どぶ

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先日、いつも見ているNHKの火野正平さんの旅番組を見ていたら、その日の訪問地は、横須賀市内のある病院でした。

40年ほど前に、その病院の眼科で目の治療をしていた女性が、目の訓練にと、病室から見ていた神社の階段が何段あったか見てきてほしいという依頼内容でしたが、残念ながらその女性はその後失明されたそうです。

その病院も神社も現存し、無事火野さんはお役目を果たすことができたのでしたが、そこへ行く途中、火野さんが、横須賀市内の「どぶ板通り」なる商店街を通っていました。

私はまだここへは行ったことがありません。あぁこれがあの噂のどぶ板通りかぁと、じっくり見ようと思ったのですが、火野さんはすぐに通り過ぎてしまったので、詳細には見れませんでした。

ここ伊豆からもそう遠くはないので、今度ぜひ一度行ってみようと思うのですが、せっかくだからその由来なども調べてみようとパソコンを立ち上げると、このどぶ板通りというのは、神奈川県横須賀市中心部にあり、どうやらその長さも300m程度の短い通りのようです。

戦前、この通りには道の中央に、いわゆる「どぶ川」が流れていましたが、人やクルマの通行の邪魔になるため、近くにあった海軍工廠が厚い鉄板を提供し、このどぶ川に蓋をしたことから「どぶ板通り」と呼ばれるようになったそうです。

戦後は、このドブ川やこれを覆っていた鉄板ともに撤去されて下水道が造られ、その上の道路の舗装もきれいになって、その周りには150軒ほどの商店・飲食店ができるようになっています。通称「どぶ板通り商店街」と呼ばれていますが、「本町商店会」というれっきとした正式名称があるとか。

このどぶ板通りを持つ横須賀は、明治時代から第二次世界大戦終了時までは大日本帝国海軍横須賀鎮守府の門前町として栄え、戦後は進駐軍・在日アメリカ軍横須賀海軍施設の兵隊で賑わいました。

その結果、米兵向けの土産物店、肖像画店、バーや飲食店、テーラーショップなどが栄えるようになりましたが、ベトナム戦争以後は、こうした店は数を減らし、2000年代には日本人向けの店などが台頭するようになっていったようです。

現在では、アパレルショップ・美容院・アクセサリショップなども栄え、「スカジャン」と呼ばれる横須賀ならではのジャンパー専門店が立ち並び、昔の名残りでミリタリーショップなどもあり、こうした店には横須賀港に多数係留されている自衛隊の艦船を見に来た観光客なども立ち寄り、人気があるようです。

かつて米兵が闊歩した経緯と、最近のこうした日本の文化が融合した独特の雰囲気を持っているとのことで、商店街としては更に観光客を呼び込もうと、通りの路面に横須賀に縁がある有名人の手形を埋め込む活動なども行っているそうです。

この「どぶ」の語源ですが、「土(泥)腐」、すなわち腐ったヘドロという説や、「泥深」、深い泥地、などがあるようですが、定説はなく、一説では「濁醪(どぶろく)」の「どぶ」ではないかともいわれています。

いずれにせよ、濁った液体を指す総称のようで、「どぶ汁」という用語もあります。これは、茨城県から福島県南部の太平洋沿岸地域に伝わる漁師料理で、つまりは「あんこう鍋」のことです。

水は使わずに、大根などの野菜や味噌と鍋を持ち込むだけで作れることが船上での調理に好都合で、何より栄養価が高かったために地元の漁師さん達に愛された調理法が、郷土料理になっていったものです。

このどぶ汁もまた、あん肝から出る肝油で汁がオレンジ色に濁り、酒のどぶろくの様に見えることから、こう呼ばれるようになったという説があります。また、どぶとは「全て」という意味があり、あんこうの全てを入れる事から「どぶ汁」というとの説もあるようです。

このどぶろく(濁酒、濁醪)とは、発酵させただけの白く濁った酒で、もろみ酒、濁り酒ともいいます。炊いた米に、米こうじや酒粕に残る酵母などを加えて発酵させることによって造られ、日本酒(清酒)の原型でもあります。

では、「どぶろく」の語源は何かというと、これは平安時代以前から米で作る醪(もろみ)の混じった状態の濁酒のことを濁醪(だくらう)と呼んでいたのが訛って、こうなったのではないかと言われています。

3世紀後半に記された中国の「魏志倭人伝」には既に、倭人は酒をたしなむといった記述があるそうで、このことからどぶろくの起源はかなり長く、米作の発祥とほぼ同じ時期に発明されたのではないかといわれています。

どぶろくは米から作ります。日本では古来より、収穫された米を神に捧げる習慣があり、このどぶろくも合わせて供えることで、来期の豊穣を祈願したようで、こうした風習は現代でも日本各地の神社で残っています。

その製法は比較的簡単で、以下のとおりです。

1.まず、よく研いだ白米を水に浸し、少量の飯を布袋に包み同じ容器に浸した上、1日1回この浸けた袋を揉む。
2.この袋を3日程度置き、甘酸っぱい香りがしてきたら、水(菩提酛)と米を分け、米を蒸す。蒸した米を30度程度に冷やしてから米麹を混ぜ、取り置いた菩提酛と水を加える。そして、1日1回かき混ぜ、再び2日程度置く。
3.白米を蒸し、30度程度に冷やしてから麹と水を混ぜ、加える。翌日にも同様のものを仕込み、これらを毎日1回づつかき混ぜ、1、2週間発酵させて出来上がり。

この工程で出来上がったものが、どぶろくですが、さらに布巾などでこれを漉したものは、多少濁ってはいますが、いわゆる「日本酒」に近いものになり、酒造法上も、これを「清酒」とみなしています。

このように、どぶろくは、その気になれば一般の家庭でも製造することができますが、日本では酒の密造は法律で禁じられているため、無免許製造した場合、処罰されます。その製造には各種の申告義務を課されます。なので、このブログを読んだからと言って、さぁ作ってみよう、とはいきませんからご注意ください。

どぶろくを作ることが違法行為(酒税法違反)となったのは明治時代以降のことであり、このころから、「どぶろく」といえば「密造酒」の別名のようにして用いられるようになりました。別名「どぶ」や「白馬(しろうま)」、「溷六(ずぶろく)」とも呼ばれ、とくにこの「ずぶろく」とは、泥酔状態にある酔っ払いのことを指します。

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違法とはいえ、このようにどぶろくは簡単にできてしまうので、明治以前には各家庭、農家などでもごく普通に作られていた「家庭酒」でした。

しかし明治年間に入った1940年以後、酒造税が制定され、やがてどぶろくの自家醸造も禁止されるようになりました。禁止された理由は、どうやら日清・日露戦争にあるようです。

この戦争では戦争に勝つために官民が協力しあい、多額の金がその装備に投入されましたが、このための大増税も行われ、このころの高額納税者であった酒などの醸造業者にも多額の税が課せられました。

明治時代においては酒造税は政府の主要な税収源であり、酒税は国の税収の3分の1に達し、国税3税のひとつといわれており、明治政府は戦争に勝つためにその徴収を更に強化したのです。

これに対して、従来からの高税に悩んでいた醸造業者たちもさすがに悲鳴を上げ、その負担に耐え切れないと政府を糾弾する声が高くなりました。

このため政府としては、彼等の懐柔策として醸造業者を保護する、という名目で、それまでは自由に一般人が造ることができたどぶろくにも増税をするようになりました。

一種の酒造業者保護策というわけですが、こうしてそれまで誰でも自由に製造できたどぶろくを作るのにも許可がいるようになり、その税率も高かったため、誰もどぶろくを作らなくなっていきました。

その後、大正、昭和、平成に至るまでもこのどぶろくに対する課税は続いており、現在に至っています。しかし、実際には上述のようにその製法は比較的簡単であり、家庭内で隠れて作ろうと思えばできてしまいます。

家庭で違法に作る酒は、当然「密造酒」となるわけですが、実際にはその摘発は簡単ではありません。

明治大正期には、米どころと呼ばれる北陸やその他の穀倉地帯では、酒を取り扱う商店等の少ない辺縁の農村などで、相当量のどぶろくが違法に作られ消費されていたようで、現在も地方へ行くと日常的にどぶろくを作っている農家があるのではないかといわれています。

1984年には、こうしたどぶろくの愛好家の一人が、酒税法違反容疑で起訴され、控訴上告した通称「どぶろく裁判」も行われました。

この被告人は、前田俊彦さんといい、日本共産党に所属する社会運動家でした。市民運動関係者から、「前田のじいさん」と、慕われていたそうで、戦前の1932年には、治安維持法・陸軍刑法違反で検挙された経歴があります。

このときは懲役7年の実刑判決を受け、出身地である福岡の刑務所に抑留されています。戦後は、祖父が初代村長をつとめた京都郡延永村(現・行橋市延永)に移り、木工所を開業。1947年に日本共産党を離党すると、この延永村の村長に当選しています。

村長を辞したあとは、農業のかたわら種々の仕事に携わりながら、文芸活動なども行っていましたが、1970年代に入って勃発したいわゆる「成田紛争」に首を突っ込み始め、1977年には千葉県成田市三里塚に移住。

新東京国際空港建設反対の立場を明確にして、「三里塚空港廃港宣言の会」代表に選ばれ、1983年の第13回参議院議員選挙の、比例代表区にも無党派市民連合から立候補しました。しかし落選。

このころから正々堂々どぶろくを活動方たちにふるまっていたようですが、これがバレて検察に告発されて行われたのが、上述の1985年の「どぶろく裁判」です。

この裁判の結果は、1986年の3月に千葉地方裁判所で下され、結果として前田さんは罰金30万円の有罪判決を受けました。控訴するも棄却され、1989年12月には最高裁判所にて上告棄却の判決が確定しました。

しかし、前田さんは、この裁判を通じて、食文化の一つであるどぶろくを、憲法で保障された人権における幸福追求の権利であると主張し、自家生産・自家消費・自家醸造の是非を問いました。

また、酒税法で設けられた様々な制限が、大量生産が可能な設備を保有できる大資本による酒類製造のみを優遇し、小規模の酒類製造業が育たないようにしているとも主張し、明治期以来の悪しき税制を破棄すべきだと訴えました。ちなみに、この前田さんは、この判決の4年後の1993年に自宅の火災により焼死しています。83歳でした。

このどぶろく裁判における最高裁判所の判決は「製造理由の如何を問わず、自家生産の禁止は、税収確保の見地より行政の裁量内にある」というもので、国が酒税をとることは明らかに合法である、という内容でした。

しかし、この判決はかねてよりどぶろくの自由化を求めていた人々には不評であり、逆に前田氏などの主張は共感を呼び、官側にも賛同する意見が相次いだといいます。元国税庁醸造研究所や東京国税局鑑定官を務めた穂積忠彦氏も、「酒つくり自由化宣言」という本まで出版し、酒税法は時代遅れの悪法であると主張しました。

このほかにも日本大学法学部教授の甲斐素直氏などが、「自分の造った酒を自由に飲む権利」は精神的自由権に属するものであると主張。またどぶろく裁判の最高裁判例が「租税」を根拠としたことについては次のように反論しました・

いわく、「明治30年時点で酒税は国の税収の3分の1に達するほどの比重を持っていたが、近年では1兆円程度で推移し総税収の1〜2%の比重しかなく、酒税法を取り巻く環境は急速に変化しつつあり、そうした中で、自己消費目的の酒作りを、依然として明治時代の発想のままに規制する根拠が存在するのかは、大いに疑問とされるようになってきている」。

また、「審査基準として明白性基準を採用した状況下においても、純然たる自己消費目的の酒造りが、国の税収を大きく左右するような可能性は全く失われた今日、明白に違憲とみなすことは十分に可能と言うべきであろう」とも甲斐教授は述べています。

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一方、酒税法が定める酒類製造業・酒類販売業における免許制度についても日本国憲法22条の「職業選択の自由の観点」からも批判する向きも多くなっています。

1998年に最高裁判所で下された別の裁判の判決でも、最高裁は、酒税法に規定されている「酒類製造免許」について、「原則的規定を機械的に適用さえすれば足りるものではなく、事案に応じて、各種例外的取扱いの採用をも積極的に考慮し、弾力的にこれを運用するよう努めるべきである」としています。

ようするに、酒の製造免許を、これを既得権益的に持ってきた酒造業者だけに持たせるのではなく、一般市民にも持たせることができるようにもっと国は努力しなさい、というわけであり、どぶろくの製造そのものは違法であるけれども、もう少しその規制のタガを緩めても良いのではないか、と裁判所もやんわりと国に指摘したわけです。

そもそも、酒造をこうした醸造業者にだけ作らせているのは、上述のように明治期の戦争に端を発した税制上だけの理由からだけです。

我々も納めている所得税などは申告税制になっていますが、家庭内酒造についても申告して納税さえすれば自由に認めるべきであるという意見もあり、税金を納めさえすれば、国に文句を言われる筋はありません。

税金を納めずに、脱税酒を造っている輩の摘発を強化すれば済む話であり、それをやらずにいるのは国の怠慢です。家庭酒造りを申告制にして、自由化すれば、地方の活性化につながると考える人も多く、酒造メーカーだけに既得権益与える醸造業者の保護政策は撤廃すべきだ、とする意見には賛同する人も多いのでしょうか。

こうした時代背景を受け、最近は地域産品としてのどぶろくを製造する地域が日本各地に増えてきています。どぶろく作りを実際に「地域振興」に生かそうと、2002年に実施された行政構造改革では、「構造改革特別区域」が設けられ、同特別区内でのどぶろく製造が認められるようになりました。

こうした特区内では、飲食店や民宿等で、その場で消費される場合に限り、販売も許可されるようになり、これは通称「どぶろく特区」と呼ばれています。ただし、同特別区外へ持ち出すことになる「みやげ物としての販売」に関しては、酒税法が適用されるため、酒類販売の許可および納税が必要となります。

この行政構造改革においては、酒税法において最低醸造量として定められていた年間6キロリットル(一升瓶にして約3326本)という制限も撤廃されました。しかし、アルコール度数の検査等については、どぶろく特区といえども酒税法で定められてる検査方法などでチェックされ、その内容はあまり変わっていません。

どぶろくを作ることができるのも、申請によって特区と認められた自治体だけであり、その申請の際の手続きも煩雑で手間がかかりすぎるという意見も多く、どぶろくの解放、ひいては家庭内での自家醸造の自由化には程遠い内容です。

しかし、それでも、町おこし、村おこしになるのなら、ということで特区への申請を行い、どぶろく作りに参画する自治体は全国にあまたあり、北海道から宮崎まで、現在全部で22もの市町村で「地場産どぶろく」が造られています。

これらのどぶろく特区となっている市町村の多くは、主に祭などのいわゆる行事に使う目的で製造している地域が多いようですが、山形県飯豊町のように特定の箇所でどぶろくを常飲できる地域も少ないようです。

が、いずれもどぶろく作りの最大の目的は地域振興であり、その地域の特色を生かしたネーミングと味が勝負の鍵を握っており、各地でどぶろくを通じて都市と農山漁村の交流を活発にする方策と地域の活発化の模索が続いています。

このほか、全国の特定酒類の製造者及び関係者等が一堂に会し、各特区認定のどぶろくの製造状況や活用方法、地域への波及効果等について意見・情報交換を行う、「全国どぶろく研究大会」が、2006年(平成18年)から毎年一回開催されています。

第2回大会からは、「どぶろくコンテスト」も同時開催されているそうで、「濃醇の部」、「淡麗の部」の二つの部門で審査表彰が行われているそうです。

酒好きの私もその表彰されたことのあるどぶろくを一度飲んでみたいと思うのですが、残念ながら、当静岡県には、ひとつもどぶろく特区はないようです。

なので、この地でどぶろくが飲めるようになるためには、ぜひ酒税法を改定していただき、合法的に自家製どぶろくを作れるようにしてほしいものです。今後、何がしかの選挙がある際には、そうした悪法の撤廃を声高にかかげる政治家にぜひとも一票を投じたいものです。

選挙といえば、「ドブ板選挙」と呼ばれるものがあります。

現在、公職選挙法では戸別訪問を禁止しているため、小規模施設での集会や、徒歩で街頭を回り通行人に握手を求めることくらいしかできませんが、かつての選挙活動では、候補者や運動員が有権者に会うために民家を一軒一軒廻った際、各家の前に張り巡らされた側溝(ドブ)を塞ぐ板を渡り、家人に会って支持を訴えたことが「ドブ板選挙」の由来です。

そうしたドブすらも、最近は下水道の発達によってほとんど見られなくなってしまいましたが、古来からあるどぶろくは今も健在です。

ぜひ、どぶろく大好きな政治家さんが増え、庶民の手にどぶろくを取り戻して欲しいと思います。

ちなみに、どぶろくは、加熱殺菌処理されていない生酒であるため、保存は難しいとされ、もろみを濾した後は冷蔵して早めに消費しないと、雑菌が繁殖するなどすぐ飲用に適さない状態になると言われています。

できたて、しぼりたての生のどぶろく、皆さんも自分で作ってご家庭で飲んでみたいと思いませんか?

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