関西方面では、松が明けるのはこの小正月が過ぎてかららしいので、正月は名実ともに昨日で終わり、今日から改めて仕事始め、という雰囲気の人も多いことでしょう。
この1月16日は、その昔は「籔入り」として奉公人にとっては、大事な日でした。江戸時代ころまでは、商家などに住み込みで働く丁稚や女中が数多くいましたが、一年のうち、この日と7月16日だけは、実家に帰ることが許されていました。
この藪入りの語源には諸説あり、はっきりしないようですが、藪の深い田舎に帰るからという説のほか、昔は実家へ帰ることを「宿入り」と言ったことから、これが訛って藪入りになったのではないかという説もあります。
ちなみに、大奥の女性たちが実家に帰ることは「宿下がり」と呼ばれていたそうで、これは年に二回に一日だけではなく、奉公勤続3年目ではじめて6日間、6年目からは12日間、9年目からは16日のあいだ、休みを貰って宿下がりが許されていました。
もっとも、季節は春先だけに限られていたそうで、また大奥の女中たちでも、実家に帰れるのは、「御次」と呼ばれる中堅クラス以下の女性たちだけでした。逆にこれより位が上の者たちは、より将軍に近い側近として、ほぼ終生を大奥で暮らしたため、実家に帰る機会というのはかなり少なかったようです。
ただ、「老女」と呼ばれるような、大奥でも侍女の筆頭格になると、町屋敷が与えられることもあったそうなので、こうした老女とその側近たちは、大奥を出てこうした屋敷で一生を終えるということもありました。
大奥の奥女中としては、当初は旗本や御家人などの武家出の女性が雇用されたようですが、時代が下ると、裕福な町人出の女性が「行儀見習い」目的に奉公に上がることが多かったそうです。このため、一定の期間を過ぎると、また元の町屋に返されて余生を過ごす、ということもあったようです。
いずれにせよ、こうした大奥に上がっていたのは、裕福な商家や金銭的に比較的余裕のあった武家の者だけであり、一般庶民がこうした場所に上がることはほぼありえない話でした。
貧しい農家や職人たちの子息は、余裕のある商家に方向に入って奉公働きさせられるのが普通であり、通常は10歳前後で商店に丁稚として住み込んで使い走りや雑役を始めます。
無論、丁稚は一人ではなく、大きな商家ではたくさんの丁稚を雇うことから、丁稚の中でも住み込み年数に差が出るのは当然であり、その経験年巣によって上下関係が出てきます。
丁稚の仕事は多岐に亘り、雑役のほかに蔵への品物の出し入れをはじめとする力仕事が多く、住み込みながら番頭や手代から礼儀作法や商人としての「いろは」を徹底的に叩き込まれます。また入り口付近に立って呼び込みや力仕事も任され、経験が浅いうちは、商品を扱わせてもらうといったことはまずありません。
しかし、こうして働かされるばかりではなく、丁稚奉公はこの時代には教育の場でもありました。
丁稚は、店が一日の仕事を終えたからといって終わりではなく、夕刻閉店した後には番頭や手代らから商人として必須条件である読み書きや算盤を教わっており、こうした素養をつけさせることで、雇った側も人材育成を図ることができ、ひいてはそれが店のためにもなっていったのです。
丁稚は、他店や客からは「丁稚どん」、あるいは「小僧」「坊主」などと呼び捨てにされることも多かったようですが、その後成長して能力のあると認められた者は、その後主人(だんさん)の裁量で手代となることもあります。
小僧から手代までおおむね10年かかるそうで、手代はその字の通り、主人や番頭の手足となって働きます。やがて更に才覚が認められれば、番頭を任されますが、この番等にも大商店などでは位があり、小番頭、中番頭、大番頭などに分けられていました。
大番頭ともなると、主人の代理として店向き差配や仕入方、出納や帳簿の整理、集会等の参列など支配人としての重要な業務を任されるようになるとともに、支店をまかされたり暖簾分けされて自分の商店を持つことが許されることもありました。
番頭となるのはおおむね30歳前後でしたが、しかしそこに到達するまでは厳しい生存競争に勝ち抜く必要があり、江戸期の三井家の例をあげると、丁稚で入って暖簾分けまで到達できる者は300人にひとりというかなり低い確率でした。
手代や番頭になれない者は元の農家に返されるか、はたまた別の商家で働かせてもらうかします。奉公換えは頻繁に行われていたようで、無論、元の商家の主人や番頭と気が合わない、といったこともあったでしょう。
一方では、とくに優秀な手代などが、大店へ引き抜かれるといったこともあり、この際には給金や賞金、つまり現代でいえばボーナスが増える、といったことが多く、このためこうした転職はしばしば行われたようです。
このあたり、現在の日本と何ら変わりがありません。
こうした手代や番頭をめざして日々の業務を励む丁稚などの奉公人たちにとって、藪入りは、年にたった2度だけの貴重な休日であり、重大なイベントでした。
藪入りの習慣が都市の商家を中心に広まったのは江戸時代からですが、本来は奉公人ではなく、嫁取り婚において嫁が実家へと帰る日だったとされるそうです。しかし、都市化の進展に伴い商家の習慣へと転じ、関西地方ではや「6」のつく日に嫁が実家へ帰ることが許されていたことから、「六入り」と呼ばれていたそうです。
やがて、この嫁の里帰りは奉公人の習慣に変わっていきましたが、嫁の里帰りがひと月に何度でも可能であったのに対し、奉公人の藪入りの日がたった二日となったのは、無論、そんなに頻繁に返していたのでは、その店としても、本人としても経済的に負担だったためです。
藪入りの日となると、主人は奉公人たちにお仕着せの着物や履物を与え、小遣いを与え、さらに手土産を持たせて実家へと送り出したため、多くの丁稚を抱える商家では当然これは大きな出費となります。
丁稚たちが帰る実家でも、待ちかねた両親が待っており、親子水入らずで休日を楽しみますが、帰って来た子供たちに振る舞う食事などもこのときとばかりに豪華なものにします。しかし、こうした贅沢もまた、年二回程度なら許されるものの、頻繁に行うということになるとかなりの物入りになります。
このため、遠方から出てきた者はその旅費だけでも莫大になることなどから、実家へ帰ることができないものも多く、こうした丁稚たちは、もっぱらその日だけはお暇を貰い、商家のある地元で芝居見物や買い物などをして休日を楽しみました。
江戸時代の人達にとっては小正月である1月15日と、盆でもある7月15日はそれぞれ一年のうちでもとくに重要な祭日であり、その翌日が藪入りと定められたのは、丁稚たちが奉公先での行事を済ませた上で、実家でも行事に参加できるようにという意図だったと考えられます。
この習慣は、やがてこの藪入りが、地獄で閻魔大王が亡者を責めさいなむことをやめる「賽日(さいにち)」とも重ねられるようになり、人々はこの日だけは、普段は忌嫌っている閻魔様に参詣するようになりました。
一年のうち、正月16日と7月16日だけは、地獄の釜の蓋が開いて鬼も亡者も休むとされるとされ、これを「閻魔賽日」と呼んで、日各地の閻魔堂や十王堂で開帳が行われ、縁日がたつようになったのです。正月のこの日はとくに「初閻魔」とも呼ばれ、また「賽日」以外にも「十王詣」という呼び方もあったようです。
十王というのは、地獄にいて亡くなった人の罪を裁く10人の判官のことで、それぞれを閻魔と呼び、その筆頭を閻魔大王と呼んだりします。閻魔賽日には、こうした十王が描かれた地獄の図や地獄相変図を拝んだり、閻魔堂に参詣して過ごします。
ちなみに、これとは別の習慣ですが、浄土真宗門徒にとって1月16日は、「念仏の口開け」と呼び、この日に年が明けて初めて、仏様を祀って念仏をとなえます。
彼等の間では、正月の神様(年神様)は念仏が嫌いである、ということになっているそうで、前年の12月16日の「念仏の口止め」からこの日までの正月の間は念仏は唱えないこととされています。
なので、今日16日は正月の間封じられていた念仏がようやく再開できる日でもある、というわけです。閻魔大王を崇める賽日も、念仏の口開けも仏教の習慣なので、もともとは一緒のものだったものが、長い間に宗派の違いにより、こういう風に分化されたものかもしれません。
その後、明治維新が起き、太陰暦から太陽暦への改暦が行われた結果、藪入りが行われる日もまたそのまま新暦の日に移行して、現代に至っています。
明治期の文明開化後も商家の子息を丁稚奉公に出すといった労働スタイルにはそれほどの変化はなかったのですが、一方では産業化の進展に伴い労働者の数が増大したため、藪入りはさらに大きな行事となっていきました。
藪入りの日は浅草などの繁華街は奉公人たちでにぎわったため、この当時に流行し始めた活動写真にも多くの人が足を運ぶようになりました。
今日のように、映画が大きな文化として日本で認められるようになったのには、この藪入りの行事が明治時代以降も引き続いて盛大に行われたことが大きかったようです。
その後、第二次世界大戦が勃発している間はさすがにこの藪入りも大々的に祝われるということはなくなりましたが、戦後になると、労働基準法の強化などにより労働スタイルも一変します。
GHQの指導などもあり、アメリカスタイルと同じく日曜日を休日とすることが奨励されるようになり、このため、年に二回の休暇である藪入りはすたれていきました。
人々は週に一回の休みを取ることで更に多くの休みを取ることが義務付けられるようになり、このころにもまだ大阪などを中心に残っていた丁稚奉公人たちもまた週末には休めるようになりました。
さらに、正月休み・盆休みを許す会社も増えたことから、やがて、かつてあった藪入りはこの正月休みに統合されるところとなりました。
現在でも、正月や盆には、帰省することを何にも不思議と思っていない人が多いと思いますが、これはかつての藪入りの伝統が、現在の正月休み、盆休みと合体した結果です。本来は、休みを取るだけで済みそうなものをわざわざ、旅費をはたいて実家に帰るのは、藪入りの名残、というわけです。
このように、藪入りは、かつての奉公人たちにとっては年に2度だけの貴重な休日であり、重大なイベントであったため、これにちなんだ小説や俳句などが、江戸期以降、たくさんつくられました。
落語にも「藪入り」というのがあり、これは、「衆道」をテーマにしたその名も「お釜さま」という噺を、明治末期から大正にかけて活躍した、初代の「柳家小せん」が改作したものです。
そのあらすじをざっと書くと、住み込みで奉公をする子供が一日だけ親元へ帰ることが許される藪入りの日のこと、門前で立派に挨拶をする様子を見て、我が子の成長ぶりに両親は感涙します。
そして苦労してきた息子をまずは湯屋へ汗を流しに行かせると、子供が紙入れを忘れているのを母親が気付き、その妙な膨らみに違和感を覚えます。中を見ると、15両もの大金が入っており、奉公先の小遣いにしてはあまりにも高額なため夫婦は息子が何か悪事に手を染めたのではという疑念を抱きます。
とりあえず我が子の帰りを落ち着いて待とうということになりますが、その日に限って息子は帰りが遅く、苛立ちを募らせた喧嘩っ早い職人肌の父親は、帰ってきた息子を有無を言わさず殴り飛ばして、なんで悪事になんか手を染めたんだと問いただしました。
すると、この息子は、その15両は悪事で手にした金ではないと答えます。母親がじゃあどうやって手にした金なのかと聞くと、なんでも息子の話によれば、巷で流行るペストの予防のためにお役所が懸賞金を出して子供にねずみ取りをさせ、彼が捕えた一匹のネズミがその懸賞に当たり、その賞金を手にしたといいます。
これに驚いた父親は、我が子が悪事に走ってなかったことを知ると共に、我が子の強運を褒め讃えます。
そして、最後に「これもご主人への忠(チュウ)のおかげだ」と父親が言い放つというところがオチとしてつき、この噺は終わります。
こうしたあらすじだけ書くと、面白くもなんともないのですが、柳家小せんなどの本番では、藪入りの前日、我が子の帰りを待ちきれない父親が、息子のためにどう考えても一日で子供が食えるとは考えられないほどの分量のご飯をこしらえようと妻に提案する、といったエピソードがユーモラスに交えられているそうです。
典型的な人情噺でもあり、親子の会話からほろりとさせられるシーンもあるそうで、なかなか抒情豊かな噺のようです。
ところが、この噺の元となった、「お釜様」のほうは、いわゆる「艶笑噺」といわれるものです。元は、江戸の小伝馬町にあった呉服屋「島屋」で、番頭がある丁稚に「性的な虐待」をした末に気絶させてしまったという事実が原題になっています。
このような事件は当時珍しくなかったそうです。この事件が表沙汰になったことにより、この落語が創作されましたが、この噺では、上述の「藪の入り」では息子がねずみ取りの懸賞金で金を得たと告白する部分において、「盗んだんじゃねえ」という息子が、番頭との「関係」を説明する、というところがオチになっているそうです。
おそらく番頭との性的な関係を面白おかしく言って笑わせる、という工夫なのでしょうが、現在でもこうした関係を笑えるか、というと、逆に笑えるどころか客席はシーンとしてしまうかもしれません。
そもそも、こうしたいわゆる「衆道」は、平安時代に僧侶や公家の間で流行した「男色」が、中世室町時代に武士の間でも盛んになったことに起源を発します。
「衆道」の言葉がいつから使われるようになったかは不明ですが、そもそもは武士の「主従関係」の価値観が男色と融合したとされています。この当時の武家社会の男色は、それまでの公家の美少年趣味とは異なり、女人禁制の戦場で武将に仕える一般の少年を「お小姓」として連れて行くことも多く、これが始まりだとされています。
女性の代わりにこうした男性が主人の相手をすることも普通であったそうで、そうした話を聞くと、私などはぞ~っとしてしまうのですが、そちら方面がお好きな方は興味深々かもしれません。
さらに時代が下って、江戸幕府の時代になってもこの風習は生き残り、幕府の公式令條においても「衆道」という言葉が使われるほどであり、江戸時代初期から中期にかけては上から下までごくごくあたりまえの習慣だったようです。
江戸中期に、武士道の指導書として書かれた「葉隠」にでさえ、武士道における男色の心得が説かれているそうで、「互いに想う相手は一生にただひとりだけ」「相手を何度も取り替えるなどは言語道断」「そのためには5年は付き合ってみて、よく相手の人間性を見極めるべき」などと書いてあるそうです。
さらには、相手が人間として信用できないような浮気者だったら、付き合う価値がないので断固として別れるべきだとまで書かれてあり、怒鳴りつけてもまとわりついてくるようであれば、「切り捨つべし」とまで言い切っているとか。
さらに「葉隠」では武士における衆道は、命がけのものが最高のこととされているそうで、ここいらあたりにこの風習がかつての武士の主従関係に起因する、一種の崇高な風習であったことが見てとれます。
江戸期以前の食うか食われるかといった戦国の世でにおいては、お互いに体を許し合えるような間柄でなくては、安心して命を預けることはできない、ということはあったでしょうから、こうした風習が尊ばれるのもあながち不思議ではありません。
ところが、江戸中期から後期に入ると、こうした武家社会における男色は、それまでの主従関係に加え「同輩関係」の男色も見られるようになっていきました。必ずしも従前のような君臣的上下関係ではなく、念者(年長者)と若衆(年少者)という兄弟分的な同性愛が起こるようになっていったのです。
とはいえ、誰でもいいというわけではなく、この「若衆」と呼ばれる男性の多くは、平安の昔に立ち返って、やはり「美貌」を持っている少年でなければなくなりました。そこいらにいる不細工で小生意気な洟垂れ小僧では念者に愛されることはなく、今でいえばジャニーズ事務所にいるような美少年たちだけが対象になっていたのです。
ただ、この風習が全国的なものであったかというとそうでもないようで、諸藩においては家臣の衆道を厳しく取り締まるところもあったようです。
特に、姫路藩では家中での衆道を厳しく禁じていたそうで、江戸初期の同藩の藩主、池田光政などはこの藩規に違反した家臣を追放に処しています。
この理由はよくわかりませんが、こうした江戸太平の時代になると、主従として命を共にするために男色を奨励するというよりも、むしろそうした身を許した人間が政道に立ち入ることで藩政が乱れることを嫌ったためでしょう。
しかし、江戸を初めとし、その他の藩でもその後も衆道はさかんであり続けました。
元禄時代の将軍だった徳川綱吉もまた、男色に傾倒し、12歳年下の柳沢吉保を少年時より寵愛していたという話があり、この柳沢保はその後も寵臣として綱吉に愛され続けた結果、その権力を維持できたのだという説もあります。元禄文化は、衆道文化の一面もある、という人さえいるようです。
ところが、元禄以降になると、前述のように兄弟分的な男色関係のほうが大事にされるような風潮が出てくるようになり、相手の美少年との関係を大切にしたいがあまり、刃傷事件などのトラブルも頻発するようになりました。
このため、江戸時代後半になると、衆道は風紀を乱すものとして問題視されるようになり、次第に目立たなくなっていきました。しかし、目立たなくなっていただけで、陰ではやはり従前どおりの普通の風習であり続けたようです。
とはいえ、上杉謙信を藩祖に持ち、質実剛健の藩風を持つ米沢藩の上杉家などのように、男色や衆道に対しては厳重な取り締まりを命じるような藩もありました。
それでも、衆道は武士道の精神と深く関わってできた習慣ということもあり、こうした男同士の情愛は様々な形で続き、とくに南国にあって、江戸の風習が届きにくい薩摩藩などでは、むしろ衰えることもなく、幕末維新の時代まで続きました。
新撰組局長の近藤勇が、新撰組発祥の地のひとつとしても知られる武蔵多摩郡立川郷(現東京都)の人で、のちに神奈川県議会議員などを勤めた中島次郎兵衛に宛てた書簡にも、局内で「しきりに男色が流行している」と記されているそうです。
衆道が盛んだった薩摩からは、明治維新後、数多くの人材が政府に出仕しましたが、とくに帝国海軍においても陸の長州、海の薩摩、と言われるほど数多くの薩摩出身の軍人が台頭しました。こうした薩摩が造った海軍では、明治時代の後半頃まで衆道の影響が強く残っていたといいます。
その後、いわゆる「衆道」が完全が消滅したのは大正年間の頃だとされています。が、本当に「消滅」したのかどうか、といわれれば、答えはグレーでしょう。
もっとも「衆道」と、単なる「男色」は別者と考えることができ、江戸期以前の武士道に端を発して流行した同性愛の形はおそらくは現在のものとはかなり違うのではないかと考えられます。が、そこのところのビミョーな部分は私には理解のしようもありません。
とはいえ、少年愛は、古来から世界中のあらゆる社会で存在したと考えられ、古代ギリシャでは「社会制度」でもあったそうで、日本と同じく、戦士社会においては年長の戦士と若い戦士のあいだを結びつけ、互いの信頼関係を築くために重要視されていたそうです。
時代が変われども、人間の基本的な性癖などはかわるべくもなく、あいもかわらず世界中で戦争が勃発していることを考えると、こうした「社会制度」もまた、表に出ないまでも各国では潜在的に行われていると考えても不思議はありません。
ギリシャや日本だけでなく、トルコでもその昔は、男色が一般に受け入れられており、オスマン帝国のスルタン(イスラム世界における君主)は、そのハレムに幾多の美少年と美女を囲っていて、最盛期にはその数は1000人を越えたという記録があります。
そのオスマン帝国の重要な拠点でもあった、ソチで、いよいよ冬季オリンピックが始まります。2月7日からだそうで、もうあとその開催まで3週間を切りました。
無論、現在はロシアの領土となっているソチで、同性愛者が多いといった話は聞いたことがありません。が、スポーツ選手の間では、わりと同性愛者が多いと聞いたことがあります。これは、やはりスポーツ社会もまた、「戦士社会」とみなせることと無関係ではないでしょう。
先日の9日には、サッカー元ドイツ代表として、2004年から2010年にかけて52試合に出場した有名な選手が、同国代表経験者としては初めて、同性愛者であることをカミングアウトしたばかりであり、こうした例はほかにもたくさんあるに違いありません。
私としてはまったくその気はありません。が、だからといって、同性愛はまかりならん、不道徳だ、などという野暮なことを言うつもりもありません。
スピリチュアル的に考えた上では、同性愛についても否定するものではありません。男も女も同じ魂である以上、性別とは無関係にこれが時に愛し合い、時に敵として合い交えることは普通にあることだと、受け止めています。
今後繰り広げられるソチでの多くの戦いにおいても、それが変わることはないでしょう。厳寒の地での魂と魂のぶつかり合い、早くみてみたいものです。