ポストを愛すと…

2014-1100892今週から、一週間は「ポスト愛護週間」だそうです。

今週末の4月20日は、日本で初めて郵便制度が始まった日ということで、逓信記念日=郵政記念日となっているようで、このため郵政省と全国郵便切手販売協会が、郵便ポストを大切にし、お客様とポストの親近感を深めようとこの一週間をそれに充てることに決めたということのようです。

ポストを愛護するってどうするんだろーなー、雑巾がけでもしてやるんかい、と突っ込もうと思ったら、本当にこの一週間のあいだは全国でポストの清掃活動などをやるようです。ただし、これは必ずしも郵便局員がということではなく、地元の小学校の児童などがボランティアでやるのだとか。

また、「ポスト感謝祭」なるものを開催する地域もあるそうで、こちらはもっと小さな幼稚園や保育園の子どもたちが郵便局へ行くか、逆に郵便局員さんがこうした施設にやってきて、いろいろな交流行事をやるのだそうです。

郵便局員が持ってきた臨時のポストに園児たちが、自分で書いたハガキを投函したり、その「ポストさん」へ手作りの帽子を作ってあげたりし、「真っ赤なお顔のポストさん、雨の日も雪の日も頑張ってくれてありがとう。これからもよろしくね」という子ども達の言葉に対して、ポストさんもさらに顔を真っ赤にして喜ぶのだといいます。

近代日本の郵便制度改革は、明治維新で開催されるようになった議会において、それまでは東京~京都~大阪間の政府の手紙等の配達に毎年1500両が幕府から支出されていたのを改め、政府の公的な手紙配達に併せて民間の手紙配達も行い、これによって利益を出そうという提案が前島密から出されたことに始まります。

この前島密(ひそか)という人は、日本の近代郵便制度の創設者といわれる人で、今も現役で使われている1円切手の肖像でその顔が知られています。「郵便」や「切手」、「葉書」という名称を定めたのもこの人で、その功績から「郵便制度の父」と呼ばれています。

天保6年(1835年)に越後国(現在の新潟県上越市)の豪農の子として生まれましたが、父が間もなく亡くなり、母方の叔父の糸魚川藩医に養われるようになったことで、この医家でその後の教養の基礎を身につけることになりました。

結構な神童だったらしく、わずか12歳で江戸に出て医学を修め、蘭学・英語を学んでおり、23歳のときには航海術を学ぶため箱館へ行くなど、このころの最新の知識をふんだんに摂取しながら成長しました。

30歳のときには既に蘭学者として著名となっており、薩摩藩の洋学校(開成所)の蘭学講師となりましたが、ちょうどそのころ、幕臣前島家の養子となり、家督を継ぐようになりました。この前島家は結構格の高い家だったようで、そのため前島も幕政にも口をさし挟めるほどの立場になりました。

このころ、教育の普及のためと称して、漢字を廃止し平仮名を国字とすることを主張した「漢字御廃止之議」を将軍・徳川慶喜に提出していることなどもそのひとつの表れです。

漢字を廃止するなんて無茶苦茶な、と思われるかもしれませんが、現在において漢民族を主な住民としない国で漢字を使っているアジアの国は日本だけであり、朝鮮半島およびベトナムなどでもすでに漢字の使用は事実上消滅しています。

その理由としては自国の独自文化を重んずる外来文化の排他運動の一面もありますが、もっと実用的な側面として、漢字が活字印刷の活用、とりわけ活版印刷において決定的な障害となっていたことなどが挙げられます。

確かにワープロの変換作業などにおいて漢字を使いながら文章を綴っていくという作業は、かなりしんどいものがあり、ましてはや手書きともなると、これはかなり高度な技術活動です。かつて私も英語を使って生活をしていた時代には、あー26文字しかない英語ってなんて楽なんだろう、と実感したこともありました。

が、これだけ複雑な文字と仮名を合わせて繊細な表現をすることのできる日本語というのは世界に類をみないほど美しい言語であり、かつそれを自由自在に操ることができるからこそ日本人は頭がいいのだ、と主張する人もいることは確かです。

前島が漢字撤廃を提唱したのは、漢字を書いたり印刷する手間を省き、国政を効率化させたい、ということが理由だったようですが、最近はコンピュータ等による漢字変換技術も進んでいることから、手書き原稿を前提とした漢字制限・字体簡略化論はその有効性を失っており、こうした漢字廃止論もあまり議論されることがなくなりました。

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とまれ、そうしたワープロやタイプライターもない時代に、この前島密という人は、漢字の有効性についての議論を世に問うたという点などをみても、非常に先進的な頭脳を持った人とであった、ということは想像できます。

幕臣の立場であったために、明治維新が起こった直後には政府に登用されませんでしたが、そうした先進性が認められ、明治2年(1869年)には明治政府の招聘により、民部省・大蔵省に出仕することになり、これを機会それまで前島来輔と名乗っていた名前を、密に改名しました。

なぜ、密という名前にしたかについては、よくわかりませんが、この漢字の持つ意味としては、「秘密」という言葉があるように、ぴたりと閉じて外から見えない、あるいは人にわからぬように隠しているさまを指します。

が、これとは別に「深く閉じて人の近づけない山」といった意味もあるようなので、そうした奥深い人物になることを願っていたのでしょう。

翌年の明治3年(1870年)には、「駅逓権正」となりますが、これは翌年郵便事業が発足した際に設定された「駅逓頭」すなわち、のちの郵政大臣に次ぐ、ナンバー2の地位です。前島はこの立場において太政官に郵便制度創設を建議し、この年にはまた郵便制度視察のために渡英しています。

こうして1871年(明治4年)4月20日に我が国の郵便事業はスタートしましたが、この郵便事業は宿駅制度をつかさどる「駅逓司」という省庁の所管でした。その初代駅逓頭には浜口梧陵という人がなり、こちらはヤマサ醤油の創業者としても知られています。

津波から村人を救った物語「稲むらの火」のモデルとしても知られ、以前このブログでも取り上げたことがあります(自己犠牲とてんでんこ)。

この初代駅逓頭への就任は、大久保利通の要請によるものでしたが、次官になった前島密との確執もあって、浜口は半年足らずで辞職し、その後継指名を前島が受けました。

近代郵便事業の展開が本格的になされるようになったのは、この第2代駅逓頭となった前島密の代からです。当初駅逓司は民部省に所属していましたが、その後大蔵省・内務省・農商務省と転々と所属が変わる度に組織が大きくなり、この間に「駅逓寮」「駅逓局」と昇格していきました。

そして、1885年(明治18年)に逓信省が設立されると「駅逓局」、すなわち現在の郵便局はその所属となりました。つまり、この逓信省は、2001年に廃止されることになった郵政省の前身ということになります。

明治4年(1871年)には駅逓頭になった前島は、その後の日本の近代的郵便制度の基礎を確立していきましたが、このほかにも数々の民間企業の設立にも関与しており、現在の日本通運株式会社の元となる「陸海元会社」を設立するとともに、郵便報知新聞、すなわち現在の「スポーツ報知」の設立にも関わっています。

明治11年(1878年)には、元老院議官となり、その翌年には内務省駅逓総監に任じられるなど、文字通り郵政一筋の人生を歩みましたが、明治14年(1881年)憲法制定・議会開催が争点となった、いわゆる「明治十四年の政変」においてはイギリス流の議会体制を推し進めようとしていた政府主筋と対立して辞職。

大隈重信らとともに立憲改進党を創立するとともに、大隈が設立した東京専門学校、すなわち現在の早稲田大学の、二代目校長に就任(初代は大隈)。また関西鉄道会社社長するなど、官を辞したのをこれ幸いと、現在までも続く数多くの民間機関の創設に関わりました。

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しかし、明治21年(1888年)には政府に請われて逓信次官に復職。明治24年(1891年)に退職するまでの間に官営電話交換制度にも着手し、これはのちの電電公社、現在のNTTの発展にもつながっていきました。

こうした功績に対して明治35年(1902年)には、男爵の称号が授与され、明治38年(1905年)には、貴族院議員にも選任されましたが、大正8年(1919年)、神奈川県の三浦半島にあった別荘にて没。84歳の大往生でした。

この前島密が1871年(明治4年)に導入した郵便制度はイギリスのものを手本としており、東京~大阪間62箇所の郵便取扱所に集積された郵便物を官吏が引き受けるというものでした。

管理・配送時間は厳しく守られ、従来の飛脚は丸笠をかぶった郵便配達員に取って代わられ、東京~大阪間144時間だったのを78時間に短縮しました。翌1872年には全国展開が図られ、江戸時代に地域のまとめ役だった名主をほとんど無報酬で要請・任命し、彼らの自宅を郵便取扱所として開放させました。

1873年(明治6年)には全国約1100箇所の名主が新たな国の役割を担える郵便取扱所として自宅を使うことを快諾し、それまでの主流であった飛脚やかごはやがて姿を消していきました。

しかし明治4年4月に日本の郵便事業が始まった当初は特に定められた徽章はなく、「郵便」の文字だけでした。このため明治10年(1877年)からは、「日の丸」をイメージした大きな赤丸に太い横線を重ねた赤い「丸に一引き」が郵便マークとして用いられ始め、「丸に一引き」は郵便配達員の制帽・制服・郵便旗などに記されるようになりました。

明治17年(1884年)6月23日太政官布達第15号により、この「丸に一引き」は正式に「郵便徽章」と定められましたが、その翌年の明治18年(1885年)には郵便等の所管官庁として正式に「逓信省」が創設されました。

これを契機に、この徽章も国際的にも認められるようなよりセンスのいいものに改めようという意見が出されたため、その二年後の明治20年(1887年)2月8日には、当時の逓信省が「今より「T」字形を以って本省全般の徽章とす」と告示し、このTの字が正式な郵便マークのさきがけとなるはずでした。

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ところが、2月14日に逓信省はTの字を「〒」に変更し、2月19日の官報でも「実は「〒」の誤りだった」という内容を正式な発表として公表しました。

このTが〒になった経緯に関しては、諸説あるようですが、そのひとつは、「T」にすることで最初から決まっていたものの、後日調べてみると「T」は国際郵便の取扱いでは、郵便料金不足の印として万国共通に使用されていたというものです。

このため、これによく似たマークは適当ではないということで、「〒」に訂正した、という説がよく言われている説で、この訂正にあたっても、「テイシンショウ」の片仮名の「テ」を取ってそうしたのだという説と、単純に「T」の上に一本足して「〒」とした、という二つの説があるようです。

この「Tの上に棒を一本加える」というアイディアは、初代逓信大臣であった榎本武揚が出したとも言われているようです。

それにしてもなぜ「T」だったのかについても、漢字の「丁」が逓信の「逓」の略字としてみなせるからだという説と、「逓信」をローマ字で表した「Teishin」の頭文字だという説のふたつがあるようです。

いずれにせよ、これ以降は「〒」の徽章が、郵便配達員が身につける帽子の正面や制服上着の袖口、郵便旗、あるいは書状集め箱(現在の郵便ポスト)につけられるようになりました。また、徽章はこれ以前の「丸に一引き」を引き継ぎ、「〒」を丸で囲んだものと定められました。

ちなみに、この〒マークの縦棒と横棒の比率は、昭和25年(1950年)の郵政省告示第35号により横棒のほうが縦棒より広い(長い)のが正しい記号だそうです。

こうして郵便事業が発足してから、30年ほどを経た1900年(明治33年)にはそれまでの郵便規則・郵便条例・小包郵便法などが統合され、郵便法(旧)が制定されました。1920年(大正9年)には、さらに貯金局と簡易保険局が設けられ、その後郵便事業は通信院・逓信院・復活した逓信省を経て、郵政省に受け継がれることになっていきます。

ところで、この「逓信」という文字の由来ですが、これは、駅逓の「逓」と電信の「信」を合わせたもので、ともに逓信省の母体となった組織である、「駅逓局」、「電信局」の名前から1字ずつ取ったものだと言われています。また「逓」という漢字には“かわるがわる伝え送る”という意味があるそうです。

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電信のほうは明治以後に欧米から導入された技術であり、江戸時代以前には存在しませんが、駅制度のほうは、江戸時代よりはるか昔の飛鳥時代から存在します。「駅」とは古代の律令制で設けられた“駅家”を指し、これは「駅」とも略して使われ、いずれもが「うまや」と訓読みされます。

京を中心に街道に駅(うまや)が設けられ、駅に備えられた駅馬を乗り継いで通信が行われ、重大な通信には「飛駅(ひえき)」と呼ばれる至急便が用いられました。

「飛駅」には「駅鈴」が授けられました。これは官吏の公務出張の際に、朝廷より支給された鈴であり、官吏は駅において、この鈴を鳴らして駅子(人足)と駅馬を集めました。また、古くは馬だけでなく、船も運搬に使われたため、「駅舟」ということばもあったようです。

それぞれの駅では、官吏1人に対して駅馬1疋を給し駅子2人を従わせ、うち1人が駅鈴を持って馬を引き、もう1人は、官吏と駅馬の警護をしました。

現在残っているこの駅鈴の実物はわずかです。国の重要文化財に指定されている「隠岐国駅鈴」の二つだけで、これは、幅が約5 cm、高さ約6.5 cmほどの青銅製で、島根県隠岐の島町の玉若酢命神社に隣接する億岐家宝物館に保管・展示されています。

1976年(昭和51年)に発売された20円はがきの料額印面の意匠にもなったため、覚えている人も多いかもしれません。

その後、8世紀末頃になると、律令制は実効性が薄れ、実際には運用されなくなるなどほころびが目立つようになり、桓武天皇の時代に行われた長岡京・平安京への遷都などを機に完全にその制度が崩壊したため、この駅制もまた廃れていきました。

しかし鎌倉時代に復活し、公用便として鎌倉飛脚・六波羅飛脚などが整備されました。これは馬を用いた飛脚で、京都の六波羅から鎌倉まで、最短72時間程度で結んだといわれています。

鎌倉時代には、それまでに廃絶してしまっていた「駅」に代わり、「宿」がその代りをするようになり、宿はまた商業の発達に伴い各地で作られ、多くの人に利用されるようになっていきました。

しかし、戦国時代には、戦国大名をはじめとする各地の諸勢力が領国の要所に関所を設けたため、領国間にまたがる通信は困難になりました。とはいえ、戦国大名が書状を他の大名に送るためには飛脚が必要であり、このため家臣や寺僧、山伏が飛脚として派遣されました。

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江戸時代に入ると、幕府は飛脚制度を重視し、五街道や宿場などの交通基盤が整備して、飛脚による輸送・通信制度を整えていきました。

とはいえ、江戸時代の飛脚もまだ馬と、人の駆け足だけが主要な交通手段でした。しかし飛脚の種類としては、公儀の継飛脚の他、諸藩の大名飛脚、また大名・武家も町人も利用した飛脚屋・飛脚問屋と呼ばれた町飛脚などへの分化が進み、いずれもがこの当時の主要な通信手段として重要な役割を担いました。

とはいえ、これらの飛脚の利用は明治以降の郵便制度に比較すると費用的にも非常に高価であり、町飛脚なども庶民にはあまり利用されませんでした。天候にも左右されやすく、また江戸大阪間は一業者で届けられますが、江戸以東や大阪以西となると、今度は別業者を雇わなければなりません。

その連携は必ずしも円滑ではなく、このため書状などが期待した期日に届かないしこともしばしばだったようであり、また毎日配達しないため、別々の日に出された書簡をひとつにまとめて配達されるということも多く、そのための時間ロスも多かったようです。

この当時の書状は「親書(信書)」であることも多く、しばしば儀礼のために出されるものでもあったため、身分の高い武士や豊かな商家などでは、このように時間のかかる飛脚業者に頼まず、わざわざ自分の使用人を使って書状を運ぶことも多かったといいます。

とはいえ、江戸期を通じて、「システム」としての飛脚制度は、一応完成の息に達し、江戸時代中期〜明治初年における民間の飛脚問屋は、基本的には決められた「定日」に荷物を届けることを目標として運営されました。

決められた日に荷物を集荷すると、荷物監督者である「宰領」が主要街道の各宿場の伝馬制度を利用して人馬を変えながらリレー輸送し、荷物を付けた馬と馬方を引き連れた宰領は乗馬し、防犯のため長脇差を帯刀しました。

宿泊は指定の「飛脚宿」に泊り、盗賊の攻撃などにも気を配りました。しかし、人馬が疲労・病気などによって継立(馬方や馬の交換)がうまくいかなかったり、河川増水(川止め)、地震遭遇など不慮の人災・天災もあり、延着・不着・紛失もかなりありました。

このため、高額の金を支払い、一件のために発したのを「仕立飛脚」といい、また早便として「六日限」「七日限」などの種類がありましたが、やはり不測の事態は常にあり、遅れがちであったといいます。

このため飛脚を扱う飛脚問屋もまた、こうした事態に対処するため常にその賃銭を高めに設定したがり、これが飛脚を仕立てる費用をより高額にしていきました。

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こうした一般の武士や庶民も利用できる飛脚は「町飛脚」と呼ばれ、「継飛脚」「大名飛脚」と呼ばれるような公用のための飛脚とは区別されていました。

継飛脚(つぎびきゃく)は、幕府の公用便で、老中、京都所司代、大坂城代、駿府城代、勘定奉行、道中奉行だけが使うことを許されていた飛脚です。書状・荷物を入れた「御状箱」を担ぎ、「御用」と書かれた札を持った二人一組で宿駅ごとに引き継ぎながら運び、その費用として幕府から宿駅に「継飛脚給米」が支給されていました。

また、大名飛脚は、各藩が主に国許と江戸藩邸を結んで走らせた飛脚で、飛脚はその藩の足軽もしくは中間から選ばれることが多く、多くの藩では独自の飛脚を持っていましたが、維持費が嵩むことなどから、民間の町飛脚に委託する藩も多かったようです。

一方の町飛脚のほうは、1663年(寛文3年)幕府許可が出たために開業が始まり、大坂・京都・江戸の三都を中心に発達しました。1698年(元禄11年)に京都では町奉行が飛脚問屋16軒を「順番仲間」として認め、毎夕順番に発信するようにしたため、これ以後、「定期便」としての飛脚システムが確立しました。

ところが、宿駅の交通量が増え、人馬継立が混み合うようになると、次第に飛脚の延着が目立つようになりました。このため、江戸の飛脚問屋9軒の願いにより、幕府は1782年(天明2年)、宿駅での人馬継立をこれらの飛脚問屋に優先的に管理させる特権を認めました。

この優先利用にあたっては、その権利料が「御定賃銭」として幕府に支払われるしくみで、これにより、飛脚問屋による継立をコントロールしやすくし、遅延を減らすことが狙いでした。

しかし、この取り立て料金がかなり高めであったため、町飛脚にかかる費用はかなり高額になるとともに、飛脚問屋への特権集中は所得格差や労働環境の差別化などの問題も生み出しました。

こうした特権を行使した飛脚問屋を「定飛脚問屋」といい、この制度の導入により地方の城下町などでも高利をむさぼる飛脚問屋が増えていきました。

しかし、このことにより飛脚制度そのものはある程度安定し、延着は比較的少なくなりました。とはいえ、人馬を利用するものであり、江戸~京坂を結ぶ飛脚のうちの最低料金の「並便り」などでは、日数の保証はありませんでした。また、昼間のみの運行であり、また駅馬の閑暇を利用して運行する関係上、片道概ね30日を要しました。

これより急を要する場合はやはり金がモノをいいました。所要10日の「十日限」(とおかぎり)、6日の「六日限」あるいは「早便り」の利用が可能であり、更に火急の書状では「四日限仕立飛脚」が組まれることもあり、料金4両を要したといいます。一両は今の価値の
12~13万円ですから、軽自動車一台分の購入費用に相当します。

こうして「定飛脚問屋」の導入によって飛脚の遅延は軽減され、飛脚制度は定着したかのように見えましたが、しかし、その後江戸・京阪の人口はさらに増えていったことから、東海道の通信量は目立って増加するようになっていきます。

増加と共に各宿での滞貨もまた増大するようになったため、江戸末期ころには2〜3日の延着が通例になったといいます。このため江戸~上方を6日間で走ることを約した定飛脚が登場し、これは「定六」または「正六」と呼ばれました。

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このように早く正確に書状を運ぶため、飛脚の「走法」にも次第に工夫が重ねられていきました。「飛脚走り」と呼ばれる独特の走法がそれで、これは一説には「ナンバ走り」とも呼ばれていたそうです。ナンバとは大阪の難波のことと思われ、その発祥は大阪と推定されます。

これは「体をひねらずに走る」というものだったらしいのですが、より具体的にはどういった体勢で走っていたのかはよくわかっていないようです。

まさか「金チャン走り」のようなヘンテコなものだったとは思えませんが、ともかく、体力の消耗が抑えられるような走り方だったということだけ伝えられており、詳しいことを記した文献や口伝も存在しないことから真偽のほどすらも不明だそうです。

が、これをもし復活させることができたら、もしかしたら日本の陸上界にはセンセーショナルな革命がおきるかもしれません。来たる東京オリンピックまでにはその秘密を探し当てて復活させ、「ナンバ走り」を日本陸上界の切り札にしてはどうでしょうか。

このように、飛脚はこの時代、中央と地方を結ぶ唯一の公的な交通手段だったことから、重要な情報伝達手段でもあり、災害情報などについても得意先へ伝える機能がありました。地震、火災、洪水などのほか、戦争情報も伝えましたが、また同時に文化も伝える役割を担いました。

そのためもあって、飛脚は浄瑠璃や古典落語川柳狂歌などに登場し、庶民によく親しまれていた職業で、川柳や狂歌にもよく詠われました。

このころの川柳に、「十七屋日本の内はあいと言う」とか、「はやり風十七屋からひきはじめ」というのがありますが、この「十七屋」というのは飛脚問屋の「十七屋孫兵衛」のことで、京都に本拠を置いて日本各地にも出店を置き、広域的に書状や金銀荷物を輸送しました。

現在の佐川急便やヤマト運輸のように流行った飛脚問屋だったようで、このように川柳に詠まれるほどの人気業者でしたが、1785年(天明5年)に幕府御用金の不正使用が発覚し、闕所(営業停止)となっています。

近年でも飛脚は時代小説の題材にも取り上げられ、人気作家、出久根達郎作の「おんな飛脚人」は江戸の飛脚問屋「十六屋」を舞台にヒロイン「まどか」が繰り広げる人情話で、NHKではドラマ化もなされました。

また、同じく小説家の山本一力の作には、「かんじき飛脚」というのがあり、これは寛政年間に、金沢藩の御用飛脚問屋「浅田屋」の飛脚人たちが雪の金沢―江戸間を走り、幾多の障害を越えて漢方薬「密丸」を江戸藩邸へ届ける、という話です。私もまだ読んだことがないのですが、面白そうです。

現代の飛脚といえば、宅配便、軽貨物便、バイク便などがすぐに思いうかびますが、前述の佐川急便などは、まさに飛脚の絵をトレードマークにしています。

上で前島密が、日本通運の創業に関わったと書きましたが、この日本通運もまたその前身は江戸の定飛脚問屋でした。これを明治期になって「陸運元会社」としたのが始まりで、同会社は1875年(明治8年)2月に内国通運に社名変更、その後1937年(昭和12年)に現在の日本通運に改名しています。

江戸の時代の飛脚はもう残っていないかと思いきや、こうした運送会社といい、それが形を変えた郵便制度といい、今もまだ我々の身近なものとして存在しています。

なので、ポスト愛護週間であるという今週は、あの赤いポストを飛脚の名残と思い、愛おしんであげましょう。

ちなみに、日本で郵便制度が始まった初期のポストの色は、飛脚の衣装をイメージしてか、赤色ではなく黒色だったそうです。しかし、当時公衆便所が普及し始めた頃でもあったことから、黒い郵便箱の「便」を見た通行人が郵便箱を垂便箱(たれべんばこ)と勘違いして、これをトイレ替わりに使ったという話は有名です。

また、当時はまだ街灯などが十分に整備されていなかったため、夜間は見えづらくなるなどの問題が起こり、このため1901年(明治34年)に鉄製のポストを試験導入した際に「目立つ色」として赤色に変えられました。

ポストの設置数は郵便制度が始まった1871年(明治4年)には62カ所に過ぎなかったものが、現時点では全国でおよそ20万もあるそうで、その差出箱は、街頭のみならず、工場などの私有地内を含めいろいろな場所にあります。

特殊なケースでは自衛隊の基地内、自動車道やロープウェイなどの通じていない高山の山頂近くや和歌山県すさみ町などにある海底ポストのように海底にあるものも存在します。海底であろうと収集時間になれば収集し、配達先へ投函されるそうで、この収集を行う郵便屋さんはダイビングの資格を持っているらしいです。

ちなみに、私が住んでいるこの別荘地内には都合3か所ほどポストがあるようですが、山の上にあるため、1日に一回しか収集に来ません。しかも午前中なので、今日の便はもう終わりです。

が、ポストさんは今日もそこで雨風に打たれながらも頑張ってくれているので、ポスト週間であるという今週、感謝の気持ちを込めて何等かのエールを送ってあげたいと思います。

が、園児のように手作りの帽子を作ってあげることも、歌を歌ってあげることも気恥ずかしいので、せめて一緒に酒でも飲めればと思います。

きっと、「真っ赤なお顔のポストさん」はもっと顔を赤らめて喜んでくれることでしょう。

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