ウルトラの父


梅雨明け以降、良いお天気が続きます…… というか、はっきりいって良すぎます。

もう少し雨を降らせてもらわないと、庭木にやる水の水道代ばかりかかるという切実な問題もあります。

雨乞いでもしようかな、とでも思うのですが、やり方がよくわかりません。

調べてみると、雨乞いの方法としては、山野で火を焚く、神社への参籠、神仏に能を奉納する、呪術、などのほかに、「禁忌を犯す」というのがあるようです。

禁忌を犯す?? は、何かと思ったら、通常は水神が住むとして清浄を保つべき湖沼などに、動物の内臓や遺骸を投げ込み、水を汚すことで水神を怒らせて雨を降らせようとするものだそうで、かなり過激です。

また、石の地蔵を縛り上げ、あるいは水を掛けて雨を降らせるよう強請するものもあるそうで、こちらはつまり脅迫です。穏やかではありません。

山野で火を焚くというのも消防法違反で捕まりそうなので、やめておきたいところ。

神仏に芸能を奉納する……音楽オンチなので踊れません。呪術は……呪いをかけた張本人は、それなりの報いを受けたり、場合によっては死んでしまうと聞いたことがあります。死んでしまっては雨が降っても仕方がありません。

と、いうことで、とどのつまりは、神社への参籠ぐらいがオーソドックスで無難な雨乞いのようなので、今日は午後からどこか涼しそうなところの神社にでもお参りに行ってきましょうか。

が、もしかしたら、ウルトラマンなら雨を降らしてくれるかもしれません。
おーい、うるとらまーん、とみんなで呼んでみることにしましょう。

……と、いうことで、昨日の引き続きです(……ちょっと苦しい前振り(-_-;) )

ウルトラの父

ウルトラマンのデザインは、前作「ウルトラQ」でも怪獣や宇宙人のデザイン、セットの美術デザインを依頼された彫刻家の「成田亨」という人物が担当しました。

しかし、ウルトラマンのデザインに関しては、この人が最終案としてのデッサンという形で残したものはありません。

実は、ウルトラマンの製作にあたっての仕上げの最終段階では、平面上でのデッサン作業には限界があると成田が判断し、この作業に見切りをつけたため、最終段階での「デザイン画」の決定稿というものはこの世に存在しないのです。

もし、そういうものが残っていたとしたら、おそらくは今日、ものすごく高額で取引されるプレミアムアイテムに違いありませんが、これまでのところ、そうしたものは発見されていないようです。

従って、ウルトラマンの撮影のためのスーツを造るための雛形は、成田の指示のもと、美術スタッフが粘土によって造型し、その作業を繰り返す中で、あの独特のマスクと身体の模様が次第に出来上がっていきました。

成田亨は、神戸市で生まれです。しかし、父の仕事の関係からか、幼少期より父方の故郷である青森市で育っています。1980年代に「エイリアン通り」などの独特の作風で一世風靡した女性漫画家の「成田美名子」はこの成田亨の従兄弟の娘にあたります(……といっても誰もしらないか)。

1歳になる前、青森県の自宅で、囲炉裏の火をつかもうとして左手に火傷を負い、数度の手術でも治らなかったそうです。小学校ではこの事でいじめられ、右手だけ描ける絵が救いとなったといい、この辺のエピソードは、同じ東北の福島県で生まれ、幼いころに手にやけどを負った野口英世と酷似しています。

まさか、共通点はないよな、と面白半分で二人の運命数を調べてみました。そしたら、なんと、二人ともその運命数が「6」だったのにはびっくりしました。

運命数というのは、西暦に直した生年月日をすべて足し込んでいき、最後に残った数字です。野口 英世は、1876年(明治9年)11月9日生まれなので、1+8+7+6+11+9=42、4+2=6です。同様に、成田亨は、1929年(昭和4年)9月3日で、合計33になり、3+3=6になります。

我が家の「なっちゃん文庫」にあった、「数霊法運命鑑」という本をみると、運命数6の人は、「離合集散常なき陰の数霊にして、吉凶相なかばし、混乱の巷を意味す」とあり、どうやら波乱万丈の人生を送るようです。

確かに、野口英世も、ノーベル生理学・医学賞の候補にまであがるほどの業績を残しつつも、アフリカで黄熱病の研究中に自身も罹患して亡くなるという、波乱万丈の一生を送っています。

成田亨もそうなのでしょうか。

旧青森県立青森中学校(現青森県立青森高等学校)卒業後、印刷工として働き資金を貯め、1950年武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)に入学。当初洋画を専攻していましたが、授業に不満を感じ、途中で彫刻学科に転科。彫金の作業中、移植した皮膚からはしばしば血が流れたといいます。

1954年、美術学校卒業後、友人に誘われ、東宝の映画作品「ゴジラ」にアルバイト参加。怪獣ゴジラに壊される建物のミニチュアを制作しており、以後、美術スタッフとして、各映画会社の特撮作品に加わるようになります。

1955年、彫刻作品で「第19回新制作展」に入選し、1956年武蔵野美術学校彫刻研究科(現大学院)を修了。この年正式に映画界入りし、以後様々な特撮映画作品に参加。1962年には第26回新制作展新作家賞を受賞しています。

この「新制作展」は、入選者数、受賞者数とも少なく、作品の質などから考えても、そのレベルは非常に高く、現在、国画会の国展、独立美術協会の独立展と共に、洋画部門ではハイレベルな御三家といわれている展覧会です。

1965年春、円谷特技プロダクションの契約社員となり、翌年の1966年、TBSの特撮テレビ映画「ウルトラQ」の第2クールから美術監督を務めるようになります。

続いてデザインを依頼されたのが、同じTBSの「ウルトラマン」であり、その後、「ウルトラセブン」(1967年、TBS)、「マイティジャック」(1968年、フジテレビ)などでも、怪獣やレギュラーメカのデザインを手がけました。これらキャラクターデザインに関しては、後述のとおり、後にその著作権を巡り、円谷プロと争うことになります。

1968年春、円谷プロを退社。「ウルトラセブン」の美術監督を中途降板した後、青森市で初の個展を開催。その後、大阪万博において岡本太郎がデザインしたかの有名な「太陽の塔」内部の「生命の樹」のデザインを手掛けているほか、沖縄海洋博でも「WOSくじら館」の内部企画デザインなどを任されています。

さらに映画の美術監督などを経て、全国各地で個展を開催しつつ、多くの著書・作品集を残しましたが、2002年2月26日、多発性脳梗塞により没。享年73歳でした。

野口英世ほど波乱万丈といえるかどうかは、議論の分かれるところですが、天才といってもよいほどの才能に恵まれながらも、ありきたりの成果には満足せず、不安定な生活の中に身を置き、自我を貫き通した末に一生を終えた、というところはやはり似ているように思います。

あなたも、ご自分の運命数を調べてみてください。そしてもし6だったら、波乱万丈の生になるのかもしれません。が、数霊の6は、「旧殻を破って新しき芽の伸び出る象を表す」ともあるので、新しいチャレンジに向いた人でもあるようです。がんばってください。

ウルトラマンのデザイン

さて、前述のとおり、成田は円谷特技プロダクション製作の「ウルトラQ」に途中参加し、番組内に登場する怪獣や宇宙人のデザイン、セットの美術デザインを手がけました。

この次回作「ウルトラマン」の企画では、主人公が正義の怪獣(宇宙人)という設定となり、当初「怪獣」のイメージから東宝特技課の美術監督渡辺明により、クチバシと翼を持つ烏天狗のような怪獣タイプのデザインが提案され、これを「ベムラー」と仮称することになった、という経緯は昨日書いたとおりです。

企画が進行し、主人公を「怪獣」から「宇宙怪人」にコンセプト変更されたのち、文芸部の金城哲夫は成田に主役ヒーローのデザインを依頼し、「いまだかつてない格好のいい美しい宇宙人が欲しい」と注文をつけます。

金城の依頼を受けた成田は、「宇宙怪人」のイメージとして、角を生やし、ダイヤモンドカットの髭を生やした宇宙人デザイン起こしましたが、これが、「科学特捜隊レッドマン」のヒーロー像の原型でした。

さらに検討が加えられるうちに、宇宙時代のヒーローとして、身体にぴったりフィットした宇宙服と、ヘルメットをベースとしたマスクデザイン画に変化。「人の顔」から余分なものを徹底的にそぎ落とす作業を繰り返していきました。

その作業の際に成田は以下の方針を立てています。

・広隆寺の弥勒菩薩像にも通じる、アルカイックスマイルをヒントにした口元
・能面のように単純化された様式でありながら、見る角度や陰影によって様々な表情を表す
・宇宙ロケットから着想を得た銀色の肌
・火星の模様からの発想による全身のライン

これらのデザインコンセプトを元に何枚かのスケッチを描いたのち、成田は平面画によるデザインを諦め、「ウルトラQ」で怪獣造形を担当した、武蔵野美大の後輩である造形家佐々木明とともに、粘土原型による直接の形出しに切り替えました。

佐々木の造形に、単純化されたデザインが間延びしないよう、目の位置や耳の角度など、パーツデザインにこだわり苦労しながら成田が手を加え、試行錯誤が繰り返されました。

こうしてようやく、日本初の巨大宇宙人ヒーロー「ウルトラマン」は、1尺サイズの粘土原型の形で完成するに至りましたが、既に述べたとおり、実物での造形を優先させたため、この姿を平面上に表したウルトラマンの最終デザイン稿は存在しません。

特徴的な銀と赤の体色に関して、当初は体のラインには宇宙感を示す青を考えていたようですが、この当時の特撮では撮影にあたってのその背景がブルーに設定されることも多く、青空に染まってしまうため断念し、このため赤いラインに落ち着いたということです。

カラータイマー

ウルトラマンの特徴の一つである「カラータイマー」は、子供にも視覚的にわかりやすくウルトラマンが弱っていることを示すためのちょっとした仕掛け、いわゆる「ギミック」として高い評価を受けました。

円谷特技プロ文芸部の発案で追加されたものでしたが、実はデザイン段階では存在せず、成田はこれを大変嫌っていたそうです。

しかし、「ウルトラマン」の次に円谷プロのスタッフとして成田が手がけることになった「ウルトラセブン」では、セブンの額にカラータイマーがとりつけられており、これは成田自身が取り付けたそうです。

成田は、「どうせ人から押し付けられて後から付けられるような事になるなら、最初から自分なりに選んだものを付けておいたほうがまだまし」という考えだったそうです。

このためセブンのときには、ウルトラマンの胸に取り付けられていたカラータイマーを廃し、自らがウルトラセブンの額に「ビームランプ」を設定し、カラータイマーの役割を兼用させることにしたのだそうです。

また、番組をよくみるとわかるのですが、ウルトラマンの「瞳」の下には小さな穴があいています。この「覗き穴」は、デザインを損なうとして最初にはなかったものですが、ウルトラマンの着ぐるみの中に入る「演者」であった俳優の「古谷敏」の視界確保のために、のちに取り付けられたものだそうです。

新番組の放映にあたっては、その番宣のためマスコミを招いてのスチール撮影会である「第一回特写会」というものが開かれましたが、この「特写会」で覗き穴をどう処理するか成田も決めかねていてそうです。

結局、当日になり、視界をほとんど確保できないままでウルトラマンの着ぐるみを着て登場することになった古谷は、円谷英二社長やマスコミ関係者の見守るなか、手を引かれるようにして、よろめきながらステージに立つような状況だったそうです。

これを見ていた成田は、結局この「第一回撮影会」の休憩時間に、控室にドリルを持ち込み、自らがデザインしたそのスーツにその場で「覗き穴」を開けています。当然、これは成田にとっては不本意なことであり、このときの成田を見た関係者は「怒っているようでもあり、マスクに傷を入れるのを悲しんでいるような複雑な表情だった」と語っています。

のちになって成田はアクターの古谷に、「やるせなかったが、あの場では仕方がなかった。実際の撮影では戻すつもりだったが、時間もなく面倒くさくてあのままにしてしまった。デザイナーとしては失格だったよ」と心情を吐露したそうです。

その後実際に撮影が始まりましたが、その特撮ステージにおいても最初の穴の大きさでは視界が不満足であることがわかり、古谷の依頼で機電担当者によってさらに穴が拡げられました。

このように、成田は自分が納得して完成させたデザインを、人に言われて修正するようなことをとくに嫌っていたようで、成田による最初のウルトラマン彫刻には、原則としてカラータイマーも目の覗き穴も存在しておらず、その後彼が書いたイラストなどにもこれは書き込んでありません。

怪獣のデザインの特徴

成田は「ウルトラマン」やその後の「ウルトラセブン」に登場する怪獣のほとんどをデザインしています。このデザインにおいて成田は、コスモス(秩序)の象徴としてのウルトラマンに対し、怪獣は「カオス(混沌)」の象徴という理念でデザインしたそうです。

あらゆる生物や無生物からヒントを得ながらも意外性を求め、自由な変形や組み合わせにより独創的な形の創造を目指したといいますが、内臓が露出していたり、顔が崩れていたりする嫌悪感を示すような怪獣は子供番組に適さないと考え、けっしてこうしたデザイン案は出しませんでした。

演出家や監督は、ウルトラマンに対峙する怪獣は恐ろしい外見をした悪役らしいインパクトのある物にしようと考えていたようですが、成田は彼らを説得する上でも重要と考え、ウルトラ怪獣のデザインに当たり、次の三原則を打ち出しました。

1.怪獣は妖怪ではない。手足や首が増えたような妖怪的な怪獣は作らない。
2.動物をそのまま大きくしただけの怪獣は作らない。
3.身体が破壊されたような気味の悪い怪獣は作らない。

また、侵略宇宙人のデザインについて、「地球人にとっては悪でも、彼の星では勇者であり正義なのだから、”不思議な格好よさ“がなければいけない」とも述べています。

バルタン星人は今でも人気怪獣であり、成田の代表作と取られがちですが、成田自身は「セミ人間に角と大きな鋏をつけてくれという無意味な注文が嫌だった」と、撮影所で目にしたその最終形も毛嫌いしていたそうです。

逆にケムール人は、自身の芸術的理想に照らして会心の宇宙人として挙げているそうで、ご存知の方はこのケムール人がどんなものかすぐに目に浮かぶと思いますが、少々おどろおどろしい幽霊のような形をしています。

このあたり「怪獣然」としたゴツゴツとした怪物の造形には優れていたものの、いわゆる「人型」の怪獣については、これを支持するファンの希望するデザインとの間に乖離があったように思われ、「ウルトラマン」の形が万人に受け入れられたのはむしろ不思議なことのようにも思えます。

成田はまた、たとえ自らが定めた三原則に沿っていたとしても、後に別のデザイナーにより生み出されていったような奇怪で複雑なウルトラ怪獣のデザインをも嫌っていたそうです。

表現の初期衝動を大事にせず、既存の怪獣デザインの枠内だけで新しいデザインを考えるといった安易で狭い姿勢の若いデザイナーを批判していたそうで、物のかたちの根底や問題の根源は何かといったことを考えず、既に誰かがデザインした怪獣の単なる組み合わせや、これを複雑化したにすぎないデザインは堕落であるとまで言っていたようです。

「新しいデザインは必ず単純な形をしている。人間は考えることができなくなると、ものを複雑にして堕落してゆく」と雑誌の取材でも述べています。

最終的には銀色塗装に落ち着いたウルトラマンとウルトラセブンの体表の金属感の表現にも不満だったそうで、1972年に日本テレビで放映された「突撃! ヒューマン!!」の主役ヒーロー「ヒューマン」のマスクデザインは、ステンレスの叩き出しによる金属成型で表現し、これを成田は「会心の作」と述懐しています。

この番組は、視聴率も低く、どんなヒーローだったか私自身も見た記憶がないので、ネットで調べてみたのですが、ウルトラセブンとアンパンマンに出てくるドキンちゃんを合わせたような様相であり、私自身は、ムムム……というかんじです。みなさんもネットで探せばすぐにみつかると思いますが、どう思われるでしょうか。

メカデザインなど

このほか、成田は、「ウルトラQ」から「ウルトラセブン」における主要メカニックや小道具なども、その多くをデザインしています。

しかし、オリジナルのメカ自体が少ない「ウルトラQ」はともかく、「ウルトラマン」では彼がデザインした主役メカと言うべき「ジェットビートル」が諸事情で間に合わず、東宝映画「妖星ゴラス」(1962年)で用いたプロップと同じ木型から作った複製を使用せざるを得なかったそうです。

そういえば、その後のウルトラセブンに出てくる「ウルトラホーク」比べて、ウルトラマンに出てくるビートルはまるでおもちゃのようで、エライちゃちいな~と子供心に私も思った記憶があります。

成田自身も、ウルトラマンにおいて、自らがデザインした他のメカ・小道具等との統一性が図られなかった事を後々まで悔やんでいたそうです。

「ウルトラセブン」ではトータルデザインを重要視し、主役級メカをはじめ、特捜隊の極東基地全体の構造図、隊員服、ビデオシーバー等の小道具、さらに基地作戦室のパーマネントセットに至るまで一貫したカラーの元にそのデザインが企画されました。

これらのメカはプラモデルとしても発売され、私も自らが完成させた主役機「ウルトラホーク」はカッコいい!と思い、何度もこれで遊んだのを覚えています。

また、成田の作品ではありませんが、東宝が作成した「キャプテンウルトラ」に登場する主機のデザインなども秀逸であり、今でもこの当時の特撮映画のデザイナーさんたちのデザインというのは、およそ現在の戦隊ヒーローものに出てくるものなどよりもはるかに高水準で美しいと思います。

復刻版でも作ってもらえれば、今でも手にしてみたいほどなのですが、人気があっただけに、おそらくこうしたものも中高年向けに販売されているかもしれません。今度探してみましょう。

円谷プロとの対立

さて、こうして世界にも類例のないようなユニークなウルトラマンは大ヒットテレビ番組として精彩を放ちながらもその短い放映を終えましたが、その成功の功績は無論、成田によるところが大きいといえるでしょう。

しかし、造形やストーリー・演出も重要な成功要素であり、これらをすべて統括していたのは、円谷プロという組織でした。

成田も、その円谷プロの一社員として制作スタッフに参加していたにすぎず、このため作品内におけるすべての権利は製作会社に帰属することになっていました。

ところが、成田は後年になってこのことの不満を漏らすようになり、ウルトラマンやその他の怪獣のデザインに関する著作権を主張するようになります。そして、作品そのものの著作権を持つ円谷プロに対して一方的な対立姿勢をとるようになり、ついには裁判訴訟を起こすまでに至りました。

この当時、成田の肝入りにより朝日ソノラマから「円谷プロ作品における成田画集」なるものが出版されましたが、円谷プロがこれについてクレームを入れてきたことから、「なぜ、俺の絵を出版するのに円谷プロの許可が必要なんだ」とこの当時既に円谷プロからの退職を表明していた成田は猛反発。本人の意向により絶版になるなどの事態が生じています。

円谷プロ退職後も、何度かあった新しいウルトラシリーズへの円谷プロからの参加依頼に対して成田がこの著作権のロイヤリティーの話を持ち出したため、円谷側のスタッフが怒って席を立ってしまう、ということもあったそうです。

こうして、成田を原告として円谷プロを相手取り民事訴訟をおこされましたが、結局裁判は判決を待たずに「原告側の訴訟取り下げ」により終了しています。

社員であった当時にデザインや設計を行ったものの権利はその所属会社に属する、というその後も多くの他の裁判事例で標準的ともいえるようになった判決結果をながめつつ、自らが起こした裁判の成りゆきにも同じ結果が待っていると観念したためでしょう。

その後

その後、成田亨は、円谷プロが手がけた「平成第2期ウルトラシリーズ」と呼ばれるウルトラシリーズのひとつ、「ウルトラマンコスモス」が放映されている中、2002年(平成14年)に亡くなっています。

成田が手がけたウルトラマンやウルトラセブン以降、これらの作品の流れをくむ作品群は「ウルトラシリーズ」として継承され、各作品のヒーローは「○○ウルトラマン」「ウルトラマン○○」と呼称されるようになりました。

TBSは、「ウルトラマン」の後もこの「ウルトラシリーズ」の続行を望みましたが、円谷特技プロが赤字を理由にこれを断ったことから、これに代わって、東映によって「キャプテンウルトラ」が制作され、これをTBSは「ウルトラQ」、「ウルトラマン」に続く、「宇宙特撮シリーズ」、「ウルトラ・シリーズ第三弾」として内外にセールスしました。

しかし、「キャプテンウルトラ」の平均視聴率は25.6%であり、 1967年の第2話では、最高視聴率32.2%を記録したものの、その後も視聴率はふるいませんでした。

25%超の視聴率といえば、普通ならば大ヒットと言えるところですが、前番組「ウルトラマン」が平均36.8%という驚異的な数字を獲得していたために、スポンサーの武田薬品側も納得せず、TBSに対してクレームがつきました。

このため、これを製作した東映の平山亨プロデューサーはTBSの上層部から何度も叱責されたといい、「キャプテンウルトラ」の終了後、この番組枠は再び円谷特技プロ制作作品に戻ることになりました。

こうして、円谷プロにより「ウルトラセブン」、「怪奇大作戦」が「ウルトラシリーズ」として製作され、TBSで放送されることになりましたが、結局、TBSの番組枠として制作された「ウルトラシリーズ」は、以下の5作品で終わりました。

ウルトラQ 1966年(昭和41年)、全28話(円谷プロ)
ウルトラマン1966年(昭和41年)~1967年(昭和42年)全39話(円谷プロ)
キャプテンウルトラ1967年(昭和42年)全24話(東映)
ウルトラセブン1967年(昭和42年)~1968年(昭和43年)全49話(円谷プロ)
怪奇大作戦1968年(昭和43年)~1969年(昭和44年)全26話(円谷プロ)

以後、「ウルトラシリーズ」の製作は、円谷プロダクションが現在に至るまで継続していますが、その放映権の取得は、朝日放送や毎日放送、日本テレビと転々と変わり、最新作の「ウルトラマンメビウス」は再びTBS系列の各局で放映されました。

ただし、かつてのように特定の局が円谷プロや強力なスポンサー一社とだけ組んで、特定の番組を造る、といったことは、今では行われなくなっています。

TBSが円谷プロに依頼して制作した「特撮もの」としては、「ウルトラシリーズ」とは別に、「仮面ライダーシリーズ」「スーパー戦隊シリーズ」「メタルヒーローシリーズ」がありますが、これらもまた日本の代表的な特撮作品シリーズとしての金字塔を立てました。

これらの作品を「ウルトラシリーズ」のひとつとして語る向きもありますが、ウルトラマンが登場するのは本家の「ウルトラシリーズ」だけであり、正当な後継とはいえないでしょう。

現在に至るまでのところの「ウルトラシリーズ」の最新作は、「ウルトラマンメビウス」ということにはなりますが、中部日本放送(CBC)・TBS系列で全50話が放送され、2007年(平成19年)に終了して以降、TV番組としてのウルトラシリーズはその後6年にも及ぶ休止期間に入っています。

この前にも休止期間があり、これは「ウルトラマン80」から「ウルトラマンティガ」までのTVシリーズの16年間でした。

今後またこのウルトラシリーズが復活するかどうかは、不透明です。しかし、ウルトラマンシリーズの復活を望む声は高いといわれ、関係者の間ではこの作品を放送する環境は好転していると受け止められているようです。

ところで、成田亨は、1989年(平成元年)に、初代ウルトラマンのリデザインを試みています。

円谷プロがオーストラリアで新しい「ウルトラマン」を撮影する計画を立ち上げ、成田に新たなウルトラマンと怪獣のデザイン依頼を打診したそうで、結局成田のデザインは採用されませんでしたが、これは後に「ウルトラマンG(グレート)」として映画化されました。

成田は直ちに新ウルトラマンのデザイン画を描き上げ、これは「ウルトラマン神変」と題されたそうです。そして、その新しいウルトラマンのデザインはなんと、金色のボディに黒いラインだったといいます。

当時成田の頭の中には金と黒がヒーローのイメージカラーとしてあったようで、ウルトラマン、ウルトラセブンなどに続く全く新しいヒーロー像として1996年の成田亨特撮美術展で発表された「ネクスト」も金と黒だったといいます。

オーストラリア版「ウルトラマン」のほうは、成田がデザイン料として著作権の30%を要求したため、円谷プロと折り合いが付かず、結局成田の登板は実現しなかったということです。

しかし、もしこの金色のウルトラマンが採用され、かつてのウルトラマンのような人気を博していたとしたら、もしかしたら、2020年の東京オリンピック実現のあかつきにはメインキャラクターとして採用されていたかもしれません。

無論、何の根拠もなく、私がそう思うだけですが、新制作展の受賞者であり、万博や海洋博といった国家的な催しのデザインを数々担い、かつ、国民的ヒーロー像ともいえるウルトラマンというキャラクターを生み出した功績は大いに称えられてよく、もしご存命だとしたら、こうしたオリンピックのような国家事業のデザインを担う人物としては最適です。。

また、東京オリンピックが行われた1964年の二年後に放映されたこの「ウルトラマン」は、その後の日本の高度成長期の象徴のような気がしてなりません。

だとすれば、長い不況を乗り切るため、新たな東京オリンピックの象徴としてこの「ネクスト」なる新ウルトラマンを採用するならば、きっとうまくいくに違いない、なんとなくそう思えるのです。

単に思いつきにすぎませんが、もし、本当に次会の東京オリンピックが決まったならば、そのマスコットとして、この「新生ウルトラマン君」が採用されてもいいのではないでしょうか。

何度も繰り返しますが、単に私の思いつきにすぎません。忘れてください。

さて、昨日今日と、この項はかなり長くなりました。久々のことです。子供のころに大好きだったヒーローに関するものだっただけに、少々思い入れもあったのかもしれません。もう少し書き足りないこともあるのですが、今日はもう終わりにしたいと思います。

暑い日が続きます。熱中症にお気をつけください。