2月になりました。
旧暦2月は如月(きさらぎ)であり、その語源は寒さのために、さらに衣を着ることから「着更着」「衣更着」から転じたという説があります。また「時気(寒気)更に来る」という言葉を略して「気更来」と言うようになったという説もあるようです。
一方、英語のFebruaryの語源は、古代ローマにおいて、毎年2月に執り行われていた慰霊祭の主神、フェブライウス(Februarius)に由来します。これが2月を意味するラテン語フェブルアーリア (Februalia)になりました。
この慰霊祭は、古代ローマの王ヌマ・ポンピリウスが、サビニ戦争の戦死者を慰霊し、戦争の罪を清める為に始めたものだといいます。
ポンピリウスは、王政ローマにおける第2代の王とされる人物です。戦争に次ぐ戦争でローマを拡大した初代王ロムルスとは異なり、43年におよぶ治世中に一度も戦争をせずに内政を充実させたとされています。しかし、紀元前700年ころを生きたとされる人であり、この時代のローマは史料に乏しく、一般的には伝説上の存在だと考えられているようです。
その先代の初代王ロムルスにまで遡った時代はさらに神話の世界の話になるようですが、一般に伝えられているローマ建国までの伝説は、次のようなものです。
現在のトルコ北西部、ダーダネルス海峡以南にはトロイアという国がありました。ここに住むトロイア人は、ギリシャのペロポネソス半島を拠点として勢力を伸ばしてきたアカイア人との戦いに敗れ、ギリシャの島々やカルタゴを転々とした後、イタリア半島のラティウムに上陸しました。
ラティウムはイタリア中央西部地方を指し、ここに町が建設されました。後年巨大な帝国の首都に発展していくことになる街です。また、トロイア人たちを迫害したこのアカイア人はいわゆる古代ギリシャを創ったとされるギリシャ人のルーツです。
敗走したトロイア人たちの長はアイネイアースといい、ギリシア神話およびローマ神話では半神の英雄として描かれる人物です。従ってこのあたりの話はもう夢の世界の話と思ったほうがいいかもしれません。
とまれ、アイネイアースは、逃亡先のラティウムの地で現地の王の娘を妻として与えられ、国を大きくします。彼の死後は息子のアスカニオスが王位を継ぎました。さらに時代が下り、あるときの王の息子をアムリウスといいました。アムリウスにはヌミトルという兄がいましたが、この兄から王位を奪うことを企みます。
こうして父王の死後、ヌミトルは本来継ぐはずであった王位を弟アムリウスに簒奪され、さらに子孫による王位の奪還を防ぐためアムリウスによって息子も殺害されました。また、もう一人の娘レア・シルウィアは火床をつかさどる女神ウェスタに仕える巫女となりました。
この巫女は、「ウェスタの巫女」と呼ばれ、処女であることが義務付けられていました。が、ある日シルウィアが眠ったすきに、ローマ神マールスが降りてきて彼女と交わりました。そしてシルウィアは双子を産み落とします。
これを知った叔父のアムリウスは怒り、この双子を川に流しました。その後双子は狼に助けられ、続いて羊飼いに育てられ、ロームルスとレムスと名づけられました。成長し出生の秘密を知った兄弟は協力して大叔父を討ち、追放されていた祖父ヌミトル王の復位に協力します。
兄弟は自らが育った丘に戻り、新たな都市を築こうとしますが、このときも兄弟の間でいさかいが起こり、レムスは殺されます。そしてこの最後まで生き残ったロームルスこそが、伝説上の王政ローマ建国の初代王ということになります。
やがてロームルスはこの丘、パラティヌス築かれた町を大きくし、都市レベルに育てあげていきます。これがすなわちローマです。こののちローマは領域を拡大させ、七つの丘を都市領域とする巨大な国家へと成長していくことになります。
ローマ建国伝説によると、ロームルスの即位は紀元前753年4月21日のことであり、パラティヌスの丘はティベリス川(テヴェレ川)の畔にあったとされます。ティベリス川は、現在もイタリア中部を南北に流れ、地中海に注ぐ川です。
しかし、この出来立ての古代ローマの人口は数千人にすぎず、また当時のローマは丘2つを巡る防塞を設けただけの小村でした。建国当時はロームルスの手腕もあり、平和な国でした。しかし、やがて隣の部族と争いが起きます。あるとき、ローマ人たちは隣のサビニ人の丘の村娘たちを祭りに招待したとき、彼女たちを捕まえてそのまま帰しませんでした
実は、ローマがロームルスによって建国されたばかりのころ、最初の世代は女性が非常に限られていました。子孫を残し国を維持するためには多数の未婚女性が必要であり、このためローマ人はそれを近隣国に多く住み勇敢な部族であったサビニ人に求めました。しかし、交渉は不首尾に終わりました。
このサビニ人とは、ローマの北東にあるティベリス川一帯に住んでいた古代の部族です。城壁のない村々に住んでいて、敵からの侵略を受ければすぐに跳ね返すことを信条としていました。好戦的でプライドが高く、恐れることを知らない民族でした。
サビニ人は自らの起源を、古代ギリシア時代のペロポネソス半島南部にあった都市国家(ポリス)スパルティからの移民、スパルタであるとしていました。このスパルタは他のギリシャ諸都市とは異なる軍事制度を有しており、特に軍事的教育制度は「スパルタ教育」として知られています。サビニ人はその勇猛なスパルタの子孫とされるわけです。
こうした好戦的なサビニ人たちにローマ人たちはあるとき、楽しい祭りがあるから遊びに来いよ、と誘いをかけました。戦いに明け暮れる彼らは、これは良い息抜きになるぞと、この誘いに乗じ、大勢の若い未婚女性を伴ってティベリスにやってきました。そしてローマ人たちはサビニの男たちが油断している隙に女たちだけを監禁しました。
こうして不法にローマに拉致されたサビニ人女性たちはローマ人の妻になることを強要され、ローマ人の子を産むこととなりました。そして、ローマは自国を維持発展させるための次世代を得ることに成功しました。
ところが、大勢の若い女性を奪われたサビニ族も黙ってはいませんでした。好戦的で恐れを知らない彼らは、姦計にはめられたとわかると報復は当然だと考えました。
しかし、奪われた女性たちは事実上の人質として縛られているわけです。囚われの身となった女性たちの身の上を恐れたため、とりあえず鉾を治め、ローマに対して女性たちの身柄の解放と謝罪を求める使者を派遣することにします。しかし要求は拒否されただけでなく、やがて女性たちが貞操を奪われたという報が入ってきます。
当然、戦となりました。娘をローマ人に誘拐婚させられ、家庭や生活を崩壊させられた親族たちは、ローマと刃を交え、4度もの激しい戦争が起こりました。しかし、最後の戦いでサビニ人たちは追い詰められ、絶対絶命の危機が訪れました。このとき、立ち上がったのが実は略奪された娘たちでした。
彼女らはこのころまでには、捕虜とはいえ既に敵の男たちの妻でした。子供が生まれた者もおり、妻として母としての扱いを受けるようになっており、決して虐げられていたというわけでもありませんでした。
このため、両者に対して争いをやめて欲しいと懇願するに至ります。このときのサビニ人の王はタティウスといいました。タティウスはこの女性たちよる和平の希望を承諾し、ローマ人たちと和睦をすることにします。これにロームルスも応え、彼のすすめによってサビニ人たちは部族をあげてローマに移住することになりました。
こうしてローマはサビニ人を併合するわけでもなく、平和裏に二つの国は一つになりました。サビニ人の自由民にはローマ人同様の市民権が与えられ、タティウス王はロームルスと共同して統治にあたるようになります。やがてローマはさらに周辺諸国に勢力を伸ばし、領土の拡張を続けるようになっていきます。
タティウス王はこののちすぐに別の民族との戦いで戦死し、その後のローマの指揮はロームルスがとるようになりました。しかし紀元前715年のある日、ロームルス王が閲兵中、突然、目の前も見えないほどの雷雨が襲ってきました。
雨と雷が去ったのち、兵たちが玉座を見ると、王の姿はどこにもありませんでした。八方探しても見つからず、このとき王は死んだとされます。しかし、実際には天に上り、神々の一人に加えられたといわれます。
こうして次の王が選ばれることになりましたが、地上界ではロームルスは事故死ではなく親族の誰かが暗殺したという噂が飛び交うようになりました。そして、誰が王に当選しても疑惑を生みそうな状況となりました。王には息子がいたにもかかわらず、ローマ市民は彼を王にしようとは言い出しませんでした。
このため、何の利害関係もない市外の人物から王を選ぶことになりました。そして市民が選んだのが賢者として知られるサビニ人のヌマ・ポンピリウスでした。ローマに住んでさえもいなかったヌマはこれを固辞しましたが、元老院の長老たちから何度も頼まれるとそれ以上は断れませんでした。
このヌマは温和な人格者だったとされます。このため、彼が統治した時代のローマには戦争は起こらなかったといわれています。また、上述のように先代のロームルスが起こした数々の戦争で亡くなった多くの人々の慰霊祭を開き、その霊を慰めました。
さらに国内の改革断行し、ローマ暦を改めたのもヌマです。農業を推奨し、その他、職業別の組合を作りました。また、宗教改革を行い、神官を決めましたが、これがのちの世に伝えられあるローマ神話の骨格となりました。
ローマ神話における主な神の名が決まったのはこのヌマの時代です。そしてそれらの神々の命名においては、ヌマの祖先サビニ人の信仰が参考にされたといわれています。
しかしやがてそのヌマも生涯を終えます。その死は、彼の治世と同じようにおだやかなものであったといわれます。その後もローマ帝国は繁栄を続け、歴代の王が変わるたびにその領土を増やしていきました。イタリア半島に誕生した小さな都市国家は、その後およそ250年の間に地中海全域に勢力を及ぼす一大領域国家へと発展していきました。
ところが、その帝政ローマ帝国もいよいよ最後の時を迎えます。紀元前500年ごろ、第7代の、そして最後の王はタルクィニウス・スペルブスという人物でした。のちに「傲慢王(スペルブス)」と呼ばれるこの新王は前王の葬儀を禁じ、先王派の議員を全員殺しました。
即位にあたっては、市民集会の選出も、元老院の承認もなかったといい、その後の政治も元老院や市民集会にはかることなく自分で決めたため、当然、市民の評判はよくありませんでした。しかしこの王は策略と戦争は得意で、ローマはさらに領土を広げました。やがて王は、ローマよりずっと強大だったエトルリアとの同盟を結びます。
エトルリアは、紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家群です。紀元前4世紀ごろからローマの勢力が強くなると、周縁の都市から順に少しずつローマに併合され、最終的には完全にローマに同化しました。
これでローマの近くには強国がなくなったわけですが、結果としてエトルリア人がローマ中を闊歩するようになり、ローマはエトルリアの属国に成り果てたと考える市民も多くなりました。それもそのはずで、第5代からすべての王がエトルリア出身だったのです。
やがて市民の怒りが爆発する日が来ます。あるとき、王の息子セクトゥスが、親類の妻ルクレーティアに横恋慕し、寝室に忍び込んで彼女をわがものにしました。ルクレーティアは親類・友人とともにかけつけた夫の前ですべてを告白し、男たちが復讐を誓うのを見届けると短剣で自らの命を絶ちました。
夫の友人でこの現場を目撃したルキウス・ユニウス・ブルトゥスは、王一族は追放すべきだと演説を行い、市民はそれに従いました。戦の途中だった王タルクィニウスは事態の急変を知り、急ぎローマに戻りますが、門はすべて閉じられた後でした。仕方なく王は従う兵だけを連れ、エトルリアに去っていっきました。
王の3人の息子のうち2人は王とともに去りましたが、事件の発端となったセクトゥスは別に逃げ、のちに違う事件がもとで殺害されました。しかし、王妃トゥーリアは別に逃げて無事でした。
こうしてタルクィニウスの追放によってついに王政ローマは終わりを告げました。紀元前509年のことです。王政への反省からこの年からは共和政がとられるようになり、2名の執政官が政治を司ることになります。共和政ローマの始まりです。最初の執政官には、演説を行ったブルトゥスと、自殺したルクレーティアの夫コラティヌスが選出されました。
コラティヌスらによって築かれた共和政ローマ帝国は、この紀元前509年の王政打倒から、その後紀元前27年に再び帝政が敷かれるようになるまで500年以上にわたって続くことになります。
以後、共和政ローマ帝国は、最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とするようになります。これらの地域はシルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦(だいしん)の名で登場します。
この共和政時代のローマにおいては、当時政治を独占していたパトリキ(貴族)に対して、自分たちの政治参加を要求するに至りました。いわゆる「身分闘争」の開始であり、貴族は徐々に平民に譲歩し、平民の権利が擁護されるようになりました。
王を追放して得られたこの自由により、ローマ人の間には「王を置かない国家ローマ」の心情が刷り込まれるようになり、他国の、特に東方の専制君主に対して強い拒絶反応を示すようになっていきました。
一方このころ、イタリアの東方にあるギリシャではアテナイ、コリントス、テーバイなどの多数のポリス(都市国家)が並び立っていました。言語・文化・宗教などを通じた緩やかな集合体した。ところが、政治的に独立していた各ポリス間では戦争が絶え間なく繰り返されました。
紀元前5世紀にペルシア帝国が地中海世界に進出してくると、各ポリスは同盟を結びました。そしてギリシャ人はアレクサンドロス3世(大王)の東方遠征に従軍して長年の宿敵ペルシア帝国を滅亡させるに至ります。
しかし、大王の死後、ギリシャ北部に勃興したマケドニアを支配したアンティゴノス朝が台頭。マケドニア王国ができ、はじめてギリシャは他国に征服されました。これに対して、ギリシャ人たちは共和政ローマと手を結びました。そして、マケドニアを滅ぼしますが、マケドニアの没落後は逆にローマと対決するようになります。
そして紀元前146年にローマ軍に大敗して、ギリシャはローマの属国になります。ローマから派遣された総督は著しい収奪を行ったため、地域の多くで数十年後には人口は十分の一に減少するような事態が起こりました。またギリシャの富の多くはローマへ流れました。
こうしてギリシャをベースに肥え太ったローマの少数の有力者のうち、とくに政治家の収入と財産が、国家財政に勝る重要性を持つようになります。そしてローマの公共事業は有力政治家の私費に依存することになりました。一方では彼らと癒着した軍部の中から軍閥が登場し、その中でも突出したのが、ポンペイウス、カエサル、クラッススの3人です。
やがて3人は「三頭政治」を結成し、ローマでは軍事政権が成立するようになります。しかし、クラッススの死後、残る2人の間で内戦が起き、最後にカエサルが生き残りました。こうしてカエサルは紀元前45年に終身独裁官となりましたが、王になる野心を疑われて、紀元前44年3月15日に共和主義者によって暗殺されました。
カエサルの死後は、共和政は急速に衰えを見せ、カエサルの遺言状で相続人に指名されたオクタウィアヌスの独裁制の様をみせるようになっていきます。オクタウィアヌスは度重なる内戦で政敵を破り、紀元前27年に「尊厳者(アウグストゥス)」、「第一の市民(プリンケプス)」の称号を得ました。いわゆる「皇帝」です。
こうしてアウグストゥスこと、オクタウィアヌスの皇帝就任によってローマでは事実上の帝政が再び始まりました。この王朝はユリウス・クラウディウス朝と呼ばれ、その帝政はその後ユリウス・クラウディウス家の世襲で続いていくことになります。
その後世襲の弊害により、カリグラやネロといった無軌道な皇帝が登場することもありましたが、その都度内乱が起こり、彼らは粛清されるという歴史が繰り返されていきます。
帝政末期のころまでには不自然な形での皇帝の交代が頻発するようになりますが、この時期にもローマは周辺勢力に比して格段に高い軍事力を保持し続けており、むしろ帝国の拡大はこの時期にも続いていきました。西暦43年にはこのときのクラウディウス帝によってグレートブリテン島(現イギリス本土)の南部が占領されているほどです。
とくに紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎えました。この5人の皇帝を五賢帝といいます。
アウグストゥスに始まるローマにおけるこの2度目の帝政の時代は長く、400年にわたって続きました。しかし、こうしたいわゆる「元首政」の欠点は、元首を選出するための明確な基準が存在しない事です。
そのため、地方の有力者の不服従が目立つようになり行政が弛緩し始めると相対的に軍隊が強権を持つようになります。このため反乱が増加し皇帝の進退をも左右するようになり、帝政最末期には約50年間に26人が皇帝位に就きました。
こうした混乱の中、395年、テオドシウス1世は死に際して帝国を東西に分け、長男アルカディウスに東を、次男ホノリウスに西を与えて分治させました。いわゆる西ローマ帝国と東ローマ帝国への分裂です。
何人もの皇帝がかつてそうしたのと同様に、当初はあくまでも1つの帝国を分割統治するつもりでしたが、これ以後帝国の東西領域は再統一されることはありませんでした。なお、こうして395年にローマ帝国が東西に分裂したのちは、ギリシャ地域は東ローマ帝国に属するようになりました。
「西ローマ帝国」においては、皇帝の所在地としての首都はローマからミラノ、後にラヴェンナに移っていきました。しかしその後、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に耐え切れず、イタリア半島の維持さえおぼつかなくなった末、西ローマ帝国皇帝は476年にゲルマン人によって皇位を追われ、滅亡しました。
ここに「神聖ローマ帝国」と呼ばれる新たな帝権が誕生し、1512年以降1806年まで継続しました。この国の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」であり、範囲は今とかなり違いますが、これが事実上現在のドイツの大元の国家になります。
一方、東ローマ帝国は、395年以降、首都をコンスタンティノポリスとし、15世紀まで続きました。が、1453年4月、オスマン帝国の軍がコンスタンティノポリスを攻撃。2ヶ月にも及ぶ包囲戦の末、5月29日城壁が突破されコンスタンティノポリスは陥落しました。最後の皇帝コンスタンティノス11世は戦死し、ここに東ローマ帝国も滅亡しました。
15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都としました。オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになります。
17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及びますが、こちらが現在のトルコ共和国の前身、ということになります。こちらも現在のトルコとは比べものにならないほど広範囲ですが。
さて、以上、Februaryの語源をひも解いていたら、なんと、紀元前700年前から17世紀までの2300年にわたるローマの歴史を駆け足でのぞくことになってしまいました。が、無論、こんなブログ一本で片づけられるほど歴史とは単純なものではありません。
また、日本の歴史すら理解していないのに、他国の歴史など勝手にまとめていいのか、といわれてしまいそうですが、何かにつけ、おおまかに知識を持っているのは大事なことだと、開き直ろうかと思う次第。
今年もこんな感じでまたブログを書いていくことになるのかもしれませんが、そんなお話にいつも付き合っていただき、ありがとうございます。
さて、2月です。今年もあと11ヵ月を切りました。再び一年が風のように過ぎていきそうですが、そこはそれ。風を切って逆風の中に飛び出していくことにしましょう。