記録しているアイヌ同士の交易も沈黙交易とされ、道東アイヌは米、塩、酒、綿布など、千島アイヌはラッコの皮などをこの沈黙交易における交換に用いました。アイヌによる沈黙交易は、この他にサハリンアイヌとツングース系民族、アイヌとオホーツク人などとの間にも行われていたらしいことを示す記録もあるようです。

それにしても同じアイヌ同士であって、ある程度はお互いの言葉を理解していたであろうに、なぜ沈黙交易が行われていたのでしょうか。やはり相手と言霊を交わすことを嫌がる「接近の忌避」でしょうか。

実はこれは疱瘡をはじめとする疫病を防ぐために行われていたのではないか、ということが言われているようです。この時代のアイヌ人は、言葉を交わせばこうした病気が移ると思っていたのでしょう。現在でも口で「エンガチョ」と囃したてる子供の遊びがありますが、これは指先や身体で防御の印を結ぶことで不浄なものの感染を防ぐ風習の名残です。

なお、アイヌ伝説に登場する小人・コロポックルの起源もまたこれら千島アイヌと道東アイヌの沈黙交易にあると考えられるそうです。

コロポックルとは、アイヌ語で、「蕗の葉の下の人」という意味の小人ですが、その特徴としては、アイヌ人との物々交換の際、相手との接触を避ける、という風習があるとされ、これが「沈黙交易」から来ているのだといいます。

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一方、高名な民俗学者、柳田國男によれば、こうした沈黙交易はその後も頻繁に日本国内各地で行われていた、としています。大菩薩峠や六十里越などがそうした交易の場所であり、大菩薩峠は甲州山梨にあってこの当時の武蔵国と甲斐国を分ける峰であり、また六十里越は、出羽国の内陸部と庄内の境にある峠です。

おそらくは両者の間の言語には隔たりがあり、互いの言語が通じにくかったのでしょう。無言で取引が行われたと考えても不思議ではありません。最初は相手のしゃべることが意味不明でも話ながら取引をしていたものの、そのうち面倒なのでやめてしまったのかもしれません。

このように古くはよく行われていた沈黙交易も、やがては同じ地域間での取引量が増えると消えていきました。大量の商品をやりとりするのには、やはり言葉を交わす対面交易のほうが便利に決まっています。

さらには、両者間を仲介するための仲買業者や問屋、異なる体系の貨幣を交換(両替)する両替商などが登場するようになり、現在のように日本中だけでなく、世界中でも活発に言葉を交わしながらの商売が行われるようになっているわけです。

それにしても、今日では家から一歩外へ出ると、すべての人が商売人ではないか、と思えるようなときがあります。

今日の節分の日などのようにスーパーに行くと、声高にやれ恵方巻きだの、節分豆だのを買え買えという商売人たちの呼びかけが声高に聞こえてきて少々うんざりします。いっそのこと昔に戻って、商売をするにあたっては沈黙交易しか許さない、といった法律でもできないかな、と夢想したりもします。

モノを買うとき、一言もしゃべってはならないという決まりができた、と想像すると楽しくなります。コンビニで、スーパーで、駅の売店で、みんな黙々とジェスチャーで買い物をする……いかにも静かな国になるに違いありません。

そうすれば、休みになるとうるさく回ってくる廃品回収車の声も聞こえなくなるわけであり、歌舞伎町を歩いていて不用意にポン引きにひっかかることもなくなるに違いありません。オレオレ詐欺も同様であり、「・・・詐欺」では成り立たないので、この規制によって消滅するに違いありません。

モノを買うときも、一言もしゃべらなくなる習慣も身つき、じっくりと、商品の良しあしを見極めることもできるようになるやもしれず、ひいては良品だけがこの世に出回るようになって景気も上向くのかも。

マイナス金利やTPPだけでなく、ときにそうした大胆な景気対策をとるのもいいのかも。阿部さん率いる自民党さん、この夏の選挙の公約に「沈黙の商い」を掲げてみてはどうでしょう。

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