鬼は奥

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節分です。

節分とは「季節を分ける」ことを意味し、特に「立春」である毎年2月4日ごろの前日を指します。立春というのは、旧暦で設定されていた一年二十四節気の季節ごよみの初日でもあります。つまりその前日ということは、季節上での「大晦日」を意味します。

季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられていますが、この節分は一年が始まる前の大みそかであり、年が明けて明るい太陽が出る前に悪さをいっぱいしておこうと、とくに鬼がワイワイ出てきます。それを追い払うための悪霊払いの行事こそが、節分の豆まきです。

「福は内、鬼は外」と声を出しながら福豆(炒り大豆)を撒いて、年齢の数だけ食べます。もしくはそれよりもう1つ多く豆を食べるとより厄除になるといいます。が、私的にはこの歳になると豆を五十数個食べるのはさすがにきついものがあります。

これから更に齢を重ねていくと、さらに増えるわけであり、それを考えると憂鬱になります。この先60、70になっていくオヤジにそれだけの豆を食わせるのは、ほとんど老人虐待です。100歳まで生きたらどうするのでしょう。

節分には、邪気除けのために柊鰯(ひいらぎいわし)などを飾るところもあります。関西では、柊鰯とはいわず、いかがし(焼嗅)、やっかがし、やいくさし、やきさし、ともいうようです。

この形態は、地方や神社などによって異なります。一般には柊の小枝と焼いた鰯の頭、あるいはそれを門口に挿します。柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言います。鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすのだと言う人もいます。

福島県から関東一円にかけては、今でもこの風習が見られるようですが、私が育った広島や山口ではあまり一般的な風習ではないようです。ほとんど見たことがありません。東京近郊では、柊と鰯の頭にさらに鞘を取り去った大豆の枝である「豆柄(まめがら)」が加わるそうです。

畿内では節分にこのいわしを直接食べるそうで、これは「節分いわし」と呼ばれているようです。

このように一口に節分といっても、いろいろな風習があるわけです。

節分のルーツは、「追儺(ついな)」と呼ばれる中国の行事が日本に輸入されたものだといわれています。平安時代ごろから、宮廷の年中行事となり、最初は旧暦の大晦日に行われていたようです。追儺は、「鬼儺」とも表記されます。これは「鬼遣らい(おにやらい)」の意味であり、鬼を追い払うことです。

平安時代には、方相氏(ほうそうし)と呼ばれる鬼を払う役目を負う大舎人(おおとねり)という役人と、この方相氏の脇にサポーターとして侲子(しんし)と呼ばれる役人らが控え、総勢20人ほどで、大内裏の中を掛け声をかけつつ走り回ったそうです。

方相氏は袍(ほう)と呼ばれる儀礼服を着て、金色の目が4っ付いた面をつけて、右手には矛、左手に大きな楯をもち、大内裏を走り回りました。駆け回る方相氏を鬼たちから守る目的で、宮中の公卿たちが清涼殿の階(きざはし)から弓矢を射る仕儀もあったといい、また他の殿上人らが、でんでん太鼓を叩いて厄を払うという、勇壮なものだったようです。

ただ、この時代にはまだ、豆を撒くという習慣はなかったようです。

撒いたのは最初は豆ではなく、桃だったようです。追儺の発祥地である中国において桃は神仙に力を与える樹木であり、桃の実は「仙果」と呼ばれて、昔から邪気を祓い不老長寿を与える食べものとされていました。

また、桃で作られた弓矢を射ることは悪鬼除けとなり、桃の枝を畑に挿すことは虫除けのまじないになるとされ、これらの風習が日本に伝えられました。

「古事記」には、伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が桃を投げつけることによって鬼女、黄泉醜女(よもつしこめ)を退散させたことが書かれており、イザナギノミコトはその功を称え、桃に大神実命(おおかむづみのみこと)の名を与えたといいます。

つまり、日本に伝来したころには、桃を投げつけることが鬼退治に効果があると信じられていたわけです。

「桃太郎」はこの古事記の話から派生した民話であり、ご存知のとおり桃から生まれた男児が長じて鬼を退治する話です。また3月3日の桃の節句は、桃の加護によって女児の健やかな成長を祈る行事でもあります。室町時代ころには、この桃の枝には邪気を祓う力があるとして「桃の枝」信仰も生まれました。

イザナギノミコトが鬼女にぶつけた桃がいつのまにやら豆に変わったのは、桃という果物がこの当時も貴重品だったからでしょう。時代が下るにつれ、桃がもったいないので、これを炒った豆で代用し、鬼を追い払う行事となっていきました。

上で書いたような宮中行事は、やがて庶民に採り入れられるようになり、二十四節気の暦が定着するようになってからは、節分に行われるように変わっていきました。

と同時に、当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺した柊鰯を、魔除けとして戸口に立てておくという風習も現れ、さらに一般家庭だけでなく寺社でも豆撒きをしたりするようになりました。

第59代天皇の宇多天皇が在位した9世紀後半(867~931年)には、鞍馬山の鬼が京に降り来て都を荒らすのを、祈祷をして鬼の穴を封じようとしたという記録が残っています。三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れた、といわれており、このころにはもう既に、大豆による豆まきは一般化していたようです。

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やがて豆などの穀物には、「生命力と魔除けの呪力が備わっている」とされ、信仰の対象にもなっていきました。豆は「魔目(豆)」とも書くことができ、これを魔物の目に投げつけて滅することは「魔滅」にも通じるということから、この時代の魔物の代表格であった「鬼」がその対象となりました。

しかし、実際には鬼は目に見えません。このため鬼の形をした作り物やお面をかぶった人物に豆をぶつけることでこれに代え、こうした行事を行うことで邪気を追い払い、一年の無病息災を願うようになっていったのです。

が、鬼は外、福は内、という例の掛け声が使われるようになったのは、ずっとあとのことで、南北朝時代のころのことだったようです。瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)という室町時代中期の臨済宗のお坊さんが書いた「臥雲日件録」の中に「散熬豆因唱鬼外福内」という表現がみられるそうです。

そのとおり、豆まきといえば掛け声は通常「鬼は外、福は内」です。しかし、地域や神社によってバリエーションがあり、鬼を祭神または神の使いとしている神社もあって、こうした神社では、「鬼は外」ではなく「鬼は内」と呼びかけるそうです。

また方避え(ほうたがえ)の寺社でも「鬼は内」というそうです。方違えとは、陰陽道に基づいて平安時代以降に行われていた風習のひとつで、方忌み(かたいみ)とも言い、外出の際などや家屋の新築の場合、政治を占う場合や、戦の開始などの際に、その方角の吉凶を占う行事です。

陰陽道にでは、方位神(ほういじん)という神様が設定されていて、その神のいる方位に対して事を起こすと吉凶の作用をもたらすと考えられていました。方位神は、それぞれの神に定められた規則に従って、季節が変わるごとに各方位を遊行します。

吉神のいる方角を吉方位といい、凶神のいる方角を凶方位といい、あちこち動き回るので、その都度、良い方向、悪い方向を占う必要があったのです。

占いの結果、出かけようとしていた方角が悪いといったん別の方向に出かけ、目的地の方角が悪い方角にならないようにします。また、帰宅の際などにも、目的地に特定の方位神がいる場合に、いったん別の方角へ行って一夜を明かし、翌日違う方角から目的地へ向かって禁忌の方角を避けるといったことまでやりました。

凶方位を犯すことによる災厄を避けるため、現在ではこの風習は寺院や神社で「方位除け(方除け)」の祈祷・祈願を行うだけとなり、実際に行先を変えることまでは行われなくなりました。

また、方位神を祀ってこの祈祷を専門に行うようになったのが「方避えの神社」です。方避け(ほうよけ)寺社とも呼ばれ、神社ばかりではなく寺の場合もあります。旅行に行く際には、こうした寺社にお参りして、悪方の災いを祓うわけです。

大阪の堺にある、方違神社(ほうちがいじんじゃ)はその中でも有名なもので、この地方では「ほうちがいさん」と称され、方違え、方災除けの神として親しまれています。社地は摂津、河内、和泉の境の三国山にあって、この三令制国のいずれにも属さない地に建設されています。

いずれの国にも属さないということはつまり、方位のない地であることを意味し、このため、古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきました。

現在でも、転勤、結婚などでの転宅や海外旅行などの際に祈願する参拝者が多く、自分の在所からでかけていく先の方位についてのお祓いをしてもらい、清めの御砂を頂いて、自分の家の四方に撒くそうです。

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節分にはこの「方位」にまつわる別の行事をやるところも多いようです。

大阪などの畿内などを中心に食べる、例の「恵方巻」というヤツもそのひとつです。

恵方巻は、巻き寿司を節分の夜にその年の恵方に向かって無言で、願い事を思い浮かべながら太巻きを丸かじり(丸かぶり)するのが習わしとされていて、同日にこの巻寿司を「太巻き」「丸かぶり寿司」、「恵方巻」などと呼んで食べるイベントが各地で行われます。

「目を閉じて」食べるのが一般的のようですが、一方では「笑いながら食べる」という人もいて、さまざまです。太巻きには7種類の具材を使うとされ、この7という数字は商売繁盛や無病息災を願って七福神に因んだものとされているようです。

7つの具材の中には野菜が入っていて、キュウリは青鬼、またニンジンやおぼろ、生姜を赤鬼に見立て、これを節分と関連づけて、鬼退治をするためにこれらを食べるようになったのだという説や、太巻きを鬼の金棒に見立てて、鬼退治だとする説もあるようです。

7種の素材も決まっているわけではないようで、代表例としては、かんぴょう・キュウリ・人参・シイタケ煮・伊達巻・ウナギ・桜でんぶ(おぼろ)などのようですが、他にも焼き紅鮭、カニ風味かまぼこ、高野豆腐、大葉、三つ葉、しょうが、菜の花、漬物などなどのバリエーションがあるようです。

もともとは近畿地方だけの風習だったようですが、食品業界の陰謀で日本各地に広がっていきました。大手のコンビニエンスストアなどがこのブームに便乗したことから、全国的なイベントとなっていきました。

最近では、菓子業界までがこれに便乗し、形が恵方巻に類似する円柱状のロールケーキなどの各種商品においてもあさましい販売促進活動が見られます。

恵方巻の起源・発祥は諸説存在しますが、はっきりとわかっていません。が、前述のように節分にかこつけて食べるようになったという説のほかに、豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴が偶々節分の前日に海苔巻きのような物を食べて出陣し、戦いに大勝利を収めたのがはじまりだ、といいうまことしやかな説もあるようです。

このほか江戸時代の終わり頃、大阪の商人たちの商売繁盛と厄払いの意味合いで、立春の前日の節分に「幸運巻寿司」の習慣が始まったとする説や、江戸時代末期から明治時代初期において、大阪の商人による商売繁盛の祈願事として始まったという説もあり、今日も大阪を中心としてさかんな行事であることから、これらの説が有力視されているようです。

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それにしてもなぜ、この太巻きのことを「恵方」巻きと呼ぶのでしょうか。

これは、陰陽道で、その年の福徳を司る神である「歳徳神(としとくじん」」に由来しているといわれています。古来、この神様のいらっしゃる方位を恵方(えほう、吉方、兄方)、または明の方(あきのかた)と言い、その方角に向かって事を行えば、万事に吉とされてきました。

かつては、初詣は自宅から見て恵方の方角の寺社に参る習慣があり、このことを「恵方詣り」とも呼んでいました。

神社などでよく売られている暦をめくると、最初のほうのページに、美しいお姫様の格好をした女神さまが描かれていることがありますが、これが歳徳神です。

この歳徳神の由来にも諸説あり、牛頭天王のお后であるという説がひとつ。また、牛頭天王は、時代が下ると須佐之男尊(スサノオノミコト)と一体視されるようになったことから、スサノオノミコトの妃の櫛稲田姫(クシナダヒメ)とも同一の神様だとも言われています。

このクシナダヒメは、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治する話の中に登場してきます。ヤマタノオロチに食べられてしまう8人の娘の中で最後に生き残った娘であり、ヤマタノオロチの生贄にされそうになっていたところを、スサノオにより姿を変えられて湯津爪櫛(ゆつつまぐし)という櫛に変身します。

そして櫛としてスサノオの髪に挿しこまれ、ヤマタノオロチ退治が終わるまでスサノオとその行動を共にすることになります。

スサノオはこの櫛を頭に挿してヤマタノオロチと戦いこれを退治することに成功しますが、実はスサノオはこの美しいクシナダヒメとの結婚を条件にヤマタノオロチの退治を申し出たのでした。神さまといども、報酬がなければ行動は起こさないというわけです。

めでたくオロチを退治したスサノオはヤマタノオロチを退治した後、櫛にされたクシナダヒメを、元通り美しい娘の姿に戻し、彼女はめでたくスサノオの妻となりました。スサノオはクシナダヒメと共に住む場所を探して、宮殿を建てたといわれており、この地が現在各地に残っている「須賀」という地名です。

この地名は、北海道から九州までいたるところにあります。あなたのお宅の近くにもあるのではないでしょうか。

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この吉方にいらっしゃるという歳徳神の位置もまた、その年の十干によって毎年変わります。

甲・己の年、つまり、西暦年の末尾が、4・9の年は、東北東やや右です。2014年の今年がそれです。このほか、0・5の年、つまり来年2015年は、西南西やや右、1・6、や3・8は南南東やや右で、昨年の2013年がこれでした。このほか、2・7では、北北西やや右となっています。

従って、今日恵方巻きを食べる人は、東北東の方を向いて願い事をしながら食べましょう。

とはいえ、節分との関係も薄そうな根拠のあいまいな風習です。あまり食品業界を儲けさせるイベントに巻き込まれないようにしましょう。

だいいち、太巻き丸々一本を一気食いするなんて、むちゃくちゃです。消化にも悪いし、お年寄りなどはのどに詰まらせてしまって、窒息死してしまうかもしれません。豆をたらふく食べさせられたあとにこの太巻きを食べたらもう何も食べれなくなってしまいます。

なので私的には、豆をまくで十分だと思っています。

このほか、節分における他の風習といえば、東京の浅草、京都の花街、大阪の北新地などでは、節分の日に、舞妓さんや芸妓さん、ホステスといった女性が、通常の芸妓衣装ではない、様々な扮装をするそうです。

「節分お化け」、あるいは単にお化けと呼ばれているようで、節分の夜に普段と違う服装で、社寺参拝を行います。東京では、台東区の吉原で毎年、「よしわら節分お化け」が行われるようです。

もともとは、節分の夜に、老婆が少女の髪型を「桃割」という形にしたり、少女ではなく成人女性の場合は髪型を島田結いにしたりする風習だったようです。このため「オバケ」とは「お化髪」が語源であるという説もあります。

これが変じて、異装することが流行るようになっていったようで、服装や風体を変えるだけでなく、違う年齢や違う性を名乗るなど「普段と違う姿」をすることによって、節分の夜に跋扈するとされる鬼をやり過ごしたのだといわれています。

節分である、立春前夜は、秋や冬といった暗い季節と春や夏などの明るい季節の変わり目です。 また冒頭でも述べたとおり、旧暦では節分は年の変わり目の前日でもあり、方位神が居場所を変えるなど、古い年から新しい年へと世界の秩序が大きく改組される不安定な時季でもあります。

この様な時季には現世と異世界を隔てる秩序も流動化し、年神のような福をもたらす存在が異世界からやってくる反面、鬼などの危害をもたらす存在もやってくるとされています。

このため節分には豆まきなどの追儺(ついな)儀式が行われていますが、「節分お化け」もまた、このときにやってくる鬼を姿を変えてやりすごそうとする儀式のひとつというわけです。

異装のまま寺社へ詣でて新年の平穏を祈るのですが、やはり民間信仰に属する儀式のため、節分お化けがいつごろどのように始まったかについて詳しくはわかっていないようです。が、京都を中心として江戸時代末期から盛んに行われていたとされており、上述の吉原以外では京都の一部の地域でもこの風習が残っているといいます。

こようにの節分お化けもやはり鬼にまつわる行事であり、節分にはやはり鬼はつきものです。

この「おに」の語は「おぬ(隠)」、つまり「いない」が転じたものだといわれており、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味します。そこから人の力を超えたものの意となりました。

平安から中世の説話に登場する多くの鬼は怨霊の化身、人を食べる恐ろしい鬼であり、有名な鬼である大江山の酒呑童子は都から姫たちをさらって食べていました。「伊勢物語」には、夜中に女をつれて駆け落ちする侍が、その途中で鬼に連れの女を一口で食べられる話があり、ここから危難にあうことを「鬼一口」と呼ぶようになりました。

平安以降は、戦乱や災害、飢饉などの社会不安が頻発しましたが、そうした中では、人の死は当たり前でしたが、また行方不明になる人も多く、人々はこれを異界がこの世に現出して連れ去ったのだと解釈するようになりました。人の体が消えていくのは、この世に現れた鬼の仕業だと思うようになっていったのです。

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このように鬼は異界の来訪者であり、人を向こう側の世界に拉致する悪魔でしたが、一方では一寸法師や瘤取り爺さんなどの昔話にあるように福を残して去る神としての一面もあり、このため各地に鬼を祀る神社などが存在します。

一寸法師の話はだれでも知っているでしょう。が忘れている人も多いと思うので、あらすじを書き出してみましょう。

一寸法師は子供のない老夫婦が住吉神社の神様に祈った結果授かった子供でしたが、その大きさはわずか一寸(3cm)しかなく、何年たっても大きくなることはありませんでした。

ある日、一寸法師は武士になるために京へ行きたいとわがままを言い出し、おじいさんとおばあさんを困らせます。が、強引にも御椀を船に、箸を櫂にし、針を刀の代わりに、麦藁を鞘の代りに持って旅に出ます。そして京で大きな立派な家を見つけ、この家の主人を脅して働かせてもらうことにしました。

しかも、その家の娘とねんごろになり、この娘と宮参りの旅をしている時、鬼が娘をさらいに来たのを見た一寸法師はさすがにこの娘を守ろうとします。すると鬼は一口で一寸法師を飲み込んでしまいますが、一寸法師は乱暴にも鬼の腹の中を針で刺すと、鬼は痛いから止めてくれと降参し、一寸法師を吐き出すと山へ逃げてしまいます。

一寸法師は、鬼が落としていった打出の小槌を振って自分の体を大きくし、身長は六尺(メートル法で182cm)になり、めでたくこの娘と結婚しました。しかも米と金銀財宝を打ち出して、大金持ちになりました。

が、その後娘は一寸法師にいじめられた鬼をかわいそうに思い、介抱してやっているうちに不倫に陥り、鬼と共謀して一寸法師を元の小人に戻して追い出してしまいました。泣く泣く育ての親の老夫婦のもとに帰りましたが、二人は自分たちを捨てた一寸法師をシカとし、その後一寸法師は小さい姿のまま、悲しく生きていくことになりました……

多少脚本に偽りがありますが、まぁだいたいこんな話です。

一方の瘤取り爺さんのほうの話はというと、あるところに、頬に大きな瘤のある隣どうしの二人の翁がおり、片方は無欲で、もう片方は欲張りでした。

ある日の晩、無欲な翁が夜更けに鬼の宴会に出くわし、踊りを披露して接待したところ、鬼は翌晩も来て踊るように命じ、明日来れば返してやると翁の大きな瘤を、スポン、と傷も残さず取ってしまいました。

これを聞いた隣の欲張りな翁が、それなら自分の瘤も取ってもらおうと夜更けにその場所に出かけ、鬼の前で踊り出しますが、鬼が怖くて及び腰になり、踊りはしっちゃかめっちゃか。とうとう鬼は怒って隣の翁から取り上げた瘤を欲張り翁のあいた頬に押し付けくっつけると去ってしまった……という話。

無欲な翁は邪魔な瘤がなくなってその後幸せになりましたが、一方の重い瘤を二つもぶら下げることになった欲張り翁もまたその後、幸福な一生を送りました。

そのユニークな顔が大評判になり、あちらこちらから引っ張りだこになったあげく、鬼の前で踊ったという武勇伝が受け、時代を代表するヒーローとなり、都のたいそうな美人と結婚して幸せに一生を暮らしましたとさ……

こういう話を子供のころから繰り返し聞かされている?我々は、普通この鬼はおそろしい形相をした男の姿をしているとみんな思っています。

ところが、この鬼は、その形態の歴史を辿れば、初期の鬼というのは実はみんな女性の形だったといいます。

「源氏物語」にも鬼が登場しますが、その剣の巻には次のような話があります。

摂津源氏の源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱(わたなべのつな)が夜中に戻橋のたもとを通りかかると、美しい女性がおり、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれました。

綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せました。すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行きました。が、抗う綱は鬼の腕を太刀で切り落として、なんとか逃げることができました。

……という話なのですが、この話には続きがあり、この鬼は、切られた自分の腕を取り返すために女に化け渡辺綱のところへ来て「息子の片腕があるだろう」と言い、それを取り出して見せようとして出してきた綱から腕をいきなり奪い取り、元の鬼の姿に戻って逃げ去る、ということになっています(こちらはホントです)。

この話からもわかるように、そもそもの昔には、鬼は女性とみなされていました。女の本質は鬼であるといわれており、戦乱の多かった昔に自分の子供を戦争で傷つけたものに対する母親の憎悪が鬼という存在に変化したものだといわれています。

最後のほう、昔話をおちゃらけて改変してしまったので、信じていただけないかもしれまんが、これもまたホントの話です。

鬼嫁、鬼婆、鬼女などなど、鬼にまつわるものはだいたいみんな女性です。そこに鬼の怖さの合理性がかいま見えてくるのです。やはり鬼はこわい。女はこわい。嫁もこわい。

なので、これを読んでいるお父さん、節分の夜に鬼の面をかぶって逃げ回るのはやめにして、今夜からは鬼役はお母さんに任せましょう。

それなら面はいらないって?それは私には肯定も否定もできません。

2014-1130336広島城にて