輪が三つ

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しばらくぶりです。

実はこの半月ほど、入院していました。

その詳細はまた別の機会に改めて書くとして、今日は先日、そうめんについて書いたので、その続編を。

この「素麺」の起源ですが、古代中国の後漢の「釈名(後漢末の劉熙が著した辞典)」や唐の文献に度々出てくる「索餅(さくべい)」とする説が有力です。

日本では天武天皇の孫、長屋王邸宅跡(奈良市)から出土した木簡が最も古い「索餅」の記録となっています。奈良時代には索餅は米の端境期を乗り越える夏の保存食であり、「正倉院文書」にも平城京での索餅の取引きの記録が残っているそうです。

原形はもち米と小麦粉を細長く練り2本を索状によりあわせて油で揚げたもの、とされており、現在も中国で食される「油条(ヤウティウ)」に似たものだったのではなかったか、という説があります。

油条は、油で揚げたパンで、食塩、重炭酸アンモニウムを水で混ぜたものに小麦粉(薄力粉)を少しずつ加えながらこねて生地を作ります。中国や香港、台湾などでの朝食に、豆腐脳、粥や豆乳の添え物としてよく食べられますが、横浜の中華街などで食べたことがある人も多いでしょう。

奈良時代に日本へ唐から伝来したのが、この油条そのものだったのかどうかはわかりませんが、いずれにせよ唐菓子の1つではないかといわれています。一般に唐菓子といえば、米粉や小麦粉などの粉類に甘葛(あまずら)の汁など甘味料を加えてこね、果物の形を造った後、最後に油で揚げた製菓をさしますから、油状にも似ています。

日本では、神社や神棚に供える供物のことを「神饌(しんせん」といいますが、これが日本に当初伝わった当時の「索餅」に近いのではないか、といわれています。この神饌が、一般生活に浸透し、別の形に変わったものが、「鏡餅」です。

ただ、当初中国から入ってきて、日本風に変化していった索餅の材料・分量、作るための道具についてはあまり詳しいことはわかっていません。

日本では、まず奈良時代に上の索餅が輸入されました。

その原型については諸説あるようですが、小麦粉と米粉を水で練り、塩を加え縄状にした食品だったらしく、このため、索餅は、「麦縄」とも書くことがあります。乾燥させて保存し、茹でて醤・未醤・酢付けて食べたとみられており、他にごま油を和えたり、ゆでアズキに付けて食べたとみられています。

平安時代中期の「延喜式」にも一部その製法についての記述があります。こちらにも、小麦粉と米粉に塩を加えて作る、といった記述がありますが、形状については言及がなく、そもそも麺だったのかどうかもわかりません。一説によれば、現在の素麺やうどんよりもかなり太く、ちぎって食べたのではないか、ともいわれています。

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ところが、本場の中国では日本よりもはるかに早く、「麺」として成立していたそうです。日本の平安時代とほぼ時期を同じくする、北宋時代(960~1127年)の書物に既に「索麺」の表記が出てきます。「居家必要事類全集」という百科全書に出ている索麺の作り方には「表面に油を塗りながら延ばしていくことで、最後に棒に掛けてさらに細くする」といった近年の手延素麺の製法と酷似した特徴が書いてあります。

この製法がなぜそのまま日本に上陸しなかったのかはよくわかりませんが、現在のそうめんにかなり近いものは、鎌倉時代には既に作られていたようです。後追いで古代中国の「策麺」の製造方法が伝わり、既に輸入済みだった「索餅」の製法のひとつとして発展したのではないでしょうか。

そして、室町時代になると「索麺」や「素麺」の文字が使われるようになりました。 このころからそうめんは、寺院の間食(点心)として広がり、この時代に現在のそうめんの形、作り方、料理方法がほとんど形成されたと考えられています。

文献にもよく登場するようになりますが、主な舞台は寺院や宮中の宴会などで、まだ庶民が気軽に食べられるものではなかったようです。奈良期以降、この時代までに「索餅」「索麺」「素麺」の名称が混じって用いられていましたが、やがて「素麺」として統一して呼ばれるようになっていきました。

室町時代には、茄でて洗ってから、再度蒸して温める、という食べ方が主流だったことがわかっており、その調理法から、「蒸麦」や「熱蒸」とも呼ばれていたようです。

この時代の文献に、「梶の葉に盛った索麺は七夕の風流」という文章も残されており、七夕ごろの夏の風物詩であったことがわかります。この時代の宮廷の女房言葉(朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女性使用人が使うことば)では、素麺を「おぞろ」と呼び、七夕の行事に饗せられていました。

その後、戦国時代までには、そうめんが庶民の口にも入るようにもなっていたようです。安土桃山時代に豊臣秀吉が、本拠地として姫路城に居城することとなり、入城したときには、「播州名産の煮麺の饗応を受けた」と伝えられています。

江戸時代に入ると、素麺作りはさらに栄え、庶民の間で素麺が食べられるようになり、元禄の頃には、現在のような醤油ベースのつゆが誕生しました。七夕にそうめんを供え物とする習俗が広まり、これは、細く長いそうめんを糸に見立てて裁縫の上達を祈願したものです。

素麺作りが急激に発展したのには、飢饉の影響もあるといわれています。米は雨が降らないと作れませんが、小麦は多少の水不足でも育ちます。さらに、乾麵である素麺は数年日持ちがするため飢饉食として使えます。このため、幕府もその製造を推奨していました。

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先日のブログでも触れましたが、現在、「日本三大そうめん」といわれているのは、①三輪素麺(奈良県)、②播州素麺(兵庫県)、③小豆島(香川県)です。このうち、三輪素麺は、最も「素麺つくり」の歴史が長く、全国に分布する素麺産地の源流でもあり、全国的にも有名な、奈良の特産品です。

この地で、中国から入ってきた索餅が派生変化した、との説があり、奈良時代の遣唐使により、小麦栽培・製粉技術、製麺方法が伝えられたとされています。

ただ、上で述べたとおり、鎌倉時代以前では、まだ現在と同じような麺の形の完成形はなかったというのが通説です。この地方だけに、素麺の製法が中国から伝来した、という話には、何やらうさんくさい臭いがします。おそらくは、これを売らんがするために作られた創作話でしょう。

とはいえ、それだけ他に比べれば長い歴史を持っており、それなりのこだわりを持って長年の生産が続けられてきました。そのこだわりのひとつの表れが、三輪産のそうめん製品に取りつけられている「鳥居のマーク」です。

この鳥居のマークこそが、大和三輪においてそうめんが発祥したとされる、「大神神社(おおみわじんじゃ)」の鳥居です。大神神社は、奈良県桜井市三輪にある神社で、別称を「三輪明神」・「三輪神社」ともいい、祭神は大物主(おおものぬし)、または大物主大神(おおものぬしのおおかみ)です。

その拝殿は、国指定の重要文化財になっており、日本でも古い神社の一つです。皇室の尊厳も篤く、進んで外戚を結んだ、といわれていることから神聖な信仰の場であったと考えられます。

伝説によれば、紀元前91年(崇神天皇7年)、五代目の「大物主」の孫(または子)である、「大田子根子命(おおたたねこのみこと)」が大神神社の大神主に任ぜられたことに、その起源があるとされます。

さらに、奈良時代の宝亀年間(770~781年)のころ、その十二世の孫である「大神朝臣(おおみわのあそん)・狭井久佐(さいくさ)」の次男、穀主(たねぬし)なる人物が、本殿に飢饉と疫病に苦しむ民の救済を祈願しました。そうしたところ、三輪の地で小麦をつくるようにと神からの啓示を賜ったといいます。

穀主は常日頃から農事をもっぱらにして、穀物の栽培にこころをくだいていましたが、三輪の地に適した小麦の栽培を行い、小麦と三輪山の清流で素麺作りを始めたとされます。ちなみに、「朝臣」とは、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたるため、狭井穀主は、かなり位の高い人物であったと推定されます。

この縁で、大神神社の祭神、「大物主」は素麺作りの守護神とされ、毎年2月5日には、その年の三輪の生産者と卸業者の初取引の際、卸値の参考価格を神前で占う「卜定祭」が営まれるようになりました。また、大物主は、別名、三輪明神とも呼ばれるようになりました。

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この大物主は、蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として、現在でも篤い信仰を集めています。

また国の守護神である一方で、祟りをなす強力な神ともされます。ネズミを捕食する蛇は太古の昔より五穀豊穣の象徴とされてきており、このことから、最も古き神々の一柱とも考えられます。古事記によれば、日本の初代天皇とされる神武天皇の岳父(義親)、綏靖天皇(すいぜいてんのう)の外祖父にあたる、とされているようです。

国造りの神であり、神様の中の神様、大国主(おおくにぬし)の分霊でもあるといわれるため、大国主と同じく大黒様(大黒天)として祀られることも多いようです。

大物主にまつわる神話は数多くあります。

そのひとつ、古事記・神武紀に書かれているものによれば、古代の三島地方(現 大阪府茨木市 及び 高槻市) を統率していた豪族 の三島溝咋(ミシマノミゾクヒ)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)が美人であるという噂を耳にした大物主は、彼女に一目惚れしました。

大物主は玉櫛媛に何とか声をかけようと、赤い矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、その娘の富登(ほと)をつき刺しました。

ほと、とは「陰所」のことであり、姫は驚いて「イススキ」と叫びながら走り去ったといいます。イススキとは、「狼狽」の意味の古語ですから、ここでは「ぎゃあ゛~」といったかんじでしょうか。

彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると、ポンッと大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれました。こうして生れた子が富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメ)であり、後に「ホト」を嫌い比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と名を変え、神武天皇の后となったといいます。初代皇后ということになります。

大物主に関しては、またこんな神話もあります。

第7代孝霊天皇皇女、倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)= 百襲姫(もそひめのみこと)は、奈良県桜井市に今も残る、箸墓古墳((はしはかこふん)に葬られている実在したとされる人物です。

大物主神の妻となりましたが、大物主神は夜にしかやって来ず、昼に姿は見せなかったといいます。そこで、夜ごと訪ねてくるこの夫に、「ぜひ顔をみたい」と頼みますが、大物主神は、これを拒否しました。しかし、何度も頼まれるうちに断りきれず、「絶対に驚いてはいけない」という条件つきで、朝になってから小物入れをのぞくように、と妻に言いました。

朝になって百襲姫が小物入れをのぞくと、なんとそこには小さな黒蛇の姿がありました。驚いた百襲姫が、悲鳴を上げたため、大物主神はこれを恥じて御諸山(三輪山・後述)に登ってしまいました。

百襲姫がこれを後悔し、がっくりと腰を落とした瞬間、そこに立ててあった箸が陰部(ほと)を突いたため、百襲姫は死んでしまいました。こうして、大市(現在の奈良県桜井市箸中)に墓が創られ、葬られました。以後、人々はこの墓を「箸墓」と呼びました。

この墓の造営にあたっては、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝えられており、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたといいます。

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さらに、大物主にはこんな伝説もあります。

海神である、綿津見大神(ワダツミノオオカミ)には、活玉依比売(イクタマヨリビメ)、通称、玉依姫(タマヨリビメ)という娘がいました。「タマヨリ」という神名は「神霊の依り代」を意味し、タマヨリビメは神霊の依り代となる女、すなわち巫女を指します。

ある日、玉依姫の前に突然立派な男が現われて、二人は結婚しました。しかも彼女はそれからすぐに身篭ってしまいます。不審に思った父母が問いつめたところ、姫は名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを両親に告白しました。

父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えました。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると近くの山の社まで続いていました。糸巻きには糸が3回りだけ残っていたので、以後、その山を「三輪山」と呼ぶようになったといいます。

この山こそが、三輪山(みわやま)です。上述の、大神神社の東方にそびえる標高467.1m、周囲16kmの山で、位置的には、奈良県北部奈良盆地の南東部になります。三諸山(みもろやま)とも呼ばれ、なだらかな円錐形の山です。

「古事記」によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神(スクナビコナ)が常世の国(死後の世界)へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国にある、この三輪山に自分を祭るよう進言しました。

この神様こそが大物主であり、「日本書紀」の一書では大国主神の別名としています。大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主として祀った、とあります。

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古墳時代に入ると、山麓地帯には次々と大きな古墳が築造されました。この一帯を中心にして強力な政治的勢力が発展したと考えられており、これこそがヤマト政権の初期政権(王朝)である、という説が有力です。

200~300mの大きな古墳が並び、そのうちには第10代の崇神天皇(行灯山古墳)、第12代の景行天皇(渋谷向山古墳)の陵があるとされます。また、上で述べた、百襲姫の陵墓、箸墓古墳(はしはかこふん)は、この山の西に位置する大神神社から北北西へ約1.5kmの位置にあり、実は、近年の調査から、「魏志」倭人伝に現れる邪馬台国の女王、かの有名な「卑弥呼」の墓ではないかと取り沙汰されています。

つまり、上の百襲姫こそが卑弥呼、ということになります。この三輪山を中心とした一帯は大物主に関わりのあるこうした神様の「居住団地」といってもよく、三輪山は古くから「神宿る山」とされ、山そのものが御神体であると考えられてきました。

このことから、神官や僧侶以外は足を踏み入れることのできない、禁足の山とされていますが、飛鳥時代には山内に大三輪寺が建てられ、平安時代には空海によって遍照院が建てられました。

鎌倉時代に入ってからは神仏両部思想(日本土着の神道と仏教信仰をひとつ信仰体系として再構成(習合)する思想)を確立したことで知られる僧侶、慶円(けいえん)が三輪氏の氏神であった三輪神社を拡大し、本地垂迹説によって三輪明神と改め、別当寺三輪山「平等寺」を建立しました。

本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れたもの、とする考えです。

中世以降は長らく神仏習合の影響が色濃く、神宮寺も数多く建立され、徳川将軍家などに「三輪明神」として篤く信仰されました。

三輪山そのものが、大神神社の御神体として正式に記録されたのは、1871年(明治4年)に神社が奈良県にあてた口上書に、神山とは「三輪山を指す」と使ったのが初めてです

江戸時代には徳川幕府より厳しい政令が設けられ、平等寺の許可がないと入山できませんでしたが、明治以降はこの伝統に基づき、「入山者の心得」なるものが定められ、現在においてはこの規則を遵守すれば誰でも入山できるようになりました。

三輪山の祭祀遺跡としては、下方から辺津磐座(へついわくら)、半ほどの中津磐座(なかついわくら)、頂上付近の奥津磐座(おきついわくら)、山ノ神(やまのかみ)岩陰祭祀遺跡、大神神社・拝殿裏の禁足地遺跡、狭井神社西方の新境内地遺跡などがあります。

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これらは、いわゆる「巨石群」であり、「磐座(いわくら)」とは、天然現象である岩石・巨石、またはその集群を神座と考え、神を招き奉ってはじめて祭祀を行ない、崇拝をしたものです。

けっして驚くほど大きいものばかりではなく、中には一個のみで威厳を備えているもの、巨石群、重なり合っているものなど、いろいろです。そしてこれらの磐座も自然のものと、人工的な仕組みのものとがあり、人間の生活が山麓から低地へ移っていく過程で、平野部で造られるものほど、人為が入っているものが多くなるといいます。

頂上には高宮神社が祀られていますが、この神社は、古代には、太陽祭祀に深く関わっていた神坐日向神社(みわにますひむかいじんじゃ)であったと推測されています。同名の神社が、麓の大神神社の南にあり、古い時代に山頂からここに移されたものと考えられます。

頂上付近はかなり広い平地です。この神社の東方に東西約30m、南北10mの広場に高さ約2mの岩がたくさんあります。これが奥津磐座です。

現在、この山中で見学できるのはこの磐座だけです。奥津磐座や、中津磐座には巨石群の周囲を広く環状に石を据えた形跡があり、「日本書紀」巻二の天孫降臨に際しての高皇産霊尊の勅に「天津神籬および天津磐境を起こしたて」とある磐境にあてる、といった考証もあるようです。

山ノ神遺跡に関しては大正7年に偶然発見されたものです。古墳時代中期以降の岩陰祭祀遺跡で、発見当初は古墳と思われました。磐座とされる石と5個の石がこれを取り囲むような状態で見つかり、さらにその下には割石を敷きつめて地固めがされていました。

調査に入るまでの3ヶ月の間に盗掘を受けてしまったとされますが、残った遺物には、おびただしい数の宝物が残されていました。

小形の素文鏡3、碧玉製勾玉5、水晶製勾玉1、滑石製模造品の子持勾玉1、勾玉約100、管玉約100、数百個の有孔円板と剣形製品、無数の臼玉、高坏、盤、坏、臼、杵、杓、匙、箕、案、鏡の形を模した土製模造品、それに剣形鉄製品と考えられる鉄片などなどであり、本来はさらにおびただしい量の遺物が埋納されていたことが知られています。

その遺物を見ると、鏡・玉・剣のセット、いわゆる三種の神器の形式をとっているものが多いほか、三輪山の神が農耕神としての一面を持つ宝物が多いようです。臼、杵、杓、匙、箕といったものがそれらです。

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入山する際は、後述の規則(掟)を遵守する必要があります。入山せずに参拝する際には、大神神社の拝殿から直接、神体である三輪山を仰ぎ拝むといった手法を採ります。したがって、大神神社には本殿がなく、そこには自然そのものを崇拝する古神道が息づいています。

さらに登山を希望する場合は、大神神社から北北東250m辺りに位置する境内の摂社・狭井神社の社務所で許可を得なければいけません。そこで氏名・住所・電話番号を記入し300円を納めます。そして参拝証の白いたすきを受け取り御祓いを済ませます。道中このたすきを外すことは禁止されています。

行程は上り下り約4kmで、通例2時間ほどで登下山できますが、3時間以内に登下山しなければならないという規則が定められています。また山中では、飲食、喫煙、写真撮影の一切が禁止され(水分補給のためのミネラルウォーターやスポーツドリンクの飲用は可能)、下山以降も山中での情報を他人に話すことを慎むのがマナーでもあります。

午後4時までに下山しないといけないため、午後2時以降は入山が許可されない場合があります。雷雨などの荒天の際は入山禁止となることもありますが、禁止とならない場合であっても万一の事故に備えて電話番号の記入が求められます。また、大神神社で祭祀が行われる日は入山ができません。

原則として、数多く散在する巨石遺構や祭祀遺跡に対しても許可なく撮影はできません。さらに、山内の一木一葉に至るまで神宿るものとし、それに斧を入れることは許されておらず、山は松、檜などのほか、杉の大樹に覆われています。

日本酒の造り酒屋ではこの杉を使い、風習として「杉玉」を軒先に吊るすことがあります。これは一つには、酒造りの神でもある大物主の神力が古来スギに宿るとされていたためといわれます。

スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれます。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たします。「搾りを始めました」という意味です。

吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としていますが、やがて枯れて茶色がかってきます。この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を物語っています。今日では、酒屋の看板のように受け取られがちですが、元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったわけです。

俗に一休の作とされる句、「極楽は何処の里と思ひしに杉葉立てたる又六が門」は、杉玉をうたったものです。

又六は一休和尚のいた大徳寺の門前の酒屋の名です。

極楽は遠くにあるのではなく、案外近くにあるものですよ。例えばほら、そこの杉玉を吊るした酒屋さんとかね、といった意味かと思われます。

さて、人生初の入院も終わりました。まだまだ極楽に行くわけにはいきません。

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